少女の魂は震えた。
彼女は想う。これは三度目の産声だ。
一度目はこの世に生を受けたとき。二度目はジミ・ヘンドリックスの演奏を初めて聴いたとき。そして三度目は、名も知らぬ彼らの演奏を聴いた、今ここで。
あぁそうだ。これだ。これこそが――。
第一章 ブービーとラップ
放課後の校内を稲葉恭一は歩いていく。運動部の掛け声が遠くから響き、校内に残った生徒の声が廊下を満たしていた。その喧騒から離れるように、渡り廊下を通っていく。
そのときだった。
旧校舎から、女子生徒が走ってくるのが見えた。旧校舎の廊下を曲がって渡り廊下に侵入し、スピードを緩めることなく走っている。スカートが翻る。制服のセーラー服が揺れる。それを気にする様子もなく、少女は走る。
ぱっちりとした大きな瞳。小さな顔。形の綺麗な鼻。艶やかな髪を頭の後ろでまとめ、ぴょこぴょこ揺らしている。長さは首に届く程度だ。制服の黒いセーラー服は少し大きめではあるものの、よく似合っていた。背はそれほど高くない。しかし、スカートから伸びる足は細く、白く、華奢な体型が不思議と色気を醸し出す。
顔立ちが整っているから覚えている。彼女はクラスが同じだったはずだ。名前は確か……、何だっただろうか。
しかし、名前などすぐにどうでもよくなった。彼女が妙なことをしていたからだ。
彼女はエレキギターを弾きながら、こっちに向かって走っていた。どこかに小型のアンプでも隠し持っているのか、ギターの音が響き渡る。走っているせいでろくな音は鳴っていないが、甲高い音が空気を震わせていた。首には大きなヘッドフォンが掛けられている。
「軽音楽部、部員募集中でーす。当方ギター、パートは何でもいいから求む」
ダウナーなテンションながらも声を張り上げ、少女はたったかたったか走っている。ギターをかき鳴らしながら。騒音は相当なものだ。怒られるんじゃないだろうか、と思って見ていたが、廊下の角から次々と人が現れるのが見えて悟った。既に怒られている。
「指定日以外の部活勧誘は禁止されています! 騒音の苦情も出ています! ただちにやめてください!」
そう声を張り上げたのは、先頭を走る小柄な女の子だった。ほかにも生徒と教師が次々と声を上げながら、ギター少女を追いかけている。ドタバタと走っていく。しかし、ギター少女は止まることなく走り続け、注意に耳を傾けることなくギターを鳴らしている。
しかし、さすがに人数が多い。あのままではいずれ捕まるだろう。
それは彼女も感じたらしい。ギター少女は後ろをちらりと振り返ると、進路を変えた。飛びつくように窓へ近付く。がらりと窓を開け放ち、豪快にもそこに足を掛けると、躊躇いもなく飛んだ。ここは二階だというのに。
だれかが「あ」と声を上げた。
髪や制服を揺らしながら飛び立ち、重力に逆らうことなく地面へ吸い込まれていく。肝が冷える光景だったが、彼女は猫のような身軽さで、すたん、と下り立った。ケガはないようだ。彼女は何事もなかったかのように、「軽音楽部、部員募集中でーす」とギターを鳴らしながら走っていった。上靴のままで。
彼女を追いかけていた教師たちは窓に齧りつきながら、呆気に取られていた。が、我に返るとすぐに廊下を走っていく。ドタバタと彼女を追いかけていく。
その集団の最後尾、ひとりの生徒が恭一に気が付いた。そして、その頭を見てぎょっとする。が、何も言わずに立ち去っていった。
彼らがいなくなると、渡り廊下には静寂が戻ってきた。その中に恭一はぽつんと佇む。
「……何だあれ。しかも、軽音楽部って」
つい、そんな独り言が漏れてしまう。おかしな奴がいたものだ。関わり合いになるのは避けるべきだろう……、と考えて、自分のことを棚上げしていることを思い出す。恭一は自嘲めいた笑みを浮かべると、再び旧校舎に向かって足を進めた。
