序 天明六年浮世条


 花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは、という言葉があるが、盛りの花の美しさを知らねば、欠けなき月の輝きを知らねば、雨空や簾に向き合って、思いを馳せることも叶わぬだろう。

 この街のことも、一度覗いてみないことには、勝手が分からず語れぬものだ。


 そこは江戸幕府が許可した花街・吉原。

 言わずと知れた、遊女三千人がひしめく、江戸最大の歓楽街である。


 時は天明六年(一七八六)。

 老中・田沼意次が失脚した年。

 世は、後に近世最大と言われる天明の大飢饉の最中にあった。


 浮世にあって憂き世に生きる者たちのため、世情とかけ離れて暮らしながら、菓子を作る男がいた。

 ――食べたことを夢と思えるほどに美味い菓子を、俺は作り続けるよ。幸せな夢を食わせ続ける。

 そう誓いを立てて生きる男がいた。


 吉原の中で暮らすその男の名を、太佑という。



第一章 吉原難渋甘酒誼


 夢を見る。同じ夢を、繰り返し。

 見世の中が、からっぽになっている夢だ。

 いつものように、台所で菓子を作ろうとするが、襷を掛けたところでふと手が止まる。

 ――一体、何を作るんだった?

 手の動かし方が分からない。

 中庭に出て、二階を見上げてみる。人の気配がまるでないそこは、やけに暗くて広かった。

 ――ああ、そうだった。

 何で忘れていたんだろう。もうみんな、どこかへ行ってしまったのだ。

 ――俺もどこかへ行かないと。

 そう思って出ていこうとするが、草履を履いているうちに、出ていくならば火を始末せねば、と思う。

 台所へ戻り、かまどの火を始末すると、次は開けっ放しの見世中の戸が気になりはじめる。

 みんな出ていくならば、戸締りくらいしていってくれればいいのに。

 バタバタと慌ただしく見世の中を駆け回っているうちに、ふと気付く。

 ――俺はどこから出ていけばいいんだ?

 出口がどこにも開いていないことに呆然としているうちに――目が覚める。


 暗闇の中、太佑は目を開けた。

 目を覚ますと、若い者――妓楼で働く男のことだ――の雑魚寝部屋には、いつも通りごろごろと見世の仲間たちが眠っていることに、少しほっとする。

 まだ辺りは暗いが、もう間もなく夜が明けるであろう。

 太佑は大きなあくびをすると、闇の中で身を起こし、身震いした。

 ようやく暖かくなってきたかと思われたのに、一昨日から急に冬に戻ったように冷えはじめた。花冷えというやつだ。

 これで桜が長くもつかと思いきや、昨日の激しい風と雨で、花びらは一夜にして散ってしまった。薄紅色の霞がかかったようだった枝には、赤茶けた軸が残るのみで味気ない。

 桜吹雪が人に楽しまれることもなく、桜の季節が終わってしまう。太佑はそれを、少しだけ惜しいと思う――桜吹雪をゆったりと眺めるような生き方はしていないけれど。


 吉原は、閉じた街である。遊女が足抜け――逃げ出すのを防ぐため、人の出入りに目を光らせるべく、三丁四方を塀で囲んで、その周りには「お歯黒どぶ」と呼ばれる堀がめぐらせてあり、出入り口はただ一つしかない。

 街に一歩足を踏み入れてみると、唯一の出入り口である大門から、水道尻と呼ばれる突き当たりまで、仲ノ町と呼ばれる大通りが一本まっすぐ貫いている。

 大門に近い方から、伏見町、江戸町、揚屋町、角町、京町と五つの町があって、そこは見世――遊女屋や、客と遊女屋の仲立ちをする引手茶屋など色里らしい店ばかりでなく、食い物屋や小間物屋も多く立ち並び、商人、職人といった普通の江戸の街と変わらない人たちが住んでいる。

 太佑が暮らすのは、京町一丁目、大門から見て右手奥の方に当たる場所の中見世「美角屋」で、太佑はそこの料理番だ。

 ただし、普通の料理番ではない。

「菓子の料理番」である。

 他の料理番たちのような料理は作らず、下ごしらえやお膳の盛り付けこそ手伝うが、あくまでも菓子を作るのが本業だ。

 この「菓子の料理番」という響きの珍しさに惹かれて、物見高さで美角屋に登楼したがる客は少なくない。そうして訪れる客のために、派手ではなく、しかし美味い菓子を、日々作り続けている。

 桜の季節は登楼しない花見の客も多く押し寄せるし、花魁たちが「そろそろ桜が咲きんしょう。お越しなんし」と客に文を送るなどするから、客足もそれだけ多くなる。桜が散れば、しばらくは、少し落ち着いた日々が続くだろう。


 落ち着いた日々が続くだろう――そう思った。

 だがその思いは、見事裏切られることとなった。

 桜の盛りに比べれば、客足は落ち着いているはずなのに、ちっとも忙しさが落ち着かない。

(どうしてこんなことになったかなあ)

 台所から中庭に通じる勝手口を出て、すぐのところに井戸がある。その井戸端で皿を洗いながら、太佑は溜息をついた。汲み上げる水は少し温んできたが、ずっと手を浸けていると、やはりまだ冷たい。その冷たさに、また溜息をつく。

 洗い桶に溜まった水をぶちまけようとして、ふと、ほんの数歩先の木陰に白い塊が落ちているのに気付く。

 太佑は桶を置いて、木陰を覗き込んだ。

 井戸端の木の根元には思った通り、丸くなって眠る一匹の猫がいた。

「こんな所で寝てたら、危ないぞ」

 こちらの心配など知らぬ顔で、猫はくうくうと眠り続けている。

「水が跳ねても知らないぞ。おい」

 抱き上げようとすると、びくっと跳ね起きて一間(約一・八メートル)ほども先に行き、こちらを恨めしそうに睨みつける。いい夢を見ていたのに邪魔したのはお前か、とでも言いたそうな風情だ。

 この猫、名前は小町という。誰が飼っているわけでもないが、花魁たちや誰よりも楼主がかわいがっており、美味いものにもありつけるので気に入っているのか、美角屋にいつの間にか居ついていた。白と黒のブチの雌猫で、腹の辺りに桜の花びらのような模様が入っている。

「水が掛かったらかわいそうだから、親切で起こしてやったんだよ」

 いつまでも睨んでくる小町にそう言うと、ふい、と顔を背けてどこかへ歩いていってしまった。

「猫ってのは気楽でいいな……」

 つい、そんな言葉が口をついて出る。

 楼主の自慢である、京の庭師を呼び寄せて作られた中庭は、小さいながらも池があり、趣向を凝らした前栽が植わっている。まだ黄色味を帯びた木々の若葉に包まれて、鮮やかにヤマブキが咲きこぼれ、紅色のツツジの蕾が膨らむ。釣鐘形をした貝母(アミガサユリ)の緑の花が風に揺れていた。

 美しい季節である。

 庭を眺めてぼんやりしていると、勝手口から怒鳴り声が飛んだ。

「太佑、何やってんだ、ぼうっとしてないで早く戻ってくれ!」

 料理番仲間の末吉の、四角い顔が覗いていた。

「ああ……ああ、ごめんよ。今戻る」

 太佑は洗い終えた皿を抱えて、うららかな庭に背を向けた。


 さて、桜の季節が終わったのに相変わらず忙しいのにはわけがある。

 料理番として共に働く勘助が、足の骨を折ったのだ。

 普段なら、手の空いている若い者や、料理番の誰かが一階と二階を行ったり来たりして、お膳の上げ下げを行なっている。こういう仕事には、一番下っ端が駆り出される。つまり、料理番の中でここに来て一番日の浅い勘助が、ここ数年は務めていた。

 勘助は、吉原に来る前は日本橋の旅籠屋にいた。旅籠屋が火事で焼けてしまい、そこの主人も亡くなって、仕事も行き先もなくしていたところ、美角屋の楼主の水野平三郎が、猫の子でも拾うような気軽さをもって勘助を拾ってきたのだ。

 美角屋に来たばかりの頃、腕はいいがのんびり屋なところのある勘助は、目の回るような忙しさが旅籠屋とは段違いだと話していたが、ここ三年ほどはようやく慣れて、人一倍の働きを見せるようになっていた。

 その勘助が足を折ったとなると、一階と二階を行ったり来たりはさせられない。向こう三か月ほどは、座ったままでも任せられるような、下ごしらえやかまどの番をしてもらうことになるだろう。

 となると、勘助の代わりにお膳を運ぶ役が要る。料理長の伊平次には台所にいてもらいたいからまず除く。末吉は手先が器用で細工物などは大の得意なくせに、お膳を運ぶのは苦手ときている――階段を上がる間に、椀の中の汁物が半分に減ってしまうくらいには。

 そうして、残るは太佑しかいない。

 もちろん、仁兵衛をはじめ二階廻しが、普段にまして頑張ってくれているし、ときには気難し屋で名の通った番頭の源右衛門までもが手を貸そうとしてくれる――さすがに番頭にそんな仕事を手伝わせるのはしのびなく、断ったが――それでも勘助一人が抜けた穴を埋めるのは大変だ。

