第二章 母襲来



「いや、本当に……、うちの倅が大変申し訳ないことを……」

 四つに折りたたんだハンカチで額の汗を拭いながら、浩介は本日何度目かの謝罪を口にした。テーブルを挟んだ向かいのソファには、息子の婚約者である日高桃子の母、理恵が厳しい表情で腰かけている。

「まさか桃子ちゃんが、ご両親に黙って家を飛び出していたとは……」

「そちらが、いきなり婚約解消の手紙などを送って来たから、桃子が思い詰めたのではありませんか」

 全くその通り、返す言葉がない。

 浩介はすっかり困りはてて、「いやあ……」と声を呻かせた。

 ――そもそも、どうしてこの状況になったのか。

 事の起こりは先日、太一が日高家へ婚約解消の手紙を送ったことだった。浩介は太一のもとまで事情を聞きに行き、結果的に二人が仲直りをしているのを見て帰路についた。帰ってからは緊急の仕事が入って家に帰れず、今朝改めて、日高家へ謝罪の電話を入れたのだ。結果、その僅か一時間後に、理恵が志摩家に事情を聞きに来る運びとなったのである。

「いや、本当に申し訳ない……」

「謝罪はもう結構です」

 ぴしゃりと言い切られ、浩介は頭を垂れたまま、視線だけを上げて理恵を見た。

 ショートボブの黒い髪に、黒いワンピースに白いジャケットを羽織った、いかにも聡明そうな女性だ。きりっとした目つきが印象的な美人だが、顔立ち自体は、あまり桃子には似ていないように思う。言葉を詰まらせる浩介に、理恵が溜息をついた。

「それよりも、いい加減教えてください。桃子はどこにいるんです」

 理恵が、苛立たしげに目を細める。

「理恵さん」

 そこで、浩介の隣りに座る友江が口を開いた。

「うちのひ孫が失礼なことをして、本当に申し訳ありませんでした」

 高齢の友江に頭を下げられて、理恵もさすがに勢いを失ったように口を噤んだ。

「けれど二人がいるのは一般人には行きづらい場所なのよ……」

「……なら、一体どうしろと?」

 きつい口調の理恵に、けれど友江は怯んだ様子もなく、ただ申し訳なさそうに眉根を寄せた。

「理恵さんが、必ず桃子ちゃんに会えるように取り計らいますから、ここは私に任せていただけないかしら?」


「気持ちいい……」

 無数の星の合間にかかる天の川を見上げながら、桃子は冷えた体をそっと湯の中に沈めてそう言った。じんと痺れるような熱さの温泉と、頬を撫でるひやりとした風が心地いい。

「それにしても大変だったわね~!」

 後鬼が岩縁に置いた木桶から徳利を持ち上げ、中身をお猪口に注ぎながら、疲れと上機嫌を半々ほどに織りまぜた声でそう言った。

 桃子は「そうですね」と笑顔で頷いてから、湯の中でぐっと疲れた手足を伸ばす。

 匂い立つ山の緑の中にあるこの岩風呂は、留めや自慢の露天風呂である。周囲には数日前に積もった雪が薄らと残っており、篝火のほのかな灯りに照らされて幻想的な風景を作り上げている。

 雪見酒――、は未成年である桃子にはまだ早いが、この景色だけでも十分すぎるほどに幸せな気持ちになれる。疲れも、温泉の中に溶けて行くようだ。

「だけど、桃子がいてくれて本当に助かったわ、ありがとうね」

 そう言って、後鬼がぐっと酒を喉へ流し込む。桃子ははにかんで首を横に振った。

 白蛇達を見送り、あれこれと片付けを手伝っていたら、あっという間に日が暮れてしまった。今日は他に客もいないため、ゆっくりと夕食を頂き、ようやく人心地ついて温泉に浸かっているところだ。

 桃子と後鬼の他にも、隅にはアヅマがひっそりと浸かっているし、二頭身の小さな女の精霊達も「ふふふ、ふふふ」と嬉しそうにぷかぷか浮かんでいる。

「まあ色々あったけれど、万事うまく行ってよかったわ。なんと言っても、白蛇達はうちの太客だもの」

 桃子は白蛇の若夫婦の顔を思い出しながら、笑顔で頷いた。

 後鬼がうなじの後れ毛を色っぽく直しながら、「それにしても」と思い出したように口を開く。

「……今回は、旭がすんなり使用人を貸し出してくれたのが意外だったわ」

「留めやが忙しい時にはいつも、旭さんの家から使用人の方が手伝いに来てくださっているのですよね?」

「桃子……、旭のケチをなめちゃだめよ。普段ならどんなに忙しい時でも、旭は自分の使用人の貸し出しには、それは酷い高値をつけてくるんだから」

 ここにいない旭を睨むように、後鬼がじとりと目を細める。

「だけどそれが、今回に限ってすんなりだったのよね」

〝すんなり”行かなかった時のことを思い出してだろう、後鬼が眉間に皺を刻んだ。

 桃子は精霊のひとりがのぼせているのに気付き、両手ですくって近くの桶に乗せてやりながら、「そうなんですね」とぼんやり返事をした。鬼夫婦は、旭のことをよく「守銭奴」やら「ケチ」と呼ぶが、桃子にはあまりピンとこないことだ。きっと長い付き合いの分だけ、互いに遠慮がないのだろう。

 後鬼と前鬼、そして旭の三人は、千年前にこの『駅』を作った時からの付き合いなのだから――。

「……そういえば、『駅』を作るまで、後鬼さん達は、旭さんとのお付き合いはなかったのですか?」

 ぱたぱたとのぼせた精霊を手で仰いでやりながら、ふと思いついて訊ねる。

「そうね、あの頃の旭は吉野の山奥に籠もっていたし、私達はあの人から天川の地を守るように言われていたから。あの頃は、私達もちょっとヤンチャで、縄張り意識も強かったのよ」

 何げない様子で答える後鬼に頷きながら、桃子は視線を空中に彷徨わせた。

 ――お前は今ここに、〝半分しかいない”。

 後鬼なら、そのことについて、何かを知っているのだろうか。桃子はつい訊ねてみたくなったが、旭に口止めされているのを思い出して飲み込んだ。

 詮索はよくないと分かっているのに、つい知りたくなるのは悪いくせだ。

「そろそろ、あがりましょうか?」

 後鬼に声をかけられて、桃子は頷いた。

 手で顔を仰ぎながら湯から上がると、アヅマや精霊達も後をついてくる。アヅマは温泉に浸かった後とは思えないほど顔色が悪いし、ぷるぷる震えているが、どことなく機嫌がよさそうなので満足しているのだろう。

