プロローグ


 十年前のあの日を何度も何度も思い出す――。

 誰よりも大事な弟を失ってしまった日のことを。



「いてっ」

 鈴原伊吹は思わず声を上げてしまった。

 ちょっと油断すると、口の中の傷がずきりと痛む。

 御神木とされる桜の枝の上で、伊吹は細い足をぶらぶらさせた。その足も見事に擦り傷だらけだ。

「はあ……」

 鼻血は止まったものの、服は血だらけになってしまっていた。

 小学五年の自分が六年生三人を相手に喧嘩をして、いい勝負だったと自負している。

 だが、騒ぎを聞いた両親は激怒しているに違いない。しかも、今日八月六日は誕生日なのだ。

 親になんと言っていいかわからず、伊吹は家に帰るのを躊躇っていた。そして、鈴ノ山の中腹にある、御神木に登って一息ついている。正確には隠れている。

 伊吹の家は神社を継いでいく社家の家系だ。父が宮司をしている鈴ノ山神社はその名のとおり鈴ノ山のふもとにあり、山の神様を祀っている。

 家は神社のすぐそばにあり、そのため伊吹は幼い頃から神社や鈴ノ山を自分の庭のようにしていた。

 特にお気に入りの御神木の桜は、格好の隠れ家だった。

 石段を二百ほど上がらねばならないロケーションのため、平日はほとんど訪れる人がいないのだ。

 立派な巨木である御神木に登るとはるか遠くまで見渡せる。眼下に広がる町、その先の海――葉っぱで邪魔されるが、少し首を傾ければ富士山だって見える。

 一人風に吹かれながら、その景色を見るのが伊吹の大好きな時間だ。

 とはいえ、もう日が暮れようとしており、いつまでも木の上にいるわけにいかない。

 だが、伊吹はなかなか動き出せずにいた。

「伊吹!」

 澄み切った一陣の風のような声に、伊吹は木の下を見下ろした。

 御神木の根元にすっきりした眼差しの、双子の弟が立っていた。

「日向……」

「もう帰ろう。父さんたちには、ちゃんと説明したから。伊吹は僕たちのために戦ったんだって」

 伊吹が喧嘩をしたのは、蝉とりをしているときに後から来た上級生たちが伊吹たちを追い出そうとしたからだ。仲間の女の子が突き飛ばされて転んだのをきっかけに、伊吹は相手に殴りかかった。

