休みの日の朝はお米からお粥を炊く。

 精米技術の発達した現在、お米は「研ぐ」必要がない。軽く洗ったら、水といっしょに土鍋に入れる。

 しっかり食べたい日は、水をお米の五倍の分量にした全粥に。体調のよくない日は水を十倍の分量にした五分粥に。

 ほんの少しの粗塩を加えて火にかける。

 ふつふつと水が沸騰しはじめると、鍋底からお米が浮き上がってくる。

 火を弱めて一度だけかき混ぜたら、ふたをして二十分。

 ふたの下に割り箸を一本だけ挟んで蒸気の逃げ道を作ったら、もうふたは開けない。

 中を見たい気持ち、かき混ぜたい気持ちをぐっと抑えて、対流に任せる。

 あわただしい平日の朝には冷凍保存していたごはんを使うけれど、お米から炊いたお粥は格別だ。

 びっくりするほど甘くて、米の芯には歯ごたえも残っている。シンプルに塩だけで味をつけてもおいしいし、梅干しやとろろ昆布で変化をつけても楽しめる。

 炊きたての温かいお粥が喉を通っていくと、寝起きの体のすみずみまで、熱と水分が染みわたっていく。

 大学進学とともに東京に出てきて十四年。

 住んでいるマンションはフローリングの2K。

 電車は待たなくてもすぐ来るし、コンビニは二十四時間開いているし、欲しいものはすぐに手に入る。

 古い町屋にも、午後五時に閉まるコンビニにも、一時間に一、二本しか電車の来ないローカル線にも縁遠くなった。

 それでも毎朝のお粥だけは、実家にいたころからずっと変わらない習慣だ。



 デスクに保管していた資料を、ばっさばっさと処分した。

 今後も必要になる資料は、ファイリングして共有スペースの棚におさめる。

 機密事項が載っているものはシュレッダーにかけ、載っていないものは古紙と裏紙に分けて箱に入れる。

 私物は定期的に処分しているつもりだったけど、十年も勤めていたらそれなりに溜まってくるものだ。

 突然の飲み会(と称した合コン)用にスタンバイさせていたワンピースとパンプスを紙袋に入れ、端の欠けたヘアクリップをごみ袋に放り込み。

 引き出しの中にも掃除機をかけて、雑巾で拭く。

 いらないものを捨てて、きれいに拭き掃除する。自分の外側の皮がどんどん剥がれ落ちて、身軽になっていくような気がする。

 わずかに残っていた「どうしてわたしが」というわだかまりも、日に日にすり減っていくようだった。

 もちろん、たった四人だけの小さな会社だ。昼休みや終業後、せっせと退職の準備にいそしむ千束の行動は、他の三人にとっては威嚇に思えたのかもしれない。

「お前、次の会社決まってるのか」

 信号待ちの間、運転席でハンドルを握っていた先輩が尋ねた。

 ちょっと気まずそうな口調で。

 退職の挨拶を兼ねて、担当者引継ぎの顔合わせに回った帰り道だった。

 三月初めの風はまだ冷たい。でも日差しは確実に春のものになっていて、窓を閉め切った車内はぽかぽかと春の陽気に満ちていた。

「ご心配なく」

 窓の外を見たまま、答えた。

 できるだけ、冷たい口調にならないように注意しながら。

 窓ガラスに、淡く自分の姿が映っている。

 どう頑張ってもおとなしくは見えない気の強そうなまなざしと、きりりとした眉。何とか印象をやわらげようと、長くのばした黒髪にやわらかいカールをかけてみたけど、あまり効果はなかったみたいだ。

「お前が来てくれてよかったよ。女のお客さんの評価も高くなったし、会社もきれいになったし」

 とつとつと先輩が続ける。

 ストレートに褒める人じゃなかったのに、やっぱり最後になると違うんだろうか。

「男三人でごみ溜めみたいな事務所でしたよね」

「何でこんなことになったんだろうな」

 苦しげな口調だった。

 責任転嫁をしているわけじゃなく、本当に理解できないようだった。

「〝割れた鏡は照らさない〟」

 千束は短く言った。

「祖父がお坊さんだったって話、しましたよね」

「ああ」

「禅語だそうです。後悔に効用なし、って意味」

 先輩は思うところあったのか、しばらく黙っていた。

 どちらかと言えば仲が良かったと思う。求人広告も出ていないのに「入れてくれ」と押しかけてきた千束をおもしろがって入れてくれたのもこの人だし、初期にはずいぶん可愛がってもらった。

