プロローグ


 この街の高台にはお城がある。

 西洋風のお城は白い外壁が縦にも横にも長く続いていて、その周りを囲うのは季節ごとに変わる色とりどりの美しい花々だ。

 初めてこの街を訪れた人たちは大抵何かの観光施設か宿泊施設だと間違える。

 庶民の暮らしを見下ろすようにそびえ立つそのお城に住んでいるのは、この界隈の土地一帯を代々所有する古賀家の一族。

 時代が時代なら間違いなく貴族であった古賀家の人々。

 庶民とは住む世界が違う彼らだったが、実際に会ったことのある人間は口を揃えて「穏やかで優しい人たち」だと言う。

 古賀家当主夫妻、息子、乳母、執事が暮らすお城は、庶民の暮らしを見下ろしているのではなく、むしろ温かく見守っていた。


 そんな古賀家を包む空気が変わったのは今から3年前。


 夫妻と息子の海外旅行中、彼らが乗っていた飛行機が墜落するという事故が起きた。

 乗員乗客163名中159名が死亡した大事故だった。

 この事故により古賀夫妻も亡くなった。

 生き残ったのは、たった4名の子どもたち。

 幸か不幸か、古賀夫妻の一人息子がそのうちの一人だった。

 当時のマスコミは生き残った4人を〝奇跡の子どもたち〟と騒ぎ立てた。

 この街の住人も、古賀夫妻が亡くなったことを深く悲しんでいたが、一人息子で次期当主である彼が生き残ったことは不幸中の幸いだと喜んだ。

 でも、生き残った彼だけは違った。

 自身の命の代償として、両親を失うだけでなく足の自由を奪われることになったからだ。

 彼はもう、以前のように歩くことも走り回ることも出来ない。

 事故から3年が過ぎ、小学生だった彼は15歳になった。

 中学の3年間をほぼ全てリハビリに費やしたという彼を校内で見た生徒はほとんどいなかったそうだ。噂によると、懸命なリハビリの甲斐あって今では車椅子を使わなくても歩行ができるようになったのだとか……。


 そんな彼と同じ高校で、さらにクラスが一緒だと私が知ったのは入学式の後だった。

 クラス名簿に載っていた古賀春一という名前を見た時は、本当に心臓がとび出そうになった。

 でも、入学式どころか、それからしばらく経っても彼が学校に来ることはなかった。

 学校どころか、街中でも彼の姿を見た人間はほとんどいないそうだ。

 あの事故以来彼はその心も体もお城の中に閉じ籠ってしまったようだった――


「大きいなぁ……」

 私は今、そんな彼を下界へ連れ出すべく白亜の城の前にいた。

 正確には、お城を守る巨大な門の前だ。

 侵入者を阻む鉄格子のあまりの高さに圧倒されそうになる。

 ここに辿り着くまでに意気込んでいた気持ちが一瞬ぐらつきそうになったけど、自分の目的を思い出して、足を踏ん張った。

 一呼吸置いてから、意を決してインターホンらしきブザーを鳴らすと、すぐに「はい」という年配の女性の声が返ってきた。

「あ、こんにちは。私、春一くんと同じクラスで、クラス委員をしています。樋口彩楓といいます。春一くんが休んでいる間の配布物を届けにきました」

 自分の身分と訪ねてきた事情を伝えると、「まぁまぁ。今開けますからね」という女性の嬉しそうな返事とともに、重い鉄格子がゆっくりと開いていく。

 自動車が2台、いや3台は並べられそうな道幅をゆっくり進んでいくと、緑いっぱいの広い庭が見えてくる。

 その先にようやく、美しく咲き誇る春の花々に囲まれた白亜の城が現れる。

「本当にお城だ……」

 それはもう、想像以上の大きさと広さだった。普通の一軒家の2倍から3倍はありそうだ。そして間近で見ると本当に白い。周りを囲う花がお城の白さをより際立たせている。

 今さっきここに来るまでに歩いてきた街とはまるで違う世界。

 私の住む街が下界ならば、ここは間違いなく上界だ。

 目の前に広がる世界にすっかり圧倒されていると、ギイっという音とともにアーチ型の扉がゆっくりと開いた。

「こんにちは。まぁまぁ、よく来てくれましたね」

 扉の中から出てきたのは、さっき門の前で対応してくれた女性と同じ声の人だった。

 70歳くらいだろうか。

 温かな笑顔に加えて、小柄で少しふっくらとした体型が女性の優しさと大らかさを体現しているように見えた。

 水色のワンピースにフリルがたくさんついている白いエプロンという姿がまたこのお城によく似合う。

 普通の70代が着たら時代錯誤にも思える装いが、むしろこの場所ではしっくりくるから不思議だ。

「ご挨拶が遅れてごめんなさいね。私、春一様の乳母をしております、ツルと申します」

 ツルさんは微笑みを浮かべて、私の顔をじっと見つめてくる。

 その優しい目は、まるで何かを見極めているかのようだ。

 もしかしたらツルさんは彼の乳母でありこのお城の門番なのかもしれない。

 そう思ったのは、ツルさんの穏やかに見えた目がよくよく見ると、揺るぎない強さをはらんでいるように見えたから。

 それにこのお城にいるはずの執事ではなく乳母である彼女が真っ先に扉から出てきたのは何か意味があるとしか思えない。

 だとしたら、扉の前でツルさんに弁別をされて、初めて入城が許可されるのでは?

 ただの想像だけで背中に緊張が走った。

 ツルさんが私を見つめていた時間は10秒にも、30秒にも思えた。

 そして、ツルさんは一つ瞬きをすると、

「さあ、どうぞ。お入りになってください」

 笑顔によって刻まれるシワをよりいっそう深くして、私を城内に誘った。

「はい」

 どうやら私は許可をもらえたようだった。

 想像でも妄想でもなく、やっぱりこのお城を守っているのはあの大きな鉄格子ではなくツルさんなのかもしれない。

 そう確信したとき、頭上で白い何かがふわっと揺れた気がした。

「?」

 ふと顔を上げると、二階の大きな出窓から白いレースのカーテンが風になびいて揺れていた。

 あの窓、さっきまで開いてたかな?

