『憧れの相手が見る影もなく落ちぶれてしまったのを見て、「頼むから死んでくれ」と思うのが敬愛で「それでも生きてくれ」と願うのが執着だと思っていた。だから私は、遥川悠真に死んで欲しかった』


 風変わりな遺書だと思った。流石は小説家といったところだろうか。洒落ている。最初に抱いた感想はそれだった。荒れた部屋、失踪した小説家、それにこのドキュメントファイルとくれば、なかなか良い導入だと思う。ここまでお膳立てされていると、それはそれで何かのパフォーマンスに見えた。

「何か見つかったか?」

 彼女を現実に引き戻したのは、同じ部屋にいた先輩刑事の一言だった。その一声がなかったら、彼女はいつまで経ってもその一文から目が逸らせなかったかもしれない。単純な失踪事件に際して、上が二人組での捜査を命じたのはこういう事態を防ぐ為だろうか。こうした不可思議な現場には、妙な引力がある。

「それ、無事だったのか。これなら何か見つかりそうだな」

 彼の目はさっきまで見ていたノートパソコンに向けられている。棚が折られ、テレビが割られ、家具という家具がひっくり返された部屋の中で、唯一無事なものだ。

「いえ。中身は殆ど消されています。残っていたのは『部屋』と題されたワードファイルが一つ」

「小説か?」

「わかりません。遺書かもしれません。……ともあれ、まずは実際の部屋を調べた方がいいでしょうね」

「こんな『見るからに何かあります』みたいな部屋、逆にわかんねえよ」

 それでも、二人が向き合うべき場所はここしかなかった。豊島警察署捜査一課。厳めしい名前で割り開いたこの部屋が、事件解決への唯一の鉱脈だった。


 小説家・遥川悠真が消えて二日が経った。どこから嗅ぎつけたのか、ネットニュースでは既に彼の謎めいた失踪で沸き立っている。曰く、狂信的なファンに拉致されただとか、妙なカルトに嵌まっただとか。こうして部屋が散々荒らされていることが漏れたら、それらの噂は更に加速するだろう。これから受けるだろう馬鹿げた質問を思うと、どうしても陰鬱な気持ちになった。

「既に遥川の件、噂になってるみたいですね」

「テレビ出まくってたからだろ。大人しく籠もって小説書いときゃよかったのに」

「そういうタイプじゃなかったんでしょう」

 遥川の飄々とした佇まいを思い出しながら、彼女はそう呟く。遥川は、優雅な所作が嫌味なくらい似合う優男だった。

 一昨日行われたファンイベントの直後、遥川は突然失踪した。連絡も全く取れず、編集者が部屋を訪れるも一向に出てくる気配がない。今までに無い事態に事件性を感じ取った彼女が警察に通報、この部屋に捜査が入った。そうして、この惨状に迎えられた。

 一体あの男は何を考えていたんだろうか。荒れた家の中で、今更ながらそう思う。あの優雅な佇まいと、今の部屋が上手く結びつかない。

「まあ面も良かったしな」

「小説は顔で書くものじゃないですよ。ただ、彼のタレント性が人気の一因だったことは否定しませんが」

「なんか胡散臭いんだよな。とんとん拍子に売れてた奴ってのは」

「いえ、とんとん拍子というわけでは……彼にも不遇の時代はありました。デビュー作で持て囃されて、それから二作目までは名前で売れたんですけど……三作目が、ちょっと。それから一、二年くらいぱったり書けなくなっちゃったみたいで、才能が枯れたって言われてたんですよ。でも、復帰してからは凄いスピードで新作を発表して……そして、今の地位があるわけです」

「はあ、なるほど」

「これで人生を投げ出したくなるのなら、人間はどんなに成功しても幸せになれないことの証明になるでしょうね。ところでイロの線は? 誰かしら決まった相手がいたんでしょうか?」

