十一月の終わり、新しいノートを下ろした。

 花柚さんにならって始めた「お弁当練習帖」は、すでに五冊目。

 レシピを書き写したり、作るときのコツを書きとめたり。メニュー案を書きだしたり、食材の保存法をメモしたり。

 ふつうのものより一回り小さいA5サイズのノートは、書きこんでいるうちにちょっぴりふくらんで、厚みを持つようになった。

 記録を残すようになったのは、それが花柚さんから料理を教わる条件のひとつだったからだ。

「これはわたしの先生の教え。何かをなし遂げようと思うなら、記録をつけることよ。途中で投げ出したくなっても、記録を見返せば、『これだけ頑張ってきたんだから』って自信も持てるし、頑張ってきた自分を裏切るのがもったいないと思えるの」

 そう彼女が言ったように、たった半年だけどノートを見返すと感慨深い。

 SNSへ写真を投稿するだけだった料理の記録が、ノートへの記録に切り替わったのは五月の半ば。

 ノートを使うようになったきっかけは、「失恋した花柚さんを慰める会」のメニュー案だったんだなあ、とか。

 六月から花柚さんのノートの内容を自分のノートに書き写すようになっていて、このころから料理の道に進むことを考え始めたんだなあ、とか。

 自分の軌跡は意外な発見をもたらしてくれる。


 五冊めのノートを下ろした翌日。

 夕方に大学から店に戻ってノートを開くと、自分のものではない筆跡で書き込みがあった。



■もしものときの黄金メニュー 案①

 ・野菜の肉巻き……にんじん+別の色の野菜赤+α

(いんげん、アスパラ、長芋、ごぼうなど)

☆薄切り肉に塩胡椒を振ったあと、水溶き片栗粉を塗ってから巻くと焼いたり切ったりしても形がくずれない

 ・かにかま入りの卵焼き黄・赤・白

 ・ほうれん草のおひたし茶・緑

☆かつおぶしをかけて水分が外へ出るのを防ぐ

 ・ひじきと大豆の煮物……前日に作っておける白・黒

☆大豆は前日朝から水につけておく

 忘れたときは、砂糖を入れたぬるま湯につけると戻りが早い

 ・ごはん+白ごま+梅干し白・赤

  肉巻きは1~3人分作るときはいいけれど、ひとりでお店の分全部を作るとなると時間がかかって大変かも?(特に朝) 美津くんがお手伝いしてくれるとき限定ね。

  ほうれん草は、ゆでる前に根元を水につけて、水を吸わせることを忘れずに! しゃきっとしておいしくなるし、水の通り道を作っておくことで火の通りが早くなります。


 花印のついたコメントは花柚さんのもの。

 ブルーブラックのインクで書かれたその文字は優しげで、彼女の人柄を表している。

 かつて師匠の藤沢先生が彼女にそうしてくれたように、彼女もまた、弟子であるぼくのノートにコメントを入れてくれるようになったのだった。


 十二月に入ると、もう言い逃れしようがないほど「冬」である。

 朝起きるのがつらい時期になってきた。

 エアコンのタイマーをセットし忘れた日は、部屋の空気もしんと冷え切って、ふとんから出るのに勇気が必要になる。

 朝五時。外はまだ真っ暗。

 夜明け前の街で外灯が白々と光り、東の空にも朝日の気配はまだ見えない。

 肌を刺す外気の中、自転車を走らせて店に着くのが五時半。

「もうすっかり冬ね」

 まだ暖まりきらない厨房で、花柚さんが手をすり合わせる。

 今日の彼女はポップなみかん柄の着物を着ていた。クリーム色の地に、版画みたいなタッチの丸いみかんが躍っている。

 彼女は寒いのが苦手らしい。最近、朝はいつも着物の上に半纏を着て、石油ストーブの前に張りつくようにしている。

 冬でも汗をかくほど暑い厨房だけど、それは料理を始めてからの話。朝来たときには凍えるほどに冷え込んでいるのだ。

「彗くん、冬のいいところを言いましょう」

 おごそかな口調で、花柚さんが言いだした。

「わたしからいくわね。まずはひとつめ。お弁当が傷みにくい」

 手を洗い、米櫃からお米を出しながら、ぼくは答えた。

「えーっと……スキーとスケートができる?」

「こたつが幸せ」

 三升分の米を三十分ほど水につけて、吸水させる。

 手が冷たいので洗うときにはお湯を使いたいところだけど、ここは冷たい水を使うのがベスト。お湯を使うとお米の甘みが流れ出てしまうし、米糠が米にこびりついて糠くさくなってしまう。

