霧の夜の王命。


「なるほど、吾輩の怪界送りの日が決まったというわけだね」

 右前足を舐めながら言うと、目の前の子猫が「んみゃ!?」と声を上げた。

 ははあ、非常に驚いているようだ。となると、彼の琥珀色の瞳も驚きを表すようにきっと見開かれているのに違いない。

 ……はてな、目の前にいる子猫の表情をどうして想像する必要があるのかと、ちょっと不思議に思った人があるかもしれないね。よろしい。その理由を単簡に述べさせていただくとだ。

 霧さ。

 現在、街は夜に呑まれており、その夜を呑んでいるものこそが霧で。

 それだから視界は白く霞んでいて、ここがとある住宅の屋根の上であるのも、目の前の子猫の表情も、ついでに子猫の茶トラの毛色だって、すっかり白に呑まれてしまっているわけさ。

 ゆえに、彼の表情は想像するしかない――と、

「やいやいやいっ、やい斑!」

 ここで彼が「んみゃ!?」以外の言葉を発した。

「オミャーは一体なんなんだ!? さては猫又のふりをした〝さとり〟かっ、そうなのか!? だってミーはさ、ただ〝オミャーに話がある〟って言っただけで、その内容はまだなんにも話しちゃいないんだぞ! それなのに――」

「それなのに吾輩は話の内容を言い当てた。――吾輩の怪界送りの日が決まったという王命をね。だから君は、吾輩を〝さとり〟じゃないかと疑うわけだ」

「また言い当てちゃったじゃないか、オミャーは!」

「だけれども」

 そう、だけれども。

「吾輩は〝さとり〟じゃない、猫又さ。そして君と同じで〝観怪〟なのさ」

「それならオミャーはっ、なんでミーがなんにも言わないうちからミーの話を言い当てちゃったんだよ!?」

「なぜ、って」

 それは君、単簡なことさ。だってね、


「吾輩の〝掟破り〟を王に報告した観怪は、――他ならぬ吾輩自身なのだから」

「んみゃあああ!?」


 ……そう。今から一週間ばかり前の、あれは十一月中旬の日のことである。

 吾輩は以前より世話になっていた佐々木探偵事務所にて、あの日の朝もいつもどおり、毛布に包まりぬくぬくと眠っていたのだ。この毛布というのは、探偵事務所の主であり、そして吾輩の主人である男――佐々木鏡介が拵えてくれたものなんだがね。いいや、毛布の話はおいておこう。

 ともかくもそれに包まって眠っていたのだが、まあなんともぬくぬくしていて、あまりにも心地好かったものだから。……吾輩、つい力が抜けてしまったんだろう。そして、それは起こってしまった。

 主人が用を足すため、出し抜けに起きてきた。その段階で吾輩も目を覚ましてしまえばよかったのだが、朝早くでまだ薄暗い時間だったのと、毛布の幸せなぬくぬくとで、完全には目を覚ますことができなかった。それだから気がつかなかった。二本になってしまっていたことに。

 なにがって、……尻尾さ。

 猫又であることの証拠、二本に分かれた尻尾――普段は普通の猫のふりをして尻尾一本で過ごしているのが、そのときは二本に分かれてしまっていたんだね。しかも運悪く、体は毛布に包まっていたのに、尻尾だけは毛布からはみ出しておった。

 それを見られたのだ。主人に。

 主人は猫又尻尾を見ると、ちょっと笑った。笑われた途端に吾輩の目はしっかり覚めて、慌てて尻尾一本に戻したんだがね。しかし時すでに遅し、主人はあれ以降、なにも見なかったふりをして、普通に吾輩へと接してくれたのだが――ご存じのとおり、吾輩は観怪である。観怪であるということは、吾輩には〝現界に暮らす物の怪たちが怪界の掟を守っているか観察する〟という仕事が任されていて。怪界の掟とはすなわち、物の怪であることを人間に悟られんよう生きることで。ゆえに主人の優しさに甘えて、仕事を怠るわけにはいかなかったのさ。

 と、こういうわけで。

 自分が掟を破ってしまったこと。

 主人に自分の正体が、普通の猫でないことがバレてしまったこと。

 その経緯を、状況を、吾輩は自ら王に報告し。

 そして王命待ち状態だった吾輩のもとへ、とうとう観怪が現れたと。

 それが目の前の子猫だ。子猫は〝化け猫〟で、化け猫になったのは最近のことであるらしいのだが、それでも化け猫である以上は、彼――虎太郎は、観怪で。王命伝達の役目を任されていて。

「……それで?」

 と、吾輩は虎太郎へ尋ねた。

「それで、吾輩の怪界送りの日はいつになったね?」

 答えはすぐには返ってこなかった。どうも虎太郎、ぶつぶつと自分にしか聞こえない声にて、なにやら呟いている。大方、正直に自分の掟破りを報告した吾輩のことを〝馬鹿な奴だ〟と評しているのだろう。

 それからようやっと気が済んだらしく、霧の向こうの呟き声が途切れたなと思ったら、

「次の、そのまた次の月曜日だっ。オミャーの怪界送りの日はな!」

「つまり、二週間後というわけだね」

「そうとも言えるな!」

 そうか。あと二週間、……なんだね。

「ふむ、わかった。王命伝達ありがとう、虎太郎や」

 言いながら吾輩の意識はすでに、虎太郎には向いちゃいなかった。

 佐々木探偵事務所にて、主人の世話になっている――もう一匹の物の怪のこと。

 旧鼠の彼女に、どんなふうに話を切り出したものかな、とか。

 そして、そう。主人――佐々木鏡介だ。

 五ヶ月ばかり前の、六月の雨の日に、寒さと空腹に参っていた吾輩を拾い。

 食い物を与えてくれ、寝場所を与えてくれたのみならず。

 斑さんという名前までも与えてくれた彼。

 存外、彼との別れは早くに訪れたものだな、とか。

 そんなことを吾輩は、考えている。

 けれども決まってしまったことは仕方がない、覆すことなどできやしない。

 それだから。

 最後の恩返しを吾輩は、しなくちゃならんのである。

 後悔することのないように。

 ああそうだとも、しっかりやらなくちゃね。


 視界は白く、先刻よりも白く、目の前の虎太郎さえも見えぬ。

 なんだか世界に、自分一匹だけのような。


 ――そんな、霧の夜のことだった。



とある老女の、とある願い。



 あの霧の夜から四日が経過した、本日は金曜日である。

 時刻は午後八時。仕事や学校が終わり、家路につく人間たちが、或いはまだまだ金曜の夜を楽しもうという人間たちが、ほろりほろりと雪の降り落ち、降り積もった八万尾の街を歩いている。

 吾輩はそんなふうに各々の目的を持った人間たちへ、三池の姿にてチラシを配っていた(三池というのはご存じのとおり、猫又の吾輩が人間姿に化けたときに名乗っている名前のことで、つまり吾輩は人間の姿に化けてチラシを配っていたというわけだね。そしてこれまたご存じではあるだろうが、この三池の風貌というのは着物に詰襟のシャツ、袴、高下駄、マントを着用した大正時代の書生といったふうで、旧鼠の彼女曰く〝時代錯誤なイケメンさん〟とのことである)。

 チラシを配る理由はもちろん、主人である佐々木鏡介に最後の恩返しをするためで、あの王命を受けた次の日には、朝から晩までかような行動をとっていたのだが、肝心のチラシの内容というのは次のとおりだね――


「人間なんて、雪でなあっ! つるつる滑って、すっ転んじゃえばいいんだよ!」


 む? ……いや違うさね、今聞こえた言葉はチラシの内容とはまるで関係がない。

 関係はないが、ちょっと吾輩に関わりのあるものが発した言葉だったので、ついつい声の方向を見てしまう。すると視界に、七歳とか八歳ぐらいな男の子の姿が映った。

 非常にやんちゃそうな見てくれだ。髪は大部分が小麦色をしていて、そうでないところは濃い茶色をしている。その髪色によく似合う琥珀色の瞳がある目元は、目尻がぐっと吊り上がっており、口から覗く八重歯と合わせるとまさに〝やんちゃそう〟である。加えて男の子の左手首には包帯がぐるぐると巻いてあるのだから、これを見て〝おとなしそう〟だという第一印象を抱く人はあまりおらんだろう。

 この男の子は、早い話が虎太郎であった。

 虎太郎といえば茶トラ模様の子猫で、化け猫の観怪だね。

 はてな、王命伝達の役目を果たした虎太郎が、なぜこの場に、男の子の姿でいるのか。その理由は、虎太郎が言うにはこうだった。

 ――怪界送りを宣告すると、時折それを逃れようと逃亡を企てるものが出てくる。それだから吾輩が逃げんように監視役となりなさいと、王より言い渡されたのだと。

 ゆえにあの霧の夜以来、虎太郎は吾輩の傍を離れずにいるというわけさ。……ちなみにおわかりの人もいることと思うが、虎太郎は本当に吾輩の傍にいるのみで、チラシ配りを手伝ってくれることはなかった。ただ自分の気分で人にちょっかいを出してみたり、雪と戯れてみたり。そうしてずっと遊んでいる。――と、