恭一の目的地は第一音楽室。あまり使われていない、古い方の音楽室だ。旧校舎三階の一番奥。周りにだれもいないのを確認してから、恭一はその場所へ近付いていった。
軽音楽部の活動場所がそこだと聞いていたからだ。
しかし、全く音が聴こえてこないのでおかしいと思っていたが、音楽室にはだれもいなかった。外から覗いてみても、人の気配が感じられない。がらんとしていた。部屋の隅に学生鞄とギターケースが置いてあるだけだ。
あれは、さっきのギター少女の持ち物だろう。
扉に手を掛けると、抵抗なく開いた。一応、警戒しながら入っていくが、やはり中にはだれもいない。恭一は息を吐く。頭をぽりぽりと掻きながら、鞄の方へと近付いていった。
さっきのギター少女とは同じクラスだ。しかし、名前を憶えていない。今後、あの女と関わり合いにならないためにも、名前は憶えておいた方がいいだろう……、と鞄を覗き込む。そこには、しっかりとギター少女の名前が書かれていた。
『春夏秋冬ちとせ』
……読めない。
翌朝、恭一はいつも通りに登校した。自転車置き場に愛車を置き、ゆっくりと昇降口へ向かう。入学当初は慣れない自転車通学に戸惑ったが、一ヶ月も経てばさすがに馴染んでくる。
上靴に履き替えて教室へ。クラス内の人間関係もすっかり出来上がっていて、朝の挨拶を交わす生徒も多い。しかし、恭一が教室に入っていっても、だれも声を掛ける者はいなかった。目が合えば露骨に目を逸らされる。恭一は黙って、窓際の自分の席に腰かけた。
朝の教室は騒がしい。楽しそうに話しているクラスメイトを眺めていると、まるで違う世界を見ているようだ。見えない壁がある。生徒のひとりが恭一の視線に気が付いて、びくっとした様子で慌てて目を逸らした。恭一もそちらを見ないように視線を動かす。
そのとき、ひとりの女子生徒が教室へ入ってきた。
彼女は大きなあくびを隠そうともせず、のっそりと歩いている。随分と眠そうだ。背中にはギターケースを背負い、首には大きなヘッドフォンが掛けられている。ふらふらと自分の席を目指しているが、彼女も恭一と同じく、だれとも挨拶を交わしていなかった。
昨日のギター少女である。苗字は結局読み方がわからない。
彼女はギターケースを教室のロッカー近くに立てかけると、自分の席に座った。ヘッドフォンを耳に当て、机に突っ伏してしまう。寝る姿勢だ。そんな彼女を、周りのクラスメイトはどこか見ないようにしていた。やんわりとした無視。違う世界の住民と化している。
「昨日さー……」
「え、それ本当?」
周りの生徒がひそひそと話している内容が、恭一の耳に入ってくる。本人に聞こえないようにしているその話は、昨日のギター少女のことだった。ギターを鳴らしながらの勧誘についてだ。
言葉には出していないけれど、その声はバカにしている。あいつ、あんなことしてたんだよ。バカじゃない? そんな感情が含まれている。それもそうだろう。彼女の行動は、いや、彼女自体がこの学校には異質だった。
恭一たちが通っているこの立花高校は、まぁそれなりの進学校だ。そのせいだろう。ギター少女の『いかにも音楽やっています』といった様子は、受け入れられていないようだった。
とはいえ、恭一も人のことは言えない。全く言えない。
窓ガラスに映った自分の姿を見つめる。高校一年生には見えない大きく育った身体に、目つきが鋭い人相の悪い顔立ち。黙って立っているだけで怖がられる。女子になら余計だ。それに加えて、何よりその髪型がいけなかった。
髪の毛を編み込み、いくつもの束を作る独創的な髪型。ドレッドヘアと呼ばれるものだ。
背が高く、目つきが悪く、そこにドレッドヘアを付け加え、つまらなさそうに黙り込む少年。そのいかにも不良といった風貌は、当然のことながら進学校では浮いていた。ギター少女よりも酷いだろう。この一ヶ月、恭一に話しかけてきた生徒はひとりもいないという有様だ。