 日向が笑顔で手を伸ばしてくる。

「一緒に帰ろ。もうパーティーの準備もできてるよ」

「……わかった」

 伊吹は素直に首肯すると、木を降り始めた。

 この光景を大人たちが見たとしたら、とても驚くに違いない。伊吹は強情っぱりで、なかなか説得に応じない子として知られていた。

 唯一の例外は二卵性の双子の片割れの日向だった。伊吹と日向は、外見も性格もまるで正反対だがとても仲が良かった。

「本当に双子なの? 似てないね」

 これまで伊吹と日向を見て、この台詞を言わなかった人はほぼいない。

 なんで双子なのにこんなに何もかもが違うのか、当の自分ですら不思議に思う。

 弟の日向は朝早く起きて境内の掃き掃除をし、いつも笑顔で皆に挨拶をする。成績優秀、品行方正で近隣でも有名な優等生だ。

 かたや伊吹ときたら、御神木の木登りが大好き、手伝いは何もしない、物は壊すし、頻繁に喧嘩をしては親が呼び出される問題児で、日向とは別の意味での有名人だ。

 髪は少し茶色がかっており顔は彫りが深く、それが余計に生意気に見えるらしい。

 このように、鈴ノ山神社には対照的な二人の息子がいるわけだが、どちらが跡継ぎにふさわしいかと言えば誰もが日向だと思うだろう。

 鈴ノ山神社は規模が小さく、基本的に神職として一生食べていけるのは宮司だけ。

 つまり、宮司には伊吹と日向の二人の息子がいるけれど、跡を継げるのは一人だけなのだ。

 だが、日向は神社の跡継ぎの話をされるたび、にっこり笑ってこう返す。

「僕たち二人でこの神社を守っていくつもりです」

 そのたびに、伊吹は驚いてしまう。こんな乱暴者は神社にふさわしくないのに。

 もちろん伊吹とて、神社を好きだという気持ちはある。

 ただ、跡継ぎとして品定めされ、日向と比べられるのは不愉快だった。

 伊吹は石段を軽やかに下りていく日向の背を見つめながら思いを馳せた。

 いつも引け目を感じるほど優秀な双子の弟――だが、伊吹は日向が大好きだった。

 好き勝手している自分を気に掛けて、理解してくれているのは日向だけだ。

 神社の境内に着くと、日向が笑顔で振り返ってきた。

「ケーキ楽しみだね!」

「またいつものやつ?」

「うん、『フルールフルール』のイチゴのケーキだよ」

 毎年、二人のバースデーケーキは鎌倉駅近くの『フルールフルール』というケーキ店で予約する決まりだった。

 なぜなら、日向がここのイチゴのケーキが大好きなのだ。

「プレゼント、あとで渡すね!」

「えっ」

 伊吹はまたしてもプレゼントを忘れている自分に気づいた。

 毎年、日向は伊吹にささやかな誕生日プレゼントを用意してくれる。かたや伊吹はもらってから慌てて考える始末だ。

 日向と自分との違いに、思わずため息が出てしまう。

「俺、すっかり忘れてたよ、ごめん」

「いいよ、そんなこと」

「何か用意するから……」

「そうだ、またアレやってよ。アレ!」

 日向がいたずらっぽく微笑んでくる。

「アレって?」

「花見酒!」

「ああ、アレかあ!」

 伊吹も思わず微笑んでしまう。

 去年もプレゼントを忘れていた伊吹が、春になってようやく思いついたお返しだ。

 御神木での花見酒を企画したのだ――伊吹がテレビで見て、真似したくなったのがきっかけだ。

 こっそり持ち出した朱色の杯で、早朝に二人だけで楽しんだ。残念ながら、御神酒を持ち出すのは日向に却下されたので、ミネラルウォーターになったが。

「楽しかったなあ……」

 早朝の山のなかの桜は、二人だけのものだった。

 満開の桜を見上げながら二人は水の入った杯を手に持ち、はらりはらりと落ちてくる花びらを載せようと奮闘した。薄く小さい花びらの不規則な軌道を読むのはなかなか難しく、二人は歓声を上げながら競い合った。

 そして、花びらが浮かんだ杯の中身をぐいっと大胆に飲み干す。

 中身は水だったけれど、まるで大人になったかのような気分にさせてくれた。この秘密のイベントは伊吹のなかでも楽しい思い出だった。

 そして、日向も同じように気に入ってくれていたようだ。

「おお! 今年も絶対にやろうぜ!」

 伊吹の言葉に、日向が嬉しそうに頷く。その笑顔に、先ほどまでの重苦しい気持ちは吹き飛んでいた。

 鳥居をくぐって道に出ると、もう家は目の前だ。

 玄関に入ろうとした伊吹は、自分が手ぶらであることに気づいた。

「あっ、虫かごと虫取り網を御神木のとこに忘れてきた」

「僕、代わりに取りに行ってあげるよ」

「えっ、でも……」

「いいから。早くお父さんたちのところに行ったほうがいいよ。ずっと待ってるから」

「悪ぃ! 御神木の近くに置いてあるから」

「わかった!」

 今来た道をまた引き返さなくてはならないのに、日向は嫌な顔一つせず、笑顔で走っていった。

 伊吹は観念して、両親の叱責を覚悟して家に入った。


 ――それが、日向を見た最後になってしまった。

 日向は御神木へ行くと言ったきり帰ってこず、予約したバースデーケーキにロウソクが立てられることはなかった。

 十一歳の誕生日、日向は行方不明となり、その後神隠しだと言われるようになる。



第1章 神使現る


「いててて……」

 切れた唇の端がずきりと痛み、伊吹は顔をしかめた。

 昨日の夕方、鎌倉駅前でチンピラと揉めて殴られたのだ。もちろん伊吹もちゃんと殴り返した。傍から見たら、柄の悪い若者二人の喧嘩に見えたことだろう。

 なにせ伊吹ときたら、髪は明るい栗色に染めているし派手な柄シャツを好んで着ているのだ。

「あー、俺って成長しねえな……」

 お気に入りの御神木に登り、一人風に吹かれながら伊吹はため息をつく。

 樹齢二百年とも言われているこの桜の大木は、二十歳になった伊吹の成長した体も、やすやすと受け止めてくれる。

「よっと」

 伊吹は腰掛けていた枝から飛び降りた。身軽さは子どものときから変わっていない。

 伊吹は御神木の立派な姿を見上げた。広がった太い枝に、青々とした葉がみっしりと生い茂り、緑のドームを形成している。

 両手を伸ばしても抱えきれない太い幹に注連縄がぐるりとつけられ、白い紙で作られた紙垂が垂れ下がっている。

 早朝とあって、御神木の周囲には誰もいない。

 十年たった今も伊吹の大事な隠れ家で、もっとも落ち着く場所だ。

 だが、この桜の御神木は十年前から花を咲かさなくなった。

 栄養状態などいくつか理由は考えられたが、伊吹はきっと桜も日向の不在を悲しんでいて、だから花を咲かさないのだと、密かに思っていた。

 伊吹は境内へと続く石段を下り始めた。

 木登りをしてずっと待っていても、もう伊吹を迎えに来てくれる人はいない。

 十一歳の誕生日に消えてしまった双子の弟。

 伊吹の忘れ物を御神木に取りに行って――。

 ぎりっと歯が嫌な音を立てた。伊吹は知らず知らずのうちに歯を食いしばっていた。


 ――どうして、俺は日向を行かせたんだ?