「斑さん、……ねえ、斑さんっ」

 今度は吾輩の後方より、声が飛んできた。

 振り返ると、そこにはおかっぱ頭の――いや違ったな、ボブヘアーだ――ボブヘアー少女のココノが立っている。今でこそ人間の女子中学生といったふうな姿をしており、雪のような真っ白いセーラー服に身を包んでいる彼女だが、実のところ、その正体は雌の旧鼠だったりするわけで。旧鼠であるということは、彼女は吾輩と同じで物の怪なのであり、普段は真っ白な鼠の姿で生活していて、そしてこの彼女こそ、佐々木探偵事務所にて主人の世話になっているもう一匹の物の怪というわけだね。

 さて虎太郎とは違ってチラシ配りを手伝ってくれている彼女だが、声に振り返って見ると、今はなにやら非常に不満げな様子で両頬をぷぅっと膨らませていた。

「一体どうしたね? ココノや」

 尋ねると彼女、両の手をバタバタさせて、

「んもーうっ、どうしたもこうしたも、虎太郎ちゃんのことですよ! ずっと疑問に思ってたんですけど、あの子、本当になんのためにここにいるんですか!? だってわたしたちの前に突然現れたと思ったら、そのまま離れることもなく周りをうろうろし始めちゃって――といいますか、主に斑さんの傍から全然離れないじゃないですか! かと言ってチラシ配りを手伝うわけでもなく、遊んでばかりですし――」

 ふむ、なるほど。

「それで君はちょっと痺れを切らしたわけだね」

 言いつつ吾輩、再び虎太郎へ目を向けると、意識を少しばかり内側へ潜らせる。

 ココノはまだ、虎太郎の役目を知らなかった。彼が王より〝吾輩の監視役〟となるよう命じられていること。……ということは、吾輩の怪界送りが決まったことだって彼女は知らんのである。

 虎太郎のほうはココノに会うなり、自分がなんの目的で吾輩の傍にいるのかということを話そうとしたのだ。だがそれを他ならぬ吾輩が遮ってしまったと。……なぜ? それは単簡なことで、かように大切なことを他者の口から伝えるというのが嫌だったからだ。

 それだから吾輩は虎太郎に〝お願い〟した。ココノには自分の口からちゃんと伝えたいんだ、だから君はなにも言わずにいてくれないか? すると虎太郎は〝しょうがないな〟とニヤニヤしながら承諾してくれたのである。普段は大変にやんちゃな子猫で、吾輩のことを〝すっとこどっこい〟だとか言ってくる虎太郎だが、やはり子猫だけにチョロ……おほんっ、優しいところがあると思う。

 ……とまあ、そんなわけで吾輩の口から事実を伝えることになったのはよかったのだが。結局のところ、吾輩はまだココノになにも伝えることができずにいて、そんなだからココノはなにも知らずにいるわけさ。もちろん、わざと彼女に伝えずにいるわけじゃない。言おう言おうとは思っているのだけれども、その機会をつかむのは中々難しいものなのである。

「ねえちょっと、斑さんってば! 虎太郎ちゃんのこと、なにか答えてくださいよ!」

 おっと、いけない。どうやらだいぶ長いこと黙り込んでしまっていたようだ。

「失敬。……ええと、虎太郎が吾輩の傍にくっついて離れん理由だね。……それはまあ、うん、虎太郎は吾輩の後輩みたいなものだから」

 間違ってはいない。彼は観怪の後輩なんだから。……が、

「後輩って言うわりには斑さんのこと、これっぽっちも手伝おうとしませんけど?」

「うん、……まあ」

「なんだか怪しくないですか?」

「……いやそんなことはないと思うがね」

「本当に? 斑さん、なにか隠してたりしません?」

「や? ……うんにゃ……?」

 ちょっと、ピンチかもしれん。ところへ、

「なんだなんだっ、やるのか鼠め!」

 割り込んできたのは虎太郎だ。

「もう! 虎太郎ちゃんってば、その〝鼠〟って呼び方やめてくださいよ!」

「だって鼠は鼠じゃないかっ。それにそんなこと言うならさ、オミャーだってミーのこと〝虎太郎ちゃん〟って呼ぶのやめろよな!」

「虎太郎ちゃんこそ虎太郎ちゃんでいいでしょう!? 〝虎太郎さん〟も〝虎太郎くん〟も似合わないんですもの、〝虎太郎ちゃん〟がよく似合う弟ポジションなんですよ、虎太郎ちゃんは!」

「ミーは鼠の弟になんてならないんだもんねえー! だってミーは鼠が嫌いなんだ、ついでに人間は大っ嫌いなんだ! 鼠はミーよりもすばしっこくて、ミーのこと馬鹿にしてくるし、人間は嘘吐きなんだからな! だから鼠と人間の弟にだけは、絶対になってやらないんだもんねえー!」

「確かに虎太郎ちゃんのこと、馬鹿にする鼠も嘘吐きな人間もいるかもしれませんけど! でも、そうじゃない鼠や人間だってたくさんいるんですよ! というかですね、それを言うなら猫だって、斑さんみたいにヘンテコさんだけど素敵な猫もいれば、虎太郎ちゃんみたいに嫌なことばっかり言ってくるような猫もいるわけで――」

「こらこら、ココノも虎太郎も。その辺りにしておかないと、勘のいい人間に聞かれて正体がバレてしまうかもしれないよ」

 吾輩のようにね、とはもちろん言わない。

 二匹は息を切らしつつ睨み合っていたが、やがてココノのほうが顔を背けると、

「なんだかもう、疲れちゃいました。そろそろチラシ配り、切り上げましょうか」

「なゃん!? もう切り上げるのかい、ココノや――」

「もう、って。朝からずっとチラシ配ってたんですから、充分すぎるぐらいですよ」

 いいや、切り上げるにはまだ早いんだ、早すぎるんだ。

 ……言いそびれていたが、このチラシの内容はこうなのだ。


〝探し物に子守に掃除、喧嘩仲裁も可。気軽に依頼どうぞ。――佐々木探偵事務所〟


 つまり。

 探偵業を営む佐々木主人への〝最大の恩返し〟となり得るものとは、主人に持ち込まれる依頼を手伝い、解決することだと吾輩は考えているのだけれども。ところが困ったことに、王命を受けるより少し前から、依頼がぱったり止んでしまっていたと。これじゃあ吾輩がいくら最後の恩返しをしたいと願ったところで、なんにもできやしなくて。それだからあの王命後、吾輩は急いでこのチラシを作成して、朝から晩まで街を配り歩いていたのだが、……今日も今日とて成果はなくて。

 そういうわけで吾輩はまだ、チラシ配りを切り上げたくはないのであるが、吾輩の怪界送りを知らんココノは当然、このチラシ配りが吾輩にとって極めて重要であるのを知らんわけだから、さっさとこの場を後にしようと歩き始めている。

 ふむ、どうしたものかな。なんとかしてもう少しだけでも、チラシ配りを続ける方向には持っていけないものか。

 ……と、ココノがはたと立ち止まった。それからこんな言葉を投げてくる。

「そうだ、斑さん。今日こそ帰ってくるんですよね?」

「……うん?」

「〝うん?〟じゃないですよ。事務所にですね、斑さん、今日こそ帰ってくるんでしょう?」

 うぐ、と思わず喉が鳴った。

 するとそんな吾輩に、ココノの顔がたちまち険しくなっていく。

「まさかとは思うんですけど、斑さん、……また? また今日も帰ってこないんですか?」

「や、それはその、ええとだね、まだどうしようかと考えている段階なんだが――」

「考えている段階ですって? それってもう、帰ってくるつもりないんでしょう!」

「あややっ、待ちなさいココノや! 君、手がっ、吾輩のことをポカポカ叩く寸前といった手になっているっ。君のポカポカは痛いんだから、頼むからそれだけは――」

「それなら理由を教えてくださいよ、斑さんが事務所に何日も帰ろうとしないその理由を! 教えてくれたらわたしだってポカポカなんてやりません!」

「そ、それはだね……吾輩が事務所に帰らんその理由は……つまりだね……」

「つまり?」

 ……理由を話すとなると、今ここで吾輩の怪界送りのことも話さなくちゃならなくなるだろう。今がその機会ということなのだろうか。いやしかし、しかししかし――

「んもーうっ、タイムオーバーです! 斑さんなんて、もう知りません!」

「やっ、ココノや、痛い痛いっ!」

 迷っているうちに彼女のポカポカがついに吾輩の腰へと炸裂し、その痛みがようやっと引いたときには、彼女の姿はもう随分と遠いところにあって。……わかっているのだ。早いところ、怪界送りの件を彼女にも伝えるべきであることは。