 ただ、仕事になると相性が悪かった。

 下の名前で呼びあうほどに、たがいの距離が近い会社。親しくなるのは簡単だったけど、それがわざわいした。距離を置くことができず、結局どちらかが辞めるしかなくなった。

 後から入ってきた自分が出ていくのが筋だろうと思った。わだかまりがないとは言わないが、別に恨んではいない。

 腕組みしかけたところで、左手の人差し指が目についた。

 ネイルが欠けている。塗りなおさないと。

 青信号になって、隣の車線で車が動きだす。

 先輩はこちらにちらりと視線をやった。

「腕を組むな」

 苦笑して続ける。

「偉そうだからやめろって言っただろ」

 偉そうな腕組みポーズは千束の癖で、三十二歳になるまで直らなかった。



『素直のすゝめ』

『人は言わなきゃわからない』

 本棚の奥から出てきた二冊を目の前に掲げ、千束はうーんとうなる。

 前回の失恋のときに買ったものだ。

 恋人と別れると、いつもは読まない自己啓発本を買ってしまう。そして、「これからは素直に生きよう」「後悔のないよう、きちんと相手に感謝を伝えよう」などと気持ちを新たにするのだが、一週間もたつとその本を読んだことすら忘れている。

 しばし迷ったあげく、「保管」と書いた段ボール箱に二冊を入れる。

 しばらくは読む予定がないけど、次に付き合う人と別れたときに、また必要になるかもしれない。

『古民家再生』は、リノベーション業界に入ったきっかけだから、残す。

『白色家電の発明』『昆虫たちのサバイバル』はまだきれいだから図書館に。

 使い込んだレシピ本は古紙回収に出すことにして、『「家族」の発見』はちょっと古いから古書店へ。

 三月初旬の金曜日。

 たまった有給休暇の消化に入って四日め。

 休暇に入って最初に千束が着手したのは、自宅にある本の整理だ。

 整理のコツは、「決してページをめくらない」に尽きる。中身を見たら最後、読みはじめてしまい、いつまでたっても整理が終わらないからだ。

「何これ……」

 本塚の下から、プロレス雑誌が出てきた。

 明らかに自分の買ったものではない。

 数秒間まじまじと表紙を見て、以前の恋人のものだと思い当たった。

「唯一の文字文明がこれか……」

 即座に「古紙回収」の箱に入れ、ため息をつく。

 自分の好きな本をいっしょにおもしろがってくれる人。自分がまだ読んでいないけれど、必ず好きになれる本を誕生日にプレゼントしてくれる人。

 そういう人と付き合いたかった。

 東京にならそういう人もいるだろうと、胸をときめかせて大学に進学したものの、なぜか文学青年は千束を恐れて寄ってこなかった。

 結局、これまでに千束が付き合った相手はみな、体育会系の脳筋だった。彼らは文字を読む文化を持っていなかった。

「八百二十四円になります」

 段ボール箱に詰めた本を、古書の出張買い取りに来てもらう。

 手にした八百円あまりは、おやつを買うのに使うことにした。

 四日めにして、ようやく床の本が一掃された。驚くほど部屋が広く清々しくなる。

 ルッコラとチキンのサンドイッチを作り、窓際のテーブルに運んだ。

 白のスパークリングワインを開け、サンドイッチを食べる。

 日に日に気候は春めいてきて、風は柔らかく、日差しは祝福のように降り注いでいる。

 千束にとっての恋愛は、嗜好品のようなものだ。あれば生活を華やかに彩ってくれるし、大切にしたいとは思うが、なくてもさほど困らない。生活から消えても、その空いたスペースは仕事と趣味が早々に埋めてくれる。

