青空あおいが住む町の名は美守市。

 東京の都心から西に逸れ、駅周辺以外は住宅地と緑が多く、住みやすい町だ。

 四月。新年度がはじまり、真新しい空気が包む朝の町を、ショートボブの髪をなびかせ、キリっとした大きな瞳を輝かせながら、あおいは小走りに急いでいた。

 淡いグレーのパンツスーツに、黒いリュック。飲食店やビルが建ち並ぶ道筋には、あおいと似たようなスーツ姿の人間が増えていく。

 やがて見えてきたのは四階建ての近代的な建物だ。上から見るとコの字型になってる鉄筋コンクリートの頑丈なこの建物は、美守市の中心にある美守市役所。

 市役所前の公園に植えられた桜の花びらが、はらはら舞う。そんな桜を横目に、あおいは裏口から市役所に入っていく。身分証を首から提げ、警備員に「おはようございます!」と元気よく挨拶をして、エレベーター前に並んでいる人達の横を通り過ぎ、二階まで階段を昇る。二階で最初に目の前に現れるのは総合案内所だ。始業時間前で電気が灯っておらず、薄暗く静かな所内をあおいはさらに進む。

 総合案内所前を左に折れた先にあるのは、市民課のカウンター。市役所内のどの課よりも広くて大きい市民課の前を通り過ぎ、やがて突き当たったのは、パーティションで仕切られた狭い空間だった。

 天井からぶら下がる案内板には、こう書かれている。

『市民課 ヒーロー係』

「よぅし、今日もがんばるぞ!」

 あおいはふんすと鼻息荒く、ヒーロー係のカウンターの内側に入っていく。

 昨年就任した山田市長が打ち出した目標の一つに「美守市民の幸福度をあげる」というものがあり、その政策は、わかりやすく『ハッピー大作戦』と呼ばれた。

 それに親しみを感じてもらうために生み出されたキャラクターが、ハッピーマンというヒーローだ。全国に存在するご当地ヒーローのように舞台上でスーツアクションをこなしつつも、市役所市民課の一部に窓口を設け、普段は市民の相談事に耳を傾ける。

 それこそがヒーロー係であり、「美守市民の笑顔を守り、ハッピーにする」をモットーとするハッピーマン(=あおい)の仕事だった。

 今日こそは忙しく、時間すらも忘れるほどに、ハッピーマンとしての業務に没頭できるはずだと、あおいは思っていた。



 だが、実際にはヒーロー係に来客はない。

 たまに市民課と間違えてやって来た市民が「住民票をください」と求めるが、ヒーロー係では発行できないことを知ると、苛立ちながら帰っていくくらいだ。

 このままでは、待てど暮らせどヒーロー係を頼る市民は訪れない。

 今のところ決まっている仕事と言えば、来週、職業体験という授業の一環として、美守北中学校でヒーローショーを行うことだけ。その練習以外で仕事らしい仕事をしないまま一日が過ぎていくことに不満を覚えたあおいが思いついたのは、自ら仕事を取ってくることだった。


「通販で不良品をつかまされたんだ! それなのに返品は受け付けない、料金は返さないと言われたんだ! どうにかしてくれ!」

「そうですか、それは大変ですね。通信販売ならば、八日以内であればクーリングオフという制度があります。その商品は購入されてから、どれくらい経っていますか」

「そうだな、かれこれ一ヶ月くらいかな」

「お客様、申し訳ありませんが、それでしたらわたくしどものほうでは手の施しようがございませんので、どうぞお引き取りください」

「なんだと!」

 依頼人は初老の男性。話し相手になっているのは、物腰の柔らかい女性職員だ。

 次の依頼人は三十代前半くらいの女性。

「あの、実は、うちのペットが逃げ出してしまって。もう三日も帰ってこないんです。探してほしいんですけど」

「そうですか、それは大変ですね。ちなみに、そのペットというのはどのような動物なのでしょうか」

「フェレットのモモくんです。とっても勇ましくてかっこいい子なんです」

「申し訳ありませんが、それでしたら……」

 次の依頼人は四十代の男性だった。

「うちの家の壁に落書きがされてるんだが、自分じゃ消せないし、業者に頼むと金がかかる。おたくでどうにかしてもらえないか」

「そうですか、それは大変ですね……」

 以上、彼ら彼女らがやんわりと断られるのを、あおいはやや離れた場所から、ずっと見て聞いていた。

 何を隠そう、女性職員の正体は市役所内の相談窓口係だ。あらゆる市民の悩みを聞き、そこからさらに専門の課に送るスペシャリスト。見た目はおっとりとしていて優しい雰囲気を持つ女性であるが、なかなかのやり手で、市役所で処理できる相談ではないものに対しても、あしらい方がうまい。

