「ごめん新一! 保育園の支度はしてあるから、連絡帳だけ記入して!」

 慌ただしくメイクをしながら、寝ぼけ眼の夫に指示を出す。

「おはようタマちゃん。朝ごはん食べた?」

「もう時間ないの! ふたりの分は用意してあるから。じゃあね、華美。ママお仕事行ってくるね!」

 朝のテレビに夢中な娘に、無理やりキスをして玄関を飛びだす。

 腰の高さまでふとももを上げ、私は全力で歩道を走った。

 数十メートル先で、バスを待っている人々がぎょっとして振り返る。

「すいませんねえ。毎朝鬼気迫るパンプスダッシュの音で。つーかそろそろ一年経つんだから、おまえらいいかげん慣れろ」

 などとは決して口に出さず、私は素知らぬ顔でバス待ちの列に並んだ。

「女のくせにみっともない。もっと早起きしたらどうなんだ」

 とでも言いたげに、隣の年配男性が咳払いをする。

「ねえおじさん。すべての家事を終えて午前零時に布団へ入ったら、一時間ごとにぐずって起こしてくる三歳児と暮らしたことはある?」

 そう返さんばかりに、私は鼻で大きく息を吐いた。

「だったら旦那さんと家事を分担して、少しでも早く寝ればいいのに」

 なんて文句を言いたそうに、隣の隣で女子高生がチラ見してくる。

「お嬢ちゃん。最近ようやく社会復帰したけれど、タスクを増やすとまだまだパニックになる病み上がりの夫を愛してから言ってごらん」

 そうやりこめる気持ちで、私は大きく胸を張った。

 朝にパンを食べる時間があるなら眉を描く。

 早起きするくらいなら一分でも長く寝て体力を回復する。

 それがワーキングマザーの宿命。たとえ娘がママより「おかあさんといっしょ」を愛するようになっても、宿命だからしかたがない。

 やってきたバスに乗る。つり革にありつけないほど車内は混雑していた。誰かが露骨に舌打ちして、ストレスが乗客に伝播していく。

 朝から嫌な気持ちになるけれど、私の通勤地獄は始まったばかりだ。

 バスが駅についたら、今度は電車。会社に着くまで都合三回乗り換えて、時間はトータル九十五分。

 毎朝本当に息苦しい。でも働く母にとっては、この時間が唯一許されたフリータイムでもあるわけで。

 押し合いへし合いの中、私はバッグからスマホを取りだした。

 少し前まで、お気に入りの動画配信者がいた。世間に愚痴を吐きながらそばを打つという彼のシュールな動画は、共感とおかしみがあってとてもいい。

 でも残念ながら、ここ一年ほどは更新がなかった。つき合っていた彼女にフラれたのがショックらしい。

 となればファンにできるのは、たまに動画を見て再生数を増やすくらいだ。「応援してるぜ『そば男』」と、地獄の中から日課の1クリック。

 その後はSNSアプリを起動して、ぼんやりとタイムラインを眺める。

 子育てママの「あるある」を読んで笑ったり、エンジニアの不遇を見て「うちの会社はマシなほう」と、自分の立ち位置を再確認したり。

「もうちょっと、時間を有意義に使ったらどうですか」

 そう言いたいのか、隣のとんがり靴の若者が音を立ててビジネス書をめくる。

「電車の中で生産的なことができるのは、家で休めてる人だけだっつーの」

 憤慨の視線を送りつつも、朝から被害妄想ばかりな自分が嫌だ。

 そんなタイミングで、スマホの画面に美しい画像が流れてくる。たぶんフランスあたりの、昔の田園風景を描いた絵。

 楽しそうに麦踏みをする女たちを見て、思わずため息が漏れた。

 専業主婦は都市伝説。いつの時代も母が育児と仕事を両立するのは当たり前。

 でも田園の女たちに、地獄の通勤時間はないだろう。

 彼女たちは私みたいにわちゃわちゃした生活ではなく、きっと生きていくことを楽しんでいるに違いない。


「おはよう。今日も疲れてるな」

 会社に着くと、エレベーターホールで掃除のおじいさんに声をかけられた。

「おはようございます。やだな。顔に出てます?」

「背筋にな。ちゃんと朝飯食ってるか?」

「食べてないですよ。子どもと旦那の分を作るのが精一杯で」

「あんたは働いてるんだから、飯なんて作る必要ない。出来合いでいいから、きちんと家族で食卓を囲め。それが心のエネルギーになるんだ」

「へー。おじいさん、年齢の割には働く女性に理解がありますね」

「誰がおじいさんだ! 私はまだ七十だ!」

 三十代の私からすると立派な老人だ。でも人のよさに免じて言わないでおく。

 少しだけ上向いた気分でオフィスに着いた。仕事と言えないような事務処理をやっつけていると、あっという間にお昼になる。

 さあ、「消毒」しよう。