「いつになったらオミャーはさ、あいつに言うつもりなんだ?」

 吾輩の心情を知ってか知らでか、ここで虎太郎が呟くように口にした。

「――後回しにしないでさ、本当のこと、早く言っちゃえばいいのに」

 本当に、君の言うとおりだと吾輩も思うよ。


 空気が非常に重たい。誰も口をきかぬ帰路である。

 最初こそ吾輩のほうはココノに話しかけていたのだが、彼女、「帰ってくるつもりないんでしょう? どうしてかは知りませんし、教えてくれるつもりもないんですよね? だったらこれ以上ついてこないでくださいよ、話しかけてこないでくださいよ。そのうち斑さんのことストーカーだって周囲に喚き散らしちゃいますよ、わたし」などとおっかないことを言ってきて、終いにはこうだった。

「ご主人さんだって、斑さんが帰ってこないものだから心配し始めてるのに」

 そう言われたって。

 吾輩はもう、猫の姿ではあの場所に戻れぬ。現に、王命以降は一度だって戻らなかった。当然だ、吾輩が普通の猫でないことを主人はもう知っているのだから。……無論、主人は優しい男なので、吾輩が戻ったら戻ったで普通の猫であるごとく接してくれるのだろうが、どのみち吾輩は怪界に戻らなくちゃならぬ身。いつまでもあの場所にいるわけにはいかない。……それに、仮に主人の好意に甘えて、現界にいる間だけでもあの場所に戻ってしまったなら。吾輩は、きっと――

「む?」

 ふと、尻の辺りがむずむずした。……そう思ったら、直後、吾輩の口から「むぶるるっ!」というヘンテコな声が洩れる。口ではなしに、反射的に尻のほうを押さえると、ココノと虎太郎へ素早く目を向ける。ココノがすぐさま反応した、

「ちょっと、いきなりなんですかっ、ビックリするじゃないですか――って、あれ、斑さん、その感じは――もしかして、まさか――?」

「そのまさかさ、ココノや! 虎太郎、君のほうは感じたね?」

 吾輩と同じで観怪なんだから、尻の、あの感覚を。

 ところが虎太郎、きょとんと首を傾げると、

「んみゃ? なんのことだよ、ミーはなんにも感じてなんかいないぞ?」

 などと。

 一体なぜ? 新米観怪だから、まだちょっと彼の観怪の力は弱いんだろうか。

 ……いいや、この際考えるのはあとだ。

「こっちだ、二匹とも!」

「ちょ、わっ、まままま斑さん! 待ってくださいよっ、というかわたし、斑さんのことまだ怒ってるんですけど!?」

「やいやいやいっ、オミャーたち! ミーになにか説明してくれないのか!? なあ斑っ、感じたってなにをだよ!? やい鼠っ、まさかって、なにがまさかなんだ!?」

 答えることなく吾輩は、走って走ってひた走る。

 降り積もった雪に高下駄が、さくりさくりと一々埋もれた。なんとまあ走りにくいことだろうと、吾輩、すぐに猫の姿に戻ってしまいたくなったが、そうするといったん立ち止まって、人間たちが誰も周囲にいないかどうかを確かめなくちゃならない。今の吾輩にはその時間が、非常に惜しかった。だから三池の姿で走り続ける。――まあ吾輩は怪界送りが決まっているのだから、今更もう人間に見られていないかどうかを気にする必要はないのかもしれないけれども。それでもこの場にはココノと虎太郎がいるのだ、二匹まで怪界送りとなるかもしれんような行動をとるわけにはいかない。――と、

「んみゃっ、ミーの尻尾が!」

 ここで虎太郎の尻尾もようやく反応したらしい。……いや、今は人間の姿なんだから猫の尻尾なんて生えちゃいないのだけれども、そのない尻尾がぐるぐるまわる感覚を、やっと虎太郎も吾輩同様に感じたということなのだろう、尻に。――ということは、吾輩たちのすぐ近くに、確かに物の怪がいるのだ。

 吾輩たちはこのときには、もう、佐々木探偵事務所の入っている雑居ビルヂングの前に差しかかっていた。すると自然、こんな予感が生じる。物の怪はもしや、事務所にいるのではないか――

「カブーだ!」

 と、また虎太郎が叫んだ。しかしカブーがなんなのかは、吾輩にはわからない。わからんがビルヂングの前には一台、黄色のバイクが駐車してあって、この雪の降り落ちる夜であっても非常に派手で目立っている。

「虎太郎や、カブーというのはこれのことかい?」

「そうに決まってるだろっ、オミャーは知らないのか? スーパーカブー!」

「や、知らない。ただ君が言うこれがバイクだということはわかる」

「だからさ、カブーだよ!」

 左手首に巻いてある包帯をさすりつつ、叫ぶように繰り返す虎太郎だったが、

「今はそんなの、なんでもいいじゃないですか! それよりもわたしたち、物の怪の気配を辿ってここまで来たんですよね!?」

「んみゃっ」「そうだ、ココノの言うとおりだ!」

 頷き、雑居ビルヂングを見上げると、

「それじゃあ行くよ! ココノ、虎太郎!」

 返事を待たずに吾輩は、バイクをじっと見つめている虎太郎の横を抜けて、ビルヂングの階段を駆け上がった。そうして二階の、事務所の扉の前へ到着すると、ノックもなしに勢いよく扉を開ける、事務所へ足を踏み入れる――刹那、

「あれっ、三池くん?」

 吾輩の名を呼んだのは、――三池の名ではあるけれども、それでもその名を呼んだのは、ああ、佐々木主人であった。

 ややくたびれたような顔に、丸眼鏡。顎には少しばかり、無精髭。そして海老茶色のくたびれた背広を着た彼の姿は。また、低く、だけれども穏やかな彼のその声は。たった数日、ほんの数日、会わなかっただけなのに、なにもかもがひどく懐かしく思えてならんのだ。

「やあ、一体どうしたんだい? そんなに慌てて――それに、ココノさんも。あれっ、男の子もいるね? その子は誰だろう、僕とは〝初めまして〟だよね?」

 主人の言葉に、ハッとする。

 吾輩に続いてココノが、そして虎太郎が事務所へと足を踏み入れていて。

 吾輩は自分がここに来た理由を、一瞬忘れてしまっていたが、――思い出した。

 そうだ、物の怪の気配を辿ってここへ来たのだ!

 事務所内を見回すと、主人用の長椅子の側に『とちのき幼稚園』の和泉花先生が立っていた。そしてもう一人、客人用の長椅子のほうに座している人がいる。……彼女だ。この物の怪の気配は、彼女のものなのだ。

 振り返った彼女と、目が合った――のだと思う。思うというのは、彼女の目がサングラスの下にあったからだが、しかし確かに彼女と吾輩の視線は交わったのだろう、きっと。

 彼女が、――老女が、ゆるりと立ち上がった。すると腰まで伸びた紫の髪が揺れて、耳にぶら下がる大きなピアスなるものが一瞬隠れた。けれども老女の身を包む黄色の革ジャンとか革パンとかいう衣服は一瞬だって隠れはせず、ビルヂングの下にあったバイクそっくりに、派手さを晒し続けている。

 さてこの老女、真っ赤な紅を引いた唇を、三日月の形にすると一言、

「おや、こいつはまた随分と美味そうな小僧が来たもんだねえ。アタシの酒の肴にでもなっちゃくれないかい? ええ?」

 サングラスの下の瞳は相変わらず見えんのであるが、見えなくてよかったのかもしれん。虎太郎のためにも。……なぜって、虎太郎ときたらもう、吾輩のマントを握り締めてぶるぶる震えているのだから。可哀相に、この老女の派手な身なりやおっかない言動に、相当驚いてしまったのだろう。

 ……それにしても本当に、たとえるなら魔女のごとし体の老女である。


◇◇◇


「脅かしちまって悪かったねえ、アンタ。ええ?」

 老女――ユキエが、客人用の長椅子に腰を落としつつ虎太郎へと謝る。

 がしかし、虎太郎は事務所の端っこに座り込んで、左手首の包帯をさすりながらユキエを睨むのみだ。おそらくは先刻の〝美味そうな小僧〟が忘れられんのと、人間が嫌いだとも言っていた彼なので、このような形となったのだろうけれども。

「こいつは仲直りするのに相当骨が折れそうだね、アッハッハ!」

 豪快に笑うユキエに、虎太郎の表情がますます険しくなった。

 ところへ「どうぞ」とユキエにレモン牛乳を出したのは、花先生である。

「ああ花、ありがとう。なにからなにまでアンタには世話になっちまってるね」

「なに言ってるんですか。ユキエさんが佐々木さんの探偵事務所を探していて、あたしはこの場所のことをよく知っていた――それなら案内する以外の選択肢はないですよ」

 なるほど、そういうわけで花先生はここにいたらしい。

 主人用の長椅子の側に立ち、ココノとひっそり目を見交わしていると、ユキエがからからと笑いながら、

「アタシはそれをありがたいと言ってるのさ。言うなればアンタは赤の他人であるアタシに、親切にしてくれたわけなんだから。……ありがたいといえば、アンタの旦那にもそう思っているよ」