 吸水させるときには、ちょっとだけお湯を足した水を使う。水が冷たすぎるとお米がなかなか水を吸ってくれないからだ。

「クリスマスがある」

 ぼくが言い、花柚さんが鍋をコンロにかけながら続ける。

「おせちを作るのが楽しい」

「あったかいものがうれしい」

「新年は新しい気分」

 陶器のお櫃を冷蔵庫から取り出し、レンジにかける。

 温めなおしたそれを軽くほぐし、濡らした手に塩をはたいた。

〝にぎるっていうより、空気といっしょに結ぶように〟

 花柚さんのアドバイスを思い出して、ふわっときゅっと。

 おむすびは固く握るとおいしくなくなってしまうので、三回だけ「結ぶ」。

 単純なようでいて力加減が難しく、なかなか花柚さんのようにはできない。

「半熟卵もお弁当に入れられる」

「ふとんに入ったときが幸せ」

「雪輪の着物が可愛い」

 作業台にスープを並べ、花柚さんがふうっと肩で息をした。

「冬にもいいところがあるわよね」

 自分に言い聞かせているのだろう。それくらい寒いのが嫌なのだ。

「いただきます」

 ふたり、席について手を合わせ、箸を取る。

 ふだんはお客さんのピークが過ぎた八時くらいに朝食をとるけれど、冬場は朝五時半にまずスープと主食を少しだけ食べる。

 体を温めないとお弁当の準備もままならない、というのがその理由だ。

 白ねぎと大根、鶏肉のスープは、中華だしでシンプルに。

 熱々のスープは、口から喉、喉から胃へ通っていくのがわかるほどに温かい。

 最初に香ばしく焼きつけておいた白ねぎは、甘く、舌の上でとろけるよう。大根は鶏の旨みをたっぷり含み、舌の上で柔らかくくずれる。

 おむすびは、やっぱりまだ花柚さんのようにはできない。

 彼女のおむすびは丸みをおびた三角形。しっかりまとまっているのに口に入れるとはらりとほどける絶妙の力加減。最初に感じられるのは、表面にまぶした天然塩の旨み。噛んでいるうちに、お米の甘みが顔を出す。

 ぼくのおむすびは、がちっとしすぎている。

 それでも、食べるとぽかぽかと内側から体が温かくなってくるのがわかる。カロリーを「熱量」と言うのも納得の効果だ。

 スープを飲んでいた花柚さんの背中も、しゃっきりと伸びてくる。

「ごちそうさまでした」

「ごちそうさまでした。寒いけど、今日も頑張りましょう」

「今日はビビンバ風のそぼろ弁当ですね」

「ええ。あと十五分で、彗くんは鶏そぼろの下準備と大根のすりおろしをお願いね。その後は、ごはんを炊いて、いつもどおりに。わたしはいんげんをゆでたら炒り卵を作って、大根餅に取りかかるわ」

 手順を確認したら、各自の作業に入る。

「冷めてもおいしいように」は、お弁当のキーワード。

 だけど寒い冬には、お弁当が硬くなる。できるだけ柔らかさを保てるように、工夫をする。

 ごはんは浸水時間を長めにとり、ほんの少しだけ水を多めにして炊いて、柔らかく仕上げる。はちみつを加えて炊くと、はちみつの保水力で昼になってもしっとりつやつや。

 鶏そぼろは、まず鶏ひき肉に調味料をなじませる。火にかける前に味をつけておくとぱさぱさにならないし、さらに調味料に小麦粉を混ぜておくとしっとり感が保たれる。

 炒り卵は直接火にかけず、湯せんで作るとふんわりしっとり。保水力のある砂糖を入れて甘めに仕上げる。

 寒い冬でも、ランチタイムが楽しいものであるように。心をぽかぽかと温めてくれる食事であるように。

 お弁当の性質上、できたての温かさは望むべくもないけれど、精一杯の工夫をするのだ。


 六時半からは毎日怒濤の忙しさで、あっという間に時間が過ぎていく。

 弁当を詰め終わったらデジカメで写真を撮る。昨晩のうちにブログにアップしておいたメニューに、取り込んだ画像を追加する。同じ内容をプリントアウトして、表に出しておいた立看板に貼り付ける。

 六時五十分になったら、店の入り口にのれんをかける。

 藍色の布地に、白抜きで入った「弁当 仕出し ちどり亭」という店名と、ぽってりしたフォルムの千鳥の柄。お客さんが入りやすいように、二つに分かれたのれんの片方を飾り紐で吊り上げる。

 開店は七時。

 常連さんと挨拶を交わしながら、レジでいつもどおりに予約分の弁当を渡し、会計する。

「おはようございます」

「おはようございます。今日はそぼろごはんなんですね。可愛い」

 同じ具材でも、弁当は配置によってずいぶん雰囲気が変わる。

 そぼろを長方形に並べて縞模様にしたり、縞模様を斜めにしたり、円グラフみたいに扇形を組み合わせたり。

 今日は甘い炒り卵と、豆板醤でぴりりと辛みを効かせたひき肉でごはんの上を二等分した。境目にスライスしたいんげんのナムルを模様みたいにちりばめる。ごはんは二回に分けて入れ、間に揉んだ韓国海苔をひそませた。食べて初めて海苔の存在に気づくという、ちょっとしたサプライズだ。

