「へー。友香、また新しいSNS始めたんだ」

「うん。礼音もフォローしといてね? これが私のアカウント」

 九月末のある日、昼食を終えたばかりの学内カフェにて。大学入学以来の友人である波平友香が、二次元コードの表示されたスマホをこちらに向けて微笑んだ。

 ブックタイプのスマホケースは淡い水色で、それを持つ指は細く柔らかく、綺麗に整えられたネイルはピンク色。ゆるやかにウェーブのかかった髪と言い、ふわっと広がったシフォンのシャツと言い、相変わらず可愛くガーリッシュな友人の姿に、あたし、湯ノ山礼音はしみじみと感心し、バッグから携帯端末を取り出した。

 こちらのケースは頑丈さ重視の武骨な合成樹脂製で、合気道で鍛えた指と手は見るからに硬く、ついでに言うと髪はさっぱり短くて、身につけているのはタンクトップにショートパンツにスポーツサンダル。友香とはえらい差であるなあと嘆息しつつ、あたしはカメラアプリを立ち上げ、友香のスマホの画面に向けた。白黒が入り乱れたモザイク状の画像は一見意味不明だが、レンズをかざすとアプリが自動で情報を読み取り、リンク先が開かれる。便利なものだ、二次元コード。

「あ。友香、これ、新しいアプリ入れないと見られないやつじゃない」

「大丈夫。無料だし軽いから。てかさー、礼音のスマホ容量空いてるでしょ?」

「そうだけど」

 若干の面倒くささを感じつつ「ダウンロードしてインストール」にタッチする。インストールに時間が掛かりそうだったので、あたしはアイコンがぐるぐる回り始めた携帯をテーブルに置き、飲みかけだったアイスコーヒーのグラスを手に取った。

 夏休みの間は静かだったキャンパス内だが、後期の講義が始まった今は相応の賑やかさだ。氷が溶けて薄くなったコーヒーに口を付け、ぼんやりあたりを眺めながら、あたしは「平和だな」と思い、「今のところは」と付け足した。

 この前の夏休み、あたしはバイト先の牧場で起こった予言獣騒動に巻き込まれた。あの一件は絶対城阿頼耶先輩のおかげもあって無事に解決したのだが、問題はその後だ。一件落着した少し後、妖怪の知識を占有し悪用する正体不明の存在「白澤」から、警告と脅迫と宣戦布告を兼ねた電話が掛かってきたことは先輩から聞いている。お前は予言獣のような――つまり、ウイルスのようなものかと尋ねた先輩に、白澤は「もっと高度でもっと君に近しい存在」と答えたのだそうだ。

 あれ以来、何も起こってはいないけれど、だからといって油断はできない。白澤が敵視した相手の命を容赦なく狙うことは、手品師兼詐欺師の「狐」が、仲間で愛犬のバケギツネのタマ達ともども焼き殺されかけた一件で明らかだ。しかも、白澤は政財界に多くの信者を抱えており、彼らを操るだけでなく、その心を一時的に乗っ取ったり記憶を消したりする力も持っているのだから、これはもう身構えない方が難しい。

 まあ、名指しで狙われているのはあたしではなく絶対城先輩なのだが、仮にも先輩のサンプル……ではなく、もう少し距離が近くて大事な存在である以上、見過ごせるはずもない。絶対城先輩の貴重な友人である杵松明人さんと一緒に、関わるなと言われても関わりますからね、と先輩に釘を刺したことは記憶に新しく――。

「……やね? 礼音? 聞いてる? 顔が怖いよ?」

「へっ」

 友香の呼びかけに、あたしはハッと我に返った。目の前では友人がじろりとあたしを睨んでおり、テーブルの上の携帯には「インストールが終了しました」のメッセージとともにアカウント新設画面が表示されている。

「ごめんごめん。何の話?」

「礼音はSNSとか全然やらないよねって話」

「あー」

 新しいアカウントの登録をしつつ――どうせ閲覧専門になるのだから、設定は最低限で充分だ――あたしは苦笑して言葉を濁した。同じ事は友香以外の友人知人にも何度か言われているし、現代の女子らしく積極的な情報公開を促されたりもしたのだが、結局何もせず今に至っている。

「こういうのって、どうも性に合わないと言うか、見てるだけで充分って言うか……ね? あたし別に公開することなんかないし、文章苦手だし」

「写真だけでもいいの。私だって写真ばっかりだから。でも礼音、写真も全然撮らないよね。思い出に残したくないの?」

「覚えればいいかなと」

「何その答。江戸時代の人?」

「現代人です。ほら、あたしずっと合気道やってるでしょ。でさ、合気道の技とか型を覚える時、いちいち写真なんか撮ってられないじゃない」

「じゃないって言われても知りませんけど。そうなの?」

「そうなの。動作確認のために動画を撮ったり見たりはするけど、それは人に見せるためのものじゃないしね。だから、覚えておきたい光景は頭に叩き込むのが習慣になってて……」

