逆転ホームランの数式 転落の元エリートと弱小野球部が起こす奇跡 | メディアワークス文庫 1PAGE

プロローグ


 澄んだ晩秋の青空に、雀の群れが気持ち良さそうに泳いでいた。

 槇坂俊樹はそれをどこか遠い世界を覗くように見上げ、握ったロジンバッグをマウンドに軽く叩き付ける。すると白い粉が煙のように舞い、風に吹かれて流れていった。

 十一月の末。今日が今年最後の対外試合。

 俊樹は空へ溶けるように消えていく部員たちのかけ声を聞きながら、グラブの中にある白球の感触を確かめた。そしてシームの位置を確認すると、そこに人さし指と中指を添える。指の腹に硬い縫い目が食い込んだ。

 スカウトに記者、スポーツ用品メーカーの営業。OB会、父母会、ファン、生徒。スタンドに並ぶ様々な目に、俊樹の心は引き締まる。――無様な姿は晒せない。

 今年の横道学院は地区の秋季大会で、まさかの早期敗退。

 三年が引退してレギュラーが再編成された直後だった。しかしその船出は順調ではなく練習試合でも敗戦を経験しており、新しい二年生エースは早くも監督の鈴堂によって、その座から引きずり下ろされた。

 復調を待たない酷薄な降格。周りからはそう見えるかもしれない。しかし横学でこれは見慣れた光景。そして二番手扱いの俊樹にとっては、巡ってきたまたとないチャンスだった。

 来月からはアウトオブシーズン規定のため、対外試合が禁止される。他校相手にアピールできるチャンスは、俊樹にとってここを最後に当分ない。そして野球の強豪、横道学院において、それが再び巡ってくる保証もなかった。

 ――この試合で人生変わるかも。

 俊樹は額の汗を腕で拭うと、素早くベンチを一瞥した。

 鈴堂は前の席で足を組み、値踏みするようにじっとこちらを見つめている。

 期待に応えてくださいよ。その目が意するのはそんなところだろう。

 内心で舌打ちをして、俊樹は目を前に戻した。ねっとりと絡む視線は、まだ自分の背中にへばりついていて感触が離れない。

 痩躯で背も低く、額の両端も禿げ上がった鈴堂。見た目はただの中年だ。

 しかしユニフォームに袖を通したその姿は静かだが威圧的で、小さな巨人と呼ぶに相応しい独特の迫力を漂わせる。いや、彼の強権的な采配と姿勢が、俊樹たち部員全員の深層心理のまだ奥までそれを刷り込んでいるのだろう。

 中でも感情の読み取れない、は虫類のようなあの眼差しが俊樹は苦手だ。嫌悪感さえ抱くが、しかしその目が過去、横道学院を甲子園に導いたのは事実。それは俊樹たちが生きる世界において軍を率いる英雄と同じに彼を見せ、他のあらゆる感情や人間関係に優先させた。多くの部員にとっても同じ思いだろう。

 勝負に徹する酷薄な采配、管理、部内競争。

 威厳と権力を目に見える形で部員の前に置き、強圧的に従わせる。そこに世間が思い描く高校野球の青春はない。勝負に徹した王様とその下僕がいるだけ。軍隊のようなそれが横学野球だ。

 そして一年の中でそれに勝ち抜き、俊樹はようやくいまの座を掴んだ。厳しい練習にも耐えた。先輩のしごきや雑用、上下関係の厳しさは他の強豪校ほどではなかったが、その代わりに峻烈を極めた競争がここにある。ここで好投すれば名実ともに横学のエースだ。

 しかしそれもいつか失敗する日まで。俊樹がミスれば他の部員にお鉢が回る。

 今日もその犠牲者が一人出た。二度エラーをしたサード。彼は次のイニングから控えと入れ替えられた。チャンスが巡って来るまで一回休みだ。

 どうしてですか? エラーは付いたけど、どちらもバウンドがイレギュラーでした。

 交代になった彼は目でそう言っていた。しかし抗議はできない。どの野球部でもそうだろうが、ウチは特別だ。それを口にした時点で以後のチャンスは潰えたと同義となる。――ま、明日は我が身だ。

 弱気に霞む心を引き締め、俊樹は捕手からのサインを注視する。

 キャッチャーは四番の田伏さん。ニキビを潰した赤い跡が目立つ、デカい体の二年生。サインは低めに逃げるカーブ。しかし……。

 ――なんで俺にそんな球投げさせんだよ。

 心の中で舌を鳴らし、俊樹は首を横に振る。俺のウリ、分かってんでしょ? 表情にはそう気持ちを込めた。キャッチャーに首を振るとき、俊樹は気持ちが昂ぶり近視眼的になる。他のなにも目に入らなくなり、それ故にキャッチャーからは睨んでいるように見えるらしい。

 だからか田伏さんは少し顔をしかめたあと、サインを修正。高めのストレート。

 それでいい。俊樹は頷くと、セットポジションを取る。

 そして足を上げステップを踏むと、縫い目に引っ掛けた指を真っ直ぐに立て、そこから思い切り右腕をしならせた。


 試合が終わってベンチの隅を借り、マネージャーからアイシング用のサポーターを巻かれていると、俊樹は待ちかまえていた小太りの中年に声をかけられた。

 グラウンドによく出入りしている『高校ベスボ!』の雑誌記者。指示を求めるように鈴堂を瞥すると、「許可はもらっているから」と、男は作り笑いを顔に貼り付け、ICレコーダーをバッグから取り出した。

「録音、いいかな」

 答えを待たず彼はスイッチをオンにする。こちらの拒否権は考えられておらず、鈴堂のお墨付きはここでも強い。頑張ってお土産を貢いだご褒美ってところだろう。

「……分かりました。でもこのあとミーティングあるので」

 俊樹は答え、マネージャーに腕を差し出したまま、男の方へ姿勢を向ける。

 突然の雑誌取材に戸惑いもあったが、しかしそれはインタビューと呼べるほど形式張ったものではなく、ただ強豪私立高校に誕生した新たな一年生エースの、その性格を窺うようなものだった。

 振られる話は完封した感想や、今日のデキ。味方のエラーでランナーが溜まったときの気持ちなど、通り一遍のもの。しかしその中の質問に含まれた、

「両親へはいま、気持ちをどう伝えたい?」

 というものに、俊樹は瞬時に答えを返せないでいた。

 意図は分かる。

 自分がこの立場になるまで、母も相当な苦労があった。それを雑誌ウケする美談で掲載したいのだろうが、俊樹にとって考えざるを得ない質問である。スルーしたいが、無視はできない。噂では記者への質疑応答も鈴堂の査定に含まれる。

「……野球を続けさせてくれた母へ感謝しています」

 いずれ注目を浴びる立場だ。嘘を答えるわけにもいかず俊樹はそう答えるが、しかし記者は更なるネタの匂いを逃さない。目の奥に光を灯ったとき、「君」と、タイミング良く端の席から、鈴堂が記者に独特の冷たい声をかけた。

「そろそろ彼を解放してくれませんか。これから投手ミーティングがありましてね」

「あ、は、はい」

 記者は背筋を伸ばすと、鈴堂へ詫びるように頭を下げる。そして俊樹へは目礼だけを寄越し、そそくさと次は田伏さんの方へ足を向けた。鈴堂に限って自分を助ける意図はなかったろうが、ただ今回は救われた。

 俊樹は細波が立った感情を鎮めてから脱いでいた袖を直し、バッグを担ぐ。そしてふうと太い息を落として立ち上がった。

 危ないところだ。下手をしたら鈴堂の不興を買っていた。

 あのままだと記者は俊樹が触れなかった父親に関し、描くシナリオに沿った質問をぶつけてきただろう。そしてお涙頂戴な回答を期待したに違いない。

 だが、それは恐らく彼の思い通りにはならなかった。何故なら父親のことを尋ねられた時点で、俊樹は冷静ではいられずICレコーダーにこう答えていただろうから。

「あいつはゴミです」

 ――と。



一章 人生ツーアウトであとがない


 その日に家で待っていたのは、嫁さんではなく離婚届だった。

 目にした瞬間、闇の中でぽつんとスポットライトを浴びる自分が、なんとなく頭の中で俯瞰できた。孤独でマヌケな中年だった。

 どうして?