「これ、明日の予約分です。よろしくお願いします」

 ふたつの弁当箱を出してきたのは、おしゃれなコートを羽織ったお母さん。

 秋ごろから通ってくれるようになったお客さんで、ほぼ毎日、自分と娘さん用のお弁当を予約購入してくれる。

「寺嶋さんですね。いつもどおりふたり分」

「ほら、リオ、自分で訊きなさい!」

 寺嶋さんが戸口のほうに向かって叫ぶ。

 娘さんのほうは、いつも外にいて店の中に入ってこない。

 外からの反応はなく、寺嶋さんはため息をついた。

「あの、今日のメニューの大根餅ってどんなものでしょう?」

 寺嶋さんが言うには、娘さんは毎日弁当を楽しみにしているらしく、ブログの予告をチェックしてからここへ来る。今日のメニューの「大根餅」が何かを訊いてほしいと言われたのだという。

「申し訳ありません、中学生にもなって……」

「いえ、いいですよ。大根餅はこれです」

 ぼくは身を乗り出し、レジ前に貼った写真画像の一点を指し示す。お品書き代わりに、ブログの予告記事をプリントアウトしたものだ。

「大根をすりおろして、ねぎとか桜エビといっしょに片栗粉でまとめて焼いたものです。中はもちもちだけど、表面はかりっとしてておいしいですよ。味付けはチヂミに似てるかも」

「あ、前に教えていただいた芋餅と似てますね」

「そうです。じゃがいもと大根だから、食感も味もかなり変わりますけど」

 胡麻油を使って焼いているので、匂いも香ばしい。

 基本的に野菜嫌いだったぼくも、これだといくらでも食べられそうな気分になる。

「それと、ご相談なんですけど……」

 寺嶋さんが持っていたカタログを広げて見せた。

「こういう、保温機能があるお弁当箱に詰めてもらうことってできますか? 私は会社の電子レンジで温められるんですけど、娘はそれができないから、冷たいごはんが嫌だって……ほんとわがままばかりで」

 恐縮しながら言う。

 似たような希望は、これまでに何度か出ていた。

「えーっと……きちんと冷ましてから詰めないと、冬でもお弁当は傷むんですね」

 言葉を選びながら、ぼくは説明する。

「お昼は、すぐに食べてくれる方がほとんどだから、温かいまま詰めるんですけど、朝は基本的にお断りしています。でも、一応店主に相談してみますね。このカタログ、お預かりしてもいいですか?」

 寺嶋さんは感じよくうなずいた。

「ええ、ええ。無理は申しません。私、料理しないので、こういうお弁当箱も使ったことないんです。どうなのかなって伺いたかっただけなので」


 夏は、お弁当にとっては受難の季節である。

 摂氏三十度から四十度という気温が、雑菌がいちばん繁殖しやすく、食中毒を起こしやすい温度だからだ。

 だから、お弁当箱に酢をスプレーしておいたり、ごはんを炊くときにほんの少しの酢を混ぜたり、防腐効果のある梅干しや大葉を使ったりする。

 逆に、冬場はお弁当にとって心強い季節。

「十度以下」と「六十度以上」は雑菌の繁殖が抑えられ、食材が傷みにくいからだ。

 ただ、致命的な問題がある。

「寒いときに冷たいものを食べるとおいしくない」ということ。

 だから、寺嶋さんが保温弁当箱について尋ねてきたのは、自然ななりゆきなのだと思う。

 ぼくが知る限り、これまでに同じ要望は四人から出ていた。

 花柚さんはこれをすべて断っている。

 保温弁当箱の怖いところは、性能によって冬でも三十度から四十度の温度帯に長くおかれることになってしまう場合があること。

「もともとおかずは、調理しても高温になることが少ないから、保温には向いてない。だから保温弁当箱も、ごはんだけ保温するようになってることが多いのよね」

 客足が途絶えたところで、花柚さんは言った。

「ごはんは炊きたてなら、六十度以上。でも、ものによって保温機能の高さはまちまちなのよね。ごはんは汁物に比べると冷めやすいから、四、五時間後にどうなっているかわからなくて不安なの」

