第一章 ある日、森の中


 短いトンネルを抜けると、そこはまばゆい新緑の森だった。

 ハンドルを握り直して外を見ると、左手は若草萌える急な斜面が空に向かって伸び、右手には木々の梢が春の風にさわさわと揺れていた。

 斜面の上に並ぶ広葉樹が道路上に張り出し、若葉をすり抜けて降り注ぐ陽光が、路上にまばゆい幾何学模様を描く。窓を開けるとエンジンの音と一緒に、まだ冷たい、けれど生命の息吹に満ちあふれた風が流れ込んできた。

 五月の連休明け。風薫る木漏れ日の山道は右へ左へと緩やかなカーブを繰り返し、一つカーブを越えるたびに、少しずつ様相を変えた景色がフロントガラスの向こうに現れる。ときどき森が途切れると、彼方の山々の濃密な緑が飛び込んでくる。

 信号はなく、対向車もまったく現れない。思うままアクセルを踏むもよし、スピードを落として景色に見入るもよし。新車のテレビCMにでも出てきそうな絶好のドライブコースを、しかし楽しむ余裕はない。

 なぜなら今、華は道に迷っていた。

「本当にこんなところに会社があるの…………?」

 カーナビは三十分以上前から沈黙している。『目的地、月見食品秋田営業所、付近です。案内を、終了します』合成音声がそう告げた場所は、今見ているものとたいして変わらない山の中で、建物なんて一つも見えなかった。

 中古の軽自動車におまけでついてきた、車と同じくらい古いナビである。だから精度もいまいちなのだろう。もうちょっと走れば社屋が見えてくるはず――同時に(こんな山奥が勤務先か)と暗い気持ちにもなったが――ここまで来たからにはとにかく行くしかないと思って再び走り出したのだが、行けども行けども会社どころか人家の気配すらなく、トンネルを抜けるたびに道幅は狭くなり、電柱は減り、歩道はなくなり、反比例して華の不安は膨れあがる。

「これ、絶対、道間違ってるよね……」

 華はオンボロカーナビを怨めしげに睨みつけた。

「これ以上進んでも山奥に行くだけで絶対会社なんてない。というか、ガソリンがやばい。どっかで引き返さなきゃ冗談抜きに遭難する」

 さっきからずっとそう思っているのだが、徐々に狭くなる山道でUターンする場所も見つけられず、華は山奥へ山奥へと、吸い込まれるように車を走らせている。

 何度目かのカーブを曲がると、視界が急に開けた。道路上に張り出していた枝葉がなくなり、青空が頭上に広がる。

「あっ」と華は声を上げた。

 笹藪に覆われた緩やかな斜面と道路の境界に、一人の男性が座り込んでいたのだ。小豆色のウィンドブレーカーのようなものを羽織り、作業ズボンの足元は黒のゴム長靴。地元の農家だろうか。それならば道を知っているはずだ。地獄に仏を見た気分で華は車を停めた。

「すいませーん」

 エンジンをかけたままの車から降り、男性に声をかけてみたが、何の反応もなかった。(おかしいな、聞こえない距離じゃないはずなのに……)

「すいませーん! あの! ちょっと道を伺いたいんですけ……」

 大声で話しかけながら男性に歩み寄り、華はぎょっとした。座り込む男性の顔面が血で真っ赤に染まっている。

「っ! 大変!」

 突然のことに怯んだのは一瞬だった。

(助けなきゃ!)

 華はすぐにそう思い、男性の元へと駆け寄った。

「大丈夫ですか! 何があったんですか!?」

 華の声にも男性は反応を示さない。左の耳が切れていて、こめかみから側頭部にかけて浅いが長い裂傷が二本。短い髪が血でガチガチに固まっている。傷口から覗く肉の生々しさに、思わず顔を背けたくなる。

 まさか死んでいるのではと思ったが、しかし触れた肌は温かく、脈も呼吸も確かにあった。どうやら気を失っているだけらしい。顔についた血も乾き始め、出血はもう止まっている様子である。

「よかった……いやあまりよくないか」

 命に別状はなさそうだが、それでもかなりの大怪我だ。応急処置を、と思ったが、このような傷を見るのは華も初めてで、一体どうするのが正解なのかまったく分からなかった。

「……下手に触らない方がいいか。とにかく救急車呼ばないと。それにしても一体何があったらこんな怪我を……」

 そのとき、茂みが音を立てた。

 華は振り仰ぎ、それを見た。

「…………あ」

 斜面の笹藪に熊がいた。

 体長一メートルほど。全身が黒くて硬そうな毛に覆われていて、胸に一筋、三日月型の白い毛が生えている。後ろ足で立ち上がり、右の前足を側の松の木にかけている。その前足の爪に、赤黒い汚れがこびりついていた。

 華は全身を硬直させたまま、目だけで男性を見た。

(この人、熊に襲われたんだ……)

 現場はここではない、山中のどこかだろう。男性は負傷しながらも熊を振り切りどうにかここまで逃げてきたが、ついに力尽きて気を失ってしまったのだ。

 熊がフゴーッ、と唸った。薄く開いた口から太い牙が覗いている。泡混じりの涎が口角に溜まっていた。

 鼻筋に皺を寄せ、熊は華を睨みつけている。動物園で見る熊とは、同じ生き物のはずなのにまるで別物だった。目つきは鋭く、穏やかさはどこにもない。

(やばい)

 熊との距離は二十メートルほどだろうか。けれど華には、熊が自分の目の前、手の届くところに立っているかのように感じられた。野生動物の放つ本物の殺気は、そのくらい強烈だった。この熊は人を恐れていない。敵意を抱いている。

 足が震える。腰が抜けそうになる――ただ対峙しているだけで命の危険が実感できる。本能が今すぐ逃げろと命令する。死にたくなければなりふり構わず全力で走れと。実際、華は一度はそうしようとした。

 だがそうしなかったのは、うずくまる男性の姿が視界の隅にあったからだった。

「――くっ!」

 華は身をかがめると意識のない男性の腕を掴み、思い切って背負った。濃い血の臭いがした。

「ふんっ!」

 力を込めて腰を上げる。成人男性一人分の重量はさすがに重い。おまけに意識がないので右に左にぐらぐら揺れる。

「なにくそ……こんなの……剣道やってた頃の筋トレに比べたらっ!」

 目指すは自分の車だ。車内に逃げ込んでしまえば、いくら熊でも手出しはできないはず。

(車にたどり着くまで熊が襲ってきませんように……)

