プロローグ


 ふと、篠川栞子は本から顔を上げた。

(わたし、なにをしていたのかしら)

 眼鏡の奥で形のいい眉を寄せる。首をかしげた拍子に、後ろでまとめた長い黒髪が揺れた。彼女は北鎌倉にある自宅の台所に立っている。

 目の前のテーブルには、今まで読みふけっていた大判のハードカバーが置かれていた。板垣信久 小西千鶴『昭和天皇のお食事』。旭屋出版。昭和天皇の日々の食事をレシピ付きで紹介する本だ。カレーライスやグラタンなど、意外に質素なメニューが多い。普通の家庭でも作れそうだった。

「あ」

 やっと思い当たった。夕食のメニューを思いつかず、何かのヒントに、と二階の書庫から持ってきた本を、つい読みふけってしまったのだ。夫の大輔がいれば注意してくれたはずだが、今日は朝から出かけてしまっていた。

 栞子たちが経営するビブリア古書堂は定休日だ。これといった予定もない。

 隣の和室からテレビの音声が聞こえてくる。再来年の東京オリンピックに向けて、新国立競技場が急ピッチで工事中、と画面の中で女性レポーターが説明している。

 今は二〇一八年の秋。栞子が五浦大輔と結婚してから七年経つ。

 昔と変わらないと大輔にはよく言われるが、容姿よりも性格の話だろうと栞子自身は思っている。本を読み出すと周りが見えなくなってしまう――そんな栞子とそっくりの家族が、今はもう一人いる。

「見ていないなら、テレビを消して」

 和室に入った栞子は、リモコンのボタンを押す。黄色いワンピースを着た少女が座卓の前で正座していた。今年六歳になる大輔と栞子の娘だ。眼鏡をかけていないこと、年齢が違うことを除けば、整った顔立ちや長い黒髪は栞子にそっくりだった。

「……扉子」

 名前を呼んでも答えはない。篠川扉子は本を読み耽っている。

 江戸川乱歩の『電人M』。少年探偵団シリーズの一冊だ。古いポプラ社版で、背表紙には黄金仮面のマークが入っている。幼稚園児が読むには早い内容だが、それをおかしいと思う人間はこの家にいない。栞子も同じ年頃で読んでいた。

 栞子のスマホが鳴る。夫の大輔からだった。

「どうしました?」

 通話ボタンを押して、話しながら廊下へ出る。急ぐと少し足を引きずるのは、古い怪我の後遺症だ。

『今、羽田にいるんですけど、ちょっと頼みたいことがあって』

 大輔は早口で言う。お互い敬語で話す癖は、結婚しても変わらなかった。かすかに空港のアナウンスも聞こえてくる。もう飛行機への搭乗手続きは始まっているらしい。

 夫はこれから上海に発つことになっている。栞子の母親――篠川智恵子がまとめようとしている大口の取り引きを手伝うためだ。

 七年前、栞子と大輔は智恵子との争奪戦に勝ち、シェイクスピアの貴重な戯曲集であるファースト・フォリオを手に入れた。それをきっかけに洋古書の売買を智恵子から学ぶことになった。扉子が生まれてからは何年か中断していたが、今は夫婦交替で海外にいる智恵子の手伝いをしている。

「頼みたいことって、なんですか」

『俺、自分の本をどこかに置きっぱなしにした気がして。青い革のブックカバーがかかっている……』

「ああ、あの本」

 時々、夫が大事そうに開いている。どういう本かは栞子もよく知っている。

「どのあたりですか?」

『たぶん店のカウンター……いや、倉庫だったかもしれない。とにかく、時間があったらでいいんで……』

「分かりました。捜しておきますね」

 栞子は先回りで答える。お願いします、と大輔は通話を切った。市場価値が出るような本ではないが、できれば人目につかない方がいい。

 母屋からビブリア古書堂に入る。明かりの消えた薄暗い店内に、古書の詰まった書架が並んでいる。長い年月を経た紙の匂いにほっとする。

 祖父がこの店を開いた五十年以上前から、この眺めはたぶん変わっていない。今、この店の棚を整理しているのは大輔だ。活字の本を長時間読めないのは相変わらずだが、一通りの仕事ができるまでに成長した。栞子が通販業務を、大輔が店での売買を主に担当している。

 作業スペースになっているカウンターに、青いブックカバーの本は見当たらなかった。どこにあるのだろう。栞子はこめかみに指を当てて、ここ数日の大輔の行動を頭の中で順番に再生していった。

