第一話



 人間には、目に見えないポイントがある。

 これは、そんなポイントが見えるようになってしまった俺の話だ。


 そのポイントに、俺たちはいつも、左右されている。

 ポイントは大事だ。

 これは何も、大げさな話じゃないし、ややこしい話でもなければ、小難しい話でもない。とにかく、それは、そんな変な話なんかじゃない。ファンタジーとか、フィクションじみた設定とか、そんなんじゃない。多分。

 そうじゃなくて、これはもっと普通の当たり前の、つまりは今の俺たちにとって、リアルで切実な話なのだ。


 この自分の変な現象を、人にどう説明していいか。未だにわからない。

「俺、見えるんです」

 と言うと、まるで霊的な存在が見える人みたいでなんだか言いづらい。「わかる? 憑いてるらしいんだよね、私。将門。ねぇほら、平」とか話を広げられても困るし。

 だからこのことを、俺はほとんど誰にも話したことはない。

 話す相手といえば、せいぜい病院の先生くらいだ。それも、仕方なく。

「まだ、幻覚が見え続けてる、と」

「幻覚っていうか……本当に幻覚なのかなって。最近、不思議なんです」

「ちょっと青木くんの話、整理しようか」

 先生はペンを取り上げ、コピー用紙に走らせた。

「これが人間」

 トイレのマークみたいな図柄、頭上に「50」と数字が書かれる。

「人の頭の上に、数字が見える。そうだよな?」

 俺は頷いた。

 俺が金属バットで頭を殴られたのは、去年のことだ。

 病院のベッドで目覚めたとき俺は、自分の頭が壊れたんだと思った。

 世界がキラキラと輝いて見えていた。比喩ではなくて、マジで空中に変なキラキラが散って浮かんでて焦った。

 一瞬、綺麗だな、と素直に思った。それから遅れて、おいおいおいどうしよう、と思ったし困った。

 日がな、ぼーっとそのキラキラに見とれてるうち、やがて一週間が過ぎ、徐々に俺の中のそのキラキラは収束していった。俺は少し残念な気持ちで、そんな風に光が縮んでいくところを見ていた。