 ここまで歩いてきたときは窓は開いていなかったように思うけれど。

 私の記憶違いだろうか……。

 ぼーっと出窓を眺めていると、

「彩楓さん? どうかなさったんですか?」

 足を止めたままの私のもとに、先に歩いていたツルさんが心配して戻って来てくれた。

「あ、すみません……」

 ツルさんに頭を下げて止めていた足を動かした。

 だけど、見えてしまったんだ。

 出窓に寄り掛かるように座る、人の後ろ姿が。黒く短い髪の毛が。

 あれはきっと――彼、なんだ。

「彩楓さん?」

「……はい。すみません。今、行きます」

 後ろ姿を見ただけなのに、手にぎゅっと力がこもった。

 ツルさんの後ろをついていくと、大きなアーチ型の玄関ホールの先にもう一つ扉があった。一般家庭と同じ、普通サイズの玄関扉だ。

 きっと、その扉こそが城内に入るための本当の扉。

 ツルさんは玄関扉の鍵を開けると、とびきりお茶目な笑顔を浮かべながら「ようこそ」と言ってくれた。

 穏やかな微笑みを浮かべる優しげな乳母は門番としての仮面だったのか、私にはその茶目っ気たっぷりの笑顔が本当のツルさんの姿である気がした。

 その証拠に、

「坊ちゃんっ! 同じクラスの方が来て下さいましたよっ! とっても綺麗なお嬢さんですよーっ! 早くおりてきなさいっ!」

 どこからそんなに力強い声が出るんだろうってくらい大きな声で上階に向かって叫ぶツルさん。

 一般的に穏やかな70代はそんな声は出せない。

 しかも、その表情からは若干の呆れと苛立ちが窺える。

 どうやら彼女は主人に忠実なだけの乳母ではなさそうだ。

「ごめんなさいね。もともと人見知りなところはあったんですけど、事故以降ちょっとこじらせちゃっていて。人が来ると部屋から出てこないんです」

 ツルさんはまるで彼の母親のようにため息を漏らす。

 すぐに会えるとは思っていなかったけど、彼の引き籠りっぷりはなかなか手強そうだ。

 だからといってこちらも引き下がる気は毛頭ない。

 私には彼を下界へ連れ出すという使命があるから。

 ツルさんに導かれてダンスホールのような広さのリビングに向かうと、高級そうなテーブルにはすでにお茶の用意がしてあった。

 割ってしまったら高校生にはとても弁償が出来なさそうなティーカップに入った紅茶からは白い湯気が立っている。その隣にはアフタヌーンティースタンドに載った可愛らしい一口サイズのケーキとスコーン。

「ようこそいらっしゃいました」

 そう言って出迎えてくれたのは真っ黒な燕尾服に身を包んだ美しい男性だった。

 歳は30代くらいだろうか。

 身長も高いけど手足も長い。

 深い黒髪とは対照的な肌の白さが中性的な美しさを醸し出していた。

「どうぞ、こちらへ」

 動作や言葉遣いだけでなく、終始一貫した微笑みがいっそう男性の物腰を柔らかく見せている反面、そういう人間を完璧に演じているようにも見えてしまうのはツルさんの変化を感じた後だからだろうか。

 疑心暗鬼になる心をなんとか誤魔化して、男性に促されるままにティーセットの前のソファに座った。

 私がソファに座ったのを確認すると、男性は自分の胸に左手を当てて私に向けて会釈をした。

「初めまして。私、古賀家の執事をしております。藤野と申します」

 なんて優雅な動きなのだろう。

 そしてそれは、名字なのか名前なのか。尋ねてみたい欲求に駆られたものの、このお城の中でそういう質問は野暮な気がして藤野さんは藤野さんなのだと自分を納得させた。

「初めまして。春一くんのクラスで委員をしています。樋口彩楓です」

「彩楓さん、とお呼びしてもよろしいでしょうか?」

「はい。もちろんです」

 藤野さんには平然と「はい」と答えたけど、この年齢で男性に名前にさん付けされることなんてほとんどないから本当は少し恥ずかしかった。

 昔からポーカーフェイスと言われることがコンプレックスだったけど、こういうときはコンプレックスも役に立つ。

「では、坊ちゃんのことは放っといて3人で楽しくお茶をしましょうね」

 ツルさんの愉しげな一声で、私、藤野さん、ツルさんの3人で不思議なお茶会が始まった。

 これが私と白亜の城の出会いだった――



第一章 白亜の城の(天邪鬼)王子様


 毎週火曜日と金曜日が彼に会いに行く日。

 そして今日は金曜日。あっという間に4月も終わろうとしている。

 私がこの高台を登るのは今日でもう4回目だった。

 初めて古賀家を訪れてから早2週間が経つものの、彼が自分の部屋から出て来る気配は一向になかった。

 ツルさんも藤野さんも呆れているのか諦めているのか、最初のように彼がいるであろう上階に向かって何度も声をかけることをしなくなった。

 私も私で、登校拒否中の彼に配布物を届けて、あわよくば学校に来てもらうように導くためにここに通っているはずなのに、現状はツルさんと藤野さんとお茶会をしに来ているようなものだった。