「……写真を撮る習慣が身についていない、と。礼音はほんと礼音だねー」

 あたしのコメントを先読みした後、友香は感心とも呆れともつかない声を漏らし、不可解そうに首を傾げた。

「普通、彼氏できたらもっと浮つくものなのに……。礼音さ、あの妖怪学の人と付き合い始めてそろそろ三か月で、今も彼のところに通ってるんだよね」

「え? ま、まあ……それは、否定しようのない事実ではある、かも」

「目を逸らさない。そういう時、二人で自撮りしたりしないの?」

「……自撮り? 絶対城先輩と? あたしが? 二人で?」

 思い切り眉根を寄せながらその光景を想像し、直後、あたしは首を左右にきっぱり振っていた。ないない。それはありえない。そんなことが起きたなら、それはもう妖怪の仕業か、もしくはどっちかが偽物だ。

「先輩、あたし以上に写真撮らない人だしねー。やるとしたら杵松さんかな」

「杵松さん?」

「あれ、友香は知らなかったっけ? 杵松明人さん。先輩の友達で理工学部の四年生で、白衣で眼鏡で爽やかで優しい」

「知ってるけど、何で彼氏彼女の話に急に三人目が出てくるの」

 再度不可解そうな顔になって訝しむ友香である。何でと言われましても、杵松さんは先輩との付き合いはあたしより長く、先輩のところにもよく顔を出しており、あたしもあの人とは仲が良い。確かに彼氏彼女の関係なのは先輩とあたしの二人だが、二人きりでいるよりむしろ三人でいる時の方がしっくりくるくらいなのです。そう説明すると、友香はなおさら分からないという顔になった後、「まあ、それでいいなら、いいんじゃない?」と当たり障りのないコメントを口にした。


***


 その日の夜、講義を終えたあたしはいつものように文学部四号館の四十四番資料室に立ち寄った。

「こんばんはー」

 気分的には「ただいま」に近いのだけど、自宅ではないのでそれはおかしいか。自問自答しつつドアを開け、本棚が林立した薄暗い空間を進み、来客用の応接スペースを抜けると、本棚に囲まれた畳敷きの一角が現れる。

 流し台とコンロと冷蔵庫を備えた小さな台所、無地のカーテンの掛かった窓に布団や箪笥を隠す衝立、そして方々に積まれた書物の山。生活感があるともないとも言えない空間の片隅で、モノクロの青年が一人、愛用の文机に向かっていた。

 痩せぎすの長身に白のワイシャツと黒い羽織を重ね、首元には少し緩めた黒のネクタイ。ノートパソコンの光に照らされた青白い仏頂面は陰気だが端整で、前髪は目に被さるほど長い。この部屋の主であり、妖怪学の徒であり、そして数か月前からあたしの恋人でもある――そのことを自覚するとまだ若干照れる――絶対城阿頼耶先輩は、あたしに気付いて顔を上げ、バリトンの効いた声を発した。

「来ていたのか」

「ええ。今日も一緒に晩御飯食べようと思って。こんばんはって挨拶したじゃないですか。聞こえませんでした?」

「そうなのか? すまないユーレイ、考え事をしていたものでな」

 バッグを置くあたしに先輩は軽く頭を下げ、開いていたノートパソコンを閉じた。文机の周りにははお馴染みの妖怪関係の古書や記録だけでなく、ネットワークだのハッキングだのといった横文字が躍る情報処理関連の専門書や洋書が積み上げられている。先輩曰く、妖怪学はあらゆる分野を踏まえて成り立つ学問とのことだから、どんなジャンルの資料があっても今さら驚きもしないし、ユーレイというのはあたしの名前をもじって先輩が付けたニックネームなのだけど、それはともかく、どうも先輩に元気がないのが気になった。

 軽く首を傾げてちょこんと先輩の隣に座ると、胸元で先輩お手製のリング状のペンダントが揺れた。これを外して真怪「覚」の資質を解放すれば目の前の相手の気持ちを読み取れるが、その力はいざという時にしか使わないと決めている。第一、直接聞いた方がよっぽど早い。