「俺はいたと踏んでる……よくよく見りゃ、誰かいたような形跡があるだろ。冷蔵庫の中身には統一感がねえし、歯ブラシが二本置いてある」

「それじゃあ、同居している誰かがいた、と?」

「とっかえひっかえ女連れ込んでた可能性もあるだろ」

 何しろ相手はそれなりに有名な小説家なのだ。そういう浮ついた話があってもおかしくない。

「ただ、一つ気になるところがある」

「何ですか?」

「……宅配便あるだろ」

 男は苦々しくそう呟いた。

「ああ見えてプライベートでの交友関係は一切無いような男だったらしいからな。買い物すら専ら通販で済ませていたくらいだ。だから、奴と宅配の人間は殆ど顔馴染みみたいなもんだ。多少担当が変わってもな。俺はその業者に聞いた。受け取ったのはいつも遥川本人だったか? ってな。答えはイエスだ」

「それがどうかしたんですか?」

「誰かと住んでたのに、その同居人は、ただの一度も荷物の受け取りを行わなかった。それってどういうことだ?」

 その辺りで察しがついた。宅配便にすら出ない同居人。それはつまり、同居人が人目に触れちゃいけないお相手だったというわけだろう。遥川悠真はその同居人を表に出したがっていなかった。それは何を意味するだろうか?

「……遥川が物凄く嫉妬深くて、宅配便にすら出したがらないくらいで囲ってたのかも」

「そんな男がいたら怖えよ」

 小さく呟きを漏らしたことで、一層不気味さが増した。

「あとは……寝室ですか?」

「そうだな。そっちの奥にある」

 広い寝室には、ベッドくらいしか置かれていなかった。破壊の跡が見られないのは、単に物が少ないからだろう。ベッド脇のサイドテーブルには埃が積もっていた。

 取り残されたような寝室の中で目をつけたのは、隅にあるウォークインクローゼットだった。別にそこに禍々しさを感じたわけじゃない。失踪するにも準備が必要だろう。だから差し当たって、持ち出された衣類や引き出されたキャリーケースの跡を見つけようとしたのだ。

 しかし、求めていたものは何一つ見つからなかった。代わりに目に飛び込んできたのはそんなものじゃない。そんな、容易に期待出来るようなものじゃなかった。

「あの、これ、見てください」

 確かめるように、彼女が言う。

 ウォークインクローゼットの中は、広く見積もっても一畳程度しかないだろう。その限られた空間の内側に、びっしりと紙が貼り付けられていた。これがお札だったら、ストレートな事故物件に見えたかもしれない。でも、そうじゃない。貼られている紙はA4サイズで、打たれた文字は縦書きだった。

「……何だこりゃ、何のおまじないだ?」

「〝『具体的にはどんな方法にするの?』という言葉が、少し遅れて届く。彼女と僕との距離は馬鹿みたいに遠いのだ。何せ彼女の居場所は月のそのまた先なのだから〟」

 涼やかな声が、淀みなく一文を読み上げる。

「これ、小説ですね。……誰が書いたものかはわかりませんが」

「遥川だろ。小説家なんだから」

「クローゼットの中に自分の小説を貼り付ける小説家がいるとでも? それに、見てくださいよ」

 貼り付けられた小説に気を取られていたが、クローゼットの中身はそれこそ異様だった。

 狭い床に置かれた赤いランドセル。クローゼットに掛かったブレザー。子供用の洒落た赤いワンピース。それに、ブラウスが数着と、サイズの小さいダッフルコート。遥川悠真が三十代の成人男性であることを考えると、あまりそぐわない中身だった。

「……女装趣味? いや、ロリコンか?」

「そのランドセルや赤いワンピースなんかは小学生のものに見えますが、掛かっているブレザーは制服でしょう。中学か、高校か……。年齢の幅があまりに広い」

 真面目な顔をして、彼女は言う。単なる嗜好品だとするには、それらの服は縒れている。コレクションにしては生々しい。生活感のある所蔵品だ。

 唯一、紙で覆われていない右側の壁には、ボール大の黒ずみがあった。誰かの影がそのまま残ったような、奇妙な黒ずみだ。コピー用紙に囲まれたクローゼットの中で、その染みは殊更に目立つ。