 しかし、仕事はそうではなかった。代わりのない生活必需品のようなものだ。

 その分のスペースがぽっかりと空くことに、心もとなさを感じていないわけじゃない。でもそれ以上に、代わりに何でも入れられることを喜ぶ気持ちもあった。

 たいして心配していなかった。自分ひとり食わせていけばいいのだ。

「大丈夫なの?」「仕事見つかるの?」などと言いそうな相手には、退職のことを話さなかった。心配しているふりをして、その実何も考えていないようなお仕着せの言葉を、聞きたくない。

 わたしはどこに住んでもいいし、どこへでも行ける。

 また不動産関係の仕事に就いてもいいし、好きな料理や本に関わることを一から始めることだってできる。雇ってもらえなければ自分で始めてもいいのだ。

 能力と適性以外に、したいことを本当にさまたげるものはない。

 わくわくしていた。



 本も片づいたし、食材も食べきって冷蔵庫もほぼ空だ。明日は買い出しにいって、時間のかかる煮込み料理を作ろう。

 そう思い、鼻歌を歌いながら食器を洗っていた。そのときだった。

 スマホが鳴った。

 タオルで手を拭いて、着信表示を見る。

〝実家〟

「はい?」

「――千束か?」

 聞こえてきたのは、父の声。

 その一言で、異変を悟った。

 父のことをかんたんに表現するなら「おちゃらけた田舎のおっさん」だ。

「すみま千円」だの「何か用か? 九日十日」だの、挨拶代わりに昭和のギャグを口にせずにはいられない人なのだった。

 くだらないことも言わずにまじめな声を出すなんて、異常事態だ。

「どうしたの」

「お前、今日仕事は?」

 硬い声で父が尋ねる。

 時計を見ると、十七時過ぎ。いつもなら、まだ会社にいて電話には出られない時間帯だ。離職することは家族に話していない。

「今日は休みだよ」

「明日も休めないか」

「どうしたの」

「実は今朝、じいちゃんが倒れてな……」

「えっ」

「まずい状態なんだ。明日でいいから帰ってきてくれ」

 あせった様子で言うなり、父は電話を切った。

「え、ちょっと……」

 ぽかんとして、スマホの画面を見る。

 折り返し電話をかけてみるけど、誰も出ない。

 祖父も父も、携帯電話の類は持っていない。

 念のため、金沢にいる弟に電話してみた。こちらも応答がない。

 どうなってるんだろう。

 十七時過ぎなら、まだ実家の食堂は営業中だ。誰もいないはずないのに。

 状況がわからないと、不安になる。

 ひょっとして、みんな病院に向かったんだろうか。店も閉めて。

 それなら、明日じゃ遅いんじゃないの?

「ああ、もう!!」

 苛立ちの声を上げ、立ち上がった。

 ここで気を揉んでいても仕方ない。

 外着に着替えてスプリングコートを羽織った。

 喪服……は縁起が悪いからやめよう。長丁場になるかもしれないから、着替えと化粧品は持っていったほうがいいかもしれない。

 クローゼットからボストンバッグを引きずり出し、服と化粧品を放り込む。

 戸締り確認、ガスも確認。

 電話を受けて十五分もたたないうちに、千束は部屋を飛び出していた。


 白峰超源の代表作『成巌寺』。

 忘れられた作家の長編であるが、井上靖の『天平の甍』と並び称され、昭和の文学史に燦然と輝く傑作である(地元評)。

 美しき青年僧の青春、求道者としての苦悶を描くその作品の舞台になったのは、タイトルに冠した成巌寺。青い竹林に囲まれ、黒を基調としたシックで美しい伽藍を持つ、曹洞宗の寺院。

 そのお寺を戴いた門前町――ということだけが売りの、北陸にある小さな町。それが千束の故郷だ。

 東京駅から新幹線で約二時間半。加賀百万石の城下町、風情ある町並みと武家文化の粋が残る金沢――から、ローカル線に乗り換えて三十分以上、さらに徒歩十五分。みんな大好き「小京都」の名を出して説明されることが多いものの、金沢とはほとんど関係のない田舎町。