 彼女は、あおいが近くで耳をそばだてていることを知りながらも、気づかないふりをしている。

 そして窓口から離れてトボトボと歩いている相談者にあおいが声をかけるのも、完全に無視していた。

「はじめまして、私は市民課ヒーロー係のハッピーマン2号、青空あおいと言います。よろしければあなたのお悩みを、ハッピーマンに解決させていただけませんか。あなたを笑顔にしたいんです!」

 救いの神、現る――ではないが、悩みを解決してくれるというのだから、試してみるか程度の理由だったのだろう。あおいが声をかけた相手は皆、ほいほいとヒーロー係についてきた。

 だが、いざヒーロー係のカウンターで詳しい話を聞こうとしたあおいは、いきなり出鼻をくじかれる。

「お前は何をしているんだ」

 その場の空気を緊張感で包み込むような、硬い声が飛んできた。

 カウンターの中であおいが振り返った先には、一人の男性の姿があった。パソコンのキーボードを叩いては、書類にペンを走らせている。その手を止めて、顔をあげた。一見すると、育ちのよさそうな端正な面立ち。さらさらとした黒髪に、筋の通った鼻、引き結ばれた唇の形もきれいだ。

 しかし、その銀縁メガネの奥にある、切れ長な黒い瞳はどこまでも鋭く冷たい。

 目が合った依頼人が「ひっ」と小さく悲鳴をあげた。

 男は立ち上がると、あおいの元へ近づいてきた。身長が一七〇センチのあおいよりも背が高く、一九〇センチ近い。きっちりとネクタイを締め、シワ一つない紺色のスーツをまとう男は、無表情にあおいを見つめる。どこか作り物めいた見た目なだけあって、その冷徹さが際立っていた。

「お前は何をやっているのかと聞いている」

 あおいは男を見つめ返して言った。

「何って……私はただ、ハッピーマンとして、相談に来てくださった方の力になろうとしているだけです」

「どうしてハッピーマンが、そんなことをしなければいけないんだ」

「だってハッピーマンは、助けを求める市民のみなさんのためにいるんです。困った方々を助けて、みんなをハッピーに、笑顔にすると、私は決心したんです」

「ハッピーに、笑顔――くだらないな」

「く、くだらないって、ハッピーマン1号である高松さんが、そんなこと言わないでください!」

 あおいよりも一年先にハッピーマン1号に任命され活動していたのが、目の前にいる高松幸之助だ。

 高松は器用に片眉を吊り上げた。

「お前が何を勘違いしてるのかは知らないが、俺達がハッピーマンとして誰かを助けられるのは、ヒーローショーの中だけの話だ。架空の世界の物語だ。現実とごっちゃにするんじゃない。そもそも普段、俺はただの役所の職員。お前なんか一年契約の臨時だろ。それを市民は理解してる。市長が作ったご当地キャラに、わざわざ相談事を持ちかけるなんてバカげてるってこともな。だからここには誰も来ないだろ」

「うっ……。で、でも、だからって、毎日毎日、ここでぼんやり過ごすわけにはいきません」

「ぼんやりするな、仕事ならたくさんあるだろ」

「私はハッピーマンとしての仕事がしたいんです。このままじゃヒーローの名が廃ります」

「そんなもの廃ればいい」

「な、なんでそんなこと言うんですか」

「とにかく」と、高松は依頼人相手に丁寧に告げた。「ここはそういう課ではございませんので、ご相談したいことがあるなら、相談窓口へどうぞ」

 ぽかんとしている依頼人をかばうように、あおいが言う。

「相談窓口ではとっくに断られちゃったんです。だからこうして、ヒーロー係に来てくださったんです。そんな人を簡単に追い返さないでください。私が、ちゃんと解決します!」

「だったら書類を提出しろ」

「へ?」

「書類だ。依頼人の情報、依頼内容、具体策、日時場所、どこで何をやるつもりでどう終わらせるのか、書類にまとめて上司に提出しろ。それが役所のやり方だ。上の許可なく勝手に動くことは許さない」