「は、……え? あたしの旦那、ですか?」

「え、花先生って旦那さんがいるんですか!?」

「いやいやっ、いないよココノちゃん! だってあたしは――その――」

 おや? 花先生、なんだか顔がどんどん赤くなっていくようである。

 そのうちそそくさと明後日のほうを向くと、

「とにかく! あたしに旦那なんていませんよ、ユキエさん!」

「花、アンタどこ見て言ってんだい? ……にしても、へえ、違ったか。アタシはてっきりここの事務所の、佐々木鏡介といったね――あの男がアンタの旦那とばかり思ってたんだが」

 途端、花先生が大いに驚く。ココノも花先生みたく驚き、素っ頓狂な声を上げて、吾輩は驚くまではいかなかったものの、目をぱちつかせる。そして主人は事務所の端っこ、虎太郎が座り込んでいるのとは反対側の端っこで「あちちっ!」と声を上げるのだった。……自分や花先生の分の珈琲をつくるために、主人は今の今までヤカンで湯を沸かしていたのだが、その湯が跳ねたのかもしれん(吾輩とココノと虎太郎は、今回、飲み物を遠慮している)。そうそう、先ほどユキエに、主人でなく花先生がレモン牛乳を出したのは、火の前にいる主人を気遣っての行動だったというわけだね。

 もしや花先生のその行動を見て、ユキエは勘違いを起こしたのかなと吾輩が考えるうちに、花先生が凄まじい勢いで首と手を横に振りながら、

「違っ、だってあたしは近所の幼稚園のいちご組担当の、ただの先生ですし! 佐々木さんには幼稚園のことでも、自分のことでも助けられたことがあるっていうだけで、そんな、旦那だなんて、ええええっ!?」

 いや花先生、驚きすぎでしょう。

 などと思っていると、ユキエが腕組みに加えてニヤニヤしながら、

「おやおかしいねえ、アタシの勘はよく当たるんだけど。ババァになって鈍っちまったかな? ――鏡介、アンタのほうはなんにも意識してないのかい? 花のこと」

「ええっ!? い、いやそんな、僕は花先生のこと、い、意識だなんて――」

 む? ……主人?

「そそそそっ、そうですよね佐々木さん! もちろんあたしも佐々木さんのこと意識してるとか、全然っ、そんなことないですし!」

「あっ、……もちろん、わかっていますとも!」

 なんだか妙にあたふたしている二人である。

 するとココノが目をキラキラと輝かせ始めた。そう思ったら次にはこっそりと吾輩に耳打ちしてくる。

「これって、絶対そうですよ!」

「ふむ。……絶対とは?」

「斑さんってば鈍い! ……つまりですね、お互いに意識してるんですってば!」

「意識? ……そうかな」

「わからないんですか? はあー、斑さんはこれだから」

 ココノや、そんなやれやれと首を振らなくとも。

 ……主人用の長椅子の側にて、吾輩とココノがひそひそと喋っているうちに、珈琲をふたつ手にした主人がこちらへやってきた。それから机に珈琲を置くと、花先生に座るよう促す。ユキエは一人で客人用の長椅子をどっかりと占領しているものだから、自然、花先生は主人用のほうに座ることとなる。右端にちょこんと座って、主人は長椅子の左端にちょこんと座った。二人の間に、なんだか吾輩が座れそうな空間がある。いや、実際には座らないけれども。

「……雪が、降っていますね」

 主人が天気の話題を振った。

 ユキエは相変わらずニヤニヤしているし、ココノはキラキラした目で主人と花先生を見つめていて、花先生は赤い顔をして俯いている。もしかすると主人はこの空気に困ったのかもしれない。困ったときには天気の話をするものだそうだね、人間は。

 早速、花先生が乗っかった。

「十一月下旬の雪だなんて、この辺りでは本当に珍しいですよね! 山のほうなら降っても珍しくはないと思いますけど――」

「確か、今週に入ってから降り始めましたよね」

 キラキラした目はまだそのままに、しかしココノが助太刀とばかり続く。

 吾輩も頷いた。そう、雪はあの霧の夜の翌日から降り始め、途切れることなく降り続けている。

 ユキエがようやくニヤニヤを引っ込めると、

「あまり喜ばない人間のほうが多いだろうね」

「大人はそうでしょうけど、でも幼稚園の子供たちは喜んでましたよ!」

「子供といえば、虎太郎ちゃんも雪に喜んでましたよね。ねえ、虎太郎ちゃん?」

「ミー、別に喜んでなんかないもんね」

 おっと、虎太郎が喋った。

 するとユキエが、

「へえ、アンタ虎太郎っていうのかい? いい名前じゃないか」

「…………」

「アッハッハ! 仲直りさせてくれる気はないかい、虎太郎」

 ユキエがあんな冗談を言わなければ、虎太郎の機嫌ももう少しはマシだったろうと思うがね。

「――そろそろ本題に入りましょうか」

 落ち着いたらしい主人がここで、常の穏やかな声にて切り出した。

 吾輩とココノは身構える。なぜって、吾輩たちが人間姿でこうして事務所に居座る理由はこれなのだ。……物の怪の、ユキエ。観怪である吾輩には、彼女が〝元人間の物の怪〟であることまではわかる。しかしどういった力を持つ物の怪で、また物の怪である彼女が、なんの依頼があって主人のもとを訪れたのかというのはわからんのだ。本人の口から聞かなくちゃ。

 ユキエは冷えたレモン牛乳をちょっと、口に含む。それを飲み込んでから、

「それじゃ、ひとつ依頼をさせてもらうんだけどね。……その前に言っておきたいことがあるんだよ。依頼を引き受けてくれるってんなら、こいつを頭に入れておいてほしいのさ」

「ユキエさん、……それは、なんでしょうか?」

 レモン牛乳を、ユキエがまた一口。

 それからサングラスの位置をなおし、老女にしては長い足を組むと、

「今からアタシが言う依頼を解決することができなくても、アンタ、絶対に気にしないと約束できるかい?」

 一瞬、沈黙があった。

 その沈黙を破ったのは、――他ならぬユキエで。

「鏡介、アンタはきっと優しい男なんだろう。見りゃわかるさ、……アンタは優しすぎる。だからアタシは心配になっちまった。依頼を解決できなかったとき、アンタが自分の心を必要以上に痛めやしないか。アタシはね、アタシのことで余計な傷を負ってほしくはないんだよ、他人には」

 そうは言っても、主人にその注文は難しいことだと吾輩は思った。

 ユキエの言うとおり、主人は優しい、どうしたって優しすぎる男である。そんな男が持ち込まれた依頼を解決できなかったとして、まったく気にせずにいるなんて、平然としているなんて、そんなのは到底無理に決まっている。

 ならば、主人はユキエにどう答えるのか。

 しばらく黙り込んでいた主人だったが、やがてひとつ息を吐くと、

「……それは、難しいことだと思います」

 これはまた随分と素直に言ったものだな。

 が、実に主人らしいとも思った。いいや主人を知る者なら、主人がこう答えるであろうことは予想できただろう。そして予想できた人ならば、この正直な言葉のあとに主人がなにを言うつもりなのかということも、きっと予想できるのだと思う。

 主人の言葉の続きは、こうだった。

「――だけど、それでも僕に依頼を聞かせてもらえませんか?」

 サングラスの奥の瞳は、多分、主人を見据えている。そしてその瞳が見えんので、瞳でない他の部分からユキエの心情は推し量るしかないのだが、……ユキエはきっと、驚いてはいないのだと思う。つまり主人のこの言葉を、予想していたのではなかろうか。主人という男に会ったのは、ついさっきのユキエだけれども。それでも優しすぎる性分を見抜いていたユキエだから。……だから。

 今度の沈黙は長かった。先刻よりも。だが沈黙は永遠ならず、やがてユキエの唇の端がひくついたなと思ったら、あとはもう大口を開けて彼女、高らかに笑うのだ。そうして笑いに笑った末、ようやく落ち着くとだ。

「まったく、こいつは参ったよ。アンタの答えは予想していたけど、……本当に、まったく予想していたとおりの答えなんだから。嘘でも言えばいいだろうに、気にしない努力はしてみます、ってね」

「す、すみません――」

「不器用な男だよ。ああ、アタシみたいだ」

 口にして、またちょっとだけ笑い、

「アタシにはね、鏡介。探している猫がいるのさ」

 それがユキエの依頼と関係していることは、この場にいる誰もがわかったろう。

 主人はユキエをまっすぐに見つめ、

「猫、……ですか?」

 ああそうさと、ユキエ。

「アタシはね。その猫がこの街にいるってことを聞いて、やってきたわけさ。そしてアタシの依頼ってのは、……いいや、アタシの願いと言ってもいい。贅沢な、最後の願い――それは〝その猫を一目でも見ることができたなら〟ってものでね。けれど叶わないなら叶わないで仕方ない、なにせ贅沢な願いなんだから」