 キラキラが全く見えなくなり、ところが今度は、別の幻覚が見えるようになった。

 何だろう、と最初思った。

 人の頭上に、二桁の数字が浮かんでいた。

 気持ち悪い。

 それが、俺のその数字に対する第一印象だった。

「人によって、その数字は違うんだよな。じゃあ、改めて聞くけどさ。それ一体、何の数字なんだと君は思う?」

「だから……なんていうか。俺の考えだと、多分、人間の価値を表してるんだと思うんです。大体、平均が50くらいで」

「ちなみに、じゃあ、僕は何ポイントに見えるんだ?」

 先生が少しふざけた口調で聞いてきた。妙に自信ある口調に、不愉快な気分になる。

 67。

「46ですね」

 俺は先生が嫌いだったので、嘘をついた。

「やっぱりそれ、幻覚だよ」

 ちなみにこの先生は、俺の母親と浮気をしている。

 46は、俺の父親のポイントだった。


 午前の授業を、俺は通院のために欠席すると担任に伝えていたし、それは了承されていた。

 病院を出ると、空が眩しかった。白い日差し。雲は少なく、視界の限りただ空の色が広がっていて、このままどこか遠いところに行ってしまいたくなる。

 だけど、そんな感傷的で現実逃避的な気分にいつまでも浸ってるわけにもいかないしで、俺はすぐ、目線を地上に戻した。

 すると当然、あの数字が目に入ってくる。

 うんざりしてしまう。

 行き交う人々の頭上に、変な数字が浮かんでいる。

 俺には、見える。

 それをとりあえず便宜的に、俺は「ポイント」と呼んでいる。

 道を歩いていても、電車に乗ってても、人の頭上に、ポイントが見える。もう慣れはしたけど、それでも病院の後はいつも、その現象の不条理さに鬱になった。

 それがただの幻覚か……あるいは、何かオカルトじみた怪奇現象なのか、俺にはよくわからない。

 とにかく、見えるのだ。誰かの頭上にいつも、二桁の数字が浮かんでいるのが。

 別に、見たくもないんだけど。

 そのポイントはどうやら、人の価値を表す数字らしい。ポイントが見え出してから、俺はすぐにその事実に気づいた。ダメな人のポイントは低く、イケてる人のポイントは高い。

 学校に行く前、駅のトイレに寄って、鏡の前に立つ。そこには、冴えない顔の男子高校生、つまり俺が映っている。53。平凡なポイントだ。

 鞄からワックスを取り出し、髪につけていく。それから、メガネを外して、コンタクトをつける。面倒だけど、そのまま学校に行く気にはなれない。一通り身だしなみを整えると、俺のポイントは54になっていた。微々たる差だけれど、俺はそれを大事にしたい。

 自分の心の中で、キャラを整えていく。アオキンじゃなくて、青木直人。青木直人のキャラを思い出す。教室に溶け込もう。愛想笑いのチェック。嘘臭くないだろうか? 猫背を直し、表情筋を整え、静かに深く、呼吸をする。本当は何も楽しくないなんて、バレないようにしないと。鏡を見ながら、顔つきを変化させる。軽く頭を振り、不安を打ち消す。最後に、何かに対して祈る。目立たず、浮かず、平穏無事な学生生活を、今日も送ることが出来ますように。そして「頑張ろうな」と、鏡の中の自分に向かって言う。まるでトラヴィスや、ヴィンセント・ギャロみたいに。

 遅れて学校に登校、扉を引いて教室に入る。その瞬間、いつも少し緊張する。既に四時間目は始まっていた。

 教室の同級生たちの頭上、ポイントが浮かんでいる。

 49、53、

 62、52……。

 いつもの見慣れた数字だった。

 49が「青木、お前遅すぎ」次に53が「寝すぎだろ」小声で軽口を投げてくる。事情を説明しても微妙な感じになるだけな気がして「昨日ネットで動画見すぎたわ」と答える。「何の動画だよ」「xvideosだろ」サイト名は女子に対して隠語として機能していて、本当は何もかも違うけど「正解」と俺は言い、軽くウケたから、そこで会話を終わらせる。

 たまにそんな雑談をしながら俺は、消えたい、と思ってしまう。今ここからいなくなりたい。透明人間になれたらいい。

 学校は、今日もダルい。

 それでも、何かいじられているうちはまだマシだ、とも思う。本当にヤバいのは、多分こういうとき、誰からも何も言われないことだから。

 鞄からノートを取り出す。

 教室の空中に浮かんでいる、クラスメイトたちのポイントを、改めて眺めた。

 今日は誰にしよう。

 クラスで一番高いポイントに、目を止める。

 78。そんな一際目を引く数字が、彼の頭上に浮かんでいる。そのポイントは、明らかに突出して高い。

 黒く短い髪、筋肉質で引き締まった顔つき。彼の容姿には、どこか美しいカラスのようなところがあった。人の目を惹きつけるオーラが、彼にはある。そういえば、いつもクラスの輪の中心にいる気がする。

 曽山文隆。

 ノートの右ページ一番上に、俺はその大して知らないクラスメイトの名前を記入した。

 78。

 平均は50だから、彼には、加点要素と減点要素を合わせて、プラス28の要素があるということになる。

 彼のポイントを、集中して、じっと見つめる。

 やがて、そのポイントの内訳が、見え始めた。

 テニス部(+4)、背が高い(+2)、細マッチョ(+2)、イケメン(+6)、 オシャレ(+3)、コミュ力(+7)、学力優秀(+4)……。次々浮かんでは消えてくそれを、俺はノートに書きつけていく。