 夜見世に向けて料理の仕込みを進めつつ、料理番四人で示し合わせたように溜息をついた。

 伊平次はその日のお膳に出す、鯛のしんじょを作っている。長芋をすりおろしたものに、魚のすり身を加えて混ぜ合わせ、出汁をほんの少し加えて、茹で上げ、吸物の椀種にするのだ。

 末吉は大根細工を作っている。台の屋(仕出し屋)の見た目ばかりが派手な料理に、味で勝っても見た目で劣っては意味がない。細やかな細工を施した飾り切りで、美味い料理に華を添える。手先が器用な末吉は、大根細工が得意中の得意だ。今作っているのは「山吹花大根」。その名の通り、大根に切れ込みを入れて薄く削ぎ、それを梔子の実で黄色く染めて、ヤマブキの花に見立てるものだ。もう間もなくしたら、これがヤマブキから、菖蒲の花の細工に変わる。

 勘助は、サツマイモを切っている。月日芋を作るためだ。月日芋とは、サツマイモの皮を剥いて薄く削ぎ切りにし、熱い湯をかけてしばらく浸し、取り出したものに砂糖味噌を入れて編笠のような形に折る料理だ。サツマイモのほっこりした甘さと砂糖味噌の甘辛さが合わさって美味い。元々、勘助は、優しい味の煮物を作るのを得意とする。この月日芋もきっと、食べた人を幸せにする味に仕上がるだろう。

 そして太佑は、葛饅頭の仕度をしている。葛饅頭は、吉野饅頭とも呼ばれる。葛と言えば何といっても、吉野の葛が有名だからだ。葛に米粉を少し混ぜ、湯を入れてこね、小豆餡を包み、蒸し上げる。もっちり歯ごたえのある葛と、さらりととける甘い餡の取り合わせが楽しい菓子だ。桜が終わって、木々の緑が一斉に伸び始めている今、桜の名所吉野の名に掛けて葛饅頭の下に桜の緑の葉を敷けば、去り行く春を惜しみつつ来る夏を迎えるのにちょうどいい。あまり早くから作ってしまうと固くなるから、今は餡を丸めているところだ。

 めいめいが手を動かしながら、これからを憂えて話し合う。

「三か月ほど我慢すればいいとは言ってもねえ。今は客足が落ち着いたけど、またすぐ忙しくなるだろうし」

 料理長の伊平次が魚を捌きながらぼやく。その横で末吉が、大根細工を作る手を止めずに頷いた。

「まったく、困ったもんです」

「すみません」

 勘助が、しゅんと小さくなる。

「別にお前を怒ってるわけじゃねぇよ……俺だって、手伝えないから太佑に全部押し付けてんだ。悪いな、太佑」

 太佑は首を振った。

「まあ、何とかなるよ。三か月なんてあっという間さ」

 とはいっても、猫の手も借りたい忙しさ、というやつである。

 そのとき台所の勝手口から、猫の小町が顔を覗かせた。魚の匂いがしたので釣られてきたのだろう。

「こら、今入るんじゃないよ。後で魚の頭をやるから、今はそこから入るんじゃない。いいな?」

 伊平次がやんわりと追い払うように手を振ると、小町はまるで言葉が分かっているかのように、勝手口の外に座り込んだ。楼主が甘やかすので楼内では好き放題やっている小町だが、なぜか伊平次の言うことだけはよく聞き入れる。

「お前の手を借りられたらいいのになあ……」

 太佑が呟くと、小町は大きなあくびをした。


■   ■   ■


 次の日、昼四ツ(午前十時)を過ぎた頃。太佑が井戸端でその日のお膳に使う野菜を洗っているときだった。

「太佑どん、ちょいと」

 涼やかな声が降ってきた。太佑は顔を上げ、二階に目をやった。

 吉原の妓楼は二階建てになっている。一階に張見世や台所、若い者の部屋、内風呂、楼主の部屋である内所などがあり、二階に部屋持ちの花魁たちの部屋や、客を上げる座敷がある。建物は中庭をぐるりと囲むようになっており、中庭に面した二階の廊下には、朱塗りの欄干が設えてある。

 その欄干にもたれるようにして、花魁が下を覗き込んでいた。美角屋のお職――一番手の朝露である。

 美角屋で生まれ育った太佑にとって、見世の遊女たちは皆、禿の頃からよく見知っている妹分のようなものだ。遊女の年季明けは二十七、八歳である。今年で太佑は二十九。自分より年上の遊女はとうにいなくなった。

 年季が明けても身請けの宛ても行き場もなく、番頭新造になる者もいる。番頭新造、つまりは花魁の身の回りの世話や客の応対はするが、自らは客を取らない世話係である。その中には、「あたしは太佑の襁褓(おしめ)を替えてやったんだよ」と今でも言う者が少なからずおり、太佑は頭が上がらない。

 きょうだいのように育った女たちの中でも、朝露にはとりわけ思い入れが深い。

 欄干にもたれて太佑を見下ろしている朝露は、手に持っていた文を横に置き、身を乗り出した。

「成瀬のことで、相談が」

「成瀬がどうした」

 成瀬とは、朝露が世話している振袖新造の一人である。

 そもそも娘は廓に売られてくると、まず「禿」と呼ばれる見習いになる。大抵は、口減らしのために売られてきた農家の娘だ。垢抜けず、読み書きもろくに身についていないただの子供に、手習いをさせ、三味線や踊り、茶の湯や和歌など一通りのことを叩き込み、妓楼のしきたりを学ばせながら育てていく。

 その後、禿は十三歳くらいから十六歳くらいまでの間に「新造」となる。なりたての頃は赤味がちの振袖を着ているので「振袖新造」、略して「振新」とも呼ばれたりする。これを機に、髪を肩の辺りで切り揃えていた「切禿」の髪型から、「横兵庫」や「勝山髷」といった形に結い上げるようになる。

 花魁に客が重なったとき、名代として座敷に出て話し相手をつとめ、酌をすることもあるが、まだ床入りをすることはない。自分の部屋も持っていない――とはいっても、それは見込みのある新造に限った話だ。吉原の名物ともいえる、籬の向こうに遊女がずらっと並ぶ「張見世」を行なわない、いわゆる「呼出」の花魁になれると見込まれた新造は、遊女として一本立ちする「突出し」まで客を取らず大事に育てられるのだが、そこまで出世しないだろうと思われる新造は、ひそかに売り出して客を取ることもある。

 成瀬は今年で十六歳。振袖新造として朝露の元で見習いを続けてきた。白い肌が美しく、目つきがシュッと鋭くて、きりっと勝気な顔をしているが、下がり気味の眉が顔立ちのきつさを和らげている。稽古事は何をやらせてもそつなくこなし、特に三味線と活け花の腕は、他の振袖新造より頭一つ抜きんでていると評判である。賢くて機転が利いて、それが少し生意気に映ることもあるが、目から鼻へ抜けるような才気に溢れており、そのいかにもなツンとした感じが、媚びていなくていい、と朝露の馴染みの客で成瀬に目を掛けているものは多い。

 成瀬に何かあったのかと太佑が問うと、朝露は声を低めて囁いた。

「このところ、ふさいで見える気がいたしんす。わけを問うても、答えるそぶりは一向にありぃせん」

「ふさいで見える……というと?」

 朝露は困った顔をした。

「いつもは利発で気の利く子なのに、このところ、どうにもぼんやりしていて、稽古事にも身の入らぬ様子」

 朝露がそこまで言うなら、きっと気のせいではないのだろう。春の陽気のせいじゃないかと、ちゃかせるようなものでもないらしい。

「わっちを姉女郎と慕うていても、女同士では話しにくいこともあるのやも。太佑どん、成瀬に一度、話を聞いてみておくんなんし」

 勝山髷に結い上げた頭を、朝露がゆったりと下げる。太佑は慌てて、顔の前で手を振った。

「いやいや、何で俺に頼むんだ? 俺よりこういうのに、適した奴がいるだろう。そうだ、仁兵衛とか」

 仁兵衛とは、美角屋の二階廻しである。二階、つまり遊女たちの部屋や座敷を取り仕切り、客をあしらい、宴席をしつらえ、床を用意する役目のことだ。大切なお客をもてなす要となる取次役だから、花魁たちから信用されていないといけないし、目端と気の利く者でないと務まらない。

 仁兵衛は、まさに二階廻しにうってつけの男だった。愛想はいいし、客にも好かれているし、仕事ぶりは真面目で、面倒見がいい。仁兵衛になら、成瀬も心の内を話すのではないか、と思ったのだが。

「仁兵衛どんより、太佑どんの方が良うござんしょう」

「何でだい」

「さあ?」

 こうなると、太佑が朝露に口で勝てることはない。

 かつて、この見世で太佑の作った菓子を最初に食べたのは朝露だ。美味しい、と笑ってくれたのが嬉しかった。この笑顔のために、菓子を作り続けようと思った。自分の作る菓子が人を幸せにできるなら、それが自分の生き甲斐だと思った。