 ――日向、おまえに何があったんだ。


 何千、何万回繰り返す、自分への問いと悔い。

 どうすることもできない苛立ちが胸を焼く。

 あのとき、警察も親も親戚も近所の人も――何百人という人たちが何ヶ月もかけて必死で行方を捜した。

 もちろん御神木のある鈴ノ山も大捜索された。標高百メートルに満たない低山ゆえ隅々まで探すことができたが、日向自身どころか何の形跡も手がかりも見つけられなかった。

 目撃者もおらず、周辺の防犯カメラにも映っていない。

 日向は煙のように消え失せてしまった。

 その不可思議さと、誰からも愛されていたせいか、自然と『神隠しではないか』と言われるようになった。

 あまりにも素晴らしい子だったから、神様が惚れ込んで連れていったんだよ、と。

 そして、伊吹はそれが正しいと思っている。

 なぜなら、日向は山の神に愛されているからだ。

 伊吹だけが目撃した、あの奇跡。

 この世のものとは思えない、リ―――ンという涼やかな鈴の音が世界を一変させた。

 伊吹は初めて〝神の力〟を見た。

 あれを見たら、誰だって日向は神様が連れていったのかもしれないと思うだろう。

 だから、伊吹は願うしかない。

 神に『日向を返してください』と。

 だが、まだ神は応えてはくれない。

 石段を下りる足取りに合わせて、手首のミサンガにつけられた鈴がリンリンとリズミカルな音を立てる。

 紫と白で交互に編み上げられたミサンガを、伊吹はそっと撫でた。

「日向……おまえ、どうするんだよ。もう誕生日まで三日しかねえぞ……」

 伊吹は思わずつぶやいていた。

 これを聞いたら、日向が帰ってきてくれるのではないかというように。

 このままいくと、伊吹は一人で八月六日に二十一歳の誕生日を迎えることになる。

 鈴ノ山神社の跡継ぎにとって、二十一歳とは特別な年なのだ。

 この神社では二十一歳の誕生日に行う、神社の跡継ぎのための秘儀がある。神降ろしを行い、神と直接触れ合う儀式だ。

 その日までに帰って来なければ、日向が神社を継げなくなってしまう。

「くそっ」

 境内に着いた伊吹はいつものように、賽銭を投げ入れた。

 目の前には、朝陽に照らされた神社の静かな光景が広がっている。

 まだ仄かに夜の残滓が感じられる空のもと、拝殿がひっそりと佇んでいた。

 ここ、鈴ノ山神社は、鎌倉駅の東口から徒歩十五分ほどの場所に鎮座している。

 大町という場所で、鶴岡八幡宮や、華やかな店が連なる若宮大路、小町通りなどに比べると閑静で落ち着いた地域だ。緑も鬱蒼としており、ぽつぽつとある店もどこか懐かしい昭和の雰囲気がある。

 住宅街の中にいくつか寺や神社があり、その一つが鈴ノ山神社だ。

 赤い明神鳥居をくぐると左手に手水舎があり、木々や花々が迎えてくれる。まっすぐ石畳の参道を進むと階段があり、そこを上がるとお守りを売る社務所や拝殿が見えてくる。

 敷地はゆったりしているが、茶屋や神楽殿もなく全体的にこぢんまりしている。

 見慣れたこの光景――でも、何かが足りない。

 そう、日向がいない――。

 伊吹はいつもここに在りし日の日向を見る。

 日向は誰に言われるでもなく、毎朝早く起きては境内の掃き掃除をしていた。

「神域は綺麗に保たないとね」

 そう言って楽しそうに掃除をする日向は、まるで別世界の住人のようだった。

 伊吹は頼まれても掃除をしたことなどない。箒は振り回すためにあるものだ。

「おはよう、伊吹!」

 竹箒を手にした日向が笑顔で声をかけてくる――。

 だが、それは思い出のなかの幻影にすぎず、伊吹は無人の境内に立ち尽くす。

「帰ってこいよ、日向……」

 ああ、家に帰りたくない。

 駅前で派手に喧嘩をしたので親の耳に入っているだろうし、何より跡継ぎの儀式について聞かれるに違いないからだ。

 伊吹はとぼとぼと鳥居に向かった。



 伊吹は意を決し、玄関のドアを開けた。

「伊吹! あんた何をしていたの! 朝帰りなんて!」

 待ち構えていたように玄関に出てきた母の咲が目をつりあげて怒鳴ってくる。

 母はもともときりっとした顔立ちをしているので、怒ると般若や鬼女のように見える。着物を着て、長く伸ばした黒髪を巫女のように後ろで束ねているのでなおさらだ。

「……」

 喧嘩をして、ふて腐れてファストフード店で夜明かしして、しかも帰りづらくて御神木のところへ行った、などとくどくど説明したくない。

 足早にダイニングキッチンに向かう伊吹の後を、母がついてくる。

「あんた、また喧嘩したんですって! なんであんたはいつもそうなの?」

 この質問に対しても伊吹は無言を貫き、ダイニングテーブルの椅子に座る。

 理由なく、人を殴ったわけではない。だが、母は〝神社の息子が暴力沙汰を起こす〟ことが気に入らないだけだ。

 理由を説明したところで納得しないだろう。


 ――違うよ。ちゃんと喧嘩した理由を言ったらわかってくれるって。


 日向の言葉が蘇る。

 伊吹が喧嘩をして怒られるたびに、日向が代弁をしてくれたものだ。

 さしずめ、今回の喧嘩を見ていたならこう言うだろう。『しつこく女の子に声をかけている男を止めようとして、やむなく肩をつかんで注意した。そうしたら殴ってきたからやり返した』と。