 彼には学校に来てほしいと思うし、お城に閉じ籠っていないで下界に下りてきてほしいという強い想いはあるけど、そのために強硬手段に出ようとも思わない。

 機が熟すまで辛抱強く待とう。

 自分の胸の中で小さな決意をしたところで、白亜の城を守る門が見えてきた。

 私が門の前に行くと、ブザーを鳴らす前に門がゆっくりと開いていく。

 たった今私が登ってきた高台も古賀家の私有地だから、きっとこの場所に足を踏み入れたときからどこかに設置されている監視カメラで見られていたのだろう。

 すごいなぁと感心もするし、ちょっとだけ怖いなぁとも思う。

 でも、悪意ある侵入者を阻むためというよりは、全ては古賀家の主人を守るためなのだろうとも思う。

 慣れたようにお城の近くまで進んでいくと、扉の前で待ってくれているツルさんの姿が見えた。

「彩楓さん、いらっしゃい」

 今日は水色ではなくピンク色のワンピースにいつものフリルがたくさんついている白いエプロン姿のツルさん。

 年上の女性に対して失礼かもしれないけど、とても可愛らしい。

 小さく手を振ってくれる姿を見ると自然と口元が緩んでしまう。

 小走りでツルさんに近づくと、ツルさんから甘い良い香りがした。

 今日のおやつは一体何だろう。

「こんにちは、ツルさん」

「さぁさぁ、藤野さんも待っていますよ。中に入ってお茶にしましょう」

「はい」

 ツルさんは私の右腕を引いて、お城の中へと誘う。

 古賀家に通うことは慣れてきたものの、一緒にお茶をすることが至極当然のことのようなツルさんと藤野さんの態度にはまだ慣れない。

 高級なティーセットでいただく紅茶も、ツルさんお手製の美味しいお菓子でもてなしてもらうことも、きっとずっと慣れない。

 だから扉の前まではスムーズに来れるけど、中に入ることに対しては尻込みしてしまう。

 こういう私の心情に多分ツルさんは気付いている。

 だから、まるで「ほらほら、遠慮しないの!」とでも言うように、ツルさんは少し強引に私の腕を引っ張ってお城の中に誘ってくれる。

 感情が読みにくいと言われる私が、呆気なく感情を読まれてしまう。

 言葉にも表情にも出ていないはずなのに、こんなに簡単に気持ちを読まれてしまうのは両親くらいしかいないのに。

 どうしてこんなに大きなお城に番人が2人しかいないのか、わかった気がした。

 亡くなった前当主夫妻が全幅の信頼を置いていたというのだから、その人柄だけでなくあらゆる能力に長けた人たちなのだろう。

 そんな2人と美味しいお菓子を囲んで呑気にお茶会をしていて良いのだろうか……。

「彩楓さん、こんにちは」

 リビングにはいつものように紅茶の用意をしてくれている藤野さんがいた。

 燕尾服姿にティーポットがよく似合う。

「こんにちは、藤野さん」

「先に座っていてください。私たちもすぐに戻りますから」

「あ、はい」

 藤野さんとツルさんは私を一人リビングに置いて、キッチンらしき部屋に行ってしまった。

 一人残された私は、暖炉の隣にある大きなホールクロックに目を向けた。

 2mはありそうな赤茶色のホールクロック。

 時間を刻む黄金の振り子が静かな部屋にゆったりと響く。

 他人の家なのに、お城なのに、この家はどこもかしこも温かくて、気付いたら肩の力が抜けてしまう。

 気を抜いて目を瞑ったら眠ってしまいそうだ。

「さあさあ、お待たせしました。今日はアップルパイですよ」

 私の眠気を覚ましたのは、ツルさんの声と甘いりんごの香り。

 テーブルの真ん中にツヤツヤのアップルパイが置かれると、自然とお腹が鳴った。

 いつの間にか隣に立っていた藤野さんにも聞こえてしまったのか、自分のお腹から聴こえたぐうという音の後に、クスッと笑う藤野さんの声が聞こえた。

「藤野さん」

「はい」

「微妙に笑いをこらえるのやめてください」

「はい。では次からはしっかりと笑いますね」

 そういうことじゃない。

 丁寧に言えばなんでもいいってもんでもないですよ。

 心の中で悪態をついてみるも、勝てる気がしないので口に出すことはしない。

「彩楓さん、シナモンは平気だったかしら?」

「あ、はい。好きです」

 とは言ったものの、好きになるほどシナモンを口にしたことはない。

 でも、ツルさんが一瞬見せた不安そうな表情をすぐに消したくて「好き」と答えていた。

「あぁ~良かった! シナモンって好き嫌いあるでしょう? 彩楓さんが苦手だったらどうしようって思っていたの」

「苦手なものはとくにないです」

「まぁ、それは素晴らしいわ!」

 好き嫌いがないだけで褒められるなんていつぶりだろう。

 こんなに大げさに喜んでくれると、くすぐったいような気持ちになる。

「さあ、温かいうちにいただきましょう」

 ツルさんは私のお皿と藤野さんのお皿にカットしたアップルパイを載せると、最後に自分のお皿に少し大きめにカットされたアップルパイを載せた。

「はい。いただきます」

 ツルさんのお茶会スタートの声の後、私と藤野さんの「「いただきます」」という声がリビングに響いた。

 アップルパイにフォークを入れると、サクッというパイ生地の軽い音がした。

 一口サイズにカットして口に運ぶと、甘酸っぱいりんごと深いシナモンの香りが口の中を満たしていく。

 いつもながら、脳にまで響く美味しさだった。

「…………美味しい」

 溜め息のように「美味しい」の言葉がこぼれる。

「彩楓さんって本当に美味しそうに食べてくれるから嬉しいわぁ」

 無意識に閉じてしまっていた目を開けると、ツルさんが本当に嬉しそうに笑いながら二切れ目に手を出そうとしていた。

「私、感情が分かりづらいってよく言われますけど」

「ふふふっ、彩楓さんは表情が大きく変わらないからこそ、少しでも変わるとわかるんですよ。彩楓さんってとても素直だから」

「……そう、ですか」

 私のことをそんなふうに言ってくれたのは母親くらいだ。

 嬉しいような恥ずかしいような、どうしていいかわからなくてひとまずアップルパイを口に運んだ。

「ゴホッ」

 慌てて口に運んだせいか、パイが気管に入ってむせた。

 咳込む私をツルさんと藤野さんが見ていたのか、二人がクスッと笑う声が聞こえてさらに恥ずかしくなった。

 私は昔から表情があまり顔に出ないせいかクールとか冷静とか言われことが多かった。でも実際の私は、クールでも冷静でもなんでもない。

 本当は口下手で感情の表現が苦手なだけ。

 きっと、ツルさんと藤野さんには早々に見抜かれているのだろう。

「私ね、坊ちゃんと彩楓さんはきっと仲良くなれると思っているんです」

 私が紅茶を一口飲んでカップを置くと、ツルさんが独り言のようにつぶやき始めた。

「彩楓さんと違って素直でもないし、事故に遭ってからさらに意固地になってしまったけど……本心ではこの家の敷地から出て、学校にも通いたいと思っているはずなんです」

 まるでわが子のことのように悩ましげな表情を浮かべるツルさんは、ただの乳母ではなく彼にとって本当の母親と同じような存在なのだろう。

「何せ意固地ですからね」

 ツルさんのつぶやきに藤野さんも深く頷く。

「そうなのよねぇ」

 家族である二人がそう言うのだから、彼はよほどの意固地なのだろう。

 確かに、仮にも同級生で同じクラスである私が何度足を運んでも姿や声どころか気配さえ察知させない引き籠りっぷりを見れば会わなくとも彼の頑なな心をひしひしと感じる。

 そこまでして同級生である私に会いたくないのか。

 それとも、そこまでして自分の存在を見せたくないのか。

 あるいはどちらもか。

 でも、彼はわかっていない。

 彼がどれだけ意固地になろうと、私がここへ通うことを止めることはない。

 気配すら隠したって、私は何度だってここに来る。

「春一くんの調子は良いんですか?」

 引き籠りといっても、定期的に病院に通っていることは以前ツルさんから聞いていた。

 事故によって脊髄を一部損傷してしまったことで、当初は車椅子に乗らなければならないほど歩行が困難だったそう。

 ただやはり以前のように走ったりすることはもちろん、スムーズに歩いたりすることも出来なくなったようで……。

「調子は良いんですよ。もともと病気でもなんでもないんですもの。でも、歩行のときに杖をついて歩かなければならくなったことを、自分の中でまだ受け入れられていないんです」