 今日は泊まり客がいないので、女湯を使うのは桃子達が最後だ。後鬼は風を掬うようにして手の平を上に向けると、そこにふっと息を吹きかけて露天風呂の篝火を消した。

「……魔法みたいですね」

「これぐらい、いつだって見せてあげるわよ」

 他愛ない話をしながら内風呂を抜け、脱衣所の前で軽く体を拭う。足元では精霊達がひとつのタオルに集まり、わちゃわちゃと体を拭いていて可愛らしい。

 桃子はその様子を微笑ましく見つめながら、タオルを体の前に当てて脱衣所の扉を開いた。内風呂にたまっていた湯気が、もわっと向こうに広がる。

 すると薄らと白んだ視界の向こうにひとつ、人影が見えた。目をこらすとそれがよく知った男性の姿だと気付き、思わず短い悲鳴を上げる。

「太一さん!」

 タオルを抱きしめるようにしながら、桃子はその人の名前を呼んだ。

 太一は今まさに脱衣所に入って来たばかりだったようで、扉から半分こちらに体を出した状態で「うわっ」と悲鳴を上げる。

 そして一瞬の間の後、ぽんっと軽い音を立てて黒猫の姿になった。

「あら、太一じゃない? どうしたの、ここ女風呂よ」

 後から脱衣所に入って来た後鬼は、狼狽えた様子もなく首を傾げた。

 桃子と違い堂々とした様子の後鬼も、一応タオルで体を隠しているのだが、ナイスバディすぎてあまり意味をなしていない。

 猫になった太一は、飛び上がるようにして扉の向こう側に身を隠した。

「も、申し訳ありません! お、お茶丸が! おおお、お茶丸が! 男湯と女湯ののれんを入れ替える時に怪しい人物がいたから見て来いと……!」

 太一が扉越しにそう謝罪の言葉を口にする。

 桃子は後鬼と顔を見合わせると、示し合わせたように首を横に振った。

「太一さん、今日は私達が最後なので、男湯と女湯の入れ替えはありません」

「お茶丸にからかわれちゃったわねえ、太一」

 桃子の脳裏に、腹を抱えて笑う化け狸の姿が浮かぶ。こういう悪戯は、いかにもお茶丸がやりそうなことだ。

 扉の磨りガラス越しに、太一がぶわっと長い尻尾を立てたのが見えた。

「お茶丸――!」

 その瞬間、夜半の静まり返った留めやの廊下に、太一の叫び声が響き渡ったのだった。


 留めやの二階へと上がる階段すぐ近くには、小さな談話スペースが設けられている。

 窓から覗く灯籠明かりの雪景色に反して、薪ストープに温められた室内は暖かく、風呂上がりの体に優しい。女風呂で猫になったままの太一が、軽い身のこなしで置かれているソファに飛び上がった。

 桃子はゆったりと太一の横に腰かけると、持っていたスーツを傍に置く。そして当然のように太一を抱き上げて膝の上に乗せた。高い体温と柔らかい体が心地よい。

 太一はぎょっとしたように桃子を見上げたが、桃子は笑顔で首を傾げつつ、その頭を撫でた。――猫の耳って、どうしてこんなに可愛いのだろう。

「太一さんは今日はどうして留めやに?」

 白蛇達も帰ってしまったし、わざわざ見回りに来る理由があるとは思えない。

 桃子の膝の上で戸惑うようにしながら、太一が頷いた。

「ああ……、旭を捜していたんです。家にいなかったので、こっちかと思って」

「旭さんを?」

「頼まれていた、大峰の霊水が手に入ったんです。明日は私が朝から出かけてしまうので、今日届けられればと思ったんですが……。なんでも急ぎのようでしたし」

 太一の柔らかな背中を撫でながら首を傾げる。

「霊水……、とはなんですか?」

「大峰の山頂から湧き出る、霊力を含んだ水のことです。旭は『駅』の管理で常に力を行使していますから、時折そういったもので補っているんですよ」

 この『駅』の結界を維持するのが大変だという話は、桃子も以前聞いたことがある。

「『駅』に呼びかけても返事がありませんし、結局会えずじまいで……。明日届けてもらうよう前鬼に預けてきましたが……」

 ――だが、留めやも明日は朝から予約がいっぱいで忙しいはずだ。

 力を補う霊水が急ぎ必要だというからには、きっと旭の体調がよくないのだろう。渡すのが遅くなっては辛い思いをするのではないだろうか。

 桃子は旭が心配になって口を開いた。

「……その霊水、私が届けに行ってもいいですか?」

 桃子の気持ちを汲み取ったのだろう。太一がヒゲを揺らして頷いた。

「ええ……、ではお願いします」

「はい!」

 責任重大だ。明日は朝一で旭の家に行こう。張り切る桃子に、太一は笑みをこぼしてから、「そういえば」と切り出した。 

「前に言っていた、日高のご両親のことなのですが……」

 その話があったのを忘れていた。

「こちらに来て、そろそろひと月が経ちますし、ご両親が心配されているのではないですか?」

「それは……」

 桃子は視線を泳がせて言いよどんだ。

 太一に本当のことを言うべきだろうか。けれど桃子が家を飛び出してきたと知れば、太一は慌てて送り帰そうとするだろう。そうなれば次にいつ会えるか分からない。桃子が家に軟禁なんてことになり、また何年も会えなくなったら――。

「私も先日の手紙のこともありますし、やはり一度、私からも連絡を……」

「だ、大丈夫です! 小まめに連絡はしてありますから! 手紙のことも、解決したと伝えてあるので気にしていないはずです!」

 心配そうに話す太一に、桃子は結局勇気を出せず、そう言い訳をした。

 しかし太一を騙していると思うと、胃がキリキリと締め上げられるように痛む。

「そうですか……?」

 あまり納得のいっていない様子で、太一が頷いた。

「学校は、まだ冬休みなのですよね?」

「あっ、はい! 内部進学組は冬休みが長いので……」

 それは本当だ。桃子の高校は内部進学組と外部受験組でクラスが別れており、内部進学組は冬休みが長い。普通の高校ならそろそろ冬休みに入ろうかという時期だが、桃子は今でちょうど折り返しというところだ。