 ポイントが見える、それだけでなく、じっと集中して相手を見ていると、その理由、ポイントの内訳までが見えてくる。

 こっちの方の……謎の力を行使するのは、地味に疲れる。

 何の役にも立たない超能力じみたこの力、ただポイントを見ているだけではそんなに疲れないのだけど、そのポイントの内訳を知ろうとすると、途端に疲労困憊してしまう。

 一つ目の能力。人の総合的なポイントが見える。こっちは疲れない。

 二つ目の能力。人のポイントの内訳を知ることが出来る。こっちは、集中力が必要だ。

 二つ目の力を使うのは、一日に一人か二人くらいが限界だった。

 曽山のポイントの内訳を知った俺は、もう、それだけで青息吐息、授業の内容も全く頭に入ってこない。

 そんなに疲れるなら、しなければいい。それは全くごもっともなのだけど。

 この大して役に立たない俺の謎の力。それを俺は、一応、有効活用しようとしている。

 人のポイントを参考に、自分のポイントを上げようと努力する。例えば俺が、高校生になってから外見に気を使い出したのも、容姿に気を使っている人間のポイントが高い傾向にあると気づいたからだ。そうやって仮説を立て、行動に移す。その繰り返しで、俺は地味に自分のポイントを上げてきた。

 さて。改めて、曽山の頭上に浮かぶ、78、という数字を眺める。そして、その内訳。高スペック男子、と言い換えてもいい。高すぎて、完璧すぎて、俺はどこを真似したらいいのか、わからなくなる。ここまで高いポイントを有している人間は、非常に稀だ。

 幸福な人生を送るためには、ポイントを積み上げることが重要だ(俺調べ)。

 人としての価値が高ければ、面接でも会社でもどこでも輝ける。成功者のポイントは皆総じて高い。

 ともかく、曽山くんの未来は明るい。

 ああ、うらやましい。

 それは本当に、素直に俺は、そう思う。

 うらやましいし、すごいと思うし、生まれ変われるなら俺もそうなりたい。

 ポイントが高い人間は、生きてて楽しそうだし、幸せそうだ。

 ひるがえって、俺……俺はどうなんだろう?

 54ポイントの俺。成績そこそこ、頭は悪くないつもりだけど、コミュ力もあんまりないし、背も平均より少し低い。総合的には普通よりちょっと上だけど、いつ転落してもおかしくない。

 転落って、でも、どこに?

 誰だってわかってる。わざわざ口にしたり、しないだけで。

 だから、俺はこれでも、必死なのだ。自分の、小市民的な人生を守るのに。

 十五歳。この歳になるとだんだん、自分が大した人間じゃないこと、そしてこれからも、大した人間になれるわけがないのだということが、わかってくる。

 俺はきっと、立派な人間になることはない。

 多分、クラスの連中の大多数と同じように。

 きっと冴えない会社の埃っぽい仕事場で、エクセルでつまらない資料を作り、人に頭を下げ、行きたくもない飲み会でへこへこして、いつか中年になる頃には人工知能とかに仕事を取って代わられているのかもしれない。そんな気がする、なんとなく。好ましくはない未来。だけども、仕方ない。

 俺のポイントは凡庸で、それと同じくらい俺の未来は普通なんだと思う。

 可もなく不可もなくの、大して面白みもない人生。

 まあ、それでもいいと俺は思ってる。

 本当に。

 変な高望みをしなければ、それでも、そこそこほどほどに、楽しい人生を送ることは出来るだろう。

 人生、割り切りが大事だ。



 さて、そんな冴えないだけが特徴のただの一介の高校生である俺にも、ささやかな楽しみというのがあった。

 昼休みだ。

 他に楽しい時間なんて、ない。

 四時間目終了のチャイムが鳴り、俺は視聴覚室に向かった。

 窓際に座って、じっと待つ。学食で、自分のパンは既に買ってあった。

 時計を見る。彼女は、来たり、来なかったりする。

 やがて、中にとあるクラスメイトの女子が入ってきた。

 成瀬心愛だ。

 彼女がドアを開けた瞬間、俺の灰色の世界が、カラフルに色づいた気がした。

「おつかれ」

 と、成瀬はいつも、俺に言う。そんなに疲れてるように見えるんだろうか? 見えるのかもしれない。

 成瀬のポイントは、74もある。

 一度彼女のポイントの内訳も、見たことがある。詳しくは覚えてないけど、それもノートに書いてあったはずだ。その大部分は、彼女が、とてつもなくかわいい、ただそれだけの要素に、ほぼ起因している。

