プロローグ


 校舎に響くチャイム。

 三年間の高校生活で何度も聞いた音が、微かに尾を引いて消える。

 卒業式の余韻がまだ冷めやらない教室は、いつもと同じようでいてやはり違う。席に着く生徒たちの胸には生花のコサージュがあり、黒板は寄せ書きでいっぱいだ。「祝・卒業」「I LOVE 3-5」と大きく書かれた文字を背に、スーツ姿の教師は生徒たちを見回す。

「じゃあ、最後にみんな、卒業後の抱負を語っていってもらおうか。夢とか将来の希望とか、なんでもいいぞ」

 よく通る声は、まるで教室の一部のようだ。

 だが明日からは皆、ここに集まることはない。それぞれの道を歩き始める。

 すぐ目前にまで来た岐路に、生徒たちは期待や緊張を隠せない。お互いの顔を見合わせると、一人一人、自分の進路や四月からの生活について発表し始める。

「――次、大塚寛子」

 名を呼ばれて立ち上がったのは、大人びた外見ながらも、親しみやすい雰囲気を持った女子だ。恥ずかしそうに頬を押さえて立ち上がった彼女は、注目を受けて顔を上げると、弾んだ声で言う。

「実は、彼氏と結婚します!」

 一瞬の空白の後、教室がわっと沸き立つ。

 寛子は抑えきれない希望に、はにかみながら続けた。

「まずは同棲から初めて、二人でお金を貯めて結婚して、かわいい子供と優しい旦那さんと……高崎で幸せになります!」

「まじで!?」

「すげー、びっくりなんだけど!」

 驚きと祝福の声が飛び交う。紅潮した頬で座りなおす寛子に代わって、次の生徒が呼ばれた。

「じゃあ、河合康太」

 言われてもたもたと立ち上がったのは、学年でも成績トップの優等生だ。分厚い前髪の下、彼はうつむきぎみの眼鏡で、クラスのみんなを見回した。

「ぼ、僕は、公務員にでもなって、恥ずかしくない大人になれればいいかな……と」

 教室の隅で勉強ばかりしていた彼は、最後のホームルームであってもどこか所在なさげだ。ぼそぼそと抱負を口にして座ろうとする彼を、すぐ後ろの席の男子が囃したてた。

「んで、学校一の秀才、康太君はどこの大学に行くんですか?」

「え……それは……」

 興味のこもった視線が康太に集中する。期待を含んだ圧力に、康太は逃げ出したそうに身じろぎした。彼は顔を伏せると、消え入りそうな声で呟く。

「東……大、に……」

「おおおお、さすが!」

「すごいじゃん! 東大だって!」

 教室いっぱいに歓声が上がる。

 興奮した空気の中で、けれど康太自身が一番居心地が悪そうだ。彼は誰とも視線をあわせないようにして着席する。

 入れ違いに立ったのは、囃し立てた後ろの男子だ。

 愛嬌のある顔立ちに、ノリの良さを人の形にしたような明るさ。クラスの盛り上げ役である関谷直樹は、頭を掻きながらにやりと笑った。

「ま、オレは東大に比べたら下の下の下くらいのランクの大学に行きますが」

「Fラン大学だろ!」

「そこ! 名前だけ書けば受かる大学とか言うな!」

「そこまで言ってねーし!」

 いつもの他愛ないやりとりに、教室には笑いが起こる。

 ――だがそんな空気の中、一人だけ頬杖をついて窓の外を眺めている女子がいた。

 誰の未来にも関心がないのだと、隠しもせずただ景色を見ている彼女。

 近づく順番にも気づかないままの彼女を、教師の声が呼んだ。

「次、吉川美紀」

 その声に、まだ彼女は気づかない。

 一人だけ教室内にいないような彼女に、周囲の視線が集まった。もう一度、少しだけ大きくなった声が彼女を呼ぶ。

「吉川美紀!」

「あ……」

 自分の名を呼ぶ声に、彼女はようやく意識を引き戻す。茶色がかった大きな目が、教師と、自分を見るクラスメートをゆっくり見回した。

 そして美紀は立ち上がる。

 ストレートの黒髪と、眉の上で切りそろえられた前髪。

 儚げにも見える綺麗な顔立ちの中で、その眼差しだけはどこか冷えた意思を宿している。

 他の生徒たちの和気あいあいとした様子とは、一線を画する空気。

 まるで一人だけ別の場所に立っているかのように、美紀はふっと顎を上げた。

 深く息を吸い込むと、口を開く。

「私は……東京の専門学校で、服飾の勉強をします」

 澄んだ声が、静かに教室内に響く。

 軽い静寂をもたらすわずかな余韻。

 ややあって、ぽつりと驚きの声が重なる。

「え?」

 いくつか聞こえてきた声の一つは、美紀のすぐ後ろの席からだ。

 彼女は声の主を振り返る。

 そこに座る男子は、驚いた目で美紀のことを見上げていた。

 まるで子供のようなその目に、美紀は怪訝な顔になる。

「優斗?」

 だが彼がそれに何かを返すより先に、教室内には拍手が沸き起こる。誰かの明るい声が上がった。

「すげーじゃん、美紀! で、最後は優斗か!」

 美紀は皆を一瞥すると、糸が切れたように座りなおす。

 後ろで立ち上がった優斗は、スタイルのよい長身に整った顔立ちの男子だ。

 着崩した制服は、少し近寄りがたい空気を感じさせる。だが、そんな表面とは裏腹に、彼の目には微かに傷ついた光があるようだった。

 優斗は低く通る声で言う。

「えっと……特に決まってないんすけど……親父の修理屋を継ぐんだと思います」

 見えない未来を語る言葉。

 それが彼ら五人の最後のホームルームで――岐路の始まりだった。



 子供の頃は全てのものが遠くにあるように思えて、けれどその全部にいつか手が届くのだと、疑っていなかった。


 小学校の教室から見下ろすグラウンドは、昼休みのこの時間、駆けまわる子供でいっぱいだ。

 降り注ぐ陽の光。遠くには緑の山並みが見える。

 その只中には真白い巨大な観音像がそびえ立っていた。蹴り上げられたサッカーボールが、光を反射して同じ色に輝く。

「っ……」

 目に突き刺さる眩しさに、窓からグラウンドを見ていた美紀は、手で顔をかばう。はずみで持っていたスケッチブックが床に落ちた。

 それを隣の席に座っていた男子が拾い上げる。

「ほら、気をつけろよ」

「ありがと、優斗」

 クラスでもっとも背が高い優斗は、美紀の幼馴染だ。

 彼女は笑顔でスケッチブックを受け取ると、中をぱらぱらとめくる。そこには色んな服を着た女の子の絵が描き留められていた。

 優斗は頬杖をついて美紀を見上げる。

「それ、何冊目?」

「五冊目かな……」

「ちょっとは上達したかよ、お前の描く人間、あちこち骨折してるだろ」

「人間描きたいわけじゃないからいいの……」

 美紀が描きたいのは――服の方だ。

 着るだけで気分が変わる、強い力のある服。

 いつかは自分の考えた服を自分で作ってみたい。そんな夢を彼女が抱いていることを、幼馴染の優斗は知っている。小学校に入学する前から、二人はよく川原で一緒に遊んでいたのだ。土手を駆けまわることもあれば、美紀がスケッチブックを描き続けて、優斗がそれを眺めているだけのこともあった。