「何だこれ」

「わかりませんか、この位置」

 そう言って、彼女はクローゼットの中に入った。小柄な女一人でも、クローゼットの中は一杯になってしまう。誰かの衣服に囲まれたクローゼットの中に腰を下ろし、膝を抱えた。壁を背もたれ代わりにした辺りで、事態が飲み込めた。黒ずみの位置は、彼女の頭と大体同じ位置にあった。

「……ここに居た人間は、こうして、この位置に座っていたんですよ。それも、ずっと長い間。そうじゃなきゃこんな跡は付きません」

 淡々とした声だった。足すらまともに伸ばせない場所に座りながら、まっすぐに外を見る。

 ここに人間がいたなんて信じられない。いるだけで息苦しくなるような場所に、こうして誰かの影がある。

 この位置に座るとまた別の小説の断片に迎えられた。『……とある小説でさ、戦車の前に生身で飛び込んだ催眠術師の話が出てくるんだ。彼は結局、争いを止めることも出来ずただ死ぬんだけど、』『英華はそのまま消えてしまいたいとすら思った。けれど、彼女の足元にまだ穴は訪れない』『その時、百六十二番目の名弥子が生まれた』……。クローゼットの限られた空間に、バラバラの物語が詰め込まれている。どれ一つとして繋がっていない、ただの断片だ。それぞれの小説がまともに完結しているかも怪しい。

 それらの小説をしばらく眺めてから、ようやく彼女はクローゼットを出た。そこから出ただけで、途方もない解放感がある。懺悔室のような空間だ、と思う。

「お前よく平気だな。あんな染み触りたくもねえわ」

「私だって平気じゃないですよ。でも、入らなくちゃわからないこともありました」

 荒れた部屋。失踪した小説家。奇妙なクローゼットに残る人間の跡。それでいて、同居相手のことが全く出てこない部屋。ややあって、言う。

「遥川は誰かと同居はしていなかったのかもしれません」

 その言葉の意味するところは明らかだった。

「……だからって、売れっ子小説家が監禁事件か? ふざけた話だな」

「クローゼットの中身見たでしょう。ランドセルもありました。子供用のワンピースも。それに、ブレザーも。クリーニングには出されていましたが、最近袖を通した形跡はありません。あの服の持ち主は、成長しているんです」

「囲ってたっていうのか? 子供がいるって話は聞かねえが」

「そうですね。遥川は未婚のはずですから」

 スキャンダラスな話だった。狂信的なファンやカルトよりも、ずっと危うい話だった。

 少しの陰りもないような華やかなタレント小説家が、ここで人間を飼っていた可能性。

「……遥川を引っ張るか?」

「本人がいないんじゃ意味がありませんよ。それに、この部屋にいるはずの誰かもいません」

 あのクローゼットの中を見る限り、遥川とその誰かは一定の共生関係にあったように見える。クローゼットには鍵がついていなかった。それでも、その誰かはあの場所に留まり続けたのだ。

 この二人の関係が崩れるとしたら、一体その原因とは何だったんだろうか?

「じゃあ結局何にもわかんないのか?」

「さっき、妙な文章があったって言ったでしょう。まだ読んでいませんが、何かの手掛かりになるかもしれません」

 これ見よがしに荒らされた部屋の中で、唯一無事だったもの。誘導されている気はしなくはなかった。ヘンゼルが落としたパン屑のように見えるのが、彼女にはちょっと気に食わない。それでも、辿る先はそこしかなかった。

「それ、俺のタブレットに送れるか? 同時に読んでった方がいいだろ」

「はい」

 先輩刑事の言葉を受けて、カーソルを動かす。この小説をコピーすることに抵抗を覚えたけれど、結局は言われた通りにした。その時に、その一文が目に入る。

 ――だから私は、遥川悠真に死んで欲しかった。

 これは一体誰の小説なんだろうか?