「私もエプロンで木の実を集めたり、家畜と暮らす時代に生まれたかったよ」

 ランチへと繰り出した私は、すぐさま日々のせわしなさを愚痴った。

「どうしたのタマちゃん。ボスの間接ハラスメントにやられた?」

 キキは私の同僚で、小学校時代の同級生でもある。当時は仲よくなる前に私が転校してしまったけれど、入社式で偶然再会して親友になった。

「私はまだ統括のターゲットになってないよ。単純に、人間社会はもっとゆったりのんびりできないのかなって話」

「情報化社会を促進してるSEがそれ言う?」

「別に好きでやってる仕事じゃないし。毎日満員電車に乗って、子どもと触れ合う時間もなくて、果たして私は幸せなのかと」

 幸せと言えば幸せだけれど、それは愛する家族がいるというだけ。

 長い通勤時間がない分、田園に暮らす女たちは私より幸せだと思う。

「気持ちはわかるけどね。満員電車に乗ってる時間って、なんかディストピアものの主人公になった気分だし」

 キキは子どもの頃から本好きで、いまも小説を読みながら通勤しているらしい。私は仕事以外で本を読まないタイプだ。空き時間には心よりも体を休めたい。

「ディストピアはわかんないけどさ。通勤時間のせいで会社辞めたくなるよ」

「いいんじゃない? タマちゃんとこ、住宅ローンないでしょ」

「ないよ。うちは賃貸だし」

「人が会社を辞められない理由の第一位が、住宅ローンなんだって。タマちゃんはわたしと違って身軽なんだから、辞められないわけじゃないよ」

 私たちはふたりとも、会社のある川沙希の望口出身。

 でも、小学生のときに私が埼玉に引っ越した。

 キキはずっと望口に住んでいたけれど、結婚して埼玉に戸建てを買った。

 その後に私も結婚して、今度は東京の端で公団住宅に住むことになった。

 かつての地元で一緒に働いているけれど、私たちはいつも微妙にすれ違っているという関係。縁があるようでないようで、やっぱりあると思える友人だった。

「まあローンはないけどさ。それでもお金はいるわけですよ。新一がいまやってるバイト、全然稼ぎないし」

「でもちゃんと収入があるでしょ。タマちゃんが千円のランチを食べるのをやめて節約して、地元でパートでもすれば、華美ちゃんと過ごす時間も取れるよ」

 そういう計算をしたことはある。ギリギリの生活になるけれど、ひとまず生きていくくらいはできるだろう。

 でもそれだけだ。また新一が働けなくなったら、暮らしは一気に破綻する。

「そういうことだよ、タマちゃん」

 私の勘定、もとい感情を読み取ったようにキキが言った。

「子育てって、子どもの未来まで考えなきゃいけないでしょう? 義務教育はもちろんだし、大学とか留学とかも。習い事で才能を発揮しちゃったら、ちゃんとサポートしてあげたい。逆に二十歳を過ぎても独り立ちできない可能性もあるよね。そう考えるとお金がいくらあっても不安になるから、独身の人みたいにさらっと辞めるのは無理だよ。ローンがあってもなくても」

「キキ。さっきと言ってること違わない?」

「だっていきなり核心を突いたら、タマちゃんテンション下がるでしょう?」

 キキの家には、華美よりひとつ歳上の女の子がいる。ローン以外は通勤地獄も含めて私と同じ条件だから、会社を辞めたいと思ったこともあるだろう。

 そして現実的に、それが無理だと悟ってしまった。そういうことだと思う。

「私だってそれくらいわかってるよ。でもだからこそ! 私は自分へのごほうび的な意味で高いランチを食べているんだっ! けれどそれでもしんどいっ! 社会の歯車しんどすぎる!」

「だね。着られなくなった娘の夏服いる?」

「いる! いつもありがとう! というか通勤時間だけどさ、私たち、せっかく在宅勤務ができる仕事でしょ? なのにフレックス使っただけで陰口言われるとか、うちの会社意味わからなくない?」

「だね。追加でパクチー盛る?」

「盛る!」

 パクチーは私の「毒消し草」だ。私は新一みたいに抱えこむタイプじゃない。おいしいものを食べて友だちに愚痴を吐けば、ある程度は溜飲が下がる。

 たとえキキが露骨な聞き流しモードに入っても、ブームが去ってパクチーを「盛れる」店がここしかなくなっても、私はこうして消毒ができる。

 だから食事を終えると、荒ぶっていた気分もいくらかやわらいだ。

「昔はさあ、もっと自由な会社だったよね。キキとふたりで朝まで仕事して、顔テッカテカのまま納品行ったりしてさ」

 そのくらい仕事が楽しい時期もあった。「システム構築」の価値がまだ認められにくい時代で、クライアント自身も気づいていない需要を明確にする仕事は、とにかくやりがいがあった。