 五年ほども前のこと、朝露が太佑の作る菓子を食べていなかった時期がある。何としてでも食わせてみせると躍起になって、一年かけてようやく食わせた。

 なぜ朝露に、そこまでしてやりたいと思うのか、自分でも分からない。周りから「お前は朝露に惚れてるんだ」と言われたこともあるが、そうではない、と自分では思う。

 ただ、大切に思う相手だ。尽くす理由はそれで十分だ。

 朝露の頼みなら、何だって聞いてやりたい。叶えてやりたい。

 どんな無理でも、朝露に頼まれたなら、どうしたって断りたくはない。

「……分かったよ。また折を見てな」

「頼みんした」

 朝露はもう一度、頭を下げた。

 太佑は小さく溜息をついた。何か厄介なことを背負い込んでしまったような気がした。


 それからしばらくは、台所で夜のお膳に向けた仕度を進めていた。伊平次は出汁と醤油で麩を煮しめている。末吉は塩焼きにするための鰆を捌いているし、勘助は風呂吹にするための大根を切っている。

 太佑は菓子を作っている。今日作るのは柏餅である。

 米の粉に湯を混ぜてこね、丸く平たく形を整え、間に小豆で作った餡を入れて半分に畳み、柏の葉で包んで蒸す。小豆餡ではなく、砂糖を混ぜた味噌を入れることもある。今日作るのは小豆餡のものだ。

 餅を包む柏の葉は、小豆餡を中に包んだときは表側を外にする。味噌を包んだときは裏側を外にする。そうして中身を見分けるのである。蒸しあがった餅は、餅に柏の葉の香りが移って、ヨモギを混ぜた草餅とはまた違う、この暑くもなく寒くもなく過ごしやすい季節に相応しい、清々とした味になる。

 ――ちなみに柏餅が端午の節句の菓子となったのは、寛文年間(一六六一~七三年)頃であるという。粽も同様に端午の節句の菓子ではあるが、江戸では柏餅、上方では粽が主であった。

 柏の葉で餅を包み終え、あとは蒸し始めるのを待つばかり、というところまで用意した頃には、昼見世の終わる夕七ツ(午後四時)にもなっていた。

 吉原には昼見世と夜見世があり、それに合わせて人が動いている。

 夜見世は暮れ六ツ(午後六時)から始まり、夜九ツ(午前零時)まで開いている。客を取るのはこの時間までだ。

 その後、夜八ツ(午前二時)になると「大引け」となり、客も遊女も床に入る。

 そして翌朝、明け六ツ(午前六時)になると客を帰して、遊女たちは再び眠りに就き、昼四ツ(午前十時)頃に起き出してくる。

 昼九ツ(正午)となると昼見世が始まり、夕七ツ(午後四時)まで続く。そしてまた暮れ六ツになると、夜見世が始まるのだ。

 料理番は座敷に合わせて料理を仕度するから、大引けまでにその夜の仕事は一段落するし、昼見世はさほど大きな宴席を設けることもないので、夕方から夜中までが一番忙しい。

 一方、二階廻しなど客の世話をする仕事だと、見世が始まって客が入りはじめてからが忙しく、また夜中を過ぎても仕事は続く。一度に何人もの客が来た時は、座敷になかなか顔を出さない花魁にしびれを切らして「敵娼が来ないがどうなっている」と機嫌を損ねる客を「お召替えをなさっておいでですので、もうしばしお待ちを」ととりなしたり、嫌いな客の座敷に出たくないとごねる花魁を、なだめすかして顔を出させたり。客の顔を立てながらも、花魁たちの機嫌も上手く取る、気苦労の多い一晩を過ごし、客が帰るまで気が抜けない。

 昼見世が終わるこの頃合いは、見世中が一番落ち着いているときかもしれない。夜見世に向けての仕度が始まる、少し前。

 成瀬に話を聞きに行くなら、今だ、と太佑は思った。

 台所を抜け、振袖新造たちの部屋に行ってみたが、部屋にいた振袖新造に、成瀬はいないと言われてしまった。

 二階に向かって階段を上がる。廊下で遊ぶ禿たちを避けながら、朝露の座敷の方へ歩いていく。

 成瀬は朝露の座敷にいた。朝露は部屋持ちの花魁で、自分の部屋と客を通す座敷を持っている。

 成瀬は部屋の隅に陣取って、花を活けている最中だった。季節の花が並べられた中、真っ白なユキヤナギの中に一本だけ混ざった、鮮やかな黄金色のヤマブキが目を引いた。部屋の外にまで、柔らかな花の香が流れている。

「ちょっといいか」

 太佑が声を掛けると、成瀬がスッと顔を上げた。

「朝露姉さんなら、こちらにはおりんせん」

「いや、お前に用だ」

「何でござんしょうか」

 話しかけてくれるな、とでもいうような、成瀬にしてはきつめの物言いだった。近づくのも憚られ、障子に手を掛けたまま、部屋の入口から話しかける。

「いや……その、お前の元気がないように見えて……いや、違うな。最近、どうかと思ってな。何か悩んでいることとか……必ずしも相談に乗れるってわけじゃあないが、話だけでも……うーん」

 しどろもどろな上に、言葉を重ねれば重ねるほど、何を言いたいか伝わらなくなる。我ながらまったく下手な切り出し方をした。

 成瀬が眉間に皺を寄せるのを見て、太佑は焦った。

「ええと……食いたいものはないか?」

 機嫌を取るように、訊ねてみる。台所で作っているものがサッと頭の中をよぎる。

「そうだ……お前、揚げた芋が好きだろう? 食べたくはないか? 今日のお膳に伊平次さんが揚げ麩を作っているんだ。余った油で芋を揚げてやろう。台所に来てくれたら、揚げたてをやるぞ」

 揚げ麩とは、その名の通り、麩を油で揚げたものだ。出汁と醤油で煮しめた麩は揚げてやるとふっくらと膨らみ、冷えても形が崩れない。あっさりとしているのに風味の深い品である。

 その残り油で、薄く切ったサツマイモを揚げてやろうというのだ。砂糖を振ってもいいが、塩を振ってもサツマイモの甘味が引き出される。片手間で作れるおやつだが、これを嫌いな者はいない。

 好きな食べ物の話をすれば少しは乗ってくれるかと思ったが、どうやらしくじった、と太佑は早々に悟った。こんなあからさまに話を逸らすような真似をすれば、聡い成瀬が不審に思わぬはずがない。

 案の定、成瀬は鋭い目をキッと細めて、下がり気味の眉をひそめた。

「太佑どん」

「おう」

「朝露姉さんから頼まれんしたか」

「……」

 清々しいほどに、すべてお見通しというわけだ。

「太佑どんに話すことなどありぃせん」

 成瀬はそう言ったきり、わざとらしく横を向いてしまった。止めていた手を再び動かし、ユキヤナギの茎の中ほどを指先でつまむと、すっと下に滑らせる。小さな白い花びらと、花に混じる緑の葉が茎から離れ、雪のようにはらはらと落ちた。

 とりつく島もないらしい。こうなってはもう、引き下がるしかない。

「……悪かったよ。邪魔したな」

 我ながら、ありえないほどの下手を打ったものだ。しかし、こんなに取っつきにくい子ではなかったはずなのに、何が成瀬をこうも変えてしまったのだろう。


 階段に向かおうと踵を返すと、廊下の先に人影があった。

 不寝番の草次郎である。

 不寝番は、夜見世の間、柝の音を響かせながら、二階の廊下を行き来して、時を告げて回る。また遊女らの部屋に一晩中灯っている行灯の火が絶えぬよう、油を足すのも役目の一つだ。

 草次郎は、美角屋ではまだ新参者だ。去年の秋に雇い入れられた。

 吉原に来る前、何をしていたのかは、楼主の水野平三郎も詳しくは聞かされていないらしい。口入屋に紹介されて、流れ着くようにここに来た。歳が二十二だ、というのと、生まれが武蔵国だ、というのだけは確かな話らしい。

 半年も同じ楼内で暮らしていても、普段は台所に籠りきりのことが多い料理番の太佑と、二階を回る不寝番の草次郎とでは、雑魚寝部屋で寝起きこそ共にしているものの、働いている時間が少しずれているから顔を合わせることも少ないし、話をすることも滅多にない。

 そのせいで、草次郎はどうにも得体が知れない。誰かと話している姿も見たことがない。

(上手く馴染めていないんだろうか)

 少し心配してしまう。

 せっかくここで行き会ったのだ、と話しかけてみようとしたが、太佑が近づくと、草次郎は太佑の方をギロッと睨んだ。

 こうして見ると、草次郎という男、なかなか背が高い。遠目にはそう見えないのだが、近くに寄ると、勘助よりも背があるかもしれないから五尺八寸(一七五センチ)ほどもあろうか。身の丈、およそ六尺(一八〇センチ)ほどの太佑からしても、目の高さがそう変わらない。大きく見えないのは、何も背が丸まっているとか覇気がないとかいうわけではない。身体つきが引き締まっているからだ。

 ここに来る前のことは分からぬが、日雇いの力仕事でもしていたのだろうか。日に焼けた浅黒い肌をしているし、腕も一見細っこいが、よくよく見ると筋が盛り上がり、身のこなしにも隙がない。元は武士であろうかと思いそうなところだが、手にさほどの厚みはなく、剣を握り慣れた者の手ではないのは明らかだった。荒れてはいるが節くれだったところがなく、指が長い。

 顔立ちは整っており、すんなりとした卵型の、しかし線のはっきりした輪郭をしている。眉は黒々と濃いものの野暮ったくない弧を描いており、その下にある目が何より見る者を引き付ける。釣り目とも垂れ目とも言えぬ切れ長の瞳は、とりわけ鋭いわけでもないのに、やけに力強い。まっすぐに物を見つめる目をしていた。

 物言いたげな口元をして、少し眉をひそめたような憂いを帯びた顔をしていることが多いが、笑えばきっと親しみやすい、愛敬のある顔になるのだろうなと思う――そんな顔をしているところを、おそらく誰も見たことがないけれど。

 太佑がさらに一歩近づくと、草次郎はさっと一歩引いた。睨みつける目の力が強くなる。

 気のせいではない。避けられている。

(俺はこいつに何かしたか……?)