 彼が引き籠ってしまっている最大の理由は、両親を一度に亡くした心の傷だけでなく、事故になったことで不自由になってしまった自身の足にあるようだった。

 車椅子に乗らなくて良いほど足が良くなったと思ったら、主治医から足腰への負担の軽減と転倒防止のために杖を使うことを勧められたそうだ。

「杖ってね、一見身体を支えるためのものに思えるんですけど、歩行が困難で不安になる心を安定させる役割も持っているんです」

 ツルさんの言葉を聞いて、私は杖をついて歩かなければならない人の気持ちを何一つ理解していないことを思い知らされた気がした。

 不自由な身体で歩くということはどれだけ不安なのだろう。

 ちょっとした段差も、でこぼこ道も、人混みも。転ばないように、つまずかないように、人に迷惑をかけないようにと神経を擦り減らしながら歩かなければならないとしたら、体力以上に気力を使うだろう。

 身体以上に心が疲れて、もう外に出るのが嫌になるかもしれない。

 だったらもう、人混みの中に行かないで、ずっと家の中で誰にも迷惑をかけずに暮らしていきたいと思うかもしれない。

 変わってしまった自分の姿を人に見られたくないという理由だけじゃなくて、もしも彼もそんなふうに思って閉じ籠ってしまったのだとしたら、想像の中だけで思い描いていた古賀春一という人物像が少し変わった。

「春一くんは、意固地じゃなかったんですね」

 ツルさんと藤野さんが彼を意固地だと言うから、すっかりその言葉に騙されてしまっていた。

 多分、二人も本心では彼のことを意固地だとは思っていないのだろう。そう言うことで、彼の様子を気にする人を納得させれば彼が姿を現さなくても誰も傷つけない。

 本当の彼のことはツルさんも藤野さんも語っていないように思えた。

 私の小さなつぶやきに二人の手がピタッと止まる。

「人の気持ちを気遣って、気遣いすぎて疲れてしまうんですかね……」

 彼は決して意固地ではなく、繊細な人なのかもしれない。

 そういう優しい人ほど心を閉ざしてしまうから。

「春一くんはきっと、優しいんですね」

 アップルパイをもう一口頬張りながら、勝手に納得した。

 ツルさんと藤野さんは私の独り言に対して何も言わなかったけど、否定もしなかった。

 だからそれが二人の答えだと私は受け取った。

 他人の家なのに、お城なのに、この家はどこもかしこも温かくて、気付いたら肩の力が抜けてしまうのは、この古賀家の住人には優しい人しかいないからなのだろう。

 気を抜いて目を瞑ったら眠ってしまいそうなのは、優しさに包まれている安心感があるから。

 そう思ったら、まだ見ぬ彼のことが少しだけ好きになった。



 暦が5月に変わった。

 ゴールデンウィーク後半目前、私は今日もお城に来ていた。

 ツルさんと藤野さんは相変わらず私がやって来るとお茶の用意をして待ってくれている。

 そんないつもと変わらない穏やかな時間を止めたのは、一階に鳴り響く来客を知らせるブザー音だった。

 3人の会話が止まって、真っ先にツルさんが立ち上がる。

「ちょっと失礼しますね」と告げると、藤野さんに軽く目配せをしてツルさんはリビングから出ていった。

 手が止まる私に藤野さんは「気になさらずに」と声をかけてから、自身もティーカップに口をつけた。

 つられるように私も紅茶を一口飲んだ。

 再び穏やかな空気が流れ始めようとしていると、さっき出ていったばかりのツルさんが小走りで戻って来た。

「藤野さん、ちょっと」

 明らかに表情を曇らせたツルさんが藤野さんに駆け寄って、私には聞こえない小さな声で何かを告げた。

 ツルさんの言葉を聞いた藤野さんの顔から、表情が消えた。

 途端に、穏やかだった空気が一気に張り詰めたものへと変わる。

 藤野さんはソファからスッと立ち上がると、「彩楓さん、すみません。客人が来たそうなので少し失礼させていただきます」と言って、私に頭を下げてリビングから早々に出て行こうとする。