 美紀は大事なスケッチブックを抱きしめ直して、優斗に尋ねる。

「サッカーやらないの? 優斗が入ると勝てるって、みんな言ってるけど」

「いいよ。別にあいつらと仲いいわけじゃないし」

 そっけなく優斗がそう言うのは、他の男子たちが彼の母親について、無責任な噂話をしていたと知っているからだろう。

 美紀はくすりと笑うと優斗の机によりかかる。

 昼休みは残りあと十五分、外に遊びにいっていないのはほんの数人だ。教室の隅で一人勉強をしている優等生の康太と、不満たらたらに集めた宿題をまとめているお調子者の直樹。他にも女子の数人が隅に固まって雑談に興じている。

 廊下から入って来た女子の一人が、その横を通り過ぎて、美紀たちの方にやってきた。二人の幼馴染にあたる寛子は、いつも通りの明るい笑顔を見せる。

「なにしてるの、二人とも」

 そう聞かれても、特になにもしていない。思わず顔を見合わせた二人は、そろって返した。

「なにも。ぼーっとしてただけだ」

「わたしはグラウンドにいるみんなの服見てた」

「なにそれ。人じゃなくて服?」

 笑い出す寛子につられて、美紀も笑う。優斗は呆れ顔で、二人の笑い声に他の子供たちも振り返った。教壇にいた直樹が、宿題のノートを放り出して声をあげる。

「なになに。なんかおもしろいことあった!?」

「ないってば。直樹はさっさとノート運びなよ」

「いや気になるだろ。ほら、康太も気になるって!」

「ぼくは別に……気になってるの直樹だけでしょ」

 ノートから顔を上げ困惑する康太に、美紀は再び笑い出す。

 チャイムの音が鳴る。クラスメートたちが次々教室に帰ってくる。

 まるで騒々しくて、代わりばえのしない毎日。同じ街の中の小さな世界。

 それでも……ささやかな日常は、少しも退屈ではなかった。


 ――今は、どうだろうか。


 美紀は顔を上げる。

 見える教室は、あの頃とは違う。

 最後のホームルームを終えた後の教室は、高揚の残り香が漂っているようだ。

 生徒たちの半分は既にいない。外で写真を撮っているか、さっさと家に帰ってしまったか。

 美紀は後ろの席を振り返った。ついさっきまで優斗がいたはずのそこは、いつのまにか空っぽだ。

 幼馴染である彼は、昔から面倒見がいい反面、同級生たちと必要以上に慣れ合わないところがあった。そんな彼と普通に接していたのは中学校までで、高校に入ってからは、ほとんど話すこともなくなった。

 小学校の時から変わらず一緒にいる友人は、今はもう一人だけだ。

「みーき! メッセージ書いてよ!」

「寛子」

 明るい声で机に駆け寄って来たのがその一人、幼馴染の寛子だ。

 彼女は卒業アルバムのページを開いて差し出してくる。そこには色とりどりのペンでいくつかのメッセージが書きこまれていた。

「いいよ。貸して」

 美紀はサインペンとアルバムを受け取る。寛子は子供の時から変わらない笑顔で、隣の椅子に座った。

「こないだ美紀が手直ししてくれた服、彼氏すごく喜んでくれたよ。ありがと!」

「そう? よかった」

 寛子が言っているのは、少し前に美紀が脇を詰めた服のことだ。その方が似合うと思って手を入れたが、好評だったようだ。寛子は愛らしく笑う。

「そうだ、今度彼氏に紹介するよ。美紀のことも紹介したいし」

「いいけど、私がいて邪魔じゃない? 彼氏嫌がらない?」

「ぜーんぜん。むしろ喜ぶよ。女子高生が来たー! って」

「それもどうかと思うよ……」

 寛子の彼氏は、確かバイト先のカフェの店長で、かなり年上だったはずだ。呆れる美紀に、寛子は笑う。

「うそうそ。冗談だよ。ほら、メッセージ書いて」

「もう……」

 美紀はペンを手に取ると、ページの余白に「卒業おめでとう。三年間ありがとう」と書きこむ。他のメッセージに「彼氏とお幸せに」とあるのは、さっきの抱負のせいだろう。

 ――この街で、結婚して幸せになる。

 それは美紀にとって、理解しがたい夢だ。生まれた街で、そのまま生きて死んでいくだけの生き方。自分にとってそんな未来は、憂鬱なものでしかない。

 まるで一生を限られた檻の中で過ごすようだ。だがそれを幸福と疑っていないらしい幼馴染に、美紀はざらざらとした違和感を覚えた。

 ペン先を止めたままの彼女に、寛子は遠慮がちに問う。

「そういえば、やっぱり東京行くことにしたんだ?」

「あ、うん」

 都内の専門学校に進学することについては、今日まで誰にも言わなかった。

 口にしたことで囃し立てられるのも面倒だったし、みんなに話す意味もないも思ったからだ。

 クラスの女子たちと自分とでは、見ているものがあまりにも違う。凡庸なこの街で感じる息苦しさも、早くここから出て行きたいという切望も、彼女たちは知らないままなのだろう。

 ただ……寛子にくらいは、上京することを話してもよかったのかもしれない。長い付き合いの友達なのだ。「水臭い」となじられても仕方ない。

 ただ、それをしなかったのは――

「美紀ー、私にもメッセージ書いてよ」

「あ、じゃあわたしもー!」

 親しげにやってきた女子は、同じグループの礼奈と果澄だ。

 華やかな空気と人当たりのよさで人気の礼奈と、いつも彼女と一緒にいる果澄。クラスの中でも目立つ二人は、卒業アルバムを差し出しながら笑う。

「ってか、東京行くと美紀すごいねー」

「ほんと尊敬するー。わたしやりたいこととかないからさ、マジ意識高い」

 高いトーンの声が重なる。この二人が話すことはいつも、大して意味のないことばかりだ。美紀は二人のアルバムにメッセージを書きながら苦笑する。

「そんなことないよ、私もなんとなくだし」

 本当は、ずっと前から決めていたのだとは言わない。

 寛子と違って高校からの付き合いの二人は、なにも考えずにその場その場の感情で生きているところがあるのだ。目の前のことだけを見て、より面白い方を選ぶ。一緒にいればノリがよくて楽しいが、自分のことを踏みこんで話す気にはなれない。それは多分、向こうも同じだろう。

 美紀が二人にアルバムを返すと、礼奈が言う。

「ね、今日卒業パーティの前に、四人で集まってカラオケとか行かない?」

「さんせーい!」

 果澄は礼奈の提案とあって即答だ。寛子が困った顔で廊下を振り返る。

「でも、直樹がパーティの準備手伝えないかって言ってたけど」

 廊下では、幹事の直樹が帰ろうとするクラスメートに、一生懸命パーティのビラを配っている。果澄はけれど、あっさりと笑い飛ばした。

「直樹とか別にいいっしょ」

「確かにね」

 礼奈は廊下に背を向けくすりと笑う。寛子は笑おうとして笑いきれない笑顔を見せた。彼女は美紀に尋ねる。

「美紀も来るよね、カラオケ」

「行けたら合流するよ。職員室寄ってから帰るから、先行ってて」

 進路票を出してしまえば、もうこの学校ですることはない。

 美紀は校舎の窓から外を振り返る。

 どこか平坦な灰色の景色はこれが最後と思っても、未練の欠片も湧かなかった。



 頭上に広がる空は、まるで小さな井戸の底から見上げたかのようだ。

 街の四方を緩やかに囲む山がそう思わせるのかもしれない。青というより薄白く、停滞しているような空。

 一人帰路につく美紀は、古い橋を渡りながら流れていく雲を目で追う。

 淡い雲の向かう先に立っているのは、巨大な白い観音だ。

 丘の上に立つ、真白い御手の観音像。

 その目が見下ろすこの街は、陽だまりで眠る古い池によく似ている。平凡で退屈で……緩やかに閉じている。

 群馬県高崎市――県内有数の大都市。

 人口約三十七万人、交通にも商業にも恵まれたこの街が、美紀の生まれた場所だ。

 東京までは新幹線で約一時間。だがあえて都内に出なくても生活に不自由はない。生きていくために必要なものは全て揃っている。だからこの一時間は、あえて越える必要のない境界線のようなものだ。