 心中祈りながら一歩一歩車へと向かう。熊から目を離さないように後ろ歩きだ。車までの、ほんの十メートルかそこらの距離が絶望的に遠い。けれども着実に近づいてくる。熊は何かを警戒しているのか、現れた地点でじっと立っている。

 大丈夫。この調子ならいける――華がそう思ったそのとき、熊が動き出した。木の幹にかけていた前足を下ろして本来の四足歩行に移り、笹藪の斜面を転がるようにして道路に飛び出してくる。二十メートルあったはずの距離が一瞬にして半分になり、さらに縮まっていく。華は車へと急いだが、

「あっ!」

 急ぐあまりに足がもつれた。背負っていた男性もろとも道路に倒れる。とっさに身体をひねって怪我人を下敷きにすることは避けられたが、逆に華が下敷きになってしまった。

「ぐっ!」

 痛みを和らげる暇もなく、アスファルトを擦る爪の音が近づいてくる。

 熊が、死が近づいてくる。

(どうしよう、どうしようどうしようどうしよう)

 焦りすぎて考えることもできない。華はその場にぱたりと伏せた。死んだふりだ。もうそれくらいしかできることは残っていなかった。息を殺し、ひたすらに熊がどこかに行ってくれることを祈る。

 熊は驚いたように一瞬止まり、けれどもすぐにまた接近を始める。

 熊がいるのとは反対側――車の後ろの方で、笹藪がガサガサ鳴った。細目を開けてそちらを見ると、ずんぐりとした小山のような影が近づいてくるのが分かった。どうやらもう一頭お出ましらしい。先の熊と合わせて、華たちを挟み撃ちにするような状態だ。

(ああ、これはダメだ……どうやっても逃げられない……)

 私はここで死ぬんだ――そんな思いがよぎる。お父さんお母さんごめんなさい、言われたとおり公務員になるんでした。

 笹藪から二体目の熊が現れた。少なくとも最初はそう見えた。

 だが、違った。

 新たに現れたのは、熊のような大男だった。ぼさぼさの髪。髭が顔中を覆っていてまるで獣のようだったが、深緑のジャケットを着たそれは、確かに人間だった。こんなところに出くわすなんてこの人も運がない。

「逃げて!」

 死んだふりも忘れて華は大きな声を出した。

 その声が熊の神経に障った。新たな人間の出現に警戒して距離を取っていた熊は、猛烈な勢いで華に向かって走り出した。

 大男は道路に降りてくると、華たちとは逆方向に走り出した。そして停車していた華の車に乗り込む。

 華は一瞬唖然とした。逃げろとは言ったが、まさか車を奪って自分だけ逃げようとするとは。

(なんて奴!)

 けれどそれは華の勘違いだった。大男は軽自動車の狭い運転席に体を押し込めると、クラクションを盛大に鳴らした。山中に響く爆音に熊がたじろぐ――だがそれも一瞬のことだった。怒りに駆られた熊は再び向かってくる。

 それを見て大男がアクセルを踏んだ。猛烈な勢いで軽自動車が飛び出し、そのまま熊に正面衝突する。すさまじい衝突音がして、弾き飛ばされた熊の巨体が宙に浮いた。軽自動車の前面がお菓子の箱か何かのように潰れる。

 衝突の勢いで道路をごろごろ転がった熊が起き上がり、華たちを睨みつける。

「ま、まだ来るの!?」

 だが大男が再びクラクションを鳴らし、エンジンを空ぶかしすると、熊は低い唸り声を残して、笹藪の奥へと走り去った。

「……たす……かった?」

 全身の力が抜ける。今更のように手が震えてきた。

 軽自動車のドアが開いて、大男が、しぼんだエアバッグを煩わしそうに払いのけながら降りてきた。

「あ、あの……」

 お礼を言わなくてはと思った華は震える手を地面について体を起こした。と、

「熊の前で死んだふりをする馬鹿がいるか!」

 熊のような大男は、華に向かっていきなり怒鳴りつけた。

 華は負けん気が強い。頭ごなしに言われると「なにくそ」と感じてしまう。おかげで損をすることが多いが、何しろ性分なのだからどうしようもない。

 このときもその、悪い癖が出た。

「そんなこと言われたって、いきなり熊に出くわして冷静に行動できるわけないでしょ! あんたこそなんなの!? まず怪我の心配とかするべきじゃないの!?」

「それだけ怒鳴れるなら心配する必要もないだろう」

 正論である。(でも、もうちょっと言い方ってものがあるんじゃないの?)

 大男は憤慨する華を押しのけ、熊に襲われ負傷した男性の傷を確かめ始める。

「……大丈夫そう?」

「出血は派手だが傷自体はたいしたことないな。死にはしない」

 そう聞いて華はほっとする。地面にへたり込んではあーっ、と息をついていると。

「ぼけっとしてないで救急車でも呼んだらどうだ。自分が助かったらあとはどうでもいいのか?」

「そんなわけないでしょう!」

 自分の身がかわいかったら、男性を無視して一人で逃げている。

 精一杯やったんだから、窮地を脱して一息つくぐらいのことは許されるべきだし、こんなことを言われる筋合いはない。

(嫌な奴!)

 ぷりぷり腹を立てながら、華はスマホを取りに車に戻る。熊と正面衝突した軽自動車は前面が大きくひしゃげ、タイヤの向きもなんだかおかしくなっていた。

「ああ……」と華はうめいた。

 まだローンの一回すら払っていないのに。


 幸いにして助手席に置いたバッグの中に入れていたスマホは無事だった。電波もきちんと届いていて、通報すると、救急車はそれほど待つことなく到着した。

 ものすごい山奥に迷い込んだと華は感じていたが、それは東京からの長距離運転が生み出した錯覚で、実際は街からそう離れてはいなかったらしい。

 怪我人と一緒に救急車に乗せられて病院へ。熊男は救急隊員と何やら話していたが、乗らずにその場に残った。

 病院で念のために検査を受け、終わると今度は警察の事情聴取が待っていた。

「あんた、地元の人じゃないね? 旅行中?」

「あ、いえ。仕事で。……この町に月見食品の営業所ってありますよね? 私そこの社員なんです。この春就職して、研修が終わったらこっちに配属されることになって、今日引っ越してきたんですけど」