「どうかしたんですか、先輩?」

「何? どういう意味だ」

「そのまんまの意味ですよ。暗い顔して、どうしたんです?」

「俺はいつも陰気だぞ」

「知ってますけど、いつも以上に陰気じゃないですか。何かあったんですか?」

 まっすぐ見つめて尋ねてやる。と、前髪に隠れた双眸が少し揺らいで視線が逸れ、すぐにあたしを見返した。

「実は……ああ、いや。やはりやめておこう。気にするな、何でもない」

「了解です! なーんだ、何でもなかったんですね――って言えると思います? そんな言い方されて気にならないわけないでしょう」

「分かるが、まだ話す段階ではないんだ。確証が得られたわけでもないからな」

「だから何の話を――」

「こんばんはー」

 やきもきしたあたしが追及するのと同時に、パーテーション代わりの本棚の向こうから聞き慣れた声が投げかけられた。あ、この声は。

「こんばんは杵松さん。お先にお邪魔してます」

「やあ、湯ノ山さんもいたんだね」

 気さくな声とともに現れたのは、ネイビーブルーのTシャツに白衣姿の青年だった。細いフレームの眼鏡越しの視線は穏やかで、明るい色の髪は短く、手足は細く引き締まり、片手には野菜や食材のどっさり入ったエコバッグを提げている。絶対城先輩の希少で貴重な友人にして、元演劇部の理工学部四年生。四十四番資料室のギミック担当でもある杵松明人さんは「安かったからつい買いすぎちゃった」とエコバッグを掲げ、部屋の隅の台所へ向かった。

「冷蔵庫に入れさせてもらうね。そうだ阿頼耶、携帯の充電させてもらっていい?」

「いつも好きに使えと言っているだろう。この建物も資料も俺の名義だが、光熱水費は大学持ちだ」

「よく分からない扱いだよね、ここ。じゃあいつものように、お言葉に甘えて……」

 取り出したスマホと充電器をコンセントに差し込んだ後、杵松さんは食材をいそいそと冷蔵庫に収納し始めた。あたしも人のことは言えないが、まるで自宅のような馴染みっぷりだ。

「何買ってきたんです?」

「豚バラに葉野菜色々、あとは卵に牛乳に……。湯ノ山さんも夕食まだだよね? 今から作るけど、良かったら食べていくかい?」

「いいんですか? ありがとうございます!」

 杵松さんの問いかけにあたしは目を輝かせてうなずいた。この資料室の男子チームは、杵松さんも絶対城先輩も、料理の腕前には定評がある。少なくともあたしの中では。その時々の関心や興味で作るものがコロコロ変わる杵松さんに対し、意外にも庶民的なメニュー全般をそつなくこなす先輩と、方向性は違うのだが、どちらの料理も味だけでなく栄養バランスも良く、あたしがここに通う大きな理由の一つとなっていた。結果、あたしの自炊の腕は一向に上達していないのだが、まあそれはそれだ。

「ごちそうさまです。ご飯炊いた方がいいですか?」

「パスタだから大丈夫。阿頼耶と待っていてくれればいいよ」

「いつもありがとうございます……。じゃあ――っと、そうだ先輩。さっき言いかけた話って」

「いい。別に大した話じゃない」

 あたしが振り返った先で先輩が首を横に振った。さっきの物憂げな雰囲気はいつの間にか消え失せており、普段通りの仏頂面に戻っている。仏頂面が平常というのもおかしいのだが、この人の場合はそうなのだから仕方ない。そんなに心配する必要もなかったのかなと安堵していると、ふいに先輩が杵松さんに呼びかけた。

「明人。お前、国立文書館に行ったことがあったな?」

「国立文書館? あるけど、出し抜けにどうしたんだい?」

「国立文書館って」

「要するに、守備範囲の広い図書館みたいな施設さ」

 口を挟んだあたしの問いに杵松さんが答えた。白衣を脱いでエプロンを着けた理工学部生は、鍋に水を張りながら説明を重ねる。

「公文書の他、パンフレットやチラシ類、それに古文書まで、文献であれば何でもファイリングして保存して公開してるところだよ。設立は戦後すぐだから古いけど、ちょっと前に改装されたから、建物自体はすごく新しい。一般の利用者は少なくて、利用してるのはほとんど研究者とか官僚の人……だと思うよ、多分。公文書も多いから、国の仕事してる人は、必ず一度は行くんじゃないかな」

「へえ。杵松さん、そんなところに何しに行ったんです?」

「『狐』の一味の素性を調べてた時、演芸場の出演者の記録を見にね。ほら、七月の半ばに、阿頼耶と湯ノ山さんが手品師に話を聞きに行ったことがあったろ? ちょうどあの時だ」