チャイムが鳴った。
担任の山路が「さっさと席つけー」と教室へ入ってくる。眠そうにしながら頭を掻いている山路に、「せんせー、やる気なーい」と生徒がおかしそうに声を掛けた。「うるせぃ、朝から元気なお前らがおかしいんだよ」と山路は軽口を返している。
三十路そこそこの男性教師で、生徒からは親しみを込めてヤマセンと呼ばれている。髪は短く切り揃えられていた。あまり精力的な先生ではないが、生徒からの人気はある。距離感がちょうどよいのだろう。
「それと、稲葉とヒトトセは放課後、生徒指導室に来い。必ずだ、忘れるなよ」
ホームルームを終える直前、取って付けたように山路はそう言った。恭一が自分に言っているのか、と吞み込む頃には、山路は教室を出ていっていた。教室が少しだけざわりとする。
突然の呼び出しにうんざりしたが、無視をするわけにもいかない。ため息が出た。
しかし、自分といっしょに呼び出された、何たらという生徒はだれのことなのだろう。
放課後のグラウンドは賑やかだった。遠くの方から野球部の掛け声と、ボールを打つ甲高い音が響いている。とはいえ、距離が離れているから、こちらまでボールが飛んでくることはないだろう。
グラウンドの端っこ。人が通らないために雑草がぼうぼうと生い茂り、そのせいで余計に人が近付かない。普段ならば、運動部が総出で草むしりをやらされるらしい。
突き抜けるような青空に、真っ白な雲が浮かんでいた。いい天気だった。こんなに天気のいい放課後に、こんなことになるなんて。
「はぁもう。なんで、わたしがこんなことをやらなくちゃいけないのよ」
隣で文句を言っているのは、ジャージ姿の女の子。あのギター少女だった。恭一とともに呼び出しを喰らった人物である。
「そりゃお前。あんなことやらかしたら、ペナルティくらいあんだろ」
同じくジャージ姿の恭一が、坐り込みながら口を開く。すると、ギター少女は腰に手を当てて、じろりと睨んできた。
「そんなバカみたいな頭してる奴に言われたくないわよ」
恭一は肩を竦めて何も言わない。そう。そうなのだ。ふたり揃って生徒指導室に呼び出され、担任である山路に「お前ら、何で呼び出されたか、わかってるか?」と問われたのは、このふたつが原因である。
「稲葉。その髪だよ、わかるだろ。何度もやめろって色んな先生方から注意されているだろう。なぜ切らない」
まず、ため息まじりに山路はそう言い、恭一の髪を指差した。その髪。恭一のドレッドヘアのことだ。入学してまだ一ヶ月だが、何度も髪を切るように言われている。
しかし、立花高校には『パーマ禁止』なんていう校則はない。『学生らしい節度ある容姿を保つこと』という一文はあるものの、それもあくまで主観的なものだ。恭一はそう主張する。けれど、これが綺麗さっぱり受け入れられない。さっさと切れ、の一点張りなのである。
「で、次にヒトトセ。お前にも何度か言ってるよな。部活の勧誘に熱心なのはいいことだが、やり方に問題がある。さんざん、許可なしで勧誘活動をするな、と言われているだろうが」
恭一の隣でつまらなそうに突っ立っていたギター少女に、山路の目が向く。勧誘というのは昨日のようなことを言うのだろう。確かにあれはやりすぎだ。恭一は心の中で頷いたけれど、ギター少女は納得がいかないらしい。文句を言ったが受け入れられなかった。ギター少女の話を強引に打ち切り、山路は机の上に原稿用紙を置く。
「反省文。それと、二日間の奉仕活動。今日はグラウンドの草むしりをお前らふたりにやってもらう」
山路は淡々と告げる。恭一たちは文句を言ったが、返ってきたのは大きなため息だった。
「お前ら、むしろこの程度で済んでよかったと思えよ。ただでさえ生活態度が最悪なのに、お前らふたり、実力テストの結果はどうだったんだ」