「ならいいのですが……」

 太一がゆらゆらと尻尾を揺らして頷く。

 桃子は曖昧な笑みを浮かべた。こうやって家のことを誤魔化すのも、そろそろ限界だろう。いつまでも逃げていられる問題でないことは分かっている。

 ――だけど、あと少しだけ。

 八年ぶりに太一と一緒にいられるのだ。せめてもう少しだけ、こうしていたい。

 桃子は縋るように太一をぎゅっと抱きしめ、その頭に頬ずりをした。


 翌朝、桃子は霊水の入ったひょうたんを手に旭の家を訪れた。

 カメラ付インターフォンを鳴らして要件を伝えると、アヅマが中へと案内してくれる。足元を忙しくなく行き交う精霊達を踏まないように気をつけながら、アヅマの案内のもと、旭の私室の前へ辿り着く。

 ゆっくりと障子戸を開くと、布団からけだるげに体を起こす旭の姿が目に入った。

「旭さん……?」

 遠慮がちに声をかけると、旭が疲れたような笑みを浮かべた。

「ああ、桃子。よく来てくれましたね、霊水を持って来てくれたとか……?」

「あ……、はい」

 桃子は小走りに旭に駆け寄り、傍にひょうたんを置いた。旭がこんなに弱った姿を初めて見る。これが薬のようなものならば、急いで飲んだ方がいいのではないか。

 しかし旭はひょうたんを持ち上げて反対側に置くと、自分の傍に手をやって、桃子に座るように促した。

「出迎えがこんな状態で申し訳ありません。今朝は少し疲れていて……」

「いえ……、あの、お体は大丈夫なのですか?」

 旭の隣りに腰を下ろしながら訊ねる。

「ええ、年々朝が弱くなって……、いけませんね」

 冗談めかして笑いながら、旭が軽く手を振った。アヅマに戸を閉めろという指示だろう。放っておいたら、いつまでもそこで旭を見つめているに違いない。

 コマ送りのごとく小刻みに閉められていく障子戸が、ぴしゃんと小さな音を立てたのを聞いてから、桃子は旭の顔を覗き込んだ。

「……でも、とても顔色が悪いです。そのお水は飲まなくてもよいのですか?」

「ああ、これは……、そういう使い方をするものではないのですよ」

 ふふ、と声を出して笑う旭に、桃子は気持ちの晴れぬまま頷いた。

 よく分からないが、きっと、特別な作法や儀式が必要なのだろう。

「……旭さんが疲れやすいのは、『駅』の管理があるからなのですよね?」

 旭は柔らかな笑みを浮かべて頷いた。伝説の八咫烏と呼ばれるこのあやかしは、疲れて顔色を失っていても、なお美しい。やつれたその姿さえ、よくできた一枚の絵画のようだ。

「小さな針穴に糸を通し続けるようで神経を使うのです。何事も大雑把な前鬼や後鬼には任せられませんし、仕方がありませんね」

 旭が物憂げに眉をしかめる。

「そのせいで、重三や太一には負担をかけてしまいました」

 重三――、太一の曾祖父のことだ。彼はかつて『駅』の為に化け猫と戦って、太一の代に家が滅びるという呪いを受けてしまった。旭はそれを、自分が力を奮えなかったせいだと悔いているのだろう。

「……桃子にも」 

 不意に自分の名前が出て来て、桃子はブンブンと首を横に振った。

 その激しさにだろう、旭が思わずといった様子で声を出して笑う。

「太一の呪いが解けて、桃子が『駅』の姐になる日を、楽しみにしているんですよ」

 桃子は少し表情を和らげ、頷いた。旭はなぜこんなに優しくいられるのだろう。そう考えると同時に、彼が背負うものを思い出して、胸が苦しくなる。

「……『駅』の管理をしていると、この山から遠くへも離れられないのですよね」

 ギンを捜して十津川へ行った時、旭は『駅』から遠すぎると言って、一緒には来なかった。彼が動けるのは、天川村の周辺から吉野山までであるらしい。

「旭さんは、どうしてそこまでして『駅』の管理をされていらっしゃるのですか?」

「……どうして?」

「いえ、その……、旭さんは以前、京都で狩りにあった妖怪達を助けるためにここを作ったと仰っておられたので、ほとぼりがさめた頃にやめてしまってもよかったのではないかと……」

 寂しげな表情を浮かべる旭に、桃子は慌ててそう補足した。旭のしていることを、否定したように聞こえたのかも知れない。

 旭はすぐに、「ああ」と納得したように頷いた。

「妖怪が安心して暮らせる場所というのは、いつの時代も決して多くはありませんからね」

 ――その為に、旭だけが犠牲になり続けているというのだろうか。

 唇を真横に結ぶ桃子を見て、旭が黄金色の瞳を細めた。

「何より、私はこの場所が好きなんですよ。だからこれは、私がやりたくてしていることなんです」

 ゆるりと答えるその声に、偽りがあるようには感じられない。

 桃子は視線を揺らしてから、そっと身を乗り出した。

「……私に、何かできることはありませんか?」

 ただの人間である桃子に、何ができるとも思えない。

 それでも諦め切れずに訊ねると、旭は「ふむ」と真剣な表情で顎に手を添えた。

「では……、髪を結っていただけますか?」

「え?」

 思いがけない答えに、桃子は目を丸くした。旭が、とんとんと自分の肩を叩く。

「調子のよくない時は、どうも髪が重く感じられていけません。桃子は以前、ハルの髪を結ってあげていたでしょう? あれを見て、いいなと思っていたんですよ」

 旭が言っているのは、桜の精霊送りの時のことだろう。

 桃子は旭の、腰元まである艶やかな白い髪を見つめた。桃子も髪が長いので、時折それを重く感じるというのはよく分かる。

「……任せてください!」

 桃子は張り切って拳を胸に引き寄せた。

 旭が嬉しそうに微笑んで、紐のある小棚を指さす。桃子はそこから赤い紐をひとつ取り出して、彼の背後に立った。

「髪型はどのようにしましょうか?」

「お任せしますよ」

 桃子は頷いて、髪の一房を手の平に掬った。さらさらとして、少し冷たくて指に心地いい。思わずその手触りを楽しんでしまってから、桃子はふと、アヅマに覗かれてはいないかと思って背後を振り向いた。もし見られていたら、あの恐ろしい形相で怒りかねない。だが扉はしっかりと閉められている。