 つまり成瀬は、とにかくかわいい。

 多分、学年で一番だ。

 成瀬の容姿は「努力する天才」。

 整った顔立ち、透明感のある白い肌、すっと通った鼻筋、大きく潤んだ瞳、細い首、すべてが生まれつき完璧。

 その上で、薄く明るいミディアムな長さの髪は、隙なく切り揃えられていて、いつも洗練されている。無駄のない体つき。細い眉。唇は、ほのかにピンク。振る舞いの一つ一つが、抜け目なく見える。そして、そばにいるといつも、いい匂いがする。

「青木ってさ」

 成瀬は、視聴覚室のテーブルに自分の弁当を広げて、食べる準備をし始めた。

「いつも授業中、なんかノートに書いているよね? 多分、授業に関係ないこと。何あれ?」

 成瀬に聞かれて、俺は焦った。

 クラスメイトのポイントを書いている、俺のノート。

 あんなノートの存在を知られたら、きっと、ドン引きされてしまう。

 誰だって、あのノートはさすがに、気持ち悪いと思うだろう。それくらい、俺もわかる。

「別になんでもないよ。……いや、本当に」

 俺がそう言うと、成瀬は何か言いたげな顔をしながら、結局黙った。

 微妙に気まずい空気になって、後悔する。それを流すためにか、成瀬は話題を変えてくれた。

「あ、こないだ貸してくれた、いくえみ稜。読み終わったよ」

「どうだった?」

「超良かった! 切ない~。泣いた」

「成瀬、いつもそればっかりだよな」

「そんなことないし。青木ってほんとたまに、意地悪言うよね」

 唇を尖らせて、ちょっと抗議するような表情。「成瀬、かわいい」という自分の心の声が、表情に溶けて外に漏れないよう、俺はなるべくつまらなそうな顔をした。

 たまに俺と成瀬は、こうやって昼休み、この視聴覚室で、少女漫画の話をする。

 それは俺にとって、ささやかな秘密の時間だった。


**


 もともと成瀬と俺には、何の接点もなかった。それも当然で、成瀬はクラスでも中心人物、キラキラ輝く学生生活のヒロイン。一方で俺はといえば、別に何でもない、平凡な54ポイントのキャラだ。

 成瀬みたいな奴は、例えば曽山のようにポイントの高い人間と会話する。実際、成瀬が普段会話する男子は、曽山のグループが多いように見えていた。

 そんな俺と成瀬の間に接点が出来たのは、さかのぼること二ヶ月前、四月のある日、放課後のことだった。

 ところで俺は、少女漫画をよく読む。きっかけは大したことではなく、姉の本棚にあったのをなんとなく読んでるうち、ハマっていった。一時期ずっと家にいた時期があって、あまりに暇で俺は古今東西の少女漫画を次々読破。そのうち、自分の小遣いでも買うようになっていった。

 でも俺は、自分が少女漫画オタクだということを、周囲に隠していた。男で少女漫画オタクだなんて知られたら最後、ポイントは急落してしまう気がしたからだ。

 だけどある日の昼休み、こっそり持ってきていた少女漫画を、成瀬に見られてしまった。

「青木くんって、少女漫画好きなの?」

 意外そうに成瀬は言った。しまった、まずい、どうしよう、と俺は思った。「私も」同時に、今までまるで接点のなかった成瀬が、急に自分に話しかけてきたことに、俺は少し驚いてもいた。

「好きなんだよね、少女漫画」

 と成瀬が言って、俺はハッとして彼女の顔を見た。そのときほとんど初めて成瀬の顔を至近距離で見て、やっぱり「かわいい」と思った。俺はそれを隠すように、「恥ずかしいから。秘密にしてくれない?」と頼んだ。

