僕が生まれてきたことに何か意味はあるのだろうか。

 朝目覚めると、いつも同じことを考える。

 いつからこんな風に考えるようになっただろう。

 一日の輪郭ははっきりしないまま、代わり映えのない毎日がただ無味乾燥に過ぎていく。思い出せない、いや、思い出す価値のない昨日が増えて積み重なっているようだ。どんな病も治せる医者になる、と無邪気に夢見ていた幼い日の僕に、今の自分はどう映るのだろう。

 ベッドの片隅にある時計は午前十一時を回っていた。

 世の中はとっくに動きだしているが、僕はまた目を瞑り夢の中に戻ろうかどうしようか迷っている。なぜなら、さっきまで見ていた夢がちょっとよかったから。

 見知らぬ女の子と体を抱き合い、確かな温もりと柔らかな感触を味わっていた。

 そんな僕を禁めるように、カーテンの隙間から漏れだした光はいつにもまして容赦なく僕を夢の中から引きづり出した。しばらく粘ってみたけど、あの子が現れることはなく、胸にぽっかりと穴が空いたような感覚だけが残る。仕方なくベッドから起き上がり、今日一日の始まりに小さくため息をついた。


 マーブルカラーの空に、光の粒を落とした海。カーテンの外には、昔から少しも変わらない景色が広がる。夏になればサーフィンや海水浴に訪れる家族連れで賑わうその海も、三月の終わりのこの時期はほとんど人も見当たらない。

 千葉県勝浦市鵜原。

 ここには関東であるとは思えないほど透き通った海が広がっている。ここの存在を知っているわずかな都会人には〝関東の沖縄〟と呼ばれているらしい。

 僕がここに住み始めたのはちょうど二年前、十八歳の頃だ。

 母方の実家があって、今は祖父母と一緒に暮らしている。昔から夏休みには地元東京から電車で三時間かけて遊びにきていたのだけど、こんなに長い期間滞在するのはこれが初めてだ。


 和室の隅に置かれた仏壇の真ん中で、若き日の母がいつもと変わらない笑顔で微笑んでいた。朝、祖母が活けたのだろう。菊の花と、生前母が大好きだったという薄皮まんじゅうが供えられてある。今日は母の命日なのだ。

 母が亡くなったのは二十年前の今日。

 母は僕の妊娠と同時に、白血病であることを医師に告げられた。

 日本中で大ブームとなった白血病を題材にした恋愛小説が出版される前のことで、その病気のことを母がどれだけ理解していたのかはわからない。

 母は自らの命と僕の命を天秤にかけ、まだ生まれてもいない僕を選んだ。そして、妊娠三十週の早期帝王切開で僕をこの世に送り出してすぐ、あっけなく死んでしまった。

 父は一人残された僕の扱いにずっと手を焼いているようだった。

 僕が物心ついた頃、父は再婚した。義母との間に娘が生まれてから、僕は家族の一員でありながら、いつもどこか蚊帳の外にいるような存在になった。

 祖父母のいるこの鵜原の家は、僕にとって心の拠り所だった。ここには僕の居場所があって、祖父母はたくさん母の話を聞かせてくれた。もちろん、母が僕を妊娠しながら病と闘っていた時のことも。いつの間にか医者になりたいと思うようになっていたのも、ごく自然なことだったのかもしれない。

 僕から母を奪った病を治せる立派な医者になりたい。その夢を語ることで父に存在を認められたい、心のどこかでそうも思っていた。それこそが僕が生まれた意味だと。母の仇を取れば父は僕を愛してくれるかもしれない、そう思い込んでいた。

 そんな淡い夢もすぐにかき消されてしまう。

 小学生に上がってすぐ、僕の体に異変が起きた。

 急性白血病。奇しくも、母親と同じ病だった。

 医師になる夢を追いかける間もなく、僕の人生はその日を境に劇的に変化していった。

 その後、一度再発をしたものの、運よく今は穏やかな日常生活を送れてはいる。が、またいつ再発するかわからない。次、再発すれば今度こそ助からないことは長年の闘病生活により感覚的に察している。

 あの恋愛小説は、十七歳で再発して入院していた頃に初めて読んだ。悲しい物語だった。入院中、僕には病気を支えてくれる恋人はおろか、友達すらほとんどいなかったから、助けてください!と待合室で叫ぶことはなかったけれど。あ、あれは傍にいてくれる相手が叫ぶのか。まあどっちでもいい。