「ああ。そう言えばあの時、杵松さんは別行動してましたよね」

「うん。文書館は結構遠くて、電車を乗り継いで三時間も掛かるから、分かれた方が効率いいよねって僕が言ったんだ。それで阿頼耶、文書館がどうかしたのかい?」

「そこで何か変わったことはなかったか?」

「変わったこと……? いや、特に何も?」

 鍋を火にかけた杵松さんが眉根を寄せ、どういうことだろうと言いたげにあたしを見る。そんな顔をされたって、分からないのはあたしも同じだ。先輩にしては随分漠然とした聞き方だけど、何があったと思っているのだろう? だが先輩は何を補足するでもなく、ただ「そうか」とだけうなずき、その話題はそこで終わってしまった。


***


 その翌朝、朝食と身支度を済ませてアパートを出ると、自転車置き場にきっちりした装いの男性が待っていた。

 背は高くて色白で、長めの髪を綺麗に撫で付け、身に着けているのはライトグレーのジャケットに折り目の付いた細身のスラックス。よう、と会釈をされたあたしは、一瞬だけ戸惑って足を止め、すぐに笑った。

「何だ。誰かと思えば絶対城先輩じゃないですか」

「俺に決まっているだろう。誰だと思ったんだ」

「ちゃんとした格好は見慣れてないから、急に出てこられると『え、誰だっけ』ってなるんですよ。朝っぱらからどうしたんです?」

「今から国立文書館に行く」

「国立文書館? 昨夜話してたところですよね。でも、何でまた」

「……理由は言えない。まだ、確信しているわけではないからな。だが、できることなら、お前に一緒に来てほしいんだ。良ければの話だが……」

 首を捻って見上げた先で、先輩は目を逸らして言葉を濁した。

 昨日聞いた話によると、国立文書館までは電車で片道三時間ちょっと。先輩の用事が何だか知らないが、行って帰ってくるだけでもほぼ丸一日掛かるわけで、つまり先輩に同行するなら今日の講義は全部休むことになる。あたしはまず、ノートや教科書を入れた自分のバッグを一瞥し、続いて目の前に立つ青年を見た。

 お馴染みの整った仏頂面の向こうに、そこはかとない申し訳なさ、そして不安がうっすら透けて見えている。さすがに言葉少なだと思ったのだろう、先輩はさらに何か言い足そうとしたが、あたしはそれより早く口を開いていた。

「いいですよ。行きましょう」

「いいのか?」

「自分で誘って不安にならないでくださいよ。大丈夫です。あたし、これでも優等生……かどうかは微妙ですが、講義はちゃんと出てますからね。一日さぼったくらいでどうにかなるなんてことはないですし、ノートは友達に見せてもらえばいいし」

「だが――自分で言うのもおかしな話だが――俺はまだ何も説明していないんだぞ」

「先輩のことは信用してますから。それに、何か思いつめてるのも分かりますし……だったら、力になりたいじゃないですか」

 そう言ってあたしが笑ってみせると、先輩はハッと息を呑み、「すまない」とだけ言って小さく頭を下げたのだった。うん、素直でよろしい。

「どういたしまして。不安なら手でも握りましょうか」

「つけあがるな」

「ひどい!」


***


 というわけで電車を乗り継ぐこと三時間強。ようやく辿り着いた国立文書館は、都市部の郊外、緑豊かな公園の中にそびえる巨大建造物だった。

 ピラミッドから先端部分を取り除いて縦に押しつぶしたような形状で、窓は少なく、壁の色は白に近い明るいグレー。高さは五、六階建てのビルくらいなので高層建築という感じはしないが、床面積は陸上競技場なみに広い。公園の木々の向こうに白い台形がうずくまっている光景は、まるで巨大な亀か甲虫が地面に伏せているようで、妙な威圧感があった。

 受付で利用登録を済ませて開架室に入ると、同規格のスチール製の本棚がずらりと並ぶ、遠近法の概念図じみた風景が現れた。壁際には利用者用の机が据え付けられ、制服姿の警備員が巡回しており、棚の間には資料検索用の端末も。入り口近くのカウンターには「コピー」「問い合わせ」のプレートが掲げられていた。

「確かに図書館みたいですね」

「まあ、機能的にはほぼ同じだからな」

 あたしが歩きながら小声で漏らした感想に、先を行く先輩が抑えた声でうなずいた。

 資料がぎっしり整列している部屋という意味では、馴染んだ四十四番資料室とも似ているはずなのだが、建物自体の新しさや蛍光灯の明るさのせいで受ける雰囲気はまるで違う。受付に掲示されていた利用案内によれば、この建物は三階建てだ。来館者に解放されているのはこの一階部分だけで、二階か三階にある資料が見たいときはカウンターで申請して持ってきてもらうシステムらしい。思っていたより利用者は多いものの、みんな口をつぐんでいるため、フロアは静まり返っている。なのでこっちも小声になる。