 威嚇するような目つきで睨まれて、太佑がたじろいでいると、階段を上がってきた者があった。番頭の源右衛門だ。

 源右衛門は、見世一番の堅蔵として名が通っている。いつも怒ったような顔をしていて、冗談の通じない、融通の利かない性分の男だ。

 階段を上がりきった源右衛門は、草次郎を見ると、眉間の皺を深くした。

「草次郎っ! お前、行灯部屋の掃除がまだ済んでいないだろう! 戸が開けっ放しだ。こんなところでふらふらしてないで、持ち場に戻れ!」

 いきなり怒鳴る。源右衛門は誰に対しても容赦なく叱りつけるので、見世の者たちにひどくおっかながられている。ただ、むやみやたらと当たり散らすことがないのだけは助かる。その点、人ができていると言えなくもない。

 普通の若い者なら、源右衛門の剣幕に怯んで「すみません!」と慌てふためき、逃げるようにその場を去ろうとして「廊下をバタバタ走るんじゃない!」と叱られるまでがお約束、というところだが、草次郎はゆったりと頷き、小さく「はい。すみません」と呟くように返事をして、静かに太佑の横をすり抜けていった。すれ違いざま、何か花の香のような、ふわりとした甘い匂いがした――と思った瞬間だった。

 ――いい気なもんだ。

 低く唸るような声で、そう聞こえた。

 太佑は草次郎の方を振り向いた。気のせいか聞き間違いかとも思ったが、問い質す間もないままに、草次郎はきつい一瞥を太佑に投げると、ふい、と目を逸らして何事もなかったように歩いて行った。

(やはり聞き間違いか……?)

 太佑が首をひねっていると、源右衛門が話しかけてきた。

「あの草次郎という奴、困りものでな」

「はあ……」

 どう困っているのだ、などと聞き返したら、相談に乗ってやることになってしまう。適当に流してその場を離れようとしたのだが、源右衛門は太佑の行く手を阻むように立っている。

「あの、俺も台所に戻りますね」

 源右衛門の横をすり抜けようとしたが、意外に素早い動きで行く手を遮られた。

「まあ待て。そう時間は取らせない」

 話を聞け、ということらしい。無視しても角が立つだけだ。太佑は早々に諦めて頷いた。

「はい」

「うん。お前は口が堅いと見込んで話すんだがな。あの草次郎という男、何かと手を焼かされていて困ったもので、どうにかならんかと、俺はずっと頭を悩ませているんだ」

 周りに聞き耳がないかと気にしながら、源右衛門はぼそぼそと喋り続ける。

「楼主が仰るには、『身元に怪しそうなところはないが、どうにもわけありのようだ。外では生きづらそうな子だよ。面倒をよく見てやってくれ』と」

 源右衛門は、平三郎の声真似をしてみせた。やけに似ていた。この人も声真似なんてするんだな、というのが妙におかしかったが、笑ったらきっと、源右衛門は機嫌を損ねてしまうだろうから、太佑は笑いを噛み殺した。

「まあ、ここで暮らす者は、大概がわけありですからね」

「そうだ。何か外では生きづらいようなことがあって、吉原に来たような者ばかりだ。もちろん、俺も含めてな。だからそこは気にならない。ただな……」

 源右衛門は声を低めた。

「草次郎の扱いづらさは、並ではない。仕事ぶりはまずまずといったところだが、気が付くとフラッと持ち場を離れて、ぼんやり立ち尽くしていることがあるし、真面目さに欠ける。何か用を言い付けても、分かっているのか分かっていないのか、はっきりしないような返事しかしない。一緒に働きにくくてかなわない、と見世中から訴えられることしきりでな。何とかならないだろうか」

「何とか、と言われましてもねえ……」

「お前はここの古株だ。知恵もある。何か出るだろう、こういうときの、とっておきの妙案が」

「ありませんよ、そんなの」

「いいや、ある。考えろ! お前が頼みの綱なんだ!」

 源右衛門がここまで手を焼くとは、よほどのことだ。しかしなぜこうも源右衛門が太佑を頼りにするのか分からない。

「俺に相談されても困りますよ。俺は今、台所のことでいっぱいなんですから。勘助が足をやっちまってから、もう大忙しで――」

「それだ!」

 源右衛門はそう叫ぶと、太佑の肩を両手でガッと掴んだ。

「いいことを思いついた。太佑、その悩み、俺が何とかしてやろう」

 源右衛門はニヤリと笑った。どうにも嫌なことが起きる気しかしない。

「いや、結構です」

 太佑は源右衛門の両手を払おうとしたが、意外にがっちりと掴まれて、離れない。

「草次郎は、少々口数が少なくて暗いし、何を考えているか分からない奴だが、性根は悪くなさそうだ。一から叩き直してやれば、きっと使えるようになるだろう」

「……はあ」

「そこでだ。勘助の代わりに草次郎を使わせてやる」

「……はあ?」

 何やら、とんでもないことを言い始めた。

「ちょっと待ってください、それは……」

「不寝番なら他にもいる。あいつが抜けたところで困らないから気にするな。料理の手伝いなど到底できんが、お膳を二階に運ぶのと皿洗いくらいならあいつもできるだろう。お前の指示で動くようよくよく言って聞かせるから、太佑、お前が草次郎を叩き直してやってくれ」

 あまりのことに、口ごたえする気も失せかけたが、このまま押し付けられてはかなわない。太佑は慌てて首を振った。

「いやいや、叩き直すも何も。俺はそういうのに向いてないですよ。俺よりは、それこそ番頭さんみたいなきっちりした方じゃないと……」

「俺はああいう、叱っても響かない手合いの面倒を見るのに向いていない」

「……」

「お前みたいな穏やかな奴の方が、いいと思う」

 穏やか、と言われて太佑は大いに首をひねった。どちらかというと喧嘩っ早いところがあると、自分では思っている。いつぞや座敷で騒いだ浅葱裏と揉めたときだって、源右衛門は太佑のカッとなりやすい性分をさんざん叱ったくせに。

 しかし、ここまで頼まれてしまうと、引き受けるまで台所に帰してくれないだろう。それに、お膳運びや皿洗いを引き受けてくれる人手が増えるのは、正直ありがたい。

「分かりました。試しに草次郎を使わせてもらいましょう。叩き直す云々は、お約束できませんが」

「お前なら、そう言ってくれると思っていたぞ」

 源右衛門が機嫌よく、カッカッカと柝を打つような笑い声をあげる。

(ああ、引き受けちまった……)

 だが、人手が増えて助かるのは確かである。

「あいつもな、なかなか大変な身の上のようだ。いいか、ここだけの話だが」

 源右衛門が身をかがめて声を低め、太佑の耳元に口を寄せる。内緒の話をする禿のように、大の男が二人、しゃがみこんでひそひそと話をしている姿は、よそから見ると滑稽だろう。

「楼主の聞いたところだと、あいつは探している人があって吉原に来たそうだ。大方、幼い頃に売られた姉でも探しに来たとか、そういう類だろう」

「ああ……なるほど」

 太佑は思わず相槌を打った。吉原に来た理由が人探し、しかも本意ではない別れをした相手を何年か越しで探しに来たということなら、草次郎の翳りのある様子も頷ける――売られた娘を探し当てたところで、連れ出せる当てがあるわけではないし、病気にかかっていることだってある。もう縁を切ったものとして知らぬふりを通されることもある。更には身を売らせたという負い目もある。今さら探そうとするなんて、金に困って無心をしに来たかと勘繰られることも少なくない。堂々と「売られた身内を探しに来た」などと口に出せるものではない。

 草次郎が誰とも馴れ合わないのは、自分のことを話したくないからだろう。誰かと親しくなってしまって、自分が吉原に来たわけを話さねばならないことを恐れているのだ。そう察した。

