《【拡散希望】この女子誰かわかる?》

《この写真まじやばい。制服だし、うちの学校ってまるわかり》

《えええ、エンコー? 男のほう明らかに鬼センだよな……やべぇ》

《白杜里にラブホテルなんてあったんだ》

《3年A組のY・Aさんに似てると思います》


 リトルタイガーさんがシェアしました

《ショッキングなニュースです! 学校側はきちんと対応してほしいですね》


 シャドウ・ウィスパーさんがシェアしました

《【拡散希望】これって水沢学園の顧問じゃね?》






「ショコラ~良かった。心配したのよ~」

 ぽってりした唇がチャーミングな依頼人は、最愛のペットを抱きしめ、何度も頬ずりした。ああ、美しい光景だ。今回の依頼も無事成功したことの充足感に浸りつつ、依頼人がうら若き女性であることの幸運を、亜門は噛み締めた。

 あの緑色のゴツゴツした表皮に頬ずりして痛くないのだろうかとか、どうしてグリーンイグアナの名前がショコラなのだろうかとか、助手のコジローの調査によるとこの種のイグアナは最大全長百八十センチまで成長するというが、このワンルームマンションで飼い続けられるのだろうかとか、そんなことはどうだっていいのである。

「本当にありがとうございます。探偵さん」

 目に涙を浮かべながら礼をいう彼女に、亜門は「いやいや、なんのこれしき」と革手袋をはめた右手を振った。

 乃万亜門。この街で知る人ぞ知る探偵である。

 色黒で彫の深いエキゾチックな顔立ちに、丸いレンズのサングラス。うねりのある長めの黒髪は襟足で無造作に結んでいる。身長百七十八センチ、引き締まった身体つきは敏捷な黒ヒョウを思わせる。服装はいつも上下揃いの枯草色のスーツ姿だ。

「二日前にこの子がいなくなって今朝になっても帰ってこないから、もう警察に相談に行こうかと思ってたんです。そこへ探偵さんが通りかかって、『何かお困りでは?』なんて、もうすごいタイミング」

「俺は何でもお見通しなのさ」

 サングラスを指でひょいと押し上げ、丸いレンズの隙間から流し目を送る。

「しかも、たった一日で探し出してくれるなんて」

「これでも白杜里一の名探偵で通ってるんでね」

 助手のコジローの調査によると、ここ白杜里市に私立探偵は亜門一人である。

「ま、きみみたいな美人の依頼だから、いっそう熱が入ったせいもあるけど」

 彼女は頬を紅潮させ、ハスキーな声にうっとりと目を細めた。グリーンイグアナのショコラが飼い主の腕からはい出して、床にぼてっと落ちる。

「あの……良かったらまたお会いできませんか?」

「それは仕事の依頼かな? それとも……」

「プライベートです。連絡先、交換しましょ?」

 彼女がスマートフォンを出した途端、亜門の表情が固まった。

「あの……ダメですか?」

「いやいや、ダメじゃない。ダメじゃないけど」

「良かった。じゃあ、これあたしのID」

 ラメパーツでデコレーションされたスマートフォンをずいっと突き出され、亜門はぐっと後ろにのけぞる。突き出す、のけぞる、突き出す、のけぞる――

 美女に詰め寄られるのは嬉しいが、そいつはしまってくれ……!

 そのとき、彼女の背後の液晶テレビに映ったものを見て、亜門は「あっ」と声を上げた。平日午後のワイドショー。ついさっきまで都知事の政治資金不正問題を取り上げていたが、トピックは代わって、あるSNS投稿が紹介されている。

《【拡散希望】進学校の教師が女子高生を買春。少女の運命は》

 体格のいい中年男性が制服姿の女子高生の肩を抱き、派手なネオン看板がきらめくラブホテルの入口へ向かう後ろ姿を捉えた写真。場所は亜門もよく知る、白杜里駅前の繁華街の一角だ。

『こちらのSNS投稿が今、議論を呼んでいます』

 女性キャスターが神妙な面持ちで告げる。

『番組ではプライバシーへの配慮からモザイクをかけていますが、写真の男性は都内の私立高校に勤める教師ということです。学校側はすでにこの問題を把握しており、男性教師本人から話を聞くなどの調査が行われています」