 同級生たちも、ほとんどの人間がこの街で一生を終えることに疑問を抱いていないだろう。小さな池の中で育った彼らは、外に出ることなど考えもしない。平凡な制服を着て過ごした後は、見知った場所に就職し、知った者同士結婚する。それが当たり前のことだと、彼らは思っているのだ。


 ――けれど、自分はそんな未来は御免だ。

 美紀はバッグから白いヘッドホンを取り出す。

 外の音は不要だ。山から吹いてくる風の音も、橋の下を流れる川の水音も。

 もう出て行く故郷なのだ。そのことに感慨も未練もない。

 自分は、他の人間とは違うのだ。

 礼奈たちのように、目先のことにしか興味がないわけではない。だから、もっと別の場所へ行くのだ。生まれ育った故郷を捨て、東京で暮らす。

 そうすればやっと、本当の自分を始められるだろう。

 このまま生まれた土地で燻っていても、きっと何者にもなれない。ただ鈍重な息苦しさを感じながら、ひっそりと街に埋没していくだけだ。今もそうして皆と同じ制服を着ているように。

 美紀はふっと自分の格好を見下ろす。

 黒いローファーにハイソックス。プリーツスカートは暗い緑色で、紺色のブレザーと揃って重苦しい。日本中どこにでもいるような、嫌になるような「高校生」だ。

 こんな人形のような服になんの価値があるのか。

 ――自分がデザインするなら、もっと……

 美紀はじっと、ダッフルコートの裾を見つめる。

 脳裏をよぎるいくつもの色。だがそれ以上の具体的なビジョンは生まれない。ぼんやりと形にならない断片が過ぎ去っていくだけだ。

 そんな欠片を流していく澄んだ水音が聞こえる。美紀は陽の光を受けて輝く川を一瞥した。土手に沿った道を、子供たちが騒ぎながら駆けて行く。その後ろ姿に、かつての自分や優斗、寛子の姿が重なった。

 思わず細めた目の裏に、翻る水色の裾がちらつく。懐かしい、今はもうない服のことを思い出した。

『――ほら、できた。これは、あなただけの特別な服よ』

 澄んだ空色のワンピース。

 それを作ってくれたのは、今は亡き母だ。裁縫が得意だった母は、そうして何着かの服を美紀のためだけに仕立ててくれた。

 中でも特別だったワンピースは、袖を通す度、いつでも美紀の気持ちを浮き立たせてくれた。街のどこにも、あんな色の服を着ている子はいなかったのだ。毎日着ていたいくらい宝物だった。

 だがその服も、いつの間にかどこかに行ってしまった。母の葬儀の片づけの際に、父がよく見ずに捨ててしまったのかもしれない。きっとそうだろう。昔から父は、男親だけあって美紀の気持ちに疎かった。その分、上京をあっさり許してくれた時は、拍子抜けしてしまったくらいだ。



 住宅街に入った美紀は、肩にかけたバッグを持ち直す。

 細い道の先、小さな白い家が見えてくる。

 ちょうどその時、玄関のドアが開いて父親が出てきた。相変わらずのさえない風体は見間違ようもない。

 枯草色のダウンコート。その下に来ているのはどこで買ったかもわからないくたびれたグレーのトレーナーだ。下に履いている黒いジャージとあいまって、遠目からでも充分に野暮ったい。どうしてあんな服装で外を歩けるのか呆れてしまう。

「誕生日にまともなシャツをあげたばっかりだってのに……」

 少なくともあれでは、誰かに一緒のところを見られたくはない。

 そんな娘に気づかず、父は乱暴にドアを閉めた。

「ったく……! 役に立たないやつらめ!」

 吐き捨てられた語気の荒さに、美紀はぎょっとする。

 父の正晴は、決して品行方正な人間ではないが、だからと言って悪態や不機嫌を理由もなく周囲に振り撒いたりはしないはずだ。

 美紀は訝しく思いながらも、平静な声を作ってかける。

「うるさいよ。なにがあったの?」

「……美紀」

 振り返った正晴は目に見えてうろたえた。だが美紀がそれを不審に思うより先に、さっと視線を逸らす。

「早かったな。もう式は終わったのか」

「うん」

「どうだった?」

「別に何も……」

 あえて言うようなことは何もない。卒業式を特別に思うのは、平凡な日常をありがたがっていた人間だけだ。

 そっけない娘の態度に、正晴はだが、感慨を感じさせる息をついた。

「……もう三年か」

 その声には、負ってきたものを振り返るような重みがある。

 美紀は父の言葉の響きに軽く目を瞠った。

 普段正晴が、そんな風に感情を見せることはないのだ。「都内の服飾学校に行く」と言った時でさえ、「そうか」としか言わなかった。

 そんな父でも、自分が一人になると思うと、何かしら感じるところがあるのだろうか。美紀は眉を寄せて次の言葉を待つ。


 ――小学校の時に母が亡くなって以来、父とはずっと二人暮らしだ。

 お互いが、お互いのできることを分担しての生活。それは、煩わしいことも多かったが、今ではすっかり慣れた。ただ、だからといって特別父と仲がいい訳でもない。会話のない日も多いくらいだ。美紀の目に映る父は、いつも何を考えているのかわからない不愛想な人間だった。


 無言のままの娘に、正晴はいつものように言う。

「俺はちょっと出てくる。夕食は要らないから」

「好きにしなよ」

 ちょうど美紀も卒業パーティの予定がある。夕飯を作らなくていいのは楽だ。

 正晴は何の予定があるのか、普段よりも足早に歩き出しかけて……ふと美紀を振り返った。

「なあ、美紀。もし警察から電話があったら――」

「警察!? 何それ」

「いや、何でもない。行ってくる」

 それ以上の話を拒むように、父は歩き去っていく。街に没する背を、美紀は唖然として見つめた。

 ――一体何だったのか。「警察から電話」とは不穏でしかない。

 美紀はかぶりを振って玄関のドアを開ける。だがその時ふと、違和感を覚えて父の歩き去った方を振り返った。

「あれ……何で徒歩なの……?」

 出て行った父の姿は既に見えない。そして同様に父の車もなぜかどこにも見当たらなかった。修理にでも出しているのだろうか。

 おかしいとは思うが、父のことを気にしても仕方ない。

 美紀は家に入ると、自分の部屋に戻った。

 机の上には、買ったまま開いていないファッション雑誌が山になっている。その上に、美紀は制服のブレザーを脱ぎ捨てた。四角い姿見に向き直る。

 鏡面に映る壁は、自分で描いたデザイン画や雑誌の切り抜きだらけだ。新しいものを描く度に入れ替えているせいか、あまり昔のものは残っていないが、ここ一年は入れ替えた記憶はない。