「……上司に、許可を」

「ああ、それなら構わんぞ」

 背後からよく通る大きな声が聞こえた。

 あおいの後ろには机が三つ並べてある。一つはあおい自身の机、その向かいに高松の机。二つの机にくっつけるように一番奥にある机。そこにデンと腰かけているのは大柄な男だ。右耳に赤ペンをかけ、競馬新聞を片手に白い歯をのぞかせる。

「青空、許可なら出す。どんどんやれ」

 ピッと親指を立てた人物こそ、あおいと高松の上司である黒熊晋作だ。

「黒熊さん! ありがとうございます!」

「クマさん、本気で言ってますか?」

「おう。高松、俺はいつだって本気だぜ。お前もクソ真面目に机に向かってばっかいないで、青空と一緒にたまには外で暴れてこい」

「机に向かってばかりって、そもそもクマさんが仕事しないせいですよね。それに、どうして俺がこんな奴と……」

「高松さん、さっきからお前とかこんな奴とか言ってますけど、私の名前は青空あおいです。ここに入ってもう一週間は経ってるんですから、そろそろ名前で呼んでください。私の名前は、あ・お・ぞ・ら・あ……」

「うるさい。とりあえず書類だ。お前がどう事後処理をするかまできっちり書いた書類を出せ。書類を出さないなら、俺は動かないからな」

「事後処理って何ですか。まるで私が最初から失敗するみたいな言い方はやめてください」

「お前みたいな勢いしかない奴は、失敗するに決まってる」

「い、勢いは大事です。それから、私はお前じゃなくて……」

「どうどうどう」

 軽蔑の眼差しを向ける高松に、あおいは負けじと顔を寄せる。そんな二人の肩を抱いたのは黒熊だった。

「二人とも落ち着けって。ほら、お客さんが困ってんじゃねぇか。な、どんな小さなことでも、仕事は仕事だ。お前ら二人はハッピーマンで、相棒で、仲間なんだ。協力してがんばるんだぞ。いいな!」

「はい!」と、元気よく返事を返すあおいの前で、高松は眉をひそめた。


「できた! できましたよ、高松さん、これで文句はありませんね!」

 あおいは依頼人三人の話を詳しく聞いた後、三人ぶんのデータを書類にまとめあげた。どうだ! とばかりに、高松の目の前に突きだしてみたが、肝心の高松はといえば、自分の仕事に集中していて気づかない。

「高松さん、見てください! 書類はちゃんと書きましたよ。さっ、これからまずは、この『通販で注文したきれいな箱の蓋が開かない』っていうおじいさんのところに行きましょう」

 難しい顔つきで書類の束と睨めっこしている高松から反応はない。

「こういう時は一服に限るな」

 黒熊は机の上でコリコリコリとコーヒーミルを回しながら言った。黒熊の趣味は競馬とコーヒーを淹れることだ。豆を挽き終えると、見た目のがさつさとは裏腹に、丁寧にフィルタを折る。フィルタに挽いた豆を入れ、保温ポットから少しずつ湯を注ぐ。辺りにふわりと芳醇なコーヒーの香りが広がった。

「うん、いい香りだ。じゃ、お供に『ミルティバ』のミルクレープを……」

「『ミルティバ』のミルクレープ!」

 黒熊がコーヒーのお供の名を口にした瞬間、高松は書類の束から目をあげた。銀縁メガネの奥の瞳が、一瞬輝いたのをあおいは見逃さなかった。

 だが、高松が反応を示した通りのおいしいミルクレープを、あおいが口にできたのはもう少し先だった。

「ちょっと、ヒーロー係ってここ? 相談窓口の人に、ここなら何でも依頼を聞いてくれるって言われたから来たんだけど……」

 村田という五十代の主婦がそんなことを言いながら、ヒーロー係にやって来たのだ。あおいの行動を見ていた相談窓口の女性が、よかれと思って回したのかもしれない。あおいは高松から飛んできた氷の矢のような視線をかわすと、さっと席を立ち、村田の話を聞いてから書類をまとめあげた。黒熊からもすんなりと許可が下り、村田の依頼を引き受ける手はずは整ったのだった。


「この美守市に困っている人ある限り、お助けします、絶対に。みんなを笑顔にハッピーに、市民の味方、ハッピーマン2号、ただいま、参上!」

 市の公用車を使って最初に向かった初老の男の家で、あおいは習得したばかりのハッピーマンポーズを決めた。初老の男はぎょっとして固まっている。高松が手でこめかみを押さえながら唸った。