 テレビでは具体的な場所や学校名は伏せているようだ。だが、

「この制服、明らかに水沢学園ですよねー。名門校のお嬢さんがこれはショック~」

 依頼人のいう通り、少女が着ているブレザーもチェックのプリーツスカートもえんじ色の通学鞄も、白杜里市内の有名進学校「私立水沢学園高校」のものだ。

「なんてこった……」

「あたし、このニュース『とりかわ』で見たんですよ! テレビでも話題になるなんてすごーい」

 呆然とする亜門の隣で、依頼人ははしゃいだ声を上げた。

「どういうことだい? 『とりかわ』で見たって」

「探偵さん、知らないんですか?『白杜里かわらばん』ですよぉ」

 亜門とて知らないわけじゃない。

 白杜里かわらばん、通称とりかわ。市内のお店やグルメ、イベント、お出かけスポットなど、ここ白杜里市のローカル情報を発信している地域ブログだ。

「あたし運営者のリトルタイガーのファンで、SNSもフォローしてるんです。いつもいい情報シェアしてくれるんだけど、今回のは本当にビッグニュースですよね~」

 彼女はスマホに『白杜里かわらばん』のページを表示して見せた。

「ほら、これ。人気記事ランキング一位になってる」

 亜門は思わず彼女のスマホをひっつかんだ。持ち慣れないスリムな端末を握る手が、わなわな震えだす。

《白杜里駅前で高校教師が少女を買春

 白杜里駅前の繁華街で、市内の高校に勤める男性教師が制服姿の女子高生をホテルに連れ込むという事件が発生しました。SNSの投稿から写真を紹介します》

「なんてこった、なんてこった……!」

 目をひんむき、先を読もうと画面に人差し指を滑らせる。しかし、革手袋をしたままでは近頃のタッチパネルは反応しない。指が空しくディスプレイを滑るだけだ。

「むむむむむ……」

 亜門の髪の毛がチリチリと逆立ち始めた。一方依頼人はテレビに夢中で、

「わぁ、現場中継までやってる! すごいすごい、白杜里にテレビが来たんだぁ」

 と歓声を上げる。街頭で、写真の女子高生と同じ制服を着た二人の少女がインタビューを受けていた。

『すごく怖い先生で。あたし、スカートが短いって廊下で怒られたことある』

『えー。それって、そういう目で見てたってことじゃない?』

『ちょっと、やめてよー』

 高画質ハイビジョン液晶テレビの映像が、突如乱れた。ノイズが入り、音声が途切れ途切れになる。部屋の蛍光灯はチカチカと点滅し始めた。

「えっ、なに? なんなの……?」

 まるでポルターガイストのような現象に、依頼人は肩をすくめる。

 操作できないスマホにしびれを切らした亜門は右手の革手袋を取り、指先で直にディスプレイに触れた。瞬間、バチッと激しい火花が飛んだ。

「きゃっ」

 依頼人が悲鳴を上げた。亜門ははっと我に返る。するとテレビの異常も蛍光灯の点滅もおさまり、何事もなかったかのように静かになった。

「なんだったの、今の……」

 依頼人が目を白黒させている間に、亜門は画面が真っ暗になった彼女のスマホをそろりとテーブルに置き、

「それじゃ、俺はこれで」と部屋を飛び出した。

「あっ、探偵さん! 依頼料は? まだお金払ってませんよ~」

「今回はサービスしとくよ!」

 振り向きざまにそう告げて、探偵亜門は走ってマンションを後にした。

 グリーンイグアナ探しの報酬を受け取れないのは痛いが、スマートフォンの修理代を請求されるよりましだろう。

 東京のはずれにある白杜里市で唯一の探偵にして、自他ともに認めるデジタル不適応者。アナログ人間、なんて可愛いものじゃない。素手で触れるだけであらゆる機械を破壊すると恐れられる、「クラッシャー亜門」とは彼のことだ。



 亜門が飛んで帰った先は、街はずれにぽつんと佇む古びた倉庫物件だ。一階部分はビルトインガレージになっていて、薄汚れたシャッターには赤いスプレーででかでかと書き殴った「AMON」の文字。周りには血しぶきのような試し噴射の痕がある。

 シャッター横の細長いドアが出入口だ。亜門は革手袋をはずして壁に設置されたパネルに手のひらを押しつけた。生体認証――なんてたいそうなものではなく、これは身体にたまった静電気を逃がすためのアース板である。セルフのガソリンスタンドで、静電気火花による引火事故を防ぐために給油前に触れる、あれと同じ。

 静電気除去の儀式を終えると、亜門は再び革手袋をはめてガレージに入った。

 中にはランボルギーニやフェラーリといったスーパーカーがずらり。ただし二十四分の一サイズのプラモデルである。乗れて走れる自動車は今のところない。

 このガレージが、私立探偵亜門の自宅兼事務所である。無機質なコンクリートの壁、土足で上がるモルタルの床、見上げれば配管がむき出しの天井。オフィスらしさは欠片もないが、秘密基地みたいでかっこいいと、助手のコジローなどは「亜門ベース」と呼んでいる。彼は何にでも名前を付けたがるのだ。

「コジロー!」

 亜門はガレージの最奥にあるデスクにまっすぐ向かった。どっしりした木製の作業机の上は、ペン一本消しゴム一つに至るまできちんと整頓されている。中央にはシルバーカラーのノートパソコン。その前に一人の少年が座っている。

 さらさらした髪に白い襟付きシャツが似合う、華奢な身体つきの少年。彼は亜門の弟子を名乗ってここに入り浸っているが、まだ十六歳の高校生だ。

「お帰りなさい、亜門さん。ずいぶん苛立ってますね」

「なぜそう思う」

「入り口の静電気除去パッドにメーターを取り付けて、帰宅時の亜門さんの身体にたまっていた静電気を計測してみたんです。今日の帯電電荷量はこの一週間で最高値を記録しました」