「別にそんな恥ずかしがるような趣味じゃないと思うけど」

 それから成瀬は、何故か妙に真面目な顔で、俺に言った。

「ね。青木のオススメの少女漫画、貸してよ」

 少し戸惑いつつも俺は次の日、家にあった少女漫画を紙袋に入れて、学校に持って行った。

「成瀬。あのさ」

 昼休みを待って、俺は彼女に話しかけた。「なに?」成瀬が振り向いたとき、ふっと、このまま教室で会話を続けるのは、なんだか少しつらい気がした。

「視聴覚室、行かない?」

「いいけど」

 視聴覚室に、他の生徒はいなかった。普段遣いの校舎から、少し離れた場所にあるせいだろう。わざわざ、そういう場所を選んだのだ。

「わ、こんなにたくさん。ありがとう」

 俺が持ってきたオススメの少女漫画三十冊を見て、成瀬はちょっと驚いたように言った。でも俺にはそれが、「持ってきすぎ」と少し引いてるように聞こえて、気持ちが萎んだ。

「ごめん。こんなに持ってきて」

「なにそれ。全然そんなことないよ。気にしすぎ」

 それから俺と成瀬は、視聴覚教室でたまに会って、ぽつぽつと少女漫画の話なんかをするようになった。

 きっと成瀬は単に、少女漫画トークをする相手に飢えていたんだと思う。

 そうじゃないと、俺みたいなポイントの低い、価値のない人間と、彼女が口を利く理由に、説明がつかないからだ。


**


 とにかく。成瀬は、かわいい。だからなのか、俺はたまに、何もかも全部、心を開いて話してみたくなる。ポイントのこととか。わかってもらえるんじゃないか、ワンチャンスがあるんじゃないか、気の迷いで、思ってしまう。

 ポイントのことだけじゃない。このポイントについて、こんなにも下らなく囚われている自分の内面とかを、成瀬は受け止めてくれないだろうか? と都合のいい期待をする。……まぁ、一瞬だけ。

 で、即、諦める。

 本当は何もかも、成瀬に言ってしまいたい。「君のことが好きだ」とか。「本当に俺、好きだよ」って。

 でも、言えない。

 言えるわけ、ない。

 成瀬と俺は、とてもじゃないけど、釣り合わない。俺に言わせれば、ポイントの差がありすぎるのだ。

 それでも、この奇跡みたいな時間を、俺は大切にしていた。

 だから、それだけでいい。

 それ以上のことは、何も望まない、そう、俺は決めていた。

 これは、ポイントほどほどの俺が、努力で成長していく物語、なんかじゃない。

 俺が、そこそこの労力で、要領よく生きようとする、ほどほどの幸せを目指す、取るに足らない、くだらない物語なんだと思う。

 俺は「人生ほどほどが一番いい」ことを知ってる。

 だから、大それた希望なんか抱かない。

 例えば、成瀬と付き合いたいとか、そういうことは思わない。



 そんな……俺のほどほどそこそこに過ぎてくはずの高校生活が変わり始めてしまったのは、六月の放課後のことだった。

 帰り道、だった。

 ふと俺は、不安になった。何かを忘れているような気がした。でも、何を忘れてるのかわからない。

 根拠のない、でもなんだか妙に存在感のある不安を抱えたまま、俺は一人で学校から家までの道を歩き。やがてどうしても気になって。

 立ち止まる。

 人けのないバス停のベンチに座り、鞄のジッパーを開けた。

 そしたらやっぱり、なかった。

 例のノートが、なかった。

 クラスメイトのポイントを書いているあのノートが、ない。

 血の気が引いた。

 マズい。

 多分、教室に忘れたんだと思う。それにもしかしたら。机の上に出しっ放しだったかもしれない。

 嫌な予感がして、俺は一旦、教室に引き返すことにした。

 もし誰かに見られたら、ヤバい。

 ヤバすぎる。

 ヤバいだろう、どう考えても。あんなノートを見られたら最後、身の破滅だ。

 クラスメイトの点数を細かく記入している。そんな奴はどう考えても、ヤバい奴だろう。だって、「背が低い(-2)」とか「頭が悪い(-1)」だとか、もっと酷いことさえ書いているのだ。そんな記述を、クラスの誰かに見られるわけにはいかない。そんなもの見られたら、人生終了だ。