 けれど、そういう仕事はもうない。価格競争の末路はシステムの流用と下請けへの丸投げ。会社が大きくなった分、誰でも同じ仕事ができる。社員に問われるのは技術ではなく、職場内での空気を読む力だ。

「そんなこともあったね。あの頃は仕事がいまより楽しかったな」

「それがいまじゃ、すっぴんで出社しただけで『社会人としての自覚が足りない』とか裏で言われる始末だよ。だったら男も化粧してこいとか思わない?」

 そういう時代錯誤な上司がいるため、会社に対する不満は増すばかりだ。なのに辞められないのだから、毒は毎日溜まっていく。

 消毒の効果が続くのなんて、ほんの一瞬にすぎない。

「まあ会社も変わるんだよ。タマちゃんが親になったみたいにね」

「キキは悟ってるよね。愚痴も全然言わないし」

「日々に小さな幸せを積み重ねて、不満を相殺しているだけだよ」

「たとえば?」

「仕事中にアメをなめる」

「しょぼ! というか、電話出るときどうするの。『もひもひ』ってなるでしょ」

「知ってる? 世の中には、棒つきキャンディというものがあるんだよ」

 それは盲点だった。ちょっと感心する。しょぼいけど。

「じゃあね、タマちゃん。わたしは会社に戻るから」

「え。もっとぼやぼやしようよ」

「今週は、絶対に定時退社しなきゃいけないんだよね。太郎くんが出張で、娘のお迎え行けないから。だからタマちゃん、明日からひとりランチでよろしく」

 きっちり千円を置いて席を立つキキ。

「……それから、来週までにはストレス解消しといてよ。いつものことだとわかっていても、辞めるなんて言われたらドキッとするんだから」

 子どもの頃からそうだけど、キキはクールなふりして感情が「色」に出る。

 明日からはさみしくなるけれど、悟った友人の赤い耳を見て少し心がなごんだ。


「あ、二子さん……って、なんでアメ食ってんですか」

 自席でぼやぼやしていると、後輩社員に声をかけられた。

 結婚して私の姓は「二子」になっている。なかなかの珍名だと思うけれど、個人的には気に入っていた。なぜなら旧姓はもっと説明が面倒くさいから。

「知ってるかい、青葉くん。棒つきキャンディなら、電話に出ても『もひもひ』ってならないんだぜ」

「そういう問題なんですかね。ここ会社ですよ」

「会社だから必要なんだよ。てかなんか用事?」

「用事っていうか、さっき統括が呼んでました」

「げ」

 統括マネージャーは私たちのボスだ。いつも眉間にシワを刻んで、あからさまに近寄りがたいオーラを発している五十代。愛社精神がお高めで、おまけに女性蔑視傾向があるという例の時代錯誤な上司。

 とはいえコンプライアンスは気にしているらしく、統括は部下を人前で罵倒したり嫌がらせしたりはしない。

 その代わり、本人のいない場所でネチネチと陰口をたたくのだ。

 先日も育休から復帰したばかりの女性社員が、

『時短で働くくらいなら、さっさと辞めてくれりゃいいのに。あの子の給料で契約社員を雇えば、みんなが幸せになるってわかんないのかなあ』

 という「ストレートなマタハラ」を、「後輩から噂の体で伝え聞いて」、泣く泣く無給の育休延長を申請している。

 だから統括に呼ばれても、私がその場で怒られることはない。

 あとから風に乗って、自分の悪口が漂ってくるだけだ。

「ああ気が滅入る……」

 人づてに自分の悪いところを聞くと、みんなもそう思っているのかと疑心暗鬼になる。当社比三倍は心が病んで、誰もが出社したくなくなるらしい。

 とはいえ家族を養う人々は、病める前に辞める選択もできないわけで。

『来世では、人間以外の哺乳類になりたい』

 とは、以前の女子会でキキが吐露した本音だ。悟りきった親友ですら、統括の間接攻撃はたやすく聞き流せない。いわんや私をや。

「とりあえず、行ってくるよ……」

 処刑台へ向かうような気分で、私は統括の席へ赴いた。

「統括マネージャー、お呼びでしょうか」

「ああ、二子さん。わざわざすまないね。こっちから行こうと思ってたんだ」

 資料から顔を上げた統括は、私を見るなり疲れた顔をした。

「二子さんは、訂正印を持ってないのかな」

「訂正印、ですか」

 それっていわゆる、訂正用のハンコのこと? 間違って書いた文字に二重線を引いて、その上にポンと押すあの小さいやつ?