 北陸新幹線の開通でずいぶん行き来はしやすくなったけれど、帰省することは稀だった。ここ数年は、特にそうだ。

 都会に出てきた独身女性なら、理由は言わなくてもわかってくれるはず。

 だけど、家族を憎んでいるわけじゃなかった。

 田舎は嫌いだけど、祖父のことは大切だ。

 暗い車窓に目をやりながら、千束の胸はつぶれそうになる。

 最後に祖父に会ったのはいつだろう。二年か、三年前。正月だったか、お盆だったか。それも、「帰省した」というアリバイを作っただけ。「仕事が忙しい」を理由にして、半日くらい滞在したのみで帰ったはずだ。

 東京に出て十年あまり。自分が歳を重ねたのと同じだけ、祖父も老いていることに思い至らなかった。八十にもなれば、命にかかわる病気になってもおかしくない。

 毎日食堂の厨房に立ち、店を切りまわしていた祖父の姿が思い浮かんだ。

 朝晩、彼の作った食事を摂り、育ってきた。

 米の甘みが体のすみずみまで染みわたるようなお粥。すりおろした山芋とオクラを出汁で閉じ込めた涼やかな寒天。

 滋味深い料理のように、優しい人でもあった。

 店屋の子は淋しい思いをすることが多いから、と小学校の間は店を休んででも授業参観や運動会に来てくれた。東京の大学に行きたいという千束の希望を後押ししてくれたのも祖父だ。