 栞子は自分が目にした夫の行動を、少なくとも一ヶ月分は詳細に思い出せる。卓越した記憶力のおかげだが、そのことを他人に話したことはない。ストーカーじみていて我ながら気色悪いからだ。本を開いている時を除いて、彼女の関心はだいたい夫と娘に向いている。

 最後に青いブックカバーを目にしたのは昨日の午後。栞子が昼食を終えて戻ってくると、大輔がその本を閉じて立ち上がるところだった。ちょうど本を売りにきた客が、大きな段ボール箱を抱えて入ってきたのだ。店の外には客のものらしい車も停まっていた。

「いらっしゃいませ」

 大輔は素早くカウンターを回って客の荷物を受け取りに行った。大きな体のわりに無駄のないしなやかな動きで、栞子はつい見とれてしまった。独身の頃からそういう彼を目で追うのが密かな愉しみだった。

(素敵だったなあ)

 探し物のことも忘れて、薄笑いで何度も記憶を再生していると、

「なんのご本、捜しているの?」

 背後からの声に振り向く。黄色いワンピースを着た娘の扉子が、大きな瞳を輝かせていた。ごまかすことはできそうにない。自分がそうであるように、この子も本のことになると異様に勘が鋭かった。栞子が本を捜しに来たことは気付かれている。

「……秘密」

 笑みの余韻を残したまま、そう口にするしかなかった。こういう思わせぶりな物言いは篠川智恵子に似ている。自分もあんな風になるのだろうか――軽い自己嫌悪に陥る。仕事を手伝うようになってからも、かつて家族を捨てていった母親へのわだかまりは完全に消えていない。

「なんでー。教えてよー」

 扉子は唇を尖らせる。栞子は黙っていた。この子に読ませたくないと考えたから、大輔はわざわざ電話してきたのだ。

「ヒントぐらいくれてもいいじゃん……お母さんのケチ……」

 芝居がかったしぐさでカウンターのあちこちを捜し始めた。調子外れの鼻歌も歌っている。さっきまで読んでいた少年探偵団シリーズに影響されているのだろう。

 娘は栞子と違って、表情豊かで受け答えもはきはきしている。今は一人暮らしをしている妹の文香に似ていた。ただ、誰とでも親しくなる文香と違って、扉子には幼稚園にも近所にもまったく友達がいない。

 扉子は他の子供たちに関心を示さなかった。どこへ行くにも本を抱えて、うきうきとページをめくっている。周囲の心配をよそに、当人はいたって明るかった。幼稚園で他のお友達と遊んだ方が、と栞子が遠慮がちに勧めても、

「わたし、本が友達だから」

 曇りのない笑顔で宣言されて、何も言えなくなってしまう。

 十代の半ばまでまったく友達がおらず、本ばかり読んでいた栞子に注意する資格などない。それは分かっているが、他人との繋がりはあった方がいいと思う。

 誰とでも、ではなくても、誰かとは。

「あっ、この本!」

 娘の大声にどきりとする。まさかなんのヒントもなく見つけてしまった――わけではなかった。扉子が手にしているのはまったく別の文庫本だった。

 新潮文庫の『からたちの花 北原白秋童謡集』。与田準一編。初版は一九五七年。ここにあるのは一九九三年に復刊された一冊だ。

「これと同じ本、この前しのぶおばさんちで見た!」

 しのぶおばさん、とは逗子に住む坂口しのぶだ。かつて『論理学入門』という本を取り返すために、入院していた栞子を訪ねてきた女性。目の不自由な年上の夫と、小学生になった息子と三人で逗子に住んでいる。栞子たちとは家族ぐるみの付き合いが続いていた。

「よく憶えてるわね」

 と、栞子はうなずいた。

「坂口さんのおうちにあった『からたちの花』、うちのお店で売っていたものなのよ」

 あの本が坂口家に行き着いたいきさつは込み入っている。栞子も坂口夫妻から事情を聞いたのは、ずっと後になってからだ。それもおそらくすべての事情ではない。

 人の手を渡った古い本には、中身だけではなく本そのものにも物語がある。

「しのぶおばさんがうちで買ったの?」

「いいえ。坂口さん……坂口のおじさんが、ご家族から贈られたの」

「まさくんおじさんが?」

 扉子は目を丸くする。名前は坂口昌志だが、妻のしのぶから「まさくん」と呼ばれている。その呼び名が扉子にまで伝染していた。

「よく分かんない。どういうこと?」