「総務に出す書類でときどき使うでしょう。二子さんが押してるこれは、いわゆる認め印のサイズだよね。専用の訂正印よりも一回り大きい」

 統括が見せてくれたのは、私が以前に提出した保険関係の書類だ。新一が療養する際に、娘を私の扶養に移すために書いたものだと思う。

「すみません。旧姓のはあるんですが、結婚後は認め印で済ませていました」

「珍しい姓だからしかたないね。ただね、総務のほうで色々トラブルになっているらしい。書類のフォーマットにも問題があるけれど、記入欄が狭いから押した印がほかの字にかぶってしまうそうだよ」

 私は老眼なので見えないがと、統括は書類を遠ざけたり近づけたりしている。渋柿でも食べたようなしかめ面が怖い。些末な問題にわずらわされるのが不本意なのだろう。「我が社も電子決裁を」、などと言える空気ではなかった。

「わかりました。早急に訂正印を作製します」

「申し訳ないね。本来は会社で支給するべきだが、改姓後の再支給までは予算に入っていないらしい。個人の負担でよろしくお願いします」

 頭を下げて辞去したものの、なんだかもやもやした気分だった。

 だって、私が結婚したのは四年も前の話。それから今日までの間に、総務には山ほど書類を提出している。訂正箇所に押したハンコだって相当なもの。

 それをなぜ、いまになって指摘してくるのか。

 不安が、じわじわと渦巻く。

 昨今、我が社の業績は右肩下がりだ。社員の間では、『生産性の低い人間がリストラされる』なんて噂が、まことしやかにささやかれている。

 そんな中、私は育児を理由に展示会への出張を断った。給与査定の面談でも、自己目標を低めに設定している。残業をしたくないから。

 会社としては多めの退職金を払ってリストラするより、社員が自己都合で辞めてくれるほうが望ましいだろう。たとえば心を病んだりとかで――。

 もしかして、私は統括のターゲットにロックオンされたんだろうか?

 訂正印を作らせるのは、ダメ社員に自ら不適格の烙印を押させる符丁?

 今後の私は間接的に自分の悪口を聞かされて、退職に追いこまれるの?

 被害妄想だと思いたい。でもいまの会社にはそういう空気がある。

 その後の私はアメを舐めるのも忘れ、戦々恐々と仕事をした。


「ただいま。華美ぃ、ママ疲れたよー」

 帰宅してぐったりと抱きつくと、娘は素っ気ない表情でこう言った。

「ごはん」

「つ、作るから。ママごはん作るから。ちょっとだけいやし成分を補給させて」

「タマちゃんお帰り。会社で嫌なことあった?」

 冷たい娘に覆いかぶさっていると、新一が心配そうに声をかけてくる。

「なんでもないよ。ちょっとストレス溜まっただけ。会社遠くて」

「無理してない? 最近ちょっと痩せたみたいだし」

「ようやく産後太りが解消されたんだよ」

「ごはんだって、僕が作って待ってたっていいんだよ?」

 本当は作っておいてと頼みたい。でも新一は病み上がりだ。あまり責任を押しつけると、無理をしてしまうかもしれない。いまはアルバイトをしながら、子どもの面倒を見てくれるだけで十分。

 それに家族の食事を用意するのは、私の精神衛生のためでもある。出来合いでなければ、溺愛だと思える。

「……よし、補給できた。ママごはんの支度するね」

 夫のつらかった日々に比べれば、私のストレスなんてたいしたことはない。



 いつものようにバス停まで走り、電車の中で田園に思いを馳せ、足を引きずるように会社にたどり着くと、私は自分の端末でブラウザを立ち上げた。

『望口 印鑑』

 検索窓に、そんな単語を入力する。

 昨夜は帰宅してから訂正印を作るつもりだったけれど、疲労に勝てなかった。なので会社の近所でお店を探して、昼休みに注文しようという目論見。

「全然ないなー。子どもの頃は駅前にハンコ屋さんあった気がするけど」

 表示された検索結果は、ネット注文のお店ばかりだった。マップ画面に立っているピンは、商店街の奥に一本だけ。

「おはようございます。二子さん、朝から私用ですか?」

 背後から声をかけられ、思わずどきりとなった。

「お、おはよう青葉くん。私用じゃなくて仕事だよ。ハンコ作るの」

「でもサムネ画像、明らかにスイーツですよ。会社にきたら仕事しましょうよ」

 そんなバカなとモニターに目を戻す。

「ほんとだ。『印鑑』で検索したのになんで?」

 バルーンテキストに書かれた『有久井印房』という店名の下には、なぜかおいしそうなケーキの画像が並んでいた。

「……それより質問いいですか。要件定義のレビューなんですけど、進め方がよくわからなくて」

「ああ。青葉くん、まだやったことなかったっけ」

 青葉くんは二年目の若手社員で、うちのチームには最近配属されたばかりだ。前はキキの下にいたのだけれど、ちょっとごたごたがあってこっちにきている。

 別に、青葉くんがなにかしたわけじゃない。

 キキのチームにいた男性社員で、ぼちぼち面倒な人がいた。当時のキキはプロジェクトマネージャーで、ことあるごとに彼と意見が対立したらしい。

『若いくせに、考え方が昭和なんだよ彼。女上司がいけ好かないみたい』

 それが当時のキキの弁。私の親友は温厚な性格だけれど、仕事においては頑固なところがある。職人気質な人間は、いまの会社だとちょっと生きにくい。

 すったもんだの挙げ句、男性社員は転職した。新人の面倒は主にその男性社員が見ていたため、誰かの忖度で青葉くんはうちにきた、という案配。

 で、現在は私が彼のご指導ご鞭撻をしている。

 その若さゆえか、青葉くんはやる気があってたいへんよろしい。ただちょっと意識が高すぎるというか、頭が固くて扱いにくいところもある。

 さっきも私を白い目で見ていたけれど、青葉くんは朝っぱらからスイーツを検索していた先輩を軽蔑しているはずだ。でもその誤解を解けないくらい、私たちのコミュニケーションは不足している。