「私、帰りましょうか?」

 咄嗟に、私もソファから立ち上がって藤野さんの背中にそう告げた。

「いいえ。彩楓さんがお帰りになる必要は一切ありませんからね」

 返事をしたのは藤野さんではなく、その前を歩いていたツルさんだった。

 顔は笑ってるのに、有無を言わせぬ力強さを感じるのはきっと気のせいではない。

 ツルさんに同調するように、藤野さんも足を止めて「そうですよ」と私に振り返る。

「私たちが戻ってくるまで待っていてください」

 念を押すようにそう言われてしまっては、「はい」と返事をするほかなかった。

 ツルさんと藤野さんのあんな表情を見たのはこのお城に来て初めてだった。

 そして、いつもは開放しているリビングの扉を閉めたのも初めて。

 誰が来て、何が起こっているのかはわからなかったけど、それが良いことではないことだけは私にもわかった。

「……」

 そんなときに一人で呑気にお茶を飲んでいられるほど図太い神経は持っていない。

 紅茶を飲む気にも、お菓子を食べる気にもなれない。

 心がそわそわして、じっと座っていることすら我慢できなくなりそうだ。

 静かな部屋にはホールクロックの時間を刻む音だけが響いている。

 いつもなら心を落ち着かせる音が、今日は音の間隔の短さに苛立ちを覚える。

 二人がリビングを出て行ってから何分経っただろう。

「……」

 とうとうソファから立ち上がってしまった。

 閉められた扉は、来てもいけないし出て行ってもいけないという藤野さんの優しい意思表示だということはわかっているのに。

 どうすることも出来ないで扉の前でうろうろしていると、突然、扉の向こう側から「ガシャーンッ!」という何かが派手に壊れる音が聞こえた。

「……」

 なに、今の音。

 緊張と不安が一度に押し寄せてきたせいで、心臓がドクンッと大きくはねた。

 扉の前で固まる思考と体に、今度は違う音が響く。

「出せよっ! ……だろうがっ! ……おいっ……かよっ!」

 途切れ途切れに聞こえる声は、ツルさんの声でも藤野さんの声でもない。

 知らない男性の乱暴な声。

 何を言っているのかはよくわからなかったが、その乱暴な声と扉の向こうから感じる冷たい空気から、男性が招かれざる客人であることを確信した。

 でも、だったらどうしてツルさんと藤野さんは男性を追い返さないのだろう。

 この巨大なお城をたった二人で守れるだけの力を持つツルさんと藤野さんが、なぜたった一人の男性に好き勝手させているのだろう。

 きっと何か理由があるのだろうけど、ツルさんと藤野さんが動かない以上、他人の私がでしゃばることなど出来るはずもない。

 藤野さんに言われた通り、二人がリビングの扉を開けるまでじっと待っていよう。

 そう決めて、ソファに戻ろうとした私の足を止めたのは男性の一際大きな叫び声だった。

「あんな×××に古賀の家を任せられるわけねえだろっ!」

 あまりにも大きな声だったから。聞くつもりもなかったのに、一言一句ハッキリと聞こえてしまった。

 でも、その心ない言葉で確信した。この声の男性は、招かれざる客人だ。

 いや、客人でもない。きっとただの侵入者だ。

「……」

 ツルさんと藤野さんには動けない理由があるのだと思ったからというのは建て前で、本音は、単純に腹が立ったから。

 15歳の私には十分すぎる理由だと思う。

 私は藤野さんの言いつけを破って、閉ざされた扉を開けた。

 扉を開けて真っ先に目に入ったのは、床に散らばる割れた花瓶の破片だった。

 破片の近くには、花瓶の中に入れられていたであろう花の束が無造作に散らばっていた。

 あれは、玄関扉の真正面に飾られてあった大きな花瓶だ。

 花瓶の花はツルさんが毎日取り替えていると言っていた。

 さっきまで、あんなに綺麗にそこにあったのに……。

「……」

 踏みつけられた花が悲しそうに横たわっていた。

 次に視界に入ったのは、上階へと続く階段の前に並んで立つツルさんと藤野さんの姿だった。

 これ以上の侵入を阻むように、二人自身がバリケードになっている。

 そしてそのバリケードに食って掛かる男性がいた。

 花瓶を壊して、乱暴な声を上げた人。

 歳は40代か50代くらいだろうか。

 人を見た目で判断することはしないが、よれよれのグレーのシャツに薄汚れたスラックスをはいた格好は、正直まともな生活をしているようには見えない。

 なにより、不快なほどキツいアルコールの臭いがする。

 さっきまでそこは甘い香りがいっぱいに広がっていたはずなのに、今はアルコール臭に加えて苦くて酸っぱい嫌な臭いがする。

 私はこのお城の住人でも番人でもなく、口を出す権利もないのに、この優しいお城を優しい人たちを汚されるのがたまらなく嫌だった。

 だから、勝手なことを口走ってしまったんだと思う。

「……帰ってください」

 その声が届いたのか、それとも私の気配に気付いたのか、男性が振り返る。

 栄養失調なのかアルコールのせいなのか、男性の目はくぼんでいて顔は土気色をしていた。

 男性の目はすわっていたけど、多分今の私の目もある意味すわっていたと思う。

「誰だよ。あんた」

 しゃがれた声は扉越しに聞こえたときよりも幾分落ち着いてはいたものの、相手が制服を着た子どもであっても攻撃的なものには変わりなかった。

「私は、春一くんの同級生です。あなたこそ誰ですか」

「オレかぁ? ふはっ、オレはなぁこの家の正統な後継者だよ。前当主の弟さ。つまり春一の叔父ってやつなんだよ」

「嘘です」

「……あぁ~?」

 もしもそれが本当だとしても……。というより多分男性が言っていることは本当なのだろう。それくらいの関係性でなければ、ツルさんと藤野さんはとっくに男性を追い返しているはずだから。

 ただ、本当だとしてもだ。

 本当だとしても、この人は彼の叔父さんなんかじゃない。

 彼の家族なんかじゃない。

「本当に……本当にあなたが春一くんの叔父さんだったら、今の春一くんを傷つける言葉を知っているはずです。知っていたら、その言葉を使ったりしません。絶対に」

 ×××――なんて。

 冗談でも冗談じゃなくても言っていいことと悪いことがあることを、15歳の私が知っていて、どうして大人であるこの人は知らないのだろう。

「家族は守るんです。何があっても。何をしてでも、守るんです」

 お互いの体と心を守るのが家族だとしたら、彼の体と心を傷つけようとするこの人は彼の家族なんかじゃない。

 彼を傷つけようとするこの人から身を呈して彼を守ろうとするツルさんと藤野さんこそが、彼の本当の家族だ。

「……帰ってください」

「うるせえなあっ!」

「帰って!!」

 苛立ちから叫び声を上げる男性の声をさらに上回る私の叫び声に驚いたのか、男性の肩がビクッと大きく揺れた。

 射る様な視線を外さない私を面倒に思ったのか、それともまさか怖気づいたのか、男性は「ふんっ。あー白けた」と言い残して、床に散らばった花をわざとらしく踏みつけてお城から出て行った。

 男性が通った場所からは、ごみのような臭いにアルコールが混ざった臭いがして、軽い吐き気とめまいを覚えた。

 その臭いに酔ったのか、強張っていた力が抜けたからなのか、体がずるずると床に落ちていく。

「彩楓さんっ」

 私の様子にいち早く気付いて駆け寄って来てくれたツルさんからは、甘いお菓子の香りがした。

 吸い込んでしまったあの人の臭いを浄化するように、肺いっぱいにツルさんの香りを吸い込んだ。

 不思議と吐き気やめまいが和らいでいく。

「あの、すみません……勝手なことをして」

 頭の中が冷静になっていくと、段々と自分の仕出かした行動への後悔が強くなっていった。いくら腹が立ったとはいえ、仮にも彼の叔父で古賀家の人間である男性を追い返すような真似をするなんて、何様だろう。