「……それで先輩、何を調べに来たんです?」

「ん? ああ、どの棚のどの資料が目当てというわけでもないんだが……」

「はい? じゃあわざわざ何をしに? と言うか、どうして」

「やあ、ここにいたのか」

 どうしてあたしを連れてきたんです? そう尋ねようとした矢先、聞き慣れた声があたしの問いに被さった。

「え」

「――何?」

 昨日と同じパターンに驚くあたしと絶対城先輩。足を止めたあたし達が声の方向へと振り返ると、やはりと言うべきか、よく見知った顔がそこにあった。

「こんにちは、阿頼耶、湯ノ山さん」

 温和な口調と柔和な笑み、明るい色の短髪に引き締まった長身。学外なので濃紺のTシャツに重ねているのは白衣ではなく白地のシャツだったが、まぎれもなく杵松さんだ。偶然出くわすような場所でもないし、だとしたら先輩があらかじめ呼んでいたのだろう。驚かさないでくださいよとあたしは苦笑し、挨拶を返した。

「こんにちは杵松さん。先輩、杵松さんも来る予定だったなら、最初から教えてくれればいいのに」

「……いや、俺は明人に声は掛けていない」

「うん。僕は勝手に追いかけてきたんだ。伝えたいことがあってさ」

 杵松さんはそう言って手早くあたりを見回し、あたしと先輩に顔を近づけた。いつになく真面目な表情と口調で、抑えた声をぼそりと発する。

「……実は、昨夜遅く、白澤からまた警告があったんだ。脅迫と言ってもいいけど」

「え。杵松さんのところに?」

「そうなんだよ。詳しく話したいから、とりあえずここを出よう」

「は、はい! 先輩、そういうことなら――」

 驚きながら隣を見た瞬間、あたしは戸惑い、絶句した。

 元々青白い肌はいっそう蒼白で、双眸は大きく見開かれている。気のおけない友人が脅迫されているのだから驚くのは当然だが、今の先輩はまるで……そう、杵松さんを気遣っているのではなく、警戒しているように見えてしまう。と、杵松さんもあたし同様に戸惑ったようで、軽く肩をすくめて首を傾げ、青ざめた友人へと歩み寄った。

「阿頼耶、どうしたんだい? どうしてそんな怖い顔を……」

「――黙れ」

「えっ?」

「白澤の言葉に貸す耳はない」

 重低音での断言が、開架室に響き渡った。

 それを聞くなり、杵松さんはきょとんと目を丸くして足を止めた。相当驚いたようだが当然だ。そしてあたしも同感だ。

 だって、聞き間違いでなければ――先輩の声は聞き取りやすいので、その可能性はほとんどないのだが――今、先輩は、杵松さんのことを……。

「は、『白澤』って呼びました……?」

「呼んだ」

「白澤って、あの……」

「無論、妖怪の知識を占有し利己的に利用する存在にして、政財界に大勢の信者を抱え、人の命を何とも思わず、先人への敬意も払わない、稀代の大悪党のことだ」

 あたしが質問を言い終える前に、しっかりと張りのある――それでいて、ほんの少しだけ震えたバリトンボイスが再び響く。杵松さんは戸惑いの表情で黙っていたが、ややあって困ったように首を傾げ、声を発した。

「……えーと。つまり阿頼耶は、今の僕は白澤に操られているって言いたいのかな? 件の事件で、県警本部長が誰かの言葉で話した時みたいに」

「違う。俺が今まで見てきた限り、白澤が他者の意識を奪ってコントロールできるのは短時間にすぎない。お前はあくまで杵松明人で――それでいて、同時に白澤だった。それが、現時点での俺の結論だ」

 いつも通りの親友を前に、先輩がきっぱりと言い放つ。あたしは口を挟もうとしたが、何を言っていいのか分からない。先輩は深く短く息を吸い、敵意に満ちた鋭い眼差しを杵松さんに向けたまま、さらに言葉を重ねる。

「お前がそうである可能性は以前から考えてはいた。きっかけは、白澤を調べ始めたばかりの『狐』が焼き殺されかけた一件だったが……疑念が大きくなったのは、予言獣事件の直後に警告を受けた時だ。あの時のやり取りで、俺は予言獣を生む原因がウイルスであると明言したが、それを聞いた白澤は驚いた様子も見せなかった。おそらくその事実を前もって知っていたんだ。そして、予言獣を生む原因――件ウイルスの正体を知っているのは、牧場の蒔原夫妻の他には俺達三人だけ。『狐』のことも件ウイルスのことも知っているのは、俺とお前とユーレイくらいだ」