 桃子はほっと胸を撫で下ろしてから、手を動かし始めた。

「……そういえば、旭さんはご結婚はなさらないのですか?」

 アヅマのことを考えていると不意にそんなことを思いついた。

「私ですか?」

「アヅマさんがもう何年も旭さんを想っていらっしゃると聞いたので、少し気になって……」

 旭は複雑そうに「アヅマはともかくとして」と前置きしてから、軽く桃子を振り返った。

「私は、誰かと番になることはないと思います。家族を作って子孫を残すということを目的として作られた存在ではありませんから、そういう願望が少ないのです」

「……作られた?」

「神使というのは、目的の為に神によって作られた存在なんですよ」

 説明をしながら、旭は形のよい顎に指を当てた。

「白蛇達のように一族を築くものもいれば、私のようなものもいるということです」

 目を細めながら旭がそう言い添える。桃子は更に首を傾げた。

「目的というのは……」

「例えば白蛇達ならば、土地を守ること。私で言うなら道案内というところですね」

 そういえば、旭は道に迷っている人を放っておくと、蕁麻疹が出ると言っていた。

「……では、誰か一人を特別に想うということもないのですか?」

 それは少し寂しいことのように感じて訊ねると、旭は柔らかく微笑んだ。

「そうですね……。ひとりだけ、好ましいと思った女性ならいましたよ」

 えっ、と声を漏らす桃子に、旭は「ずっと昔のことですが」と懐かしむように目を細めた。

「その人にもう一度会う為に、私はここにいるのかもしれませんね」

 この美しいあやかしに想う女性がいる。それはとても興味を惹かれることだったが、微笑む旭の表情がどこか苦しげに感じられて、聞くことは憚られた。

 だが桃子はどうしても気になって、手を動かしながらつい考えてしまう。

 二千年を生きる彼が、かつて出会っても今も待っているというのだから、きっと人間ではないのだろう。妖怪か、お茶丸のように誰かの魂を待っているのかもしれない。

 旭の想い人とは、いったいどんな女性なのだろう――


「そうですか、旭がそんなに弱って……」

 星明かりに、ハルの桜が薄らと輪郭を浮かび上がらせている。精霊のいなくなった桜にもう特別な力はないとはいえ、五百年生きた姿は堂々たるものだ。

 その桜の前で、太一が神妙な顔で頷いた。

 太一は旭の様子を聞く為に、仕事が終わってから桃子に会いに来た。『駅』の中で旭に内緒話をするのは難しいそうで、ここまで出て来たのだ。

 手に持った留めやと書かれた提灯を軽く揺らしながら、太一が言葉を続ける。

「『駅』という巨大な結界の維持を千年も続けているわけですから、大峰の力を借りているとはいえ、旭の体にはかなりの負担がかかっているはずです。霊水の力も効かないほど弱っているのかもしれません……」

 太一の隣りに立って話を聞きながら、桃子は首を傾げた。

「旭さんは大丈夫なのですか?」

「聞いてもそう言いますし、実際対策を立てようにも、私達人間に手助けできるようなことは殆どないんです……」

 桃子は重い溜息をついた。

「あの……、旭さんは」

 大婆の、旭は半分しかいないという言葉が脳裏に蘇る。

 そのことも、旭の体調と関係があるのではないか――。思わずそう口にしかけたが、やはり口止めされていることを言うわけにはいかないと留まった。

「もどかしいです……」

 代わりに、ぽつりと本音が漏れた。

 太一が首を傾げながら、桃子を見つめる。桃子は慌てて言葉を繋げた。

「旭さんにはたくさんアドバイスをもらったのに、なんの力にもなれないなんて……」

 誤魔化そうとして言ったことだったが、それも本心だ。

 項垂れる桃子に、太一が柔らかく微笑む。

「桃子ちゃんのその気持ちが、旭は一番嬉しいと思います」

 太一はそう言うと、何か考えるように視線を揺らしてから、提灯に手をかざした。すると灯がふっと消える。提灯の中は鬼火だそうで、霊力で点滅ができるのだという。まるで手かざしセンサーだ。

「太一さん?」

 空の月は線のように細く、視界が真っ暗になる。桃子が首を傾げていると、太一が照れくさそうに咳払いをした。

「何も見えないと、……その、だいぶ違うので」

 どこか決まりの悪そうな声だ。太一が提灯を地面に置いたのが気配で分かった。

「旭のこともですが……。その、もうすぐクリスマスでしょう」

「え?」

 ――クリスマス。

 そういえばそうだ。色んなことがありすぎて、忘れてしまっていた。

 ゆるく頷く桃子の手を、太一が柔らかく握った。驚いて顔を上げるが、この暗さでは、太一がどんな表情をしているかまではよく分からない。

「実は今日、友江さんから映画のチケットが送られて来たんです。麓近くで映画の特別上映があるそうで……、重三さんと初デートで観た映画らしいのですが……」

「映画ですか!」

 思ってもみなかった話に、桃子は声をひっくり返した。

「よかったら一緒に観に行きませんか?」

 ドキドキすることが続いて、心臓が保たない。すぐに声が出せない桃子に、太一は照れくさそうに続けた。

「桃子ちゃんが帰ってしまったら、しばらく会えないでしょう? だから……、私があなたと一緒に行きたいんです……」

「行きます!」

 太一が話し終えるのまで待てず、桃子は飛び跳ねるようにしてそう応えた。

 暗闇でも、桃子が今どんな顔をしているのか分かったのだろう。太一が小さく声を漏らして笑った。

「うん、行こう」

 太一が、桃子の手を握る力を強める。

 桃子はそわそわと体を揺らした。いま、太一に抱きつきたくてたまらない。けれどうっかり猫にさせてしまっては迷惑だろうし――。

 頑張って我慢をする桃子に、太一は躊躇うような沈黙の後、遠慮がちに言葉を続けた。

「あの、あなたを抱きしめたいのですが……、構いませんか? もし猫になってしまうと、提灯もあるし、桃子ちゃんの荷物が増えてしまって……」

 桃子からすれば的外れな心配が飛んで来る。だがそれがいかにも太一らしくて、桃子は体から力が抜けて、ふっと表情を崩した。そして、えいっと勢いよく太一に抱きつく。

 一瞬の間の後、太一がそっと桃子の背中に手を回した。ぐっと力強く抱きしめられて、胸が苦しくなる。互いの温もりを確かめ合えたのは、三秒程だったろうか。けれど、桃子はそれで十分だった。物足りないけど、十分だ。

 ぽんっと音を立て、太一が猫の姿に変わってしまう。桃子はすぐに膝をつくと、猫になった太一を胸に抱きしめた。

「桃子ちゃん……」

 桃子の胸の中で大人しくしながら、太一が言葉を続ける。

「呪いのことは、地道にやりましょう。ギンが呪いを解く方法を知っていることは確かなので、なんとしても彼を捜し出します。旭のことも、すぐに解決できることではありませんが、力になれるよう努力します」