「部屋ってのは誰の部屋なんだろうな。あの呪いのクローゼットか?」

「あれが部屋に見えますか? 小屋が良いところですよ」

 嫌な予感はしていた。この小説を読むことで、きっとこの失踪事件には余計な意味がついてしまう。それでも、読む以外に選択肢が無かった。

 そのまま黙って目を落とす。残されたそれは、読み解かれるのを待っていた。



 憧れの相手が見る影もなく落ちぶれてしまったのを見て、「頼むから死んでくれ」と思うのが敬愛で「それでも生きてくれ」と願うのが執着だと思っていた。だから私は、遥川悠真に死んで欲しかった。

 私の神様は、ずっと死に損ね続けていたのだ。我ながら、酷いことを思うものだ。けれど、それが私の本当だった。それだけが私の本当だった。

 私が犯した罪の話をする為には、やはり六年前から始めなくちゃいけないだろう。あの頃は私も単なる小学生だった。そして、先生は誰よりも美しい小説家だった。

 その頃、私の拠り所といえば誰にでも開かれている学校図書室だった。放課後になると、私は決まってそこで過ごしていた。


『隠れキリシタン達は聖書を所持することは出来ませんでした。その代わり、彼らはそれらを覚え、口伝えにそれを伝えることで、拠り所としていました』

 そこまで読んだところで、五時を告げるチャイムが鳴った。折角だからキリの良いところまで読んでしまいたかったけれど、このチャイムと一緒に図書室を出ないと家に間に合わない。名残惜しいけれど本を閉じて棚に戻した。

「読み切れなかったら借りていってもいいのよ」

 それを見た司書さんが困ったように私に言う。無駄だとはわかっていても言わずにはいられない、というような感じで。

「幕居さんは難しい本も読んでるから。家に帰ってじっくり読みたいんじゃない?」

 その声があんまりにも優しいので、なんだか申し訳ない気持ちになる。

「すいません。……家では読んでいる時間が無くて」

「習い事か何か?」

 私は曖昧に頷いてから、手首に付けられたぶかぶかの腕時計を確認する。五時三分。まだ余裕があるけれど、何かトラブルが起こったら遅れてしまうかもしれない。

「ありがとうございました」

「あ、そうだ。遥川悠真の新作出るらしいわよ」

 楽しそうに司書さんが言う。

「『遥かの海』、覚えるほど読んでたもんね。好きなんでしょ?」

 私が何度も何度もその本を棚に返すところを見ていたのだろう。あるいは、陶然とした顔で繰り返し読んでいるところも。その遥川悠真の二作目が出る。それだけで、心臓が痛くなるほど高揚した。

「本当ですか?」

「その時は貸出カードを作ってあげる」

 司書さんが笑顔で言う。はっきり断ることも出来ないまま、図書室を出た。


 小学校から家まではそう遠くない。十五分あれば着いてしまう。夕焼けを浴びながら、古びたアパートの二階に上がる。そして、玄関の前に立った。

 そこでもう一度腕時計を確認する。五時二十七分に着いてしまったので、玄関の前で少しだけ待った。遅れてもいけないし、早くてもいけない。五時三十分ぴったりになった瞬間扉を開けると、玄関で待っていたお母さんが、淡々と言う。

「おかえりなさい、梓」

「……ただいま、お母さん」

「十五分」

「はい」

 食卓の上に載っているのは、スーパーの袋に入ったままの菓子パンだった。何個か入っているその中から、メロンパンとチョココロネを選んで時計を見る。

 いただきます、と言ってからすぐに食べ始めた。十五分は短い。少しでも迷っている時間は無いのだ。

 食べ終わったら、五分の休憩を置いてお風呂の時間になる。二十分間で身体と髪を洗い、六時半までに着替える。そして、七時までに明日の学校の用意を済ませて、和室の前の押し入れに立つ。

「早くして」

 お母さんに言われる前に、私は既に待機している。けれど、お母さんにはそれが見えていないのかもしれない。お母さんが押し入れの襖を開ける。私は何も言わずに、その中に入る。お母さんがランドセルと私の靴を押し入れに入れて、そのまま襖を閉めた。私の視界は暗闇に覆われ、何一つ見えなくなる。

 午後七時から朝の七時まで、私は暗闇の中に閉じ込められる。私が小学校に上がる頃から、ずっとこの習慣は続いてきた。

 暗闇で息を潜めて、お母さんが開けてくれるまで、出てきてはいけない。時間に遅れてはいけない。それが私とお母さんのルールだった。

 暗闇の十二時間が始まる。

 こんな早い時間に眠くなるはずがない。けれど、お母さんの決めた時間は絶対だった。私はどうにかしてこの暗闇と仲良くするしか方法が無かった。私が読書と出会ったのは、頭の中で出来る遊びを一通りやり尽くし、眠り続けることに限界を感じ始めた頃だった。