 とにかく、幼い僕が描いていた、夢や希望といった光り輝いていたものたちはすっかりしょぼくれてしまい、今では医師になりたいと公言することもなくなった。生きる目的を失った僕は静養を口実に、息苦しい実家から逃げるようにして、この田舎町に移り住んだというわけだ。


 祖父母の家は民宿を営んでいる。一階に受付と厨房、僕らの住居スペースがあり、二階は全て客室の、一日最大三組しか泊まれない小さな民宿だ。

 聞くところによると、昔鵜原には二百を超える民宿があり、住民の七割がそれを営んでいた。繁忙期には民宿の数が足りなくなって、キッチンに寝泊まりする客までいたそうだ。しかし徐々にその数は減っていき、今鵜原で民宿を営んでいるところのほとんどは、新規の客を取るよりも、常連の顧客がついていて何とか続けられている。

 代々漁師家系の祖父も、そのまた祖父もその道を辿って海へ出た。一人娘である母がもし息子だったなら、やっぱり漁師になっていたんじゃないかと思う。

 この小さな民宿で毎日豪華で新鮮なお造りが提供できるのは、そのおかげなのだ。ここに来た以上、亡くなった母の代わりに僕が漁師の道を継ぐべきなのだろうけれど、ここで暮らし始めて約二年、仕事といえば、本を読みながら受付番を手伝うくらいのものだった。


 受付番が終わる夕方になると、いつものように家の前を回って海に出る。この町に来てからなんとなくそれが日課になっていた。

 ここ、鵜原海岸の浜辺には真っ白な鳥居が一つポツンと立っている。毎年夏になるとそこで大名行列という盛大な祭りが行われる。普段はのんびりとした町だが、その日ばかりは町も人も活気づく。ここの民宿が一年を通して一番忙しいのもちょうどその頃だ。

 その鳥居の根巻に上がって海を眺めるのが気に入っていた。早朝にはこの時期でもサーファーがパラパラと波に揺られていることもあるのだが、夕方のこの時間になると本当に全く人気がなくなる。遠方からこの海を見にくる客も、この時間には帰路に着く。なにしろこの町には海以外に時間を潰せるような場所もなければ、電車は一時間に一本しか通らない。この時間の電車を逃せば、次を待っている間に日が暮れる。

 誰もいない分、黄昏れるのに絶好のスポットだった。僕はここで今日も考える。自分が生きている意味についてだ。答えは今の所まだ見つかっていない。

 それでも今日はいつにも増して感傷的な気分だった。その理由ははっきりとわかっている。今日が僕の二十回目の誕生日だったから。

 夕暮れの海の色がどんどん深くなっていく。それに呼応するかのように、空にはパレットに広げられた絵の具みたいなグラデーションが広がっていた。夕日が反射して立体的に浮かび上がる柔らかな雲の輪郭の陰には紫、さらにオレンジやブルーの色が混ざり合い、美術館に飾られた絵画でも見ているような気分になる。

 海の空が一番、綺麗な時間だ。まるで天使でも降ってきそうな空だった。

「天使が空から降ってきそう」

 振り返ると、砂浜に一人の女の子が立っていた。首から下げたカメラを構え、無心にシャッターを切っている。驚いたのは、突然声がしたからだけではない。彼女が呟いたのが、たった今、僕が考えていたことと同じだったから。

「そこで何してるの?」

 構えていたカメラを下ろし、今度ははっきりと僕に向かって言った。

 年は僕と同じくらいだろうか。カメラが鉛のように重く見えるのは彼女があまりにも華奢なせいだろう。白すぎる肌は夕焼け色に染まり、深い海底のような瞳がじっと僕を捉えた。思わず息を飲む。

 見慣れないその女の子に、僕は一瞬で心を奪われていた。

「特に何も……」

「ねえ、そっち行ってもいい?」

 彼女は僕のいる鳥居を指差す。僕の隣の根巻に乗りたいという意味だろう。別に僕の所有物でもないけれど、どうぞ、と呟いた。

 嬉しそうに顔を綻ばせた彼女は、根巻の上に飛び乗って柱にしがみつくと頭上に下がるしめ縄を見上げた。そして彼女の視線がその先に広がる海に向けられる。ツンと尖った彼女の鼻先が夕日に赤く染まっていく。彼女を見つめすぎていることに気づき、慌てて僕も海に向き直った。