予想していないところからの攻撃に、恭一たちは一瞬怯む。実力テスト。四月に行われた実力テストの結果が、先日返ってきたばかりだった。恭一はさんざんな結果だったと言っていい。ちらりと隣を窺ってみると、ギター少女も同じように恭一のことを盗み見ていた。
ふたりが怯んだ隙を突くように、山路は言葉を重ねていく。
「稲葉が学年ドベでヒトトセがブービー賞。お前ら本当いい加減にしろよ。いくら実力テストだからって気を抜きすぎ。態度も悪すぎ。どれだけ俺がほかの先生方から嫌味を言われてると思ってる。せめて、これくらいは真面目にやってくれ」
その声には疲れの色が混じっている。本当に色々と言われてしまっているのかもしれない。そんな姿を見せられては抵抗もしづらく、仕方なくグラウンドに出てくることになったのだ。
「いいからさっさと終わらせちまおうぜ」
面倒くさそうにしているギター少女に声を掛ける。進んでやりたいことではないが、やらないわけにもいかない。
草むしりに取り掛かろうとして、自身が素手であることに気が付く。草むしりの道具は山路が用意してくれたが、鎌は恭一、ゴミ袋と軍手は彼女が持っていた。軍手を寄越すように彼女へ手を向ける。そして、彼女の名前を呼ぼうとして――、名前を憶えていないことに気が付いた。何度か山路が呼んでいたはずだが、すっかり忘れた。春夏秋冬、という漢字の並びは覚えているのだが……。
まぁいいか。恭一は適当に呼び名を記憶から引っ張り出す。
「ブービー。軍手を寄越せ」
「だれがブービーよ、ビリッケツ。わたしの名前はヒトトセ。春夏秋冬ちとせ。初見では読めないだろうけど、一回聞いたら人の名前くらい憶えなさい」
そう言いながら、彼女――ちとせは軍手をぶらぶらさせた。妙に偉そうだ。大人しく従うのも癪なので、この先もブービーと呼ぶことに決めた。
「そうは言うが、ブービー。お前、俺の名前知ってんのか」
「知らないわ。でも、そうね。そんな頭をしているから、あんたはラッパーでしょう、そうなんでしょう」
しれっと自分のことは棚に上げ、おかしなことを言いながら軍手をこちらに渡そうとするちとせ。「どちらかというと、この頭はラッパーじゃなくてレゲエじゃねぇかな……」という恭一の言葉には耳を貸さない。
しかし、ぴたりとちとせの手が止まった。動きが固まり、恭一の差し出した手をまじまじと見つめている。なんだ。なぜ軍手を渡さない。恭一は右手を揺らしながら、再び催促をする。
「何してんだ。早く軍手貸せよ」
「あ、あぁ……、はい」
躊躇っていた割に、ちとせは素直に軍手を渡してきた。その妙な行動は気になったものの、恭一は言及せずに軍手を身に着ける。
さて。
あとは片っ端から雑草を抜いていくだけだ。目の前の草を抜いて、次へ。次へ次へ。黙々と雑草を抜いていき、山を積み上げていく。ふたりの間に会話はなく、運動部の声が遠くから聞こえてくるのみ。黙って雑草を抜いていく。
雑草の山がかなり大きくなったところで、ポケットに入れていた携帯がぶるっと震えた。恭一は一度身体を起こすと、腰を伸ばしながら携帯を取り出す。メッセージが一件。
『そんなところで何してんのー?』
それだけだった。恭一が辺りを見回すと、廊下の窓から手を振っている女子生徒がいるのを見つけた。にへら、と嬉しそうに笑っている。手を挙げて返事をしておいた。メッセージの返信を打とうとすると、しゃがんだままのちとせがぎろりとこちらを睨んでいる。
「何サボってんの」
不満を顔に出しながら、立ち上がって近付いてくる。ずんずんと大股でだ。ちょっとサボっただけで怒りすぎだろ……、と思ったが、そうではないらしい。恭一を前に急にしゃがみこんだ。
「これ。今落としたわよ」