 放り込まれる暗闇の中で、灯台になるものを見つけた気すらしていた。

「……〝彼らはそれらを覚え、口伝えにそれを伝えることで、拠り所としていました”」

 今日読んだばかりの一文を、小さな声で呟く。

 私が貸出カードを作ることは一生無いだろうな、と思う。

 暗闇の中では本が読めない。だから、私は図書室で読んできた本を繰り返し反芻した。明るい内に読んだ本を道標にして、暗闇の中を歩いていくように、読んだばかりの文章で遊ぶ。

 この家には本は一冊も無い。けれど、私の頭の中には私の為だけの本棚があった。お気に入りの本をこうして私だけの書棚に入れておけば、暗い場所でも私はそれを好きに読むことが出来た。隠れキリシタンの記述に目を奪われたのは、私との近似を感じたからかもしれない。

 今日読んだ本の反芻をしようと思ったのに、私の心は遥川悠真の新刊に寄っていた。先生の新刊が出る。

 遥川悠真の小説は、心の本棚の中でも一番目立つ場所に置いてある。繰り返し読み過ぎて、もうすっかり装丁の感触すら覚えてしまった。箔押しされた『遥かの海』の文字に想像の中で触れると、何かに包まれているような気持ちになった。

 何度も読んだ物語を、心の中で繰り返す。もうすぐこの特別な場所に、もう一冊が加わるのだ。

 押し入れの外からは声が聞こえる。私と居る時とは全く違ったお母さんの声がする。私の知らない誰かを家に呼んで、私の知らない話をする。午後七時からは他人の時間だった。スケジュール管理のきちんとした人だった。私をこの中に入れた後のお母さんは、その役目をすっかり忘れてしまったかのように笑うのだ。


 やがて朝になると、お母さんは襖を開ける。暗闇の中に光が差して、お母さんがいつものようにそこに立っている。

「梓。十五分」

 時計と一緒に一日が始まる。十五分以内に支度をして学校に行く。ここに入る。


 退屈ではないといえば嘘になる。平日は十二時間、休日は決められた時間以外は殆ど一日、私はその押し入れの中にいた。お母さんの決めたルールに例外は無い。以前勝手にトイレに立った時には、酷いお仕置きを受けた。自分より小さなケージに入れられるところを想像出来るだろうか? その時はサリンジャーも、遠藤周作も、遥川悠真も私のことを助けてはくれなかった。

 私は暗闇の中でただ身を潜める。けれど、頭の中に浮かぶ情景や文字列は、暗いところでも輝きを失わない。

 それさえあれば私は立ち続けていられるだろう。そう思っていた。

 けれど、そんな考えを崩したのもまた、遥川悠真の小説だった。


「はい、これ」

 とっておきの宝物でも渡すように、司書さんが一冊の本を手渡した。星座をモチーフにした綺麗なタイトルロゴがよく目立つ。

「本当はまだ書棚に卸してもいないんだけど、幕居さんに一番に読ませてあげたくて」

 その本は、遥川悠真の二作目『天体の考察』だった。

「……その、私、借りられない……」

「大丈夫。読みたいんでしょ? こっちで貸出処理はしておいてあげるから」

 そういう意味じゃなかった。私に家で本を読む時間は無い。でも、目の前にあるのは、あの遥川悠真の新作なのだ。どうしても読みたかった。もし、この本を貸してもらえたら、夜は読めなくても、朝、学校へ行く時間や休み時間に読むことが出来る。それに気付いた瞬間、ぶわっと自分の顔が赤くなるのがわかった。

 結局私は遥川悠真の新刊を持って帰った。司書さんの嬉しそうな笑顔が忘れられない。時間は五時十一分になっていた。私は教科書の隙間に『天体の考察』を滑り込ませ、走って家に帰った。その本は〝家に余計なものを持ち込まない〟というルールを破らせるだけの魔力を持っていた。