 教室の中に入る。

 その日、ほとんど誰も残ってはいなかった。

 ただ一人。

 ぽつんと教室にいたのは、クラスメイトの春日唯だった。

 見た瞬間、あ、バカの春日だ、と俺は思った。

 バカの春日。

 ポイントは、42。

 話したことはほとんどないけど、彼女の存在だけは、何故かよく覚えていた。

 多分それは、彼女のポイントが、他人と比べて著しく低いからだ。

 一言で言えば、教室の異物予備軍。

 春日は、バカだ。

 ダサくて、微妙に空気も読めない。

 学校にはよく遅刻してくるし、授業中当てられても、頓珍漢なことしか言わない。不良じゃなけど、彼女の振る舞いは問題児のそれだった。

 自分で切ってるのか前髪はパッツンで、それが全く似合っていない。メガネで空気が読めなくて、芋かった。

 友達は、なんとなくいなさそう。

 普段は無気力かつ無口なのに、喋り出すと急に早口で、止まらなくなる。人とのコミュニケーションの取り方が、おかしい。

 取り柄はとくに見当たらない。

 そのくせ、妙に正義感が強いところが、周囲から疎まれている原因だった。

 春日が決定的にポイントを落とした日のことを、俺も、それに多分クラスの連中も、皆覚えている。

 クラス委員、男子は曽山が立候補してすんなり決まったけど、女子はなかなか、決まらなかった。それで、クラスで一番気の弱い女子を、誰かが推薦した。押し付けようとしたわけだ。そのとき「おかしいと思う」と言って、急にすくっと立ち上がったのが、春日だった。立候補によって、女子のクラス委員は春日になった。ほぼ全員が、白けた目で彼女を見ていた。それ以来春日のポイントは、決定的に低くなった。

 つまり彼女には、計算高さが全くない。

 ある意味、春日は俺と真逆の人間だ。

 俺は彼女のことを、内心では少し見下していた。

 なるべくなら、関わりたくない。

 ところがその春日が、俺のノートの中身を勝手に見ていた。

 それで俺は、滅茶苦茶、動揺した。

「それ、俺のノートだよな」

 俺は春日に近づきながら、かすかな怒気を込めて言う。

 そのとき初めて春日は、俺の方を振り返った。

「うん。これやっぱり、青木くんのノートなんだよね」

 おいおいおい。何やってるんだよお前。

「いや、なんで勝手に俺のノートの中身、見てるんだよ……?」

 俺は彼女からノートをひったくろうとした。ところが、春日はその俺の手を、器用にひょいっと避けた。

「だって青木くん、いつもなんか授業と関係なさそうなこと真剣な顔でノートに書いてるから。一体何書いてるんだろうって。ずっと気になってて」

「だからってお前」

「だから見ちゃった」

 いや、勝手に人のノートを見るなよ。

「青木くん、お願い」

 春日の、その妙に真剣な顔に、思わず少し、たじろいでしまう。

「私のポイントも、教えてよ」

 そう言われて、ぞっとした。

 こいつ、全部知ってるんだ、と思った。

「ね、私って何ポイント?」

 42。

 ポイントは、彼女の頭上に表示され続けている。

「知らないよ。ってかノート返せ」

「青木くん、このノート、誰かに見られてもいいの?」

 春日が何を言っているのか、一瞬その意図がわからず、俺はフリーズした。

 誰かに、見られて……?

