不幸は続けてやって来る。

 それも、もう結構です、お引き取りください、謝りますので許してください、マジでもう無理なんで、と切実に思ってしまうほど、絶え間なく襲い掛かってきてくることがある。

 例えば今、出勤したばかりの僕が倒れそうなほど空腹なのは、朝食を食べ損ねたからで、なぜ食べ損ねたのかというと今朝我が家にあった食料が卵一個だったから。その卵も卵焼きにしようと思ってボウルに割り入れようとしたところ、中身はボウルの傍を通過し排水溝に飲み込まれるという事故が発生、僕の腹の中には収まらなかった。ああ、せめて目玉焼きにすればよかった。でもそのときは卵焼きの気分だったのだからしょうがない。そしてなぜ、卵一個しかなかったのかというと、前日、職場からの帰りがけに酔っぱらいに絡まれて散々な目に遭い、買い物に行く気力がなくなってしまったから。その前も、職場の後輩の相談にのって休みが潰れ、その前は上司の「最近の若い子はよくわからん」という愚痴につき合わされて、という日が続き、残った時間を睡眠不足解消につぎ込んでしまった結果である。

 その不幸一つひとつが些細なことであっても、雪だるま式に膨れ上がり、そして最終的にはとんでもない爆弾になっている。つまり、正しくは、不幸は連鎖する。

 しかもその爆弾は、とんでもないところで爆発するのだ。

 今日は日勤だったため、出勤したのは朝の混みあう時間帯だった。揉みくちゃになりながらも職場である〈こはるの駅〉で下車をする。ホームは十番線まであり、ここで降りる乗客はもちろん、乗り換える人も多い。それなりに規模の大きなターミナル駅だ。そんな乗降客の群れを掻い潜り、やっとのことでロッカー室までたどり着いたときだった。急に駅長に呼び止められたのは。

「日渡君、来週から落とし物係だね。よろしく」

 軽い感じでそう駅長に告げられて、最初に心に湧き上がったのは「何か問題でも起こしたのだろうか」という危惧だった。入社してからというもの、駅係員、車掌と順調にキャリアを積み重ねてきた。そしてついに去年、試験を突破して念願の運転士になれた。それなのにこんな短期間で異動になるなんて……。もしかして、昨日の酔っぱらいへの対応がまずかったのだろうか。

 内心狼狽したけれど、駅長はそれをすぐさま否定した。

「え? 違う、違う。別に君が何かやらかしたからとかじゃないから。それは誤解だから安心してよ。たまたま、前任者の北沢君が異動することになってね。うん、というか、もう限界だって言われちゃってね。あそこ、あと一人は必要だし、じゃないと業務に支障が出るし、というかもうすでに業務がほぼストップしちゃってるし」

 それはマズいだろう。あはははと軽快に笑いながら言うことじゃない。

「君、面倒見がいいから適任だと思ってね。お客さんへの対応も親切だと思うしさ。それに、君、後輩たちから評判いいんだよ。あと、周りに相談したら、君がいいってみんな言うんだよ。というか、あそこでやっていけるのは君しかいないってね。ほら、以前、立派にあの彼の指導係を務めてくれたじゃない」

 もしかして、最近の後輩からの相談や上司の愚痴に付き合わされたのって、その伏線だったのだろうか。

「というわけで、急で申し訳ないけど、よろしく」

 仕舞いには全て部下に丸投げか。よほど関わりたくないと見える。

「あと北沢君からの伝言だけど、掴むなら首根っこだってさ」

 不幸の締めくくりには、意味のわからないアドバイスまで貰うという、余計すぎるオプション付きだった。



 僕が配属されることになったのは、千葉県内のこはるの駅構内にある「遺失物係」、通称「落とし物係」。こはるの駅の落とし物、忘れ物はもちろん、近隣駅に届けられた落とし物や、こはるの駅を通る路線の電車内に置き忘れられたものを管理する係である。ターミナル駅などに設置されていて、千葉県内にもいくつかある。

 落とし物をしない限りはお客さんも訪れることがないので、ここの存在を知らない人も多いのではないだろうか。場所も駅の端、つまりは辺境にあるので、それも仕方がないのかもしれない。

 現在「落とし物係」の職員は二名。僕を入れて三名になるのだが、ここ最近、その三人目がころころ変わっている。長い人は半年もったらしい。ちなみに最短記録は三日。前任者の北沢さんは二週間で、それにも驚いたけれど、もっと短い人がいたとは。