 保温機能が高いジャーを使い、条件さえ守れば、お昼までに弁当が傷む可能性は低い。だから、個人が自宅で作ったお弁当を持っていくのには問題ない。

 ただ、こちらは商売としてやっていることだ。

 性能のわからない保温弁当箱を使って、お弁当が傷んでしまったら信用にかかわる。

 たとえお客さん自身がいいと言っても、こちらとしてはやっぱり嫌なのだった。

「なんか淋しいですよね。冷めてもおいしいようにって心がけてても、やっぱりダメなのか~って」

 大学へ行く準備をしながら、ぼくは言った。

 冬はお弁当を温めて食べたい人もいるだろうから、レンジにかけられる素材しか入れないようにしている。それでもやっぱりカバーしきれない領域が出てきてしまう。

「そうねえ……どんなにおいしいものを作っても、冬の寒さにはかなわないのね……」

 ちょっとだけ声を落として、花柚さんはつぶやいた。


 店の日めくりカレンダーを切り取ると、二十四節気は「小雪」の終わりがけだった。

 二十四節気を三分割した七十二候は「橘始黄」。

 雪が降り出してもおかしくない寒い時期。

 柑橘類が色づきだす冬の始まり。

 烏丸通のユリノキはすっかり葉を落とし、冬空は高く広がっている。

 金曜日の夕方、大学から店へ戻ってくると、厨房に花柚さんがいなかった。

 店のほうから談笑する声が聞こえてくる。だれかお客さんが来ているらしい。

「ただいま戻りました」

 厨房との間にかかったのれんを掲げて顔を出した。

「お帰りなさい」

 応接用テーブルにいた花柚さんが、振り向いて笑顔を見せる。

「お帰りなさい。おじゃましてます」

 花柚さんの向かい側でそう言ったのは、和服のおばあさん。豊かな銀髪をまとめ、ベージュに縞模様が入った品のいい着物を身にまとっている。

 背筋のぴんと伸びた、毅然とした印象の人だ。

 だれだろう。

「おお早かったな。よく帰ってきた、よく帰ってきた」

 花柚さんの隣に座っていた美津彦さんが腰を浮かし、やたらとオーバーな笑顔で声を高くする。

 今日の彼はシャツの上にモスグリーンのカーディガンを羽織っていた。

 この人は、花柚さんのまたいとこで、料理の師匠である藤沢先生の孫。

 ちどり亭の居候のような人――だったけど、今では救世主。来月からはちどり亭のオーナーだ。

 ぼくは彼の顔をまじまじと見つめた。

 常に省エネモードの美津彦さんが、無駄な動きをしている。異常だった。

「アルバイトの小泉彗太です」

 ぼくの通っている大学の名前を挙げ、美津彦さんがおばあさんに紹介する。

「とても優秀な学生ですよ」

「料理についても真面目に研鑽を積んでます」

「大学を卒業したら立派な店主になります。花柚の出る幕などありませんね」

 いつもより早口に、言葉を重ねる。

 美津彦さんが人のことを褒めている。

 宇宙人につかまえられて、別の人格を植え付けられてしまったのかもしれない。とても不気味だった。思わず後ずさる。

「こちらは総くんのおばあさま。おじいさまのお見舞いの帰りに寄ってくださったの」

 花柚さんが紹介する。

 総くんというのは、花柚さんの婚約者である永谷総一郎氏のこと。彼のおばあさんということは、花柚さんにとっては義理の祖母になる相手だ。

 この人が……。

 永谷氏と花柚さんの会話の中に何回か出てきたから、存在は知っていた。でも、会うのは初めてだ。

「は、初めまして。小泉です。永谷さんにはいつもお世話になってます」

「初めまして。永谷咲子です。勉強にアルバイトに頑張っていらっしゃるのね」

 おばあさんはにこやかに言ってくれた。

 永谷氏のお母さんは、きゃぴきゃぴしたお姫さまみたいな人で、永谷氏本人よりも花柚さんのほうに雰囲気が近かった。しかし、おばあさんのほうは永谷氏の血縁者と言われれば、だれもが納得するであろう似方をしていた。姿勢がよくて堂々としていて、古き良き日本の老婦人といった雰囲気。

「彗くん、瓶の熱湯消毒をしておいてもらってもいい? 今日、花梨のはちみつ漬けを作って帰るから」

 花柚さんが言う。

「わかりました」

 返事をしつつ、あれっと思った。

 花柚さんはいつも、知り合いが来たときは「彗くんもいらっしゃい」とお茶に誘ってくれるからだ。

 厨房に戻る前に、いつもどおり、カウンターにあるボードを確認した。

 仕出しの申込書が三枚挟んである。

 同じくボードに挟まれた、時間が縦軸に示されたバーチカルタイプの週間カレンダーに、仕出しの時間と申込者、内容を転記していく。

 おばあさんが声を落としてささやいているのが聞こえた。

「花柚さん、ちゃんとお給金は渡しているの」

「え? ええ、そんなに多くは出せませんけど……」

「服がぼろぼろじゃない。学生さんなんだから、色をつけておあげなさいよ」

 ぼくは自分の服を見た。ダメージジーンズだった。

「あれは若者のファッションです。以前に比べて目立たなくなりましたが、現代日本にも貧困はいたるところに存在する。わざと穴の空いた服を着て、貧困を覆い隠す体制に反発する、草の根社会運動なんですよ」