 とはいえ、後輩の育成は大事な仕事だ。苦手な相手ではあるけれど、教育途中でほったらかされた彼に同情もしている。

「おっけ。じゃあミーティング部屋行こうか」

 愛社精神なんて失って久しいけれど、私にはこの子を一人前にする義務がある。

 人として苦手だけれど、人としてそう思う。


 昼に作業が一段落すると、私は仕事中のキキに手を振って会社を出た。

 目的地はさっきネットで探したハンコ屋さん。別に通販でもよかったけれど、青葉くんに誤解されたままなので物的証拠がほしかった。

 それにあの辺りなら、ついでにランチも食べられるし。

 スマホを片手に望口商店街を南へ歩き、ここらへんかと辺りを見回す。

「おお、春だね」

 見晴用水の両脇に、枝垂れ桜のアーチができていた。

 シュシュみたいに咲くソメイヨシノもかわいい。でも子ども時代を望口で過ごした私にとって、桜と言えばやっぱりこれだ。

 しばし花を見て郷愁に浸る。やがて目的を思いだし、もう一度周りを見た。

「おっ……ん?」

 商店街と交差する角地に、お目当ての店を発見する。

 けれど、ちょっぴり様子がおかしい。


 有久井印房


 そんな屋号が書かれたひさしの下には、赤いレンガの建物があった。

 窓には赤や緑の透かし模様が入っていて、下の花壇にミモザが植わっている。

 花壇の隣には丸いテーブルが置いてあり、小さな黒板にこう書かれていた。

『本日の手作りケーキ モカロール ※売り切れました』

 完全にカフェだ。しかもおいしそうな雰囲気。

 ということは、ハンコ屋さんはもう移転してしまったのだろう。前のお店の名前が看板に残ってるごはん屋さんって、たまに見かけるし。

 一応お店の人に尋ねてみようかと思案していると、折よくドアが開いた。

「いらっしゃいませ。本日はお食事ですか? ご印鑑ですか?」

 お店から出てきたのは、白ブラウスに黒スカートというファッションに身を包んだ女の子だった。一見すると二十歳くらいのカフェ店員さんだけれど、頭の横にはなぜか犬っぽい耳がくっついている。

「いま『印鑑』って言いました? ここって喫茶店じゃないんですか?」

「その両方です。有久井印房はランチも食べられるハンコ屋さんで、人によってはいやされちゃったりするかもしれません。いらっしゃいませですか?」

 なにその私に好都合なお店。逆にうさんくさすぎる。

「働くお母さんは疲れますよね」

 私がいぶかしんでいると、女の子が唐突に言った。

「外では仕事をがんばらなきゃいけない。家ではママをやらなきゃならない。もう朝から晩までずっと動き続けていて、わたしはマグロかって思っちゃいますよね」

 店員さんがしれっと変なことを言うので、思わず吹きだす。

「そんな多忙を極めるママさんに対し、ハンコの打ち合わせをしつつ、やすらぎのひとときも提供する。それが当店のモットーです……という営業トークでお客さまを釣ろうとしていますよ?」