 昔はそんなことはなかった。落とし物係が敬遠され始めたのは、ここ最近のことなんだよ。周りの同僚たちはため息交じりにそう語る。

 そうなってしまったのは、あの二人が落とし物係になってからだと。

 異動の初日、これからどうなるのだろうかと憂鬱な気持ちを抑えつつ出勤した。職員用のロッカー室で着替えた後に向かったのは、バックヤードの廊下の果てにある、「遺失物係」という看板がかかった部屋だ。真向かいにもドアがあって、そちらは落とし物を保管する倉庫になっている。僕は看板がかかったほうのドアを押し開けた。

 さほど広くない事務室には事務机が並べられ、机の上にはパソコンが置かれている。その向こうにはカウンターが設えられていて、忘れ物を取りに来た乗客の対応をする。乗客が事務室へ入る正面ドアはガラス製で、外から中が見えるようになっていた。

 その事務机の一角に、こちらに背を向けるようにして座っている女性職員の姿があった。熱心に何かを読んでいるのか、ぶつぶつと呟く声が聞こえた。近づきたくないというのが正直なところだが、それではいけない。彼女は、これから一緒に働く同僚なのだから。

「おはようございます」

 声をかけると、彼女は座っていた椅子が倒れそうな勢いで立ち上がった。そして恐る恐るこちらを振り返る。大人しそうな女の子だな、というのが僕の第一印象だった。

「あの、今日から異動になりました、日渡です。よろしく」

「よ、よろしくお願いします。須藤です……」

 須藤さんはやけにかくかくした動きで頭を下げた。

 丁寧にお辞儀をする彼女は、蚊の鳴くような消え入りそうな声音で少々顔色が悪かったけれども、それ以外は至って普通の子に見えた。

 落とし物係、その一、須藤舞子。

 年は確か僕の四つ下の二十五歳。今のところ落とし物係の一番の古株である。彼女が落とし物係に配属されてからだ、ここを敬遠する職員が徐々に出始めたのは。

 彼女と共に働いたことがある人の評価によると、彼女はとにかく融通が利かない。要はイレギュラーに弱く、マニュアルにあることしかできないらしい。それくらいなら、最近の若い子だからまあ仕方がない、で片づけられるかもしれないが、片づけられないのは彼女の思考回路が異常なほどネガティブに傾いているからだ。ちょっとした注意でも世間話でも、とにかく悪い方へと考えてしまい、この世の終わりかというほど落ち込む。ネガティブな妄想が暴走し、本人はもちろん、周りもそれに引き込まれて仕事どころではなくなってしまうという。

 そのため周りは彼女のことを劇場型ネガティブと呼んでいる。

 彼女の存在は知っていたが、遠目に見たことがあるだけだった。あまりにも見た目は普通過ぎて、ちょっと拍子抜けしてしまったが、彼女が胸に抱えているものに目が留まってぎょっとした。彼女が抱えていたのは分厚い冊子で、『どんな人にも好印象を与える挨拶マニュアル』とでかでかと書かれていた。もしかして、さっき熱心に読んでいたのはそのマニュアルなのだろうか。

 僕は事務室内をきょろきょろと見回した。

 おかしい。落とし物係にはもう一人いたはずなのに、姿がない。

「須藤さん。成島は? もう出勤してるはずだよね?」

「はい、その予定ですが……今日はまだ……」

 須藤さんはマニュアルをしわができるほどぎゅっと握り、ぼそぼそと答えた。

 僕は思わず頭を抱えた。そして、思い出す。かつて、あいつの教育係となってしまった苦しい日々を。

 そんな僕の憂いを吹き飛ばすかのように、勢いよく甲高い機械音が鳴り響いた。事務室の電話機が鳴ったのだ。

 落とし物係に配属となってかなり年月が経っているのに、なぜか須藤さんがびくっと怯えたような反応をした。しかも、なかなか受話器を取ろうとしない。

 僕はため息をつくと、仕方なしにその受話器を取った。



 落とし物係にかかってきた電話は、駅の五番ホームに落とし物があるので取りに来い、という駅係員からの要請だった。不審な荷物が置きっぱなしになっていると乗客から言われたらしい。しかし、今は朝の通勤、通学ラッシュの時間帯。駅員や車掌たちは忙しく、そんなことに構っていられない。なのでこちらにその確認依頼が来た、というわけだ。