 だが日向はおらず、伊吹の真意など誰も頓着しないし興味もない。

「本当にあんたは攻撃的なんだから。もっと自分をコントロールできないの?」

 お決まりの愚痴と説教に、伊吹はうんざりした様子を隠しもしなかった。

「あのさあ、俺腹が減ってるんだ。それにもう六時だろ? 朝ごはんの用意いいの?」

 開き直った様子の伊吹に、母の目がさらにつりあがる。

 神職の朝は早い。父は七時には神社に向かう。それまでに朝食や準備を終えなくてはならない。

「お父さんにちゃんと言ってもらわないとね。あんたには神社の跡継ぎとしての自覚がない!」

「俺は継がないって言ってるだろ!」

 伊吹は両手を思い切りテーブルに叩きつけた。

 ガン!と激しい音がし、母が驚いて口をつぐむ。

 跡継ぎの話を持ち出され、予想はしていたものの荒ぶる気持ちを抑えられなかった。

「跡を継ぐのは日向だ!」

 母の顔が強ばり、そして深いため息がもれた。

「……あんたって子はもう、お父さんから儀式の話があるから……」

 そう言うと、母は背を向けてキッチンカウンターの中に入る。

 伊吹は自分が闘牛の牛のような荒い呼吸をしていることに気づいた。想像以上に興奮している自分がいる。

 ずっと避けてきたこの話題に決着をつけるときが来たのだ。

 誰が鈴ノ山神社の跡を継ぐのか、ということを。

 伊吹はぐっと喉の奥に固いものを詰め込まれた気分になった。

「おはよう」

 もう既に白衣と袴に着替えた父の陽成が、新聞を手にダイニングに入ってきた。

 白髪混じりの灰色の髪の毛は年の割に豊かで、後ろに撫でつけている。もうすぐ五十歳になるはずだが、多少しわが増えたくらいであまり昔から変わらない。

 にこりともしない固く引き結んだ唇から、その頑固さが伝わってくる。

 真面目なのが取り柄の、融通のきかないタイプ。ルーチンワークは丁寧にこなすが、新しい試みや挑戦には興味がない保守的な人間。

 外見だけでなく、中身も自分と似通ったところがないといつも思う。

「ほら、お父さん。伊吹に言ってやって!」

 味噌汁を椀によそいながら、母が喚いてくる。

「まあ、待ちなさい。まずはごはんをいただくよ」

 穏やかに言う父に、伊吹は気が引き締まるのを感じた。

 ――やっぱり今日、決着をつけるつもりだ。跡継ぎのことを。

 父にたしなめられた母は不満げに、だが口には出さずてきぱき配膳を始めた。

 母は主婦業をメインにしつつ、神社の経理などの事務を手伝っている。もともと神社が好きだという母は思い入れが深く、昔から躾けに厳しかった。

 こんな生真面目を絵に描いたような夫婦から、どうして自分みたいな子どもが生まれたのか本当に謎だ。

 きっちり身だしなみを整えた、神職の装束の父。

 向かいに座っているのは、髪の毛を明るい栗色に染め、派手なクジャクの羽柄のシャツを着たチンピラ風の若者。

 顔立ちも全然似ていないし、何も知らない人が見れば、親子だとは思うまい。

 目の前には湯気のたっているお味噌汁とご飯、サラダと焼き魚が置かれている。


 ――ほら、伊吹。『いただきます』って言わないと!


 耳元で日向の声が蘇った。日向はいなくなるあの日まで、いつも隣でごはんを食べていた。

「いただきます……」

 孤独感を噛みしめながら、伊吹は手を合わせて箸を取った。

 行儀作法に関しては厳しく育てられたと思う。ただ、伊吹はろくに言うことを聞かず、しょっちゅう怒られていた。

 そんなとき、いつも優しくたしなめてくれたのは日向だった。

「……」

 伊吹は黙々と味噌汁に口をつける父を見た。

 もとから寡黙だったが、近年さらに拍車がかかった気がする。

 昔から、親といるのは居心地が悪かった。

 それが最大に悪化したのは、高校二年生の進路相談のときだ。

 親は当然のごとく、伊吹に神社の跡継ぎとしてのルートを勧めてきた。

 日向がいなくなり、宮司の息子は伊吹一人になったからだ。

 親戚連中はあからさまに不満たらたらだったが、直系のみができる神降ろしの儀式のこともあり、最終的にはしぶしぶ認めた。

 だが、伊吹は國學院大學への進学を拒否した。

 神職になるには資格がいる。資格取得には何通りかの方法があるが、主流なのが神道を学べて単位が取れる大学への進学だ。つまり、東京にある國學院大學か、三重にある皇学院大学のどちらかを選ぶことになる。

 伊吹は鎌倉住みなので、当然近いほうの東京の國學院大學となる。

 だが、伊吹は『跡継ぎは日向だから』と言い張って進学しなかった。

 ぬか漬けのキュウリを噛むと、口の中の傷がずきりと痛んだ。

 伊吹は顔をしかめると同時に、愕然とした母の顔を思い出した。


 ――あんた、神社を継がないつもりなの!?


 あのときの母の顔が忘れられない。

 驚きと絶望と悲哀の混じり合った顔――そう、親はとっくに諦めていたのだ。日向が帰ってくることを。

 神社を継ぐ宮司になれるのは一人。だから父の弟の真晴叔父のように会社員にでもなって、日向の補佐をする。

 伊吹は昔からそう決めていた。

 神職の資格が必要なら、社会人になってから所定の講習を受ければいい。

 親や親戚に宥められても諭されても、伊吹は頑として揺るがなかった。

 伊吹の決意が固いと知ると、親は黙った。

 さすがに思っていても言えなかったのだろう。

 もう日向は帰ってこないのだからおまえしかいない、とは。

 伊吹は周囲の冷ややかな視線を浴びながら、東京の私大の法学部に進学した。

 卒業したら就職して、日向が帰ってきたら補佐をするという未来を思い描いていたからだ。

 だが、伊吹の計画は今や頓挫しようとしていた。


 ――伊吹、『ごちそうさま』って言わないと、外に出してもらえないよ?