 華がそう言うと警察官は首を傾げた。

「あるけど、月見さんならインター降りてすぐだぞ。なんであんな山ん中に」

「ナビに従って走ってたはずなんですけど……」

「もしかして古いナビ使ってないかい? 昔は山の方に営業所あったはずだから」

(なるほどそれでか)と華はうなずいた。

「……で、迷い込んで熊に遭遇したと」

 警察官がメモを取る。華は質問に答えてそのときの状況を説明した。

「あんたの車はレッカーしといたから。後で警察署まで取りに来てちょうだいな。……まあ、あの様子じゃ廃車だろうけんど」

「……ああ、はい」

 がっくりと肩を落とす。中古とはいえ初めてのマイカー。買って一ヶ月もしてないのにもう廃車とは泣くしかない。

 事情聴取を終えて病院を出ると、すでに日はとっぷりと暮れていた。

「大神さん? 大神華さん?」

 知り合いなどいないはずの土地で名前を呼ばれ、華は驚きながらそちらを見る。すると『月見食品』のロゴマーク入りのワンボックスカーが車寄せに止まっていた。

「秋田営業所長の西住です。よろしく」

 運転席の男がそう名乗る。小柄で白髪交じりの、どこか飄々とした雰囲気。

「大神です。よろしくお願いします」

「警察から連絡あってね。車もおしゃかになったっていうし迎えに来た」

「ありがとうございます。助かります」

 華は助手席へと乗り込んだ。

「一旦会社に、って考えてたけどもう遅いし大神さんも疲れてるだろうし、今日はまっすぐ社宅でいいかな?」

「すみません、一旦警察署に行ってもらえますか?」

「まだ何か取り調べが?」

「いえ、それは済んだんですけど荷物が……」

 引っ越しの荷物――といっても大半は明日業者が運んでくるのだが――身の回りのものや布団など、すぐに使うものだけは車に積んで来た。取ってこなければ着替えも寝ることもできない。

「ああそういうことね。はいはい。それじゃあレッツらゴー」

 軽い口調で言って、西住は車を走らせる。

「それにしても大変だったねえ。熊と大立ち回りだって?」

「そんな大げさなものでは……」

「うん? 大神さんが熊を追い払ったって聞いたけど」

「違います。たまたま通りがかった人が助けてくれたんです」

 自分は何もできなかった。あの人が現れなかったらどうなっていたことか。(嫌な奴だったけど命の恩人だし、今度会ったらきちんとお礼を言わなきゃ)華はそんなことを思った。

「たまたま? 山の中で? それ何者?」

「分かりません。森の奥から出てきたんです。突然。熊みたいな人でした」

「熊みたいな……ふうん。なるほど」

 西住はそう言ってにやにや笑う。

「なんですか?」

「こっちのこと。とにかく無事でよかったよ。お疲れさん」

 警察署で荷物を回収、それからコンビニに寄って夕食を確保してから、社宅へと向かう。

「はい、到着」

 と西住が車を停めたのは、市街から少し離れたところにある住宅地だった。

「あの、社宅……ですよね? 見るからに一軒家なんですけど」

「そうだね。ちょっと古いけど庭付きの二階建てだね。何年か前から空き家になったのを安く借り上げたんだ。ボロくてびっくりしたでしょ」

「いえ、アパートみたいなのを想像してたので」

「この方が広くていいでしょ。それにこの町は持ち家率高いからアパートは全然ないし、アパートだと不都合があるし」

「不都合?」

「それについては後のお楽しみ。いやーうらやましいなあ。一軒家で一人暮らし。うちなんて三世帯同居だから狭いのなんの」

 と西住は笑う。

 鍵を受け取り玄関を開ける。少ない荷物を降ろすのは、ほんの数分で済んだ。

「じゃ、月曜日に会社で」

「はい」

「困ったことがあったらいつでも電話してきていいからね」

「はい。ありがとうございます」

 西住の車が庭を出て行くまで見送ってから、華はこれからの住まいとなる家に入った。上司がいい人そうでよかった、と思う――何やら含んだ物言いは気にならないでもなかったが。

 夕食の入ったコンビニ袋を床にどさりと置き、とりあえず家の中を見て回る。

 家具一つない家の中は広々として、ちょっと寒々しい。そう感じるのは、故郷を遠く離れて知らない土地にいるからかも知れない。

 古さ以外には特に特徴のない、いわゆる文化住宅だ。一つ変わった点といえば、靴箱の脇に妙に頑丈なロッカーが据え付けてあったことだ。

「なにこれ? なんに使うんだろ?」

 中は空っぽ。コンクリートの土台にボルトで留めてあって、叩いても揺すってもびくともしない。

「まあどうでもいいか。とりあえずシャワー浴びたい」

 疲れ果てていて、あれこれ考えるのが億劫だった。

 風呂場へ行き、古い設備に多少手こずったものの熱いシャワーにありつけた。一日分の疲労と汗と汚れが、排水溝へと流れていく。その水の流れに、赤いものが混じっていた。血だ。華ではなく、熊に襲われていた男性の血が、背負って逃げようとしたときに付着していたのだろう。お湯に薄められた血の流れを見て、華は昼間のことを思い出した。動物園以外で熊を見たのは初めてだ。野生の熊とはあんなにも恐ろしいものだったのか。よくもまあ無事だったものだ。

「運がいいのか悪いのか……。でもまあ、さすがにこんなこと二度も三度もないだろうし。切り替えていこう。おーっ!」

 熱いシャワーを浴びながら、華は拳を突き上げた。学生時代に所属していた剣道部では、負け試合の後はこうして気持ちをリセットするのが常だった。まだ新生活は始まったばかり、いや、始まってすらいないのだ。今からへこんでなどいられない。

「たっぷり食べてたっぷり寝て、明日の朝には元気な私!」

 そう意気込んで風呂場を出ると、

「うわっ!」

 廊下を何かが走り抜けていった。犬……ではなく狐だった。狐は和室に飛び込むと、掃き出し窓の隙間から外へと逃げていった。

「あー、しまった。さっき閉め忘れたのか。床が泥だらけだ」

 まあ熊に比べればかわいいものだ。襲われることもないし。そんなことを思いながら居間に戻った華は、

「ああっ!」

 怒りと困惑の混じった声を上げた。さっきそこに置いたコンビニ弁当。今晩の夕食であり、この家にある唯一の食べ物が、ものの見事に食い散らかされていた。その周囲には無数の足跡。謎は全て解けた。