 デカい仕事が片付いた。俺が入社して以来じゃ最大のプロジェクト。息つく間もない怒濤の日々から解放された今日は、めでたい日になるはずだった。

 バイアス排除のデータを金をかけて集め、それを解析したNPS、因子分析、コレスポンデンス分析……、あらゆるレポートを用意して相手陣営を出し抜き根回しを絡めた上で、世論との逆行を渋るオーナーにクロージングさせた。

 世の中が黒だと言っても、統計が白と言えばそれに従うべきである。俺は繰り返しオーナーにそう述べた。今後もきっとこの仕事はクライアントの儲けになっていくだろう。統計的表現を用いて話すなら、俺のこれまで決めたM&Aは全て、その後の成長座標に右肩上がりでプロットされている。数字を信じろ、と。

 オーナーは最後にようやく了承すると、とうとう契約書に調印した。それが今日だ。

 これで俺の連勝記録がまた一つ。

 会社にそれを報告して仕事の終わりを実感すると、まるで危険を抜けたように緊張が緩む。

 俺はこのプロジェクトのために会社近くでホテルの一室を貸し切り、夜も昼も日曜もなく仕事に没頭していた。仕事が一段落付いて家に帰ったのは十ヶ月ぶりくらいになるだろうか。久しぶりに会う妻と息子に、詫びと祝いを兼ねて好きなものをプレゼントしてやるつもりだった。

 しかし待っていたのはコレである。傍らには担当弁護士の名刺も添えられていた。自分の周りの色が昼ドラチックに塗り替えられていく気配がする。あるんだなあ、こういうの。

「もう母ちゃん、アンタにゃ付いて行けねーってよ」

 テーブルに置かれたそれに目を落としていると、うしろから低い男の声が聞こえてくる。呆然としたまま振り返ると、声の主は息子の俊樹。彼はパンパンに膨れあがったスポーツバッグを傍らに置き、靴を履いているのか背中をこちらへ向けて、玄関に屈んでいた。丸刈りで、最後に会ったときより体が一回りデカくなっている。

「俊樹、お前は……」

「勘違いすんなよ。俺がここにいんの偶然だから。荷物取りに来ただけ。俺と母ちゃんがいま、どこに住んでるかも教えない」

「おいおいおいおい、トシちゃんよ。教えないってそりゃねーぜ。寝耳に水にもほどがあると思わない?」

「いま更なに言ってんの? 何回連絡したってほとんど繋がらねーんだし。知ってっか? 母ちゃんこないだ盲腸の手術してたんだぜ? 神経性の胃炎でずーっと青ざめてるし」

「そ、そうなのか……。悪かった」

 剣呑な口調の俊樹はこちらを振り返らない。丸まって靴紐を結んでいる。

 確かに余計な心理的リソースを使いたくなくて、陽子からのメールはほぼ読みもせず無視していたが……。しかしそれも分かってくれると信じていたからだ。

「じゃあ、父ちゃん。これはどうだ? 俺は横学の特待生になれた。春からは晴れて強豪横道学院野球部の部員だ。母ちゃんはすげえ喜んでくれたよ。あんたはシニアの練習試合一つ来なかったけどな」

「いや、悪かったって。仕事終わるの、いっつも深夜でさ。時差で深夜に会議もあるし朝は早えーし、海外出張にもよく行ってたし……。でもさあ、待ってくれよ、いきなりこんなんよぉ」

「あんたの得意な統計学でさ」

 俊樹は言って、バッグを肩にすっと立つ。

「家に全く帰らない、連絡も寄越さない、生きてるか死んでるかも分からねー男が、良好な夫婦関係を築ける確率はどのくらいか求めてみろよ」

「と、俊樹……」

 俺は離婚届を手にして、彼の背中に声をかけた。

「そりゃ統計じゃなくてよ、ただの確率の計算……」

「うっせえ!」

 俊樹は声を荒らげる。昔は父ちゃん父ちゃんと無邪気に俺を追い回していたのに。ああ、なんてこった、これは。テンパって状況に思考が追い付かない。

「あんたさあ、もうそのまま離婚でいーじゃねーかよ。コンサルかなんか知らねーけど、その会社が忙しいんだろ? そっちと再婚すれば? きっと幸せになれるぜ」

「おいおい、トシちゃん。マジで言っちゃってんの? いや、悪かったってば」

「もう」

 俊樹は俺の言葉を聞かない。背を向けたままドアノブに手をかけると、

「二度と俺たちの目の前に現れんな。ちゃんと母ちゃんに慰謝料払えよ」

 そう言って、最後の最後に俺を一瞥した。それは視線だけで俺を殺そうとでもいうような、忌々しげで憎しみを湛えた眼差しだった。俺は害虫でも眺めるようなその双眸に、かつての自分を見た。

「あ……、俊……」

 呆然としている間に、絶望的な音を立ててドアは閉まる。俺の足はまるでコンクリで固められたようで、そこから動けなかった。


 秘蔵のウイスキーを何本か開けたが、まるで酔えない。いや、酔っちゃいるが心の中は冷静なままだ。

 陽子の携帯に何回かけても、コールも鳴らず留守電へ繋がるだけ。

 家族のためにと少し無理してタワーマンションの最上階を購入したが、だだっ広くガランとし過ぎていて、虚しさだけが胸で重みを増していく。あまりの寂寥感に家中の照明を点けたが、なんの解決にもならなかった。心は暗く沈んだままだ。

 ――陽子はずっとこんな気持ちだったのか……。

 俊樹は特待生と言っていたから、たぶん朝から晩まで野球漬けだっただろう。なら陽子は家で一人だ。

 煌々と光るシーリングライトの下、俺はリビングでグラスを傾けながら、俊樹のあの目を思い出していた。良かれと思ってこれまでずっと仕事に打ち込んできたが、それは完全に裏目に出ていて、全くの独りよがりに過ぎなかったらしい。思えば確かに家族は疎かにしがちだった。

 だけどそれは経済的な不安を、陽子と俊樹にだけは味わわせたくなかったからだ。貧乏の経験がある俺は耐えられるが、あれはロクなもんじゃない。働き口がなかったり病気だったりと不可抗力なら仕方ないだろうが、俺の親父のように飲んだくれて家に金を入れない男など最低だ。

 親父のようにはならない。

 それを胸に俺は人一倍勉強し、奨学金で進学し、コンサルファームでがむしゃらに働いた。自慢になるが稼ぎはかなりのものだ。一歩表に出れば俺が関わった世間の流行がいくつもある。だから陽子や俊樹は俺を誇っているに違いない、幸せに違いない。俺は何故かそう確信していた。そしてそれが俺の誇りでもあった。

 だけど、蓋を開けてみればこれだ。俺は家族という拠り所をなくした。仕事は確かに好きだが、それは陽子や俊樹のためだという思いに立脚するものだ。仕事こそが彼らのためになると確信していた。二人をないがしろにしたつもりはなかったが、バランスを欠いていたと言われればその通りなのかもしれない。

「亭主元気で留守がいいんじゃねーのかよ」

 やっちまったな。と心の中で続けて、俺は椅子から立ち上がった。そしてフラフラになった足で、陽子の部屋を覗く。

 しかしそこはなにもないただの四角い立方体で、既に彼女の荷物は残らず消え去っていた。いまはもう、どこにいてなにをしているのかも分からない。なるほど、孤独という立場は完全に逆転したわけだ。でもこっちの大変さも、少しくらい考えてくれてもいいじゃないかと思う。

 一人で強がりのような作り笑いをして、次に俺は俊樹の部屋に向かった。玄関に向かって右側がそれだ。俺はなるべく感情を殺して、ノブを下げた。そしてゆっくりとドアを押す。

「お」

 荷物が持ち切れなかったのか、俊樹の部屋にはまだ彼のものがいくつか残っていた。また取りに来るつもりかもしれない。いや、つもりだったのかもしれない、とした方が正確か。俺と鉢合わせしたとなると、もうここには寄りつきにくいだろう。

 俺は太い息を吐き出し、中へ入った。

 あいつ、横道学院へ入るって言ってたっけ。

 陽子に進路や進学は任せ切りだったが、横学は俺でも知っている。昔、少しだけ仕事の場で話題に上った。この時期になるとよく甲子園を騒がせる地元高校だ。特待生で入れたということは、あいつの野球も相当達者になっているのだろう。上手くすれば将来はプロ野球選手か。

 昔は下手っぴだったあいつが……。

 思い出が感情と共に押し寄せる。

 あれはたぶん俊樹が小学校の中学年くらいのときだったと思う。

 たまたまあいつの誕生日に帰宅できそうだったので、俺はプレゼントにと、コネでプロ野球選手のサインボールを手に入れた。簡単に偽造できそうな、汚い字のサインボール。だけど野球が好きな俊樹にとっては価値が高いものだろう。あいつはどんな顔して喜ぶかと思うと、渡す俺の方が楽しみになっていたものだ。

 だけど野球は好きでも選手に興味のなかったあいつはこちらの期待を裏切り、たいしてありがたみも理解せず、そのボールで俺とキャッチボールをしたがった。

 あんまりうるさいので公園に出向き二人で投げ合ったが、捕球の度にグローブから球をポロポロこぼす俊樹に才能のなさを確信し、俺は我が子ながら呆れたものだ。お前は学に生きろと心の中で語りかけたほど。あいつは何故か、どうしようもなく楽しそうだったけど。

 その俊樹が横学野球部。しかも特待生。

 少年野球に入団し、最終的に色んな高校から声がかかっていることは情報として知っていたが、昔のアレがあるために半信半疑だった。まさか本当にものになるほど上達しているとは予想外だ。人間、練習すれば変わるものである。分かっていればコネを使って良いコーチを探してやったのに。

 まあ、そんな連絡もなかなか付かなかったから、愛想尽かされたんだけどな。

 懐かしむように記憶を辿りながら、俺は彼の学習机に指を這わせた。使用の形跡がほとんどなく、よほど野球漬けであったことが窺える。悪いことをしたと目を伏せて踵を返すとベッドに足をぶつけ、そこからコロコロと足元になにかが転がってきた。見ると白地にエンジの糸が縫われた野球のボール。

 俺はそれを拾うとお手玉のようにポーンと投げ上げ、そしてキャッチした。白地と言ったが白地だったと表現した方がしっくりくるだろう。革の表面が剥がれ、土と汚れにまみれたボロボロのそのボール。かなり使い込まれてあるが、しかし糸は縫い直してあって手入れは行き届いている。よほど大事にしていたようだ。俊樹のものか。金は嫌ほど渡してあるんだから、新しいものを買えばいいのに。