「マグロだけに」

 女の子の言葉に続き、誰かがぼそりとつぶやいた。

 辺りに人はいないので、声の主は店の中らしい。

「冗談はさておき、面倒ごとのつもりでハンコを作りにきたお客さまに、当店は思いのほかくつろいでいただけると思いますよー」

 ぶっちゃけたおしゃべりといい、頭につけた耳といい、変わった店員さんだ。

 でも私が首からぶら下げたIDカードや、スマホの待ち受け画面が三歳児であることを抜け目なくチェックしてもいる。

「このお店で、訂正印を作ってもらうことはできますか?」

 信用できるとはいかないけれど、私は彼女に好感を持った。ほかのハンコ屋さんを探すのも面倒だし、できるなら食事も含めてここですませたい。

「もちろんです。カウンターのお席にどうぞ」

 女の子が店の中へ戻っていく。よく見ると、お尻に丸いしっぽがついていた。あの耳にしっぽということは、ウサギのコスプレなのかもしれない。

 ほかの店員さんもそうなのかなと、店内を見回す。

 明るすぎない空間には、温かみのある木のテーブルがいくつかあった。ウサギの彼女以外にウェイトレスはいない模様。

 ランチタイムにしてはちょっとお客さんが少ない。でも私と同年代の女性もちらほら見えるので、思ったよりは普通の店のようだ。

 ほっとしながらカウンターの席に座ると、正面から声をかけられた。

「いらっしゃいま――」

「うわあ!」

 私が食い気味に悲鳴を上げたのもしかたがない。

 だってカウンターの向こうにいるのは、シロクマ……にしては少し小さい。

 犬……にしてはちょっと面長。いやもうなんでもいいけれど、とにかく私の目の前には、見たこともない白くてふわふわした生き物がいたから。

「大丈夫、ですか……?」

 白い生き物も私の声に驚いたようで、カウンターの向こうで体を縮めている。

「な、なに? 動物? ぬいぐるみ?」

「店長の有久井と申します。ミナミコアリクイです」

 白いふわふわが、ぺこりと頭を下げた。

 いまこの白いの、しゃべった? なんかミナミコアリクイがどうとかって、自己紹介した気がするけれど。

 いやいや、思い違いだろう。ぬいぐるみにせよ動物にせよ、普通はしゃべるわけがない。いつもの癖で、私が脳内でアテレコしちゃっただけだ。

「本日はどのような印鑑をお求めでしょうか」

 あれ? やっぱりしゃべってる?

「訂正印がほしいそうですよ。お食事もなさいますか?」

 ウサギの店員さんがメニューを広げ、水の入ったコップを置いた。

「最近メニューが増えたんですよ。ね、店長?」

「はい。近所のパン屋さんとご縁がありまして。ピザトーストがぐっとおいしくなりました。クラブハウスサンドもおすすめです」

 ふっさりした白い腕が伸びてきて、メニューの一部を黒い爪で示す。

 いまこの白いのと、店員さんの会話は成立していた。ということは、私が脳内でアテレコしているわけじゃない。じゃあ店員さんの腹話術かなにか?

 いや、声はいかにも穏やかなおじさんだった。女の子が出せるものじゃない。それならどういうカラクリなの?

 私は混乱のままにメニューから顔を上げた。白い生き物と目が合う。

 ちょっと小首を傾げた様子はかわいらしい。得体の知れない存在だけれど、思わず触れたくなる愛らしさがある。

「それでは、ご注文が決まりましたらお呼びください」

 白いふわふわが会釈して、厨房の中を移動した。お尻には案外と長いしっぽが生えている。そういえば、アリクイと名乗っていたっけ。

「どうですか。うちの店長、いやされませんか?」

 ウサギの店員さんがすました顔で言う。

「どうっていうか……アリクイって動物ですよね? なんで動物がカウンターの中にいて、おまけにしゃべってサンドイッチを勧めてくるんですか?」

「アリクイは動物です。カウンターの中にいるのは店長だからです。サンドイッチはおいしいからでしょうね。個人的には『たまごサンド』が好きです」

「いま全部答えたと見せかけて、肝心なところだけ省略したよね?」

 問い詰めると、店員さんがふっと悲しげな顔になった。

「わたしにだって、わからないことくらいありますよ……」

「聞いちゃいけない雰囲気作って、ごまかそうとしてない?」

「お客さん、初対面なのにぐいぐいきますね」

「子どもの頃からよく言われる。それよりどういうことなの?」

「しかたありませんね。それでは左手をご覧ください」

 言われるままに目を向けると、カウンターの端にノートパソコンがあった。

 その前の席に、茶色い生き物がちょこんと座っている。

 とろんと眠たげな目。ふもふもと動く口。この生き物は私も知っていた。

「カピバラ?」

「かぴおくんは当店のデザイナーですが、まかないでめちゃめちゃからいカレーを作ることでおなじみです。今度は右手をご覧ください」

 私は唖然としたまま首を動かした。

 一番奥のテーブル席に、今度は古くさいタイプライターが置いてある。

 それをせわしなくつついているのは、どう見てもハトだ。

「鳩なんとかさんは常連さんです。本業は小説家なんですが、最近は体に白いペンキを塗って、毎日手品師さんのところでバイトをしています」

 そこでハトが、チーンとタイプライターのベルを鳴らした。

「すみません。バイトは毎日じゃなくて週二だそうです。どうでもいいですね」

 確かにどうでもいいけれど、いまこの子、ハトと意思疎通しなかった?