 そんな中――一枚だけ古いスナップ写真がある。


 小学校に入ったばかりの美紀が、空色のワンピースを着てはにかんでいる姿。

 場所は市役所近くの高崎公園だ。満開の桜の花が水路に映えて美しい。

 だが美紀がこの写真を貼ったのは、子供の自分ではなくワンピースを見るためだ。母が作ってくれた特別な一着。一見するとシンプルな作りだが、着ると裾のラインが綺麗に広がる。子供心にはまるでドレスのようだと思っていた。

 この服を着ていると、自分が特別な人間になれた気がしたのだ。そんな思いもあって、服に興味を持つようになった。

 美紀はほろ苦く微笑む。

「やっと卒業できたよ、お母さん……」

 記憶に残る母は、美しい人だ。

 いつも笑顔で、佇まいも一輪の花のようで、どんな服を着ていても人目を引いた。街の人混みの中でも、遠くからでも、すぐに見つけることができたのだ。

 だから、母の周りはいつも輝いていて……その光が失われた時、美紀はもちろん父もまた、途方に暮れてしまった。大の男と小さな子供が二人揃って、何をすればいいのか見失ってしまったのだ。

 今でも思い出す父の悲しみに落ちこんだ姿に、美紀はふっと微苦笑する。

「お父さん、一人でやっていけるかな」

 家事の一切を引き受けてきたのは美紀だ。あの父親がはたしてこの家で一人生活できるのだろうか。

 考えこんでいた美紀は、けれど顔を上げて気分を切り替える。

 ――今は、どこかに出かけた父親より自分のことだ。

 美紀はクローゼットを開ける。そこに並んでいる服の多くは、雑誌に載るようなモード系ファッションだ。美紀は一着一着を取り出し、鏡の前であててみる。

 だが鏡の中の自分は、そのどれにもしっくりきていない。

 今日のパーティには、礼奈たちも来るのだ。

 あまり洗練された服で行ってもあの二人には理解されないだろうし、買う気もないのに「どこで買ったの?」など食いつかれても煩わしいだけだ。

 無難な服装に悩んだ美紀は、だがそこでクローゼットの一番奥にかかっている服に気づいた。


 ――久しぶりに見たそれは、澄んだ空色のワンピースだ。


 母の作ってくれたものではない。まだ作りかけの一着。

 確か高校に入って間もない頃、記憶と同じ色の布地を見つけて作り始めたのだ。

 だが、今の自分の背丈にあわせて作ろうとしたそれは、どうしても綺麗なラインが出せなくて、未完成のままずっとここに放置されている。

 美紀は久しぶりに作りかけのワンピースを取り出した。

「これも作らないとな……」

 だがそう言っても、どこから手をつければいいか判然としない。服作りに夢中になっていた頃と比べて、いつのまにか自分の中が曖昧になってきている気がする。それもこれも、もう高校生ではなく、まだ専門学校生でもないという、浮いてしまった身分がそう思わせるのだろうか。

 ぼんやりしかけたその時、居間の方で電話の呼び出し音が鳴る。

「っと、はーい」

 反射で声を上げて部屋を出ながら、美紀はふっと嫌な予感を覚える。さっき出かけていった父は「もし警察から電話があったら」と言ったのだ。あれは一体、どういう意味だったのか。

 美紀はリビングの受話器を取る。

「はい、吉川です」

「――吉川美紀さんご本人でいらっしゃいますか」

 電話の向こうの声は、落ち着いた男性のものだ。自分の名を呼ばれて美紀は身構えた。

「はい。そうですけど……」

「わたくし、新宿服装学院会計課の田原という者ですが。今週末締め切りとなっております入学金が、未納の方にご連絡を差し上げております」

「え……」

 それは四月から美紀が在籍する予定の専門学校だ。

 だが入学金が未納とはどういうことなのか。入学関係の書類のうち、必要なものはずいぶん前に父に渡してお願いした。その中に、入学金の振込書類もあったはずだ。

 さっと血の気が引いていくのがわかる。美紀は強張った声で返した。

「すみません……あの、今日中には必ず振り込ませますので」

「よろしくお願いいたします」

 電話が切れると同時に、美紀は自分のスマホを取り出す。父への通話ボタンを押すと呼び出し音が続いて……だが正晴は電話に出ない。留守番電話のアナウンスが始まると、美紀は顔を顰めた。声に自然と険がこもる。

「ねえ、入学金まだ振りこまれてないって連絡きたんだけど……これ聞いたらとにかく連絡ちょうだい」

 一息で言いきって、美紀は通話を切った。

 あやふやな自分の中身が、またたくまに渦巻く苛立ちへと変じていく。

 不安を不安と思いたくなくて、美紀は唇を噛んだ。

「……何やってんの、お父さん」

 そんな自分の言葉にますます顔を歪めて……ついた溜息は苦かった。



 卒業式が終わった後の学校は、過ぎ去った時間特有のがらんとした空気だ。

 廊下にも教室にももう生徒の姿はない。ただ騒がしさの残響だけが漂っているだけだ。

 優斗は三年を過ごして、だが大して思い入れもない校舎を歩いていく。

 帰りが遅くなったのは、時々あるように教師に捕まっていたからではない。単に卒業式とあって、話しかけてこようとする人間を避けていたからだ。

 今まで密かに屋上で時間を潰していた優斗は、人気のない昇降口を出ると、曇り空を仰いだ。

「……こんなもんか」

 高校三年間の終わり。

 それは予想した通りあっけないものだ。高校生活を終え、自分は何者でもないものになる。明日からは決められた毎日がなくなるのだ。それは不思議な感覚で……だがきっと、やがてはまたどこかに収束していくのだろう。自分の父親がそうして、家の整備工場で毎日車に向き合っているように。

 ――だが今はまだ、そんな未来にも遠い気がする。

 優斗はポケットからスマホを取り出す。よく遊ぶ先輩に電話をかけようとして……けれどアドレス帳の中の「吉川美紀」の名に、スクロールする指を止めた。

「東京、か」

 思い入れがないはずの卒業に、微かに気鬱を感じているのは、今日皆が発表した進路のせいかもしれない。「東京の服飾学校に行く」と言った美紀。幼馴染の彼女が、この高崎の街からいなくなるという。


 初めて彼女と話したのは、小学校にも入らない頃だ。

『お前、おもしろい色の服着てるな』

 近所の川の土手に、ぽつりと座っていた少女。

 その服の色は、曇った空よりもよほど鮮やかな水色だった。絵本を読んでいた彼女は、突然話しかけてきた同い年の子供を見上げる。

『これ、空色っていうんだよ。お母さんが作ってくれたの』

『へえ……』

 上手い感想は言えなかった。

 ただその後は、なんとなく二人で遊んで帰った。それを特別なことに思わなかったのは、お互い子供だったからだろう。春から同じ小学校に通うということもわかって、二人はそれから顔を見れば一緒に遊ぶ仲になった。

 美紀の何が特別だったかはわからない。

 ただ一度だけ、両親に手を引かれている彼女を土手で見たことがある。

 同じ空色のワンピースを着た美紀は、陽の光をちりばめたような笑顔で、誰より幸福な子供に見えた。

 それは優斗の母が、寡黙な父に疲れて家を出て行ったばかりの頃で、だから余計にそう見えたのかもしれない。世の中にはあんな風に幸せな家族もあるのだと思って……けれどその後まもなく、美紀の母親は病に倒れてこの世を去った。