 私は赤の他人で、全くの無関係なのに。私が首を突っ込んでいいレベルの話ではなかったかもしれないのに……。

 でも、どうしても聞き逃すことなんてできなかった。

 無関係の私でさえ胸が息苦しくなってしまう言葉の暴力を、ツルさんや藤野さん、そして彼が聞いたらどう思うだろうって。

 だけど、ツルさんと藤野さんと彼にとってはそんな人でも家族かもしれないのに。

 追い返せない理由は、他にもあったのかもしれないのに……。

 私は自分の感情だけで突っ走って二人に迷惑をかけた。

「ごめんなさい……」

 力なく謝る私にツルさんが「彩楓さんっ」と大きな声を上げて、私の肩を強く掴んだ。

 床にへたり込んだ状態のままツルさんを見上げると、ツルさんの目にはうっすらと涙が浮かんでいた。

「彩楓さんには、この顔が、怒っているように見えますか?」

 ツルさんの顔は今にも泣いてしまいそうなのに、なぜかとても嬉しそうに笑っていた。

「いえ……見えません」

「そうですよ。私は嬉しいんです……彩楓さんが私と藤野さんを、そして坊ちゃんを守ってくれたことが。嬉しいんですよ」

「……私、守ってません」

「いいえっ、守ってくれました。あの人の心ない言葉を止めて、私たちの心を守ってくれました」

 私の肩をぎゅっと掴んでいたツルさんの手が背中にまわる。

 そして、私の体を自分の胸元に引き寄せると、両手でそっと私を抱きしめた。

 甘くて、温かくて、柔らかいツルさんの胸の中に私の体は収まった。

「ありがとう」

「…………あ、の」

 どうしていいかわからずに固まる私の頭を、ツルさんは優しく撫でてくれた。

 触れられた頭から伝わるツルさんの温かさに固まっていた体がゆっくりと解れていく。

「……」

 あったかい……。ツルさんは本当にお母さんみたいだ。

 あったかくて、あたたかすぎて、気を抜くと簡単に涙が出そうになる。

 ずっとこうしていたい。そう思った――


 その後、壊れた花瓶と散らばった花の片づけを手伝いながら、私はツルさんと藤野さんからあの男性のことを聞いた。

 男性の名前は古賀良一。

 受け入れたくないけど、正真正銘彼の実の叔父なのだそう。

 彼が生まれるずっと前に古賀家の資産の一部をギャンブルに使い込んで、当時の当主だった彼の祖父に勘当されて以来古賀家とは縁が切れていたそうだ。

 でも、前当主の彼の父親が亡くなってからたびたび古賀家に現れるようになり、自分には古賀家の財産を継ぐ正当な権利があると主張し始めたとか。

「今の正統な当主は春一様です。ですが、万が一……今、春一様が亡くなられるようなことがありましたら、古賀の家を継ぐ資格があるのは良一様だけなのです」

「そんな……」

 ツルさんが新しい紅茶を淹れてくれる間、藤野さんが古賀家の状況を説明してくれた。

 でも、今の藤野さんの言葉でツルさんと藤野さんの不可解な行動が納得できた。

 この巨大なお城をたった二人で守れるだけの力を持つツルさんと藤野さんがどうして一人の男性に好き勝手させているのか不思議で仕方なかったけど、それはあの人が当主になる可能性を持つ人だから。

 万が一なんて考えたくないけど、この家では実際に万が一のことが一度起きてしまっている。彼の両親が突然亡くなるという、万が一が。

「もちろん、そのような現実が起きてほしくはありません。私たちにも感情がありますから。このまま春一様に……心が動かされる主人に仕えたいと願います」

「……」

「しかし、私もツルさんも、生きる場所はここしかありません。私たちには自分の命が尽きるまでこの家を守っていくという使命があります。ですから……いえ、この先は考えるのは止めましょう」

「……」

 藤野さんが言いたくない言葉の続きはもうわかる。

 だから万が一、あの人が当主になってもツルさんと藤野さんはきっとあの人を全力で支えるのだろう。このお城を守るために。

 藤野さんの考えは理解できる部分もあるし、到底理解できない部分もある。

 私みたいな一般の家と歴史と伝統のある古賀の家とでは、家に対する考え方が違うのはなんとなくわかる。

 難しいことはよくわからないけど、先祖代々繋いてきたバトンを途絶えさせてはいけないということだろう。

 でも、そのために心が動かない人に死ぬまで仕えることが、ツルさんと藤野さんにとって本当に幸せなのだろうか。

 本人たちが納得しているのだから、部外者の私が何を思おうが関係ないのに……。なぜこんなにも、もどかしいのだろう。

 こういう場所で彼は生きているんだって思ったら、胸がとても苦しくなった。

 私だったら、大きすぎる責任とプレッシャーで、圧し潰されてしまいそうになる。そしてそんな状況下で事故に遭って足が不自由になったら、さらに自分を追い込んでしまうかもしれない。あの人がさっき言った、『あんな×××に古賀の家を任せられるわけねえだろっ!』という言葉は――そんなこと自分が一番わかってるよ! って、叫びたくなる。

「だから私たちは良一様が来ても、追い返すことも出来ませんし、出て行けと言うことも出来ません」

「……はい」

「ですから……彩楓さんが追い返して下さって――非常に爽快でした」

「…………えっ?」

 爽快――って、言った? 今。藤野さん。

 藤野さんの顔を見上げると、そこにはいつもの物腰柔らかな執事の姿はなく、悪戯な笑みを浮かべる少年のような男性がいた。

「私もツルさんも、良一様のことが大嫌いなんですよ」

「えっ……」

 藤野さんは今まで見たことがないほど爽やかな笑顔を浮かべていた。

「まぁ当然ですよね。ギャンブル好きでアルコール中毒で、悪臭をまき散らして……好きになる方が難しいですよね」

「……はぁ」

「2年前に姿を現すまで生きていることさえ知らなかったんですよ。もうとっくの昔にあの世へ行っているものだと思っていたんですけどね。まったく、ゴギブリ並みの生命力だと思いませんか?」