「……お前には、羞恥心ってものはないのか」

「なっ、どうしてですか。だって、私達はハッピーマンなわけですし、何も恥ずかしいことなんかやっていません」

「ま、まあ、上がれよ」

 我に返った男は頬を引きつらせていたが、あおいと高松を迎え入れると、さっそく箱を見せてくれた。

「きれいな箱だろう。パソコンで通販サイトを眺めてたら見つけてね、妻の宝石入れにしたらいいんじゃないかと思って買ったんだ。だが、届いてみたら、蓋が開かないんだ」

「確かに、きれいな細工の箱ですね」

 あおいが男から手渡されたのは両掌サイズの木箱で、その表面には色違いの木を用いた、細かな模様がほどこされている。

 あおいは試しに箱の蓋を開けようと試みた。

 手始めに蓋を持ち上げようとしたが、蓋はびくともしない。次に、蓋がスライド式なのではないかと引っ張ってみたが、やはりピクリとも動かなかった。

「開きませんね……」

「なっ、不良品だろ」

 男は眉間にシワを寄せた。

「そんなこと言って……。一緒についてきた説明書みたいな物を、読まずに捨ててしまったんでしょう」

 お盆にお茶を三つ載せて運んできたのは、男の妻だった。仲がいいのだろう。むうと唇をへの字に曲げる男に、妻は笑った。

「いつもそうなのよ、せっかちだから。きっと、その紙に開け方が載っていたんじゃないかしら。私もゴミに出す前に確認すればよかったのだけど……」

「お前のせいじゃない。そんな説明書を読まなきゃ開かないような箱を作る奴が悪い」

「まあ、そんなこと言って。こんなに丁寧に作られた箱なんですよ。きっと、蓋が開かないことにも意味があるんじゃないかしら。ねぇ、お兄さんもそう思わない?」

 それまで無反応だった高松は、話を振られて目をぱちぱちと瞬かせた。

「あっ、私、わかりました。鍵があるんじゃないですか」

「それは俺も考えたんだが、鍵穴なんかどこにもないんだ」

 あおいが言うと、すぐに男から反応が返ってくる。あおいは一通り箱を眺め回してみたが、確かに鍵穴どころか、小さな穴一つ見つからない。実は底面が蓋なのじゃないかと触ってみたが変化はなかった。

「うーん」と、あおいは難しい顔をする。「こうなったらもう、あれしかありませんね」

「あれ? 何だ、何かとっておきの秘策でもあるのか」

 興味を示す男にあおいは言った。

「はい。衝撃を与えてみようと思います」

「衝撃?」

「こう、ガツンと一発お見舞いすれば、衝撃でポコッと蓋が取れるかもしれません。私、昔は柔道をやっておりまして、腕力には自信があります」

「最終的に破壊するのか」

 高松がぽつりとつぶやいた。男も妻も目をぱちくりとさせている。

「へ? え、いえ、まさか、壊したりはしませんよ……」

「お前、力加減できなさそうだしな。そもそも、それは力任せに開けようとして開くものでもない」

 高松はメガネのブリッジをくいっと持ち上げてから、箱を受け取るとしげしげと眺めた。

「何通りあるのかまではわからないが、たぶん少しずつずらせば……」

 高松の指先が繊細に箱の角を撫でる。

「あっ、動きました」

 わずかだが、箱の側面がズレて隙間ができた。できた隙間にはめ込むようにして、さらにそれに直角な側面を少しずらす。それをもう一度繰り返すと、蓋は何事もなかったかのようにすっと開いた。

「すごい……、開きました……」

 驚いているあおいと男、妻を前にして、高松は眉一つ動かさなかった。

「これは寄木細工を用いた秘密箱と呼ばれるもので、蓋を開けるには、何回かのスライド作業が必要なんです。この箱についてきた紙にも開け方が載っていたはずですし、ネットで購入する際に見たサイトにも書いてあったと思いますが……」