 亜門が発生する電気は、亜門の感情が高ぶれば高ぶるほど強くなるのである。

「今、専用のモニタリングアプリも開発中です。データを蓄積すれば、その日の帯電具合で亜門さんの感情や健康状態がわかるようになりますよ。名付けて『サンダーレーダー』」

「それじゃお天気アプリみたいだ」

 コジローのネーミングセンスはどこかずれている。

「じゃあ、『今日の亜門さん』」

「お料理番組っぽくていまいち。それに電気の要素が入ってない」

「『亜門さんは今日も放電する』」

「新しいラノベのタイトルか? だいたいそんなアプリを作ったところで、俺には扱えない。というかコジロー、今はそれどころじゃない!」

 亜門が語気を強めたとき、小さな電子音が鳴り出した。コジローがズボンのポケットからスマートフォンを出し、アラームを止める。そして椅子から立ち上がると、どういうわけかスクワットを始めた。

「『カントくん』の新機能です。運動不足は健康に悪いし脳活動も低下するので、一時間座りっぱなしでいると立ち上がるようアラームが鳴り、ついでに適度なエクササイズも提案してくれます。今回はスクワット二十回×二セット」

 コジローはパソコンに夢中になると寝食を忘れたり、学校に行くのを忘れたり、挙句の果てには衰弱して倒れたりしたことが一度や二度ではない。そこで、オリジナルの自己管理アプリを作って健康で文化的な生活リズムを維持しているのだ。

「……名前の由来は哲学者だったか」

 哲学者カント。彼は非常に規則正しい生活を送ったことで有名で、周囲の人はカントの行動を見て時計の針を合わせたそうな。

「そうです。それと『監督する』をかけて『カントくん』」

 ちなみに亜門は生活が乱れたら乱れたで気にしないタチだから、コンピュータプログラムで自分を二十四時間管理しようという人間の気が知れない。

 コジローがせっせと自作するアプリの仕組みから機能、必要性、ネーミングに至るまで、亜門には全く理解不能だ。

 だが欠点や不一致があるのはお互い様。コジローは常日頃、デジタル不適応者の亜門のために、歩く人型スマホのごとく尽くしてくれる実に便利で有能な助手である。

「ところで依頼のほうは? 迷子のグリーンイグアナは見つかりましたか?」

「あぁ、見つかった。おまえの言った通り、五丁目の公園付近を探して、ショコラの好物のリンゴで誘い出したらすぐかかったよ」

 実をいうと、迷子のグリーンイグアナ捜索という今回の依頼を得たのも、それをすみやかに解決できたのもコジローのおかげだ。彼はSNSにも実に精通していて、自作の分析アプリを駆使し、この街の人々のSNSをチェックしている。そして探偵業の依頼につながりそうな情報を見つけると、さもそれが助手である自分の責務と言わんばかりに、亜門に報告してくるのである。

 ――亜門さん。中町地区に迷子のイグアナを探している人がいますよ

 という具合に。

《ショコラがいなくなっちゃった、どうしよう……三歳のグリーンイグアナです》

 この投稿が、今回のイグアナ捜索依頼のネタ元だ。投稿者は〝みぽりん〟。

 ――自称二十六歳の女性。ベランダから総合病院の看板が見えるマンションの五階に一人暮らし。髪はセミロングで、先週美容院でブラウンに染め直したそうです

 コジローが収集したそれらの情報をもとに亜門は彼女を見つけ出し、「お困りですか、お嬢さん」と探偵の押し売り、もとい救いの手を差し伸べたというわけだ。

《子どもと公園に行ったら『草むらに怪獣がいた!』だって。トカゲか何かかな》

 という市内在住ママさんユーザーの目撃証言までコジローがSNSから拾いあげてくれたから、亜門は聞き込みのために街を練り歩く必要さえなかった。ショコラの好物がリンゴだというのも、飼い主の〝みぽりん〟がSNSで呟いていた情報だ。

 そして探偵亜門はすみやかに解決し、今に至る。

「次はどうします? 今めぼしいところでは、六丁目のお宅にスズメバチが――」

 スクワットを終え、さっそくパソコンに向かおうとする若き助手を、

「コジローよ」と、亜門は呼び止めた。

「あの件はどうした? 水沢学園の男性教師が女子生徒を買春したとかいう、あれだ。確か三日前に、SNSで見つけたって言ってだろ――」

「それならもう学校中で大騒ぎですよ。今日なんて朝から生徒たちはその話題で持ちきりだし、先生たちも職員会議やらPTAへの対応やらでパニック状態でした」

 コジローの通う学校こそ、市内きっての進学校、私立水沢学園高校である。

「さっきテレビでもやってた。お昼のワイドショーで現場中継までしてたぞ」

「はい。おかげでさっきから、ネットの検索エンジンで白杜里市の検索数が急上昇してます。やっぱりテレビの影響力ってすごいですね」

「感心してる場合か! 一大事だぞ、これは」

 声を荒らげる亜門を見て、コジローはきょとんとした。それからちょっと不満げに、

「ええ。だから僕、真っ先に亜門さんにお見せしたじゃないですか。なのに亜門さんは投稿をちらっと見ただけで、『あほらしい、こんなもの放っておけ』って……教師が生徒をホテルに連れ込んだなんて、こんな大事件めったにないと思ったのに」