「あー……はい」

「ですよねぇ」

 藤野さんのクスッと笑った顔が、なぜか少し怖かった。

「……」

 私は少し勘違いしていたのかもしれない。

 万が一、彼に何かあったら確かにあの人が古賀家の当主になるかもしれない。

 でも、ツルさんと藤野さんはきっとあらゆる手段を用いて、その万が一を絶対に起こさせないようにするのではないだろうか。現在進行形で、すでにしているような気がする。

 具体的にどうやっているのかはわからないけど、このお城を二人だけで守っているツルさんと藤野さんなら十分ありえる。

「彩楓さん、格好良かったですよ」

「えっ……いえ、私はただ……」

 藤野さんは茶化すわけでもなく感心した様に笑顔を浮かべていた。

 どうせなら茶化してもらった方がいいのに……。

 気恥ずかしくて顔を上げられない私に、藤野さんが追い打ちをかけるようにこう言った。

「クールな方ではないことはわかっていましたけど。思っていた以上に熱い方なのですね。彩楓さんって」

「……そんなこと、ありませんよ」

 熱い人。なんて、私のことをそんなふうに言う人はいない。

 でも、私の父親は間違いなく熱い人だ。自分が関係のないことでも困っている人を見たら際限なくどこまでも手を差し伸べ続けてしまう父。

 私はそういう父をいつもどこか遠巻きに見ていた。

 私には出来ない。私にはなれないって……。

「そうですか? 私から見れば、十分熱い心を持った方に見えますよ」

「っ……」

 だから、藤野さんの言葉が素直に受け入れられなくて。受け入れられないのに――嬉しかった。

 そういう父を遠巻きに見ながらも、心の底では憧れているから。

 一歩でも父に近づけたような気がして嬉しかった。

「はいはい、お待たせしました。温かいお茶が入りましたよ~」

 ツルさんが白い湯気の立つ紅茶を3つ運んできてくれたことで、お茶会が再開した。



 ゴールデンウィークが終わった最初の火曜日。

 今日も私はお城の中にいた。

 いつものようにリビングに案内されたところまでは通常通りだったのだが、藤野さんの携帯電話に仕事の電話が入ったことで藤野さんは不参加となった。

 私とツルさん二人きりのお茶会。

「……」

 と、なるはずだったのだが……。

 考え事をしていたのか、それともただのミスなのか、オーブンの温度設定を間違えたことで今日のお茶会用のケーキを黒焦げにしてしまったツルさん。

 紅茶だけで十分だと言った私の言葉に耳を傾けることなく、もう一度作ると言ってツルさんはキッチンにこもってしまった。

 だから今私は、一人リビングでただただぼーっとしていた。

「……」

 もう今日のお茶会中止でいいんじゃ……。

 とは思ったものの、ツルさんが新しくケーキを作り始めている今、このまま帰りますとも言えない。

 どうしたものかと頭を巡らせていると、ガタガタッ、ガタンッ……と、階段の近くから何かが落ちる音がした。

 あまりの大きな音に、私はソファから立ち上がってリビングのドアに近づいた。

 そして階段の近くに視線を移すと、階段の一番下に細長くて茶色い棒が落ちていた。

「……?」

 さっきお城の中に入ってきたときにはなかったから、今さっき派手な音を起てて落ちてきたもので間違いないだろう。

 リビングから出て、一歩一歩それに近づいていく。

 手が届きそうなほどの距離まで来て、初めてそれがただの棒ではなく、杖であることに気付いた。

 杖を使う人間はこのお城の中で一人しかいない。

 右手でそっと杖を拾って、上階をゆっくり見上げると――

「「……」」

 一人の少年と、目が、合った。

 白亜の城に通ってもうすぐ1ヶ月――私はこの日初めて彼の姿を正面から見た。

 正直、長い期間引き籠っているのだから、見るからにひ弱で、痩せ細ったイメージを勝手に抱いていた。

 でも、実際の彼はそうじゃなかった。

 階段の手すりに右手を掛けながらゆっくりと階段を下りてくる姿は、色白だけれどひ弱とは程遠い。藤野さんと同じくらい背が高くて、痩せ細いどころか肩周りにも脚にもほどよく筋肉がついているように見える。

 つやつやの黒髪が少し目にかかっているけれど、遠目からでも目鼻の整った顔立ちだとわかる。

 白亜の城の主人に相応しい、綺麗な少年だった。

 無表情のままゆっくりと階段を下りているだけなのに、その姿さえも気品があって、思わず見惚れてしまう。

 学校に通うようになったら、間違いなく多くの視線を集めることになるだろう。主に女子から。

「それ、」

「……えっ」

「返して」

 初めて聞く声は、15歳にしては抑揚のない落ち着いた声だった。

 予期せぬ事態に呆然とする頭をなんとか稼働させるために、私は意識的に瞬きの回数を増やした。

「あ……はい」

 私は持っていた杖をすぐさま彼に渡す。

 彼は杖を受け取ると、階段の手すりから右手を離して杖を握った。

 そのまま上階へ戻るのかと思えば、無表情に私を見下ろしたまま静かに口を開いた。

「あんたさ……」

「うん」

「いつまで来るんだよ」

「えっ?」

 抑揚のなかった声に、感情が込もる。

 苛立ち、呆れ。彼の声からはそんな感情が読み取れた。

「クラス委員だかなんだか知らないけど。無駄だから」

「……」

 無駄っていうのは……。

 それは、私がいくら彼のところに通っても学校へ行くつもりはないという宣言だろうか。

「ツルさんと藤野に何言われてるか知らないけど。迷惑だから」

「……」

「もうここに来るな」

「……」

 彼は私にそれだけ告げると、踵を返して上階へと戻って行った。

 これが、私と彼の記念すべき初めての会話だった。

 迷惑だと、来るなと、ハッキリ言われてしまった。

 好意的に思われていないことは始めからわかってはいたけど、自分の想像と実際に本人の口から言われるのとではダメージの大きさが違う。

「……」

 ちょっとだけ、胸が痛かった。

 だからなのか、ツルさんが新しく焼いてくれたバナナケーキの味も、新しい茶葉の紅茶の香りもよくわからなくて、ツルさんに申し訳なかった。



 それから3日後の金曜日。

 いつもなら古賀家に向かう時間、私はまだ学校の中にいた。

 帰りのホームルームが終わって、空っぽになった教室には幼稚園からの幼馴染の川崎千尋と私しかいない。

「そんで、行くのをためらってるってわけ?」

 ぼーっと窓の外を見る私の心情などお構いなしに、前の席に座る千尋は呆れたような声を出す。きっと同じように呆れた顔をして私を見ているのだろう。

「別に。ためらってるわけじゃない」

「じゃあさっさと行けば?」

「まだ、いい」

「そんなこと言ってたら今日が終わるけど?」

「……わかってる」

「つーかさぁ、行ったって拒否されることなんて初めからわかってたことじゃん。何今さら怖気づいてんの? それくらいのことで行くのを迷う程度の決意だったの? 春一くんを絶対に学校に来させるって俺に宣言してたじゃん」

「……うん」

「中途半端な気持ちなら、もう止めた方がいいんじゃないの?」

「……」

 私に対してここまでズケズケと言いたい放題好き勝手言うのは千尋くらいだ。

 他に友達がいないわけではないけど、さすがに女友達はここまで無遠慮に接してはこない。

 千尋は良い意味でデリカシーがないから、一つ一つの言葉がグサグサと胸に突き刺さることも多いけど、唯一本音でぶつかってくれるからありがたいとも思う。

「ぶつかって傷つく覚悟がないなら、いつまで経っても心ン中なんて見せてくれないよ。中途半端な気持ちで関わってやっぱり止めますって方が酷だからね。だったらもう今から止めな」

「……止めないよ」

 止めたりなんてしない。

 彼がどれだけ拒否しようと、私は彼のもとへ通うことを止めたりなんてしない。

 私には彼を下界へ連れ出すという使命がある。

 ツルさんと藤野さんに古賀家を守るという使命があるように、私にも同じくらい強い使命がある。

 千尋の言う通りだ。

 あんな胸の痛みを引きずっている場合じゃない。

「……私、行く」

「よっ、隠れ熱血漢」

「私は漢じゃない」

「は? 漢より漢だろ?」

「うるさい」

 こうやって私を茶化しながらも励ます千尋に何度救われてきたかわからない。

 生真面目ですぐに考え込んでしまう私と器用でマイペースな千尋は性格はまるで反対だけど、だからこそ足りない部分を補い合うことができた。

 ほとんど私が補ってもらうばかりだけど……。

 千尋に背中を押されて、私は早足で学校を出た。


 高台を登りきる頃には、いつもの時間より1時間も遅くなっていた。

 小走りで門の前まで向かうと、そこには――

「彩楓さんっ!」

 今日は黄色のワンピースにフリルがたくさんついている白いエプロン姿のツルさんが不安そうな表情で立っていた。

 その表情が、私を見つけた途端にぱっと明るくなったから、もしかしなくても私が来るのをずっと待っていたのだろう。

「良かったぁ……何かあったのかと思いましたよ。私ったら連絡先も聞いていませんでしたから、どうすればいいかわからなくて……今か今かとずっと待っていたんです」

「……ごめんなさい」

「あらやだ。どうして彩楓さんが謝るんです? 私が大人しく待てなかっただけですから、気になさらないでね? さぁほら、遅くなる前にちょっとでもお菓子を食べて行ってください」