「まあうちはこんなお店なので、お客さんも深く考えないほうがいいですよ。世の中には、『解けてもよくわからない謎』もありますから」

 言葉の後半部分で、店員さんは窓の外を見た。

 通りをはさんで店の向かいに、一寸堂という文具店がある。その端にある電柱の陰で、頭に三角巾をした女の子がこちらをうかがっていた。

 見るからに怪しいけれど、格好からするとパン屋の店員さんだろう。さっきアリクイが言っていた、『ご縁のある』お店の人かもしれない。

「ところでお客さま。お時間は大丈夫ですか?」

 店員さんに言われて時計を見ると、昼休みが三分の一ほど過ぎていた。

 朝だって食べていないのに、昼ごはんまで抜くわけにいかない。もろもろの謎はさておき、ひとまずなにか注文しよう。

 早速メニューを検討すると、コーヒー紅茶といった飲み物のほかは、ナポリタンやパンケーキといった、よくある喫茶店のラインナップだった。

 けれどそのいかにもなメニューのひとつに、私の目は吸い寄せられる。

『モーニングセット(パン・卵・コーヒーか紅茶) 500円』

 ここのところ、朝はまともに食べていなかった。トーストに卵なんて朝食は、もう何年もごぶさたしている。

 田園生活への憧れに似た感覚が、喉の奥からわきあがった。

 でも残念ながら、一般的にモーニングは朝しか食べられない。居酒屋さんのランチメニューと同じで、時間限定のサービスなはずだ。

 私がぬかよろこびにがっくりしていると、店員さんがにやりと笑った。

「ちなみに当店では、終日モーニングをお出ししています。卵は目玉焼き、スクランブルエッグ、ゆで卵の三種類から――」

「モーニングセット! コーヒーとゆで卵でお願いします!」

 急いで頼まないとなくなりそうな気がして、慌てて注文した。

「かしこまりました。少々お待ちください」

 気ぜわしい私と正反対の、落ち着いた返事が厨房から返ってくる。

 とはいえカウンターの中を見ると、ちょこまか動いているのは白いアリクイだ。

『アリクイ 白い しゃべる』

 こっそりスマホで検索してみると、目の前のそれより大幅に細いアリクイの画像が出てきた。けれどエプロンに似た模様は同じなので、ひとまずこの白いのは「ミナミコアリクイ」であるらしい。

 ちなみに「しゃべる」という単語は、ブラウザ側で余分条件として打ち消し線を引かれた。だよねえと、心の中で訂正印を押す。

 店員さんは『深く考えるな』と言ったけれど、やっぱり動物がしゃべるのはおかしい。私が夢を見ているのでなければ、なにか仕掛けがあるはずだ。

 考えて、はたと思いつく。

 最近は、「バーチャル動画配信者」というものがはやっている。

 配信者が自分の体に3Dモーションキャプチャーを装着して、ゲームの実況などをする。すると視聴者が見ている画面のキャラクターに、配信者の動きがリアルタイムで反映されるという仕組み。

 この技術を使えば、男性が美少女キャラになりきることも可能だ。当然、おじさんがかわいいミナミコアリクイにだってなれる。

 ただし、それらはあくまでモニターの中の話。

 私がいつの間にかVRゴーグルをかぶっていたのでなければ、このカウンター全体がモニターになっているということだろう。

 そう考えると、『解けてもよくわからない謎』という言葉も腑に落ちた。

 仮想現実という仕組みは、知識がないと理解が難しい。ウェイトレスさんのたとえは言い得て妙だ。

「お待たせしました。モーニングセットです」

 見るからにふんわりした手が伸びてきて、私の前に注文を並べる。

「すごい質感……めちゃくちゃ描きこまれてる」

 私はアリクイの手をじっくり見つめた。仕事柄この手の技術はまめにチェックしていたけれど、当世の進化スピードには本当に驚かされる。

 それに、アリクイの「中の人」もすごい。

 注文を並べたのは生身の人間のはずなのに、私にはアリクイがそうしたようにしか見えなかった。早業なのか死角を突いたのかは不明だけれど、最近の小学生が動画配信者に憧れるのもわかる。

 以後は私も敬意を表し、「アリクイさん」と呼ぶことにしよう。

 ひとまず疑問がすっきりしたので、私は厚切りのトーストを手に取った。

「ああ、どうして! どうして焼いたパンの匂いをかぐと、人はこんなに幸せな気持ちになれるのかしら!」

 そんな村娘のセリフを言いたくなるような小麦の香り。

 そこに溶けたバターの芳しさも漂ってきたので、私はたまらずかじりついた。

「やだ、すごいおいしい……!」

 思わずおばさんみたいなセリフを口走る。

 カリッとした外側の食感、からの、あったかふんわり、アンドもちもち。

 大枠で分類すれば味は「甘い」だけれど、私はこれを「太陽の恵み」と言いたい。

 ふわふわと幸せな気分に浸りながら、続いてゆで卵に手を伸ばす。

 ふと、冷静になった。花も恥じらうとはいかないけれど、私も一応女性なわけで。さすがに人前でゆで卵にかぶりつくのは、いかがなものだろう。

 もちろん、頼んでおいて食べないなんて選択肢はない。けれど人目は気になる。

 私は周囲の様子をうかがい、自分に向いた視線がないことを確認した。

 よしと、殻をむいてひとくちほおばる。

「うわ……おいしい」

 かろうじておばさんセリフは言わなかったけれど、その味にびっくりした。

 黄身がとろけない、でもパサパサはしていないという、いい案配のゆで加減。最近はやりの浸透圧ゆで卵というやつで、すでに絶妙な塩味が施されている。しょっぱすぎず薄すぎず、かじるとほどよくパンが恋しくなる感じ。