 ――食器はちゃんと下げて。


 また日向の声が蘇る。親の言うことには反発する伊吹も、心底自分を案じてくれる弟の言葉には弱かった。

「……ごちそうさまでした」

 朝食を綺麗に食べ終えると、伊吹は手を合わせた。

 さっと立ち上がって逃げようとした伊吹だったが、そうは問屋がおろさなかった。

「待ちなさい、伊吹。話がある」

 父のずしりとした重みのある声に、伊吹は腰を上げることができなかった。

「あと三日で二十一歳だな」

 静かな一言だったが、伊吹は矢で胸を貫かれたような気分になった。

 二十一歳の誕生日――それは鈴ノ山神社にとって特別な日だ。

 直系の跡継ぎのみが受け継ぐ、秘儀『神降ろしの儀』がある。

 山の神様との約束を繋いでいく儀式で、これを知っているのは親族と氏子総代という限られた人のみ。

 鈴原のご先祖は二十一歳のときに山の中で神と出会い、先祖を気に入った神は神社を創建するよう言ったという。さすればこの地と人々を見守ると約束してくれた。

 だが、代替わりする人間と神を繋げる必要があった。跡継ぎは必ず二十一歳になると、夜の拝殿でたった一人で神降ろしの儀式をする。

 神と直接一対一で触れ合い、これからも長く付き合っていく約束を交わす。

 これが、鈴ノ山神社の最も重要な神事となる。

 鈴原家はただ単に社家というだけではなく、この神との約束を連綿と繋いでいる家系なのだ。神社が創設されて約百五十年の間、途切れたことはないという。

 今、直系の子どもは伊吹の他に、叔父の娘が二人いるだけだ。

 女子でも神職になれないことはないが、当の二人には神社を継ぐ意志はまったくなく、またこれまで、女子が継いだことはない。

 だから、日向がいない今、仕方なく自分が跡継ぎとして指名されている。

 力不足、適性がない、と不満を言われながら。

「そろそろ心は決まったか?」

「……」

 父の言葉が胸をえぐった。

 親はもうとっくに日向のことを諦めている。

 でも――俺は諦めるわけにはいかないのだ。

 伊吹はぐっと拳を握りしめた。

「俺はやらない! 跡継ぎは日向だ!」

 しん、と食卓が静まり返った。

「あんた……何言ってるのよ。直系の男子はあんたしかいないのよ?」

 静観できなかったのか、母が苛立ったように口を挟んできた。

「俺しかいない? だから不本意だけど跡継ぎにしようってことだろ?」

 母がぐっと詰まる。そして、悲しげに顔を覆った。

「なんであんたはいつもそうひねくれてるの? 周りを困らせて、全然神社の子の自覚がなくて……髪もそんなふうに染めてるし、変なシャツを着て……。神社の仕事も全然手伝わないし、日向はあんなにちゃんとしてたのに……」

 長年聞き慣れた母の愚痴という体裁の呪いの言葉。

 ――日向はちゃんとしているのに、なんであんたはできないの?

 つまり、こう思っているんだろ?

 いなくなったのが日向じゃなくて俺だったらよかったのにって――。

「出来が悪いほうが残って悪かったな……」

 自分の声とは思えない、暗いひきつるような声が漏れた。

「だから、あんたはなんでいつまでも子どもみたいなことばかり!!」

 声を震わせた母を、父が手で制した。

「伊吹、神社を継ぐのはどうしても嫌か?」

 静かな、それでいて重みのある声だった。

 熱くなった頭が、冷水を浴びたかのように冷えていく。

「嫌じゃない。だけど日向が神社を継いで、俺はその補佐をするって決めてるんだ」

 日向の夢。ずっと願っていた思い。

 それを俺が奪っていいわけがない。

「伊吹……」

「日向は帰ってくる!!」

 叫んだあと、薄ら寒いものが襲ってきた。


 ――なあ、本当に日向が帰ってくるとおまえは思っているのか?


 胸の裡のおぞましい声に、伊吹はぶるっと体を震わせた。

 絶望が胸を真っ黒に塗りつぶす前に、伊吹は荒々しく席を立った。

 そのまま階段を駆け上がって二階に行く。

 二階にある十畳の和室が伊吹の部屋だ。正確には、伊吹と日向の部屋だった。今もまだ、日向の学習机や衣類などもそのままだ。

「くそっ……」

 伊吹は乱暴に拳で壁を殴った。じん、とした痛みに少し気が紛れる。

 親を苦しめている自覚はある。

 自分さえ素直に神社を継ぐといえば、すべて丸く収まるのはわかっている。

 でも、どうしてもそれでよしとは思えなかった。

 失踪当初、両親はもちろん日向の生存を疑わなかった。

 何ヶ月捜索しても塵一つ見つからなくても、それでも日向が帰ってくると信じていたと思う。

 大きな転機が訪れたのは、日向が行方不明になって半年たったときだった。

 近所で一人の男が逮捕されたのだ。

 その二十代の男は小学生の男の子ばかりを狙っていたずらをしていた。

 挙げ句に家に連れ込んだ少年を殺し捕まった。

 被害者の性別や年齢が日向と合致していたので、きっと日向もその男の被害者になったのでは、と誰もがそう思った。

 だが、その男は日向のことを知ってはいたものの――ターゲットとして物色していたらしい――監禁も殺しもしていないと供述した。

 そして事実、男の部屋から日向の痕跡やDNAは見つからなかった。

 結局、すべてが空振りで得るものは何もなかった。行方不明の我が子がようやく見つかるかと期待し、そしてそれが遺体かもしれないと覚悟していた親の落胆ぶりは凄まじかった。