再び立ち上がると、ちとせは恭一に右手を差し出してくる。そこにはキーホルダーがついた自転車の鍵が乗っていた。どうやら、携帯を出す際にポケットから落としてしまったようだ。
「……ん? これ、カルーアのキーホルダーじゃん」
ちとせが手の中にある鍵――いや、正確にはキーホルダーか。それを見ながら、そう呟く。
カルーアというのは、マイナーなロックバンドの名前だ。メジャーデビューしたものの、それほど注目されることなく、ひっそりと活動をしているロックバンド。恭一の好きなバンドだ。そのキーホルダーはライブの物販で買ったものである。
まさか、そんなマイナーなバンドをちとせが知っているとは思わなかった。それはちとせも同じ気持ちだろう。
「あんた、カルーア好きなんだ」
「あぁ……まぁ」
言葉を濁してしまったのは、少し照れくさかったからだ。好きなバンドがかぶるとは思わなかった。しかも、こんなマイナーな。同士を見つけた喜びはあるけれど、それを素直に表に出すのには抵抗があった。
ちとせはキーホルダーを眺めながら、「わたしもこのライブ観に行ってたのよね。グッズは買わなかったけど」とまで言う。彼女もライブに行くほどのファンらしい。「いい趣味してんじゃん」と嬉しそうに笑うのだった。
「ねぇあんた、軽音楽部に入って、わたしとバンド組まない?」
「は?」
突然すぎる勧誘に面食らう。ちとせは歌うように指を振りながら、ご機嫌に話を続けた。
「楽器ができなくても、今から覚えればいいわよ。今ならどのパートに入っても問題ないし、ギターがやりたいってのなら教えてあげるわ。あ、でもボーカルはダメよ。ちゃんと楽器は弾きなさい。それで……」
「待て待て待て。何でそうなる」
このまま放っておけば、無駄に話が広がってしまいそうだ。慌てて止める。どうやら、妙な琴線に触れてしまったらしい。変にまとわりつかれても困るし、恭一はきっぱりと突き放した。
「やらねぇよ。楽器なんて触ったことないし、これから先、触る予定もない。軽音楽部にだって入るつもりはない」
しかし、恭一が強い口調で言ったにも関わらず、ちとせは柳に風だった。恭一を見上げながら、入ってもらわないと困るのよ、と飄々とした態度を崩さない。
「実は軽音楽部って部員ゼロで昨年度末に廃部になってんの。だから、わたしが一から立て直そうとしているんだけど、部員が未だにわたしひとりでね。だから、ほら。あんた、軽音楽部に入りなさい」
「知るかそんなもん。ほか当たれ」
手で追い払う仕草をすると、意外にもあっさり「カルーアが好きな奴は貴重なのになぁ」と引き下がった。鎌をぷらぷらしながら、作業へ戻っていく。どうやら本気ではなかったらしい。自分だけ気張っていたようで、脱力してしまう。ため息をつきながら、恭一も作業を再開した。
しかし、軽音楽部が廃部になっていたとは知らなかった。どうりで、音楽室へ行っても人がいないわけだ。
「突然聞くよりはマシだろうから、あらかじめ言っておいてあげるけど」
ちとせが雑草に目を向けたまま、口を開く。
「カルーア、近いうちに解散するわよ」
「……は?」
またも唐突過ぎる話に、恭一は目が点になる。そんな恭一には目もくれず、ちとせは肩を竦めながら話を進めた。
「わたしもライブに行った、って言ったでしょ。演奏を聴いたときにすぐ気付いた。音に出てた。虚しさや後ろめたさ、それとは相反する吹っ切れたような清々しさ。そんな感情が音に乗ってたのよ。前に、全く同じような音を出してたバンドを見たことあるけど、すぐに解散したわ。彼らも多分そうなる」
……こいつは何を言っているんだ。わけのわからないことを言い出したちとせに対し、恭一はおかしなものを見るような目を向ける。すると、ちとせは「あぁ」といった具合に己の耳に指を当てた。とんとんと叩く。