「それで、さっきの――〝解決できなくても気にするな〟ですか」

 呟くように言葉を零すと、主人、無精髭の生えた顎を撫でつつ視線を落とす。

 沈黙ができそうなところを、花先生が埋めた。

「その猫って、〝幸せの猫〟とか、そういう感じのものですか? ほら、テレビでもよく紹介されてたりしますよね、撫でると宝くじの当たる猫とか!」

「でも、八万尾にそんな猫います?」

 と、首を傾げるのはココノ。

「まだ――こほんっ――三池さん知ってますか? 猫のことなら詳しいでしょう?」

「へえ、三池くんって猫に詳しいんだ?」

「や、花先生、詳しいというかですね」

 吾輩自身が猫であるというか。

「……ふむ、まあよろしい。それにしてもそんな猫が八万尾にいるとは、ボクも聞いたことがありませんがね」

「そりゃそうだろうさ。アタシはこの街――八万尾の名物猫を探しに来たわけじゃないんだから」

 だけど、とユキエが続ける。

「――確かにアタシにとっちゃあ、幸せの猫ではあるけどね」

「ユキエさん、ちょっとお聞きしたいのですが」

 と、少しばかり黙り込んでいた主人が、視線を上げ、静かな声にて、

「さっき仰っていましたよね。ユキエさんにとってこの依頼は、贅沢な、最後の願いでもあるんだって。――最後の願いというのは、どういう意味なんですか?」

 皆、口を噤む。最後の願いというのは確かに先刻、ユキエが口にしていたことだ。

 ユキエはすぐには答えずに、レモン牛乳をごくりごくりと喉を鳴らして豪快に飲み干す。そうして「美味いねえ」と笑ったあとで、その言動の延長線みたく、至って軽い口調にて、

「こんなでもアタシにはね、死期が迫っているのさ。――なんて、言ったらアンタたち驚くかい?」

 驚くもなにも、口調があまりにも軽すぎるものだから、そんなのは嘘にしか聞こえなかった。いや事実、ユキエのそれは嘘なのだ。なぜって、彼女は物の怪で。物の怪であるということは、一度は死んでしまった身で。そして普通ならばこの先、二度目の死を迎えるなどということは、ありえん話なのである。

 だのに、

「冗談は言っても嘘は言わない。そして今のは、冗談なんかじゃないさ」

 吾輩の胸中を見透かしたかのように、かようなことを口にしたのはユキエで。

 一瞬、驚いたが――いいや吾輩が観怪であることは、物の怪であることは、彼女はまだ知らんはずなのだからと、吾輩は右手の甲を舐めて気を落ち着かせる。

 彼女のサングラスの奥にある瞳は、どんな輝きを放っているだろう。

 やがて彼女が、言う。

「――こいつはつまり、事実だよ」

 いいや嘘だ。吾輩やココノや虎太郎にはわかっている。

 ただ主人と花先生は、彼女が物の怪であることなど知るはずもないから。だからきっと、そう、きっと――やはり。

 花先生の顔が、たちまち曇っていった。事実と捉えている、そんな顔だ。

 主人は? 主人は――

「会いたい、でしょう」

 主人もやはり、そう。ユキエの言葉を事実だと、信じているのだ。

 ぽつりぽつりと主人は、言葉を紡いでいく。

「ユキエさんの探している猫が、どんな顔をしていて、どんな性格なのか――僕は知らないし、わかりません。だけど、ユキエさんにとっての幸せの猫というぐらいなんですから、会いたいでしょう。切実に。――うちには一匹、猫がいます。とても大切で、僕にとっての幸せの猫です。だから会いたいのに会えないのは、胸が苦しいだろうなって、……わかります」

 チクリと、胸が痛んだ。

「それに、」

 主人の言葉は、続く。

「すみません、これは完全に僕の話になってしまうんですが、……僕には大切な人がいました。けれどその人の最後の願いを、僕は叶えてあげることができなくて。これから先も僕には、叶えてあげられそうにない。――だからせめて、あなたの願いを叶えることができたなら」

 胸の痛みを覚えながらも、吾輩の意識は別のほうへと向かっていた。

 主人に、大切な人がいた?

 そして主人には、その人の最後の願いを叶えてあげられそうにない?

 知らない。吾輩の、知らない話だ。

 ココノを見る。するとココノは目を見開いて、主人を見ている。吾輩よりも長いこと、佐々木探偵事務所に住んでいながら、その彼女でさえも知らない話だと――そういうことなのか。

 ユキエの小さく笑う声がした。

「まったく、それじゃアンタは依頼を解決できなかったとき、どれだけ傷つくと思っているんだい? 自分の心が」

 それでも主人は静かに微笑み、

「手伝わせてください、……お願いします」

「あっ、……あたしも手伝います!」

 と、比較的静かだった事務所内に、大きな声が響いた。

 声の主は花先生で、皆の視線が先生に集まったのと、自分でも思っていた以上に大きな声が出てしまったのに驚いたのか、咄嗟に自分の口を覆う先生だったが。しかしすぐに手をおろし、背筋をすっと伸ばすとだ。どこまでもまっすぐな瞳にて、

「居合わせたのもなにかの縁だと思うんです。だからユキエさんの願いを叶えるお手伝い、あたしにもさせてください! ――それに佐々木さんのことだって! あたし、いつも佐々木さんには助けてもらってばかりだから、今度はあたしが佐々木さんの力になりたいんです!」

 瞬間、主人の目が、大きく見開かれた。

 最初にあったのは驚きという感情だったと思う。どこまでもまっすぐな瞳をして、まっすぐな言葉を放つ花先生に、驚いた。

 そして驚きのあと、主人に訪れた感情は――嬉しさだったのだろう。

 丸眼鏡の奥にある、見開かれていた瞳。それがすっと細められたと思ったら、次には顔をくしゃくしゃにして笑う主人がいた。嬉しくなくちゃ、あんな笑い方はできんのに決まっている。

 その主人の笑顔は、唐突に響いた高笑いによって、また驚きの顔に戻る。

 魔女みたいな高笑いを響かせたのは、ユキエであった。

 アッハッハと面白そうに体を揺らして笑い、そしてユキエ、

「やっぱりアンタたち、ええ? アッハッハッハッハ!」

「「わっ、笑わないでくださいユキエさん!」」

 重なる主人と花先生の声に、ユキエはいっそう大笑いだ。

 いつの間にやら事務所内には、もう、静けさはなかった。

 ただ吾輩の心の中には、まだ静かなるものがあって、その理由は佐々木主人――彼のことで知らぬことがまだまだたくさんあるのだなと、そんな、なんとも言えん思いのためで。

 ココノはどうだろう? ココノは吾輩よりも長くこの場所に世話になっているわけで、そんなら吾輩よりももっと、なんとも言えんようなこの感情に埋もれてしまっているのだろうか。今。

 ガリ、と。音がした。

 この空間に飽きたのだろうか、虎太郎がそれこそ子猫のように、事務所の壁をガリガリ引っ掻いていた。


◇◇◇


 ユキエが事務所を後にしてからも、吾輩は彼女を追わなかった。それは花先生が彼女を送ることとなって、物の怪としての合流が、今日はちょっと難しそうだと判断したのと。

 そしてなにより、主人だ。主人に大切な人がいたという話――それがやはり気になって、ひょっとすると事務所にこのまま留まっていれば話をしてくれるかもと判断したからだ。ユキエにはどのみち明日になればまた会える、そんなら明日のうちに機会を見つけ、物の怪として接するのでも遅くはないだろう。

 ……しかし、主人は事務所に留まった吾輩やココノになにも話してはくれなかった。なんとなく、話したくない、触れられたくなさそうだなと、そんなふうに感ぜられた。

 そうしてとうとう日付が変わって土曜日となり、主人も別室へ入って寝静まった現在。吾輩とココノ、それから虎太郎は人間姿のまま、事務所内にてひそひそと話し込んでいるのである(吾輩たちは主人に、今日は泊まらせてくれないかと頼み込んだのだ。その際、吾輩やココノはともかく、虎太郎は主人から見てまだ小学生ぐらいの小さな子供なものだから、せめて虎太郎くんぐらいは家に帰したほうがいいんじゃないかと主人が述べたのだが、虎太郎は吾輩のまったく似ていない弟ということにしてしまって、やや強引に〝全員泊まって構わない〟との承諾を得た吾輩たちである)。

 ココノが言う。

「大切な人がいたって、どういうことなんでしょう?」

 吾輩は首を捻りつつ、

「わからんが、……主人はあれ以上、語りたくはなさそうだったね」

「でも、あれだとますます気になりませんか?」

 それは無論、吾輩だって気になるさね。……が、主人の様子を見ているうちに、こうも思うようになっていた。

「無理に掘り起こすことで、彼の傷を抉るようなことになるのなら。……吾輩は聞かなくともいいのかもしれんとも思う」

 本当は、知りたいのだ。

 彼のことなんだから、知りたくてたまらないのだけれども。

「……それじゃあ、ユキエさんの依頼の件ですね。わたしたちはどうしましょうか」

 おや。主人のことで、ココノはもっと〝知りたい〟と粘るんじゃないかと思っていたのだが、存外、彼女のほうもあっさりと引き下がった。……彼女も主人の様子を見て、あまり掘り起こさないほうがいいだろうと結論づけていたのかもしれん。