「さっきの狐か! おのれ許さんっ!」

 叫んでみても犯人はすでに逃走済。振り上げた拳の落としどころをなくし、華は大きなため息をついた。

「……がんばっていこう、おーっ……」

 二度目の気合いはちょっぴり頼りない。


 瞬く間に週が明けて。

 引っ越してきて二度目の朝となる月曜日がやってきた。

「……」

 朝、華は古びた洗面所の鏡の前で、自分と向き合っている。

 髪型よし、メイクよし、就職祝いに買ってもらったスーツ、よし。頬には擦り傷がまだ残っていたが、見なかったことにする。

 今日から仕事だ。何事も初めが肝心。戦いはどう入るかで流れが決まる――すでに流れはおかしなことになっている気がしないでもないが。とにかく。パンプスを履いてバッグを持ち、

「よし、行くぞ!」

 気合いを入れて家を出る。

 颯爽と車に乗り込む……ことはできなかった。愛車は警察署の駐車場に走行不能のまま鎮座している。代わりに昨日ホームセンターで買った安物の自転車に、華はまたがった。

 実を言うと自転車通勤は、就職する前にちょっと夢見たことがある。びしっとスーツを着て渋滞をすり抜け、オフィスビルの間を駆け抜けるアクティブなビジネスウーマン。今の自分の姿はそれに似ているようで、やっぱりとてつもなく遠い。

「スーツ着て田んぼ脇の道路走っても、格好つかないよねえ……」

 とはいえろくに信号もなく、歩行者のいない歩道を一人で突っ走るのは、それなりに気分がよかった。

(私ってとことん体育会系だ……)そんなことを思いながら自転車を走らせる。

 インターチェンジにつながる四車線の大きな道路に突き当たる。横断して少し走ると、今日からの職場である、月見食品秋田営業所があった。

「広いなあ」

 守衛もいない門を通り抜けると、小学校のグラウンドほどの広い駐車場があった。社員のものらしい乗用車と、月見食品のロゴの入ったトラック、営業車が並んでいる。その奥の方に小ぶりな体育館ほどの倉庫。大きく開いたシャッターの前で、数人の男女が集まって雑談をしている。倉庫の隣に、まるでおまけのように、こぢんまりとした三階建ての塔のような建物がくっついていた。これが事務棟らしい。

(小さい……洒落てない……)

 ほんのりとした落胆。建物自体は古くもなければぼろくもない。けれど、東京の本社ビルの偉容に比べたら、宝石箱とマッチ箱ほどにも違って見える。

 月見食品株式会社は一部上場企業であるが、一般的な知名度はそう高くない。というのも多くの食品メーカーのような、一般消費者向け製品を製造販売していないからである。

 華が月見食品の存在を知ったのは大学生だった頃。所属していた剣道部が大きな大会で好成績を残し、お祝いとして顧問に連れて行かれた西麻布のレストランでのことだった。舌のとろけるような料理とワイン。店内は洒落て落ち着いていて、他の客もみんな幸せそうに食事を楽しんでいる。その雰囲気を華は一発で気に入ってしまった。まるで恋に落ちたかのように。

「こんなところで働きたい」――そう思ったがしかし、華は料理の才能など全くない。シェフになるのはもちろん無理で、けれど少しでも関わりのある仕事ができないだろうか。それで考えたのが、レストランへ食材を供給する、食品会社への就職だった。

 親には反対された。そんなふわふわした理由で就職したってうまくいくものか。おとなしく地元で公務員になって安定した暮らしをしろ云々。

 けれども華は諦めなかった。なんとしても月見食品に就職し、びしっとスーツを着て、小洒落たレストランを担当する敏腕営業ウーマンになってやる!

 その執念が通じたのかそれとも神様の気まぐれか。華は月見食品の内定を勝ち取った。そして入社してからの一ヶ月の研修の後、念願叶って高級レストランやホテルへの納入を専門にする高級食材ブランド〈グランデ〉を担当する第三営業部への配属が決まった。夢は叶ったかに見えた。しかし、

『勤務地は秋田営業所となる』

 辞令はその一文で締めくくられていた。

 この年の新入社員は五十人弱いたのだが、地方営業所勤務を命じられたのは華だけだった。奇跡のような採用からの、奇跡のような外れクジである。

 かくして華は単身東京を離れ、ここ鷹山町にやってきた。標高の高い山の中にある、小さな町だ。

 あのレストランからは何百キロ離れているのだろう。オフィスビルもなければ一流ホテルもない。見渡す限り田んぼと畑と緑の山々が連なり、熊や狐が闊歩する、ド田舎に。

「……何を間違ったんだろうなあ。体力には自信あります! ってアピールしすぎたか? でも私が他の人に勝ってることってそのくらいだしなあ……っていけないいけない」

 出社前に後ろ向きになってどうする。がんばろう。ここでがんばって仕事を認められれば、本社勤務への道が開けるかもしれない。

「気合いだ気合い。おーっ」

 事務棟の前で自転車を降り、自転車置き場を探して辺りを見回す。ない。裏の方にあるのだろうかと、華は自転車を押して歩いた。と、

「うわあびっくりしたあ」

 事務棟の裏に回ろうとしたとき、そこを歩いていた人にぶつかりそうになった。

「あ、すみません!」

 華は自転車を支えてぺこりと頭を下げる。相手は西住だった。

「おはよう大神さん」

「おはようございます。今日からよろしくお願いします」

 華はもう一度頭を下げる。

 西住は「おや?」という顔をして、

「自転車なの? 遠いでしょ」

「いえ全然。風が気持ちよかったです」

 気持ちよかったのは嘘ではないが、実際結構遠かった。毎日が今日のような好天ではないし、仕事でも使うだろうし、車は早めに何とかしないといけない。

「ところであの、駐輪場って」

「ないよそんなもの。いいよその辺止めちゃって」

 華は通行の邪魔にならないように壁際に自転車を止めた。

「自転車通勤なんて高校生みたいだなあ」

「高校生は通勤しないのでは」

「おっとこりゃおじさん一本取られた」

 そんなことを言いながら西住は事務棟の表に回った。華もその後について行き、一緒に屋内に入る。

 入ってすぐのところに受付カウンターがあり、その向こう側に机を四つずつ固めた島が三つ。半分ほどの席が埋まっていて、社員と思しき人々が電話をしたり、パソコンと向き合ったりしている。