 違う、違うと、亜門は首を左右に振った。

「俺が言いたいのは、あの画像がインチキだってことだ! あんなインチキ写真が出回って、みんなして買春だなんだと大騒ぎしてるのが問題なんだ!」

 インチキ――? コジローは目をぱちくりとさせた。

「あの写真をよく見てみろ」

 言われて、スマートフォンにSNSで拡散中の買春疑惑投稿を表示する。

《【拡散希望】進学校の教師が女子高生を買春。少女の運命は》

 学校一の鬼教師が、制服姿の女子生徒と二人でラブホテルへ向かう瞬間を捉えたという、あの衝撃の一枚だ。

「背景からして、このホテルは白杜里駅東側の繁華街にある『ホテルドリームしらとり』。そしてこっちは、俺が一年前にとある浮気調査の際に同じ場所で撮影した写真だ」

 亜門は棚のファイルから一枚のプリント写真を出して、コジローに差し出した。そこには腕を組んでラブホテルに入っていく大人の男女が写っている。写真の隅には一年前の日付が入っていた。

「わぁ、浮気現場の証拠写真ですか。本物の探偵みたいですね!」

「俺は本物の探偵だ。あいにくこの街は平和すぎて、普段俺が実力を発揮する依頼が少ないだけだ」

 不服そうに言ってから、亜門はゴホンと咳払いした。

「それより、例の買春疑惑写真と見比べてみろ。ホテルの入口、右側の柱の部分だ」

 プリント写真をよく見ると、柱の下のほうに小さな相合傘が落書きしてあった。だが、買春疑惑の画像にはそれがない。

「その柱には少なくとも一年前からその落書きがあったはずなんだ。俺はさっき現場へ行って確かめてきたが、今もそのまま残っていた」

「でもそれだけじゃ、インチキ写真とは言えないんじゃありませんか? この先生が女の子をホテルに連れ込んだ写真は一年以上前、その相合傘が描かれる前に撮られたもので、それを今になってSNSに流したという可能性も……」

「いや、その女子高生の鞄に入っているペットボトルを見ろ」

 彼女のえんじ色の通学鞄には、ファスナーを数センチ開けた隙間に、飲みかけの五百ミリサイズのペットボトルが挿し込んであった。

「そのラベル部分がくびれたボトルは、今月発売されたばかりの新商品だ。近所のコンビニの親父が、えらくセクシーな緑茶が出たと見せびらかしていたから間違いない。つまりその写真は、人物と背景の撮影時期が一年近くもずれていることになる」

 合成……?

 コジローは言葉を失くして、SNSの画像を凝視した。目立った継ぎ目や加工の痕跡はないが、画像処理ソフトと少しの技術があればこの程度の合成は難しくない。

「亜門さんは一目でこれが合成写真だと見抜いていたんですか? 三日前、僕がスマホで画像を見せた瞬間に」

「当然だ」

「どうしてすぐに教えてくれなかったんですか インチキだとわかっていたら僕だって……」

 素早い処理能力と快適な動作性がウリのコジローがフリーズした。

「僕だって――なんだ?」亜門の目がサングラスの奥でギラリと光る。

「この投稿がこれほどの事態になると予測できなかったことは俺も迂闊だった。だが、どうしてこうも急速に広まったんだろうなぁ、コジロー。いや、リトルタイガー」

「…………」

 地元で人気のご当地情報ブログ『白杜里かわらばん』の運営者リトルタイガー。その正体は何をかくそう、このコジローだ。中学生の頃に立ち上げ、ネタ集め、記事作成、SNS発信まで全て一人でこなしている。今や十代の中高生から上は八十代のおばあちゃんまで、幅広い白杜里市民に支持されている人気ブロガー。

 それが今、口をあんぐり開けて固まっている。

「白状しろ」

「あ、はい……お、一昨日、この買春疑惑ニュースをブログで記事にしました。元ネタのSNS投稿は、リトルタイガーのアカウントでシェア済みです。あ、シェアっていうのは、みんなに見せたいと思った投稿を転載して自分のフォロワーに教えることで、効率的な情報共有を可能にするSNS特有の機能なわけですが――早い話が拡散……です」

 少しずつ後ずさっていくコジローの細い手首を、亜門がつかんだ。

「おまえという奴はぁ!」

 雄叫びと共に、コジローを重量挙げのバーベルの如く担ぎ上げた。平和な町の探偵には日々の鍛錬にかける時間はたっぷりとあり、亜門の肉体は外見以上に筋肉質だ。

「おまえのブログはいつからフェイクニュースサイトになったんだ! こんなインチキひとつ見抜けない上、嘘か本当か確かめもせず他人に言いふらすような助手はいらん。今日限りでクビだ!」