 その彼に、自分はまだ何も返していない。死に目にも会えないなんて、祖父不孝にもほどがある。

 駅の改札を抜け、人目がなくなったら涙が出そうになった。

 田舎の夜は本当に暗い。わずかな街灯に照らされた道を、千束は疾走した。

 うっかり八センチヒールのパンプスを履いてきてしまった。足首を痛めそうだったけど、そんなことを気にしてる場合じゃない。

 総門をくぐると、アスファルトが石畳に変わる。ここからは仲見世通り。

 見慣れた食堂が見えてくる。

 一枚板に、「せんねん食堂」と彫り込まれた大きな看板を掲げている。

 裏に回って、勝手口の戸を開けた。

「おじいちゃん!!」

 田舎の家は、就寝時以外、出入り口の鍵をかけない。

「あれっ、姉ちゃん!?」

 引き戸を開けて居間から顔を出したのは、弟の千尋。

 ヤンキーの民族衣装たる、黒いジャージを身に着けている。

 田舎にはいまだに「ヤンキーがかっこいい」という価値観が存在する。

 以前は金色だった髪も、職についてからは黒いまま。しかし、細い眉といい私服のファッションセンスといい、「いきがってます」という主張が抜けきらない。

「早っ! なんでもう来てんだよ!」

「おじいちゃんは!?」

「いや、ちょっと待って、待って待って」

 慌てた様子で、千尋が前に立ちはだかる。

 靴を脱ぎすてて乗り込んできた千束を、バスケットボールのディフェンスのごとく阻止しようとする。図体の大きな弟が立ちふさがると、本当に壁のようだ。

「何なの、どきなさいよ!」

「いや、ちょっと待って待って、こっちにも準備ってもんが」

 弟のむこうずねを蹴りつけて、引き戸を勢いよく開ける。

 居間で、父が寝転がってテレビを見ていた。

「ひえっ」

 振り向いた父が飛び上がらんばかりにして跳ね起きる。

「……」

「……」

 沈黙の中、バラエティ番組の大げさな笑い声だけが響いていた。

「――おじいちゃんが、どうしたって?」

 ゆっくりと、父の顔を見たまま尋ねた。

 ドスの利いた低い声音に、父が両手を振る。

「いや、嘘じゃない、嘘じゃないって!」

「ね、姉ちゃん、いきなり怒んなって! ほら、まず座れよ、なっ」

 事情はわからないが、父の嘘に弟も加担していたらしい。ごまかすような態度でそれがわかった。

 千束が腕を組み、詰問の姿勢に入ったところで、勝手口の開く音がした。

「ただいまー」

「おう、戻たでー。もうごはん呼ばれたか? 最中買うてきたで、最中」

 はしゃいだ声は、独特の関西のイントネーション。

 振り返ると、祖父と沙里奈が居間に入ってきた。

「はれ、千束やないか。戻てきたんかいな。どないした?」

 きょとんとした様子の祖父の隣で、大きなおなかを抱えた沙里奈が、無表情のままあごを突きだすようにする。

「あーおねーさん。ちーっす」

 千尋の妻である。小柄で華奢で、よく見るときれいな顔をしているのに、センスは弟と同様。

 金髪をポニーテールに結い、マタニティワンピースの上に、これまたヤンキーの民族衣装・サテン地のスカジャンを羽織っている。

 どこから問いただし、怒っていいものかわからない。

 千束はとりあえず、七歳下の義妹にかみついた。

「ねえサリちゃん、それ、会釈のつもり? 『ちーっす』って敬語?」

「また始まった、日本語教室……」

「サリちゃんが恥ずかしい思いするから言ってるの!」

 新たな争いの気配を感じ取ったのか、千尋が慌てた。

 間に入って祖父の足元を指さす。

「ほらほらほら、じいちゃん倒れたんだって! 転んで骨折したんだって!」

 確かに祖父の左足には包帯が巻かれていた。

「こんなもん、どもないわ。なーに、朝、筍掘り行ってこけてもうたんや。俺も歳やなあ」

 健診に行く沙里奈とともに隣町の病院に行き、ついでに買い物をしてきたという。

「――この骨折の、何がまずい状態なの? 説明してよ」

 腕を組んだまま低い声で尋ねる千束に、父が後ずさる。

「ちょっと俺、健ちゃん呼んでくっから」

 言うなり、父は逃亡した。

 取り残された千尋が、姉の視線を受け止める。

 弟は、あせったようにパンパンと手を打ち鳴らした。

「はい、メシ! メシにしよ!」



 店の壁には、千束が子どものころと変わらず、額縁に入った「五観の偈」が掲げてあった。


  五観の偈

一つには 功の多少を計り彼の来処を量る。

(この食事がどのようにしてできたかを考え、食事が調うまでの多くの人々の苦労と手間に感謝をいたします)

二つには 己が徳行の全欠を忖って供に応ず。

(自分の行いが、この食事を頂くのにふさわしいものであるかどうか反省します)

三つには 心を防ぎ過を離るることは貪等を宗とす。

(心を正しく保ち、あやまちを避けるために、貪りの心、怒りの心、愚かな心を起こさないことを誓います)

四つには 正に良薬を事とすることは形枯を療ぜんが為なり。

(食事は健全な身体を養うための良薬だと考えて、頂きます)

五つには 成道の為の故に今この食を受く。

(仏道を成し遂げるために、今この食事を頂きます)


 禅宗の修行の際、食事の前に唱えられる教えのようなものである。

 祖父と親しかった成巌寺の「東堂さん」(「先代住職」のこと)に書いてもらったものだ。

 成巌寺の参道脇に立ち並ぶ仲見世。

 その中でもっとも歴史ある店、名前を変えつつも三百年続いた老舗が、ここ「せんねん食堂」だ。

「食堂」というと一般的には大衆食堂のイメージが強いが、せんねん食堂が扱っているのは精進料理である。

「お父さん、ごはんでごまかそうったって、そうはいかないからね。この怒りは、空腹のせいにはできないから」

 折敷を前にして、千束は凍える声音で告げる。

「その手は桑名の焼きはまぐりってか。ははは」

 いつもの調子で茶化した父は、娘の冷たい視線に射すくめられて黙った。

 家族の食事はふだん、奥の居住スペースで摂る。しかし、千尋と父が折敷や箸を並べはじめたのは、店の客席だ。もうすぐ客が来るのだと言う。

 折敷の上に夕食が並んだ。

 いただきます、と手を合わせて千束は箸を取る。

 実家の食事は久しぶりだった。

 若竹汁は、春の味。筍のおいしさをシンプルに味わうことができる一品だ。ぬめりのあるわかめと、しゃきしゃきとした筍の食感のコントラストが楽しいし、すまし汁の上品な味がふたつの食感を無理なくまとめてくれる。

 麦とろ飯は、千束の好物のひとつだ。すりおろした山芋に白みそで味付けしたとろろは、麦のつるりとした表面とあいまって、いつも必ず食べすぎる。

 ……うん?