 いつもと同じ川の土手で、まるで大人のように声を殺して泣く美紀の姿を、そして、それを隣で見守るしかなかった自分を嫌でも覚えている。

 二人はそうして、似た喪失を抱える友人同士になった。


「……昔の話だ」

 自分の呟きを聞いて、優斗は顔を顰めた。無意識のうちに口に出ていたようだ。他に誰もいなくてよかったと思う。

 ――結局、美紀とは学年が上がるにつれて疎遠になった。

 一緒に遊ぶことがなくなり、話をする頻度も減った。別に仲たがいしたわけではない。顔を合わせれば雑談もする。ただお互い、人付き合いのいい方ではなかったから、自然にそうなったのだろう。美紀がグループの中で冷めた目をしているように、優斗も同級生と話すより、卒業した先輩と遊ぶ方が楽しかった。

 だから、席が近くなった今でもほとんど話すことはなかったのだ。

 それでも、高崎にいればいつでも会えるのだからと思っていて、けれど彼女はもうすぐいなくなるという。

 ――東京は、決して遠くはない場所だ。

 そう自分に言い聞かせても、少なくない喪失感がよぎる。頭の隅に、最後に見た母親の背中がちらつく気がして、優斗はかぶりを振った。

 美紀は、母とは違うのだ。

 彼女には目指すものがあって、そのために努力している。だからふさわしい場所へと旅立つというだけのことだ。

 あの日、空色のワンピースを着て笑っていた少女には、きっともっと光の当たる場所が似合う。自分にできることは、密かに応援することくらいだ。もう二度と、彼女が大切なものを失って泣くことがないように。


 昇降口の外には、まだ写真を撮っている生徒がちらほらと残っている。

 優斗は彼らの間を抜けて正門を出た。

 ちょうど門の先に、クラスメートの女子三人が歩いているのが見える。このままだと追いついてしまうが、話かけられるのは面倒だ。いっそ追い抜いてしまった方がいいかもしれない。

 そうして歩調を速めた時、棘を含んだ声が聞こえた。

「――でもさ、美紀も友達なら普通、上京することくらい話さない?」

 嘲るような声は、美紀と同じグループの礼奈のものだ。普段は「気配りやの美人」と人気の彼女は、冷笑を浮かべながら続ける。

「意識高い系ぶりたいんだろうけど、ちょっとね」

「あー、わたしも思った。報告ナシとか超冷たい」

 果澄が賛同すると、後ろにいた幼馴染の寛子は顔を強張らせる。その間にも、二人の会話は笑い混じりに寛子を取り残していった。

 礼奈の愛らしい顔が皮肉げに笑う。

「大体、わざわざ東京に行ってまで服飾とか。美紀ってオシャレだけどさ、そこまでじゃなくない?」

「かっこつけてるだけでしょ。背伸びしてるっていうか」

「わかる。オシャレしすぎてるって感じ。一周回って変」

「だよねー」

 エスカレートしていく話に優斗は顔を顰める。

 この手の無責任な噂話は、どこにでもあるものだ。

 母親が出て行った時、近所の人間がさんざん噂していたのを今でも覚えている。そういう時、人はみな似た笑いを浮かべているのだ。目が心配そうにしていても、口元が薄く吊り上がっている。

 優斗は、その笑みを隠そうともしない礼奈と果澄に苛立ちを覚えた。居心地が悪そうにしている寛子を、果澄が振り返る。

「ね、寛子もそう思うっしょ」

「え、私は……」

 言い淀む寛子が、気配に気づいて背後を見る。

 その時、ちょうど優斗は歩調を速めて三人を追い抜くところだった。礼奈と果澄が彼に気づいてぎょっと青ざめる。

 彼女たちを無視して歩き去ろうとする優斗に、果澄があわてて声をかけた。

「ね、ねえ、優斗。今日の卒業パーティは――」

「行かねえよ」

 元々行く気はなかったが、今の話でますます興味はなくなった。そっけない返答に、果澄は顔を強張らせる。礼奈が取り繕うように優しい声で言った。

「優斗、みんなでつるむのあんまり好きじゃないもんね。でも気が変わったら来てよ。せっかくだから」

「……興味ないし」

 更に硬化しかけた空気の中、今まで黙っていた寛子が声を上げる。

「あ、私、彼に卒業の報告してくるね!」

 場の雰囲気を変える言葉に、ほっと安堵の顔を見せたのは礼奈と果澄だ。礼奈はひらひらと手を振った。

「ラブラブだね、いってらっしゃい」

「んじゃ、寛子。わたしたちは先にいつものカラオケ行ってるから」

「うん、またね」

 スマホを手に駆けだす寛子は、優斗を追い抜きながら、こそりと囁く。

「ありがと、優斗」

 寛子はそのまま小走りに道を曲がっていく。優斗もそれを追うように、足を速めてその場を歩き去った。角を曲がった直後、また二人の声が聞こえてくる。

「――はー、びびった。さっきの優斗に聞かれたかな?」

「大丈夫でしょ。それより寛子、『彼氏に報告』だって。うける。確か彼氏って三十代でしょ。オッサンじゃん」

「背伸びしてるんでしょ。美紀と同じだよ」

「さすが幼馴染。類友ー」

 二人の会話は、聞いているだけで気分が悪くなってくる。

 優斗は苦々しい顔で足を速めると、家へと向かった。



 隣の家の角を曲がると、途端に整備油の臭いが強くなる。

 鼻につくその臭いは、けれど優斗にとっては空気と大差ない。

 個人でやっている車の小さな整備工場、そこが優斗の家だ。

 帰ってきた息子に気づいて、タイヤの調整をしていた父が顔を上げる。

「優斗か。式終わったのか」

「ああ、まあ……」

 灰色のつなぎ姿の父は、あちこちが汚れている。今日も優斗より早起きして仕事を始めていたのだろう。一日のほとんどを工場で過ごして、だが大した儲けがあるわけではない。人から何を褒められるわけでもないし、損な仕事だ。