 なぜか鼓動がやたらと急いでいた。歳の近い女の子と話すのが久しぶりだったせいなのか。僕の顔も赤く染まっているような気がして、もう彼女の方は見ないようにと心に誓いを立てる。

 でも、なぜだろう。はやる鼓動も、この沈黙の時間も、とても心地よかった。まるでずっと前から二人でこうしていたかのように穏やかな時間が僕らの間を流れていた。

「綺麗な夕焼け。きっと海の空はこの時間が一番綺麗なのね」

 彼女はそう言って、再びファインダーを覗き込む。

「え?」

 僕はたった今立てたばかりの誓いを破って、彼女の方を見た。彼女がまた、僕が思っていたことを口にしたから。

 もしかしたら本当に心を読まれているのかも。もしそうだとしても不思議と悪い気はしなかった。

「僕も同じこと思ってた」

 その言葉に、彼女は僕を見つめてふふふ、と声を出して笑った。思ったより幼い笑い方に親しみやすさを感じて、話しかけてみる。

「写真、好きなの?」

「え、ああ、そう。カメラマン志望です」

 再び僕に向けて彼女はカメラを構えるポーズをしたけれど、シャッターを切りはしなかった。どうやら僕は被写体として失格だったらしい。

「君は?」

 不意にそう聞かれて、察しがつかずにぼんやりとしてしまう。

「だから、君の夢は何?」

 二度目の質問でその意図がようやく理解できた。けれど今度も言葉を詰まらせてしまう。ほんの一瞬浮かんだ将来の夢は、脳裏に打ち寄せた波にすぐに消し去られ、残ったのは、何もない僕、だった。

 黙っていると、彼女が不思議そうに僕の顔を覗き込んだ。

「……僕に将来なんてあるのかな」

 繰り返して来た入院生活の中で、夢を見ることなど忘れてしまった。僕が夢を目指したところで、そのうちまた病が再発して今度こそ僕は死ぬだろう。それをわかっていながら夢を追いかけて何になるというのだろうか。

 カシャ。

 突然のシャッター音に顔を上げると、ちょうど黄昏時に差し掛かった空に彼女がカメラを向けていた。太陽が水平線に沈み、その残像の色がぼんやりと空に浮かんでいる。消えかけの炎のようなそれは、まるで僕の存在みたいだなと思った。

「あるよ。だって君、生きてるじゃない」

 彼女はカメラを構えながら、当たり前のように言ってのけた。

 確かにその通りなのだけれど、彼女は僕の生きてきた過程を何一つ知らない。もし知っていればそんなこと簡単に言えるわけがない。

 けれど、それを言えば憐れみを誘うようで、そうだね、という相槌だけでやり過ごした。

「生きていれば、何だってできる。そうでしょ?」

 僕の曖昧な態度が気に入らないというように、彼女はさらに念押しする。

「そうとも限らないよ」

 つい出てしまった本音だった。

 別に彼女に敵対心が芽生えたわけでも、何でもない。ただ、彼女には嘘をついてもバレてしまうような気がしたから。

「どうして?」

 案の定、彼女は目を瞬かせながら聞いてくる。

「どうしてって言われると難しいけど、生きていたって、頑張っていたって、どうにもならないことが世の中にはあるんだよ」

「若いのにひねくれてるのね。君、いくつ?」

「二十歳だけど」

「え、本当? 私と一緒ね。誕生日いつ?」

 また言葉に詰まった。今日です、なんて答えたらまるで祝いの言葉を催促しているようで押し付けがましく聞こえるじゃないか。とはいえ、誕生日をわざわざ嘘をつくのも変だ。少しの間ためらって、

 今日、と呟いた。

「本当に? すごい偶然! おめでとうございます!」

 彼女は目を輝かせ、胸の前で手を叩いてみせた。お互いまだ名前すら知らないというのに、自分のことのみたいに喜び、祝福してくれる彼女に悪い気はしなかった。

「ありがとう」小さく頭を下げる。

「なんか嬉しいな。そんな特別な日に出会えたなんて」

 胸のあたりがむず痒くなって、僕は話をそらすように彼女のカメラを指差した。

「そのカメラ、随分古そうな型だけどアンティークか何か?」

「ああ、これ」

 彼女はそのカメラに視線を落とし、それから「母の形見なの」と言った。

「あ、ごめん。思い出させて」

 慌てて謝る。

「別にいいのよ」

 彼女は笑って首を横に振った。つい調子に乗って聞きすぎたかもしれない。でも、彼女の境遇に僕は親近感を覚えていた。二十歳で母が他界している境遇にいる人間はそう多くはないからだ。