 華と西住が入っていくと、社員たちが一斉に顔を上げた。

「おはようございます、所長」通り道にいた社員が声をかけてきた。「その子が新人ですか?」

「うんそう。期待の大型戦力。これで今年のペナントレースは制したも同然。月見ラビッツは永久に不滅です!」

 社員が「いつからうちは野球チームになったんですか」と突っ込む。ネタが分からない華は愛想笑いを浮かべるしかなかった。

「じゃ、全員揃ってないけど待ってるのも面倒だし朝礼始めよっか。大神さん、こっち」

 フロアの奥まで進んだ西住はそう言って華を呼び寄せる。

 大神と並んで社員たちと向き合った華は、

(あ、失敗したかも)と思った。

 社員はみんなラフな格好だったのだ。チノパンやジーンズにポロシャツだったり、カジュアルなシャツだったり。ネクタイを締めているのは西住ぐらいで、その西住にしてもスーツではなく作業服を着ている。かっちりスーツを着込んでいるのは華一人だけで、明らかに浮いていた。

「えー、皆さんおはようございます。本日からこの秋田営業所に新しい仲間が加わります。はい自己紹介」

「ほ、本日付でこちらに配属になりました、大神華です。出身は神奈川県。まだ越してきて三日目なので右も左も分かりませんが、精一杯がんばりますのでよろしくお願いします」

 勢いよく頭を下げる。パチパチと拍手が起こり「若いなあ」「初々しいねえ」という呟きが聞こえてきた。

「で、大神さんには営業として働いてもらうんだけど……」

 西住がそう言いながらフロアを見回したとき、正面玄関から入ってくる人があった。

「すみません。遅れました」

 そう言いながら入ってきた青年を見た華の感想は(わ、大きい)というものだった。一八五センチ、いや、もしかしたら一九〇あるのではないか。ただ背が高いだけでなく、肩幅が広く、フィールドジャケットの上からでも、しっかりと筋肉がついているのが分かる。どんなスポーツをやっても成功するだろうな、と思わせる体躯だ。

「ああ本城くん。ちょうどよかった。いや遅刻じゃないよ。今日は朝礼をちょっと早めに始めたから。ほら、新人が来るって言ってたでしょ」

「ああ。今日でしたっけ」

 と、本城と呼ばれた青年は華を見た。

 野性と甘さが奇跡的なレベルで混じり合った、凜とした顔。イケメンである。こんな田舎にはもったいないくらいの。思わず見とれてしまうほどの。

「じゃあみんなは仕事に戻ってください。今日も一日がんばりましょう。あ、本城くんはこっちね」

 社員たちがそれぞれの机に戻り、あるいは事務所から出て行く。

 青年は自分の机に鞄を置いてから、華と西住のところへやってきた。動作がきびきびとしていて無駄がないことにも、華は好感を持った。

「大神さん、彼は本城くん。本城猛くんね。大神さんの指導係になるから。分からないことがあったらなんでも訊くように」

 と西住。

「お、大神華です! よろしくお願いします!」

 華はぺこりと頭を下げた。声がうわずりそうになった。心中(やった!)と叫んでいる。

 研修が終わるなりド田舎に飛ばされて、熊に襲われ車は大破し狐に弁当を取られ……ろくでもないことばかりだったが、まさかこんなイケメンに出会えるとは。

(いやいや人を顔で判断するつもりはないよ? でもさ。毎日顔を合わせる相手が格好良かったら嬉しいじゃない? ねえ?)

 悪いことの後にはいいことがある。神様はきっと見てくれているのだ。そんなふうに華は喜んだのだが……。

「嫌です。他の人に頼んでください」

 猛は露骨なしかめっ面をしてそう言った。ちらりと華を見下ろした目には、嫌悪感さえ浮かんでいる。華は戸惑った。初対面なのにどうしてこんな……。

「いや本城くん、そう言わずに」

「そもそもこんな奴、使い物になるんですか?」

 それ以上言わせておくことは華にはできなかった。

「あのっ! そりゃ私は新人で、未熟者ですけど、だからってそんな言い方される覚えもありません! 失礼じゃないですか!?」

「未熟以前の問題だ。熊の前で死んだふりをするような頭の悪い奴が使い物になるわけがない」

「えっ」

 驚く。なんでこの男が土曜日の事件を知っている。華が地元の男性と一緒に熊に襲われたことはニュースになったが、死んだふりをしたことまでは警察の事情聴取でも言わなかったのに。地元の男性は結局華の前では意識を取り戻さなかった。だから知っているのは一人しかいない。

「……まさかあんた、あのときの熊男!?」

 髭がないのですぐには分からなかったが、そう思って聞けば確かに同じ声だ。背格好も一致する。信じがたい、いや、信じたくないことに。

 猛はフン、と鼻を鳴らした。

「命の恩人に向かってあんたとか熊男とか言うのも失礼じゃないか?」

「ぐぬぬ……」

 華は奥歯を噛みしめた。指導係がイケメンで嬉しい、なんて気持ちはとっくに蒸発している。(やっぱり嫌な奴!)あんたに指示を仰ぐなんてこっちから願い下げだ。

「所長、他の人じゃいけないんですか?」

 言外に「私も嫌だ」の思いをにじませて、華は訊ねる。

 西住はうーんと首をひねった。

「太田さんは腰の具合が今ひとつだからねえ……。特殊な仕事になるから独学で、ってわけにはいかないだろうし……」

「特殊な仕事?」

 華は首を傾げた。営業の仕事に特殊なんてあるのだろうか。

「うん。大神さんにはね、害獣駆除をやってもらいたいんだ」

「がいじゅう?」

 一瞬、脳裏に口から火を吐く巨大生物の姿が浮かんだ。もちろん違う。

「有害鳥獣、つまり農作物に被害を及ぼす動物の駆除。罠を仕掛けたり、鉄砲持って鹿や猪をズドンしたり」

「えええええええええっ!?」

 驚きの声はほとんど悲鳴だった。フロア中の社員が振り返り、猛はあからさまなため息をつく。西住だけは態度を変えなかった。華がこういう反応をすることは予測済みだったのだろう。

「今更言うまでもないことだけど、我が社は食品会社だね。全国各地の農家さんから買い集めた肉や野菜を、外食産業へと販売している。この秋田営業所は我が社の高級食材ブランド〈グランデ〉の、北海道と熊本に次ぐ第三の供給地として重要な位置を占めている。評判も年々右肩上がりで、生産量も上昇中なのだけれど、それに比例して野生動物による農業被害も爆増中。ま、おいしいからね、うちの野菜。鹿さんだって狐さんだって食べたくなるよそりゃあ。でも好きに食べさせてたら人間の食べるものがなくなっちゃう。だから追い払ったり、それでもダメなら駆除したり、しないといけないわけ」