 ――しかし……。

 なにかが引っかかる。どうも妙な違和感。俺は手の中でそれをクルクルと回し、漠然とした気持ちでそれを眺めた。するとふと、中央にかすれた文字を見付ける。そしてそれに、俺は強烈な既視感を覚えた。

「サインボール……」

 間違いない。それは俊樹の誕生日にもらってやったサインボールだった。このミミズの死骸みたいなサインは、確かにあのときのものだ。

「ああ……」

 俺にはそれが宝石のように尊く感じられ、持ったまま膝をついた。その古色蒼然とした色合いからは長年の使用のあとが確実に感じられた。

 なにかが洪水のように胸からせり上がってくる。あいつはどんな思いで、これを使っていたんだろう。

 確かに俺がいま考えているそれは、ただの思い過ごしかもしれない。本当のところは俺のことなんて気にせず、古いから練習用として使っていただけかもしれない。

 だけど、心のどこかでは確信があった。

 あいつは思い出を胸にこのボールで練習していた。きっとそうだ。俺は愛されていた。誇られていた。そう感じた。そして愚かだった。改めてそれは心に重みを載せた。後悔が明確になり、はっきりと胸の中に象られていく。瞳からは自然と熱いものがこみ上げてきた。景色がゆがみ、体が浮く感覚で立っていられない。俺の頭に自分の父を憎んだ記憶が蘇る。

 ああ、悪かった。

 俊樹。父を憎むのは辛いだろう。

 俺はいい。恨まれるのは生傷をなぞるように痛むが、間違った選択をした報いだ。甘受する。

 しかし陽子や俊樹になんの罪がある? 誇れない夫や父を持つ苦しさや悲しさは、誰より俺が分かっている。

 家を出て行くときのあの俊樹の目。かつては俺も父にあの眼差しを送っていた。まさか自分が向けられる側になるとは思わなかった。ああ、本当に取り返しの付かないことをしてしまった。どうしたらいい?

 俺はくちびるを噛み締めながら、ボールを握った。

 頭の中では知恵を絞って贖罪の方法を探すが、やはりなにも思い浮かばない。これからは改心すると告げるか? しかし居場所すら分からない上、二人の中に降り積もったものが言葉だけで溶けてくれるとは到底思えない。いま更という思いもあったし、それに自分の生き方を変えなければ、結局は同じことを繰り返すだけだ。

 なら、どうする? 考えても分からない。そもそも答えが存在するのか? 嗚咽に似た声が口から漏れ、俺はボールを握り締めた。そして気付いた。

 ボールを?

 頭の中で引っかかり、俺は再びそれを仔細に眺めた。

 ――そう言えば、聞いたことがある……。

 興味もなかったので、かなりうろ覚えだが……。

 俺はこの閃きのようなものを逃がすまいと、焦れる心を抑えつけて尻のポケットからスマホを取り出した。そして鼻をすすりながら検索サイトを開き、『野球 統計』で検索する。すると出てきた、セイバーメトリクスという概念。俺は涙も拭わずにその場に腰を落とし、目を上下させながらその解説を読んでいく。

「こりゃ、いけんじゃねえか?」

 職業病だろうか。スマホをスワイプしながら、頭の中には徐々にそのロードマップが構築されていく。いくつか要確認項目があったが、もしかしたら可能かもしれない。いや、俺なら可能にできる。それに俊樹の嗜好を考えると、これより他に方法がない気がした。

 恐らくこのロードマップを実行するには、俺がこれまで築いてきた全てを犠牲にする必要があるだろう。金をかけ時間をかけ人脈を駆使し経験を集約させこの脳細胞を働かせる。覚悟がないとできない。

 だけど、それがどうしたとも思う。どうせ仕事の拠り所も失った。ここから先はついでのような人生だ。

 元のように戻れなくてもいい。そこまでは望んでいない。

 ただし陽子と俊樹の誇り、二人の心に棲むかつての父だけは取り戻してやらなければ、俺たちが家族であったという事実があまりにも惨めじゃないか。自分の父と同じにはならないという俺自身の誓いもある。

 待ってろ、俊樹、陽子。

 お前たちの思い出は汚さない。俺はそのままスマホをタップし、次は会社へ電話をかけた。

 せめて二人の心に、誇れる父ちゃんを取り戻してやる。

 思いを胸にコールを待つこと数回。マネジャーに電話が繋がると、俺は用件を問われる前に大声で告げた。


「会社、辞めます!」


一年後


 けたたましいスマホの目覚ましアラームで、夢の中にいた意識が現実に戻ってくる。

 光が染みる目を半分開いて辺りを見回すと、鈍痛と共にぼんやりと視界に入ったのは変色した壁紙に、穴のあいた襖。それに立て付けが悪くガタガタとうるさい台所の小窓。一応バストイレ付きの六畳一間。俺の根城。

 そしてどてらを羽織った俺は出しっぱなしのこたつに入ったままで、せっかく集めた資料の数々は俺の顔の下敷き。ヨダレでその姿は見るも無惨。

 あ、ヤベ。寝落ちしてた?

 俺は手探りでスマホのアラームを止めると、くしゃくしゃと頭をかいた。ついでに頭を起こすと、「よっ」と体を傾けて尻をかく。そして蛙のように大あくびをしてから湯飲みに残っていたお茶を飲むが、それはすっかり冷たくなってもう味気ない。どれくらい眠っただろう。

 昨日は最後の詰めだった。スコアブックのコピーを見つめ表計算ソフトを働かせ作業は深夜まで及んでいたが、その後の記憶が途絶えている。昔はこれくらいなんともなかったが、寄る年波には敵わないか。もう今年で四十四だもんなぁ……。内心で舌打ちをしつつ、俺はスマホを手に取り時刻を確かめたが……。

「うおおおおお!」

 表示された時刻に衝撃を受け、慌てて飛び起きる。

「ヤッバ。遅刻遅刻遅刻!」

 アラームの設定時刻がいつもと同じになっていた。

 俺は脱皮するように部屋着を脱ぐと、片足で飛び跳ねながらズボンを穿き、吊してあったジャケットへ袖を通す。しかしあまりに慌てたためあちこちに体をぶつけ、部屋は鐘を鳴らしたように賑やかになった。慌ただしさだけは現役時代の再来だ。

「だっから狭い部屋ぁ嫌いなんだよ、ったくよお……」

 愚痴を呟きつつ口にバナナを押し込むと、俺はジャケットのボタンを留めながら玄関を肩で押して開いた。そして革靴をつっかけながら鍵を閉め、逃げ出すように二階建てのボロアパートから駅までダッシュ。

 さすがに初出勤で遅刻はマズい。しかしこれだけ慌てて行く先が高校なのだから、二十数年前を思い出して少し面映ゆかった。

 家賃優先で選んだため、アパートは駅から遠い。走って切れ切れになる息の中、

「……ニヒヒ」

 それでも顔には笑みが浮かぶ。

 とうとうここまで来た。

 ――待ってろよ、陽子に俊樹。

 無謀な挑戦だし、人はきっと俺を愚かだと笑うだろう。

 でも俊樹が使い古したサインボールを目にしたとき、俺はなんとなく感じた。彼が俺に望んでいたのは、仕事ができる父より稼ぐ父より、幼い日に交わしたあのキャッチボールをした父ではないかと。

 なら、俺は変わってやる。キャッチボールどころの話で終わらせない。お前と勝負して、親父のデカさを見せてやろう。誇れる父ちゃんを取り戻してやる。

 もう、過去は変えられない。

 だから俺は未来を作る。たとえ全てを捨ててでも。可能性と引き換えなら、なにを犠牲にしたって安いものだ。

 今日がこのオッさんの、再生の日。革命の一日目だ。



 私立秋上高校は自宅から二駅の場所にある、たいした歴史も持たない中規模の高校である。

 進学校とギリギリ言えなくもない偏差値で男女共学。部活動は陸上部が全国常連だ。

 理事長とは旧知で、野球部は弱小。それ故にOB会も父母会も組織されておらず、俺が野球部を握るという社内スタートアップに障害が少ない。しかも自由に手が入れられる。在籍している部員の伸び代、就労のしやすさ、人材も含めあらゆる角度からデータを検討したが、俺の希望にあらかた合致しているのはここだけだった。

 何度か訪れているので知ってはいたが、アイボリー調の校舎はまあ、普通というか、どこにでもあるような面構え。中庭には桜の木が並べられ、そこそこの規模のグラウンドは、放課後になると陸上部がほぼ独占して使っている。ただ他に第二グラウンドがあるはずだ。

 ま、これからヨロシク頼むぜ。

 俺は校門の前に立つと、その門扉をポンと叩いた。

 不安がないわけじゃない。しかしカンと経験と慣習が幅を利かせる保守的な高校野球界で、セイバーをナレッジマネジメントできる人間がどれだけいる? これは俺にしかできない挑戦だ。顔と性格のせいでよく誤解を受けるが、本気の中のド本気。

 決意を胸の中で形にして、俺は受付で用件を告げる。

 すると校長室にどうぞとそのまま入校証を渡され、相変わらずけっこう不用心だなあと思いつつ俺は足を進めた。

 ふと渡り廊下から窓を見ると現在は授業中のようで、しぶとく残る桜の向こうで行われているのはサッカーだった。どことなく甘さ漂う四月の空気を伝って、生徒たちのかけ声が小さくこちらまで響いてくる。躍動するその姿は桜の桃色をフレームにしていて、けっこう眩しい。

