くろぐろとした木立がざわめき、蝉しぐれがだんだん弱まってきた。

 夏の空が薄紅色に暮れて、庭の敷石をほんのりと染めている。

 桃花は、縁側に腰かけて晴明を待っていた。隣では三毛猫のミオが寝そべって毛づくろいをしている。

 今日は祇園祭の宵々山――山鉾巡行の前々夜祭――へ行くため、浴衣を着ている。髪をアップにしているので、うなじから襟元に夕風が入ってきて涼しい。

 藍色の地に赤い金魚が泳ぐ浴衣には、黄色の帯を締めている。髪に挿したかんざしに、金魚の飾りが揺れているのが特にお気に入りだ。

 桃花は巾着から手鏡を出して、笑顔を作ってみた。

 ――「きれい」まで行かなくても、せめて「似合う」くらい言ってほしかったな。

 晴明はこの装いを見て「夜の闇には明瞭な色合いが映える」としか評さなかった。

 色しか見ないとは何ごとか、と少し悔しい。

 ――晴明さん、わたしのことを色見本か何かだと思ってませんかっ?

 などと、心の中で問い詰めてみる。

 想像の世界での晴明は「そんなに騒ぐ色見本があるか」と冷たく言い放ったので、桃花は勝手にしょげてしまう。

「はぁ……晴明さん、ひとりで浴衣着られるのかな」

 そっとミオに話しかける。ミオも晴明の不在が気になっていたのか、廊下の向こうの階段に向かってミャアと鳴いた。

「ミオが呼んでますよー。晴明さーん」

 二階で着替えている晴明に、桃花も呼びかけてみる。

 晴明の浴衣は青鈍色で、角帯は麦わら色。どちらも桃花の両親からの贈り物だ。

 母親の葉子の言葉を借りれば、「ボーナス現物支給」である。

 晴明に勉強を教わった結果、桃花は中間試験でも期末試験でも平均点を上回ることができた。喜んだ両親は「晴明さんに何か贈ろう」と言いだしたのだった。

 彼らにとって晴明は「お隣で一人暮らしをしている若い大学の先生」なので、年長者として世話を焼きたいらしい。

「陰陽道も教えてくれればいいのになー。がんばるのになー」

 素足をぷらぷらと宙に遊ばせる。膝につけた柚子の練り香水がほのかに香った。

「あ、また植木が増えてる」

 庭の一隅で赤い縮緬のように揺れているのは、百日紅の花房だ。いつの間にか植木が増えているこの庭に、桃花はもう慣れてしまった。

 桃花の家の隣には、陰陽師・安倍晴明が住んでいる。

 姿は二十五、六歳の青年で、琥珀色の髪をいくぶん後ろに流した勤め人風だ。

 同じく琥珀色の瞳は玲瓏としていて桃花は時おり見とれてしまうのだが、その表情はいつ見てもだいたい憂鬱そうだ。

 晴明は千年前とは打って変わって、かっちりとしたスーツを着て、古い木造家屋の縁側で本を読んだり、桃花に学校の勉強を教えたりしている。

 実は現在の晴明は、陰陽師でもあり、閻魔大王に仕える冥府の官吏でもある。

 閻魔庁第三位にまで昇りつめた晴明は、今年の春になってようやく長期休暇を得て現世へ住まいを移した。

 隣の家に引っ越してきた桃花は、晴明に現世の暮らしを教える指南役だ。

 桃花としては陰陽術を教えてほしいのだが、晴明はいつも「学校の勉強が最優先だ」と、つれない態度を崩さないのだった。

 トン、トンと足音がする。晴明が二階から下りてきたのだ。

 ――ちゃんと着付けできてなかったら、ネットで調べて教えないと。

 何しろ晴明は、居酒屋でついつい三升もの酒を飲んでしまって長期休暇を命じられたくらいの(失礼を承知で言えば)変人なのだ。

 着崩れを指摘するのは決まりが悪いが、毅然として対応せねばなるまい。

 桃花は立ち上がって板の間で待ちかまえ、ミオは待ち遠しげにしっぽを立てた。

「待たせてすまん」

 姿を現した浴衣姿の晴明を見て、桃花は「ひゃー」と声を上げた。

 浴衣の青鈍色が、琥珀色の髪や白い肌と調和している。腰骨で締めた角帯から襟元にかけてのゆったりした線が、けだるいながらも粋な雰囲気を醸しだしていた。

「ひゃー。ひゃーですよ!」

 桃花の歓声を受けて晴明は面倒くさそうに目を細め、髪をかきあげた。

「何だその悲鳴は」

 稲荷社の白狐を思わせる顔は、いつも通り陰鬱な影を帯びている。しかしミオが脚にすり寄って甘えると、柔らかそうな唇に笑みが浮かんだ。

「晴明さん、かっこいいです! ティアドロップみたいな金の鈴も渋い!」

 麦わら色の角帯の上端に、しずく形の鈴がついている。

 鈴の大きさはイチゴくらいで、蓮の花びらのような文様が彫られていた。

「西洋のアンティークみたいな……古くて繊細な感じ」

「異国的だが、これは日本の鈴だ。もともと奈良の法隆寺で華鬘に使われていた」

「あっ、難しい話になってきましたね。法隆寺なら分かります」

 古代に奈良県に建てられた有名な寺院だ。小学校の教科書にも出てくる。

「でも、その次が全然分からないです」

「宙に浮く唐草模様のような、寺院を装飾する道具だ。華やかにカズラと書いて、華鬘と読む」

 唐草模様なら分かる。くねくねと曲線をえがく、植物の文様だ。

「カズラ……? ビナンカズラなら、子どもの頃近所に生えてました」

 夏に釣り鐘形の花が咲き、秋には赤い実がくっつき合ってラズベリーのようになる、見栄えのする植物だ。母親の葉子の話では、樹液が髷を結う時の整髪料になるので、美男鬘と名付けられたらしい。