 だがそれでも父は愚痴一つ言わないし、工場から離れようともしない。母はそんな父と合わずに家を出て行ったのだ。

 父は再び手元に視線を落とす。

「で、お前は明日からどうするんだ」

「どうするって、前に話しただろ。ここを適当に手伝うって」

 自分は美紀とは違う。何かやりたいことがあるわけでもないのだ。

 それに、子供の頃からぼんやりと思っていた。自分はいつか父の後を継いで、この工場を支えるのだろうと。

 優斗は入庫している車を見やる。白いファミリーカーは十五年以上前の型だ。古すぎてしょっちゅう持ちこまれているから、すっかり覚えてしまった。

「まったく……うちに来るのは、こんなボロい車ばっかりかよ。いつまでも修理に出さないで、さっさと買い換えりゃいいのに」

 古いのは持ちこまれる車だけでなく、整備士の父もそうだ。

 もうすぐ五十になる父は、日々の仕事で体のあちこちを痛めている。他に従業員もいない以上、全部を一人でやらなければならないのだ。

 けれどそれも、自分が工場に入ったら少しはマシになるだろう。

 ――そんなことを考えていた優斗は、父の深い溜息を聞いて顔を上げる。

「お前は、この仕事のことを何もわかってないな」

「何もって……」

 自分は自分なりにわかっているはずだ。仕事の大変さも、父親の苦労も。

 だから母親が出て行ったあの日、優斗は母を追いかけなかった。父のもとに残ることを選んだのだ。そんな彼を、母は一切振り返らなかった。

「わかってるよ、俺は……」

「何がわかってるって?」

「……それは」

 ――わかっているはずだ。なのに、問われた途端に霧散してしまった。

 なぜこんなことを聞かれるのか、どんな答えを求められているのか。子供に戻って叱られたような気まずい沈黙は、だが長くは続かなかった。

 また小さな溜息が聞こえる。

「まあいい。お前はお前で好きにすればいいさ」

「なんだよ、好きにって」

「この店のことは無理して考えなくていいってことだ」

「……え?」

 今、父はなんと言ったのか。

 自分が後を継がなければ、この工場は近い将来なくなってしまう。父一人でいつまでも続けられるはずがない。父もそのことはわかっていると思っていた。

 なのに――

「お前は、自分のやりたいことをしろ」

 向けられたままの背中。

 言い捨てられる言葉に、優斗は母の最後の言葉を思い出す。


『あんたは、あんたの好きにしなさい』


「……なんだよ、それ」

 母親は去り、美紀も高崎を出ていく。自分は一人残って……だが同じ境遇のはずの父までもが、自分を顧みないというのか。

 優斗は父の背中を睨む。

 だがそれ以上、何も言えることがない。わからないのだ。自分がどうしたいのか、なにを選ぶのかも掴めない。

 東京行きを決めた美紀とはあまりにも違ってあやふやだ。優斗は失望感に似た苛立ちに舌打ちした。

「なら、好きにしてやるよ」

 卒業証書を玄関に投げ捨てる。

 行く場所などどこにでもある。ここは自分の生まれ育った街だ。目隠しをしていても川の土手にくらい出られるはずだ。

 優斗は大股で家を後にする。

 そうして広い道に出てまもなく――すぐ隣に車が停まった。黒い高級車の窓が開いて、金髪の男が顔を出す。

「――よう、優斗。恐い顔してどこに行くんだ?」

「……君島さん」

「乗れよ」

 その言葉は、ささくれた優斗の耳に心地よく響いた。


 七歳年上の君島は、優斗にとっては同級生よりも親しい「先輩」だ。

 学校で一緒だったことはない。知り合ったのもたまたまだ。ただクラスの人間と遊ぶよりも、君島とつるんでいる方がよほど楽しいのは、彼が優斗や同級生よりも揺るぎない「自分」を持っている大人だからだろう。

 車窓の外を流れていく景色。

 一面のススキの向こうに見えるのは、昔、美紀とよく遊んだ土手だ。

 あの時子供だった彼女は、もうすぐ高崎を旅立つ。

 ならば自分は――この街に残って何をするのか。

 考えても、思うような答えは出ない。無言のままでいると、息苦しさに追いつかれる気がして、優斗は口を開いた。

「この車、どうしたんすか。新車ですよね」

「そりゃもちろん、買ったんだよ」

「マジっすか。すごいっすね」

 家の整備工場には、ほとんど持ちこまれることのない高級車だ。素直な感嘆を口にする優斗に、君島は笑う。

「まだまだだよ。次はベンツって決めてるけどな」

 前を見たままそう言う男の目には、なんのてらいもない。彼は、自分で自分の居場所や道を作れる人間なのだ。出会った頃からそれは変わらず、だから一緒にいて落ち着けた。

 けれど――それに比べて、自分は曖昧もいいところだ。卒業して高校生でもなくなった今、本当に何者でもない。

 再び表情を曇らせかけた優斗を、君島は横目で見やる。

「どうした、優斗。浮かない顔してるぞ」

「いや……」

 何と言ったらいいのか、優斗は無理に笑顔を作った。そんな彼に、君島は少し考えると、嵌めていた腕時計を外す。

「ん」

 差し出された金属時計を、優斗は目を丸くして受け取った。

「なんすか、これ」

「ロレックスだよ。お前の卒業祝いだ。今日、卒業式だったんだろ?」

「え、なんでわかるんすか?」

「誰だって見りゃわかるよ。ほら」

 胸のコサージュを指差され、優斗はがっくりと頭を垂れる。確かに制服にこんなものをつけているのは卒業生くらいだ。

 素直な反応に、君島は軽い笑い声を上げた。

「ま、そんなわけだ。とっとけよ」

「ありがとうございます……でもこれ、高そうですよ」

「そりゃそうだ。ロレックスって言えば超高級時計だからな。お前知らないの?」

「え?」

 言われてみれば、そんな名前を聞いたことがある気もする。優斗は精巧な時計板をじっと見つめた。

「まじっすか……。でも、いいんですか?」

「いいよ。今、うちの会社結構儲かってるから」

 さらりと答える君島は、優斗の無知に呆れるわけでもない。その余裕が、何よりも自分との違いだ。

「君島さんの会社って、中古車販売でしたっけ」

「ああ。他にも色々やってるけどな。それがメインだな」

 同じ自動車業でも、優斗の家とはまるで違う。この時計一つで、何台分の整備費になるのか。考えこむ優斗に君島は言った。

「それよりお前、卒業してこれからどうすんの?」

「……どう、しましょうか」

 今までは、惰性で父の後を継ぐのだと思っていた。

 だがあんな風に言われては、ぼんやり想像していた未来もすっかり白紙だ。

 優斗は鬱屈とした思いを振りきって、ぎこちなく笑う。

「ま、ぼちぼち考えますよ。まだ卒業したばかりっすから」

「ふーん。なら、うちで働くとかどうだ? 社長にはオレから話通してやる」

「え……いいんですか」

「他にあるんだったら別にいいけどな」

 思ってもみなかった話だ。身分が浮いてしまった自分を受け入れてくれるというのだ。

 優斗の脳裏をふっと父親の背中がよぎる。――考えるより先に、言葉が出た。

「……いえ、特にないっす。お願いします」

「んじゃ、これからオレの職場行ってみるか」

 君島が滑らかにハンドルを切る。

 見慣れた景色の中、橋の上を電車が通り過ぎていく。

 その先に見えるのは、近代的な市庁舎だ。楕円形の白い高層ビルは、市内のどこからでも見えるランドマークになっている。

 かつて一度だけ、最上階にある展望ロビーに父が連れていってくれたことがある。自分のよく知る場所が、まるでおもちゃのジオラマのように見えて……その時優斗は初めて、母親はもうこの街のどこにもいないのだと理解したのだ。

 高崎は豊かな街だ。外に何を求めなくとも、この街だけで一生を過ごせる。

 ただ時折、ここにはないものを求めて出ていく人間もいる。そんな人間の目に映っているものはなにか、優斗には想像もつかなかった。

「――ほら、ここだ」

 君島の声に、優斗は我に返る。二人の乗った車は、住宅街の一角にある中古車販売場へと停まるところだった。

 大きな整備工場を備えた店の屋外には、フロンドガラスに値札を置かれた販売車が二十台以上並べられている。それら車を磨いている従業員たちは、スカジャンにジーンズというラフな格好だ。君島は鷹揚に彼らへ手を振る。

「今、ここを任されてるんだよ。うちではさ、大学とか専門学校に行かなかったやつが真面目に働いてるわけ」

「それは……すごいっすね」

 行き場のない人間は、自分だけでなくどこにでもいるのだろう。君島は、そんな人間に居場所を作ってくれているのだ。感心してあちこちを見回した優斗は、ふと言い争いの声に気づいて整備工場の入り口を見た。