 異動初日の人間に行かせるのはずいぶん人使いが荒いとは思ったけれど、須藤さんは真っ青な顔になってあわあわしていたし、もう一人の職員は姿が見えないので、残る僕が行くしかない。つまりは、始めからこの選択肢しか残されていなかった。素直に指示された五番ホームへと向かう。

 五番ホームは電車が出発した直後のせいか、思っていたよりも閑散としていた。しかし、改札口へ降りる階段の近くには、不自然な人だかりができていた。足早にそこへ向かうと、僕の姿に気付いた人たちがほっとしたような表情で道を開けてくれた。

 人だかりの真ん中にはぽっかりと穴が開いていた。その中心にあったのは大きな荷物が入っていると思われる布製の袋。よく買い物で使われるエコバッグのようだ。特に不審な点は見受けられない。至って普通の荷物に見える。

 しかし、このご時世、何が置かれているかわからない。

 フィクションにおける定番――爆発物なんてことはないよな。

 心の中でそんな冗談を呟き、荷物に一歩近づく。

 途端、カサカサ、ゴソゴソと音がした。

 一瞬で、全身の肌が粟立った。

 あの中には何かがいる。ある、ではなく、確実にいる。

 何かが中で動きまわっているような、落ち着きがない音。

 中に入っているのが得体の知れない動物だったらどうしよう。

 乗客たちの不安そうな表情の意味がわかった。正直、僕も逃げ出したい気持ちでいっぱいだったが、これも業務の一つだ。腹を括ろう。

 いざ、その袋に手を伸ばそうとしたときだった。僕と同じ駅員の制服に包まれた腕が、目の前をすっと横切る。

「あ」

 ひょろりとしたその人物は、僕の間抜けな声を無視し、躊躇うことなく袋に手をかけた。そして袋の中を覗き込み、ぱっと目を輝かせた。

「白いウニ?」

「……そんなわけあるか」

 白いウニなんかいないし、そもそもウニはあんなに音がするほどアクティブに動かない。それにウニは水中生物である。動いてもカサカサ、ゴソゴソなんて音はしない。

 呆れるあまり思わず出てしまった僕の突っ込みに、彼が振り返った。

 僕を見て驚いたように目を見開き、それから人懐っこく笑う。

「あれー、日渡先輩じゃないスか。おはようございまーす」

「今言うのがそれか」

 不審な袋に手をかけたのは、落とし物係のもう一人の職員、成島だった。

「だって挨拶は基本だからちゃんとしろって俺に言ったの、先輩じゃないスか」

 確かに言った。けれど今はそんな悠長に挨拶を交わしている場合じゃないと思うんだが。

 というか、そもそもなぜここにいる。

 そう僕が問いかける前に、成島が続けて言った。

「だって、ウニっぽいですよ、これ。丸いし、とげとげしてるし」

 彼が指差したものを覗き込む。袋の中には金属製のケージが入っていた。底には木製のチップが敷き詰められ、ケージの側面にはプラスチック製の回し車が置かれている。

 その回し車のすぐそばで丸まっていたのは、全身で周囲を威嚇しているハリネズミだった。



「北野さんの後任って先輩だったんスね」

 事務室に戻って来るなり、成島が呟いた。

 落とし物係、その二、成島翔太。

 須藤さんに続いて落とし物係に配属された「厄介者」だ。入社するや否や、最短で落とし物係となったのだから、ある意味伝説を作ったのかもしれない。

 とりあえず、自由人なのだ。言動も行動も。業務中でも姿をくらまし、余計なことに首をつっこみ、仕事を増やす。

 それに同僚の名前を覚えない。奴が僕のことを「先輩」と呼ぶのは尊敬の念を込めているからではなく、なかなか職場の人の名前を覚えられないからで、とりあえず年上は先輩と呼んでおけばどうにかなると思っているためだ。どうも大学の先輩からそう指導されたらしいが、その先輩にとっても苦肉の策であったに違いない。

 とりあえず、僕の名前は覚えていたようなので、少しは成長したのだろうか。いや、先週まで一緒に働いていた北沢さんの名前すら覚えていないので、僕の場合はたまたまだったのだろう。

「連絡はあったはずだ。それに、前任者は北野さんじゃなく北沢さんだからな」

「えーあー、そんなこと聞いたようなないような」

 成島は曖昧なことを言って誤魔化す。やっぱり、ちゃんと聞いてなかったな、こいつ。

「そんな細かいこといいじゃないっスか。せっかくの再会なんスから」

 成島の言う通り、こいつが入社したばかりの頃、少しの間だけ一緒に働いたことがある。そのとき、幾度こいつを探しに駅中を走り回ったことか。思い出しただけでうんざりするほどだ。