 ひとつ、息を吐いてから、

「吾輩は手伝うよ、彼女――ユキエさんの依頼をね。彼女のことについて引っかかる点はあるけれども、それでも依頼は依頼だ。――それに、この依頼を解決することで主人の心持ちを楽にすることができるんだから。だったらなおのこと、吾輩は手伝うさ」

「ふふ、聞く必要もなかったみたいですね。もちろんわたしも斑さんと同じで、ユキエさんの依頼は手伝うつもり満々でしたよっ。……となると、ユキエさんのお話がどこからどこまで本当かっていうのを本格的に見極める必要がありますよね。だって第一にユキエさんは物の怪なんですから、死期が迫っているだなんて完全に嘘なんですもの。猫探しの依頼のほうは、さすがに嘘じゃないはずですけど――」

「あいつは嘘吐きだよ」

 と、虎太郎がようやく言葉を発したと思ったら、随分と辛辣な物言いであった。ユキエの第一印象が悪すぎて、もう仲直りなど到底できんように思える。

 虎太郎、また言葉を吐く。

「あんなすっとこどっこいの依頼なんて、聞いてあげちゃう必要ないんだ」

「まあまあ虎太郎や。確かに彼女、最初にちょっと悪ふざけをしてしまったし、彼女の〝死期が迫っている〟というのも嘘ではあるがね。けれど、そんなら物の怪は皆嘘吐きさ。吾輩もココノも、そして君も、人間に化けて嘘を吐いているだろう? だが他者を傷つけん嘘であるのなら、すべてがすべて悪いこともないんじゃないかと吾輩は思っているよ」

「…………」

「それに、ユキエさんの話に戻るがね。彼女は死期が迫っているなどと嘘を吐いたわけだが、改めて考えてみると、吾輩にはこんなふうに思えるね。ああいう嘘を吐くぐらいに、彼女はなんとしてでも猫に一目会いたいと願っているんだなあと――なんなら彼女は猫を一目でも見たいのだという思いの強さで物の怪となったんじゃなかろうかと、吾輩は考えるぐらいさ」

「斑さんの言うとおり、それは本当に考えられることですよね」

「……ふん。ミーはそんなこと、絶対にないと思うけどな」

「うんまあ、あくまで仮説ではあるさ。けれど、もしも仮説が当たっていたとしたら? そんなら彼女の依頼を手伝うことで、彼女の生前の願いを叶えてあげることができるし、それに――主人だ。主人に大切な人がいたという話の、詳しいことはわからんわけだけれども。それでも今回の依頼を解決することで、主人の心が少しでも軽くなるのなら――」

 それは恩返しとなるはずだ。主人への、最後の恩返しに。

「なら、オミャーたちだけで勝手にやればいいだろ」

 虎太郎の刺々しい声が、室内へ静かに落ちた。

「だけどミーはどっちにしたって手伝ってなんかあげない。だってミーは人間なんて嫌いなんだ。鼠は嫌いだけど、人間はもっと嫌いなんだ。――なにが〝冗談は言っても嘘は言わない〟だよ。本当にどうしようもない、すっとこどっこいババァめ――んみゃっ!?」

 ここでココノのポカポカが、虎太郎の頭部に炸裂する。そして、

「手伝わないっていうなら全然いいですよ、構わないですけどね! でも虎太郎ちゃん、本当にちょっと口が悪すぎです! めっ!」

「暴力のほうが〝めっ〟じゃないのか!? ううっ、この鼠めえぇぇぇ……っ」

「……こらこら君たち、もう少し静かにしないと主人が起きてしまうよ」

 吾輩の一言で、どうにか口を噤む二匹である。

 ほうと息を零したあと、ふと時計に目をやると、そろそろ午前二時である。

 もう寝たほうがよさそうだ。寝て、朝からの猫探しに備えるのがいいだろう。




 へくしゅん、と主人がくしゃみする。

 それから「寒いなあ」とマフラーに口許を埋める。

 本日は土曜日。ユキエの依頼があった、翌日である。


 相も変わらず雪がほろりほろりと降り落ちていて、そんな中、八万尾の街にて吾輩たちは猫探しを始めることとなった。顔ぶれは吾輩、ココノ、主人、ユキエ、そして虎太郎だ。……まあ虎太郎は猫探しを手伝うわけではなく、吾輩の監視役でついてきているだけなので、顔ぶれに含めずともいいのかもしれないけれども。

 そうだ、ちなみにこの中に花先生がいないのは、幼稚園が昼前まであるためで、それが終わって仕事も終わり次第、駆けつけるとのことである。

 さて雪の街を歩いていると、主人がはたとユキエに視線をやり、

「――そうだ、ユキエさん。昨日は聞きそびれてしまったんですが、あなたの探している猫の特徴を教えていただけませんか?」

 うん? とユキエは首を傾げたあと、

「ああ、そういえば言ってなかったね」

 うむ。昨日は猫探しの依頼を引き受けるということと、今日から早速猫探しを始めるということが決まっただけで、肝心の猫の特徴のことは聞いていなかった。

 ユキエが探している猫というのは、一体どんな猫なんだろう?

 吾輩たちはユキエが話すのを待っていたが、しかしユキエ、どうしたものか黙り込んでしまうと、喉に餅が詰まったような声を出す。そうしてうんうん唸る。次には顔を上に向けて唸る。サングラスにひたひたと、雪が張りついていく。

「……ユキエさん?」

 主人が呼びかけた。次いで、

「ユキエさんっ。ユキエさんってば、ユキエさーん!」

 ココノが呼びかけて、

「はて、寝ているのかな?」

 これは吾輩。最後に、

「ひょっとしたら死んじゃったんじゃないのか」

 などと、虎太郎が小声でひどいことを言う。

 すかさずココノが「こらっ」と姉のごとく叱った。

 その叱り声を合図にしたかのように、ユキエがようやくからから笑うと、

「まだ死んじゃいないみたいだね。……けど、こいつは少し参ったよ」

「参った? ユキエさん、どういう意味ですか?」

「いやね、鏡介。……どうにも霞んじまうようだ」

 なに、……霞む?

「霞むとは一体、どういうことです?」

 思わず吾輩が尋ねると、ユキエは笑うのをやめて、サングラスに張りついた雪を払う。それから低い声にて、

「昨日まではなんともなかったのさ。なのにそれが今日になって、わからなくなっちまったんだよ。――アタシが探している猫の姿と、そして名前のことさ」

 両の瞳を、吾輩は細める。……随分と妙なことを言う。

「なに、言ってるんだ? ……オミャーは」

 あまりにも妙ゆえ、これには虎太郎さえも包帯の巻いてある左手首をぎゅっと握りつつ問うた。彼が折あるごとに左手首に触るのは、吾輩が右手の甲を舐めるのと同様、自分の気を落ち着かせたりするためなのかもしれん。

 ユキエは変わらず、ふざけた様子もなく、

「そのままの意味だね。……アタシだって自分でなにを言ってるのか、って思っちまうぐらいだけど」

「その猫、一目でも見たら思い出せそうでしょうか?」

 皆が少なからず戸惑う中、主人だけはそんな素振りを見せることなく問う。

 主人からしてみれば、ユキエは〝人間〟の老女である。それだから大方、歳を重ねているために度忘れしてしまったのだろうぐらいに思っているのかもしれない。そして猫の姿は一目見れば、きっと思い出せるだろうと。

 ユキエも当然と頷くと、

「ああ、思い出せるとも。姿を見れば、間違いなくね。……それにしてもまったく、若いつもりでも年齢には勝てないってことかねえ。アッハッハ、おお嫌だ!」

 笑うには笑っているユキエだが、吾輩にはなんとなく、自分の忘却に対する動揺を隠すための笑いであるように感ぜられてならなかった。すなわち、猫の姿と名前を忘れたというのは、演技には見えなかったのだ。

 しかし、だとすると本当に妙である。なぜなら彼女は物の怪だ。普通の人間の老女であれば、歳を重ねるうちに大事なものを少しずつ忘れていくこともあるだろうが、物の怪の彼女にこの症状は、妙としか思えない。

 彼女にとって、おそらくは大事なことなのであろう猫探し。もしかするとこの猫への強い思いのために、彼女は物の怪になったのかもしれないぐらいなのに。……なのに、こんなにも大事なことを物の怪が忘れるものだろうか? しかも昨日までは覚えていたと言うじゃないか。

 ……ここまで考えたとき、ふと視線を感じた。見るとココノがこちらへ目をやっていて、吾輩は首を横に振ってみせる。

 ――まだなんとも、わからんことが多すぎるね。

 吾輩が首を振ったのと同時、主人がゆっくりと歩き始める。その際、ユキエの背に自らの手を添えて、

「それじゃあとにかく、探してみましょう。猫はきっと見たらわかります。だから落ち着いて、焦らずに」

 主人の言葉に、ユキエの笑い声がぱたりと止んだ。

 それから彼女、きまりの悪そうな、むずむずしたような表情をすると、

「なんだ、鏡介。アタシが焦っていたこと、アンタわかっていたのかい。ええ?」

 主人はなにも言わず、柔らかく笑むばかり。

 そうさ、主人は――鈍そうでいて意外に鋭いところのある男なのである。


 暫し、吾輩たちは無言で歩いた。歩きつつ猫を探して、周囲へ視線を走らせて。

 そのうちユキエがわざとらしく咳払いをしたなと思ったら、

「嫌だ嫌だ、本当に恥ずかしい姿を見られちまったもんだよ。――だけどもう大丈夫さね、だからアタシの背中にやってるその手をどけな、鏡介。これ以上は花に怒られちまいそうだからねえ、アタシが」

「どっ、どうしてそこで花先生が出てくるんですか!?」

 主人、すごく焦っている。ユキエはすでに、昨日初めて出会ったときのような、悪い魔女のごとき顔で主人をニヤニヤと見ていて、先刻のきまり悪げな表情はすっかり引っ込んでいる。本調子というやつだなと思っていると、

「そうだ、鏡介」

 続けてユキエが主人に言葉を投げた。

「――アンタのところにも猫がいるって、確か昨日、そう言ってたね?」

 なんと、油断していたところへ吾輩の話題を振るか!