 一人は従業員らしく、隣に停められた青い車に顔を顰めている。

「だからお前、さっきと言ってること違うだろうが」

「違ってねぇよ! 盗んでねぇって言ってるだろうが!」

 従業員に食ってかかっているのは、黒と金のパーカーを着た不良だ。察するに、車を売りに来た不良と、それを盗難車だと断じる従業員で平行線なのだろう。

 いつまでも終わらなさそうなやりとりに、君島が割って入る。

「まぁまぁ。いいから」

 言いながら君島は、財布の中から数万を取って差し出す。不良は舌打ちしながらもそれを手に歩き去っていった。残された青い車に、従業員は難色を示す。

「君島さん、これ絶対盗難車っすよ」

「いいんだよ。盗まれた車でも、バラせばパーツは売れるだろ」

 ――あっさりとした言葉はどこまで本気なのか。

 優斗は軽く目を瞠ったが、君島は平然とした顔だ。

 ただ少し……目の前の青い車に見覚えがある気がする。ひょっとして、家の整備工場に持ちこまれたことがあるのだろうか。もっとよく見たいと車を覗きこもうとする優斗を、君島が呼んだ。

「おい、優斗。こっちだ。うちの特別な仕事教えてやるよ」

「あ、はい」

 ――特別な仕事とはなんだろうか。

 優斗はてっきり工場内を見せられるのかと思ったが、君島が歩いていくのは工場の裏手だ。置かれている車も、表にある販売車と違って古いものばかりになっていく。優斗の目から見て「これは廃車にするしかないだろう」というものも多い。

 工具や廃材が転がる工場裏は、優斗の家の工場よりも大分荒れた雰囲気だ。

 ぼんやりと辺りを眺めていた優斗は、奥の建物から出てきた二人に気づいて顔を上げた。

 一人はここの従業員らしい強面の男だ。

 彼に連れられているもう一人は、顔立ちからいって外国人の若い男だろう。従業員が先導する男と、優斗はすれちがいざま目が合って息を飲んだ。二人はそのまま、古い車の一台に乗って出ていく。

 運転席の外国人を見送って、優斗は尋ねた。

「君島さん、今の人は……?」

「ああ、今から仕事に行くんだよ。ほら、お前にもどんな仕事か教えてやる」

 軽い言葉に、けれど優斗の表情は晴れない。

 すれちがう瞬間に見た、色の違う両眼。

 その目は――どこか思いつめたような、諦観を漂わせるものだった。



 あれから何度電話をかけても、父親には繋がらなかった。

 気もそぞろに着替えて家を出た美紀は、夕暮れ時の駅前を見回す。

「いない……どこ行ったんだろう」

 駄目元で探しに出たが、やはり父の姿はない。駅周りのロータリーには何台もの車が停まっていたが、そこに父の姿を認めることはできなかった。

 ――入学金が振りこまれていないということは、上京できないということだ。

 どうしてそんなことになっているのか。少なくとも父はなにも言っていなかった。だから今の今まで考えてもみなかったのだ。自分が、この街から出られないかもしれないなどと。

 ただ……思い返してみれば、確かに父親の様子はどこかおかしかった。

 苛立っていただけの美紀は、途端に正晴のことが心配になる。

 彼女は、帰宅時間とあって人通りの多いロータリー周りを見回す。――その時、ぽんと誰かに背中を叩かれた。

「っ、お父さん!?」

「え……?」

 そこに立っているのは寛子だ。ボーダーのニットに紺のスカートという落ち着いた格好で、後ろには礼奈と果澄もいる。

 三人の姿に美紀は思わず肩を落とした。

「なんだ、寛子たちか……なに?」

「なんだ、って。卒業パーティの前にカラオケに行こうって言ってたじゃん」

「ああ……」

 聞いた気もするが、カラオケに行く気分ではない。どう理由をつけて断ろうか、美紀は逡巡した。

 浮かない表情に寛子はすぐに気づいたらしく、声を潜める。

「どうかした? なにかあったの?」

「……別に。なんでもないよ」

 言葉を濁す美紀に、寛子は心配そうな顔をする。

 昔から寛子はそうだったのだ。人の感情を察することが得意で、誰にでも手を差し伸べようとしてくれる。人付き合いが得意でない美紀が、今まで学校生活で特に交友関係に困らなかったのも、半分はきっと寛子がいてくれたおかげだろう。

 だがそれはそれとして、入学金のことは気軽に打ち明けられない。寛子が一人でないなら尚更だ。

 美紀は溜息を飲みこむ。

「ごめん、寛子。カラオケはいいや。またあとで――」

「えー、美紀来ないの?」

 大きな声に、周囲の通行人が振り返る。

 あっけらかんと割りこんできた果澄に、美紀は顔を顰めたくなった。

「ごめん、ちょっと立てこんでて」

「あ、わたしさ、美紀に頼みがあるんだよね」

 言いながら顔を寄せてくる果澄は、いつものように人の話を聞いていない。歩道の真ん中で通行人の邪魔になっていることもあって、美紀は今度こそ顔を顰めた。

 通りの端に寄った美紀に、礼奈が愛想のよい笑顔を向ける。

「ほら、今日の卒業パーティって優斗来ないじゃん? けど果澄が優斗に告白したいって言うんだよね」

 礼奈がちらりと果澄を見ると、果澄は満面の笑顔で頷く。

「だからさ、優斗をパーティに呼んでやってくれない? 幼馴染でしょ?」

「あー……」

 寛子をちらりと見ると、彼女は申し訳なさそうな顔を見せる。同じ幼馴染でも寛子の方は連絡先をなくしてしまったのだろう。高校に入ってからほとんど話してないのだから無理もない。