 何の因果か、そのときもちょうど車掌から駅係員に異動になった時期だった。今思うと、あのときも裏で大きな力が動いていた可能性がぬぐえない。

「正直、僕はお前と再会なんてしたくなかった」

「先輩、ストレートに酷いっス!」

 それはこちらの台詞である。しかも、奴は上から目線で「まあ、ここでは俺の方が先輩なんで、わからないことがあったら何でも聞いてくださいよ」と言ってきたが、全くもってそんな気になれない。

「な、成島さん、先輩に向かって、それ以上言わないほうがいいと思います」

 やけに深刻な声音で須藤さんが釘をさす。須藤さんのほうが先輩なのに遠慮しているのか腰は引けていたけれど。それに対し、当の成島は「そんなことないっスよ、須藤さんは心配し過ぎっス」とからからと笑った。

「だって、先輩だし。全然平気っス」

「どういう意味だそれは」

 僕の言葉をさらっと無視し、成島はさきほど収容したばかりの袋の中からケージを引っ張り出す。その中のハリネズミは、ホームで見たときと同じ丸い状態のままで、全身でこちらを威嚇していた。プシュープシューと勢いよく空気を吐くような音もしている。

 ハリネズミの色は一般的なイメージである濃い茶色ではなく、全体的に色素が薄い。針は白く、根元の部分だけほんのり茶色がかっている。そのため、成島が言った通り「白いウニ」に見えなくもない。

 成島がそのケージを須藤さんの目の前に置いた。すると、ほんのわずかだが、彼女の頬に赤みが差したように見えた。わかりにくいが目もぱっと輝いている。

「俺思ったんスけど、ウニを初めて食べた人って、マジすごいと思いません? よくあんなのを食おうと思ったなって。普通思わないじゃないっスか。マジ神っス」

「それをハリネズミ見ながら言うな。食えないぞ」

「わかってますって」

 そう返しながらも、成島の視線はハリネズミに張り付いたままだ。

 ハリネズミはそれに気付いたのか、警戒を強めてますます丸くなったような気がした。

 布袋の中に入っていたのは、このケージとブランケット、そしてビニール袋だ。ビニール袋の中には透明なジッパー付きの袋がいくつも入っていた。その中身は固形の餌で、一食ずつ小分けにされているようだ。その他にも小さな紙袋が入っていた。

「これ、何が入ってるんスかね?」

 成島は紙袋の一つを手に取り、中身をひっくり返した。

 すると、茶色くて細長いものが机の上に落ちた。成島が瞬時にそれから離れて叫んだ。

「これ、虫じゃないっスか! なんで虫なんか入ってるんスか!」

 袋の中に入っていたのは、成島が言った通り、小さな虫だった。とっくに息を引き取った茶色い幼虫を乾燥させたもののようだ。餌と同じビニール袋に入っていたということは、これもハリネズミの餌なのだろうか。

 成島と同じ意見なんてちょっと嫌だが、僕も少し引いていた。

 けれど困惑している僕らとは違い、須藤さんの態度は変わらず、それどころかつぶさにその虫を観察している。

「須藤さん、これ何の虫か知ってる?」

 もしかしてと思い問いかけると、須藤さんはピシッと固まった。

 そしておそるおそる小声で確認してきた。

「わ、わたしに聞いてます?」

「そうだけど。ここに須藤さんって一人しかいないし」

 須藤さんは周りをきょろきょろ見回してから納得したように言った。

「……確かにそうですよね」

 そして「間違っていたらすみません、本当にすみません」と平身低頭して前置きした後、「おそらくドライミルワームだと思います」と答えた。

「ミルワーム?」

「ゴミムシダマシという虫の幼虫を乾燥させたものです。友達がトカゲを飼っているので、餌としてあげているのを見たことがあったのを思い出したんです。友達によると爬虫類とか小動物の餌に使われているということでして」

「ハリネズミって虫を食べるんスか? えー、ちょっとショック。こんなに可愛いのに」

「その、友達の話だと、主食としてではなく、おやつとして与えるとかで、生きたミルワームを与えることもあるそうです」

「え、生きたやつっスか?」

 ハリネズミの生態について詳しいことは知らないけれど、虫が好物なのは意外だった。ビジュアル的にも、可愛い顔のハリネズミが生きた虫を食べている姿はあまり想像したくないというのが正直な感想だ。今は完全に白いウニと化していて、顔が全くわからないけれども。