 バチバチと電気がスパークし始めた。亜門の感情が高ぶるほど、その激しさは増していく。革手袋のおかげでコジローへの直接感電は免れているが、二人の髪は逆立ち、液晶画面の映像は乱れ、蛍光灯は点滅を始めた。

「興奮しないでください、亜門さん! 僕のPCが! スマホが! ここにある電機系統、全部ダウンしてしまいます!」

「心配するな。おまえごと全部まとめて粗大ごみに出してやる!」

「すみません! ごめんなさい! 僕が悪かったです! 責任取りますから!」

 そう叫んだ瞬間、コジローはすとんと床に下ろされた。

「本当だな? 責任を取るんだな」

 眼光鋭い真っ黒な瞳で射すくめられて、コジローはごくりと喉を鳴らす。

「はい」

「拡散しただけだから自分は悪くない、なんていう気はないんだな」

「はい」

 コジローは頷いた。拡散中の投稿の画像はねつ造だった。もしもこの買春疑惑が事実無根だったら、悪質な嘘に大衆が惑わされて、一人の罪のない高校教師が社会的立場を追われることになってしまう。

「ならまず、すぐにブログから記事を取り下げろ。代わりに『ただいま調査中』の看板でも出しておけ」

 コジローはデスクのノートパソコンに飛びつき、ブログの管理ページにログインした。言われた通りに作業を終えると、亜門が問う。

「おまえのブログ、どのくらいの人間が見ているんだ?」

「えっと、PVでいうと――」

「プロモーションビデオ?」

「ページビュー。ウェブサイトの閲覧数のことです。一日の平均PVが約一万。読者数でいうと、市内の五人に一人が『白杜里かわらばん』を見ている計算です」

「SNSのほうは?」

「十代二十代を中心に、フォロワーが五千人ほど」

 亜門は眉間に皺を寄せ、ため息をついた。

「正直ピンとこないが、おまえは並の人間より大きな発信力を持っている。それだけ誤報を出したときの影響がでかい。早いとこ真相を確かめないとな」

 亜門は早々と戸口へ向かう。一方コジローは俯いて突っ立ったままだ。急にのしかかってきた責任の重さに、今にもつぶされそうな顔をしている。

「何ぼーっとしてる、さっさと行くぞ」

「えっ、どこに? 僕もですか?」

「さっき責任を取るって言っただろ。部屋にこもっていても真実はわからない」

「でででも僕はその、あまり人とうまくしゃべ、喋れませんし、リ、リアル社会でお役に立てるかどうか……」

 急に壊れたロボットみたいになるコジロー。ついさっきクビを宣告された手前、その声は寄るべない。おろおろと動けずにいる彼に、亜門は言った。

「俺は一人じゃスマホさえ使えないデジタル不適応者なんでな。この事件を調査するには、おまえの力が必要なんだ」

 コジローの頬がパッと紅潮する。

「今行きます!」といいながら、愛用のシルバーカラーのノートパソコンを手に取り、

「捨てられなくて良かったなぁ。ギンタロー」

 と大事そうに撫でると、耐衝撃性・防水性そして耐静電気性に優れたトランク型ケースに入れ、亜門の後を追いかけた。


 二人は私立水沢学園高校へ向かった。亜門ベースの最寄駅から学校までは、各駅停車で三駅先だ。駅に着くと、ちょうどあと一分で電車が来るところだった。

 コジローはIC定期券ですばやく改札をくぐりぬける。続いて亜門がボタン式の券売機で買った切符を入れ、改札を通り抜けようとした瞬間、バタムと黄色いゲートが閉じた。亜門の進行を阻止した自動改札機は、勝ち誇ったようにブザーを鳴らし出す。

「どうしました?」

 飛んできた駅員は、立ち往生している亜門を見るなり、あぁ、またあなたですかという顔をした。改札機が吐き出した切符を確認して、首を傾げる。

「どうして毎度毎度ひっかかるんでしょうねぇ」

「これだから電車は嫌なんだ」

 亜門は駅員の手から切符を抜き取り、黄色いゲートをひらりと飛び越えてホームへ駆け込み、ちょうど入ってきた電車にコジローと共に乗り込んだ。

「亜門さん、改札機にまで嫌われるんですね」

「なんでもかんでもハイテク化しおってからに。デジタル不適応者は生きづらくなる一方だ」

 数年前、亜門は謎の静電気体質を発症した。以来、街ではあちこちで電子機器を誤作動させるわ、自宅の家電は寿命が短いわで、極力機械に触れないように生きてきた。パソコンもスマホも持っていないから、IT方面の感覚は世間より数年遅れている。

「コジロー。おまえ、SNSでは普段どんなことを発信してるんだ?」

「一番はブログ更新のお知らせです。あとは僕自身が街で見つけた小ネタを呟くこともありますし、市内のユーザーさんの面白い投稿をシェアすることもあります」

 そういえば以前、街で女子高生が「小テストの珍解答をSNSで投稿したら、リトルタイガーにシェアされたんだ」と得意げに話していたことがあった。白杜里の若者にとってリトルタイガーに拡散されることは、もはや一種のステータスらしい。