「元気があっていーねえ」

 俺は足を止めて様子を眺める。

 懐かしさが頭をもたげるが、しかし同時に羨望のようなものもふっと浮かび、それは軽いため息となって口から漏れ出た。彼らの姿に、息子の影を重ねてしまったのかもしれない。

 ――ま、なんとかなんだろ。

 俺は気持ちを改めながら、校長室の前に立ちドアを押す。すると、

「聞いてないですよ、コレ!」

 中では三十くらいの若い男が叱責の大声を発しながら、理事長のデスクに決然と詰め寄っていた。短髪で体のデカい、典型的な逆三角体形。よほど興奮しているのか、指で腿を叩いて見るからにカリカリしており、こっちの存在に気付いていない。

「――もしもーし」

 既に開いた扉をコンコンと叩くと、ようやくこちらを向く二人。

「お邪魔なら出直しますけれども」

 言いながら確認すると、こちらへ振り返った若い男は源太郎丸洋介。数学教師だが校務分掌として野球部の顧問、監督。そして学年進路指導主任を掛け持ちしているという、話を聞くだけで苦労性の人間だ。

「いや、八雲君。ちょうど君の話をしとった。入って入って」

 だろうと思った。白髪で恰幅の良い理事長。校長と兼任。彼は源太郎丸に見えない角度でウインクすると、助けを求めるように俺を中へと促す。一瞥を走らせると源太郎丸は憮然と目に角を立てているし、歓迎されざる客という塩梅だ。

 ――まあ、予想はしていたが。

「ほいじゃ、お邪魔しますよっと」

 敵地へ乗り込むように、俺は扉を閉めて中へと進む。そして歴代校長の顔写真や木製書棚に囲まれる中、来客用の革張りソファに体を沈めた。するとヌッと俺を覆うデカい影。

「あの」

 見上げると、俺の前に立っているのは源太郎丸。写真では誠実そうだったが、いまは強い視線で俺を捉えている。

「はいな」

 返事をして、姿勢を整えながら源太郎丸の経歴を脳内で検索。

 確か秋上高校出身で、大学は在京の野球強豪校。そこでセカンドの定位置を勝ち取り、全日本で優勝。最高打率賞も獲得している実力派。プロには進まず母校に帰り教師となった。

「えっと、八雲彬さん、でよかったですよね?」

「そだよ。源太郎丸クン」

 返事をすると、彼の表情に僅か動揺の色が走った。恐らくは名前を知られていることに対する驚きか。だが関係が予測される相手の名前は、既に顔写真や経歴と共に俺の頭の中へ入っている。

「……あの、ずいぶん華奢でいらっしゃいますよね」

 探るような口調で、硬い声をぶつけてくる源太郎丸。彼は言うと、俺の向かいのソファに腰かけて膝を揺すった。隠しきれない敵意が瞳に満ちている。生徒思いと聞いていたが納得だ。

「……スマートなのが自慢でね」

 どうしたものか。

 伺うようにチラッと理事長に目をやると、彼はスマンとでもいうような表情で俺に片手をかざす。まあ仕方ないか。敵対的吸収は趣味ではない。できれば友好的に。学校から業務委託として野球部を渡されるのが理想の形だ。

 ――分かりやすいサインがあると助かるが……。

「それにしても、八雲さん」

 源太郎丸は空咳を挟んで続ける。

「見れば見るほど初出勤に相応しいお姿で感心します。無精ひげとくしゃくしゃの頭、着崩したスーツはお洒落でしょうか?」

「でしょお。君のポロシャツもステキよ」

 俺は寝坊の事実を伏せ、手の平を彼に向けてグッパと握った。源太郎丸は膝を揺すり、組んだ手の指を弾く。

「……面白い方ですね。雰囲気そのものが冗談のようで」

「よく言われるよ。一瞬で人の長所を見抜くなんてさ、さすが教育者だね」

「思い込みも激しいようでなによりですよ。それに、あの、八雲さん」

「アッキーでいいぜ、タローちゃん」

「八雲さん。率直に伺います」

 源太郎丸は指をトントンと叩くと、くちびるを結んだ。毅然と意を決した表情。若くて眩しい。俺にもこんな頃があったろうかと記憶を手繰るが、もしあったなら離婚なんてしていないと思い、考えるのをやめた。

「校長から話は聞いております。あなたが僕に代わる野球部の新監督……、ウチにとっては初の外部招聘による監督になると」

「良い男でビックリかい?」

「冗談はもうやめましょう」

 膝を細かく揺すりながら、ピシャリと俺の存在の九割を否定する源太郎丸。甘く見ていたが素直な分だけなかなかえぐってくる。

「伺いたいのはそのことです。八雲さん、野球は未経験で間違いありませんか?」

「十年ばかし前にキャッチボールの経験はあるんだけれども」

 答えると源太郎丸はうんざりした表情で顔をしかめ、また膝を揺すりながら指を弾いた。

 ――確信を得た。これで間違いない。

 からかう調子で様子を見たが、指と膝の動きは源太郎丸を苛立たせる度に動きを活発にした。サンプルは少ないが相関していると見ていい。――なら。

「こっちからも聞きたいね。君にとって野球部とはなんだい?」

 今度は俺から探るように問いかける。すると、

「教育の一環に決まっているでしょう」

 当たり前だと言わんばかりに、源太郎丸は膝を揺すった。

「タローちゃん。君の言う教育は人格形成と受け取るけどね、俺は違うと思うなあ」

「なぜ?」

 源太郎丸は指を弾く。

「だーって野球は野球。数学や物理と変わらねーさ。お年寄りに優しーく席を譲る倫理観と野球の練習が相関してると思う? 係数なんてゼロに等しいよ。もしそうなら世界の人々は平和のために、みんなでバットを振るべきさ。なにを通じてなにを見るかは、生徒に任せるしかないんじゃないかなって」

「……様々な考え方があるのは理解しています。ただしあなたにそれを仰る資格があるとは思えない」

「俺に言わせりゃ、気合いだ根性だーって、本気で喋るヤツの方の資格を剥奪したいねえ。君がどうなのか知らないけど、ありゃ指導力不足の逃げ口上だぜ」

「私もそれが全てとは思っていません。――ですが忍耐や精神力が必要な場面も、人生には必ずやって来ます。バランスを取りながら準備することも必要です」

 源太郎丸は再び組んだ手で指をトントンと弾いた。そして「そちらこそ」と続け、

「野球部をどうなさるおつもりでしょうか?」

 強い目で聞いてくる。眼差しには誹るような色が混じっていた。

「そんなの決まってんじゃん。強くしたいのよ」

「計画書は拝見しました。セイバーメトリクスでしたっけ? しかし数字の動きだけで、部を強くできますか? それに僕にだって打率くらいは分かる」

 源太郎丸は手と膝の動きを止めた。

「打率なんて数ある目安の一つでしかねーよ。いわばコインの枚数だ」

「コイン?」

「そ。打率が示すのはポケットの中にあるコインの枚数だけ。打率で能力が分かるなんて主張は、枚数だけでポケットにあるコインの合計金額を言い当てるのに等しいぜ。けどセイバーはコインの価値までを示す。強くするには、どちらが必要だろうね」

 俺は姿勢を正して答えた。それは正直な俺の意見だったが、源太郎丸は手と膝の動きを止め、なにか問いたげな目付きで俺を見つめる。

 話題をばらまいて探ってみたが、なるほど、これがツボか。そう言えば試合の動画を見てもコイツ、負けて部員へ申し訳なさそうにしていたっけ。

「強く、ですか……。でも本当に目的はそれだけ? あなたになんのメリットもない」

「塩っぱいこと言いなさんなよ。それとも他に思い当たる理由あんのかね」

「――もしかしたら野球部を盛り上げることで、八雲さんの輝かしいキャリアに新たな一行を書き加えるつもりなのかもしれない。でももしそうなら、それは不可能だと言っておきます。机上の空論で戦えるほど、野球は甘くない。それに付き合わされる部員たちも可哀想だ」

「なーら、タローちゃん」

 否定を口にしながらも、彼の指と膝は動かない。やはりここが反撃のタイミング。俺は心の中で笑みを作る。

「君は自分の経験で、野球部を強くして甲子園に連れていけると思うかい?」

 指でピストルを作って源太郎丸を指し示すと、彼は黙してくちびるを噛んだ。部史は以前に詳しく調べている。夢は甲子園。だけど目標は地区大会二回戦突破だ。実際、先頃行われた春大会も初戦で敗退している。

「まあ、タローちゃんね。最初からそんなにツンケンすることねーって。まずはスーハー息を吸ってさ、落ち着こうよ。んで膝つき合わせて語ろうぜ」

 俺は労る口調で頬を緩めた。

「あのね、俺だって君の気持ちは理解できるよ。でもさあ、分かるでしょ? ずーっとコンサル畑でやってきた俺の経歴にね、野球部の監督なんかあったってなーんにもなんないんだから。たとえそこに甲子園優勝が加わっても」

 そう言いながら俺は立ち上がり、今度は源太郎丸の隣に腰を落とした。彼の強張らせた体に警戒のアンテナを感じたが、俺は自分の体を不躾という絶縁体に変化させ、それに気付かないフリをして足を組む。

「校長」

 彼は助けを求めるように目を移した。しかし、

「まあ、勝てる戦しかしないよ、八雲クンは。勝算あってだろう」

 学校の最高責任者はこっちの味方だ。

 源太郎丸は太い息を吐き出し、天を仰ぐ。指と膝は動いていない。

 彼は秋高野球部のOBだ。そこから野球の強豪大学に入ると叩き上げでレギュラーを勝ち取り、しかも日本一まで果たした、言ってみれば秋高野球部としては出世頭。部に思い入れもあるだろう。