「音を鳴らせば本音が響く、心の声が聴こえてくる。音って正直でさ、演奏者の感情が染みこんじゃうのよね。で、わたしはその感情を読み取れる。演奏者の心の声を聴くことができる。まぁ、生音限定なんだけど」
しれっとした様子でそんなことを言い出す。……やはり、こいつは頭がおかしいのではないだろうか。そう思わざるを得ない。昨日の強行突破な勧誘を見たときにも感じたが、どうやらそれは正しい認識のようだった。中学時代、やたらと霊感があることをアピールしていた女子がいたが、それに近いものを感じる。虚言癖。相手にするだけ無駄だ。
返事もしない恭一に、ちとせは鼻を鳴らす。しかし、言葉を続けることなく、草むしりに戻っていった。
「ねぇラッパー」
「だれがラッパーだ」
「あぁ、ラッパーだと語尾が投げっぱなしでちょっと呼びづらいわね。じゃあパラッパで」
ちとせは好き勝手に話を進めていく。面倒になった恭一は「なんだ」と返事すると、彼女は首を傾げるようにしながらこちらを見上げてきた。
「この作業道具、じゃんけんで負けた方が片付けることにしない?」
彼女は手に持っている鎌をふりふり、そんなことを言ってくる。恭一はため息を返した。終わる時間はかなり先だからだ。
「気が早いことを言うのな、ブービー」
「いいから。ほら、じゃーんけーん」
右手を差し出され掛け声をかけられると、手を出さなきゃいけないような気がしてくる。仕方なく恭一も手を出した。
ちとせはグー。
恭一はパー。
自分で言い出しておいて、あっさり負けている。しかし、勝敗に対してちとせは何もリアクションを取らない。恭一の右手を見つめるだけだ。見ていても勝敗は変わらないだろうに。
動きを止めたちとせに、恭一は怪訝そうな目を向ける。そこではっとしたように顔を上げた。
「はいはい。パラッパの勝ち。わたしの負けね」
彼女は手をひらひらさせると、再び雑草に向き合った。なんだ。何がしたかったんだ。彼女は機嫌よさそうに雑草を抜いている。鼻歌まで歌っていた。何がそんなにお気に召したのかさっぱりわからない。恭一は首を傾げながら、ちとせと同じように作業へ戻っていった。
そのあとはしばらく無言で雑草を抜いた。
やがて、校舎からチャイムが聞こえてくる。一日の終わりを告げるチャイム。それを聞いて、恭一たちの動きが止まる。野球部も片付けを始めていた。
日は沈み、夕暮れがやってきている。グラウンドが夕焼けの色に染まっている。一日の終わりを感じさせる空気が、学校を満たしていた。ずっと聞こえていた部活の掛け声も小さくなり、談笑へと変わっていく。
恭一は立ち上がると、グーっと伸びをした。背骨がポキっと音を立てる。坐りっぱなしだったせいで、すっかり腰が痛くなってしまった。
ちとせも同じように伸びをしていた。いや、同じような、ではない。彼女は腰に手を当てて、思い切り腰を反らしていた。まるでブリッジをするかのよう。身体がやわらかいらしく、こちらからは顔が見えなくなっているほどだ。胸の膨らみが上を向いている。身体を伸ばしながら「あ――――……」と野太い声を上げる始末。気持ちよさそうではあるのだが。
とにもかくにも、草むしりはこれで終わりだ。山路からはチャイムが鳴るまででいい、と言われている。片付けを終えて下校だ。腕が重くなっているのを感じつつ、恭一は「今日のところはこれで終わりだな」とちとせに声を掛けた。
彼女は身体を起こすと、腰をとんとんと叩く。肩を竦めてから、軽く首を振った。
「こんなことを明日もやらなきゃいけないなんて、本当うんざりするわ」
「明日は別の作業やらせるってヤマセンが言ってたから、草むしりは今日だけだ」
「あぁそうだっけ? まぁ少なくとも、明日もあんたといっしょにいなくちゃいけないってわけね」