「……でも、俺が聞いてしまって良かったんですか?」

 隠したがっているものを、勝手に知ることになってしまった。源右衛門は口が軽い方ではなかろうに、なぜ太佑にこんな話をするのだろう。

「いい。俺も話す相手は選んでいる――託すからには、知っておいてもらった方がいいことだろう。周りの者を止めるためにも」

「周りの?」

「勘助だ。あいつは遠慮知らずに身の上を聞き出そうとするに決まっている。それを上手く遠ざけてやってくれと言っているんだ」

「……なるほど」

 源右衛門にしては気の回ることだ。

 台所に戻り、源右衛門から草次郎を押し付けられたことを話すと、伊平次と末吉は驚いたような顔をした。

「まあ、助かると言えば助かるけど……草次郎って、何となく寄り付きにくいというか、怖いだろう? 上手くやっていけるかねえ」

 何かにつけて憂いごとの多い伊平次が、不安そうな声を上げた。

「何とかなるでしょう。そう難しいことを頼むわけじゃなし。お膳を運ぶだけなんですから」

 末吉がそっけなく返すと、伊平次は、そうじゃないと首を振った。

「仕事ができるかどうかは心配してないさ。人付き合いのことだよ。いくら簡単なことしか頼まないと言っても、打ち解けた相手とそうじゃない相手なら、打ち解けた相手へ指示を出す方がよほど楽だ。俺は草次郎に、上手く指示を出せる気がまるでしない……」

 そう言って、伊平次は頭を抱えてしまった。

「伊平次さんは気を揉みすぎなんです。な、太佑もそう思うだろ?」

 末吉に話を振られて、太佑はひとつまばたきをした。

「俺はどっちかというと、伊平次さんの気持ちに近い。草次郎は、一筋縄ではいかないというか、何というか……」

 ――いい気なもんだ。

 すれ違いざまにかけられた言葉が、引っかかっている。あれはどういう意味だろう。

 もし聞き違いであったとしても、草次郎が太佑をよく思っていないのは、目つきからも察せられる。誰に対しても睨みつけるような愛想のない目をした草次郎だが、太佑を見るときは、いっそう険悪になる気がする。

 太佑が言葉を切って言い淀んでいると、普段はお喋りのくせに今日はやけに静かなままだった勘助が、口を開いた。

「俺は末吉さんの言う通りだと思うな」

「勘助」

「何にせよ、俺の足が治るまでは、頼らなくちゃいけないんだ。俺も色々話しかけてみるからさ。俺、この見世で自分より新入りはまだ珍しいから、草次郎と話をしてみたいと思ってたんだ。仲良くなれるといいねえ」

 そう言ってにっこり笑う勘助を見て、少し気持ちが落ち着いた。勝手な思い込みで人を遠ざけるのはよくない。まずは当たって砕けろ、だ。


 その夜、さっそく草次郎が台所の手伝いにやってきた。

「お膳を上へ運んでくれ。どの座敷へどれだけ運ぶかは、上で仁兵衛が教えてくれるから」

 出来上がった膳を指さすと、草次郎は太佑から顔を逸らしたまま、聞こえるかどうかの小さな声で「はい」と返事をした。

 ――いい気なもんだ。

 昼間のあの言葉は、やはり聞き違いであったのだろうか。単に暗くて目つきが悪いだけの、損な性分なのかもしれない。でも態度にどこか険がある。

 いざ働かせてみると、草次郎はよく動く男だった。自分から気を利かせてあれこれやることこそないものの、黙々とお膳を運び、皿を洗い、太佑の言葉を聞き入れた。

(少なくとも、使いにくい男ではない)

 言われたことを一通りこなせる器用さはある。ただ、踏み込ませてくれない、容易に話しかけさせてくれない、壁を作っているのは相変わらずだ。勘助が暇を見つけて、「ねえ、草次郎は、武蔵国の出なんだって?」とか「何か好きな食べ物はあるのかい?」とか「明日は晴れるかなあ」などと、太佑が止めに入るほどでもないような当たり障りのない話を振ってみていたが、「はい」と「いいえ」と「さあ」という、短い返事以外の言葉を、ついぞ引き出すことができなかった。


 夜四ツ(午後十時)も近くなり、お膳運びに一段落つく頃、草次郎には不寝番に戻ってもらうことにした。

「ご苦労様。助かったよ」

 太佑が声を掛けると、伊平次、末吉、勘助もかわるがわる草次郎に声を掛けた。

「また明日からもよろしく頼むよ」

「手間を掛けさせたな」

「俺の代わりに、ありがとうな」

 しかし草次郎は軽く頭を下げただけで、すーっと消えるように二階へ上がっていってしまった。

「暗い奴がいると、場が暗くなってかなわねぇな」

 末吉がぼそっと文句を口にした。

「末吉さん、そういう言い方はちょっと……」

 庇おうとしたが、上手く庇う言葉が見つからない。

 そのとき、見世の一階に続く側の入口にかかるのれんを撥ね上げて、顔を覗かせる者がいた。

「邪魔するよ!」

 客の徳之進であった。

 徳之進は、朝露の馴染みの客である。新川の酒問屋の跡取り息子で、当年三十二を数える。役者のごとくととのって華やかな、人目を引く顔立ちをしている。

 徳之進に続いて、のれんを掻き分けて現れた人影があった。

「太佑、いるか」

 これまた客の、龍ノ井であった。

 龍ノ井は相撲取りである。龍ノ井虎次郎といえば、今を時めく江戸の人気力士。五年ほど前まで長らく小結で足踏みしていたが、太佑の菓子の励ましを受けて、その後順当に勝ちを重ねていって、天明二年(一七八二)の秋、めでたく番付を大関に上げた。

 二人とも、太佑にとって大切な――こういう言い方が許されるのかは分からないが、友達のように思う客人だ。

「いらっしゃい。お二人が揃うのは久々ですね」

 台所の端には板敷の間があり、そこに野菜や米を置いているのだが、その隙間に二人は腰を下ろす。もうすっかりそこが決まった場所になっていて、いつの間にか持ち込まれた座布団すらある始末だ。

「そうだねえ。なかなか忙しくて、揃って来ることはなかったね。龍ノ井さんと、吉原の外でちょくちょく顔を合わせることはあったんだけど」

 徳之進と龍ノ井の二人は、元々知り合いでも何でもない。朝露の客同士で、ひょんなことから台所に共に入り浸る仲となり、もうかれこれ五年近くも、こうして友達付き合いを続けている。花魁をめぐって、客同士が争い合うことはあっても、こうも仲良くなることは珍しい。

「そうそう。徳之進さんは先日なんて、うちの相撲部屋に酒を差し入れてくださって。わしが酒を飲めぬからと、米まで一緒に。改めて、お礼を申し上げます」

 龍ノ井は深々と頭を下げた。

「ちょっとだけだけどね」

 徳之進が照れたように笑いながら、座敷からくすねてきた酒を杯に注ぐ。

 それからしばらく、二人は料理番たちの邪魔をせぬようにと、世間話などに興じていたが、やがて徳之進は思い出したように手を打ち合わせた。

「そうだ、聞きたかったんだが。成瀬に何かあったのかい?」

 徳之進がくっきりした目をカッと見開いて訊ねてきた。太佑は徳之進の、この目が少し苦手だった。気圧されて思わず固まってしまう。蛇に睨まれた蛙とは、こんな気持ちがするのだろう。

 とっさに言葉の出ない太佑に代わり、お喋りの勘助が話に首を突っ込んだ。

「何か、と言いますと?」

「いやあ、何というわけでもないんだけどね。成瀬といえば三味線が達者だが、さっき俺の座敷に朝露の名代で来て、ほんの短い間に何度も音をしくじって。話をしても、いつもならハキハキ答えて、賢すぎてちょっと嫌味なくらいなのに、今日は全く上の空だ。あの子らしくない」

 すると龍ノ井も頷いた。

「確かに。先ほど廊下で行きあったとき、いつもなら何か気の利いた一言でも添えながら挨拶をしてくれるのに、今日は会釈してぼんやりすれ違うだけだった。らしくないといえば、らしくない」

 成瀬の様子がおかしいことを、客人までもが気付き始めている。

(明かしてもいいものか……?)