 僕はもう一度袋の中に入っていたものを確認する。ケージ、給水ボトル、回し車、ブランケット、餌、そしてハリネズミが一匹。更に袋の底には四角くて平べったいプラスチックの板のようなものが入っていた。

「これって、なんだろう?」

「ヒーターみたいっスね。ハリネズミは寒さに弱いらしいっス。コンセントに挿して使うみたいで、あとあのミルワームはやっぱりハリネズミの餌みたいっス。大好物だけれど、脂肪にしかならないから、あくまでおやつらしいっスよ」

 ハリネズミについて検索をかけたのだろう。成島は持っていたスマホを見ながら喋った。

 業務中に私物のスマホを堂々と弄るのはいかがなものだろう。注意は後でするとして、とりあえずハリネズミの処理をしなくては。

 ブランケットも防寒用のものなのかもしれない。確かに春になったとはいえ、朝晩は真冬のように冷える日もある。餌も二、三日は持ちそうだし、回し車もあるのでこのままケージに入れておいても運動不足になるようなことはないだろう。

「用意がいいな。これだけあれば、しばらくは世話ができるようになってる」

 ハリネズミと共に入っていた品々からは、そんな配慮がうかがわれ、同時にハリネズミに対する飼い主の深い愛情が感じられた。

 それなのに、このハリネズミは朝の駅のホームに置いて行かれてしまった。

 僕が心の中で思った疑問を、成島は口に出して首を捻った。

「なんであんなところに置き去りにされてたんスかね。先輩はどう思います?」

「さあ、皆目見当もつかないな。須藤さんはどう思う?」

 という僕の問いに、須藤さんはこれまた心臓が飛び出るほど驚いたようで「え? ま、また、わたしですか?」と言ってきた。それに、今度は成島が頷く。

「そうっス。ここにいる須藤さんは一人だけっス」

「それも、そうですね。確かに……じゃあ、例えばですけど、捨てハリネズミ、だとか?」

「こんな時間に、しかもあんな人の目が多い場所に捨てるかな?」

 須藤さんの見解に僕は素直に意見を述べただけのつもりだった。

 しかし、瞬時に、須藤さんの口元が強張った。

 これまで会話がそれなりに繋がっていたから油断していたのだ。

 あ、まずい。そう思ったが遅かった。

「そうですよね、普通あんな通勤時間帯のホームになんか捨てないですよね。なんでもないです、忘れてください、わたしの意見なんて全然参考にならないし、参考どころか逆に迷走しかねませんので、迷惑をかけてしまうだけです。事態の混乱を招きます。ミスリードです。今すぐ記憶から抹消してください、今、すぐに!」

 目をカッと見開いてまくし立てる須藤さんに押され、僕は一歩後退した。

 やってしまった。

 どうやら僕は彼女のネガティブスイッチを押してしまったらしい。

「わたしが見当違いな意見を言ったせいで、このハリネズミは捨てハリネズミと認定、同情が寄せられ新しい飼い主探しが始まり、新しい飼い主が決まったと思ったら元の飼い主が名乗り出て、いったいどっちが本当の飼い主なのか、まるで大岡裁きの子争いのようなことが起こってしまうかもしれない……二人の人間にそれぞれの前足を引っ張られるハリネズミ……ああ、悲劇です。わたしの意見なんて、折れたシャーペンの芯のようなもの、つまりはゴミなのにそれが生意気にもしゃしゃり出たせいで!」

 劇団員さながらのオーバーアクションに、ぽかんとしてしまう。

 これが噂に聞く、劇場型ネガティブというやつか。

「聞いてはいたけど、ネガティブって一周回るとテンション高くなるんだな、本当に」

「想像力たくましいっスよね、須藤さん。マジすごいっス」

 成島はなぜか目を輝かせている。

 そこで須藤さんははっと我に返ったらしい。そして僕を振り返るなり青い顔でがくんと膝をつく。

「やってしまった……初日に日渡さんの前で暴走してしまうなんて……黒歴史です。せっかくマニュアル通りに挨拶ができたのに、こんな大失敗をしてしまうなんて、恥ずかしさでのた打ち回りたい、ゴロゴロしたい」