 けれど、その浮かれた気持ちを後悔する機会はすぐに訪れた。


 七時になり、いつものように私が押し入れに入ると、追って靴やランドセルが乱雑に投げ込まれる。私はそれに当たらないように奥の方に居るから、襖が閉められるまで〝そのこと〟には気付かなかった。

 暗闇の中でランドセルを漁り、『天体の考察』を探す。読めなくても、あの本を傍に置いておきたかった。そして、艶めいた表紙に手を触れて、その中にどんな物語が書かれているのかを想像するのだ。

 けれど、いくら漁っても『天体の考察』は見つからなかった。

 投げ込まれる時に落としたんだ、ということには容易に想像がいった。きっとあの本は押し入れの前にひっそりと転がっていることだろう。でも、ここに入ってしまった以上、私はそれを拾い上げる術がなかった。

 お母さんに見つかったらどうなるだろう。一体何が起こるのだろう。あらゆる嫌な想像が頭を巡る。見つからない、なんてことはあるだろうか? けれど、それを願うにはあまりに綺麗過ぎる装丁だった。あれが誰にも見つからないなんてことがあるはずがない。

 やがて、その時が訪れた。畳を踏む誰かの足音。誰かが押し入れの前で立ち止まる気配がした。

「なんだこれ、小説か?」

 揶揄うような男の人の声がする。今までに何度か聞いたことのある声だった。何度かこの家に来たことがある人なのだろう。お母さんが媚びたような笑い声を立てる。少しも楽しそうじゃない笑い声だった。

「お前、こんな文字の多い本読めんのかよ」

 男の人の声を聞きながら、私は密かに緊張する。お願いだから、本をひっくり返したりしないで欲しい。あの本の裏側には『曽野里小学校図書室』というラベルが貼ってある。そうしたら、私がここにいることがバレてしまう。そうしたら、一体どんな目に遭わされるだろうか。

 やがて、本が畳に落ちる鈍い音がした。

 そこからはよくわからない。お母さんと男の人が何かを話す。不自然な笑い声が辺りに響く。その間、私は眠ることも出来ずに震えていた。

 どれくらい経っただろうか。不意に襖が開いて、私は勢いよく外に引きずり出された。

 暗闇に慣れた目の所為で、お母さんの表情がよく見えない。私の目に焼き付いているのは、青紫色の夜空が描かれた『天体の考察』の表紙だった。

「これ、あなたが借りてきたの?」

 まともに話せなかった。お母さんの手の中にあるその本は、殆ど恐怖の対象でしかない。

「遥川悠真。……こんな文字でいっぱいの本、読むんだ」

 吐き捨てるようにお母さんが言う。そして、震える私を余所に、流しに向かった。バン、と音を立てて本が叩きつけられる。そして、お母さんはその本に火を点けた。焦げ臭い臭いが辺りに撒き散らされて、気分が悪くなる。

 星座を模した美しいタイトルロゴはもう影も無かった。それを見て、一瞬だけ泣き喚きたくなる。そんなことをしたらおしまいだと分かっているからこそ、どうにか留まることが出来た。

「ねえ、梓」

 振り返るお母さんの顔は、今まで見たことの無いような笑顔だった。

「本屋さんに連れて行ってあげる。誕生日プレゼント、まだあげてなかったもんね」

 私の誕生日は随分前に過ぎていた。それでも、私は何一つ言葉を発せられない。

 お母さんが私の手を引き、外に出た。部屋着のまま外に出るのも、昼間からお母さんと出歩くのも初めてのことだった。そのままお母さんは、近くにある大型書店に入る。開店したばかりの店内には、お客さんが殆どいなかった。

 遥川悠真の新刊は、一作目の『遥かの海』と併せて、大きく展開されていた。積み上げられた著作の上で〝待望の新刊〟の文字が躍る。

「いいのよ、梓。本が欲しいのよね?」

 熱っぽくそう呟くお母さんの声が、今でも耳に残っている。

「時間を計るわ」

「お、母さん」

「五分」

 あまりの残酷さに身が凍るようだった。心を完璧に折ることの出来る、独創的な罰だった。五分という制限時間が、長いのか短いのかすらわからない。背中を押された瞬間、私は駆け出す。