「実は、僕も母親がいないんだ。僕を産んですぐ亡くなったから」

「じゃあ一緒だね、私たち」

 彼女はそれすらもどこか嬉しそうに呟いた。彼女が持つ空気感は、この笑顔から来ているのかもしれない。まるで凍った心を開かせるような温かさが伝わって来る。

「……君は奇跡を信じる?」

 予期せぬ、唐突な質問だった。

「え、どうだろう。わからないな」

 僕は正直に答えた。

 もしも奇跡があるとすれば、今僕が生きていること自体がそれなのかもしれない。けれど、その奇跡に心からの喜びを感じたことはない。僕はいてもいなくても世の中に大した影響を与えられるような人間ではないから。

「私は信じるわ」

 きっぱりと彼女は言い放つ。

「どうして?」

「だって、奇跡は起こるから」

 彼女はそう言って、屈託のない笑顔でくしゃりと微笑んだ。

 胸がまた、ドキリと音を立てる。

 彼女が言うのなら本当にあるのかもしれない。そう思わせるような、どこまでも純粋な笑顔だった。

「変な子だね」

 思わずそう呟く。わははは、とまた嬉しそうに笑う彼女のことを見ていると、つられてこっちまで顔が緩む。ついにこらえきれなくなり、僕がフッと笑いを漏らすと、彼女はそれに気づいてなお嬉しそうに声をあげて笑った。

 こんなに穏やかな気持ちになったのは久しぶりだった。こんな風に誰かと笑い合ったのなんて、もうずっと昔のことのように思う。

 黄昏時の終わりに、一番星が遙か彼方の空にポツンと浮かんでいた。

 まるで僕の気持ちと呼応しているみたいな空だ。それは、諦めや卑屈さから黒く染まりかけていた僕の心に突如もたらされた一つの小さな光のようだった。

「何だか私たち、気が合いそうだね」と彼女が言う。

「まだ、君の名前も知らないよ」

「名前なんか、何だっていいよ」

「どうして?」

「名前だけじゃ君の上っ面しかわからないもの」

 一理ある。彼女の言うことにはいちいち説得力があった。

「確かにそうだね。でも、それじゃあ僕はいつまでも君のことを君としか呼べないってことになるよ」

 言ってから、まるでこの先も彼女との関係を続けていくような口ぶりになっていたことに気づく。僕が弁解しようとするより先に彼女が言った。

「確かに、それはいやね。何だか他人行儀だもん」

 彼女は口をへの字に曲げて考え込む。

「あだ名で呼び合うってのはどう? そうね、自分の好きな名前で呼び合うの」

 本名も知らないのに、あだ名で呼び合うなんて、また変なことを思いつく。

「そうだなぁ。あ、そうだ! じゃあ私のことはラファエラって呼んで!」

「え、ラファ…ラファエラ?」

 想定外すぎるそのあだ名に僕は思わず顔をしかめた。

「……長いか」

 いや、そこじゃない。

「じゃあねぇ……、エラでいいわ。私はエラ。あなたは?」

 彼女が期待でいっぱいの眼差しを向けてくる。残念ながら、あいにく僕はそんなファンシーなあだ名を思いつくような脳みそは持ち合わせていない。

「僕は、新でいいよ」

 え、それ本名でしょ? 何だよー、つまんないのー。唇を尖らせてブーイングをする彼女。それでも僕はミカエルにも、ガブリエルにもなれそうにないので、それで納得してもらう他なかった。

 さんざん僕をからかったあと、彼女は僕のあだ名を認めると言った。ガブリエルにならずに済んでホッとする。鳥居の上から飛び降りた彼女がこちらに近づいてくる。

「じゃあ改めまして、私はエラ」

 僕を見上げた。

「よろしくね、新くん。それと、お誕生日おめでとう」

 一応の礼儀として僕も鳥居の下に降り、彼女が差し出した手を軽く握り返した。

 まだ狼狽える僕に、彼女の笑顔が向けられる。

 その瞬間、僕は確信していた。

 きっと彼女は僕の人生において、とても大切な存在になる――。

 広がり始めた星空と、彼女を前にして吹きすさぶ潮風が、温かく僕を包んでいた。

 これが僕と彼女の出会いだった。