「それだけの理由で僕を疑うのかい? あんまり阿頼耶らしくないし、理論的じゃないなあ。それなら湯ノ山さんだって怪しくなっちゃうし、『狐』の一件は彼女が……『彼』かもしれないけど、ともかくあの人がどこかで尻尾を出して気付かれてしまったんだろう。件ウイルスのことだってさ、白澤は予言獣の研究データを欲しがってて、昔には予言獣を使った実験をやったとも言ってたんだろ? ずっと前から件ウイルスの存在を知ってたんじゃないの?」

「白澤が理解していたのはせいぜい、『予言獣を媒介にして拡散する何かが新たな予言獣を生む』という現象だけで、その正体が脳機能を拡張するウイルスであるという事実までは把握していなかった……あるいは仮説段階だったと俺は見ている。白澤が以前に予言獣を広める実験を行ったのは明治時代。ウイルスのサンプルを取り出し、保存し、観察する技術はまだなかったはずだからな。だからこそ、白澤はサンプルだけでなく研究データをも欲しがったんだ。自らの仮説を証明するために」

「なるほど。理論的ではあるね。それに、その推論が正しいなら、確かに僕が白澤である可能性も高くなってしまう。……いやあ、あの時の宣戦布告はちょっと早まったかな」

「き、杵松さん? 何を乗っかってるんですか? 反論しないと!」

「それは無理だよ」

「えっ? 無理って、どうして――」

「だって僕、白澤だもの。しばらく前からね」

 この上なくあっさりと、聞き慣れた優しい語り口で、見慣れた微笑を浮かべながら。

 杵松さんははっきり言い切り、駄目押しのように、袖口に隠れていた腕輪を見せた。シンプルな革製のブレスレットには、白澤のシンボルである三つの目玉を象った紋様が、くっきりと刻み込まれていた。

「バラすのがちょっと早かったかな? でも、疑われちゃった以上、ごまかし続けるのも面倒だからね」

 杵松さんに悪びれる気配はまるでなく、嘘を吐いている様子も微塵もない。あまりに堂々とした告白に、あたしの肺は呼吸を忘れ、視界が大きくぐらりと歪んだ。

 当たり前だと信じていた常識が裏返ったかのようなショックに、吐き気と眩暈が同時に襲う。って、何やってるんだ! 踏ん張れあたし! 反射的にあたしは自分で自分に活を入れ、スポーツサンダルで文書館の床を踏みしめた。

 このフロアにはそれなりの数の利用者がいて、警備員も巡回していたはずなのに、気が付けば視界には隣の絶対城先輩と正面の杵松さんの他には誰の姿も見当たらなかった。いつの間にか不思議な世界に放り込まれてしまったような違和感にぞっと背筋が泡立ったが、ここはまだ現実のはずで、そして今問題にすべきは人気の絶えた開架室ではなく、杵松さんの告白だ。思わずキッと見据えてしまった先で、杵松さんは肩をすくめて苦笑した。

「湯ノ山さん、顔が怖いよ」

「元からです! 白澤だなんて……嘘ですよね」

「どうしてそう思うんだい?」

「だって、そうである理由が分かりませんし……それに――そう! 『狐』が言ってたじゃないですか! 先輩とあたしと杵松さんを見ながら、少なくともここに白澤はいない、って。あの人は嘘吐きの詐欺師ですけど、人を見る目はあるはずです!」

「なるほどね。『狐』さんの観察眼については僕も同感だけど……でも、残念」

「残念って、そんな――」

「ごめんね。それより阿頼耶。さっきは『疑念』って言ってたよね。でも、僕を白澤って呼んだ時の君の顔には明らかな確信があった。ああ、『そんなことはない』だなんて言い訳は聞かないよ? 僕はこれでも君との付き合いは長いから、その程度は読み取れる。君は、一体、いつ、どうやって、確信に至ったんだい?」

「教える義理があるのか? と言い返してやりたいが、そちらが認めた以上、こちらも手の内を明かすのが最低限の礼儀だな。……これだ」

 そう言って、絶対城先輩はジャケットの内ポケットから自分のスマートフォンを取り出した。え、どういう意味です? あたしは戸惑ったが、杵松さんには理解できたようで、なるほどね、と薄く笑った。

「僕のスマホの通信履歴を解析したのか」

「……そうだ。お前は、資料室でよく携帯を充電していただろう? 充電中、端末から目を離すことも度々あった。だから――」

「その隙にデータをコピーして解析したんだね。最近、情報処理の本を読み漁っていたのはそういうわけか。警告の電話の発信元あたりを探っているのかと思っていたけど、まさか僕が疑われていたとは思わなかったよ」