「……はい」

「沢山不安な思いをさせてしまいましたが……、私はもう逃げませんから」

 安心させるような太一の声に、桃子は涙がこぼれそうになって、その尖った耳に頬をすり寄せた。

 ――太一は、桃子が帰りたくないと思っている気持ちに気付いているのだ。

 桃子を慰めるように、太一もすりっと頭を動かした。

 それがこそばゆくて、桃子は少し頬を緩めて頷いた。

 ――映画が終わったら、全部話そう。

 大丈夫だ。太一はきっと、桃子と一緒に戦ってくれる。だからもう、何年も会えないなんてことにはならない。――もし会えなくたって、心は繋がっている。

 だから大丈夫。桃子は自分に言い聞かせるように、その言葉を心の中で繰り返した。


「おい陰陽師。お前、オレを専属運転手か何かと勘違いしてるんじゃないだろうな?」

 山道のカーブにハンドルを切りながら、お茶丸がいかにも不機嫌そうに言った。

 後部座席から見るバックミラーには、そのムッとした目元と、緑のメッシュの入った金色の前髪の一部が映っている。桃子の隣りに座る太一が、それを睨んだ。

「いつまで文句を言ってるんだ、旭に頼まれたんだろう?」

「オレが頼まれたのは、姐さんを神社に送って行くことだっつの!」

 お茶丸は苛立たしげに、下りのカーブに更にアクセルを踏んだ。

「なんでお前らの映画デートにまで付き合わなきゃいけねえんだよ!」

「危ない! 黙って運転しろ!」

 ただでさえ狭い山道のセンターラインを割って走るお茶丸に、太一がたまらずといった様子で叫ぶ。お茶丸の愛車、通称ジョニーはかなり年期の入った軽自動車だ。お茶丸の乱暴な運転に、カーブの時は車体が片方浮いているのではないかと疑うぐらいに体が傾く。

 右に左に振られながら、桃子は膝上に置いた鞄を、落ちないように両手で抱えた。

「……旭から預かったという鏡ですか?」

 太一は運転に口を出すことを諦めたようで、溜息をついてシートにもたれ掛かり、頭上のグリップを握る。そして大事にそうに鞄を抱える桃子を見て、首を傾げた。

「はい、落としてしまったらと思うと心配で……」

 鞄の中には太一の言う通り、旭から預かった鏡が入っている。桐箱に入っている為、少しの衝撃ぐらいなら大丈夫だとは思うが、やはり心配だ。

「井瀧神社近くの、山麓にある祠に供えるんでしたっけ……」

 太一が顎に手を当て、首を傾げる。桃子は笑顔で頷いた。

 桃子が今朝出かける前に旭に呼び出され、「山を下りるついでに、麓の神社に鏡を備えて来て欲しい」と頼まれたのだ。

「祠には旭さんと縁の深い神様が祀られていて、御神鏡が手に入ったのでお供えをされたいと仰っておられました……」

 旭は『駅』の管理で山を下りられない為、たまたま街へ行く用事があった桃子が代理を頼まれたのだ。祠はバスや電車では行きづらい場所にあるので、お茶丸がドライバーに狩り出されたというわけだ。お茶丸は牛王神符を書いているので、旭の命令に逆らうことはできないのである。

「あの辺りに旭と縁の深い神が祀られているなどという話は、聞いたことがないですが……。そもそも、そんな用事があるなら桃子ちゃんではなく私に言うべきです」

「祀られている神様は男性がお嫌いなので、旭さん以外は、女性でないとへそを曲げてしまうそうです」 

「ますます聞いたことがないな……」

 太一は不審げに唸るが、記憶に引っかかるものはないようだ。

「でも旭さんの仰ることですから、危険なことなどないはずでし、そう心配ならさらなくても大丈夫だと思います」

 桃子は「ね?」と軽く小首を傾げて笑った。せっかくこれからデートなのだから、太一にも楽しんで欲しい。太一が諦めたように溜息をついて頷く。

 二人が顔を見合わせて微笑み合ったその瞬間、お茶丸が信号に合わせて急ブレーキを踏んだ。思わず互いの体が触れそうになるが、太一が握っていたグリップとシートベルトのおかげですんで留まる。

「猫にならなかったか……」

 バックミラー越しにそれを見ていたお茶丸が「チッ」と舌打ちをしてぼやく。

 太一の額にくっきりとした青筋が浮かび、狭い車内に再び怒声が響いたのだった。


 山麓を悠々と流れる吉野川を渡り、国道に沿ってしばらく西へ進むと、やがて開けた街に出る。市民会館は、その中心地近くに建てられていた。

 調べてみたところ元は劇場があった場所らしく、建て替わった今でも、月に何度か古い映画の上映会が行われているのだという。

「着いたぞ」

 駐車場に車を停め、ダッシュボードの上に乗せてあるだけのカーナビの案内を消しながら、お茶丸が怠そうにそう言った。

「お前は行かないのか? 当日券もあると思うぞ」

 太一がシートベルトを外しながら、真面目な表情で首を傾げる。するとお茶丸が、げんなりとした様子で振り返った。

「行くわけねえだろ……」

 シートに腕を乗せながら、お茶丸はやれやれと首を横に振る。

「陰陽師……、お前、呪い云々以前に絶対もてないわ。姐さん手放したら間違いなく一生童貞だぞ」

「ど……、お、お前には関係ないだろう!」

「まあオレは適当に寝てるから、終わったら起こせよ」

 あー面倒くさいと言いながら、シートを倒すお茶丸。

 太一の言われように、桃子も何か言い返したいという気持ちがあったけれど、少々難易度が高い。何よりせっかくのデートだ。桃子も正直、太一と二人で映画を観たかった。桃子は少し悩んでから、ぐっと口を噤むことに決めた。

「桃子ちゃん?」

 先に車を降りた太一が、振り返って不思議そうな顔をする。

 桃子はお茶丸に送ってもらったお礼を言ってから、慌てて外へ出た。

「……しかし、友江さんはよくここを見つけてきましたね」

「天川村に行くまでの駅の掲示板に、ポスターが貼ってあるのを見ました」

「駅の掲示板に? ということはきっと、この辺りでは有名なんですね。山を下りることがあまりないから、知らなかったな……」

 市民会館の建物へ向かう道すがら、そんな会話をする。

 駐車場にも、他に十数台の車が停まっていた。きっと地域で人気のイベントなのだろう。何げない話をしながら、時折目が合えば笑い合う。じーんと幸せを噛みしめて歩いていると、太一がぐいっと桃子の腕を引っ張った。