 少し迷いを残しつつも、太佑はぽつぽつと、朝露にも成瀬の様子がおかしいようだと相談を受けた、という話をした。そして成瀬本人には「話すことはありぃせん」と撥ねつけられたということも。

「そう言われたら、このところ、元気がなさそうに見えるよねえ」

 勘助がのんびりとした口調で言った。その横で、伊平次が頷く。

「成瀬は十六か。難しい歳だからな」

「まあ、あの年頃の娘はねえ。扱いづらいものだよ」

 徳之進が分かった風なことを言う。

「でも何か気が付くことがあったら、知らせるから」

 すると龍ノ井が頷いた。

「わしも気にしておくようにしよう。何か力になれることがあれば、言ってくれ。できることなら何でも手を貸そう」

 二人の心遣いがありがたい。

「ありがとうございます――朝露にも、そう伝えておきましょう」

 太佑は二人に頭を下げた。

「それはそうとして、末吉はいないんだね?」

 徳之進が台所をぐるりと見回す。

 太佑もつられてぐるりと見回したが、確かにいつの間にかいなくなっていた。

「末吉なら、出ていってしまいましてね。すみません」

 伊平次が申し訳なさそうに頭を下げた。

 末吉は、徳之進を苦手としている。何が気に入らないかは知らぬが、徳之進が台所に姿を現すや、調理台に身を隠したり、外に出ていったりしてしまう。顔を合わせるのも嫌、ということらしい。

「どうしたんです、末吉さんに何か御用でもありましたか? ことづてがあるならお聞きしておきますが」

 太佑がそう言うと、徳之進はにわかに真面目な顔つきになった。

「いや……大したことじゃないんだけどね。俺も今年で三十二になった。お店のこととか、旦那さんのこととか、色々ちゃんと向き合おうと思って」

 徳之進は酒問屋の息子だ――ただし妾腹の。父親からはずっと見放されて育ってきたが、正妻の跡取り息子が急な病で亡くなって、慌てて呼び寄せられ、跡取りの座に収まった。ずっと離れて育っていたし、母を捨てた父のことを、徳之進は今でも父親だと思えないという。だから徳之進は、父親のことを「父」とは呼ばず「旦那さん」と呼ぶ。

「旦那さんと、最近少しは話もするようになったんだ。そろそろ商売のことを真面目に教わっておかないと、と思ってね。あの人を許すかどうかはまた別だけど。何とか打ち解けられたらと、そう思ってる」

「はい」

 話が見えないが、とりあえず適当に相槌を打っておく。

「それで、だ。いきなり旦那さんに向き合うのは、俺には荷が重い。手始めに、誰か違う人で、人と打ち解ける練習をしたい。だが俺が苦手に思う人というのはなかなかいない」

 何となく話が読めてきた。

「末吉は俺を苦手にしているだろう? 末吉に、苦手な人と打ち解ける練習の相手になってもらえないかと思ってね」

 徳之進は悪びれずにそう言った。

「でも……」

 勘助が横から口を挟んだ。

「末吉さんは徳之進様が苦手で、徳之進様はお父上のことが苦手。ってことは、あまり意味がないんじゃないですか? だって徳之進様、ご自分が苦手に思う人と打ち解ける練習をなさりたいんでしょう? 徳之進様、末吉さんを苦手ではないじゃないですか?」

「確かに」

 太佑も思わず頷いた。

 だが徳之進は、苦笑いして首を振った。

「俺は、俺を苦手に思う人のことはみんな苦手だよ――そう見えないとしたら、よほど上手く隠せていると思っていいのかな」

(末吉さんに苦手にされているって、分かってたんだなあ……)

 末吉は徳之進が台所にやってくると、いつもあからさまに嫌そうな顔をしたり、席を外したりしているが、徳之進はそういうことに気が付かない――気にかけない人なのかと、いつの間にか思い込んでいた。

 だが、よく考えれば、そんなはずはない。未だに妾の子だと後ろ指を指されることも多い。振舞いの奔放さはどうしたって目立つ。人から向けられる悪意に、人一倍敏くなければ、ここまでやって来られなかった人だ。

 血の繋がった父親と、見世の料理番の末吉では、勝手が違うのではないかと思うが、徳之進の気がそれで済むなら、わざわざ止めることもない。

「まあ、俺はお手伝いしませんが。お父上と打ち解けたいっていう、お心がけは立派だと思いますよ。好きになさったらいいんじゃないですかね」

 ――末吉さんは嫌がるでしょうけど。

 そう続けそうになったのを、呑み込んだ。どこかずれている気はしなくもないが、せっかく良い方に変わろうとしている人の出鼻を挫くのは野暮だろう。

「徳之進さんは良い方だ。誠実をもって接していれば、お父上のことも末吉のことも、いずれ上手くいくでしょうよ」

 静かに話を聞いていた龍ノ井が、仏像のように穏やかに微笑む。

「ありがとう。龍ノ井さんにそう言われると嬉しいねえ」

 徳之進は、照れたようにクシャッと笑う。

「末吉さん、酒が好きだから。今度いらっしゃるとき、酒でも差し入れてやれば、もしかしたらちょっと、機嫌もよくなるかもしれません」

 太佑がそう言うと、徳之進は頭を下げた。

「ありがたい。試してみよう」

 物で釣るのは良策ではないかもしれない。でも徒手で向かうより、何か物を介した方が、話が上手く進むこともある。物はあくまでも、きっかけだ。

 好きにすればいい、手伝うつもりはない、とは言いつつも、しくじってほしくないとは思う。


■   ■   ■


 十日後、徳之進が登楼した。太佑には前もって、いつものように文が送られてきた。徳之進の金釘流のガタガタした字で「口添えを頼みたく候」というようなことがつらつらと書いてあった。

(だから、手助けしませんよって言ってるのに……)

 しかし巻き込まれるのは必至のようだ。


 例によって宴席が引ける頃になると、徳之進が台所に顔を現した。

「邪魔するよ」

 のれんの下から顔を覗かせ、そっと様子をうかがうように入ってくる。末吉がすかさず逃げ出そうとしたので、太佑は袖を掴んで引き止めた。

「末吉さんには、いてもらわなきゃ」

「嫌だよ。知ってるだろう。俺は苦手なんだよ、あの方が」

「知ってるよ。でも今日は末吉さんに用があっていらしてるんだ」

「俺に?」

 末吉が動きを止めた。その隙に、徳之進はすっと末吉に近づくと、愛想のいい笑みを浮かべた。

「あんたとは、いつもまともに顔を合わせたことがなかったからね。ここらでひとつ、仲良くなってみたいと思ってさ」

「……何のつもりですかね」

 末吉は嫌そうに顔をしかめた。このままだと末吉がどんな失礼なことを言い出すか分からない。太佑は慌てて話に割り込んだ。

「ほら、徳之進様は酒問屋で、小売り酒屋をお持ちだから。酒を差し入れようと仰ってくださってるんだ。そうでしょう、徳之進様?」

 徳之進は、この機を逃すまいとするように、こくこくと頷いた。

「そう。わずかだが、よかったら暇のあるときに、料理番の皆で楽しんでくれ」

 そう言って、酒の入った徳利を差し出した。

 だが、末吉は受け取る気配がない。それどころか、訝しげに徳之進の顔をうかがい、

「遠慮申し上げます、と言ったらどうします?」

 じりっと半歩下がった。

(あ、これはまずい)

 ただ一言「要らねぇ」とだけ言って断らなかった分ましだが、末吉の機嫌がどんどん悪くなっていくのが手に取るように分かる。

「くれるってんだ、もらっておけばいいじゃないか」

「いや……受け取るいわれがないだろう」

「祝儀だと思えばいいんだよ」

 太佑は見るに見かねて、徳之進から徳利を受け取り、末吉に押し付けるように手渡した。手を貸さないと言っていたのは、もう止めだ。傍で見ているとはらはらする。

「……」

 末吉は嫌そうな顔をしながらも、徳利を黙って受け取った。無理やり預けた、という方が正しいのかもしれない。

「あと、これ。残り物で悪いが使ってくれ。客に出すお膳には使うほどはなくとも、日々のまかないには使えるんじゃないかと思ってさ」

 そう言って徳之進が差し出した包みを、末吉が受け取る気配がないので、太佑が代わりに受け取った。

 意外にもずしっと重い。開けてみると、ふわっと酒の匂いが立ち上った。

 酒粕だった。

「ありがたい。使わせてもらいます。ねえ、末吉さん」

 太佑が肘で小突くと、末吉はちらっと徳之進を見て軽く頭を下げた。

「……ありがとうございます」

 形ばかりの礼を述べるや、末吉は「鍋洗ってくる」と呟いて、酒を調理台の上にドンと置いて、鍋をひっつかみ、勝手口から出ていってしまった。

「……末吉さん、相変わらずだねえ」

 勘助が呆れたように呟くと、徳之進はがっくりと肩を落とした。

「やっぱり駄目か……我ながら、人当たりはいい方だと思うんだが、どうにも上手くいかないもんだね。困ったな」

「もう末吉さんと打ち解けられるのは、諦めたらどうでしょうかね? 末吉さん、頑固だから。ああなると難しいですよ」

 勘助がおずおずと切り出すと、伊平次も大きく頷いた。

「末吉はなあ……一度こうと決めたら、なかなか変わらない奴だから。悪い奴じゃないんですけどね。でも、諦めた方がいい気はしますよ。無理に近づくと、こじれるばっかりです」

 徳之進は俯いて、台所の板敷の間に上がり込むと、胡坐をかいた。ひどく傷ついているように見えた。

「こう言うのも憚られるようですが、嫌われているなら、いっそ嫌わせておけばいいとはお思いにならないんですか」

 太佑がそう言うと、徳之進は真面目な顔をして首を振った。

「俺も前まではそう思っていたよ。自分のことを嫌いな奴のために努力するのは無駄ってものだと。勝手に嫌わせておけばいいと思っていた。だが……」

 言葉を切り、少し言い淀む。

「……多分まだ、諦めたくないんだ。末吉のことだけじゃない。旦那さんのことにしても。俺はあの人が嫌いだし、あの人も俺を疎んじている。それでも商売をやっていく上で、困ることはないし、これでいいと思っていたんだ。今までは……でも、今は違う」