「め、面目ない」

 後ろ頭をかく男に高松はそれ以上何も言わずに、箱を妻に渡した。箱を受け取った妻はにっこりと笑みを浮かべた。

「ありがとう、お兄さん。まだまだ世の中には知らないことが多いのね。勉強になったわ」

「いえ」と、高松は軽く会釈をしただけだった。


「この美守市に困っている人ある限り、お助けします、絶対に。みんなを笑顔にハッピー……」

「市役所から来ました高松と申します。逃げ出したフェレットの捕獲に来ました」

 あおいを遮って高松は用件を切り出した。

 フェレットのモモくんを捜索中、飼い主の自宅近くの溝の中にモモくんが隠れていることに気づいたあおいは、モモくんの警戒心を解くような物がないか飼い主に尋ね、モモくん愛用のブランケットを手に入れた。ブランケットにはモモくんの強い獣臭が染みこんでいたが、あおいは気にせずブランケットをまとう。

「これでモモくんは私のことを安心できる存在だと思って、出てきてくれるはずです」

 意気込むあおいが溝に近づきモモくんに呼びかけてみると、臭いに気づいたのか、モモくんは鼻をぴくぴくさせた。溝から半身を出してあおいの指先の臭いを嗅ぐ。次の瞬間、鋭い牙が覗く口をぱっくりと開けた。

「ひゃっ」

 指を引っ込めるのが一瞬でも遅かったら、噛みつかれていただろう。

「はにゃがへっへるんじゃにゃいか」

 鼻をつまみながらモモくんの様子を観察していた高松が、モモくんの空腹を見抜く。飼い主の女性はすぐにペットフードを用意すると、溝の近くに置いてみた。

 家を脱走してから三日間、何も食べられずに、よっぽどお腹が空いていたのだろう。モモくんはあっさりと溝から出てくると、無我夢中で餌を食べはじめた。そこを高松が捕獲する。飼い主の女性は泣いて喜んでいた。


「この美守市に困って……」

「市役所から壁の落書きを消しに来ました」

 落書きはスプレーで書かれた意味のわからない英文字だ。あおいは試しにスポンジに洗剤を付けてこすってみたが、それはすでに依頼主の男性が挑戦済みだった。スポンジの代わりに金だわしを使ってみてもダメだ。

「高圧洗浄機なら、消せるかもしれないな」

 つぶやく高松とまさに同じことを考えていたあおいは、高松の両手を握った。

「もしかして、高松さん持っていらっしゃるんですか!」

「……近づくな、臭いが移る、手を離せ。環境課が持ってるかもしれないと思っただけだ……」

「借りに行きましょう!」

「待て。お前の家はここから遠いのか」

「へ? ここからなら、そう遠くはありません。走れば十分ほどで着くと思います」

「だったらその臭いをどうにかしてこい。環境課には俺が行く」

「高松さん、そんな、私のために……」

「は? 何を勘違いしてるんだ。俺はこんなことさっさと終わらせて、仕事に戻りたいんだよ。余計な労働に付き合わされている俺の身にもなれ」

「よ、余計な労働って……」

「じゃあな」

 高松はひらりと手を振ると、さっさと背を向けて歩き出す。

「君達、本当に大丈夫なのか?」と、心配そうな顔をしている依頼主の男性に、あおいはふんっと鼻息荒く言った。

「大丈夫です。一旦出直しますが、私達ハッピーマンにお任せください!」

 そして三十分後。高松が環境課から借りてきた高圧洗浄機を使い、見事に落書きを消し去ったのだった。


「すごいです。本当にすごいです。高松さんはすごい方です」

 昼食を取るために市役所に戻ったあおいは、目をキラキラさせながら黒熊にこれまでのことを語った。昼食時になると節電のため、役所内の明かりはほぼ落とされてしまう。薄暗い中、愛妻弁当を頬張りながら黒熊はうんうんと頷いていた。

「だろうだろう。高松はすごい奴なんだよ」

 自分の話題だというのに特に反応も示さず、さっさと昼飯を食べ終えると机に向かってしまう高松に、黒熊は苦笑いを浮かべた。それから、あおいに尋ねた。

「で、何だっけか、昼からは村田さんの家に向かうんだよな」

「はい、お隣さんの家の犬がうるさくて迷惑しているとのことだったので、様子を見に行こうと思っています」

 白髪交じりの髪をひっつめた小太りの村田は、ヒーロー係のカウンターで不満を爆発させていた。

『とにかくうるさいの。朝から晩までキャンキャンキャンキャン。耳について仕方ないわ。だから、ヒーローだかハッピーだか何だか知らないけど、今すぐに、さっさと、何とかしてちょうだい!』