「このノートに書いてあったこと、クラスのみんなに話してもいい? 青木くんが、クラスのみんなに、勝手にポイントつけてるって」

「脅しかよ」

 そんなの、良くない。良くはないだろう。良くないに、決まっている。困る。ダメだ。俺の、高校生活が、終わる。終了、してしまう。

 もし、こんな中二病っぽいノートの存在をバラされたら。そんなことになれば、身の破滅だ。

 ちっぽけな54ポイントだけど、それでも必死で積み上げてきた俺のポイントなのだ。失うわけにはいかない。

「これ読んでたら、私、自分のポイントがいくつなのか、気になっちゃって」

 と言う春日の表情は、どうしてか不安そうで、俺は彼女の考えていることが、いよいよもってわからなくなった。

「だから、青木くんの思う私のポイント、教えてよ」

 俺は一つ舌打ちして、春日に向かって「わかったよ」と頷いた。

 こんな押し問答を繰り広げているうち、教室に誰かやって来るかもしれない。会話を聞かれ、その誰かにまでノートの存在を知られるのが怖かった。

「おい、じゃあ、やってやるよ」

 俺は春日のことを、ほとんど睨むように、まっすぐ見た。

 集中する。

 彼女のポイントの内訳を、じっと見る。

「空気が読めない(-4)、ダサい(-1)、勉強ができない(-1)、友達がいない(-2)」

 どっと疲れが押し寄せてきて、目眩がしそうになる。それをなんとかこらえながら、俺は努めて冷たい口調で、春日に告げた。

「42」

 俺が言うと、春日は気落ちしたような顔でこっちを見た。

「春日は、42ポイント」

「低いね」

 困惑したように、春日は言った。

「でも、ありがとう」

 春日は、どこかスッキリしたような顔で、そう言った。

「あの……ごめん」

 さすがに、苛立ちにまかせて酷いことを言ってしまった気がして、俺は謝った。

「言いすぎたかも」

「謝ることないよ」

 春日は、一つ、ため息をついた。

「多分、ある意味事実なんだからさ」

 でも春日は、さすがに傷ついているように見えた。

「……どうして春日は、自分のポイントを知りたいって思った?」

 俺が聞くと、春日は、一瞬黙った。

「私って人からどう思われてるのかな、ってちょっと気になったの」

「急に、なんで?」

 春日が、人の目を気にして生きているようには見えなかった。だから俺は、ただ率直に、不思議だったのだ。

「青木くんって、好きな人いる?」

 唐突にそう言われて、俺は戸惑った。

「いるけど」

 そう答えた自分に、ビックリしてしまう。

 俺だって、今まで人生で一度も「好きな人いる?」を聞かれたことがない訳じゃない。ただ俺はそういうときいつも、黙っていた気がする。

 なのに、俺は春日に、普通に正直に答えていた。不思議だった。春日の変な「剥き出し感」に、そのとき俺は当てられていたのかもしれない。

「私も、いてさ」

 正直ちょっと意外だった。春日は、色恋沙汰みたいなことに無頓着な人間のように見えていたからだ。

「あの……こく……しようと思って」たどたどしい声、全然、何言ってるかわからない。

「何? 聞こえない」

 聞き返すと、春日はキレ気味に声のトーンを一段上げた。

「告白。したいって、思ってて。したくて」

 その声も目も、手も、少し震えていた。

「は? 何、それって、つまり」

 なんとなくものすごく、死ぬほど嫌な予感がして俺は「もしかして……俺のことが好き?」と言った。

「勘違いしないでよ」

 春日が怒ったように言う一方、俺はこの会話の行先が面倒臭いことにならなくてよかったと、内心ちょっとホッとしていた。

「じゃなくて。曽山くん」

「曽山!?」

 俺は二重にビックリした。まず、大して仲よくもない俺に対し恋愛の話をしてくる、春日の無防備さに驚き。ついで、その相手が、あまりに春日と釣り合ってないことに驚いた。

「一緒にクラス委員してるとき、曽山くん、すごく優しくて。あと、カッコいいから」

「曽山と春日じゃ……その……なんていうか」

 なんて言っていいのかわからなくて、口から出た先から、俺の台詞は迷子になった。

「はっきり言ってよ」

「全然、釣り合ってないな、って」

「うるさい。黙って」

「お前がはっきり言えって……」

「じゃあ、続けて。続行。喋って」

「二人のポイント差。悲劇的。絶滅的。終局的」

「やっぱうるさい」

 春日は、恥ずかしそうにそう言った。それを見て、本気なんだ春日は、と気づいた。

 どうしよう。

 考えて二秒で結論が出た。

 ほっとこう。

 こんな奴が痛い目を見ようがどうしようが、俺の知ったことじゃない。

 関係ない。

 関係ないことに関わらなくても、こだわらなくてもいい。

 どうでもいい。

「ま、せいぜい頑張って。……じゃあ俺、帰るわ」

 帰ろうとして、ふと思う。

 こんなにもポイントの釣り合わない恋愛が果たして本当に成立するんだろうか?

 いやいや、無理だろ。

 すると、どうなる?