 美津彦さんがまたいいかげんなことを吹き込んでいる。

「まあ、そうなの! 彗くん偉いわ」

 まっさきに騙されている花柚さん。おばあさんも鷹揚にうなずく。

「最近の若い人も、政治のことをちゃんと考えてるのね」

 こんなに簡単に騙されて、大丈夫かなこの人たち……。

 というか、花柚さん、何回美津彦さんに騙されたら気が済むんだ……。

「まあ、そんなわけで、店を継ぐ彗太は前途有望、学生ながらしっかり者。オーナーは謹厳実直、品行方正な俺。順風満帆ですよ」

 そう言った美津彦さんを見て、おばあさんは声を立てて笑った。

「ほほほ、品行方正! すぐに転覆しそうな船だこと」

「ははは」

「ほほほ」

「け、彗くん、熱湯消毒する瓶、たくさんあるから急いでね」

 空虚な笑いを響かせる美津彦さんとおばあさんの隣で、花柚さんが慌てたように言う。

 ぼくをこの場から去らせたいのがわかり、奥に引っ込もうとした。

 しかし、それよりも早く、おばあさんが笑みをこちらに向けた。

「あら、いいじゃないの。彗太さん、こちらにお座りなさい」

 花柚さんがあせっているけど、美津彦さんにさえ止められない相手だというのはすでにわかっていた。

「な、何でしょう」

 美津彦さんと並び、隣のテーブルの椅子に腰かける。

「大学を卒業したら、このお店を継ぎたいんですって?」

 優雅な手つきでティーカップを口に運び、おばあさんが尋ねた。

「はい」

「まだ学生さんだから、二年間は花柚が店を守らなければならないと聞いてます」

「はい、申し訳ないんですが、未熟者なので……」

 萎縮しないように胸を張りつつ、戦々恐々としながら答える。

 結婚しても花柚さんが店を続けられるように、そういうことにしたのだ。

「夫が入院して、私もしばらく病院に詰めなければならなくなりました。来週から一週間、毎日、あなたが私のお弁当を作ってくださらない?」

「えっ」

「店を継ぐと決めてるんでしょう? 相当な研鑽を積んでいるのよね」

「お、おばあさま、」

「あなたは黙って」

 口を挟んだ花柚さんを、おばあさんが短い言葉で黙らせる。

「まさか、花柚に店を続けさせるためだけに、方便で店を継ぐ云々言い出したわけじゃないでしょう?」

 多少はそういう面もあったので、あせる。

「も、もちろんです!」

「嫁に恥ずかしい真似をさせるんですもの。相応の覚悟と実力を見せていただきたいわ」

 何が恥ずかしいのかよくわからなかったけど、質問などできない雰囲気だった。

「お代はもちろん、言ってくださった金額でお支払いします。十時には家に届けていただけるとありがたいわ」

 花柚さんが慌てて口を挟む。

「おばあさま、申し訳ありません。彗くんは八時半には大学に行きますし、わたしがひとりでお弁当を販売するので、配達には行けないんです」

「あら、そうなの? じゃあ、病院に行く前にこちらに取りにくるわね」

 おばあさんは傍らに置いていたハンドバッグを手に取り、中から平たいケースを取り出した。

「私、こういう肩書きをいただいています。実家が運営母体になってるというだけで、名ばかりの理事ですけど」

 おばあさんがケースから取り出したのは、名刺だった。

「永谷咲子」という名前の上に、「公益財団法人 京の都市文化保存会 理事」という文字列が目に入る。

 京都の伝統文化に携わる職人や企業、「京都らしい店」の起業や維持を金銭的に支援する活動をしているのだという。

「意地悪だけで無理難題を吹っかけているのではないわ。これは審査。町の仕出し屋さんはもうずいぶん減っていると聞いています。あなたが本当に店を切り盛りしていくつもりがあって、相応の力をつけているのなら、私が推薦状を書いて、店を継いでからの二年間、保存会から経済的な援助を受けられるようにしましょう。花柚の邪魔もしません」

 おばあさんはぼくの顔を見つめたまま、言った。

「もちろん、その力がないと判断した場合、支援はしませんし、花柚には早々に店をやめさせます。あなたが卒業してから、改めて店を立ち上げればいいだけだものね。謹厳実直、品行方正な出資者もいることだし」