 自分でも器用だったと思う。私は一冊の本を、誰からも咎められることなく盗んでのけた。

 手に持った小説は、失くした『天体の考察』じゃなく『遥かの海』だった。頭の中で繰り返し手に取っていたからだろうか、私の手は吸い寄せられるようにそれを盗っていた。

「三分二十八秒」

 お母さんは短くそう言った。


 それから、私とお母さんは一言も発さなかった。私は家に帰ると、何かを言われる前に押し入れの中に入った。腕の中には『遥かの海』があった。今までずっと、この本を手に入れるのを夢見ていた。それなのに、暗闇の中でこの本は少しも私を導いてくれることはなかった。

 次の日の朝になっても、お母さんが襖を開けてくれることはなかった。

 聞こえてくる音から朝が来たのが分かっても、私はそこから出られなかった。こんなことは今まで無かった。お母さんの決めたルールは、お母さん自身も破らないのが常だった。

 けれど、それから更に数時間待っても、襖が開かれることは無かった。トイレに行きたくなり、仕方なく自分から襖を開けた。時刻はお昼を回っていた。

 お母さんはいなくなっていた。

 テーブルの上にはいつも通りの菓子パンと、封筒に入った纏まったお金があった。今までこんなことはなかった。お母さんはいつでもここで、私を監視しているはずだった。

 菓子パンを食べ、私はひっそりと押し入れに戻る。けれど、それから二日経っても、お母さんが帰ってくることはなかった。

 こうして、私を縛る枷は、あっさりと解かれてしまった。陽が落ちても、私のいる世界は明るい。陽が落ちても、私のことを追い立ててくれる人はいなかった。私を暗闇に戻そうとしてくれる人はいなかった。

 私は失敗したのだ。

 お母さんがいない部屋でも、私は自分から押し入れに入り続けた。それを止めたのは、三日目だった。ここ数日、私は押し入れに入らず、明るい部屋に居続けた。それでも、私に罰は下らない。

 一人になった部屋で、私は『遥かの海』に向き合う。

 自分が盗んだそれは、自分の記憶の中の本よりもずっと美しかった。中身なら一語一句覚えている。何しろ暗闇の中で、この小説は私の道筋を照らす灯台だった。けれど、明るいこの部屋で、その小説は単なる本でしかなかった。

 流しには焼けた『天体の考察』が残っていた。思えば、あの小説が全ての引き金だった。あれに手を伸ばしてしまったからこそ、私の世界は脆くも崩れ去ってしまったのだ。そう思うと、その本が忌まわしいものにすら見えた。

 唯一好きだったものが、支えであってくれたものが、目の前で段々と精彩を欠いていく。それは、今まで味わったことのない恐怖だった。私の存在自体もぼろぼろと崩れていくような感覚だ。止めたいのに止められない。

 崩壊を防ぐ為に出来ることは一つしかなかった。私は決意を固める。

 ランドセルを背負って、そのまま外に出た。茜色に染まる空は、私のタイムリミットを示す指標だった。本当はこの色に合わせてお母さんの元に帰らなくちゃいけないはずだ。けれど、私はまるで反対の行動に出る。

 腕の中には『遥かの海』を抱いて、私は近所にある踏切へと走って行った。この期に及んで、私はその小説だけは捨てられずにいたのだ。

 死のうと思った。

 言葉にしたらどれほど陳腐な話だろう。ただ、それだけが、あの時の私に唯一選べる選択肢だった。私が好きなものを好きでいられる内に、ここで終わらせるしかなかった。

 カンカンと音を立てる踏切の前で、私は列車を待つ。自殺については詳しくないけれど、ここに飛び込めば死ぬということくらい、どれだけ想像力が無くてもわかる。

 何本の列車を見送っただろうか。死のうという気持ちは本物なのに、私の足はなかなか動かなかった。一歩踏み出せば越えられるその一線が遠くて、自分の靴をじっと眺める。列車が来る。