 つまりハンターだ。

「営業の仕事ではないような気がするんですけど……」

「いや、もちろん普通の営業の仕事もしてもらうよ。集荷された野菜を箱詰めしたり出荷したり農家さんに肥料を売ったり繁忙期には農作業を手伝ったり」

 それも営業の仕事ではないような気が……いや、そうでもないのか? 取引先の助けになるのも営業活動ではある。ともあれ確かなのは、ここには華が入社以前に思い描いていたようなものは一切ない、ということだ。

「で、そういう契約農家さんの支援活動の一環に、害獣駆除も含まれるわけなのよ」

「じゃあ、ここの営業はみんなやるんですか? 害獣駆除」

「全員ではないなあ。体力的な問題なんかもあるしね。どうだろう。やってもらえるかな。もちろん、銃所持や狩猟免許の取得にかかる費用なんかは会社が持つ。無論、無理強いはしないよ。誰にでもできることではないし。断っても待遇が悪くなったりはしない。それは僕が所長として保証する」

「うーん」

 華は唸った。事情は分かった。体力馬鹿の自分が秋田営業所に配属になったのもこうした事情があってのことなのだろう。しかし、である。

(害獣駆除なんて言われてもなあ。猟銃とか使うんだよね。見たことすらないのに)

 やる気など出るはずがなかった。いきなりだし。ただでさえ地方勤務にがっかりしているところに、この上、鉄砲担いで山に入れなどと。文明社会からどんどん遠ざかっているような気分さえしてくる。

 幸いにして命令ではなく華に選択権があるらしい。それなら断っちゃおうかな、と華は思った……のだが、

「考える必要はないぞ」猛が言った。「どうせ無理だ。山の仕事はお前みたいな東京者の、しかも女に務まるものじゃない。半端な気持ちでやって事故でも起こされたらいい迷惑だ」

「っ!」

 思わず見上げる。猛と目が合った。見下されている、と華は感じた。

 華は自他共に認める体育会系である。高校生から始めた剣道の団体戦では常に先鋒。相手がどんなに強くても決して引かず、むしろ闘志を燃やして攻め立てる。その負けん気の強さがここでも出た。

「無理かどうかはやってみないと分からないじゃないですか!」

 見上げた猛から目をそらさずに宣言する。

 こんな風に見下されて、「できません」なんて言ったら負けを認めたようなものではないか。(そんなの嫌だ。絶対に)。

「やってやりますよ害獣駆除! 矢でも鉄砲でも持ってこい!」



第二章 明後日に向かって撃て?


 矢でも鉄砲でも、は意味が違うのではないか。あれは撃たれる側のセリフな気がする。そんなことを思ったが、今更撤回するのも訂正するのも間が抜けている気がして。華はまなじりにキッと力を込めて猛を見上げている。どんな反論でも難癖でもつけてこい。私は絶対引かないぞ、という強い眼差し。

 猛が何か言おうとし、

「そう? やってくれる? ありがとね大神ちゃん」

 その前に西住が笑顔で割り込んだ。

「いやあ僕は最初からやってくれると思ってたけどね。うん、まあ、よかったよかった」

「あの、それで具体的には何をすればいいんですか?」

 やるとは言ったが何も分かってない華である。猛が呆れてため息をついた。

「詳細は指導係の本城くんに聞くように。いや、面倒だから丸投げしてるんじゃないよ? 彼が適任だと確信してるから任せるんだ。そんなわけで本城くんね、害獣駆除だけじゃなくて、業務全般教えてあげるように」

「俺は嫌ですよ」と猛は渋い顔をするが、

「業務命令」

 西住が抑えた声でそう言うと、猛は口をつぐんだ。

「それじゃあ後は若い二人におまかせするということで」

 昔のドラマに出てくるお見合いおばさんみたいなことを言うと、西住は手をひらひら振りながら階段を上がっていく。

「……前言撤回するなら今だぞ。本当に、女子供には向かない仕事だ」

 猛がむすっとした顔で言った。

「しません。向かないとできないは違うと思います」

「無理だと思ったらいつでも言え」

 華がすぐに言い返すと、猛はさらに言い返してきた。

(しつこいなあ)と思う華。

 華の方も大概しつこくて面倒な性格なのだが、本人にはその自覚はないのであった。

「ついてこい」



 事務所を出た猛は駐車場の隅に向かって歩く。大股かつ早足だ。軽く走っているかのような速度に、パンプスを履いている華は置いて行かれそうになる。

 猛の車は持ち主によく似た、でかくて無骨で無愛想な四駆だった。

(……かわいくない。燃費悪そう)

 猛は無言で運転席に乗り込んで華を見下ろす。さっさと乗れ、と言うことか。

 車の反対側に回り込んで助手席に乗り込むと、山の匂い――柔らかい土と木の匂いがした。ちらりと後ろを見ると、後部座席にキャンプ用具らしいものが大量に積まれていた。

「どこに行くんですか?」

「警察署だ。銃を持つには公安委員会の許可がいる」

 会社を出て街に向かって走る。猛の運転は意外にも丁寧だった。もっと荒っぽくて自己中心的なオラオラ運転をするかと思っていたのに。

「……お前、借金は?」

「なんですかいきなり。ありませんよそんなもの。あ、車のローンは全額残ってますけど」

「それだけか?」

「それだけですけど?」

「親族に借金してたり、金遣いの荒い彼氏がいたりとか」

「しませんし彼氏もいません。というか失礼じゃないですか? いきなりプライベートに踏み込むのって」

「仕事に関係があるから聞いている。今言ったような場合には銃の所持許可はまず下りない」

 聞いた理由は分かったが、それでも聞き方ってものがあるでしょ、と華は思う。

 無神経。不躾。無愛想。これからしばらく、仕事中はずっと猛と一緒なのだと思うと、憂鬱な気分になった。

 警察署へ到着し、中に入る。総合窓口へ向かおうとすると、署内にいた警察官が華を見つけて「あ」と声を上げた。華の方も相手に見覚えがあった。土曜日の熊事件で事情聴取に来た警察官の片割れだ。