 ちらりと美津彦さんを見やって、おばあさんは言う。

 美津彦さんは苦い顔。

 花柚さんは心配そうにぼくを見ている。

「どうかしら? 悪い話じゃないと思うけど」

 おばあさんが言う。

 降ってわいたような話に、まだ頭がついていかない。

 しかし、まごまごしているわけにはいかなかった。決めるのは他のだれでもなく、ぼくなのだ。

 深呼吸してから、口を開いた。

「まず一週間、ぼくが弁当を作ればいいんですよね?」

「ええ」

「それはやります。でも、ダメだったらすぐ店を畳むというのは、困ります。うちには毎日通ってきてくれているお客さんがいます。その人たちが別の店を探さなきゃいけないし、迷惑がかかるからです」

 おばあさんは思案顔。

 緊張に吞まれないように息を整えてから、ぼくはさらに言った。

「うちが蒔岡のお嬢さんのお店だって知ってる人は多いですし、花柚さんが永谷さんと結婚するのもわかるでしょう。いきなり閉店して迷惑かけたら、永谷さんにもマイナスイメージがつくと思います」

 これが効くのはわかっていた。

 永谷家にとって、総一郎氏は大事な大事な跡取りなのだ。

 おばあさんはしばらく考えているようだった。

「もちろん、一週間ですべてが決まるわけではないわ。店を継ぐのも二年後だものね。もっと長期的に見て判断します。まあ、よっぽどひどいようなら話は別ですけど」

 ぼくの顔を見て、おばあさんはくちびるの端を上げた。

「今回は、最初のテスト。支援をするかどうか、判断材料のひとつにするわ」


 衣笠丼は、関西のローカルフード。

 親子丼の鶏肉を油揚げに、玉ねぎを青ねぎに替えたもの、と説明したらわかりやすいかもしれない。

 衣笠丼は京都での呼び方で、その名は北区と右京区の境目にある衣笠山に由来するもの。

 だしと醤油とみりん、砂糖で割り下を作り、九条ねぎと油揚げを煮る。

 甘辛いつゆをたっぷり含んだ油揚げは、箸で持ち上げるとしっかり重い。

 おいしく作るコツは、卵を入れる前に揚げ玉を混ぜておくこと。

 これは親子丼にも使えるコツで、こくが出るうえに卵がふわふわになって、冷めてもおいしいのだ。

 卵は、ボウルの底に箸の先をつけたまま白身を切るように混ぜ、決して泡立てない。鍋の中に半分だけ入れる。

 鍋に入れた卵が固まり始めたところで火を止め、残った分の卵を投入し余熱で仕上げる。こうすると、ちょうどいい具合の半熟に仕上がる。

「どうしてこういう真似をするんだ、うちのばあさんは!」

 ぼくが厨房で夕飯を作っていると、奥の和室から永谷氏の憤った声が聞こえてきた。

 彼はおじいさんのお見舞いに行ってから店に来たのだが、おばあさんの襲来を花柚さんから初めて知らされたのだった。

「お店を続けたいっていうのはわたしのわがままだもの、おばあさまだって何かひとこと言いたくなるわ」

 花柚さんのなだめる声。

 事の起こりは一昨日。

 永谷氏のおじいさんが庭で転倒して、脚を骨折したのだという。

 入院することになり、永谷家の中では「おじいさんはもう長くない」というムードが決定的になった。

 もともと具合がよくなかったし、骨折なんかで動けなくなったとたんに老衰が始まることが非常に多い。ものが食べられなくなり、死を待つばかりになってしまうのだ。

 おじいさん自身は「曾孫の顔を見るまで絶対に死なない」と言っているが、どうなるかわからない。

 それでおばあさんが、永谷氏に「家を出ることまかりならん」と言い出したそうなのだった。

 永谷氏と花柚さんはちどり亭から徒歩圏内にある家を借りて、入籍後はそこで暮らすことになっていた。

 これは花柚さんが店を続けられるようにするため。

 花柚さんは朝五時に店の仕事を始める。永谷家で同居となれば、これが難しくなるため、永谷氏は方便を駆使して両家のおじいさんからこの許可を得ていたのだった。

 しかしおばあさんは、涙ながらに訴えた。

「残り少ない人生、孫に嫌われたくなくて反対できなかったおじいさんの気持ちがわからないのか。残りの時間をそばで過ごしてやってくれ」

 永谷氏にも、最後の時間、おじいさんの近くにいたい気持ちはある。

 しかし、ここで結婚した花柚さんを永谷家に住まわせたら、なし崩し的にそのまま同居になることは確実。おじいさんがいつ亡くなるかわからない状態なら、なおさら花柚さんが外へ出ていけなくなってしまう。