 麦とろ飯をかみしめながら、千束は違和感を覚える。

 煮汁をたっぷり吸い込んだ板麩のすき焼きも、すり胡麻を和え衣に混ぜ込んだほうれん草としめじの白和えも、常備菜の煮豆も。

 どれもおいしいはずなのに、食事がどうも味気ない。

 怒りのせいだろうか?

 内心首をかしげていると、店の戸が開いた。

「こんばんはぁ」

 ほがらかな声で挨拶をして顔を見せたのは、隣にあるみやげ物屋の夫人。

「ちいちゃん久しぶりねえ!」

「……ご無沙汰してます」

 煮豆をかみながら、千束は答えた。

「ぜーんぜん帰ってこないから、みんな心配してたのよお。元気そうでよかったわあ」

「おかげさまで」

 これから展開されるやり取りには予想がつく。

 すでに千束はうんざりしていた。食べているものの味がわからなくなる。

「千束おめえ、東京で何してんだ。へんな仕事してんじゃねえだろうな」

 続いて現れたのは、健一――みやげ物屋の主人である。

「……」

 千束は「食べてる途中だから仕方ない」という体を装い、返事をしなかった。

 何してんだ、と言いながら、彼は千束の仕事の内容を聞く気などないのだ。

 父の幼なじみである彼のことが、千束は子どものころから好きではなかった。

「女のくせに東京なんか行くからだぞ。いつ嫁にいくんだよ。がはは」

〝1〟、と胸のうちで千束はカウントする。

 心底あきれたことに、彼は「コミュニケーション」のつもりでこれを言っているのである。

 田舎に「男女差別」「セクハラ」の概念は存在しない。世界のどこかにそういう言葉があることは知っているが、自分たちには関係ないと思っている。

 早くも東京に帰りたくなった千束だが、話はこれからだった。

 食事中の千束を取り囲むように、父と弟、みやげ物屋の夫婦が席に着く。

 祖父は少し離れたところで、沙里奈といっしょに最中をかじっていた。

「――それで?」

 不機嫌を押し殺しつつ、千束は水を向ける。

「お前、隆道と同級生だろ」

 父が口火を切った。

 久しぶりにその名を聞いた。

 父の顔をまじまじと見ると、待ってましたとばかりに、みやげ物屋夫妻と弟が口を開く。

「私たちみんな、お寺さんのことは大事に思ってるのよ」

「でもいきなり十倍はねえよな」

「ただでさえ、客が減って景気悪いっていうのに」

「うちのおばあさんが亡くなったとき、お布施はずんだのよ」

「それを言ったらうちだって」

「改装しろって口出してきたばっかりなのに、今度はこれかよ」

 口々に言いたいことを言うものだから、言葉数だけは多いものの、まったく話の要領を得ない。

「ねえ、説明する気あるの?」

 ――と言いたいところをぐっと抑えて、千束は短く言った。

「順番に説明して」

 ここで暮らして近所付き合いをしていくのは、自分ではなく家族である。言葉を選ぶだけの分別はある。

 父と弟、夫妻の説明を整理すると、話はこういうことのようだった。


・昨晩、仲見世の組合に対して地主である成巌寺から通達があった

・寺務の代表者として出てきたのは、方丈さん(住職)の次男である隆道

・固定資産税がナントカカントカ、地代の相場がナントカカントカで、来年から地代を十倍に値上げするという

・檀家総代も言いくるめられて、向こうについた

・隆道は難しいことばかり言うし、太刀打ちできない

・ただでさえ景気が悪いのに、十倍の地代なんて払えない

・三年前には、耐震基準がナントカカントカだし、老朽化しているので店を改装しろと寺から申し入れがあったが、そんな金はない

・寺は無茶ばかり言ってくる


 箸休めの揚げ昆布をかみながら、千束は口を開いた。

「弁護士雇いなよ」

「何言ってんだお前、弁護士なんて、そんな!」

 思いがけないことを言われたかのように、父が顔の前で手を振った。

 健一も目を剥いて言う。

「弁護士なんか雇ったら、金がかかるだろう!」

 千束は胸の内でつぶやく。カウント〝2〟。

 だまされてここまで呼びつけられたわたしの、時間とお金と労力は?