 そして、日向失踪の謎だけが残った。

 親の心はそこで折れたのだと思う。今でも奇跡が起きるかもしれないとは思っているのだろうが、もう二度と会えない覚悟もしているだろう。

 何度か繰り返された山の捜索も打ち切られ、『尋ね人』のポスターは色褪せた。

 周囲が諦め、だんだん日向のことを口にしなくなっていくなか、伊吹だけはずっと信じていた。

 日向は帰ってくるはずだ。絶対――。

 でも、時折心が揺らぐ。

 俺は自分の罪を消したくて、日向の生存を信じているのかもしれない。

 そんなふうに自虐するときもあった。そして、自ら否定する。

 伊吹には、日向がいなくなってしまったということがどうしても信じられなかった。

 この世界のどこかにまだ、日向がいると感じるのだ。

 盲信なのかもしれない。でも、二卵性とはいえ一緒に生まれ育った双子としての勘がそう告げるのだ。

「あー、暑いな……」

 昨日から着たままの汗まみれの服を着替えようとしたとき、伊吹は忘れ物に気づいた。

「しまった!!」

 御神木のところへ、財布とスマホを置いてきてしまった。木に登るときに邪魔だったのでポケットから取り出したのだ。

 ――ああ、俺は本当に十年前から変わらないな……。

 伊吹は苦笑するしかなかった。

 汗で湿ったシャツを脱ぎ捨て、リーフ柄のシャツを羽織る。襟付きの半袖シャツで、シダの葉っぱ柄が全面にプリントされている。

 伊吹は二階の窓を開けた。

 玄関から出たらまた親に何か言われそうなので、ここから出ることにする。こういうときのために、靴を部屋に置いてあるのだ。

 伊吹は平らな屋根にそっと下りると、屋根に手をかけて地面に着地する。

 木登り慣れしている伊吹にとっては造作もないことだ。

 鳥居をくぐり、無人の参道を進んでいく。

 蝉時雨を浴びながら、早朝の澄んだ空気のなかを歩くのは気持ちがいい。

 この神社は嫌いじゃない――でも、跡を継ぐ決心がつかない。

 伊吹は拝殿の賽銭箱に賽銭を投げ込むと、拝殿の脇にある石段を上り始めた。

 石段は人が二人並んで通れる幅はあるものの、伸びた雑草が行く手を阻むように覆い被さってきて鬱陶しい。

 およそ二百段を上り切ると、広場のような平らな場所に出る。

 御神木は先ほどと変わらぬどっしりとした佇まいで伊吹を迎えてくれた。

 伊吹はさっそく根本に置いた財布とスマホを回収した。

 ふっと辺りを見回してみたが、もちろん誰もいない。

「なあ、どこにいるんだよ日向……」

 御神木に行くと言って帰ってこなかった弟。

「帰ってきてくれよ……」

 おまえが死んだなんて信じていない。どこかにいるんだろう?

 俺はここにいて、鈴のついたミサンガをつけている。おまえが十年前の誕生日に用意してくれていたプレゼントだ。手作りなんだってな。

 もう俺は大人になってしまったけど、これを見たら俺だとわかるだろう?

 頼むから――頼むから帰ってきてくれ。跡継ぎの儀式が三日後に迫っているんだ。

 もう時間がない――焦燥感がじりじりと胸を焼いていく。

 伊吹は膝をついた。

 日向が帰ってくるならば、なんだってやってやる!!