「昔のヘアジェルなんですよね。寝ぐせを直したりする」

「よく知っているな。他にも、テイカカズラやゲンペイカズラやホタルカズラなど、カズラと名の付く植物は多い」

「むむ。カズラって結局なんなんですか?」

「つる草の総称であり、つる草などを髪飾りとした時の呼び方でもある。カズラ・唐草・つる草、三つとも似たようなものだ」

 ――呪文みたい。かずらからくさつるくさ。

「じゃあ華鬘は、花のつる草。宙に浮く、花のついた唐草模様なんですね」

「呑みこみが早いな。パズルの断片がはまったか」

 そう、晴明に比べると、自分の知識はパズルのピースのようだ。

 根気よく付き合ってくれる晴明という教師を、桃花は得がたいと思う。

「要するに華鬘とは、花の代わりに吊り下げる金銅製や木製の装飾品だ。団扇に似た形で、花などの透かし彫りが施してある。そして、この鈴のような飾りを垂らす」

 桃花は、金色の唐草模様が光りながら宙に揺れている図を想像してみた。なるほど豪華だ。

「華鬘や仏像の台座のような、みほとけのための装飾品を荘厳具と呼ぶ」

「あっ、思い出した! 美術部に置いてある写真集に、荘厳具が色々載ってました! キラキラしてて、きれいなチェーンが垂れ下がってる……」

 面白い意匠の鈴だとは思ったが、寺院由来だったとは。桃花は軽い驚きを覚えた。

 しかし、陰陽師の持ち物としてはしっくり来る。

「ところで晴明さん。部品がここにあるってことは、もとの華鬘は壊れちゃったんですか? 残念」

「壊れなくとも、古びれば処分される」

「そっか、キラキラしてるのが荘厳具だから、時々取り替えないと」

「いわば仏堂の模様替えだな。昔の法隆寺では古い華鬘本体を溶かして再利用したが、鈴は法隆寺の頒布する魔除けとして生まれ変わった」

「あー、御守りですね!」

 現代の寺で御守りを販売している光景を、桃花は思い起こした。

「御守りに生まれ変わった鈴の一つが色んな人の手に渡って、晴明さんのコレクションに加わった、ってことですか?」

「そういうわけだ。組紐を付けて根付に仕立ててみた」

 根付とは江戸時代に流行した飾り物で、印籠や巾着を携帯するために用いられたのだと晴明は教えてくれた。

 確かに、晴明の腰には藍染めの薄く小さな巾着が吊り下げられている。

 鈴がついている組紐の反対側に巾着を結びつけ、上から帯の内側に通す。すると、帯の下端には巾着、上端にはストッパーとしての鈴、という配置になるのだった。

「お寺にもティアドロップの意匠はあるんですねー。おしゃれ」

「水滴の形は、水の持つ力を宿すためだ。華鬘には花唐草の力、鈴には水の力」

 ――花の唐草、鈴、水、力。また、何かの呪文みたい。

「こういう形の鈴を推古鈴という」

「推古天皇の推古ですか?」

 と、当てずっぽうに言ってみる。

「その通り。千四百年ほど前、推古帝の時代に生まれた鈴だ」

「当たっちゃったー」

「適当に言ったのか。まあよろしい」

 晴明は「そろそろ行くか」と静かな足取りで玄関に向かった。よくよく考えると、立ったまま結構長い間しゃべっていた気がする。

「あれ? その推古鈴、歩いても鳴らないですね」

 晴明は玄関で下駄を履きながら、「ああ」と答えた。

「この鈴が鳴るのは、禍々しい存在が近づいてきた時だ」

「鳴ったら大変。警報器みたいですね」

 晴明の背中に向けて言う。麦わら色の帯は、男性らしくきりりと貝の口に結ばれている。桃花の文庫結びとは対照的だ。

「まさに。魔の接近を知らせる警報器でもあり、魔に対する警告の鈴でもある」

「ちょっと意外です」

「何が」

 晴明が立ち上がって、怪訝そうに桃花を振り返る。

「法隆寺も奈良も穏やかでほのぼのしたイメージなのに、強くて怖そう!」

「穏やかでほのぼの、か。なぜそう思った?」

 晴明は袖に手を入れて腕を組み、生真面目な表情になる。

「うーん、中学の頃に遠足で奈良に行ったら、奈良公園に鹿がいたし、お土産屋さんに鹿や仏像モチーフの可愛い文房具を売ってたから……」

「ということは、鹿と土産物のみか」

「うぐ。他はあんまり見てなかったです。奈良イコールほのぼの、じゃないですね」

 中学時代は、今ほど寺院や歴史に興味がなかったのだと気づく。

「想像と事実の違いに気づけるのは、素晴らしい。陰陽道の基礎にもなる」

「ほんとですか? やったぁ」

 桃花も上がり框に腰を下ろして下駄を履こうとすると、後ろでニャアとミオが鳴いた。置いていかれるのを察したのか、しっぽを激しく振って不満を表明している。

「ミャ、ミャ」

 甘えるように小刻みに鳴いて、ミオは桃花の腰に擦り寄ってくる。

「ごめんねー。今日はお父さんとお母さんもお出かけなのに、わたしまで」

 話しかけると、ミオのしっぽがおとなしくなってきた。

「晴明さんがね、祇園祭の宵々山でお仕事なの。わたしもついていくんだよ。山や鉾が見たくって……」

「ミャ、ミャ」

 目を見開いて聞いてくれるミオが、無性に愛おしくなる。

「宵々山はね。山鉾巡行の二日前の、夜のお祭り。動くカマキリを乗せた蟷螂山とか、長刀をながーい棒に付けた長刀鉾とか、大きな車輪つきの山車がドーンと道路に並ぶんだって。カツオやイワシの出汁じゃなくて、山や鉾を山車っていうの」