「だってお父さんたち、『ナントカカントカ』ばっかりでよくわかってないでしょ。わかろうともしてないし」

 かんで含めるように説明する。

「家賃の値上げの申し入れは貸主の権利なの。拒否するのも、借主の権利。自分たちで話し合いができないなら、誰かにやってもらうか、向こうの要求を呑むか、出て行くしかないよ。あとは、簡易裁判所で裁判」

「裁判!? そんな大事じゃないだろう。俺らとお寺さん、ご近所の話だし」

 健一が慌てふためく。

 法律は借主に有利にできているのだから、怯える必要などどこにもないと思うのだが、「弁護士」「裁判」という言葉だけで恐ろしく感じるらしい。

「だいたい、どうしてわたしが呼びつけられなきゃいけないわけ? わざわざ東京から」

 千束が言うと、父がへどもどする。

「だってお前、隆道と同級生だろ。仲良かったし」

「別に仲良くないよ」

 夫人が機嫌を取るようにして言う。

「ちいちゃん大学出てるし、隆くんと同じくらいのインテリじゃないの。しかも不動産屋だって言うじゃない。うちの人、いま仲見世の組合長なのよ。ちいちゃんのお父さんが副組合長。助けて。ね? ちいちゃんなら隆くんに対抗できるでしょ」

 何を言ってるんだ、と千束はあきれる。

 今どき大学を出たぐらいで「インテリ」とは言えないし、正確には不動産屋ではなくリノベーション仲介業者だ。そして、これはまだ伏せているが、退職までカウントダウンに入っている。

 健一が笑いながら言う。

「いいじゃないか。お前、昔からえっらい気ィ強かっただろ。その生意気な性格、人の役に立てろよ」

〝3〟カウント。

 これが人にものを頼む人間の言うことだろうか。

「ねえ、おじさん」

 千束は湯呑を置いた。

「わたしが大学受かったとき、『女のくせに大学なんか行ってどうすんだ。ただでさえ生意気なのに、ますます嫁の貰い手がなくなるぞ』って言ったよね。昔っから女のくせに、女のくせにって……それなら女の力なんか借りずに、自分でなんとかしたら? 男なんだから」

 いちばん言われたくないであろう、「男なんだから」を言ってやった。

 声音の低さに怯えたのか、弟があせったようにとりなす。

「姉ちゃん、昔の話だろ。根に持たなくてもさあ」

「今も昔もあるか! 言葉っていうのはね、一回口に出したら取り消せないの! わたしは侮辱されたことは一生忘れないからね!」

 きっと健一をにらみつける。

 家族のためにと思って3カウントまで我慢した。もう怒っていい。

 言葉に詰まった健一は、虚勢を張るように目を細めて口を開きかけた。途端に妻に腕を引っ張られて、口をつぐむ。

 怒りは飛び火し、千束は弟をにらんだ。

「だいたい千尋、わたしを呼びつける前にあんたが隆道と話つけてこいよ!」

「いや、無理。あの人怖いもん。言ってること難しすぎてわけわかんねえし。俺が何かすると、すぐ地獄の話してきてさ……」

「なに坊主にビビってんだ、ファッションヤンキー! しかも地獄って、子どもか!」

 あまりの情けなさに、言葉が荒くなる。

「――そやから、店畳んだらええ言うたやないか」

 気まずくなった客席で、口を開いたのは祖父だった。

「昔からある店やからいうて、何もここで無理に続けなあかんわけやない」

 膝をたたき、何でもないことのように続ける。

「俺は引退。耕史は、もっと土地の安いとこで店やったらええ。ヒロはまだ若い。料理人以外の仕事も探せるし、料理したいんやったら、よそで雇てもろたらええんや」

「千尋、あんた、金沢の店はどうしたの?」

 声に険を残したまま、千束は尋ねた。

 さっきから気になっていたのだ。

 千尋は金沢にある料亭で修業をしていた。この騒動のために一時的に帰省したのかと思っていたのだが、沙里奈が家に馴染みすぎている。彼女は妊娠中だし、帰るとしても男所帯のここではなく、実家のはずだ。

 千尋がくちびるを尖らせる。

「もう修業は十分だ、帰っていいって言われたんだよ」

 だから店を辞めて、今は実家を手伝っているのだという。

「本当に?」

 そんなに料理の筋が良かっただろうか?