 と床にへたり込んで悲壮な顔でぶつぶつと呟いた。

「ま、まあ、とにかく飼い主から問い合わせが来るかもしれないし、処理をしておかないと。その、須藤さん、お願いできるかな?」

「……はい」

 僕が怖々としながらも指示を出すと、須藤さんはふらふらと立ち上がって素直にパソコンに向かった。その彼女の反応にちょっとほっとした。

 須藤さんへの有効な対処法は、とにかく彼女のネガティブ思考を止めるために強制的に話題を変えることだと周りから聞いていたが、それは本当だったようだ。パソコンのキーを打つ手はパソコン初心者よりも遅く、震えている。まだネガティブ妄想を引きずっているようだが、床でゴロゴロのた打ち回られるよりはマシである。

 駅や電車内での落とし物は、パソコンで入力する専用のデータベース上で管理されている。どのような落とし物が、いつ、どこで見つかったのかという情報を各駅で共有することで、いち早く落とし主に返せるようにしているのだ。

「登録処理をしたら、少し様子を見よう。きっとすぐに飼い主が迎えに来るだろうし」

 今頃、飼い主が探しているかもしれない。だって、これだけハリネズミのことを考えて用意周到に準備をするくらいなのだからと、少なくとも、僕はとても楽観視していた。

 けれど、ネガティブ思考が身に付いている須藤さんは違ったらしい。

 パソコンを打つ手を止めて、ポツリと呟いた。

「……もし迎えに来なかったら」

 その小さな声に、いの一番に反応したのは成島だ。まるで初めての授業参観で張り切る小学生のように勢いよく手をあげた。

「はい! はいはいはい! そのときは俺が連れて帰るっス!」

「だめだ」

「どうしてっスか、先輩!」

「お前だとハリネズミを構い倒すだろう? そのストレスできっとハリネズミが病気になる」

「そんなことないっスよ。ちゃんと可愛がりますって」

「その可愛がり方が問題なんだよ」

 今だって珍しい生き物を発見した子供のように、ケージにべったりと張り付いている。至近距離から見つめられるハリネズミの心情はいかばかりか。

 そのとき、偶然にもハリネズミが少しだけ顔を出した。つぶらな瞳と目が合う。錯覚なのだろうが、その瞳が助けを求めているように見えて、とにかくこの「無邪気」という魔の手からこのハリネズミを守らなくてはという使命感に駆られた。

「じゃあ、今日中に飼い主が現れなかったらどうするんスか? ここに残して帰るんスか? この暗くて寒い誰もいない事務室に?」

「一晩くらい大丈夫だろう?」

「甘い! 甘いっスよ、先輩! ハリネズミはデリケートな生き物なんスよ。大きな音もストレスになるんだから、こんなところストレスだらけっス。トゲが抜けて十円ハゲが出来たらどうするんスか」

「それはないだろうよ」

「でも、俺たちがいない間に、こいつに何かあったらどう責任を取るんです?」

 成島がやけに真剣な面持ちで食い下がる。

 確かにそんなことが起こる可能性もゼロとは言えない。

 一晩くらい置いておいても大丈夫だろうと高を括っていたが、成島のやけに真剣な様子に感化されたのか、だんだん不安になってきた。

「今まで生き物の落とし物があったことは?」

「カブトムシの幼虫ならあったっス」

 それなら事務室に置きっぱなしでも大丈夫か。今回のケースとは全然違うのでまるで参考にならない。

 それならどうしようか。ちらっと須藤さんの方へ視線を向けると、目と目が合ってしまった。

「わたしは無理です! ハリネズミは可愛いですし、ずっと見続けたいとは思いますけど、飼うのは絶対無理! そもそもペットなんか飼ったことありませんし、友達が飼っているトカゲを時々眺めるだけで、ハリネズミなんていう特殊な生き物の世話なんてできません。もしわたしの手違いで怪我をしたり病気になったり、ストレスのせいで翌朝、冷たい状態で発見するなんてことになったら、もうどうやって責任を取ればいいか。土下座ぐらいで済めばいいですが……日本海の荒波に身を投げるぐらいじゃないと……」

「うん、もうわかったから、大丈夫」

 真っ白い顔で首を横にぶんぶん振る須藤さんに、僕はすぐさまストップをかける。

 こうなることが目に見えていたのに、なぜ僕は彼女のほうを見てしまったのだろう。

 そもそも、この三人の中で誰かが世話をしなければならないのなら、結果は最初から明白だったというのに。

 僕は深くため息をついた。

「仕方がない。もし今日中に飼い主が現れなかったら、僕が連れて帰って世話をするよ」

「えー、先輩ずるいっス! 横暴っス」

 子供のように駄々をこねる成島を僕は無視した。

「まあ、でも、こんな心配、ただの取り越し苦労になると思うけどな」