 だからこそスケジュールが厳しい中で野球部の顧問を務めてきたのだろうが、今年は三年生の担任となり受験その他の負担も増えた。そこへ野球部に外部の監督を招く話が浮上。源太郎丸にとっては渡りに船だっただろう。部長として俺を補佐するという条件も呑んでくれた。期待していたがしかし実際に来た男の経歴は、コンサルファーム出身、野球未経験という予想外のものだった。

 ま、察するに余りあるね。俺が原因とは言え可哀想に。でも俺はこの生き方しかできないから。本気だけは感じて欲しい。結果は必ずもたらしてやる。

「ま、タローちゃん。そう落ち込まずに」

 俺は組んでいた足を解き、隣から彼を覗き込む。

「だいたいさ、提出したレジュメには書いてたでしょ? 俺も未経験のオッさんがセイバー使っただけで勝てるとは思ってないわけよ。だけども古くは孫子のオッさんだって言ってるでしょお? 算多きものが勝ち、算少なき者は敗れるって。経験と計算は車の両輪だと思うのよ。だからこそ、タローちゃんに部長になってもらったわけだし」

「経験と……」

「違う?」

「……そりゃ、まあ……そうですが」

「でしょ?」

 言葉の隅に煽てと同意を潜ませ野球部の強化を語ると、源太郎丸の声が少し柔らかみを帯びた。綻んだそれに糸口を見た俺は、捕らえるように源太郎丸の首へ腕を回し、無理矢理その顔をこちらに引き寄せる。

「ちょっと、なにを……」

「強くしようぜ、野球部」

 本気なんだ。その想いを言葉に込めた。

 こんな顔で言っても説得力がないかもしれないが、それは嘘偽りのない本音だ。全てを捨ててここに来ている。自信もある。準備もしてきた。

「誓っていいが俺はそれ以外に考えてねえ。確かに目的は持ってっけどな、結果として俺が得るものの問題で、そりゃ他の連中には無関係だ。ポジティブな相互関係でいこうじゃないの」

「…………」

 渋面を作る源太郎丸から返事はこなかった。だが俺だってこの場で答えがもらえるとは思っちゃいない。全員の前でのデモンストレーションは予定の内に入っている。俺は表情を緩めて、彼の首を解放した。

「ま、とりあえず野球部を見に行こっか。論よりは証拠だろ?」



 間違いなく俺は野球未経験である。

 このスリムで魅惑的なボディは伊達じゃない。腕力だってまるでないし、スポーツは中学時代に金の負担が少ないという理由でやっていた水泳以来だ。ここ半年ほどでノックとキャッチングは練習したが、それだって自慢できる腕じゃない。

 だけどいま俺はバッターボックスに立ち、秋高のエースピッチャー、藤波颯太と対峙していた。しかも俺は勝利宣言までしちゃっている。

 藤波は目深にかぶった帽子を取ると腕で額の汗を拭って、睨むように俺へ視線を移した。そしてかまえを取ると、俺への不信を示すような長い長い間断を挟む。更には周りの部員たちから突き刺さる視線。

 勝ち目がない? そんなことはない。何故ならこの状況は今日の予定に組み込まれたプロセス。全ては青写真の通り、ことが進んでいる。


 俺は校長室での一件を終えると、そのまま早々に手続き等の書類仕事をやっつけた。

 そしていざ向かうは、秋上高校第二グラウンド。本校から歩いて五分の場所にある準野球部専用である。

 中に入り見渡すと、いよいよ来たという感慨が胸の中に広がった。青春の途中に帰ってきたようで、なんだかこみ上げるものがある。

 ここで俺はセイバーメトリクスを用い、野球部を強化する。

 目標はもちろん、俊樹が属する横道学院に勝てるレベルまで。あえてここのような弱小野球部を選んだのは、もちろん俺がこなした仕事の跡を鮮明に見せるためだ。伝手の有無も理由にあったが、やはり弱い部を強くしたという部分にこそ、仕事としての価値がある。私の夫です、俺の父ちゃんです、と胸を張って言えるようにしてやらないと。

 ま、課題は山積みだけどな。

 聞くとこのグラウンドはプレハブのクラブハウスと共に、昔は軟式野球部、女子硬式野球部と、三部の共用だったらしい。だがそのどちらもが廃部となってしまい、消極的に男子硬式が専用の座を勝ち取った。

 グラウンドの造りは、校舎と同じくまあ中庸。

 周りは民家なために四方をネットに囲まれている土のグラウンド。ファールグラウンドの両端には屋根付きベンチや室内ブルペン、クラブハウスなども設置されているが、ただその一部は陸上部のタータンコースとして使用されている。

 そんな第二グラウンドの放課後、練習前のベンチのフロント。

 源太郎丸はユニフォーム姿の部員、計二十二名を集め、

「と、言うわけで前に話した通り、野球部は監督を交替します。僕は部長として監督を補佐することになりますので」

 俺を隣にしてそう言った。

 予め話は通しておいたので、部員たちの間に覚悟というか心積もりはできていたのだろう。混乱はなくて、彼らは帽子を取ると礼儀正しく「オッシャース!」とデカい声で挨拶を寄越す。

 ただ動作は揃っていても俺に向けるその目は様々で、期待、猜疑、不安など、種類の違う感情がそこに見えた。そしてそれこそが、差し当たり俺の相手になるものだ。

 ――ま、なんとかなんだろ。ガキなんていまも昔もチョロいもんだ。

 密かな決意を胸にして、次はいよいよ俺の出番。「んん!」と喉を鳴らして調子を整えると、俺は緩く締めたネクタイをクイッと上げた。

「えー」

 言って俺はぐるりと周りを見回す。

 さあ、ここからが俺のデビュー戦。どう攻略していくか。息を飲む部員たちの目は、観察というより値踏みするかのようだ。

「ただいまご紹介に与りました八雲彬でーす。ヨロシク」

 なるべくフレンドリーに。威圧しない声で挨拶する俺。

 どんな反応が返ってくるか恐々だったが、部員たちはまた帽子を取って「オッシャース!」と、デカい声を寄越してきた。思ってたより好意的だが、彼らの純朴な目をどうしても百戦錬磨のビジネスマンたちのそれと比べてしまい、それはそれで違った緊張感が四肢に染み渡ってくる。

「えっと、まずね」

 俺は尻の辺りで両手を結び、もう一度部員たちを見回した。

「みんな俺がどんな人間かって、やっぱ気になっちゃうと思うんだよね。これから毎日顔を合わせるわけだしさあ。そこで……」

「はいはいはいはい!」

 自己紹介をしようとすると、逸って俺の声を遮る元気な野郎が一人。

 取り囲む正面で手を上げる彼は確か隠岐原直樹。中学から野球を始めた三年生。帽子で潰れたセンター分けにひょろ長い体。常にどこかひょうきんそうな顔のサード。特に笑ってないのに『へへへ』という声が聞こえてきそうな雰囲気で、なんと言うか写真で見た通りの第一印象だ。

「はーい、隠岐原クンだっけ。なにかな」

 手を延べて促すと、軽い驚きを表情に示す隠岐原。

「うお! 監督、俺の名前、なんで知ってんスか!」

「君だけじゃなくて、全員覚えてるよ。仲間に入れてもらうんだからね」

「うおー! すげえ!」

 隠岐原は笑ったまま両隣の部員に「なあ?」という顔を見せると、そのまま手を下げた。全員の顔に少し安堵が見える。

「あの、質問はどしたよ」

「うおー、そうだ」

 今度は実際にへへへと笑って、隠岐原は周囲からも笑いを引き出した。上下関係が緩く仲間意識が強い部だと聞いているが、概ね伝聞の通りだろう。それにしても語彙の少ないヤツだ。

「えっとー、監督のこと、源センセが全然教えてくれなかったんスけど」

「おう」

「これまでどこで監督してたんスか?」

 秘匿されていたというか、単に理事長が言い辛いことを言わなかっただけだと思うが。

「監督はしてねえよ」

 俺は姿勢を緩め、体重を片足に傾けた。

「じゃあじゃあプロ経験者スか?」

「いいや」

「じゃノンプロ?」

「違う」

「……甲子園経験とか」

「ねえな」

 部員たちにあった期待の眼差しが、だんだんと不安なそれになるのを感じる。源太郎丸は最初から一歩引いてもの言わぬ地蔵になっているし、差し当たりこれが最初の難関か。

「あ、あのー」

 ここでゆっくりと、小さく手を上げたのはマネージャーの飯島秀穂だ。

 確か二年。リトルリーグに所属経験があるが、中学からは陸上部の短距離選手に転向する。しかし層の厚い秋高では上が推薦組だらけで上位にいけず退部。そのまま勝手知ったる野球に戻り、部のマネージャーになった。

 ショートカットにポメラニアンのようなくりくりした瞳で、野球部の紅一点。見た目から活発そうな女子である。実際、受け取ったレポートにはマネージャーではなく選手向きなメンタルとあった。しかし写真のイメージと違っていまだけは、その瞳が心配そうに揺れている。