「僕がいつもSNSをチェックしてるのは、面白ネタを探したり、白杜里のユーザーの興味関心やニーズを知るためでもあるんです。ブログをアクセス解析したところ、若い読者さんほどSNSからの流入が圧倒的に多くて――」

 とめどなく喋り始めたコジローの頭を、亜門は軽く小突いた。

「そうやって気軽にシェアしたりウケを狙ったりしてるうちに感覚がマヒして、あんなインチキ情報までシェアしちまったんじゃないのか」

 コジローはしゅんと黙り込んだ。亜門は小さくため息をついてから、

「へい、コジロー」

 と呼びかけた。コジローはぴくんと反応し、スマートフォンをスタンバイする。

「あの買春疑惑のSNS投稿を出してくれ」

「はい、亜門さん」すぐさまコジローはスマホを操作し、

「これです。ユーザー名は〝ホワイティ〟。この投稿のシェア数は三万を超えてます」

《【拡散希望】進学校の教師が女子高生を買春。少女の運命は》

「この投稿が騒ぎの発端なのか? このねつ造写真付きの買春疑惑ニュースを最初にSNSに流したのが、このホワイティ?」

「今となっては勝手に写真だけ使い回されたり、インターネットの掲示板に出回ったりもしているので拡散経路は無数にありますが、タイミング的にはこの投稿が最初です。テレビで取り上げられたせいもあって、どんどん拡散し続けています」

「そのホワイティとやらがどこの誰なのかはわからないのか」

「投稿数が多い人やほかのユーザーとよくやりとりしてる人なら、発言内容や写真から学校や職業、年齢、居住地なんかを割り出しやすいんですが、このホワイティというのはたぶん裏アカなので」

「裏アカ?」

「裏アカウント。メインで使うアカウントのほかに、こっそり持っている予備のアカウントみたいなものです。例えば閲覧用、趣味用みたいに使い分けたり、裏アカではひたすらグチを呟く人もいますね」

 コジローはホワイティのSNSページにアクセスした。これまでの投稿が時系列に並んでいて、一番上が絶賛拡散中の買春疑惑投稿だ。

「ホワイティさんは、これまでいくつか他人の投稿やネット記事をシェアしてる程度で、自分からはほとんど投稿してません。普段は閲覧用として使っているか、あるいは今回の買春疑惑投稿のために作った捨てアカウントという可能性もありそうです」

「これ、投稿の下には何が書いてあるんだ?」

 亜門が画面に人差し指を伸ばした瞬間、コジローはパッとスマホを胸に抱き寄せた。

「あっ、触らないでください。操作なら僕がしますから」

「人をチカンみたいにいうな。ちゃんと革手袋してるから、壊しゃしないよ」

 とはいえ、手袋のままではスマホのタッチ操作はできない。

「投稿の下には、ほかのユーザーからのコメントが表示されているんです」

 亜門には触らせず、コジローが画面をスクロールする。

《教師が女子高生を買春とか世の中どうかしてるよな》

《あなたはこれを黙って見ていたんですか》

《女子高生なんで後ろ姿なんだよ、顔見せろよ顔》

「ご覧のとおり、それはもう色んな角度からのコメントが寄せられてるわけなんですが、それらに対するホワイティさんからのリアクションは今のところ一切ありません」

「インチキ写真を流すだけ流して、あとは高みの見物ってわけか」

 亜門が皮肉っぽく呟いたとき、電車は目的の駅に到着した。


 しらとり西口(水沢学園前)駅から歩いて五分。亜門とコジローは私立水沢学園高校の前に立った。校舎には「祝! アメフト部都大会優勝」の垂れ幕がかかっていた。水沢学園は勉強だけでなくスポーツにも力を入れている――はずなのだが、