 徳之進に何があって、こんなことを言い始めたのかは分からない。それを詮索していいのかも。

「何かありましたか。親孝行でもしたくなりましたか?」

 どこまで踏み込んでいいものか分からず、太佑はとりあえず、否と答えるであろう問いを敢えてぶつけてみた。

 案の定、徳之進は首を振り、切れ長の目を伏せた。

「別に。旦那さん相手に孝行なんざしたくはないよ。親子だから歩み寄りたいんじゃない。親子だって血が繋がっているだけの赤の他人だからね。仲良くしなきゃいけない義理はない。そうだろう?」

 その考えは、分かるようでいて分からない。太佑は曖昧に頷いて、先を促した。徳之進は小さく息を吐いた。

「仲良くしたいわけじゃない。でも俺は人として、あの人とこのまま一生分かり合えなかったら、きっと後悔すると思う――」

 ――あの人が本当は謝りたいとずっと思っていることを、知っているんだ。

 消え入りそうな呟きは、聞かせるつもりがなかったものかもしれない。

 太佑は抱えたままだった酒粕の包みを開けた。これだけあれば粕漬けでも仕込もうかと思っていたが、もっと別の使い方を思いついた。

「何を作るんだ?」

 勘助に手元を覗き込まれた。

「甘酒でも作って差し上げようかと思ってさ」

 太佑は酒粕をちぎりはじめた。


 甘酒には、大きく分けて二つある。

 ひとつは糯米を蒸して、冷ましたものに糀を加え混ぜ合わせ、冷やさないようにして一昼夜置いて作る「一夜酒」。何もしなくとも甘味が出るが、砂糖を加えることもある。

 もうひとつは酒粕を水に溶かして砂糖を混ぜたもの。今作ろうとしているのはこちらの方だ。

 京や大坂では、甘酒はもっぱら夏の飲み物で、甘酒売りが一椀六文で商っている。対して江戸では、季節を問わず一年中、一椀八文で売られている。江戸っ子の方が、甘酒には馴染みが深いのかもしれない。甘酒売りが商っているのは、一夜酒の方である。

 まず、ちぎった酒粕を水と一緒に鍋に入れ、火にかけながら溶かしていく。酒の香りが湯気と共に立ちのぼる。あまり水を入れすぎると味が薄くて水っぽいし、かといって少なすぎると飲みづらい。座敷に出すものではないので、水の量は目分量だ。

 酒粕が溶けた頃合いで砂糖を入れて、ふつふつと煮立つまで、焦げないように混ぜ続ける。口中に広がる豊かな甘みは、一夜酒の方が上だと思うが、酒粕の甘酒は手軽でいい。美味い酒粕でないと作れない飲み物だ。

 出来上がった甘酒を、ちょっと味見してみた。砂糖の量は適当だったが、少し控えめにしたおかげで、酒粕の香りがよく引き立った仕上がりになっている。

 夜ともなれば冷え込むこの季節、こういう温かい飲み物を流し込むと、身体がほっとする。

「いい匂いだねえ」

 今にも手を伸ばしそうな勘助を制して、太佑は小さな椀に甘酒を注ぐと、徳之進に差し出した。

「どうぞ」

「ああ」

 徳之進は椀を受け取ると、まだ湯気の上がる甘酒を吹き冷まし、一口啜った。

「……甘い」

 目をぎゅっと瞑って、噛みしめるように言う。

「甘すぎましたか?」

 太佑が問うと、徳之進は首を振った。

「いいや、いい味だ。美味いよ」

 徳之進はそう言って、残りの甘酒を流し込むように飲み干した。

「温まった――もう一杯もらえるか?」

 空になった椀を突き出してくる。

「じゃあ、もう一杯だけですよ」

 お椀に温かい甘酒を注いでやると、徳之進はゆっくりと一口ずつ口に含んだ。

「手を貸さないと言っておいて、やっぱり助けてくれるんだな、お前は。さっき、間に入ってくれて、ありがとう」

 徳之進が素直な礼を述べる。太佑は小さく首を振った。

「力及ばずで、すみません……俺には、何もできそうにありません」

「そんなことない。こうして美味いものを作ってくれる。それだけのことが、どれほどありがたいか――まあ、上手くいかないときは、焦っても仕方ないよな。気長にやるよ」

 そう呟いた。末吉とのことか、父親とのことか。多分両方だろう。太佑は小さく頷いた。

「末吉さんは、わけもなく人を嫌ったりする人じゃありません。きっとそのうち、上手くいくこともあるでしょうよ」

 太佑がそう言うと、徳之進は無理したようにクシャッと笑った。

「そうかね……そうだといいなあ」

 二杯目の甘酒を飲み干すと、徳之進は大人しく座敷へ戻っていった。


 次の日の昼、仕込みの合間に、甘酒の残りを温めて、末吉に渡してやった。

「ほら、徳之進様がくださった酒粕で作った甘酒だ。いるだろう?」

 末吉は口の中でもぞもぞと、礼らしき言葉を呟くと、椀を受け取り、口を付けた。

「……甘い」

 徳之進と同じことを言う。

「甘すぎるかい?」

「いいや、いい味だ。美味い」

 続く言葉まで、丸っきり同じだ。実はこの二人、似た者同士なのではと思いそうになる。

 同じものを同じように、同じ言葉で「美味い」と言うのに、なぜか心が通じあわない。人の心は難しい。

(でも、分かり合える道があってほしい)

 余計なおせっかいだとは思うし、仲良くなれとまでは言わない。でも、これからもずっと気まずいままで過ごされると、こちらもやりにくくて仕方ない。

「……そもそも末吉さんは、何でそこまで徳之進様を嫌うんだ? 確かにまあ、何というか、おかしなお方だが」

 気になっていたことを聞いてみる。こういうことは、そのうち分かるだろうと放っておいたら、うやむやになって聞けなくなる。無理やりでも、聞けるときに聞いておくのがいい。これほど嫌うわけが分かれば、付き合い方も見えてこようというものだ。

 末吉は、苦りきった顔をして、太佑から顔を背けた。

「ああいうお方は苦手なんだよ。最初から、面倒くせえと思ってたんだ」

「でも面倒なだけならそこまで嫌わないだろう?」

「……お前だって、あの目が苦手だとか、いつも言ってるじゃねぇか」

 太佑は、うっと答えに詰まった。

「それは……だってあの目の力は普通じゃないんだぞ? まともに目を合わせたことのない末吉さんは知らないだろうけど、人をまるで固まらせるんだ」

 太佑の言い訳は、ふん、と鼻で笑って流された。

「知らねぇよ」

 しばらく、二人とも黙り込んでしまった。

 末吉は、いつも眉間に皺を寄せて怒ったような顔をしているし、すぐ怒鳴るような喋り方をする。でも本当は優しいし、人柄がいい。その末吉が、こんなに誰かを嫌うのは、今まで他で見たことがない。何かよほどのわけがないと納得がいかない。

 太佑が黙って睨んでいると、根負けしたのか、ややあって末吉がボソッと口を開いた。

「人には丁度いい間合い、ってもんがあるだろうよ」

「間合い?」

「そう。単に馴れ馴れしいのが嫌いだって言ってるんじゃない。別に俺は、お前や勘助が馴れ馴れしくても気にしない。寝起きを共にしている仲間だし、それなりに付き合いも長いしな。だがあのお方は、最初っから、お前に対してやけに馴れ馴れしかったろう? そして今だって、客人のくせに堂々と台所に入り浸る。そういう手合いが、俺は好きじゃない。人との間合いを間違えている奴は、俺に迷惑が掛からなくとも、見ているだけでどうにも腹が立つ」

「でも……徳之進様も、もう通い始めて五年にもなる。いいお馴染みだよ。それに台所に入り浸ると言うなら、龍ノ井関だって同じだろう。でも末吉さん、龍ノ井関のことは嫌ってないじゃないか。何が違うんだ?」

 末吉は少し考えこむように黙っていたが、ややあって首を振った。

「やっぱり違う。龍ノ井様は、迷惑になるなら引くことを知っていなさる。でもあのお方は、そうじゃないように俺は思えて仕方ない。どうしようもないんだよ、好き嫌いってのは――いいじゃねえか、この話は。別にお前に迷惑が掛かるわけじゃないだろう、俺があのお方を嫌っていても。むしろ毎度毎度、目の前で喧嘩されないだけ、ありがたいと思え」

 末吉は不機嫌そうに言い捨てて、話を切り上げてしまった。太佑はそれ以上、何も言えなかった。

 確かにそうだ。別に誰も困らない。顔を合わせるたびにぶつかられるよりは、いいのかもしれない。

 だが、本当にそれでいいのだろうか、と思う自分がいる。

 分かり合えないままで、分かることを諦めて、繋がりを断ってしまうことは、正しいことなのだろうか――いや、正しいとか正しくないとかではない。たとえ間違っていたとしても、人と人が目の前で繋がりを断ってしまうのを、太佑はどうしても見過ごせない。

(誰もが分かり合えるなんざ、思っちゃいないけど……)