「はい、飯島ちゃん。なにかな」

「えっと……。監督って、なんて言うか、あの。痩せてるし、いまだってスーツだし、その、スポーツ自体してそうに見えないんですけど……。あの……」

 飯島は躊躇うような一呼吸を置いて、恐る恐る口を開く。

「――野球の経験は?」

「ない!」

 俺が宣言するように言い切ると、うららかな春の陽気はその場で凍りついた。

 俺を紹介した源太郎丸は隣で目を伏せて縮み、ユニフォームを着た部員たちは珍獣を見る眼差しでこっちを見つめる。

 渡された金が偽札だった。そんな桁違いの拍子抜け。沈黙の空気。オジさん、こういうの味わうとゾクゾクしちゃうんだけど。

 さて、冷たい時間はまだ続く。

 面白いのでカウントしていたが、俺が答えてから十二秒。

「ウケるわ、これ」

 という侮蔑を含んだ口調で、その沈黙記録は破られた。

 見ると全員の注目を集めるように口にしたのは二年のピッチャー、藤波颯太。シニアで野球を経験していた部のエース。一人だけ帽子をかぶらず、小柄でツンツン頭。鋭い目付き。こっちも写真で見た通りの印象だ。俺を睨み付けているが、幼い顔立ちからか幼児が拗ねているようにも見え、どことなく愛嬌を感じさせる。

「藤波」

 源太郎丸が注意する口調を向けるが、藤波は態度を変えない。

「んだよ、源センセ。だいたい先生が新監督のこと黙ってたからっしょ。まあ、こんなこっちゃねーかと思ってたんだよ」

「いや、僕も知らな……」

「言い訳はいいって。言っとくけど俺、源センセが好きにやらせてくれるから野球部いたんだよ。素人野郎があれこれ指図してくんのはたまんねー」

 藤波の舌鋒は鋭いが、しかしくちびるを尖らせた様は本当に幼児のようで可愛げが止まらない。源太郎丸は困った顔になりまた口を開こうとするけど、

「いいよ、タローちゃん」

 俺は手を向けて彼を止めた。

「いや、しかし」

「いーんだってば」

 これは俺の描いたシナリオ通りだから。むしろ、こうならなければ俺がそう仕向けていた。

 ――それに発端が、投手の藤波ってのも好都合だし。

「藤波クン」

 表情を緩めたまま名前を呼ぶと、

「勝負しようか」

 そう言って、俺は藤波に向かってウインクした。精一杯の色気を込めたが、彼の顔はヒクついていた。悲しい。

「――なんのつもりだよ」

 心で泣いていると、藤波は威嚇するような目で、俺にそう問いかけてきた。その様子はまるで人間を見るノラネコのようで、言葉の先では惑わされないという強い意志を感じる。

「なんのつもりもなにも、これから仲間になんだから。俺を知ってもらいたいだけさ。タイブレークっぽいミニゲームでどう? あ、俺が負けたら素直に監督辞めるけど。面白いだろ?」

「…………」

 なにが狙いだ? 藤波の表情は言葉もなくそう主張していた。でもツラはやっぱり可愛いらしく、かつて相手にしていた総会屋上がりの強面連中に比べたら微笑みまで浮かんできそうだ。手品のタネを見破ろうとする少年のよう。

「……もしも万が一、そっちが勝ったら、俺をどーすんだ?」

「んー? 別になにも。あ、親しみを込めてよお、みんなに俺のことはアッキーって呼んでもらおっかな」

「ああ?」

 更に目を強くする藤波。

 ふと見ると源太郎丸を含む野球部員は、既に俺と藤波の軸を中心に左右に分かれ、成り行きを見守るようなかまえになっている。全員が互いに目配せしながら『結果と内容で八雲を見定めよう』とでもいうような空気が漂っていた。

 藤波はそんな部員たちを一瞥してから舌打ちをして、

「確認しとくけど、マジで野球やったことねーんだな?」

 そう念を押してくる。

「ないよ。あ、でも監督業に備えて、ノックはだいぶ練習したかな」

「……ルールは?」

「そうこなくっちゃね」

 ――やっと乗ってきた。

 俺はにっこりと笑みを作り、そして用意しておいたルールを説明した。

 それは俺が打席に入って藤波が投げるという、まあ普通なもの。

 ストライク三つで三振と、これもノーマル。ノーアウト一塁という体で開始され、勝負の性質上、四死球はなし。勝負バッターは俺一人で、ランナーが生還すればこちらの勝ちだ。走者がアウトになるか動けない状況になれば藤波の勝ち。

「他に縛りは?」

 藤波は地面を踏み固めるような慎重さで、説明を求めてくる。

「勝負続行できなくなったときのことも決めとこーか。ヒット打っても走者が生還しなかったり、俺がアウトになんなくてもランナーが盗塁死したら君の勝ち。ただしノーアウトって体だからね。犠打なんかで俺がアウトになっても、走者がルール上有効な範囲で生還したら俺の勝ちだ。要するに、俺の勝利条件は走者の生還のみ」

「……ま、いいだろ」

 藤波はまあ、それくらいなら飲んでやろう。素人野郎にこっちの条件を押し付けたら可哀想だしなあ、という、なんとなく渋々って感じで返事をした。

 でも、分かってるぜ。内心じゃガッツポーズしてんだろ?

 たぶんお前は素人がハンデを要求するように、俺が自分にとって有利なルールを提案してくると思って警戒していた。しかし聞いてみたら、おバカな素人が説明したそれは、むしろ自分にとって有利なものだった。

 ルールだけをなぞると、確かにそうだ。

 一塁ランナーは俺が打って帰さなければならない。ということは、たとえヒットを打っても、シングルなら一塁走者をホームまで帰すのは不可能だ。その場合はバッターがいなくて、勝負続行不可能。藤波の勝ち。

 ピッチングにしたってそうだろう。コーナーをいくら突いてもいい。審判は源太郎丸だから判定はフェアだろうが、四死球がない分、カウント不利になって打ちやすいところに投げる必要がない。ルールだけ見たら藤波有利は間違いない。

 でも大人にはズルさってもんがあるんだぜ。いまから始まるこれが、俺を疑問視するお前たちへの、ある程度信頼できる答えになるはずだ。

「守備のメンバーは藤波クンの好きにしていいぜ。ただし一塁に立つランナーは俺から指名させてもらう」

 素振りをしながら、俺は言った。藤波は俺のスイングを見下したように眺めながら、

「いいぜ。ランナーはお好きにどーぞ。でも赤橋と隠岐原さんは守備にもらう」

 やっぱりそう来たか。二人はチーム一、二の俊足だ。あとの部員の走力は似たり寄ったり。足で攪乱するこちらの手を封じようとしたのだろうが……。

「ああ。じゃ、ランナーは飯島ちゃん頼むわ」

 俺はバットを地面に突き、マネージャーの飯島に目配せする。

 飯島はキョトンとしたあとで左右を見回し、確認のように自分を指さした。俺が首肯すると、彼女のつぶらな瞳は狼狽を示すようにみるみる見開いていく。そして言葉の意味を誰もが理解した呼吸のあと、

「はあああ? 飯島ぁ?」

 藤波は目を剥き、抗議のような大声を上げた。

「そだよ。誰でもいいんだろ?」

「誰でもいいったって、あんた、そいつ、マネージャーだぞ?」

「立派な部員じゃねーの。元陸上部だろ? 野球の経験もあったはずだ」

 ニヒヒと笑って、俺は飯島を見つめる。

「待てよ、素人野郎! どこまで調べてんだよ! ちょっと間違ったらストーカーじゃねーかよ!」

「しっつれーなこと言うなよ。監督として下調べは当然さ」

 俺は藤波に答えを返し、飯島を覗き込む。

「なあ、飯島ちゃん。やってくんね? 一塁ランナー」

「え、あの、でも……」

 飯島は半笑いで目をキョドらせる。そして判断を周りに仰ぐが、

「必ず勝つ。一緒に変えようぜ、野球部。この部は強くなるから」

 よく誤解されるので表情には気を付け、俺は飯島に目を据えたまま続けた。眉間にシワを寄せ、あくまで真面目な顔で。

「か、変えるって……」

「革命だよ」

 そう言うと、飯島の大きな瞳がぼうっと揺れた。


藤波颯太


 ジャージに着替えた飯島は、リードを取って一塁からこっちを凝視していた。

 左投手の俺は彼女を正面に見る形になるので、なんというか、違和感半端ない。それにゲームが始まる前、八雲から長い間指示を受けていたのも気になる。八雲、素人とは言っても頭だけはセコく働きそうだからな。

「えー、では。プレイボール!」

 もったいぶった源センセのコール。塁審にはそれぞれ一年が付いている。

 俺はマウンドの上でふうと息をつき、一塁を見た。そして前に目を戻してから、

「ふっ!」

 と、上体を捻り、素早く一塁へけん制球を送る。

 飯島は「わっ!」とカン良く戻ったけど、こうして釘を刺しときゃ盗塁もできないだろ。八雲の指示だって、どうせ走塁のことに決まってんだし。それに運良くけん制で刺せたら儲けもの。ランナーが帰ってくんのがヤツの勝つための条件だから、その場合でも勝負を続けんの無理になって俺の勝ち。

 俺はまた飯島を見てから、セットポジションに移る。早速ビビったのか、飯島におかしな動きはない。これで大丈夫。俺は念のためにまた飯島を見てから、前のニヤつく八雲に目を移した。

 しかしムカつく顔である。あのニヤけたツラを狙いたくなってくるが……。

 ――ここは冷静にいく。

 八雲は右打席。ボックスの外、しかも手前の方でバットを立てていた。こういうとこも、なんか素人臭い。だいたいスーツのままで打とうとするとか、その辺ナメてるとしか思えない。ジャケットが風にバタついて邪魔だ。

 確かに俺はよく打たれる。ムカつくが、本当に打たれる。

 ホームランは少ないけど球足の速いゴロが内野を抜けていく様を、これまで飽きるほど見てきた。三振に取らなきゃ、守備が俺を助けてくれるとは限らない。目指す理想とあまりに離れた実力に、寝れなくなることもよくある。でも、だからってド素人に打たれるほど落ちぶれてねえし。手加減はナシだ。

 俺はキャッチャーの屋乃さんとサインを交換してから、すっと足を上げる。そしてドンと前に足を踏み込ませると、屋乃さん目がけてボールを投げた。

 そしたらミットからはバシッと気持ち良い音。八雲は打つ気あんのかってスイングで空振り。だけど!