うんざりだわ。そんな言葉が続くと思っていたが、その先は何も繋がらなかった。その代わり、彼女は手早く軍手を外すと、「ん」と左手を差し出してくる。なんだ。何かを寄越せと言っているのだろうか。恭一は軍手を外しながら、その左手を見つめる。しかし、彼女が何を求めているかはわからなかった。
黙っていると、ちとせは予想外な言葉を恭一に向ける。
「それじゃ、明日もよろしく。パラッパ、握手しましょう」
握手。握手だと。しゃべったのは今日が初めてだが、握手を人に求めるような人物だとは思えない。それに、握手を求められるなんて初体験だ。混乱する。困惑が重なり、つい恭一は「あ、あぁ……」と恐る恐る左手を差し出した。
ちとせがすぐさま手を握る。きゅっと手を握ってくる。
小さな手から、体温が伝わってくる。指は細い。けれど長い。しなやかに伸びる指が、恭一の手を掴んでいる。女の子らしい手だ。やわらかな感触が、無骨な恭一の手を覆っていく。例外なのは指先だけだ。皮膚がすっかり硬くなっている。ギターのせいだろう。
おかしい、と気付いたのはそのすぐあとだった。
握手にどれほど時間を掛けるものなのかわからないが、「もういいだろう」と思ったところで手を引いた。しかし、ちとせの手が離れない。がっちりと掴まれたままなのだ。恭一を逃がさないように、強く力が込められている。そして、恭一の手を握ったまま、ちとせはニィっと笑ってみせた。
「そして、ようこそ。軽音楽部へ」
「あぁ……?」
「パラッパ。あんた、ドラムやっていたでしょう」
どくん、と心臓が強く鳴った。じわりと動揺が滲んでくる。こみあげてくるのは、得体の知れない漠然とした焦燥感。冷や汗まで出てきそうだ。あまりのことに言葉が出てこなかった。
なぜだ。
なぜ、バレた?
驚愕と困惑を綯い交ぜにしながら、ちとせの顔を見つめる。彼女は得意げな表情を隠そうともせず、不敵な笑みを浮かべた。
「指の付け根と指の中腹にマメの痕がある。両手ともに。ドラム特有のマメの作りね。こういうのって、残っちゃうもんよねぇ」
ちとせは手を握ったまま親指を器用に使い、恭一のマメの痕をなぞる。そこにはしっかり痕が残っていた。迂闊だった。どうりで、人の手を熱心に見ていると思ったら……。
恭一が唇を噛んだまま何も言えないでいると、ちとせは恭一の顔を指差した。
「そして何より、その反応。それで確証を得たわ。やっぱりあんた、ドラムをやってる」
……立て続けに迂闊なことをやってしまった。顔を覆いたくなる。
上達してからはマメを作ることもなくなった。これは下手だった頃の名残であり、それほどはっきり残っていたわけではない。ちとせもカマかけのつもりだったはずだ。それを過剰に反応してしまった。迂闊としか言いようがない。
「ついてるわ。捜すのが一番大変なドラムを、最初に手に入れられるなんて! 歓迎するわよ、パラッパ」
「……待て待て待て、ブービー」
当然のように引き入れようとするちとせに、別の困惑を植え付けられる。てっきり、嘘をついたことを非難されるかと思っていたのだ。それも口汚く。しかし、ちとせは嘘をついたことには言及せず、あくまでその先の話をしていた。
そのせいだろう。先ほどのようなきっぱりとした否定ができない。罪悪感が邪魔をしている。「……さっき、入るつもりはないって言っただろうか」といったような、弱々しい答えしか返せなかった。
ちとせは笑みを強める。彼女の目は爛々と輝き、その表情は期待に満ち溢れている。顔の作りがいいからだろう、そんな顔をしていれば魅力的な女の子に見える。だが、中身が伴わない。こいつはただの女の子じゃない。
やはり左手は握られたまま、恭一たちは夕日の色に染まっていく。ちとせの目はまっすぐ前を向いていた。恭一を正面から見つめ、左手を握り、そうして言うのだ。
「いいえ。あんたには軽音楽部に入ってもらうわ。必ずね」
遠くで生徒の笑い声が小さく響いていた。