 専門用語を知らないのでところどころが適当な桃花の話を、ミオはゴロゴロと喉を鳴らしながら聞いている。

「おみやげ、買ってくるからね」

 今日は七月十五日の宵々山。一か月にわたって行われる祇園祭のちょうど真ん中だ。

 祇園祭は二〇一四年から「後祭」が復活して「前祭」「後祭」の二期間に分かれたため、正確には「前祭の宵々山」である。

 四条通は歩行者天国となり、懸装品にいろどられた山や鉾が威容を誇り、祇園囃子が騒がしくも涼しげに流れる。

 おまけに桃花にとって、初めて見る祇園祭だ。

 下駄を履いていなければ、玄関先でステップを踏みたいくらいに嬉しい。



 地下鉄四条駅から地上に出ると、空は赤みを帯びた灰色に変わっていた。

 連なる提灯の明かりが、そびえる鉾や道ゆく人々を照らしている。

 四条通には、山や鉾だけでなく縁起物を売るテントも並んでいた。子どもたちが横に整列して、可愛らしい声で客を呼んでいる。

「厄除けのちまき、どーですかー」

「厄除けのちまき、どーですかー」

 余計な売り文句は言わずに、それだけを楽しげに繰り返す。耳に心地よく流れこむ歌のようだと桃花は思う。

 淡いピンクや紫の浴衣姿も、ラフな服装も入り交じり、潮騒のようなざわめきを生んでいる。本やネットで「コンチキチン」と表現される祇園囃子は、実際に聴いていると「フィーイローロ」という笛の音と「コンチキチン、シャン」という打楽器の音が混じっていた。