 今までのパターンを、思い出してみる。自分の観測範囲内での、過去の記憶を脳内で参照する。

 今の春日と曽山では、ポイントが釣り合わない。告白しても、失敗するだろう。

 妥当感がない。

 妥当じゃないことをするのは、痛い。

 痛いことをすると……ポイントは更に、大幅に下がる。

 ネタにされてバカにされ、コケにされて虐げられる。

 そんな人間の存在を、俺は過去に、知っている。そいつが、最終的にどうなったのかも、全部知っている。

 ロクなことにならないよな。

 これ以上、春日がポイントを下げると……きっと…………。

 あまり、見たくなかった。

 何故だろう?

 春日のことなんて、どうでもいいのに。

 バカバカしい。下らない。関係ない。ほっとけよ。俺にメリットがない。冷静に、損得で考えるべきだ。人間関係に賃借対照表があるとしたら、春日と関わることはマイナスにしかならない。得るもの、ない。デメリットしかない。損するだけ。無意味。非合理。非生産的。無駄無駄。

 バカバカしいのに、どうしてか、ほっとけない気がした。というか、してきた。徐々に。一秒が過ぎ、二秒が過ぎ、三秒、四秒、そのほっとけない気持ちがどんどんウィルスみたいに増殖していく。そして原因不明の熱にうなされてるみたいに、自分でも訳がわからないまま、振り向いて春日を見る。

 ちっぽけな春日。

 背伸びして一足飛びに、自分には出来ないことをやろうとするのは、馬鹿げている。そんなのは、勇気じゃなくて、無謀な、自殺行為だ。

 そうしてこのまま告白が失敗すれば、最悪の場合……まぁ、例えば、いじめとか。そういうのは、俺は全然見たくないのだ。

 でも春日は、そういうボーダーラインにいる。

「春日、曽山に告白とかさ、そんなのさ、無理じゃん。だって。春日、身の程知った方がいいよ」

 俺は、ちょっと声を震わせながら、彼女に言ってみた。これで春日は諦めないだろうか? と少し期待しながら。

 そして、まるで俺は、自分に言い聞かせているみたいだ。

 なぁ、春日。

 身の程知って生きてった方が、全然いいよ。

 楽だし。

 何より、傷つかないで、凹まないで済むよ。

 無理、しない方がいい。

 本当に俺は、いつもそう思って生きてる。

「ダメだよ。曽山に告白? 絶対失敗する。告白なんてさ、やめとけよ」

「青木くんにはわからないよ」

「わかるよ。だって俺も」成瀬が好きだから。

「じゃあ、この好きな気持ちは殺して、私、一生諦めて生きていけばいいの?」

 そうだよ。「お前の言う通りだよ」「よくわかってんじゃん!」「大正解!!」そんな言葉がすぐ、夏の夜に打ち上がる花火みたいに次々盛大に、頭に浮かんでは消えた。

「違うよ」

 なのに俺は、春日に向き直って、全然別のセリフを言っていた。

 一体俺は、何を言ってるんだろう。

 バカげてる、と思う。本当に。

 でも。

 俺みたいに諦めていく人生が一番利口なんだって、人に胸を張って言えない、と思った。

 そう思うと勢いで、全然、思っても信じてもない言葉が、口をついて出た。

「諦めたりしなくて、いい。諦めなくていい。ポイントを、上げる努力をすればいい」

 告白していい。告白出来る。もっと、ポイントを上げれば。

「ポイントを上げたら」

 釣り合う人間になって、好きだって言えたらいい。

 何もしないまま「どうせ」なんて言って、諦めが全身に転移して何もかも手遅れになる前に、言えたらいい。

「好きって言える」

 そしたらきっと……何かが、変わる気がする。

「俺も成瀬心愛に告白するから。そのとき、俺たち一緒に、告白しよう」

「な、成瀬さんなの? 青木が好きなのって」

「悪いか」

「……全然釣り合ってないね」と言って春日は、何故か少し嬉しそうに笑った。

「いや、お前が言うか? それ」

「他人事だとさ。なんか、冷静になれるよね」

 こうして俺と春日は、放課後の視聴覚教室で、一緒に自分たちのポイントを上げていく約束をした。

 きっと前途多難だけど、それでもやってみようと思った。

 そしてこの出会いが、俺と彼女の高校生活の、分岐点になったのだ。