「なんだ、グラウンドは閑散としてるじゃないか」

 亜門はサングラスをちょっとずらして、フェンス越しにグラウンドを見回した。

「今日は部活動が全面禁止になって、生徒は放課後すぐ下校させられたんです」

 慣れた足取りで校舎に向かいつつ、コジローは周囲をはばかって声を潜める。

「理由は聞かされてませんけど、買春騒ぎが影響してるのは間違いないですね」

「アメフト部も練習していないのか」

「そりゃそうですよ。顧問の鬼丸先生が大変なことになってるんですから、練習どころじゃないでしょう」

 鬼丸忠義教諭。男子体育担当でアメリカンフットボール部の顧問でもある。彼が数年前に市内の公立高校から引き抜かれてから、アメフト部は大躍進を遂げた。

「この春は都大会で優勝、続く関東大会も連勝中か。たいした名指導者だな」

「ワンマンとか鬼監督という声も多いですけどね」ぼそりとコジローは言った。

 今、鬼丸先生は新たなあだ名で呼ばれつつある。買春教師――と。

「コジロー。職員会議が行われているとしたら、場所はどこだ?」

「二階の大会議室だと思います。この校舎本館の一番奥です」

 そのとき、本館へ向かう渡り廊下のほうから話し声が聞こえてきた。

「まずいですよ、亜門さん。隠れましょう」

 コジローは慌てて亜門の背中を押し、物陰に身を潜めた。

「なんだ、おまえ。教師に叱られるようなことでもしたのか」

「違いますよ。亜門さんは部外者ですから、見つかると面倒なことになります」

 渡り廊下を二人の男性教師が歩いてくる。亜門とコジローは耳をそば立てた。

「なんだったんですかね、今の職員会議。鬼丸先生はだんまりで、肝心なことは何もわかりゃしない。あれじゃ気まずいばっかりで、対策の練りようもないですよ」

「まぁ、教職員全員の前で詰問されたら、そりゃあ話しにくいだろうよ。あとは校長と教頭にお任せして、我々は我々にできることを考えよう」

「保護者対応に教育委員会への報告……先を考えるだけで泣きたくなりますよ」

 若い教師の溜息を最後に、二人は別館へと消えていった。

「会議はもう終わっちまったらしいな。せっかく電車賃払って急いできてやったのに」

 亜門はちっと舌打ちした。たとえ間に合ったとしても、部外者である彼が職員会議に出席できるわけでもあるまいに。

「それより亜門さん、あの買春疑惑の写真はねつ造のはずですよね。どうして鬼丸先生は、はっきり事実無根だと主張しなかったんでしょう。もしかしてあの写真自体はねつ造でも、鬼丸先生にとって何かやましいことがあるんじゃ……って、聞いてます?」

 亜門はコジローのほうを見向きもせず、黒い瞳は四階建ての校舎を見上げていた。

「なぁ、コジロー。校長室ってのはどこだ?」

「どこって、この本館二階の……」

 コジローが見上げて指を指したとき、二階の一室が明るく灯った。

「あ、ちょうど今電気が点いた場所です」

 それを聞くなり、亜門は闇夜を駆ける怪盗のごとく壁すれすれを走り、校舎脇の木をよじ登り始めた。コジローが呆気にとられている間に二階の窓の高さまで到達し、

「人が来ないか見張っててくれ」

 地上五メートルから、声を殺してそう告げた。

 生い茂る葉に身を隠しながら窓に身を寄せ、室内の様子を窺う。校長室には背広姿の年配の男性が二人と、半袖ポロシャツを着た四十歳前後の男性が応接テーブルを挟んで座っていた。校長と教頭、そして鬼丸忠義教諭である。

 晴天の午後。風を入れるためだろう、窓は半分ほど開いていた。

「もう一度訊きますよ、鬼丸先生」

 教頭と思しき眼鏡をかけた背広の男性が切り出した。

「女子生徒とホテルに入ったというのは事実ですか?」

「そのような事実はありません」

 鬼丸忠義は、きっぱりと答えた。両膝の上で拳を握り、目を閉じて微動だにしない。

「では、なぜあのような写真が撮られたんです? あれはいつ撮影されたもので、一緒に写っている女子生徒は誰なんですか」

「それは申し上げられません」

「いい加減にしたまえ!」

 怒り心頭に達した教頭は、拳でテーブルを叩いた。

「買春行為だと騒がれているんですよ! あんな写真が公になった以上、やってません、はいそうですか、ではすまされない。保護者にも教育委員会にも、納得のいく説明をする必要がある。そのためには事実関係を全て話してもらわねばならんのだ!」

「私は買春はもちろん、未成年に対する不適切な行為は一切しておりません」

「では、夜間に繁華街で写真の女子生徒と会ったいきさつは?」

「……」

「彼女の名前を言えないのは、証言されるとまずいことでもあるからかね」

「……」

「鬼丸先生!」

 教頭が再び声を荒らげた。瞬間、鬼丸が勢いよくその場に立ち上がる。巨大な岩が突如地面から突き出したかのような迫力に、教頭はびくりと身をすくめた。

「なぜあのような写真が出回っているのかは私にもわかりません。ですが私は未成年と不適切な関係を持ったことなど一切ない。私から申し上げるのはそれだけです」

 鬼丸は太い眉をきりりとあげ、眉間に力をこめて教頭と校長を見据えた。教頭は気圧されたように椅子に座り込み、ため息とも苦悶ともつかない息を吐いて頭を抱える。

「一度落ち着こう、二人とも」

 これまで黙って聞いていた校長が、厳かに口を開いた。

「鬼丸先生。きみが詳しい説明を放棄するなら、学校としては辛い決断をせねばなりません」

 二人の教師は神妙な面持ちで校長の言葉を待ち、亜門も窓の外で耳をそばだてた。

「――いいですね。時間はあまりありませんが、よく考えてください。私はあなたが真実を話してくれることを願います」

 鬼丸は口を堅く引き結んだままだ。沈黙に耐えかねた教頭が咳払いする。

「とにかく、騒ぎが収まるまで鬼丸先生は自宅謹慎。人前に出ず、誰にも何も言わず、くれぐれもマスコミには注意を怠らないように」


 帰りの電車はコジロー一人で乗っていた。亜門はというと、鬼丸先生の自宅をつき止めておきたいといって、学校から帰宅する鬼丸を尾行中だ。

「亜門さん、途中で車にはねられたり人をはね飛ばしたりしてなきゃいいけど」

 ワゴン車の鬼丸先生を、彼は自転車で追いかけている。部室棟の脇に停めてあった陸上部マネージャーのママチャリを拝借し、近くに落ちていたゼムクリップで五秒とかけずに鍵を開け、彼には低すぎるサドルにまたがって――