「そこは、ガラスです」

 自動扉だと思って進んでいたら、ぶつかるところだったらしい。

 桃子は顔を赤くして、「ごめんなさい」と謝った。少し、浮かれすぎているようだ。

 自動扉をくぐってすぐの所に即席のチケット販売所が設けられているが、並んでいる人はいない。

「上映時間ギリギリになってしまいましたね」

 腕時計を見ながら太一がそう言った。午前中に太一の仕事が入り、少し長引いたのだ。ゆっくりとしている時間もなさそうなので、早足にホールへと向かう。

 するとお手洗いの前で、太一が足を止めた。

「すみません、先に中に入っていてもらえますか?」

 桃子は、待っていようかと少し考えたが、結局頷いた。時間的に会場がそろそろ暗くなる頃なので、先に座って待っていた方がいいだろう。

「では、席で待っています」

 一旦太一と別れて、上映会場となるホールへ向かう。

 重たそうな入り口の両扉は開け放れており、中はまだ照明が灯っていた。その扉の前にきらきらとして電飾のついた、桃子の身長ほどのクリスマスツリーが飾られているのを見て、思わず足を止める。

 気分は益々盛り上がって来るのだが、同時にいいようのない不安も込み上げて来て、桃子はツリーの天辺で慌ただしく点滅する星に向けて、縋るように手を合わせた。

 ――どうか、太一さんとずっと一緒にいられますように。

 パンパンと両手を叩いて頭を下げる桃子の肩を、誰かがとんと背後から叩いた。太一がもう追いついたのかと笑顔で振り返った桃子は、そこで「ヒッ」と声を漏らして固まってしまう。

「七夕でもあるまいし、そんなものに祈っても、願い事は叶いませんよ」

 そこに、母の理恵が立っていたからである。

「お、お母さま!」

 桃子は驚きのあまりその場で卒倒しそうになる。

 見間違いだったらいいと思って目を瞬かせるが、白いタイトスカートのスーツに身を包んだ母の姿は消えてくれない。

 「どうしてここに!」と叫びかけた桃子を、理恵が視線で制した。

「大きな声を上げるんじゃありません。人の迷惑になるでしょう」

 口調こそ穏やかだが、声には怒りが籠もっている。

 桃子は悲鳴を上げないように両手で口を押さえて、代わりに大きく目を見開いた。

 ――どうして母がここにいるのか!