「そ、そうだったんですか、先輩?」

「……ああ」

「おやおや阿頼耶。どうしてそんなにテンションが低いんだい? 敵の正体を見事に見抜いたんだから、もっと堂々とすればいいのに! ところでロックはどうやって突破を……って、聞くまでもないか。君の目の前で僕は何度もロックを解除しているもんね。君の記憶力と観察眼なら、指の動きを覚えることくらいは容易いだろうし……。しかし、心外だよ、阿頼耶」

「――何」

「だってそうだろ? 友人の個人情報を勝手に盗み見るなんてさ。もし濡れ衣だったらどうするつもりだったんだい?」

「……悪いとは思った」

 眼鏡越しの薄ら笑いを向けられた先輩が、思わず視線を逸らして言葉を濁す。

 絶対城先輩は基本傍若無人で偏屈な変人だが、親しい相手、尊敬すべき人にはちゃんと敬意を払える人でもある。だからあたしは好きなのだが、それはともかく、そんな先輩にとって、大事な友人――少なくとも先輩はそう思っていた相手――からの非難は相当効くはずだ。杵松さんもその性格をよく知っているのだろう、さらに糾弾を重ねようとしたが、それより早く、あたしは先輩を見つめて口を開いていた。

「先輩、しっかりしてください! 何を弱気になってるんです!」

「ゆ、ユーレイ?」

「事情も経緯もはさっぱりですが――でも、これだけは言えます。先輩は間違ってないと思いますし、もしあたしが先輩の立場だったら同じことをやってます! 辛いのは分かりますけど、ここで押し負けてどうするんですか!」

「ユーレイ……。ああ――そうだな」

 ぐらついていた声に張りが戻り、こちらを見た横目が「助かった」と告げる。どういたしましてと胸を張るあたし。杵松さんが残念そうにくつくつ笑う。

「おやおや、立ち直っちゃったか。でもさ阿頼耶、データ解析なんてよくできたよね。妖怪学があらゆる分野を踏まえた上で成り立つ学問だってのは知ってるけど、情報処理はさすがに専門外だろ? 付け焼き刃でどうにかなるジャンルでもないだろうに……君一人で解析したのかい?」

「馬鹿を言え。杉比良経由でその手の解析屋に依頼させ、織口に紹介してもらったデータ復旧の専門家にも頼んだ。その結果を突き合わせたんだ」

 杵松さんを見据えた先輩がよく知っている名前を口にした。杉比良さんはアンダーグラウンドな界隈に詳しいライターで、織口先生は文学部の准教授だが学内外の専門家に広く顔が利く。なるほど、蛇の道は蛇ってことか。納得するあたしの隣で、先輩は少し誇らしげに胸を張り、言い足した。

「もっとも、俺の付け焼き刃で得られた答も同じだったがな。おかげで、お前が頻繁にどこかの誰かと情報をやり取りしていることが分かった」

「何だか随分漠然とした理解だね。そんなの、友人や家族と雑談しているだけかもしれないじゃない」

「お前は、件ウイルスの一件の最中、俺とユーレイが警官隊とやりあっていたタイミングで、見たことのない暗号化アプリを用いて、家族や友人と雑談をするのか?」

 杵松さんの明るい口調での問いかけに、先輩がすかさず疑問で切り返す。それを聞くなり杵松さんの顔から笑みがスッと消えた。ごまかしは通じないと悟ったようだ。先輩はさらに言葉を重ねる。

「言い遅れたが、ユーレイを疑わず、お前を疑うに至った理由はそれだ。肝心の通信内容や相手はあいにく暗号化されていて解読できなかったが――読み解くための何らかのプロトコルがあるのだろうな――だが、タイミングだけでも怪しさは充分だ。そして、遡って調べたところ、お前が怪しい連絡を取るようになったのは、三か月前、ここに来てからだと分かった」

「ここ? 先輩それってつまり、この国立文書館……?」

「そうだ。GPSの履歴で確認したから間違いない。最初の通信は、まさにこの建物からだった」

「だから調べに来たんですね」

「ああ。何をどう調べるという当てもなく、ほとんど駄目元ではあったが……お前が邪魔をしに現れたことで、今度こそ確信できた。白澤から警告があっただの脅迫だのと言っていたが、お前自身が白澤である以上、そんなことはあり得ない。俺達の気を引くための方便だろう? そして、そんな手を使ってくるということは――」

「――僕には、君の調査を穏便に邪魔したい理由があった、ということになるね」

「そうだ。……お前はここに来た時、白澤に下ったんだな」

 まっすぐに杵松さんを見つめ、絶対城先輩が問いかける。と、杵松さんはそれに答えることなくただ微笑し、そして手を叩き始めた。

 静謐な空気の中に、ぱちぱちぱちと音が響く。閲覧室で拍手している人がいれば警備員がやってきてもおかしくないのに、なぜかそんな気配はまるでない。ひとしきり手を叩いた後、杵松さんはポケットに手を突っ込み、口を開いた。