 そこで、永谷氏はおばあさんに言った。

「自分は家に残りますが、おじいさんが落ち着くまで花柚は蒔岡家でそのまま過ごさせます」

 結婚してもいっしょに暮らさず、妻が実家にとどまったまま。

 外聞が悪いので、おばあさんもそのうち折れるだろうと思っていたのだという。

 ところが今日の昼過ぎ、おばあさんが突然ちどり亭に襲来。

 彼女は、花柚さんに「ああしろ、こうしろ」とは決して言わなかった。

 ただ、「せっかく孫が結婚するのに、孫の嫁が近くにいてくれないなんておじいさんがかわいそうだ」と言うのみ。

 暗に「店をやめて家に入れ」と言っているのだけど。

「気の毒だと思っても、絶対に折れるな。俺にだって祖父母孝行したい気持ちはあるが、何でもかんでも言うことを聞く必要はない」

 ぼくが奥の和室に夕飯を運んでいくと、憤りを残した声で永谷氏が花柚さんに言っていた。

 黒縁眼鏡をかけスーツを着た彼は、怒っているせいでいつも以上に近寄りがたい。

「じいさんも『早く曾孫の顔を見せてくれ』とか言ってるが、育てるのは俺とお前であって、祖父母は何の責任も取らない。真に受ける必要はない」

 もうすぐ結婚式だというのに、そうそうスムーズにはいかないものだな、と思う。

「おたがいに家の跡継ぎだから結婚はできない」というところから始まって、「結婚したら店をやめなければならない」「店を続けるなら、店長とオーナーは別の人に」と難題が降りかかり、クリアしたと思ったらまた難題。

 おかげで永谷氏も、かなり花柚さんサイドに立って考えるようになってくれたのだけど。

「まあ、とりあえず食事にしようじゃないか。ばあさんの相手で俺は三日分のエネルギーを消耗した。腹が減った」

 こたつに入って寝転んでいた美津彦さんが、催促する。

「美津彦さん、燃費悪すぎですよ……。箸並べてくださいね」

 こたつの上に料理を並べ、四人、夕食を囲む。

「いただきます」

 衣笠丼の油揚げは、いわゆる「京揚げ」で大きく、甘辛い煮汁をたっぷり含んでいる。

 口に入れるとじゅわっとつゆがあふれ出し、とろとろした卵と混ざり合う。

 しいたけは、花柚さんのいちばん好きな料理法にした。

 バターで炒めたら醤油を回しかけ、煮詰めながら味をからめる。しいたけはとろりとして、ちょっぴり焦げた醤油が香ばしい。

「おいしいわ。しいたけがとろっとろ!」

「湯葉のすまし汁もうまい」

 永谷氏の短い言葉もうれしいものだった。

「彗太にも迷惑をかけたな。弁当を家まで届けろとか……俺が言うのもなんだが、あの人は本当に世間知らずなんだ」

 永谷氏が詫びた。

 代々同じ店と付き合いを続けていると、電話一本で商品を届けてもらえるのが当たり前になってしまう。少人数で店を切り盛りするのがどういうことなのか、想像が及ばないのだと永谷氏は言った。

「お前まで巻き込んだのは腹立たしいが、保存会の支援を持ち出してきたのは意外だった。よそへ嫁いだ人間だからって、ばあさんは今まで実家の仕事にはほとんど関わってこなかったんだ」

 おばあさんは、かつて中堅財閥だった家から嫁いできた人。

 永谷家が東京から京都に戻ったのをきっかけに、実家が京都の都市文化を守るための財団法人を設立したのだという。

「しかし、支援するとか、どういうつもりなのかよくわからんな。花柚には店をやめさせたいんだろ」

 美津彦さんが言う。

「なんか、恥ずかしいって言ってましたよね。何が恥ずかしいんですか?」

「『ええとこ』の妻や娘が働くのは恥ずかしい、って風潮が昔はあったんだ。大変うらやましいことに! 女が働いていたら、それは家や夫に財産がないからだ、ってみなされたわけだ」

「へえ……今は働いてないほうが非難されますよね」

「そうだ、俺は不当に非難されてる」

 美津彦さんの発言を無視して、永谷氏が説明した。

「たぶん、それとこれとは話が別だ。花柚には働かせたくないが、仕出し屋は都市文化として残したい。ばあさんの実家は裕福だったから、『持つ者の義務』みたいな感覚が刷り込まれてる」

 ぼくは衣笠丼を咀嚼しながら、しばらく考えた。

「支援の話はよくわかりませんけど……おばあさんとしては、花柚さんがずっと店を続けるんじゃないって確認できればいいんじゃないですか? おれがちゃんと修業してて、花柚さんが二年後に店を譲るつもりなんだって、わかれば」

「彗くん、一週間、本当におばあさまのお弁当を作るの?」

 花柚さんが心配そうに尋ねた。

「ええ……おばあさんだって、花柚さんレベルの弁当は期待してないでしょ。学生のやることなんだし。頑張ってるな、ってわかればいいんだから、できるだけのことをしますよ」