 パニックで、すぐには何も考えられない。

 何か言わなければと必死で言葉を探していると、頭にはっと太一の顔が浮かんで、桃子は後ずさった。

「お、お手洗いに行ってきます」

 今、太一に母を会わせるのはまずい。太一はこちらの事情を知らないし、母は怒っているに決まっている。話の行き違いから、本当に婚約解消になりかねない。

 通路を駆け戻るとすぐ、手に二つペットボトルの飲み物を持った太一と鉢合わせた。

「桃子ちゃん? 一体どうしたんですか?」

 ただごとでない様子に目を丸くする太一の腕を、桃子は青ざめた顔で掴んだ。

「太一さん、……猫になっていただけませんか?」

 この場を乗り切るには、ひとまず太一に隠れてもらうしかない。

 詰め寄る桃子に、太一が「は?」とのけぞった。

「いや、急になれと言われてなれるものでは……」

「そこを、お願いしま……」

 桃子が最後まで言い終えるよりも先に、太一の顔色が変わった。おそるおそる背後を振り返ると、すぐそこに母が立っている。

「お母様、あの、これは……」

 慌てて言い訳を口にしようとしたが、母は聞くことなく、手を高く振り上げて桃子の頬を平手打ちにした。

「お母さん……!」

 廊下に高い音が響き、太一が慌てた様子で声をかける。しかし理恵にぎろりと睨まれ、思わずといった様子で「桃子さんの」と付け加える。

 理恵はそれを無視して、桃子の腕を掴み上げた。

「帰りますよ」

 桃子は頬を押さえて顔を上げた。

「ま、待ってください! 宿に荷物も……!」

「後で送ってもらえば済む話でしょう」

 会話を遮るようにして、太一が二人の間に割入る。

「待ってください、これは……」

「太一さんには関係ありません。婚約は破棄をなさると、手紙をくださったではありませんか」

 理恵に冷たく睨まれて、太一は大体のことを察したのだろう。

 わずかに視線を泳がせた後、ちらと桃子を振り返った。

「……ごめんなさい」

 いたたまれなくなって桃子が頭を下げると、太一が悲しげに目を細めた。

 ――馬鹿だった。

 映画が終わるまでなんて欲を出さず、すぐに太一に全て打ち明けるべきだったのだ。

 自己嫌悪に項垂れる桃子を見て、太一はすぐ理恵に向き直り、深く頭を下げた。

「申し訳ありませんでした。今回のことは全て私が原因です」

「太一さん……」

 桃子は目に涙を浮かべて、太一の前に飛び出した。

「違うんです、お母さま! 私が太一さんに嘘をついていて……」

「桃子ちゃん」

 太一が、桃子の腕を掴んで首を横に振る。そして再び、理恵に向かって頭を下げた。

「一度だけ、話を聞いてください。お願いします」


 ロビーに戻るとチケット売り場は撤収されており、完全な無人となっていた。

 太一は理恵を椅子に座らせると、持っていたペットボトルをその前のテーブルに置き、自動販売機へと向かった。理恵の飲み物を買うためだろう。

 桃子は小走りに、その背中を追いかけた。

「太一さん、申し訳ありません……! 私……」

「きっと、これは友江さんが仕組んだことでしょう。こちらこそ驚かせて……」

 自動販売機に小銭を入れながら、太一が横目に桃子を見つめる。

 そして言いかけた言葉を飲み込み、ふっと溜息をついた。

「あなたに……、嘘をつかせて申し訳ありませんでした」

 太一は自分を責めているのだ。悪いのは全て、桃子だというのに。

 桃子は目に涙を浮かべて、何度も頭を振った。

「大丈夫」

 太一が表情を和らげて言った。

 それは桃子を責めていないということだろうか。それとも、きっと許してもらえるということだろうか。はかりかねていると、太一がすっと理恵を振り返った。

「私には、あなたが必要だから。許してもらえるまで諦めません」

 その横顔に、桃子はいよいよ泣いてしまいそうになって、首を横に振った。

 泣いている場合ではない。桃子も太一と同じ思いで「はい」と頷いた。

 飲み物を買って戻ると、太一はそれを理恵の前に置いて、向かいの椅子に座った。

 桃子は少し躊躇ってから、太一の隣りに腰かける。理恵が一瞬不快そうに眉を上げたが、咎めることはしなかった。

「あの……、今日はお父さまは?」

「仕事です」

 縋るように訊ねる桃子に、理恵はぴしゃりと言った。

 父がいたら味方になってくれるかもしれないと思ったが、そう甘くはないようだ。

 理恵がすっと、太一に視線を向けた。

「太一さん、今朝うちに連絡をくださったようですね?」

 桃子は目を丸くして隣りを見た。太一が、「はい」と静かに頷く。

「ここに来る前に家のものから連絡がありました。今更なんの話があるのか、少しは興味があったのですよ」

 厳しい口調の理恵に、太一はただ頭を下げた。

 桃子は益々いたたまれなくなって、体を小さくした。

 太一は桃子が隠しごとをしていることにも、ちゃんと気付いていたのだ。

「それで、どんな話があるのですか?」

 太一が頭を上げて、理恵を見る。

「信じて頂けないかもしれませんが、我々志摩の家系は、代々陰陽師をしています」

 桃子が驚いて太一を見つめた。

 陰陽師のことは、後継者と配偶者にしか話してはいけない決まりで、太一が浩介にすら秘密にしていることだ。

「ここには平安時代から志摩家が関わっている妖怪の町があり、私はそこで働いています。このことは他言が禁じられており、日高の皆さまにはお話しできませんでした。申し訳ありません」

 太一はそこで、一旦説明を区切った。理恵の反応を確かめる為だろう。 

 普通ならとても信じてもらえる話ではない。ふざけるなと言われるのが普通だ。

 しかし理恵は、理解しがたそうに顔をしかめたものの、「それで?」と首を傾げた。

「この世に妖怪がいたとして、あなたが婚約解消の手紙を送られたことと、なんの関係があるのですか?」

 桃子は思わず、母の顔を凝視した。太一の話を信じるなら驚くはずだし、そうでないなら怒るはずだ。しかし理恵は、話の本題ではないと斬って捨てることにしたらしい。太一はそこで躊躇うように目を細めた。

「……桃子さんに婚約破棄の手紙を送った理由は、私が呪いにかかっている為です」

「……呪い?」

 理恵がようやく驚いた表情を見せた。

「太一さん! それ以上は駄目です!」

 桃子は慌てて割って入った。

 太一にとってそれが、どれほど隠しておきたいことなのか、桃子はよく知っている。

 それに呪いのことを話したところで、理恵が納得するとも思えない。

 これから先は、桃子が頑張るべきだ。

「……話がそれだけなら、桃子は連れて帰りますよ」

 理恵は二人の顔を見比べてそう言うと、溜息をついて席を立った。

 太一も、少し状況を落ち着かせるべきだと思ったのだろう。立ち上がり頭を下げた。

「すぐ謝罪に伺います」

「結構です」

 理恵はきつく言い捨てて、桃子の腕を掴んで無理やり立ち上がらせた。

 桃子も、ひとまずこのまま家に帰るしかないと思いつつ、大切な用事があるのを思い出して声を上げた。

「待ってください! ひとつ、お世話になった方に頼まれていることがあります! この近くで済む用事ですから、やらせてください」

 太一はすぐになんのことだか分かったようで、顔をしかめた。

「それなら私が代わりに……」

「必ず私がするようにと、旭さんは言っていました!」

 太一を振り返り、首を横に振る。

「お母さま、お願いします! それだけ済ませたら、大人しく帰ると約束します、だから……!」

 桃子の嘆願に、理恵が難しい顔で考え込んだ。

「本当に、大人しく帰るのですね?」

 桃子が「はい」と頷くと、理恵が溜息をついた。桃子が大人しくなるなら、そのほうが話が早いと思ったのだろう。まさに渋々といった様子で頷いたのだった。


「姐さんのお母さま、どうぞ!」

 目的地に着くと、お茶丸がわざわざ運転席から降りて来て、理恵の座る後部座席のドアを開いた。平身低頭の身のこなしで、「ささっ」と手まで伸ばしてみせる姿は、やけに様になっている。お茶丸は、映画の終了時間より早く桃子達が車に戻って来た時も、理恵を紹介すると驚くほどすんなり車を出した。どうも本能的に、逆らってはいけないタイプが分かるらしい。

「……ありがとう」

 理恵は胡散くさそうな表情を隠さず、一応とばかりにお礼を言って車から降りた。

 お茶丸のことは知り合いの妖怪と紹介してあるので、不審に思うなというほうが無理だろう。そもそも理恵がどのくらい、太一の言うことを信じているのかも、桃子には分からないままだ。

「……近いという距離ではありませんでしたね」

 周囲を見ながら、理恵がちくりと嫌味を言う。

 確かにその通りなので、桃子は身を縮めて「申し訳ありません」と謝罪した。

 先ほどの市民会館から、再び吉野の方角へ、三十分ほどは走っただろうか。

 山裾に広がる、いかにも深い森の前でお茶丸は車を停めた。

 近くには古い家屋や田畑が見えるが、ひと気はない。

「井瀧神社なら、ここから山を上がったところにあるのですが……、旭の言う祠はその手前ですね。……とりあえず、行ってみましょうか」

 助手席から降りて来た太一が、旭の書いた地図を見ながらそう言った。

 視線の先には、森の方へ進む細い道がある。

 桃子は歩き出そうとしてから、おそるおそる理恵を振り返った。

「……道も悪そうですし、お母さまは車で待っていて頂いても」

「一緒に行きますよ。あなたが逃げ出しては困りますからね」

 厳しい声で言われて、桃子は項垂れた。

 今更逃げ出す気などないが、言ったところで信じてはもらえないだろう。仕方なく連れ立って歩き出したところで、当然行く気のないお茶丸が、車にもたれ掛かりながら「おい、姐さん」と声をかけた。ちょいちょい、と手招きをされて駆け寄ると、竹筒をひとつ投げ渡される。