「桃花は夜でも見つけやすい」

 斜め後ろを歩く晴明が、そんな感想を漏らした。

「浴衣と帯の取り合わせも良いが、目立つ」

「め、目立つ? わたし、そんなに背が高いほうじゃないですよ?」

「見慣れているからだな。後ろ姿でもすぐ分かる」

 きれい、と褒めるつもりはないようだ。注目してくれるだけでも良しとする。

「晴明さん。詳しく聞いてなかったけど、今日はどんなお仕事なんですか?」

 浴衣の裾を気にしつつ、桃花は聞いた。着付けは家で母親にしてもらったが、人波を歩くうちに着崩れてこないか心配になる。

「昨日の早朝、正体不明の稚児がこの付近にいたそうだ。篁卿から聞いた」

「それで晴明さん、昨日のお昼『宵々山へ行く』って言いだしたんですね」

 篁とは、現世で暮らす晴明の部下の一人だ。晴明の話では、今夜八時にとある店で待ち合わせているらしい。

 ――急に発生したお仕事なのに、ついてきちゃって良かったのかな。

 今頃になって遠慮する気持ちが湧いたが、昨日「来るか?」と言ってくれた晴明の言葉に甘えることにする。

「偶然見かけたものの人間の魂とはどうも気配が異なるので、篁卿が私に連絡をよこしたわけだ。篁卿の担当は『道なし』だからな」

「道なし?」

「善行を積みながらも現世をさまよっている人間の霊魂だ」

 ああそうか、と桃花は腑に落ちた。篁の柔和な物腰に触れれば、迷える魂もきっと安らぐだろう。

 もっとも、助手である時子への過保護ぶりを見てしまった場合は、もれなく不安をいだくかもしれない。

「お稚児さんて、お祭りに出る小さい男の子ですよね。真っ白なお化粧をして、豪華な着物の……」

「そう。寺社の祭礼で着飾っている男児のことだ。このあたりに建つ長刀鉾でも毎年一人、稚児が選ばれる」

 長刀鉾に乗る稚児は、人形ではなく生きた人間なので「生き稚児」と呼ばれる。

 今年は京都市中京区に住む小学一年生の男児が選ばれたのだが、そちらとは別の稚児が、昨日の朝に出歩いていたという。

「本来なら、長刀鉾の稚児は男衆に護衛されている。一人で出歩くなどありえない」

「篁さんが見かけたのは、何者なんでしょうね……」

 星の輝きはじめた空に、長刀が高く垂直に掲げられている。あれこそが山鉾巡行で毎年先頭を切る長刀鉾だ。

「はーい、立ち止まらないでくださーい。長刀鉾は歩きながら見てくださーい」

 法被を着た青年が交通整理にあたっている。その背中に隠れるようにして、孔雀の羽根を飾った黄金の立烏帽子が見えた。

 ――お稚児さんだ!

 いつかテレビで見た、長刀鉾の稚児によく似た姿だ。年齢は七歳前後、金色の衣装に身を包み、顔は白く化粧している。

「晴明さん。あそこ、お稚児さんが」

 桃花は小さな声で晴明に話しかけた。

 男衆に守られているはずの稚児が、人混みの中にひっそりと佇んでいる。