 おまけにこのゆで卵は、きちんとエッグスタンドに立ててあった。ささやかな演出だけれど、人が作った朝食でもてなされている実感に心が安らぐ。

 脳内の麦畑で深呼吸しながら、私は昼のモーニングをすっかり平らげた。

 トーストが厚切りなおかげで、満腹感もきちんとある。食後のコーヒーも、ほっとするような苦みと酸味のバランス。

 この喫茶店、さりげなくごはんレベルが高い。五百円でここまで満足できるランチって、この辺りではほとんどないと思う。

「訂正印をご希望とのことですが、お名前をうかがってもよろしいでしょうか」

 アリクイさんが紙とペンを差しだしてきた。そういえば、ここはランチも食べられるハンコ屋さんだっけ。なんだか不思議な感じがする。

「二子さんは、認め印をお持ちですか?」

 私が書いたフルネームを見ながら、アリクイさんが尋ねてくる。

「持ってるんですけど、認め印だと書類の欄からはみ出すから、訂正印を作ってこいと言われまして。社内文書の書式が詰め詰めなんです」

「なるほど。でしたら訂正箇所にではなく、欄外に押印する方法もありますよ」

 欄外と聞いてもピンとこなかった。表情で疑問を伝える。

「一般的に訂正印は、訂正する箇所に二重線を引き、その部分にかかるようにハンコを押します。ですが押印できる余白がない場合は、こんな風に、書類の欄外に押すことも可能です」

 アリクイさんがペンを動かした。『有久井陰謀』という文字の『陰謀』が二重線で消され、上に『印房』と訂正される。

 そして訂正箇所と離れた隅のほうに、『2字削除』、『2字加入』という文字が書かれた。そこへ『有久井』と読める丸いハンコが押される。

「これでオーケーなんですか? 銀行とかでも」

「本来、訂正印に厳密なルールはありません。ただ慣習もありますので、訂正方法を統一している組織が多いと思います」

 うちの総務はまさしく「前例主義」だ。でもルールとして間違ってないなら、別に訂正印を作らなくてもいい気がする。

「ちなみに、訂正印はおいくらくらいでしょうか」

「当店はすべて手彫りですので、印材次第になります」

 カタログでも見せてくれるのかと思ったら、アリクイさんはさっきまで私が見ていた食事メニューのページをめくった。

 現れた二ページ目に、柘やら黒水牛といったハンコの素材が並んでいる。

 値段はまさしくピンキリ。しかしなくてもいいものに払うお金と考えると、我が家の台所事情的にやや許容しがたい。

「すみません。色々教わっておいてなんですが、もう少し考えてみます」

「お気になさらないでください。ハンコは必要になったときに作るものですから」

 なんて人間のできたアリクイだろうと感心して、笑う。

 私はうっかり、アリクイさんを現実の存在のように錯覚していた。


「昨日のスクランブルエッグもふわふわでおいしかったけれど、やっぱりモーニングにはゆで卵が一番しっくりくるわあ」

 結局訂正印は作らなかったけれど、翌日以降も私は有久井印房にきていた。

 ハンコを作ろうと思い直した、なんてことはなく、おいしい昼のモーニングや従業員の人柄も含め、このお店が気に入ってしまったから。

「わたしは、ターンオーバーをパンに挟むのが好きですねー」

 ウサギ店員の宇佐ちゃんとも、すっかり打ち解け仲よくなっている。

「あー、両面焼きいいよね。でも目玉焼きはごはんで食べたい派だなー、私」

「タマさんは、卵がお好きなんですね」

「卵も好きだけど、私は有久井印房が気に入ったんだよ」

 こんなに素敵なお店なのに、混み合うこともなくいつもくつろげる。宇佐ちゃんたちも基本的にのんびりで、麦畑の村娘みたいな理想の働きかた。

 おかげでアリクイさんが両手で卵をそっと抱えたり、つぶらな瞳でじーっとコーヒーが落ちるのを待つ姿を見るだけで、じんわりと心がいやされる。

 有久井印房で過ごす時間は、お風呂にゆっくりつかるのに似ていた。毒気を吐いてすっきりするんじゃなくて、心があたたまって疲れが消えていく感じ。

 そのせいか、「最近顔色がよくなったね」と新一にも言われた。それまで悪かったなら教えてよと思ったけれど、いまがいいならよしとしよう。

 会社を辞めないために、キキは『小さな幸せを積み重ねる』と言った。だったらこのお店は効果てきめんだと思う。来週からはふたりでいやされにこよう。

 そう思っていたけれど、私たちのいやしランチが実現することはなかった。

 キキが、会社を辞めてしまったから。