 次こそは死のう、次こそ飛び込もう、次こそ、と小さく寿命をカウントしていく。腕の中の本を抱きしめる。

 その時だった。

「ちょっといい?」

 踏切の向こうから、涼やかな声がした。足元ばかりを見つめていた私の目が、踏切の向こうに向けられる。

 そこには、一人の綺麗な男の人が立っていた。

 生活の淀みから抜け出してきた私には想像もつかないほど、彼の姿は洗練されている。特別なものを身に着けていたわけじゃない。何の変哲も無い白いタートルネックと、黒いスラックス。そのスラックスからは、子供の私よりもずっと白い足首が覗いていた。

 どこか別の世界の生き物が、踏切を挟んでひょいっとそこに現れてしまったような、場違いな美しさがそこにあった。不適切だな、と私は反射的に思う。

 白い息を吐き出しながら、彼は私のことを見つめていた。困惑と憐憫と不遜さを混ぜた奇妙な笑顔で。ややあって、彼が言った。

「迷惑なんだよね」

「……え?」

「迷惑なんだよ。わかる?」

 てっきり説得されると思っていたので、向けられた言葉に驚いた。きっとこういう時は『自殺は良くない』とか、『命は大切に』とそういう言葉が来る場面だろうに。彼はその全てを裏切ってみせた。

「迷惑って、何でですか」

「俺ね、その本の作者なんだよ」

 初めは何を言っているのかわからなかった。彼が焦れたように私の胸元を指す。そして、微笑みながらもう一言。

「ね、凄いと思わない?」

 そこでようやく思い至った。私の胸元には『遥かの海』が抱かれている。戸惑いながら作者名を確認した。遥川悠真。はるかわゆうま。その洒落た名前が、目の前の人にはよく似合っていた。

 私は軽く息を吐いて、丁寧に言った。

「……すごい、です」

「でしょ?」

「あの、…………遥川、先生なんですか?」

「そうなの。俺がその、遥川先生」

 軽やかに『遥川先生』が笑う。

「だから、俺の本持って死なれると困るんだよ。クソマスコミが騒ぐじゃん。子供に悪影響だとか、小説の所為で人が死んだとか。んで、皆馬鹿だからさ、販売停止とかになんだよ。馬鹿だよな。小説なんかにそんな影響力あると思ってんのかよ、って。だったら世の中もっとよくなってるっつーの」

 遥川先生は一人でそうまくしたてると、にっこりと笑った。

「君もどうせ小説が原因で死ぬわけじゃないんでしょ?」

「……その、」

「それか、その本俺に渡してくれる? そしたら別に死んでもいいよ。そうしたらもう関係ないし。ほら」

 苛立たしげに言われたその言葉を受けて、反射的に『遥かの海』を強く抱きしめた。これさえ手放してしまえば、私はこうして引き留められることもない。遥川悠真の関心は腕の中の小説に注がれている。自殺した小学生の血を浴びた呪われた小説になりかけている小説に。

「嫌なら変なこと考えないでさっさと帰りな。もうすぐ暗くなるよ」

 先生の言う通りだった。時刻は四時半になろうとしていた。このままここに居れば、私の知らない夜が来ることだろう。

「……帰れないの? それとも帰りたくないの?」

 私の反応を見て、先生は何かを察したようだった。伸びていく影を見ながら、私は黙っている。どう答えていいか分からなかった。帰る場所ならある。けれど、それは本当に私の居場所だったんだろうか?

 置き去りにすることも出来た。こんな子供に構わないで、さっさと立ち去ることも出来たはずだ。それでも、先生はどういうわけだか、その言葉を口にしてしまった。

「うちに来る?」

 踏切は隔てたままだった。カンカンとさっきから何度も聞いていた音が鳴る。目の前の人が本当に、憧れの小説家なのかもわからない。それに、彼の誘いに乗って、どうなるのかもわからない。

 けれど、気付けば私は踏切の向こう側に立っていた。さっきまであれだけ踏み出せなかった一歩が嘘みたいだった。

 先生は私のことを一瞥して、すたすたと勝手に歩き出す。全く合わない歩幅の相手を、私は必死に追いかける。

 それが私と先生の出会いだった。この長い長い殺人の、最初の一歩だ。