「でも、大変よ? プレッシャーもかかるし、一週間毎日だもの。労力としては、わたしが担当しているおかずを、おばあさまの分だけ彗くんに作ってもらうことになるだけだけど……厳しいこと言われちゃうかも」

「うまくいかなくても支援してもらえないだけですし。万が一、気に入ってもらえたら、援助してもらえるかもしれないんだから、悪い話じゃない気がします。それに、おれ、高校のときバスケ部だったんですけど、毎日の練習だけじゃなくて、やっぱり試合しないとダメなんですよ。負荷かけて失敗しないと成長しないっていうか」

 花柚さんと永谷氏が、そろってまじまじとぼくの顔を見た。

「彗くん……」

「立派になったな」

 ほんの数か月前、自分の作ったおかずにクレームがついただけで、ぼくは果てしなく落ち込んでいたのだ。

「どうしたどうした、何か悪いものでも食べたのか?」

 やっぱり茶化す美津彦さん。

 ぼくは顔をしかめて言う。

「おれももうすぐ二十歳ですから、いろいろ考えてるんです」

 はあーっ、と三人が感心したようにため息をつくので気恥ずかしくなる。

「でも、そうね……彗くんにとってはいい機会かもしれないわ。自分個人の作ったものとして、ひいき目なしの感想をいただけるんだもの。それにおじいさまの入院でおばあさまも心細いでしょうし、おいしいものを作って差し上げたらいいと思うわ」

「おばあさん、歯は丈夫なんですか? 硬いものはダメとか、ありますか?」

 ぼくは永谷氏に尋ねた。

「いや、何でも食べる。ぴんぴんしてる」

「好きなもの、あります?」

 おいしいもの・好きなものをふるまっていい気持ちにさせてくれる相手に、悪い気持ちを持つことはないだろう。

 もしぼくの作ったものを気に入ってくれたら、ちどり亭に好意を持ってくれるし、花柚さんが働き続けることに対しても考えを改めてくれるんじゃないかという期待もあった。

「生麩は好きだが……」

 答えながらも、永谷氏はうかない顔だった。

「じゃあ、嫌いなものは?」

「――弁当」

「え?」

 ものすごく言いづらそうに、永谷氏は告げた。

「冷や飯が嫌いなんだ」


「冷や飯食い」とは、昔だと、跡継ぎでない次男以下の男子のこと。

 跡継ぎたる長男は、母屋で温かいごはんを食べることができたが、離れに住んでいた次男以下の食事は、運んでくるまでに冷めてしまう。

「冷や飯食い」には他にも、「冷遇されている人」「居候」という意味がある。

 いずれにしても「冷たいごはんを食べなければならない=不遇」という認識に基づいた言葉なのだった。

 永谷氏のおばあさんは、冷たい食事――特に冷たい米飯が大嫌いで、外で食事するときは必ず店で作りたてのものを食べるし、冷めた弁当を食べるくらいなら空腹も我慢する。

 永谷氏のお父さんが小学生だったとき、学校には給食があった。しかし、進学した私立中学には給食がなく、食堂もない。

「跡取りの息子に冷や飯を食べさせなければいけないなんて!」

 憤慨したおばあさんは、実家から相続した財力にものを言わせ、全校生徒分の温蔵庫を電気代とともに学校に寄付。

 永谷氏の中学進学に際しても同じことをしようとしたのだが、息子夫婦――特に永谷母と壮絶なバトルに発展したという。

「お弁当が冷たいくらい、何だっていうんです! みなさん、そういうものだと思ってお弁当を食べてるんです! お義母さま、いつもわたしに総一郎を甘やかすなっておっしゃってるじゃありませんか!」

 息子ラブのはずの永谷母までがものすごい勢いで反対し、何とか思いとどまらせたのだという。

 永谷氏は言った。

「仕出しは、作ってすぐに持ってくるから嫌いじゃないんだ。でも、中身に関わらず弁当はだめだと思う。冷めてるだけで『まずい』って評価になる」

「え、えーっ? あ、でも、たぶん、病院で食べるんですよね? おれ、入院したことないですけど、電子レンジくらいありますよね?」

 すると花柚さんが眉をひそめる。

「おばあさまからお預かりしたお弁当箱、漆器よ。レンジは使えないわ」

「マジですか……じゃあ、寺嶋さんが持ってきたカタログの保温弁当箱買って……いや、弁当箱指定されてるのに、それはダメですよね。そもそも、寺嶋さんのお願いも断ってるわけですし」

 美津彦さんが眉を上げる。

「やっぱりこれ、嫌がらせじゃないのか?」

「うーん……」

 その可能性も否定できない。

「でも!」

 ぱんと手を打って、花柚さんが言いだした。表情を明るくして続ける。

「この問題をクリアできたら、寺嶋さんのご要望にもお応えできるわ。考えましょう!」