 思わず鳴きかけるが、寸前で留まった。……いやはやまったく、彼女はやはり魔女なんじゃなかろうか。

 主人のほうは目をぱちつかせつつも頷いてみせると、

「ええ。斑さんっていう名前の、白黒斑模様の猫がいます」

「斑さん、か。――もう少し詳しく聞かせちゃくれないかい? そいつのこと」

「詳しく、……ですか」

 顎を撫でながら主人、ちょっと視線を落とした。しかしすぐに小さく笑うと、

「優しくて、強くて、……それから温かい猫です、斑さんは。傍にいてくれるだけで、僕の心は温かくなって、なんだか幸せな気持ちになれる。――昨日も言いましたが、斑さんは僕にとっての幸せの猫なんです」

 ほわあ、とココノが吾輩の隣で息を洩らした。そうしてニヤニヤとこちらを見る。

 けれども吾輩は、ふいと顔を背ける。恥ずかしくなったため、……ではない。

 吾輩は――

「ただね、ユキエさん」

 と、主人の静かな声。

 その声は、先ほどよりもわずかではあるが、温度を下げたように思われる。

 主人がなにを言おうとしているのか、吾輩にはわかったような気がして。

 そしてそれは、……やはり、思ったとおりのもので。

「そう、……ただね。昨日は斑さん、うちに帰ってこなくて。いえ、一日や二日帰ってこないことは以前からありました。だけど今回は帰らなくなって、もうすぐ一週間になるんです。今週から雪も降り始めたでしょう――だからすごく、心配で」

「――悪いね、鏡介」

 主人の言葉が吾輩の胸に、チクチクと刺さって。

 たまらず吾輩、両の目を閉じていた。

 しかしユキエが零した謝罪の言葉に、一度、目を開ける。

 なぜ彼女は今、謝ったんだろう?

 ユキエは肩を竦めると、

「……鏡介、アンタ本当だったら自分の猫のほうを探したいだろうに。アタシに付き合わせちまって悪いね」

 なるほど、それで彼女は謝ったのか。

 主人は彼女の言葉を聞くと、首を横に振り、小さく笑う。そして繋ぐのだった。

「いえ、――だから二匹とも見つかればいいな、って。実はそう思いながら、僕はこうやって歩いていたり。……すみません」

 また胸が、チクチクした。

 一度は逸れた意識が、主人の言葉によって痛みのほうへと再び向く。

 ……きっと今、ココノは吾輩に視線を寄越していることだろう。ただし先刻までのニヤニヤとしたものではなく、それこそ刺すような冷たい視線だ。見ずともわかる、なぜって、主人の言う斑さんとは吾輩のことである。だから主人がこうして雪の中を探さずとも、心配せずとも、吾輩さえ猫の姿に戻って、少しでも主人の前に姿を現してしまえば、この問題は単簡に解決するのだから。……けれど吾輩は無論、そうすることはできなくて。二度と彼の前に、猫として現れることはできなくて。

 だというのに、どうしてなのだろう。

「――佐々木探偵も、それからユキエさんも。さあ、そろそろまた猫探しに本腰を入れましょう。そうしてどちらの猫も見つかれば、大変に喜ばしいことだ」

 などと。……気がつけば吾輩の口からは、そんな言葉が飛び出していて。

 どうしてこんな、期待させるようなことを、希望の言葉を口にしてしまったのか。

 こんなものは、一時凌ぎにしかならないのに。

 一瞬、ただ一瞬の、主人の安心するような、そんな笑顔が見たかったのか?

「どの口が言うんですか」

 吾輩にしか聞こえない、そんな小さな声でココノが呟いた。

 吾輩は、なにも言えぬ。

 主人とユキエのほうは心が軽くなったと見えて、足取りも軽くなったようだ。

「案外、アタシが探しているのは鏡介のところの斑さんだったりしてねえ」

 ユキエはそんなことまで口にする。まあ彼女のそれはおそらく違うと思うのだが、しかしもしかすると物の怪たちの間にある、なんらかの話を聞いてここへやってきたという可能性も、ないではないかもしれない。どちらにしてもユキエには、早くに吾輩の正体を明かしたほうがよさそうだ。

「へくしゅん!」

 と、主人がこのとき、またくしゃみをした。

 ほろりほろりと降り落ちる雪の中、猫探しは続いていく。


◇◇◇


 小休止を挟みつつ猫探しを行っていた吾輩たちだったが、大変に寒いせいか猫自体があまり見当たらない。そうして午後一時をまわったところでユキエに少し疲労の色が見えてきたので、ここで本格的な休憩をとることにした。

 休憩場所には昼食も兼ねてファミレスなる飲食店を選ぶ。と、そのタイミングで花先生より〝仕事が終わった〟との連絡が入ったので、吾輩たちは花先生と合流してから店内へ入ったのだが、虎太郎は人間がたくさんいる場所をやはり好まんものと見えて、「ミーは外で雪遊びしてるんだからな!」と言うと、一匹、降り積もった雪と戯れ始める。吾輩たちはちょうど窓越しに虎太郎が見える席へと案内されたので、こっそり彼の様子を見てみると、一匹で遊んでいる彼は、しかし中々楽しそうであった。……おや? よくよく見てみると、虎太郎、さっきまで左手首に巻いていた包帯を外しているようだな。理由はわからんが、まあ外しても問題ないのなら彼の自由にさせるのがよかろう。

「なにを見てるんだい? 三池くん」

 と、向かい側に座る主人が問うてきた。

「うんにゃ、なにを見ているというわけでもないんですがね――」

「そんなことはないだろう、アンタ」

 吾輩の言葉を遮ってきたのは、これまた向かい側、主人と花先生の間に座ったユキエである。

「――アンタ、虎太郎を見てたんだろう? ありゃアンタの弟だと聞いたよ。どうやら包帯がとれたみたいだね」

 目敏いなと思いつつ、

「ええ、まあ――」

「虎太郎くんってやんちゃそうだから、怪我も多そうだよね。となると、お兄ちゃんの三池くんとしてはやっぱり心配って感じかな?」

 この発言は花先生だ。もうすっかり虎太郎が吾輩の弟というのが定着している。慣れんのは吾輩とココノ、それから虎太郎ばかりである。

 ドリンクバーで主人に注いでもらったメロンソーダとかいう大変に体に悪そうな飲み物をちびちび舐めつつ、曖昧にやり過ごしていると、

「まあとにかく、包帯がとれたのはよかったじゃないか、え? お祝いにアタシのカブの後ろにでも乗っけて走ってやりたいねえ。虎太郎には嫌われちまったようだが、アタシはああいうやんちゃな子がどうも好きみたいで、それだからついつい構いたくなっちまう」

「――カブ」

 ユキエが口にしたその単語は、なんだか聞き覚えがあった。

 はて、いつどこで聞いたのだったか。

「虎太郎ちゃんが言ってましたよね」

 吾輩の隣に座るココノが先に思い出したらしい。吾輩にしか聞こえん声で囁く。

 すると、ああそうだと吾輩も思い出した。確か昨日のことで、物の怪の気配を追って雑居ビルヂングの前までやってきたとき、そこに駐車してあった一台の黄色のバイク――あれを見て虎太郎が口走ったんだった。ただし虎太郎はあのとき〝カブー〟だと言っていた気がするが。