「……これは?」

「さあ? 旭が、着いたらこれを姐さんに渡せってよ。鏡を供えてから使えって言ってたぜ」

「中のお水も、お供えするということですか?」

「オレは知らねぇって」

 旭の意図が掴めず、桃子は首を傾げた。そもそも、なぜ旭は桃子に直接言わなかったのだろう。それも、到着してから手渡すようになど――。

「桃子」

 考え込んでいると、母に急かすように名前を呼ばれ、はっと我に返る。

 そうだ、今は考えている場合ではない。理恵の気が変わらないうちに、さっさと用事を済ませてしまわなくては。桃子は竹筒を鞄にしまうと小走りに二人に近寄った。

「何かありましたか?」

 太一に聞かれて、桃子は「いえ」と首を横に振った。

「鏡と一緒に供える水を預かっただけです」

 太一が「水?」と不思議そうな表情を浮かべる。

 初めから渡しておけばいいのに、と思うことは桃子と同じだろう。

「きっと、渡すのを忘れていたんだと思います」

 口にしてみるとその通りで、深く考えるようなことではない気がした。

「……お母さま、どうかしましたか」

 それよりも、母が周囲を見ながら思案の表情を浮かべていることの方が気になる。

 道中も時折、窓の外を見ては、何かを考えている様子だったが。

「ああ、いえ……。私の母方の先祖が、ずっと昔、奈良に住んでいたという話を聞いたことがあったので……、地名を見てこの辺りかと考えていただけです」

 初めて聞く事実に、桃子は思わず感嘆の声を漏らしかけて、片手で口を覆った。

 あまり呑気な様子を見せて、理恵の癇に触ってはいけない。

 太一が振り返って、遠慮がちに口を開いた。

「縁があるのかもしれませんね」

「……ただの偶然でしょう」

 理恵が、ふいと顔を逸らして答える。

 その後は会話という会話もなく、木の根の露出した足場の悪い山道を慎重に進む。

「この祠ですね……」

 石造りの、古びた小さな祠の前で足を止めて、太一が首をひねった。

「道祖神が祀られてあるようですが……。やはり、ここに旭の知り合いがいるというのは初耳です」

「太一さんも、お知り合いではないのですか?」

「神が人の前に姿を現すことは、滅多にありませんから。ここに来るのも、私は初めてです」

 二人のすぐ後ろで、理恵が溜息をついた。

「……何か、危ないことをするのではないでしょうね?」

「大丈夫です、お供えをするだけですから……」

 訝しげに睨まれて、桃子は慌てて太一を見上げた。

「ですよね? 太一さん」

「……そうですね。確かに、旭が何か危険なことをさせるとは思えませんが」

 太一は、桃子よりずっと旭との付き合いが長い。何より志摩家とは千年の付き合いなのだ。太一としても、そこは疑う余地もないことなのだろう。桃子は鞄から鏡の入った箱を取り出して、祠に歩み寄った。祠は巨木のすぐ傍にあり、数歩近づいただけでも、木の匂いが迫って来るようだ。桃子が祠の前に膝をつくと、太一は理恵の横まで下がって、腕を組んだ。きっとまだ、旭の知り合いについて考えているのだろう。

 祠の中には丸い石塊が置かれており、とくに鏡を立てかける台はない。旭はただ置いてくれればいいと言っていたので、その通り鏡を取り出して祠の前に立てかけた。

 次に、竹筒を取り出す。しかし供えようにも、やはり水器のようなものはない。

 これも竹筒のままお供えをすればいいのだろうか? 疑問に思いつつ、桃子はとりあえず竹筒の細い栓を抜いた。

「桃子ちゃん、下がって……!」

 背後から様子を見守っていた太一が、そこで叫んだ。

「え……?」

 桃子は何ごとかと振り返ろうとして――、できなかった。

 まるで体が、金縛りにあったように動かないのだ。

 ふいに強い視線を感じて目だけを動かすと、祠に供えた鏡の中に、黄金の瞳が見えた。

「桃子ちゃん!」

 太一が桃子の腕を引く。その瞬間、手に持った竹筒から赤い水が螺旋を描いて空へ舞い上がった。そして瞬く間に、鏡の中へと吸い込まれていく。

 ――何が起こっているのか。

 混乱する桃子の前に、鏡の中から一羽の白いカラスが、楔から解き放たれたように姿を現した。

「桃子ちゃん!」

「桃子!」

 太一と理恵の悲鳴が聞こえる。

 太一が桃子を抱き起こし、理恵が顔を覗き込んでいる。その様子を〝見て”初めて、桃子は今、自分が地面に倒れ込んでいることに気付いた。

 ――見て?

 では、今自分はどこにいるというのか。考える桃子の体を、誰かが背後から抱きしめる。太一ではない。彼は今、桃子の足元にいるのだから。

 桃子は振り向いて首を傾げた。

「……旭さん?」

 そこにいたのは、黄金の瞳が煌めく八咫烏。

 呼びかけると、旭はふっと悲しげに目を細めた。その表情があまりに辛そうで、一体どうしたのかと問いかけようとして――。

 そこで桃子は糸が切れたように、ふっと意識を失ったのだった。


 桃子、と耳元で名前を呼ばれた気がした。

 同時に、頬に、目蓋に、ひやりと冷たい雪が落ちてくるのに気付く。

 ――一体、何が起こったのだろう。

 目を開くと白い地面がすぐそこにある。いつの間にか地面に倒れ込んでいたようだ。 その一面が雪で覆われているのを見て、桃子は眉を寄せた。

 雪など、さっきまでなかった。今年の冬は雪が少なく、吉野も山の方は積もったが、麓ではそうでもなかったのだ。

「……麓」

 そう、麓だ。今、山麓まで来ているのだった。

 どうも頭がぼんやりとしている。

 ひとまず体を起こそうと地面に手をつくが、がくっと肘から力が抜け、再び倒れ込んでしまう。うまく力が入らない。まるで自分の体ではないようだ。

 それでもなんとか全身を使って上半身を起こし、軽く頭を振りながら周囲を見る。

 雪のせいで景色が変わって見えるが、先ほどと同じ森のはずだ。目の前に祠がある。だが桃子が供えたはずの鏡はなく、代わりに水や食べ物といったお供えがされていた。

「いったい、何が……」

 呆然と呟いて、はっと喉に手を当てる。その声が、他人のもののように聞こえたからだ。

 ひと呼吸置いてから、ゆっくりと手を開いて見る。指が違う。爪が違う。明確にどうというわけではないが、自分の手はこうではなかった。

 体を見下ろすと、服も着物に変わっている。それも留めやで借りるようなこざっぱりとしたものではなく、きちんとした刺繍が施された高そうなものだ。

 ――もしかして、何か大変なことが起こっているのでは?

 ふいに恐怖を感じて、桃子は青ざめた。

 そうだ、太一は――、太一はどこに行ったのか。

「……太一さん!」

 ふらっとよろけながら立ち上がり、近くの木にもたれかかって叫ぶ。

 しかし見渡す限り人影はない。太一はもちろん、理恵までも、忽然と姿を消してしまっている。取り乱しかけたその時、頭上で風の舞い上がる音がした。

 顔を上げた先には、木の枝に座る、一人の美しい青年――。

 桃子は息を呑んで、その姿を凝視した。

「……旭さん?」

 名前を呼ぶと、旭はひどく訝しげに顔をしかめた。

 桃子を見つめる黄金の双眸を冷たく細めて、ゆっくりを口を開く。

「……お前は何者ですか?」