「さすが阿頼耶だね。ああ、でも、一つだけ訂正させてもらうよ? 僕は白澤に『下った』わけじゃない。白澤に『なった』のさ」

「なった……?」

「そう、なったんだよ。文字通りにね! そこ以外はほとんど正解だ。気付いてると思うけど、件ウイルスの事件の後に警告したのも僕だよ? 使い捨ての携帯とボイスチェンジャーアプリを使ったんだ。端末は大学構内のゴミ箱へ捨てたから、足は付かないものと思っていたけど……いやあ、やっぱり阿頼耶はすごいや」

「……やめろ」

「やめろって何をだい?」

「その顔で俺の名を呼ぶな」

 杵松さんのけろりとした明るさとは対照的な、苦渋に満ちた重低音が先輩の口から漏れる。その声に心を痛めながら、あたしは昨日先輩が物憂げだった理由と、口にしかけた話題を杵松さんが来た途端に止めた理由を把握した。あと分からないのは、あたしをここに連れてきた理由だけど……と思って先輩の横顔を見た途端、あたしはその答を理解していた。

「――大丈夫ですよ、先輩」

「何?」

「あたしはちゃんと湯ノ山礼音で、ちゃんと先輩の味方ですから」

「……助かる」

 ぶっきらぼうな相槌とともに、声に再び張りが戻る。

 おそらく先輩は、大事な友人が信用できないと分かってしまってひどく不安になり、誰か信用できる相手に傍にいてほしかったのだろう。その気持ちはよく分かる。大丈夫です、あたしでよければここにいますから。念押しのようにうなずくと、先輩はそれを確認するように軽い首肯を返し、杵松さんに視線を戻した。

「出てきてくれて好都合、と思うべきなのだろうな……。ここで何があった?」

「それを素直に教えるとでも? 君もよく知っての通り、白澤にとって、秘められた知識や情報は力であり本質そのもの。はいそうですかと提供できるわけがない。だって僕は白澤なんだよ」

「『僕は白澤』……? まるでお前だけが白澤であるかのような物言いだが、白澤を名乗る存在は百年以上前から存続しているのだから、お前一人が白澤であるはずはない。仲間について教えてもらおうか」

「嫌と言ったら」

「忘れたのか? こちらにはユーレイがいるんだぞ」

 先輩はあたしの胸元のペンダントを一瞥し、自分の胸を軽く小突いてみせた。そのジェスチャーにあたしはきょとんと目を瞬き、直後、「あ!」と声をあげた。

「そっか、覚の読心能力! だからあたしを連れてきたんですね! てっきり一人じゃ心細いから連れてきたのかと」

「俺を何だと思っているんだ。まあ、お前の存在が心強かったのは確かだが」

「でしょ? もう素直じゃないんだから」

「うるさい。ともかく、そういうことだ、明人――いや、白澤! 言うまでもないが、お前の身体能力でユーレイの腕っ節から逃げきることは不可能だ。素直に話すならそれでよし、さもなくば取り押さえた上で心を読む」

「……なるほどね。確かに僕じゃ、百戦錬磨の湯ノ山さんには敵わない」

 凜とした声を響かせる絶対城先輩、半身の構えを取るあたしを順に見やり、杵松さんは両手を掲げた万国共通の降伏のポーズを取った。

 え、素直に降参するの? いやまあ杵松さんと戦うのは嫌だから、そうしてくれると助かるけれど……。拍子抜けしつつも安堵するあたし。だがその矢先、杵松さんはにたりと笑い、「でも」と言葉を付け足した。

「僕が君達を知ってるように、君達も僕を知ってるよね。僕は資料室で何を担当してたっけ?」

 そう言うなり、上に向けられた両手の袖口から、ペンのような金属製の円筒が飛び出した。

「え」

「しまっ――」

 絶対城先輩が何かを叫ぶより早く、金属の円筒の先端が眩い光を放った。以前にも杵松さんが使っていた目くらまし用のストロボだと、そう気付いた時は遅かった。瞬間的に視界が感光し、目の前が真っ白に染め上げられる。数秒後に視力がどうにか戻った時にはもう、杵松さんの姿はどこにもなかった。

「……逃げたか」

 抑えた声とともに先輩があたりを見回す。いつの間にかフロアには利用者や警備員が戻ってきていたが、いずれも平然と調べものや巡回を続けており、まるで何もなかったかのようだ。