「あとでちゃんと返しておくから心配するな」「そういう問題じゃないですよ」

 制止もむなしく、亜門は本気の立ちこぎであっという間に走っていってしまった。

 残されたコジローは、仕方なく一人帰路についたというわけである。電車を降り、自宅まで十分ほどの道のりを歩いている内に、辺りはすっかり暗くなってきた。

「ただいま」

 白杜里市が都心のベッドタウンとして人口流入に力を入れていた頃に建てられた、ファミリー世帯向けの二十五階建てマンション。その最上階に、コジローこと千秋虎次郎は住んでいる。十歳の妹と、お手伝いの小百合さんと三人で。

「お帰り、お兄ちゃん」

 妹のすずは、コジローの声を聞きつけると玄関まで飛んできた。手に布巾を持っているのを見ると、台所仕事を手伝っていたのだろう。

「お帰りなさい。ちょうど晩ごはんの支度ができたところですよ」

 エプロン姿の小百合さんも顔を出す。彼女はコジローが赤ちゃんの頃から千秋家の家政婦として働いていて、コジローとすずがわけあって実家を離れてこのマンションで暮らすようになってからは、住み込みで二人の面倒を見てくれている。

「ごめん、小百合さん。食事は後でいいよ。すぐやってしまいたい宿題があるんだ」

 えー、とがっかりした声を上げたのはすずである。

「そうだ、お兄ちゃん。今日は学童保育のお手伝いに行ってね、わたし紙芝居を――」

「うん。また明日聞くから」

 妹の頭に軽く手をやって、コジローは自室へ向かった。手のひらに、緩くウェーブした柔らかい髪の感触。直毛のコジローと違って、すずは母親似だ。

「あ、ぼっちゃん」小百合が追いかけてきて、小声で告げる。

「学校の先生が不祥事とか何かで騒がれてるんですって? それでさっきお電話が」

「と、とと父さん? あの、な、何か言ってきたの?」

 途端、言葉がつっかえた。昔からこうなのだ。コジローは緊張したり慌てたりすると口からスムーズに言葉が出てこなくて、幼い頃は全く人と話せなかった。

「いいえ、学校からの連絡網です。だんなさまからは何も……」

 その言葉に、ぎゅっと握った拳がほどける。コジローは小さく深呼吸した。

「明日、午後から学校で保護者向けの説明会を開くそうですが、どうしましょうね。わたしでよければ行ってきましょうか」

「いいよいいよ。明日は土曜ですずは休みだし、小百合さんは家にいてやって」

 頷いた小百合がリビングへ戻ってから、コジローは自室に入ってドアを閉めた。

 母は六年前に旅先の事故で亡くなった。妹にはそう伝えてある。

 本当は行方不明だ。六年前のある日、母が若い男にたぶらかされて勤務先の重要機密を外部に漏えいしたという噂が流れた。不倫と情報漏えい、二つの疑惑をかけられた母は誹謗中傷にさらされ、同じ会社の重役という立場にあった父は母のことを見放した。職場でも家でも蔑まれ、孤立し、居場所を失って……母はある日忽然と姿を消した。「男と逃げたに違いない」周りの大人たちは飽きもせず非難し、父は母を探そうともしなかった。

 コジローにできることは、母の無実を信じることと、当時四歳の妹を薄汚れた大人たちから遠ざけ、せめて彼女の記憶にある優しく温かい母の姿を守ることだけだった。

 濡れ衣を着せられ、不名誉な噂をでっちあげられ、母は社会的に抹殺された。

 悪意ある噂や偽りが人の人生をむちゃくちゃにしうることを、コジローは知っていたはずだった。それなのに――

 自分も同じじゃないか。SNSの情報を安易に信じ、鬼丸先生の買春疑惑を拡散した。先生を悪者と決めつけ、プライバシーも考えずにブログで書き立てるなんて。

 コジローはベッドに突っ伏し、枕に顔を押しつけた。

 白杜里かわらばんは、こんなことのために始めたわけじゃなかった。

 リトルタイガー。母が呼んでくれた、母だけが知ってる虎次郎のあだ名。

 今は小さくても、いつか強い虎になる。大切な人を守れる強い虎に。

 いじけている場合じゃない。

 コジローは起き上がって机に向かい、パソコンを起動した。スマートフォンでは自作アプリのカントくんが食事の時間を告げているが、無視してアラームだけ止める。

 真実を明らかにするために、自分にできることがあるはずだ。

 悪意ある噂で誰かが傷つくのはまっぴらだ。