 だからあおいは、こう答えたのだ。

『ようこそ、市役所市民課ヒーロー係へ。相談に来てくださり、ありがとうございます。村田さんが被っている迷惑の根源は、美守市のヒーローである我々ハッピーマンが全力で絶たせていただきます。任せてください。あなたを笑顔にしたいんです!』

 黒熊は「そうかぁ」と頷きながら、渋い顔をした。

「近所づきあいも難しい世の中になったからなぁ。うまく話がまとまるといいが」

「はい、がんばります」

 そう言っておかずの生姜焼きを口いっぱい頬張るあおいに、黒熊はにかっと笑った。


「この美守市に困っている人ある限り、お助けします、絶対に。みんなを笑顔にハッピーに。市民の味方、ハッピーマン2号、ただいま参上!」

「あなた、どこでもそんなバカげたことしてるの? やめてよ、人ん家の前でそんな大声出して、恥ずかしい」

「ば、ばか……、恥ずかしい……?」

 高松は午前中に同じことを繰り返して面倒になったのか、もう口を開くことすらしない。一人でショックを受けているあおいを気にもせず、村田は玄関先で語った。

「お隣に北野さん夫婦が越してきたのは三月末だったかしら。旦那は仕事でたいてい留守みたいで、奥さんは専業主婦なのかずっと家にいるの。外に出ることもほとんどなくて、うちに二人で挨拶に来たときも、なんか暗い人だなって思ったのよ。それで、しばらくしたら犬の鳴き声が聞こえるようになって、今ではこのありさま」

「なるほど」と、あおいは頷く。

 確かに、隣の家からはキャンキャンと甲高い鳴き声が聞こえてくる。

「ね。うるさいったらないでしょ」

 村田は両手で耳を塞ぐと、隣の家を睨んだ。

「わかりました。では、北野さんのお宅に伺って、事情を尋ね、解決策を考えます」

「頼んだわよ」

「任せてください!」

 村田に見送られながら、あおいと高松は隣の家に移動した。インターフォンを鳴らすと「はい」というか細い女性の声が聞こえた。

「こんにちは。市役所市民課ヒーロー係から参りました、青空あおいという者です」

「……市役所?」

「はい、お尋ねしたいことがあるのですが、お時間よろしいでしょうか」

「……ちょっと、待ってください」

 少しして玄関の戸が開いた。北野は、大学を出たばかりのあおいとそう歳の変わらない、若い女性だった。肩までの茶色のボブヘアーで、丸顔の優しそうな人だ。あおいと高松を見上げて、不安そうに瞳を揺らした。

「あの、どうして市役所の方が……?」

「はい。この美守市に困っている人あ……」

 キャンキャンキャンキャン!

 あおいの声がかき消えてしまうほどの勢いだった。

「あっ、こら、チョコ、ミント。しっ、静かにして。あっち行ってて」

 玄関と廊下の仕切りには木の柵があり、柵の間から二匹のチワワが顔を覗かせた。くるりと丸い目は飼い主の北野とどこか似ている。好奇心旺盛なようでパタパタと尾っぽを振っていた。

「す、すみません、うるさくて……。あの、それで、どういったご用件ですか?」

「単刀直入に言えば、その犬の件です」

 口を開いたのは高松だった。

「近所の方から、犬の鳴き声がうるさいと連絡が入りました」

 その瞬間、北野の表情に緊張の色が走る。

「近所の方……。それって、もしかして村田さんのことでしょうか……」

「チョコちゃんとミントちゃんっていう名前なんですね、お洋服もチョコ色とミント色でかわいいです。もしかして北野さんの手作りだったりしますか?」

 北野の顔色が悪くなったのを見て、あおいは話題を変えた。しゃがみ込んで犬たちを見つめていると、北野が戸惑うように答えた。

「え、ええ。ありがとう、ございます。でもチョコは男の子で……」

「あら、そうでしたか。すみません。じゃあ、チョコくんとミントちゃんですね」

 玄関から中の様子を窺う限り、家の中は静かだ。チョコとミントがハッハッと吐く息以外、何の音もしない。アイボリー色のシャツワンピースをまとう北野が履いているのは、ちょっと玄関先に出るための外履きで、他に靴は置いてなかった。