「ココノや、カブとカブーは同じものだと思うかい?」

「それはわたしにもわかりませんけど――」

 ひそひそ話している間に、ユキエがちょっと思い出を語っていた。

「カブで走るのはね、それはそれは面白いもんさ。前はあれで日本中を旅してたもんさね――」

「へえ、カブで旅を? ユキエさん、すごいなあ」

「カブってバイクですよね? そういえばユキエさん、昨日もあの黄色のカブに乗って、うちの幼稚園に来ましたよね。探偵事務所の場所を聞きに――」

 なるほどこの会話を聞くに、カブとカブーはやはり同じものなんだろう。

 ユキエはからからと笑ってみせると、

「もう一度あれに乗って、日本中を旅したいもんだ」

 サングラスの奥にある彼女の瞳は、今、昔を懐かしむかのように細められているのだろうか。皺の刻まれた彼女の顔を見ていると、つと汗が一筋、彼女の頬を伝った。

 疲労の色が少し見えてきたなと先刻思ったが、もしや想像以上に彼女、疲弊しているのかもしれん。吾輩の意識はカブからユキエのほうへと向く。

 彼女については本当に、わからん点が多々ある。


 ――もう一度あれに乗って、日本中を旅したいもんだ。


 それは今探している猫を見つけたら、いくらでもできることだと思うのだ。

 なぜって、彼女は物の怪だ。何度も述べるように、物の怪であるということはだ。この先、二度目の死を迎えるなど、普通ならばありえん話なのである。

 けれど、そんならなぜ彼女はカブで日本中を旅することがもうできないみたいな口振りでいるんだろう? 昨日の〝死期が迫っている〟という発言もそうだ。本当に自分には死期が迫っているかのような口振り。演技だとは思われない、本当であるかのようなそれ。

 加えて、今の彼女の様子である。彼女はなるべく大丈夫なふうを装っているが、しかしよくよく見てみると、頬を伝う汗もそうだし、飲み物を持つ手だって微かに震えているようなのである。

 いいや、物の怪といえども雪の中を歩き続けたなら疲れるものさ。吾輩だってココノだって、多少は疲労がある。……けれども彼女の様子は、なんだか違和感を覚えてしまうほどのそれで。

 彼女は生前、相当に体が弱かったのか? だとすれば今の彼女の様子に納得がいかないでもない。物の怪になると、獣も人間も生前より強い体になるが、その生前に体が非常に弱かったのなら、……うん、今の彼女の様子にも説明がつく。

 いやしかししかし、今さっき言っていたじゃないか。カブに乗って日本中を旅していたのだと――そんなら寧ろ、体は丈夫なほうだったのでは?

「難しい顔、してますね」

 ココノが吾輩へ呟くのと同時、

「アッハッハ、アタシときたら随分と弱気になっちまってるみたいだねえ!」

 ユキエが、笑いながら、

「まったく情けない! ――こんなんじゃあ、あの子に〝おまえは誰だ?〟なんて顔をされちまうかもしれないね」

「あの子というのは、探している猫のことですか」

 吾輩、気がつけばユキエに問うていた。

 ユキエは笑うだけで、明確には答えない。だが答えないことこそが答えであるかのように思われた。……いいや事実、答えだったのだ。だって彼女はかような言葉を口にする、非常に弱気な、言葉をだ。

「さあ、今のうちにもう一度言っておこうか。――こいつは確かにアタシの最後の願いだ。だけどね、叶わなくたってしょうがないことなのさ。だからそのときには、絶対に心を痛めないでおくれ、アンタたち」

「ユキエさん、僕は――」

「おっと、鏡介」

 口を開いた主人に、ユキエが人差し指を向ける。主人がぐと口を噤むと、

「――そうだ鏡介、それでいい。それ以上なにか言おうものなら、」

「佐々木探偵のこと、酒の肴にでもしていましたか」

「ああそうさ、三池。――こいつはもちろん、冗談だけどね」

「……冗談」

「そうだとも、冗談さ。言ったろう――アタシは冗談は言うんだ、嘘は言わないけどね。嘘言うぐらいならアタシは地蔵になるさ」

 言いつつユキエはなんでもないように、頬に伝っていた汗を拭った。

 ……本当に、彼女についてはわからんことばかりだ。

 吾輩は立ち上がると、空になったグラスを持つ。するとココノが、

「ドリンクバーに行くんですか、三池さん。一人で大丈夫です?」

「うん、大丈夫だとも」

 ドリンクバーのやり方は、さっき主人がやるのを見ていたからね。それに吾輩一匹で行くほうが都合もいい。ちょっと考え事をしたいから。

 しかしそれならと、ココノも立ち上がってグラスを持った。……吾輩同様に、ココノもユキエのことで色々考えたいのかもしれん。

 主人や花先生、それからユキエの分もついでだからとグラスを受け取ってから、吾輩たちはドリンクバーへと向かった。その際、グラスを吾輩たちに渡したユキエが窓の向こうへ改めて目をやり、雪遊びする虎太郎を見ると、次のようなことを独り言のように呟いたのであるが。その呟きがまた、吾輩の耳にやけに残るのであった。

「――それにしても虎太郎は、本当に楽しそうだね。あの子もあれぐらい楽しそうにやってくれてたらいいんだけど。雪はきっと、あの子を喜ばせることができるだろうから。アタシはそのために――」


「吾輩は非常にむずむずするよ」

 ドリンクバーへ向かう途中、ココノに言葉を零した。

「むずむずするって、ユキエさんのことですよね?」

「無論。――君は気づいているかい? 彼女の様子に」

「隠そうとはしてますけど、でもユキエさん、だいぶ疲れてる感じですよね。なんだか、まるで本当に――」

「ココノや、どこへ行くんだい? ドリンクバーはこっちだよ」

「はうっ」

 いそいそと方向転換するココノに、吾輩は今しがた、彼女が言おうとしたのであろう言葉を繋いだ。

「――まるで本当に、自分に死期が迫っているかのような様子だ」

「物の怪なら、もう死ぬなんてことはありえないのに」

「……ふむ」

 ドリンクバーの前に到着する。

 主人や花先生、それからユキエの分を先に注いで、最後に自分たちの分を注ぐ。

「斑さん、メロンソーダはやめるんですか?」

「シュワシュワしていて猫の舌にはあまり優しくないから。それだから、……そうさね、この牛乳みたいなものを飲もう」

「それカルピスですね」

「ココノや、さっきの話の続きなんだが」

 グラスを機械のところへ置いて、しかしまだボタンは押さない。

 ドリンクバーのあるこの場所に、現在、立っているのは吾輩とココノのみだ。

 それでも声を潜めつつ、ふと吾輩は彼女へと、言葉を投げていた。

 或いはそれは、自分自身へ投げた言葉――だったのかもしれない。

「彼女は、……ユキエさんは、死ぬのだろうか?」

 はい? と、首を傾げるココノ。

 それっきり、吾輩たちの間には言葉がなくなる。

 吾輩は自分が今しがた投げた言葉を、自分の中で何度も何度も反芻した。


 彼女は、……ユキエさんは、死ぬのだろうか?


 ひたり、と。背筋をなにか冷たいものが舐めたような、そんな感覚。

 そろりそろりと顔を上げて、今いる位置から主人たちが座る席へと視線をやる。

 すると、ユキエの顔が見えた。主人と花先生の間で、相槌を打ったり、笑ったり、時には自ら話題を振る、そんな彼女の顔が。

 しかし彼女のとある部分は、最初に出会ったときからずっと隠されていた。

 おそらく、意図的なものではないのだろうと思う。

 彼女の派手な出で立ちからして、それがそこにあることは、なんら不自然でもなんでもないのだから。

 けれど。

「……斑さん?」

 声がする。それはココノの声で、後方から飛んできたもので。

 気がついたときにはもう、吾輩は歩き出していたのだ。

 そうして大股に席へ戻ると、主人と花先生とユキエが、吾輩を見た。

 吾輩はなにも言わずに、すっと手を伸ばしていた。

 そうして出会った当初より、ずっと彼女のそこに鎮座する――サングラスを、取り上げて、


 取り落とした。


「んもーうっ、三池さんってば突然なんなんですか!?」

 ココノの声が飛んでくる、しかし吾輩はココノに答えることも、彼女のほうを見ることもできぬ、ただ、今、吾輩の視界に映るのは、吾輩の唐突な行動にあんぐりと口を開く主人と、花先生と、……そしてユキエだ、両の目を見開くユキエのその目、その瞳には、吾輩の顔が映っていて、吾輩はその瞳の奥の、さらに奥を見ている――。

 やがて吾輩の尻が、椅子に落ちた。そう、なってしまった。

 すべてが繋がっていた。吾輩の中で。

 そうか。……そうか。そうなのか、だから。

 だったらすべてに、納得がいく。

 物の怪であるユキエが、尋常でないぐらいに疲弊してしまうそのわけも。

 まるで本当に死期が迫っているかのような口振りであるのも。

 探し猫の姿を、名前を、ぽっかりと忘れてしまったその理由も。

 やけに耳に残った、あの呟きの意味もすべて。

 そうするとユキエが一体なんの物の怪であるのか、自然と見当もついてくる。

 吾輩はさらに、考えを巡らせる。

 ユキエは、探し猫がこの街にいることを聞いてやってきたのだと言っていた。……その情報は、一体誰に聞いた? いいやここまでわかれば、なんとなしにそれもわかるというものだ。観怪であってもあまり知るもののない〝事実〟だって知っているふうなんだから、こうなると情報源は限られてくる。

 そして吾輩の考えが、すべて当たっているとするならば。

 ユキエの探している猫というのは、ひょっとすると――。