 そんな捨て鉢な気分だった。

 伊吹は汚れるのも構わず、頭を地面にこすりつけた。

「神様お願いします! 日向を帰してください!」

 風が髪をふわりと揺らせていく。伊吹ははっと顔を上げた。

 だが、そこには御神木が頼もしい姿でそびえ立つだけで、先ほどと変わりない光景が広がっている。

「やっぱり、ダメなのかよ……」

 口の中に苦いものが広がる。

 伊吹は絶望を噛みしめるしかなかった。

「くそっ!」

 無駄だったのか。

 十年間、日向の生還を願い続けたけれど、所詮神などいないのか。

 ならば、神降ろしの儀式など無意味ではないか。

 焦りと苛立ちが激しい炎のように燃えさかり、伊吹は立ち上がると叫んだ。

「何が神降ろしだ! 神が本当にいるって言うんなら、弟を連れてこいよ! 神なんだからできるだろう? それくらいのことは!!」

 伊吹は体当たりするかのように、思い切り御神木に両の拳を叩きつけた。

「なあ! 頼むから!」

 子どもが駄々をこねるかのように、何度も何度も拳を叩きつける。血が滲んできても、鈍い痛みが脳を貫いても、伊吹は手を止めなかった。

 バチ当たり――その思いが脳裏をかすめる。

 だが、止められなかった。

 もともと、我慢するなど大の苦手なのだ。


 リ――――――――ン。


 風とともに澄んだ鈴の音が辺りに響いた。

 たまに鈴のような音が山からするため、この山は『鈴ノ山』と名付けられたという。

 そして、鈴の音は神が山におわす証し。

 だが、これほどくっきりと響く鈴の音を聞くのは二回目だ。

 ――これはあの日の奇跡と同じ状況……。

 伊吹は遠い日の記憶を思い出していた。

 初めて〝神〟という存在を感じたあの奇跡を。

 確かにあのとき、神の風が吹いて日向を助けたのだ――。

 ガサッと草むらから音がし、伊吹ははっと振り返った。

 葉の生い茂った緑色の灌木が揺れ――そこに白いものが見えた。

「犬!?」

 思ったよりもずっと大型の真っ白い犬が、のっそりと姿を現した。

 狼かと見まごうほど体高が高く大きい。

 首回りの被毛はたてがみのように豊かで、精悍な顔つきをしている。

 白い犬が力強い足取りで草をかきわけてきたので、伊吹は思わず後ずさった。

 野犬にしては、あまりに洗練された姿だ。野にいる獣とは明らかに一線を画している。美しいどころか神々しいほどだ。

「まさか、神使の山犬なのか……?」

 この山の神の遣いは、〝白い山犬〟とされている。これほど神秘的な犬など見たことがないし、偶然とは思えない。

 きっと、俺の願いを聞き届けた神が遣わしてくれたんだ。

 とすると――。

 心臓が大きく脈打つのがわかる。

 山犬に導かれて、出てくるのは――。

 伊吹の胸は期待に膨らんだ。


 リ――――――――ン。


 再び、玲瓏な鈴の音が辺りに鳴り響いた。

 ふっといきなり山犬の姿がかき消えた。まるで霧が晴れたかのような唐突さだった。

 代わりにその場所に立っていたのは、すらりとした美貌の青年だった。

 艶やかな癖のない黒髪、恐ろしく整った白い顔。

 白衣白袴を着たその立ち姿は、厳かで清廉そのものだった。

 そして、紫色の紐でくくった鈴を帯につけている。美しい紫色の紐で結ばれた鈴は、なぜか揺れても音が鳴らなかった。

「……!!」


 ――日向じゃない。


 伊吹は落胆で膝をつきそうになった。

 いくら凝視しても、青年は残念ながら日向とはまるで似ていなかった。

 いや、誰とも似ていないのか。

 見れば見るほど、恐ろしく整った端整な顔立ちだ。完璧な左右対称で――人の顔は左右で少し違うものだが――、気味が悪いくらい造作が整っている。

 人の姿をしているが、どこか人間離れしていた。

「おまえ誰だ……?」

 てっきり日向が出てくると思っていた伊吹は戸惑い、声がかすれた。

 白衣白袴姿の青年はにこりと笑った。

 柔和な、でもどこか楽しげな笑みだ。

「初めまして、伊吹。僕は〝神様の跡継ぎ〟だよ」

「……は?」

 想像だにしない返答に、声が裏返る。

「神様の跡継ぎ、ってなんだよ? おまえ何者だ?」

 怪しい奴――伊吹は警戒してすぐに動けるよう軽く足を開いた。

 伊達に喧嘩慣れしているわけじゃない。自慢にはならないが。

「何者って言われても……」

 困ったように白衣白袴姿の青年が微笑む。

 そのあまりの邪気のなさに、警戒心が若干緩んだ。

 明らかにこちらが戦闘態勢だというのに、まったく気負う様子がない。

「きみのご先祖と約束してこの山におわす神様が、そろそろ世代交代なんだよ」

「は?」

「きみたちもそうだろ? 神社はきみが跡を継ぐんだろ?」

「違う!!」

 伊吹は慌てて否定した。こいつの話はわけがわからないが、俺は跡を継がない。

 すると、青年は困ったように眉を寄せた。

「えー、僕はそう聞いてるんだけど。ま、いいや。僕も神様を継ぐための修業が必要ってことで、実地研修に行ってこいって言われたんだ」

「実地研修?」

 神様というスピリチュアルな存在だと言い張るわりに、えらくリアルなことを言い出したぞこいつ。

 伊吹の不信感に気づいた様子もなく、青年が朗々とした声で語る。

「そう。僕はこの神社や社家、そして何より跡継ぎのことを知り、心を通わせなくてはいけない。そして、神様らしく人助けをしてこいと言われた」

「おまえ、頭大丈夫か?」

 そう言いつつ、伊吹は微笑んでいる青年に目を奪われていた。

 彼は明らかに異質だった。人というより、山の奥深くにある澄んだ泉を見ているような気分になる。人にしてはあまりにも汚れがなく、神秘的すぎた。

「ん? もしや疑ってる? 僕が本物かどうか?」

 ようやくそのことに思い至ったように、青年が尋ねてくる。

「当たり前だろうが!」

「じゃあ、はい」

 すっと手が差し出される。

 細く白い手は、顔と同じく陶器のように滑らかで人間離れした美しさだ。