 いぶかしげに弟を見ていると、父が祖父に向かって反論した。

「でも、『せんねん食堂』だろう。千年続くように、ってご先祖さんがつけた名前じゃないか。婿養子の代で店畳んだら、申し訳ない」

 父の言葉に、祖父は軽妙に返した。

「『千年』いうんは『長いこと』いう意味や。ご先祖さまからしたら、三百年はもう十分『長いこと』やないか?」

「そーんな! 弱気になっちゃだめよ、おじさん。大事な店なんだから!」

 夫人がたしなめるけれど、祖父はすでにあきらめているようだった。

 父と同じく祖父も婿養子だった。わざわざ京都から来て、長い間店を守ってきたのだ。

 その祖父が店を手放してもいいという。

 店の行く末に固執しない祖父の様子が、逆に千束の胸を締めつけた。



「一応明日、隆道に話は聞きにいくけど、期待しないでね。資料がないと判断しようもないし」

 しぶしぶ千束がそう言い、会はお開きになった。

「説明会のとき、隆道が資料を渡してるでしょ。それ見せてよ」と父に言ったら、「どこ行ったかな? 探せばどっかにあるよ」という返事で、不安になってしまったのだ。

 このおじさんたちに任せておいたら、大変なことになるんじゃないか? と。

 問題を放置できない自分の性格が恨めしい。自分が対処したほうが早くて確実だ、と考えてしまうのだ。

 十年ぶりに実家の風呂に入り、沙里奈のパジャマを借りた。

 かつて自分の部屋だった二階の和室は物置と化しており、なんとかスペースを作って仮住まいにした。

 両手で包み込むようにして、顔に化粧水を浸透させながら、隆道のことを考えた。

 父がその名前を口にしたとき、千束がまっさきに思い浮かべたのは、勝ち誇って千束を見下ろした中学一年生のときの彼の顔である。

 中学校に入って初めての定期テストで、千束は当然自分が取るものだと思っていた学年トップの座を、二点差で彼に奪われたのだ。あのときは悔しくて眠れなかった。

 物心つくころから近所にいた幼なじみだったが、煮え湯を飲まされたことは数知れず。

 しかし、保育園から高校までずっといっしょだったし、同時に東京の大学に進んだのもあって、なんだかんだで同級生の中でいちばん長く親交が続いた。進学先の大学が違うにもかかわらず、四年間、月に一度は会っていたと思う。

 彼は寺の息子で、小学生のころに得度を済ませていたが、兄が跡を継ぐ意志を示していたので必ずしも僧侶になる必要はなかった。ただ仏教のロジカルな点に興味はあるからといって、大学ではインド哲学をやっていた。

 最後に会ったのは、大学四年生の二月だ。

 やはり出家する、永平寺に行く、と言っていた。

「じゃあわたし、髪刈ってあげるよ。バリカンで!」

 千束は目を輝かせて言ったのだが、けんもほろろに断られた。

「実家で剃るし、お前に頭をめちゃくちゃにされたくない」

 その後、彼が修行を終えて成巌寺に戻ったときと、共通の好きな作家が直木賞を取ったときにメールでやり取りはしたが、あれからもう十年会っていない。

 こうなるとわかっていたら、美容室に行ったし、買ったばかりのワンピースを持ってきたのに。

 そう考えてから我に返り、千束は鏡の中の自分に向かって「ない、ない」と手を振った。

 ないないない、ジャージで会いに行ってもいいし。

 それでも化粧水は、丁寧に肌にしみこませた。

 東京のマンションで掃除をしていたのが、はるか昔のことのように感じられる。たった五時間前のことなのに。

 それくらい、自分の中で東京と故郷の心理的な距離は大きいのだろう。

 十年ぶりの実家の夜は更けていく。