 俺はしゃがみ込みながらうしろに振り向く。モーションに移ったとき、視界の端で土を蹴る飯島のスタートが見えたからだ。――盗塁!

「嘘だろ」

 思わず俺は呟く。

 不意を突かれた屋乃さんは、ボールを掴んで立ち上がったものの送球できない。二塁にスライディングした飯島は、ジャージをパンパンと払い満面の笑み。俺に向けてVサイン。こいつもムカつく。昨日は日直代わってやったのに。

 確かに飯島の足は男子の中に入ってもかなり速い。リトルは同じチームだったけど、ちょいちょい足でヒットを稼いでいたのを知っている。

「ウッザ」

 これも八雲の作戦かよ。まんまと盗塁成功、ランナー二塁で、これでシングルヒットでもホームに帰られる感じ? 素人が生意気なんだよ。うっとうしい。

 苛立ち紛れにマウンドの土を足でならすと、

「どしたよ、降参かい?」

 打席から八雲の軽い声。

「うっせ。空振りのクセによ」

 俺は屋乃さんからボールを受け取って言い返す。そしてマウンド中央でかまえると、ちっと舌打ちをして二塁の飯島を確認。

 さすがに三盗はないだろうけど、念のために、けん制を投げるフリだけ。飯島もその気はなかったみたいで、すんなりと塁に戻った。

 ま、そりゃそうか。三盗は難しい。二盗のようにはいかない。

 俺はボールをグラブに収め、二塁に目をやる。飯島はリードこそ多少デカいが、まあいつでも戻れるような距離。セットに入ってまた見るけど、それは変わらなかった。もう気にすることもねえだろ。

 じゃ、次のボール。

 俺は足を上げると、ゆっくりとボールを握る手をうしろに回す。そして胸を張り左腕を回転させると、思い切りボールを投げ込んだ。

 空気の中を疾走するボール。八雲は狙ってバットを反応させるけど、また体を捻らない腕だけのスイングで空振り。これでツーストライクだけど……。

 ――嘘?

 かまえている屋乃さんが中腰に変わった。走られた? マジで?

 俺はフォロースルーをしながら、目を右にやる。

 そこではサードの隠岐原さんがボールを受け取り、そのグラブで滑り込む飯島にタッチしてるけど、

「セーフ」

 塁審の一年は余裕で手を横に広げた。確かにタイミングはばっちりセーフだったけど……。でも、どうやって盗めた? 俺のクセでも見抜いたのか? それをさっき八雲に聞いていたとか。っていうか、まだクセとかあんのか、俺。あとで問い詰めないと。いや、それよりも飯島のヤツ、前に購買で最後のカレーパンを譲った恩を忘れたのかよ。

「飯島ー」

 俺は腰に手をやり、三塁を向く。

「お前さあ、なにガチめに頑張っちゃってんの? あの素人野郎になんて言われたんだよ。適当に手ェ抜けって」

 俺が声をかけると、

「最初からあんたの味方じゃないし」

 飯島はドヤった顔で反論する。選手として扱われているからか、なんか久しぶりに気分良さそうだった。そうだよな、そういうヤツだったよ、お前は昔から。マネージャーって感じのキャラじゃなかった。

 ま、別にいいし。

 ランナー三塁になったところで、八雲はツーストライク。

 しかも相変わらず立ってるのがボックスの外、しかも手前側の妙な位置。インコースを甘くしたいのか? まあ、どうでもいいけど。次で終わりだ。

 俺は三塁の飯島を見た。彼女も強い目で俺を見返す。

 スクイズだけは気を付けないとダメだけど……。

 それでも気分は楽だ。素人がここぞって場面でバットに当てられるわけがない。しかもツーストライクだからスリーバント。失敗が許されねえし、そんなバントは素人に無理。俺はもう一度飯島を見てから、本塁に目を戻す。

 屋乃さんのミットはアウトコースのボールゾーンだった。見送られてもいいし、あわよくば空振りを狙う配球。

 ――やっぱ分かってる。

 俺が三振を狙うのは、昔から曲げられない染み付いた習性でもあるから。守備を信頼したら痛い目に遭う。

 それに制球には自信があった。俺は三塁ランナーを背に、腹の位置でミットを持つ。さあ、素人野郎。どう出る? スリーバントスクイズか? 当てさせねえよ。

 俺はフッと短く息を吐き出すと、足を上げる。そして手先に神経を集中させて、指の間から抜くようにボールをリリース。

 投げた球種はカーブだ。それを外に。

 これ、スクイズしても素人には当てんのムリ。もし当てられてもスリーバントだから、ファールでもアウト。スイングしてもいままでの振りを見る限りじゃ、空振りするに決まってる。

 これで俺の勝ち!

 俺は確信をもって、ボールの行方を見守った。

 するとボールは弧を描いて落ちていき、八雲はそれに誘われるようにバットを反応させる。ややこしいルールでも、こいつをアウトにすりゃそれでいい。

 タイミングもゾーンも合っていない八雲のスイングはボールに触れることはなく、そのまま踊るように宙を切った。球はそれを嘲笑うかのように、屋乃さんのミットにスパンと収まる。

 勝った!

 俺は手を握り、源センセはストライクとコールしかけ、屋乃さんは立ち上がりボールを一塁に送ろうとする。しかし!

 ザッと目の前に土煙が上がった。

 ――え?

 たぶん、全員が意表を突かれた。

 俺も屋乃さんも源センセも守備もギャラリーも。

 全員が、完全に意表を突かれた。

 半ば呆けて見ると、土煙の中にはメットを押さえて足を伸ばす飯島の姿。その足はホームベースを間違いなく貫いていた。事態を理解するのに、俺は一瞬かかった。

 慌てて屋乃さんは屈み、飯島の足をグラブで押さえるが、

「セーフ! セーフ!」

 源センセの手は横に広がった。

 ――なにそれ、本盗?

 マジで? 俺、負けたの?



「いんやあ、見事なホームスチールだったね、飯島ちゃん」

 ニヒヒと笑いながら、俺は飯島と手を伸ばしてハイタッチ。彼女も一緒になってワハハと笑ってるし、計画通りというのはやはり清々しい。マネージャーだが経歴からプレーも好きだろうと踏んだのだが、ズバリだった。

 勝負が終わると、誰に号令をかけられたわけでもないのに、部員たちは本塁付近に集まり俺を囲んだ。さっきまでは見物しながらふざけていた彼らも、いまは全員が敬意を示すように帽子を取っている。藤波でさえも非常に不愉快そうだが、他の部員たちに倣うように脱帽していた。

「なんで盗めたんだよ、素人野郎」

 それでも口だけは悪い藤波。これは大物だ。

「なーんでだと思うね、藤波クンよ」

「分かんねーから聞いてんだろうが。三つまでなら、まあ納得できんだけど、ホームスチールまで絡むの有り得ねーし。飯島の足が速いっていったって、ブランクあるし普通にムリだから」

「僕も不思議です、八雲さん。多少大きなモーションですが、藤波は別に盗塁しやすいピッチャーというわけでもないですし」

 藤波に源太郎丸が続いた。経験者を出し抜くのはなかなか気分が良い。

「ま、簡単に言えば統計だよ。俺はお前らの試合のビデオ、ここ三年分は全部見たぜ」

「さ、三年分、全部?」

「そだよ。記録として動画は残す。タローちゃんの方針に助けられたね」

 部員全員で目を丸くする。「ガチめなストーカーなんじゃね?」と藤波が呟いたが聞こえないフリをした。

「俺はその試合の動画を見ながらさあ、気が付くとこを全部データに取って残したからね。藤波。お前のクセも、ぜーんぶだ」

「クセ? ピッチングのクセはもう矯正してるハズだけど」

「モーションはそうかもな。でも俺が見たのは目さ」

「目?」

「そう。ノーアウト一塁。シーンを頭に描いてみろよ、藤波」

「…………」

 藤波は不愉快そうに顔を歪めたが、知りたい気持ちには敵わないのだろう。シーンを想像するように、中空を見据えた。

「いいかー。ファーストランナーは俊足だ。でもリードは大きくなくて、意図はまだ読めない。さあ、お前はどうする?」

 藤波は想像上の自分を動かしているのだろうか。僅かに体を連動させ、

「――けん制、する」

 と、答えた。

「だろうな。で、けん制をしない場合はどうだ? 細かく思い起こせ」

 条件を課すと、藤波は焦点の合わない目で腕を組んだ。恐らく頭の中でシーンを仔細に描いている。なんだかんだ素直でいい。が、ここでタネ明かし。

「二回、ファーストを見なかったか?」

 正解を知っているクイズに答える気分だった。問いかけると藤波は、

「……なんで?」

 正誤を返答せず、まず理由を聞き返してくる。しかし幻でも目にしたかのようなその眼差しに、俺は自分の言葉が正鵠を射ていたことを確信した。

「藤波。俺ぁビデオでずーっと見てたよ。お前はランナー一塁のとき、ファーストを確認しねーでけん制する確率が6%。けん制の場合は、ほぼ必ず視線で威嚇してからだった。違うか?」