「なんだよ」

「触ってみて」

「気持ち悪い奴だな!!」

 拒否した伊吹は次の瞬間、息を呑んだ。

 青年の目がまっすぐ自分を貫く。その静かな気迫に伊吹は固まった。

「触るんだ、伊吹」

 青年は突如、伊吹が思わず後ずさりしたくなるほどの威圧感をまとわせた。

「……っ」

 一瞬怯んだが、伊吹も負けん気は強い。ここで引くわけにはいかない。

 思い切って手を伸ばし、触ろうとした指は何にも当たらず空を切った。

「えっ!」

 手が手をさっと通り抜ける。

 青年はしてやったりと嬉しそうに微笑んだ。

「はい、このとおりこの体は本物じゃない。神様からもらった、かりそめの姿なんだよ」

「……幽霊?」

「じゃなくて、神様の跡継ぎだってば」

 謎の青年がにっこり笑う。

「僕の実地研修はきみの二十一歳の儀式の日までなんだ。それまで僕は、神社の跡継ぎであるきみの相棒だ。よろしく」

「はあ? 神社を継ぐのは日向だ」

 勝手にまくし立てられ、伊吹は当然のように断った。そもそも面倒ごとに巻き込まれたくない。

「……日向って誰?」

 青年がきょとんとした表情で尋ねてくる。

「十年前、御神木のところへ行くと言って帰ってこなかった俺の双子の弟だ。それからずっと行方不明で手がかりすらない」

 そうだ、こいつがもし本当に神様の跡継ぎなんだとしたら、何か知っているかもしれない。

「俺は日向を取り戻したい。あいつは絶対神隠しにあっているはずなんだ。神に愛されているし、これだけ探して何の手がかりもないなんておかしいだろ」

「そうなの? なんで神様に愛されてるってわかるの?」

 青年が腑に落ちないと言いたげに首を傾げる。

「……一度だけ、あいつを御神木の木登りに誘ったことがあるんだ」

「きみ、御神木で木登りしてるの? 不謹慎だね」

 青年がすかさずたしなめてくる。

「うるさいな、そこは今問題じゃないんだよ! それでだな、日向は真面目な奴だったから嫌がったけど、俺がしつこく頼んだら登ってきてくれた……」

 我ながら本当に自分勝手で我が儘だと呆れてしまう。

 でも日向は、俺の願いを聞いてくれた――。楽しみを共有したいと思う俺を慮ってくれたのだ。

「でも、日向は慣れない木登りで、バランスを崩して落ちた」

 今でもあのときのことは鮮やかに思い出せる。

 すべてがスローモーションに見えた。

 空中に投げ出された日向の体。恐怖に見開かれたその黒い目。


 リ――――――ン!


 鈴の音が鋭く辺りに鳴り響いたと同時に、強い風が吹いた。

 地面に叩きつけられるはずの日向の体はふっと宙に止まり、そっと地面に置かれた。

 伊吹は目にしたものが信じられず、しばし固まってしまった。

 起き上がった日向の驚きの目を見て、ようやく現実だと認識した。日向に怪我はまったくなかった。

「へえ、そんなことがあったんだね」

「俺しか見てないけど、あれは山の神様が助けてくれたんだと思う。だって鈴の音が鳴り響いて奇跡が起きたんだ。間違いない」

 あの風は神の風だ。神意の現れだ。

「……」

 青年はうっすら微笑んで答えない。

「あんなことは二度と起きなかった。俺も御神木から落ちたことがあったけど、神様に助けてもらうことなく普通に地面に落ちたし。やっぱり日向は特別なんだ」

「ふうん。なるほどねー。神隠しか……」

 

 青年はしばし考え込むと微笑んだ。

「日向のこと、そんなに知りたいなら神様に聞いてあげようか?」

「本当か?」

 思わぬチャンスに伊吹は声を上げた。

「うん。まあとにかく、僕は研修中だし、神と会えるのは神降ろしの儀式のときだけだから、それまでは待つしかないね」

「……わかったよ」

 今すぐ聞いてほしいところだが、神様側にも事情があるらしい。

 すると青年がニヤリと笑った。

「もちろん、条件付きだよ。きみが僕の実地研修に付き合ってくれたらね」

「はあ? なんで俺が」

「タダで神様のお言葉をもらうつもり? 甘いなー」

 青年が思わせぶりに人差し指をチッチッと振る。

 こ、こいつ――!

 伊吹は一瞬にして沸点に達した。

「おまえ、本当に神様になるのか? へらへらしやがって! なんだその気取った仕草は!!」

 青年がふうっとため息をつくと、伊吹の肩にポンと手を置いた。さっきはすり抜けたくせに、必要とあらばちゃんと圧をかけられるらしい。

「伊吹、いろんな神様がいるんだよ。日本の神様の多様性を語ろうか?」

「いらねえよ!!」

「じゃあ、交渉成立ってことで! よろしく相棒!」

「誰が相棒だよ!!」

 まったくもう。

 でも、明明後日には日向の行方が知れるかもしれない。そして、神隠しなら交渉次第では帰ってくる可能性もある。

 なんといっても、直接神様に聞けるのだから。

 伊吹の胸に期待が満ちていく。

「ところで、おまえさー」

 伊吹は呼びかけようとして、青年の名を聞いていないことに気づいた。

「おまえ、名前は?」

 青年がきょとんとする。

「名前? そんなのないけど。だって神様の名前を継ぐし」

「へえ、そっか。えーと、じゃあ神さ……」

 伊吹は言いかけて、口をつぐんだ。

 脳天気にニコニコ笑っている神様の跡継ぎを見ていると、苛立ちがこみ上げてきた。

 こいつに敬称の『様』は死んでもつけたくない。

「じゃあ、神か……それもなんかむかつくな。まだ〝神〟じゃないしな」

 だが、呼び名がないと不便だ。

「うーん、シンはどうだ?」

「シン?」

「ああ。〝神〟の音読み」

 伊吹にとっては最大譲歩といってもいい。暫定的にとりあえず、〝神〟らしきものとは認めてやる。

 シンはにっこり微笑んだ。

「いいね。響きもとてもいい」

 十年間弟の帰りを願い続け、ようやくその祈りが神に届いたかと思ったのに。

 神が遣わしたのは日向ではなく、神様の跡継ぎと名乗る美しくも怪しい青年だった。