「やあどうも。今日は素敵な格好ですね。別人みたい。お車を引き取りに?」

 警察としては駐車場の一角を占有しているスクラップを早く片付けたいのだろう。

「おーい、熊のお姉さん来たぞー」

 と交通課員がいる方に声をかける。自分が警察署でそんな呼ばれ方をしていたことに華は苦笑いを浮かべ、

「あー、いえいえ今日は別件です」

「別件?」

「銃が欲しいんですけど」

「銃? そりゃ警察だから銃ぐらいあるけど普通の人に売ったり貸したりは……」

「いやそうじゃなくて」

 ここで猛が身を乗り出して割り込んだ。

「月見食品の本城です。うちの新人が害獣駆除班に加わるので、そのために銃所持許可の申請に来ました」

「月見食品さんの。ああなるほど……って、ハンターやるの? この子が?」

 猛は渋い顔をして、

「社としては、そういう方針らしいので」

 俺はまったく同意してないぞ、と言外にくっきりと臭わせる発言である。

 警察官は分かりましたとうなずいて、生活安全課の窓口へと華たちを案内した。すると……。

「それでは、これが鉄砲所持許可申請書。これは猟銃等講習会の受講申請書。こっちは射撃教習の申請書、経歴書、同居親族書……」

 次から次へと出るわ出るわ。申請書類のわんこそばだ。

「これ、全部書くんですか? すごい量……」

「これで全部じゃありませんよ。このほかに住民票と身分証明書と写真と、医師の診断書が必要になります」

「うへぇ……って、診断書?」

「責任能力の確認のためですね。銃は危険な道具ですから」

 窓口の婦警は真面目な顔で言った。それから拡げた書類をまとめて封筒に入れ、その上に小冊子を置いた。『猟銃等取扱読本』とある。

「講習の後はすぐ試験になります。しっかり勉強してきてください」

「うっ、試験かあ」

 試験と名前のつくものは全部嫌いだ。

 警察署を出て車に戻ると、華はもらったばかりの封筒から、書類を何枚か引っ張り出してみた。申請書の他にも資格取得への流れが解説されたチラシのようなものが入っている。それによると、銃を所持するためには、

 1、初心者講習を受ける。

 2、射撃教習を受ける。

 3、所持申請をする。

 4、銃を購入する。

 この四つの段階をクリアする必要があるらしい。申請書はいっぺんに用意しなければいけないわけではなく、各段階ごとに違うものを提出する。書類が多くてやたら煩雑に見えるが、やることは一本道なので順を追っていけば問題ないだろう。

 と、華は気づいた。

「……先に写真を撮ってきてあれば、最初の申請って今日のうちにできてたんじゃないですか?」

「そうだな」

 猛は平然と答える。

「分かってたなら教えてください。これじゃ二度手間じゃないですか」

「一から十まで世話をしろとは言われていない」

 そうきたか。業務命令と言われて渋々従っただけで、華を助けるつもりなど全くないのだ、この熊男は。

(地味な嫌がらせしてくるなあ。セコい)

 嫌な奴ポイントがまた増えた。と、

「……銃は人を殺せる道具で、山は命の危険がある場所だ。自ら学んで知識と技術を身につけられない人間は銃を持つべきじゃないし、山に入るべきでもない」

 猛は独り言のようにそう言った。華はふと顔を上げ、猛を見る。横顔にちらりと、苦い後悔のようなものが浮かんでいた――と見えたのは気のせいだったのかもしれない。猛は車のエンジンをかけると、嫌みったらしい口調でこう言ったのだった。

「やめたくなったらいつでも言え。できれば早い方がいい」



 会社に戻ったのは、昼休みにはちょっと早い微妙な時間だった。

「ああ戻ってきた。大神ちゃんの席はそこね」

 奥の所長席でお茶を啜っていた西住が、窓際の何も置かれていない机を指差す。猛の隣だ。予想どおりというかなんというか。本当に仕事中はずっと一緒かと思うとげんなりするしかない。

 猛は席につくとどこかに電話をかけ始めた。華への指示は何もなし。いっそ清々しいほどのスーパー放置プレイである。

(ふん!)

 華は鼻息荒く席についた。仕事も何もないので、警察署でもらった、猟銃等取扱読本を読み始める。あっという間に頭が痛くなった。

(用語がさっぱり分からない……「実包」ってなに? 何を実際に包むの?)

 内容としては書名のとおり猟銃の種類と取扱の解説、銃刀法の解説、その他狩猟にまつわるあれこれである……多分。何も文章が難解で判読すらできないというわけではないのだが、全くの未知の世界、予備知識も何もないところからのスタートだ。

(これは結構、いやかなり、めちゃくちゃ苦戦する……かも)

 かもじゃなくて苦戦する。絶対。

 ふと視線を感じて横を見ると、猛が電話をしながらこちらの様子をうかがっていた。

 ――もうやめたくなったか?

 視線がそう言っているような気がして、華は猛を睨み返した。

(私は、絶対、熊男なんかに負けないんだから!)



 初日の仕事は教本を読むだけで終わる――というわけにはいかなかった。

 むしろ教本を読み込む時間など与えられなかった。

「家は近所だったな?」

 昼休みの直前、猛にそう訊ねられた。

「そうですけど」

「午後から外回りに行くから、一旦戻って着替えてこい。動きやすくて汚れてもいい格好だ」

 そんなわけで華は一度帰宅し、私服に着替えた。近所といっても自転車で十数分はかかる。街の方に行ってコンビニに寄り(これにも十数分かかる)、おにぎりと飲み物を買って会社に戻ってきた頃には、午後の業務が始まる直前になってしまった。

 席について、昼食を大急ぎで口に詰め込み飲み下す。ふと隣を見ると、猛は明るい黄色の、何ともかわいらしい弁当箱を使っていた。弁当袋は動物柄だ。ギャップに思わず微笑んでしまうと、じろっと睨まれた。

「食べ終わったなら行くぞ」

 猛は弁当箱を鞄の中にしまうと不機嫌そうに椅子を鳴らして立ち上がり、早足で事務所を出て行く。華もゴミを片付け急いで後を追った。

 行き先は事務所の隣の倉庫だった。倉庫の奥には袋入りの肥料や農薬がぎっしりと積み上がった一角がある。猛は華に書類を挟んだクリップボードを渡して、

「うちは農産物を買い取る他に、契約農家への肥料や農薬の販売もやっている。今日はここに書いてあるものをトラックに積み込んで、注文のあった農家へ配送する。そこの台車を使え」

 と指示した。

 華はとりあえず台車を引っ張ってきて、それから書類を見た。

「……『有機栽培スーパーグローⅢ』、『雑草ダイナミック』、『エクセル』、『ゴールデンハーベスト』、『天穹』、『グレイテスト豊穣』……なにこれ?」

「なにって、肥料と農薬だ。見たら分かるだろ」

 確かに見れば分かる。どれもビニール袋の全面にでかでかと名前が書いてある。華が首を傾げたのは、それらのネーミングセンスに、である。

「……ダサ」

「名前で品質が変わるわけじゃない」

 それはそうなのだけれど。

「文句を言う前に手を動かせ。ちんたらしてると日が暮れる」

 猛はそう言いながら肥料袋を台車へと積み始める。華もそれに倣って作業を始めた。台車がいっぱいになったらトラックへ積み込み。袋は軽いもので五キロ、重いものは二十キロほど。初めのうちはひょいひょい運んでいた華だが、すぐに動きが鈍ってきた。

「落とすなよ」

(信じられないこいつ。普通こういうときって「大丈夫か?」とか「無理はするな」じゃないの!?)