「……ああ」

 自分の行動に思い当たるところがあるのだろう。藤波は舌打ちと共に返事をした。

「一度確認してけん制する確率は89%。だけど二度確認してけん制する確率は、2%まで落ちる。三度はデータがなかった。二度の場合の2%はランナーのリードが大きな場合に限っていたから、ケースとして排除していい可能性だ」

「――それを飯島に伝えて、走らせたってわけか」

「そういうこと。ランナーいた場合、お前は二回の威嚇を挟んでから投げてたんでな。ただ本盗に関しちゃ、藤波よりむしろ屋乃のクセが重要でさ」

 俺は余勢を駆って、次は屋乃に目を向けた。いかにも寡黙なツラをしている彼は、口をへの字にしたまま黙って聞いている。

「お前は打者が三振したとき、間髪入れずにボール回しするよな。そんとき、右打者の場合は腰を浮かせてファーストに視線を移すはずだ。俺の見た範囲じゃそれは68%。ただし残りの確率の内29%は、判定が際どいケースで審判のコール待ちだった。だから俺が空振りして三振になってやれば、その確率は排除できる」

「…………」

 屋乃は黙ったままだったが、目を伏せた。心当たりがある様子だ。

「俺は念のため、飯島を体とスーツで隠して打席に入りゃそれでよかった。あとは空振りするだけ。お前らのこのクセ。重なったら本盗も可能だ。そう思わねえ?」

 俺はあえて疑問形を使ったが、答えは既に実証済みだ。

「あの、監督」

 飯島が小さく手を上げた。

「アッキーって呼ぶ約束だろ?」

「……あの、アッキー」

 飯島は半笑いで、手を下ろした。

「ちょっと不思議なんだけど。そこまで調べてるってことは、もしかしてこの状況、ワザと?」

「……そうだ」

 俺はバットを地面に突いて答えた。

「誰かが俺に疑問をぶつけてくれると思ってた。そうなればこういう形にもっていこうって筋書きだ。もちろん、他にもシナリオはあったが」

 俺はバットを地面に突いて全員を見回した。

「俺は確かに野球の素人だよ。だけどもな、統計を使う仕事じゃあよ、これまでデータサイエンティストとしてプロでやってきてる。俺はそれを使って、この野球部に革命を起こすつもりだ。今日はどんな形を取ってでも、それをみんなに見せたかった」

「統計?」

 藤波は目を上げ、俺を正視した。

「なんだよ、それ。あんたが今日やったセコい戦術かよ」

「セコいってなんだ。賢いって言えよ」

「あんなあ、素人野郎。面白くねーけど、確かに今日は負けたよ。でもな、こんなんがずっと通用するほど甘いわけねーだろうが。今回ハマったって他でも成功するとか、ちょっと違うんじゃね?」

「慌てなさんな」

 俺は藤波に視線を返す。余裕の笑みも付け足して。

「今日のは挨拶代わりだよ。あんなもん、俺が使う理論のリの字にもなってねえ」

「なんだよ、もったいぶんなよ。データ野球的ななんかだろ?」

「データ野球、ね。似てるんだけども違う。データなんて、あるだけならただの数字。肝心なのはその分析方法と活用だぜ」

 俺はそう言って、バックネット横にある黒板式のスコアボードまで足を進めた。そして全員の注目を集めつつその下部にある余白に、カツカツとチョークを躍らせる。

 セイバーメトリクス。

 スコアボードに、俺はそう書いた。

「セイバー? メトリクス?」

 部員の誰もが、眉間にシワを寄せて目を凝らす。

「そーだ。こいつぁ野球にデータサイエンスを取り入れた概念になる。統計を使って野球をアナライズする手法だ。野球のデータっつーのは離散的だからさ、統計解析に向いてるのよね」

 俺は指の関節でスコアボードを叩きながら、振り返って部員たちに目をやる。

「聞いたことある」

「ねえよ。なんだよ、データサイ? なんとかって」

 彼らの反応はまちまちだ。ただこの辺りも予想通り。使いこなせる者が少ないからこそ、俺の仕事が相対的に価値を発揮する。俺はただその一点のみに勝機を見出し、ここに来た。自分の全てはチップに変えてテーブルに置いている。

 チョークを持つ手に力が入った。いまここが全てのスタートだ。

「はい、アッキー」

 噛み締めていると、ここで飯島が手を上げた。

「えーっと、あの。データサイエンスって、打率とか守備率とかってことですか?」

「確かにそれもデータの一つだけどな。でも単に確率を示しただけのものとセイバーメトリクスは、概念そのものがちょーっと違うな」

 俺は軽く首を振った。この子がいるといい。説明がスムーズに運ぶ。

「じゃあ、スコアラーみたいなことするの?」

「むしろスコアラーに渡す資料を作るのが仕事だ。これは野球の経験っつーよりもだな、むしろ統計学を正しく使える知識が必要になってくる。だっからこそ俺なわけなんだよね」

 説明するが、部員たちの口は半開き。人間が初めて文明に触れたらこんな顔になるのかもしれないと思ったら、少し面白い。

「まあ、いきなりこんなこと言われちゃっても分からねえと思う。だから一つ例を取って説明しようと思うんだけれども」

 俺はスコアボードの下に、『OBP』と書き込んだ。

「例えばこれはセイバーの代表的な指標の一つ。On-base percentageの頭文字を取ったもんだ。なぁに示していると思う?」

 俺は言いながら、チョークをキャプテンの大和田に向けた。秋高野球部は髪型が自由なのに、きっちり丸刈りにしている律儀なヤツ。動きがキビキビしていて、いかにも几帳面なタイプだ。

「わ、分かりません!」

 ピシッと背筋を伸ばして大和田は答える。

「ヒントは打撃に関する指標ってことだ。藤波は?」

「知らねえ」

 耳をほじりながら答える藤波。

「じゃあ、屋乃。分かるか?」

 俺はキャッチャーの屋乃を目で指した。常に少し不機嫌そうな、朴訥とした雰囲気の三年生。髪は短く面長で、石像のように表情がないが、

「……そうやって、分からないって答えを引き出し続けるの……、人になにかを教える資質がないと思う……」

 言葉は人の心の内角を上手くえぐってくる。けっこう容赦がないところはキャッチャー向きなのだろうか。

 俺は屋乃にしかめた顔を返してから、『出塁率』と、スコアボードの端に書き込んだ。

「なにそれ、打率的なアレ?」

 隠岐原が文字を覗き込みながら、相変わらず貧困な語彙で言った。お前はここまで説明の流れを聞いてなかっただろ。

「違うよ。単純に塁に出る確率のこーと。セイバーじゃあね、打者がアウトにならない確率ってのが重要視されるんだよね。基本的な指標の一つだぜ」

 前置きして、俺はOBPについてかいつまんで説明する。

『打者がアウトにならない』とは回りくどい表現だが、例えば現状、指導者によっては四球よりシングルヒットが重要と評価されるケースが多い。しかしセイバーにおいて二つは等価値で、アウトにならない限りは出塁できるという考えを採っている。だからヒットを打つことよりもアウトにならないことが重く見られ、表現もそうなってしまうのだ。

 そしてOBPはその確率を示すもの。(安打+四球+死球)÷(打数+四球+死球+犠飛)で求められる。

 相手のエラーは打者自身の実力ではないので除外。犠打は最初からアウトになることが前提の戦略のため、分母には含めない。この計算によってバッターがどれくらいの確率でアウトにならなかったかが求められる。得点への相関は打率よりも高い。セイバーメトリクスにおいては重要かつ、基礎の基礎となる指標である。

「それ、監督の口から出てきたら超胡散臭いんだけど。合ってんの、源センセ」

 隠岐原が言った。本人目の前によく言えるな。

「僕もあんまり詳しくないけどね。ただ監督が来る前に少し勉強したけど、本に書いてあったのはその通りだったよ」

 源太郎丸がフォローするように言った。さっきから俺の一歩引いた位置にいて、少なくとも部員の前では、もう補佐としての役割に徹してくれているのかもしれない。

「まあ、これからセイバーについてもおいおい説明していく。んで、これがね、俺が作るチームの絶対的な軸になることは覚えておいてくれ。もちろん、レギュラーの入れ替えだって全然あっちゃうから」

 宣言、というより釘を刺すように言うと、どこか緩んでいた部員たちの顔へ、不意を突かれたように影が走った。不吉な予感が形になった。そんな表情だ。

 ――ま、ついでか。先にやっとこう。病巣は早めに取り除いた方がいい。

「あー、話題が出たから言っとくけど、浜中」

 俺は部員たちの端で説明を聞く浜中をチョークで指す。栗色に焼けた真面目そうな丸顔の中に、どことなく弱々しさも滲む三年生。まだまだ垢抜けない面持ちの彼は「僕?」とでも言うように自分を指さした。

「そーだ。お前だ」

 確認を肯定すると浜中は、怯えるような目付きで少し首を竦めた。悪い予感を受け取る準備をしている、そんな表情だ。

「あんねえ。君の残り少ない高校生活をだな、意味あるものにするため先にお耳に入れておくけれどもな」

 前置きすると、浜中は真顔になった。

「お前のOBPは低過ぎる。レギュラー降格だ」