「北野さん、今日はお出かけされましたか?」

 あおいが尋ねると、北野は「いえ……」と小さく首を振った。

「では、ちょっとお出かけしませんか? チョコくんとミントちゃんも一緒に。もう散りかけていますが、はらはら舞う桜もいいものですよ」

 北野は困惑している様子だった。黙ったまま俯いていた時間は一分ほどだっただろうか。「わかりました」と頷いて準備をし、二匹を連れて家を出た。

 だが、外に出た瞬間、うれしそうに駆け出すチョコとミントに、北野は引っ張られてしまう。

「あっ、待って、チョコ、ミント!」

「北野さん! 危ないっ!」

 二匹に引っ張られた北野は止まることができず、曲がり角を曲がったところで「きゃっ」と悲鳴をあげた。ゴロゴロと何か重たい物が地面に落ちて転がる音がする。すぐに追いついたあおいが見たのは、尻餅をついている北野と、同じような体勢で道に座り込んでいる男だった。

「チョコ? ミント? どこにいるの? あっ、だめ、待って……、誰か、あの子達を助けて!」

 北野は我に返ると、衝撃でリードを離してしまったことに気づいた。状況を理解していないチョコとミントは、交通量の多い大通りへ向かって駆けていく。

「いやっ、だめっ、チョコ、ミント――――――――!!」

 全速力で大通りに突っ込んでいくチョコとミントの身体が、ふいに持ち上げられる。チョコとミントに追いついて、その小さな二匹を抱え上げたのは、他でもない、高松だった。あくまで冷静に、何事もなかったかのような表情で戻ってくる高松の姿を見て、北野はその場に突っ伏した。

「……はあ、よかったぁ」

「よかった。よかったですね、北野さん。チョコくんもミントちゃんも無事ですよ」

「なんも、よくねぇだろ」

 低くつぶやいたのは、北野とぶつかって尻餅をついていた男だ。鈍い光をたたえた瞳が北野を睨みつける。元の顔立ちは悪くないのだろうが、全体的にむくんだ顔は赤く染まっていた。北野が男にぶつかった際に落ちて周囲に転がったのは、缶ビールや焼酎などだ。

「なんもよくねぇ。てめぇ、人にぶつかっといて、どういうつもりだ!」

 酒臭い息で男は怒鳴る。北野はびくっと肩を震わせ、じわりと目を潤ませた。

「大変申し訳ありませんでした」

 あおいは直角に頭を下げた。辺りに散らばっていた酒類を急いで集めると、男が持っていたビニール袋に入れる。さらに男に手を差し伸べて引っ張り起こした。

「本当に申し訳ありませんでした。これは私の不注意です。どこか痛めたところはありませんでしょうか。あれば、今すぐ一緒に病院に行きましょう」

 あおいがあまりにも真剣な顔をしていたせいだろうか。男は「あ」だとか「う」だとか言いながらうろたえる。よろよろと後ずさってから、舌打ちをした。

「ね、ねぇよ、どこもなんともねぇ」

「ですが、ふらついていらっしゃいますし、少し飲み過ぎのようにもお見受けしますので、せめてご自宅までお送りさせていただければと思います」

「やめろ、知らねぇよ、俺に構うんじゃねぇ!」

 あおいが差し伸べた手を振り払うと、男は逃げるように歩き出した。その背が遠ざかってから、あおいは額に浮かんだ汗を拭う。

「たまには気が利くじゃないか」

 チョコとミントを抱きかかえて戻ってきた高松が言う。

「たまにはって何ですか。だってあの方、こんな昼間っからあんなに酔っ払って、私、心配です」

「お前な……」

 本気か? と問うような顔をする高松が二匹の犬を返すと、北野は二匹を抱きしめながら堪えきれずに涙をこぼした。

「ごめんね、ごめん……、もう絶対にリードを離したりしないから。ごめんね……」

 ひとしきり泣いてから落ち着いた北野を連れ、あおいと高松は散歩を再開した。

「北野さんはずっと家にいて、外に出ることがほとんどない」という村田の話から、あおいが思い至ったのは、散歩不足によるストレスだ。

 案の定、たっぷり散歩をして家に戻った二匹はすっきりしたようで、無駄吠えしなくなった。犬に散歩はかかせない。だからあおいは帰り際に北野に言った。

「北野さん、チョコくんとミントちゃんは、お散歩がとっても楽しかったみたいです。これからは二匹のためにも、お散歩をしてあげてください。よろしくお願いします」

 北野は「わかりました」とはにかんで、頷いてくれた。

 そのことを村田にも伝えて、全ては一件落着となる……はずだった。