「……はい」

 来て、良かった。

 諦めないことを選んで、良かった。

 ツルさんの安堵した表情を見たら、それだけで、私は正しい選択をしたんだって心から思えた。

 いつも以上に私の腕を強く掴んで離さないツルさんを見ていたら、弱い自分に負けてしまいそうになったことが嘘のように力がみなぎってくる。

 ツルさんに腕を引かれながら、改めて決意を固め直した。

 いつもよりおよそ1時間遅れて城内に入ると、あろうことか、玄関の真ん前の階段にまるで私を待ち構えるかの様に彼が立っていた。

 涼しげな目元をすっと細めて、私を見下ろすように仁王立ちする姿はまるで王様だ。

 彼は、いい度胸だとでも言うような表情で、静かにこうつぶやいた。

「俺さ、もう来るなって言ったよな」

 その言葉にいち早く反応したのは、私ではなくツルさんだった。

「坊ちゃんっ! いつ彩楓さんにそんなことをっ!」

「ツルさんは黙ってて」

「これが黙っていられますかっ!!」

「いいから、ちょっと黙って」

「っ……」

 彼の少し強い語気に、ツルさんはぐっと口をつぐんだ。

 たとえ母親代わりの乳母であっても、古賀家の当主である彼には逆らえないようだ。

 まだまだ言いたいことが山ほどあるという顔は隠さないものの、そこからツルさんが口を挟むことはなかった。

「迷惑だって言ったよな」

「……」

「人の話聞いてた?」

「……」

「無駄だって言ったよな」

「……」

「あんたが何度来たって俺が学校に行くことはないし、この家から出ることもない」

「……」

「わかったら、もう来るな。来ても意味ないから」

 どうして彼はこんな突き放すような言葉で拒否するのだろう。

 私は、ツルさんから杖は歩行が困難で不安になる心を安定させる役割も持っているという話を聞いたとき、不自由な身体で歩くということがどれだけ不安なのか全く考えられていなかったことに気付かされた。

 転ばないように、つまずかないように、人に迷惑をかけないようにと神経を擦り減らしながら歩かなければならないことはどれだけ心が疲れるだろう。人の気持ちを気遣って、気遣いすぎてしまう人ほど疲れてしまうのだろうと思ったら、彼が外に出ることを止めたのも、人の気持ちに敏感で相手を気遣いすぎて疲れてしまうからなのではと思った。

「春一くんはきっと、優しいんですね」とつぶやいた私に、ツルさんと藤野さんは何も言わなかったけど、否定もしなかった。私はそれが二人の答えだと思った。

 この家がどこもかしこも温かくて、気付いたら肩の力が抜けてしまうのは、この家の住人に優しい人しかいないからだと思った。

 そう思ったから、私はまだ見たこともない彼のことが少しだけ好きになったんだ。

 だからもう、そんな言葉で突き放されても、動じたりしない。

「ううん。来るよ」

 あの日は、突然のことに色々驚いて心が弱くなってしまったけど。もう、弱くならない。胸の痛みのせいで他の感覚を奪われたりもしない。

「私は、春一くんが学校に行くって言う日まで、ずっとここに来るよ」

 中途半端な気持ちで関わってやっぱり止めますは、ない。

 何を言われても、嫌な顔をされても、私はここに来るまでの高台を上り続けるって決めたから。

「……ずっと、って……その頃には高校卒業してるかもな」

「それでも来るよ」

「……は?」

「高校を卒業してもまだ春一くんが引き籠っているようなら、卒業した後も私はここに来る」

「……何を根拠に」

 冷めた顔からはどことなく怒りが、呆れた声からは若干の戸惑いを感じる。

 自分でもどこからこの自信が湧いて来るのかはわからないけど、でも私はきっとそうすると思う。

 根拠は、

「これから先、私が私をもって証明する」

 言葉で言っても今の彼には伝わらない。きっと、届かない。

 だったら、行動で伝え続けるしかない。私の姿を見せ続けるしかない。

 それが何よりの根拠だと思う。

「……正気?」

「うん。多分」

「多分って……そこは自信ないのかよ…………――ふっ変なやつ」

「……」

 あ――笑った。

 呆れたような苦笑いだったけど。一文字に結んでいた口元を緩めて、確かに彼が笑った。

 彼の涼し気な目元が少しだけ垂れて、いつもよりずっと幼く見える。

 綺麗な顔は、笑うと可愛くなるんだ……。

 私は多分、ずっとその顔が見たかったんだ。

 諦めないでよかった。やっぱり間違っていなかったって、今、心の底からそう思えた。

 私がじーっと見つめすぎたのか、勢いよく顔を逸らされた。

「あ、私、樋口彩楓。よろしく」

 今さらながら、そういえば自己紹介がまだだったことを思い出した。

 私はそっぽを向いてしまった彼のことなど気にすることなく、淡々と自己紹介をした。

「誰がよろしくするか」

「……」

 ですよね。

 拒否されることなど想定の範囲内だった。

 でも残念だけど私はもう驚いたりもしないし傷ついたりもしない。

 あとは、要所要所で発揮される彼の俺様感に早く慣れよう。だって彼は王子様なのだから。

「坊ちゃんっ!!」

 そこでようやくツルさんが口を開いた。

 さすがにもう我慢の限界だったのだろう。

 小さな肩をぷるぷるさせて今にも彼に掴みかかりそうな勢いだった。

「……」

 なるほど……。

 確かに意固地という感じはしないけど、王子様はちょっと天邪鬼なのだろう。

 事故の影響というよりは、元からの性格のように思えて仕方がないのは私の思い違いだろうか。

 何はともあれ、ようやく白亜の城の天邪鬼王子様と会うことが出来たのだから、第一段階はクリアとした。

 でも、安心はしていない。

 むしろここからが彼と私の闘いの始まりなのだから――