「大丈夫ですこのくらい! 剣道で鍛えてるので!」

 できませんなんて意地でも言ってやるものか。

 歯を食いしばって積み込み作業を続ける。注文分の肥料と農薬をトラックに積み終えると、妙な達成感があった。やってやったぞこんちくしょう。

 どうだ! 女だからって馬鹿にするな!――そんな気分で猛を見やるが、猛の方はとっとと運転席に乗り込んでいるのであった。

「早く乗れ」



 猛と二人、トラックで契約農家を訪ねて回る。月見食品と契約している農家は鷹山町だけでなく、隣接している市にも広がっていて、移動距離は相当なものだった。

 トラックを走らせ、農家に挨拶し、肥料を降ろして受け取りサインをもらい、またトラックに乗って次の農家へ。宅配業者になった気分だ。

 ひとつ、華には意外だったことがある。

『農家』の姿である。農業というのは畑を耕し土にまみれて汗かいて……そんな素朴で木訥な光景を思い描いていたのだが、実際に訪ねた農家はばかでかい農機が地響き立てて水田をかき回し、あるいは奥が霞んで見えるほどの長大な温室を何棟も並べていて、畑で鍬を振る人など一人も見かけなかった。IT化も進んでいる。畑の上を飛び回るドローンが作物の状態をカメラ撮影し、農家はそれを手元のタブレットで確かめられる。さらには農業支援アプリなんてものまであって、育成状況に異変があればすぐに警告までしてくれるらしい。

(田舎のはずなのに何この未来感……。ギャップにめまいが)

 考えてみれば一種類の作物だけでも億単位の取引があるのだ。家庭菜園などとはスケールが違って当たり前なのだが、実際目にしたそれは都会育ちの想像を遥かに超えたところにあり、華は何度となく圧倒された。

 農業というものの認識を、根底から塗り替えられたのである。

「こんにちは。月見食品です」

 とある中規模農園。トラックを降りた猛が声をかけると、

「ああ、猛くん。いつもごくろうさん」

 農園の主である男性が会釈をよこし、それから視点を華に向け、また猛に戻してにやにや笑った。

「なんだなんだ。今日はずいぶんめんこいの連れてること。嫁っこか?」

「うちの新人の大神です」

 猛は表情も変えずにそう返した。

 からかうつもりが当てが外れたのだろう、男性はちょっとつまらなそうな顔になる。

「大神華です! よろしくお願いします!」

 華はさっと前に出て、元気よく挨拶した。

 猛はすぐに仕事にかかる。華も文句を言われる前に動く。

 肥料をトラックから降ろしていると、猛に電話がかかってきた。

「ちょっと離れる。サボるなよ」

「言われなくてもサボりませんよ」

 と華は言い返した。

 そのまま作業を続けていると、農家の男性が、「一人じゃ大変だろう」と手伝いに加わってくれた。

 えっちらおっちら荷降ろししながら華は、ふと気になったことを訊ねてみた。

「……ちょっとお伺いしたいんですけど、本城さんとはお知り合いなので?」

「ん? そうだねえ。うちの担当になったのは去年からだけど、猛くん本人は、子供の頃から知ってる相手だ」

 なるほどそれで親しげだったのか。

「猛くんの何が聞きたいんだい?」

「本城さんって独身なんですか?」

「あんた猛くんに気があるのかい?」

「まさか!」

 全力否定。奴は敵だ。好意なんてとんでもない。

「妙にかわいいお弁当箱使ってたから、似合わないし、あれ、奥さんの趣味なのかなって思って」

「猛くんは独身だよ。浮いた話一つ無い。早く身を固めろってみんな言ってんだけど。今は『山が恋人』って感じだな。弁当箱は妹さんの仕業だろう。猛くんのところ、ご両親がいなくて兄妹だけだから」

 両親不在――なにか不幸でもあったのかと華は思ったが、違った。

「猛くんのお父さんは山岳写真家なんだ。本城隼斗って聞いたことない? 立派な賞を幾つももらってるんだけど。知らないか。実は俺もよく知らない」と笑って、「で、猛くんのお父さんは奥さんと一緒に撮影旅行で日本どころか世界中飛び回ってるから、こっちには正月くらいしか帰ってこないんだわ」

「へえ」

 華は猛の後ろ姿を盗み見た。芸術家の息子……にはまったく見えない。まあその手の才能は遺伝するものでもないだろうが。

「他に何か聞きたいことは?」

「えっと、それじゃあ……」

 あの人なんであんなに性格悪いんですか?――そう聞こうとした華であったが、その前に猛が戻ってきてしまったのでできなかった。

 荷降ろしを終え、伝票にサインをもらう。今日の配達はここで最後だった。

(はあ、やっと終わった。疲れたなあ……)

 剣道部を引退して以来、ここまで体を動かしたのは久しぶりだ。

 帰りの助手席で眠たくなったが、華は必死で耐えた。居眠りなんてしようものなら猛に何を言われるか分からない。

 五時少し前に帰社。

 トラックを降りた華は「うーん」と背伸びをしてから猛に向き直った。

「お疲れ様でした」

 ちょっと早いが終業の挨拶をしたつもり、だったのだが、

「なに言ってるんだ。仕事はまだ終わってないぞ」

 猛は真顔でそう答え、駐車場の出入り口を指差す。荷台に野菜を積んだ農家のトラックが続々と敷地内に入ってきていた。

「これから首都圏向けの夜便の出荷作業だ」

「終わるのは……」

「今の時期は出荷も少なめだから、まあ八時ってところだな」

 最盛期には何時までかかるのか、怖くてとても聞けない華であった。