 人が人と分かり合うことは、なぜこれほどまでに難しいのだろう。

 人と人は、本当は、分かり合えないものなのかもしれない。適当に人と間を置くことで、分かり合えない部分をごまかしながら付き合っている。

 だから一歩踏み込んで、分かり合おうと近づくと、見ないようにごまかしてきた溝の深さに初めて気付く。足を取られて転んでしまって、近づくことができなくなる。

(それでも、俺は末吉さんに、徳之進様とこのままであってほしくない)

 仲良くなれとは言わないが、嫌ったままでいてほしくない。

 所詮は他人のことである。末吉の言った通り、人の好き嫌いはどうしてもあるものだ。それを横からどうこうしようなどと、余計な真似にもほどがある。嫌いなものを、無理に好きにさせることなどできないし、したところで意味がない。

 ――ならば首を突っ込まず、放っておけばいいのだろうが、「手助けしない」などと言っておきながら、どうしても関わらずにはいられない。かつて、朝露が太佑の作った菓子を食っていなかった頃、どうあっても食べさせてみせると躍起になったように。幸せから目を背けようとする人を、なら勝手に不幸になっていろなどと、見過ごすことができないのだ。

(見過ごせないといえば……)

 成瀬のことも、首を突っ込みかけてそのままなことを思い出し、太佑は二階に上がっていった。

 あちらもこちらも面倒ごとばかりだ。いつか片付く日は来るのだろうか。


 二階に上がり座敷を覗くと、朝露は立膝で座り込み、さらさらと文を書きつけていた。花魁は筆まめな者が多いが、朝露はとりわけ文をよく書く。

 遊女の手練手管のひとつで、遊女からしょっちゅう文を送って来られては困る――家人らに吉原通いがばれては困る客に、あえて文を送り続けるというものがある。送ってくるのを止めてほしければ会いに来い、それまで催促は止めないぞ、というわけだ。しかし朝露はそういった手管と関わりなく、単に文を書くのが好きらしい。長らく来ないような客にも、季節の挨拶は欠かさぬという。太佑に字の良し悪しの詳しいことは分からぬが、朝露の文が、いわゆる「水茎の跡麗しい」字でしたためられているのは知っている。

 まだ墨の乾いていない文が、朝露の周りに散らばっている。開け放した窓から吹き込む風に飛ばされぬよう、使っていない鼈甲の簪を重石代わりに置いていた。

「ちょっといいか」

 太佑は部屋の入口から呼びかけた。朝露は筆を置き、顔を上げた。

「何でござんしょう?」

 太佑は、立ったまま小さく頭を下げた。

「すまん。例のことだが、何も聞き出せなかった。話すことはないと、ばっさりだ」

 周りに人目も耳もあるので、用心して、成瀬の名前は出さなかった。心持ち、声を低くする。

「そう……太佑どんになら、何か話すかと思っておりんしたが」

「どうして」

 成瀬に昔から懐かれてはいたが、振袖新造になった頃から、話しかけられることも少なくなった。朝露にすら話さない胸の内を明かしてくれるほど、信用されているわけでもない。

 朝露は、ふふっとおかしそうに笑った。

「なぜも何も。あの子は禿の頃、太佑どんに憧れておりんしたから」

「……待て、何だって?」

 それは初めて聞いた。まさかそう来るとは思わなかった。

「何を言い出すかと思えば……そんな馬鹿なことを」

 太佑が目を泳がせていると、朝露は口元を手で押さえ、いっそうおかしそうに笑った。

「無論、幼い禿の頃のことでありんす。今は何とも思うておらぬようです。ご安心くださんし」

 今は何とも思っていない、と言われると、それはそれで唸ってしまう。

「まあ、何にせよ、色々と不安があるんだろう。いずれ話してくれることもあろうし、今はそっとしておくしかないかと思っている」

 太佑がそう言うと、朝露は頷いた。

「突出し前にふさぎ込むのは、常のこと。わっちも様子を見てみんしょう」

 さらっと言ったが、朝露もきっと、かつて同じようにふさぎ込み、悩んだ頃があったのだろう。それをどう乗り越え、心に折り合いをつけたのか、太佑は知らない。


 朝露の座敷から離れて歩いていくと、廊下で禿のよしのとたつたが、あやとりをして遊んでいた。同じ頃に吉原にやってきた、同い年の二人の禿は、生まれも育ちもまったく別なのに、双子のようによく似ている。とはいっても、少しずつ大人びてくるにつれ、顔立ちの違いが出てきたようだ。よしのはおっとりとした気性を表したような優しげな顔に。たつたはややおてんばな気性を表したようなくっきりとした顔に。しかし仲の良さだけは相変わらずだ。

 少女の白い指に絡まった赤い色糸が、川、船、田、と次々に姿を変えていく。

「太佑どん」

「朝露姉さん、何を作れと仰言ぇしたか?」

 二人は手を止め、顔を並べて、わくわくしたような顔で見つめてくる。今日のお膳に出す菓子の相談に来たと思ったのだろう。

「さあな。できてからのお楽しみだ」

 太佑は少し屈んで、よしのの手を包み込むように手を伸ばした。

 まだ見世の手伝いを始めてもいなかった小さい頃、忙しい母に代わって太佑を育ててくれたのは、禿や新造たちだった。お手玉やおはじきの相手から、手習いの真似ごとまで、誰かが入れ代わり立ち代わり、太佑の相手をしてくれた。だから、あやとりもそのときに嫌というほどやっている。長年やっていなくとも、指が覚えている。

 太佑が指に糸をひっかけ、鼓の形を作ってやると、よしのとたつたは顔を見合わせ、何がおかしいのか、ころころと笑った。

 今は楽しそうにしているが、この二人もそう遠くないうちに振袖新造になる歳だ。いずれ成瀬と同じような悩みを抱えることになるのだろう。

「ほら、続きを取ってくれ。俺はもう階下に戻るんだから」

 たつたの目の前に両手を差し出す。たつたはまだ笑いを引きずりながら、太佑の手の中の鼓に手を伸ばし、親指と人差し指を糸の間に滑り込ませて、ぐるりと回し、川を作った。

 よしのとたつたの間を抜けて、階段の方へ歩いていくと、廊下の向こうに成瀬がいた。

「成瀬」

 声を掛けると、成瀬はすっと目を細め、何の用だ、と目で問うてきた。

「今暇か? ちょっと来い」

 太佑が手招きすると、素直についてくる。そのまま一階に下りて、台所へと向かった。

 台所には、ちょうど誰もいなかった。成瀬は入口ののれんの前で立ち止まり、低い声で呟いた。

「何の用ざますか」

 どうにも言葉の端々にとげを感じる。先日朝露に言われて探りを入れたのが、気に食わなくて後を引いているのだろう。

「用というほどのことじゃないんだが。一杯分だけ、余っているから。これをやろうと思ってな」

 甘酒の入った小鍋を七輪にかけた。炭を熾す間、成瀬は黙って立っていた。

 残り少ない甘酒が、ふつふつと煮えるまでそうかからなかった。

「ほら。美味いぞ」

 椀に注いで差し出した。成瀬は素直に受け取って、両手で包み込むように椀を持った。

「どうして、これをわっちに?」

「別にどうしてってわけじゃない。ただ、お前にやりたかったんだよ。何となくな」

 すると成瀬は、口元にふっと笑みを浮かべた。

「太佑どんは、昔から優しいお方でありんしたな」

 成瀬にそう言われ、太佑はドキッとした。

 ――成瀬は禿の頃、太佑どんに憧れておりんしたから。

 今は何とも思っていなくとも、心の底で頼りにされているには違いない……とは思い上がりかもしれないが。でもこうして儚げな微笑みを向けられると、救いを求めているように見えて仕方ない。

 だが、頼られたところで、何ができるだろう。成瀬が沈んだ様子なのは誰の目にも明らかで、そのわけのひとつも察している。しかし、そこから救ってやることはできない。ここが吉原という街で、成瀬はそこに売られてきて、年季が明けるのはまだ十年も先だ。

「美味しい」

 温かい甘酒を吹き冷ましながら飲む成瀬に、かける言葉が見つからなかった。

「……酒粕を、徳之進様がくださったんだ。今度ご登楼されたときには、お前からもお礼を言ってくれ」

 それだけ言うので、やっとだった。

 ここに来たくて来る娘はいない。普段は敢えて深く考えないようにしているが、女が色を売り、買う者がいて、その仲立ちをすることで自分たちは飯を食っている。どう言い訳しても因果な商売だ。

 これからいよいよ身を売ることになる娘に対して「元気を出せ」なんて、どんな顔をして言えたものだろう。少なくとも今、成瀬に対して、到底そんな言葉はかけられない。

(俺は、何をしてやれるんだろう……)

 見世で働く遊女たちに、少しでも幸せがあってほしいと願う気持ちに、ひとかけらの偽りもない。そのために菓子を作る決意にも。

 だが、その思いはどれだけ届くものだろう?

 菓子という、食わなくても生きていけるものを作っているからこそ、苦界を生きる花魁に一時の夢を見せられるのだと思ってきた。だが、本当にそうだろうか? 目の前にいる娘一人すら、救えていないのではないのか。

 ただ今は、一杯の甘酒で、その指先を温めてやることくらいしか叶わない。

 成瀬が甘酒を飲み干すまで、太佑は黙って成瀬を見つめていた。