「わかった。連絡しとくよ」

 それで用件は済んだはずだ。けれど、スマホを取り出しながら話を切り上げようとする美紀に、礼奈は目を丸くした。

「え、美紀、それで終わり? ちょっと冷たくない?」

「冷たいって……そんなことないよ」

 人の恋愛事に興味がないのは事実だが、それが理由で急いでいるわけではない。

 父親から連絡が来ていないか、ちらりとスマホを見る美紀に、礼奈は皮肉げな目を向けた。

「美紀さー、ひょっとして東京に行くから、もううちらの話に興味ないんでしょ?」

「あ、それ感じる! 地元捨てないでよー!」

 果澄の声に行き交う人々が視線を向ける。ずれていく話は、どんどん関係のない感情を巻きこんでいくようだ。苛立ちが頭痛を呼び起こす気がして、美紀はこめかみを押さえた。

「そうじゃないから。父親からの連絡待ってるの」

「えー? なにかあったの? なんでも言ってよー」

「そうそう。わたしたち友達じゃん? なにか役に立てるかもしれないからさ」

 礼奈と果澄の顔には「話を聞くまで退かない」と書いてある。その押しの強さに、美紀はなにを言うべきか迷った。視線をさまよわせて……寛子を見る。


 二人の後ろにいる寛子は、昔からよく知る、心配そうな顔で美紀を見ていた。


 ――その目に、ふっと緊張が緩む。

 美紀はぽつりと口を開いた。

「……父親がさ、入学金振りこんでなかったんだ」

「え?」

 礼奈と果澄が目を丸くする。

 それを見て、美紀の中では苦い虚脱感が広がっていった。言ってしまった、という後悔に顔が熱くなる。今すぐこの場を逃げ出してしまいたい。

 だがそんな美紀に、寛子が尋ねる。

「それって、東京行けなくなるかもしれないってこと?」

「わからない」

「お父さんは? 今どこ?」

「それも……わからない」

「へー、大変だね」

 割って入った礼奈の声は大して興味がなさそうなものだ。予想はしていたが、それ以上の平坦さに心が冷えていく。礼奈は顎に指を当てると、にっこりと笑った。

「でもさ、もし東京行けなくても、ずっと地元で楽しくやればよくない? 私たちがいるじゃん」

「そうそう。高崎って住みやすいしさあ。美紀も地元で結婚して、駅ビル辺りでだべろうよ。ママ友になってさ」

「いや、それは……」

 美紀の声は、たちまち盛り上がる二人にかき消される。

 能天気な言葉は、無自覚な毒のようだ。耳から入って徐々に神経を侵していく。

 美紀は無意識のうちに奥歯を噛みしめた。自分が一番理解できないと思う未来、この街に埋没して皆と同じように生きていく未来が、無造作に差し出される。

「あ、美紀が駅ビルのショップで働いたら子供服とか安く買えるよね? ほら、よく子供がクマの着ぐるみとか着てるじゃん」

「着てる着てる。おそろいにしたらよくない?」

「いいよね。かわいー!」

「っ、そんなの――絶対に嫌だから!」

 言ってしまってから、美紀ははっと我に返る。

 顔を上げると、礼奈と果澄は冷めきった真顔だ。美紀はあわてて言い繕った。

「ご、ごめん。そういうつもりじゃなくて……」

 普段であれば、思っていても言わなかったことだ。「普通」をいいと思っている礼奈たちに「普通なんて」と言えば、空気が悪くなるのはわかっている。

 だがそれでも――耐えきれなかった。

 自分は二人とは違うとずっと思っていた。隠しているはずのそんな内心が、つい言葉になって零れてしまったのだ。

 気まずさに顔を伏せようとする美紀に、寛子の穏やかな声が聞こえる。

「あのさ、美紀、入学金の締め切りっていつなの?」

「……今週末」

「ならきっと大丈夫だよ。間に合うって」

「でも……お父さん、電話出ないし、なんか挙動不審だったし……」

 言いながら美紀は、自分が少しずつ落ち着いていくのを感じる。子供の頃もよく、こうして寛子に宥めてもらったのだ。十年経っても変わらない自分に呆れもするが、今はただありがたい。

 美紀は長い息をつく。頭が冷えて、自然と言葉が出た。

「ありがとう、寛子」

「いいよ。それより卒業パーティには来るよね?」

「ん……行くと思う」

 あまり神経質になりすぎても、きっとよくない。寛子の言う通り、少し振り込みが遅れているだけで結局は間に合うのだろう。

 美紀は礼奈と果澄の方に向き直る。

「ほんとごめん。優斗に連絡してみるね。パーティには行くから」

「よろしくねー!」

 笑顔になる果澄はいつもの彼女だ。隣では礼奈も微笑んでいる。普段通りのそんな二人に、美紀は内心安堵した。カラオケに行くという三人に手を振って、そそくさとその場を後にする。


 駅前のあちこちにライトが灯り出す時間。

 帰路につく人々の中に、父の姿はない。その姿を探しながら市役所近くまで来た美紀は、道端のベンチに座ると、優斗へ電話をかける。

 美紀自身のスマホは連絡先に優斗の番号が登録されているが、向こうは違うかもしれない。いつまでも鳴り続ける呼び出し音に、「無視されたら困るな」と思い始めてしばらく、低い声が電話に出た。

『はい。もしもし』

「あ……出た」

『そりゃ出るよ。美紀だろ』

 その声に、不思議な安堵を覚える。時間が緩やかに巻き戻っていく。

 前後の席でありながらほとんど話もしなかった時よりも、今の彼の方に子供時代のことが思い出されて、美紀はふっと肩の力を抜いた。

 何も言わない彼女に、優斗が問う。

『で、なんだよ急に』

「あのさ、今日卒業パーティ来て欲しいんだけど」

『え? なんで』

「なんでって言われても……」

 卒業パーティの幹事は、ムードメーカーの直樹だったはずだ。何の関係もない美紀が誘ってくること自体、怪しまれても仕方ない。

 だがまさか「果澄が告白したがってるから」とも言えないだろう。そんなことを言ってしまったら、今度こそ果澄になんと言われるかわからない。けれどだからと言って、適当な理由を言って優斗に無視されても困る。

 美紀はちょうどいい言葉を探しながら幼馴染に返した。

「優斗、今日用事あるの?」

『用事は……いや、ちょっと……』

 返事を濁す彼は、どことなくいつもと様子が違う。まるで周囲を憚っているような雰囲気だ。電話の後ろで、微かに数人の男の声がする。

「今、どこにいるの?」

『どこだっていいだろ。それより、そっちの用事を言えよ』

 少し焦って聞こえる声は、余計に不審を抱かせる。

 だが、そう思うのも自分の気のせいかもしれない。美紀がよく知る優斗は昔の彼で、今の彼についてはほとんどわからないのだ。

 仕方なく美紀は、違和感を探ろうとするのを諦めた。

「えっと……実は大事な話があるっていうか……なんていうか……」

『大事な話?』

 ――その時、優斗の声に重なって、電子音が聞こえてくる。

 美紀はあわててスマホを見た。そこには「父」の名で着信がある。

「っ、とにかく来てよ! またあとで!」

 今はまず父だ。

 美紀は返事を待たずに通話を切る。食いつくように通話ボタンを押すと、受話器の向こうの父に叫んだ。

「もしもし! お父さん!?」

 父の声は聞こえない。美紀は矢継ぎ早に言った。

「入学金振りこんでくれてないって本当? どうして? このままじゃ私、専門行けなくなっちゃうよ!」

『……大きな声を出すな』

 その一言は、明らかに声を潜めてのものだ。

 美紀は反射的にびくりと身を竦める。優斗に感じた以上の違和感がたちまち胸の中に広がった。

「……お父さん……? 今、どこにいるの?」

『入学金のことは心配するな』

 囁くような声に冗談や虚言の気配はない。

 ただその言葉は周りを気にしてのものだ。家を出たまま、もうすぐ夜になるというのにどこで何をしているのか。聞きたかった入学金のことよりも、父親のことがよほど心配になって、美紀は声を潜めた。

「お父さん、なにがあったの……?」

『大丈夫だ。ようやく見つけたからな』

「見つけたってなにを?」

 正晴は押し黙る。だがそれは、答えられないというより、電話の向こうで何者かの気配を窺っているからのようだ。ややあって、父は掠れた声で言う。

『充電がもうないから切るぞ。またあとで連絡する』

「あとでって――」

 その先を口にしようとした時にはもう、通話は切られていた。

 美紀は呆然とスマホの画面を見る。

「なに今の……」

 ただ父親が振り込みを忘れただけなのだと思っていたが、違うのだろうか。

 美紀はふっと寒気を感じて振り返る。だがそこには美しく咲き誇り始めた桜の木が見えるだけだ。空には白い月が姿を現している。

「……せっかく卒業したっていうのに」

 父も優斗もどこか不審だ。終わると思っていたこの街での生活に、まだなにが残っているのか。

 咲きかけた桜を仰いで、美紀は唇を噛む。

 まるで自分一人がこの街で、迷子になってしまった気がした。