「きれいなお稚児さんがいるのに、誰も注目してないですよね」

「篁卿に聞いた通りだ」

 二人は群衆の流れとともに歩いているため、稚児はどんどん後ろに遠ざかっていく。

 ――どうしよう、晴明さん。

 桃花が晴明の横顔を見上げた時、後ろから幼い声が響いた。

「もし! 奈良の祇園会に縁ある方ではありますまいか!」

 桃花が背後を振り返ると、そこには孔雀の羽根と黄金色の立烏帽子があった。稚児が、晴明の腰にすがりついていたのだった。

「その推古鈴。南都祇園会に関わる方でございましょう?」

 不安と懐かしさが混じったような声で、稚児は晴明の顔を見上げていた。

 南都とは何を指すのか、桃花は寸の間考えた。文脈からすると奈良の別名らしい。そういえば、「南都」は地方銀行の名前にもなっている。

「なぜ京におられるのか存じませぬが、ともに南都へ帰りましょうぞ」

「私は南都の者ではない」

 歩みながらも晴明が答えると、稚児は「ああ」とせつなげにうめいた。

「仲間が増えたと思うたのに」

 細い声で嘆きながら、稚児は人波に紛れていく。

「晴明さん、あの子、放っておいていいんですか」

「今はな。放っておいていい」

 どういう意味なのか聞こうとした時「前へ進んでくださーい!」と声が響いた。先ほどから声を張り上げている、交通整理の青年だ。

「邪魔になってしまうな。進むか」

「南都って、奈良のことですよね? 奈良の祇園会って?」

「室町時代には南都でも、京を真似て祇園祭が催された。夏の災厄を祓うために」

「奈良で祇園祭なんて、聞いたことないですけど……わわわっ」

 増えてきた見物客に二人揃って押し流される。

 晴明が、桃花の背中の後ろを手で遮って人混みから守ってくれた。桃花は「すみません」と詫びながらも、転ばぬよう全神経を足元に集中させる。

「鶏鉾へ行こう、桃花」

「にわとりほこ……はい」

「何だ、今の間は」

「すみません、どんな鉾なのか知らなくて」

「まあ無理もない。長刀鉾や月鉾ばかりが注目されがちだからな」

 ――意外と、大目に見てもらえた。

「どうして『鶏鉾』って名前なんですか? 竿のてっぺんに鶏がついてるんですか?」

「竿ではない。鉾の上に立っているのは、真木だ」

 今度はぴしりと注意されて、桃花は首をすくめた。

「ついでに言えば、真木の頂点は鉾頭という」

「トップオブホコですね」

「サミットオブフロートでもよかろう。サミットが頂点でフロートが山車だからな」

「詳しいっ。よく知ってますね」

「篁卿が、山鉾連合会のサイトを見せてくれた」

 悔しさのあまり、桃花は浴衣の胸元を押さえる。

「くっ……指南役として、篁さんに負けてはいられません」

「張り合うんじゃない。もう少し頑張って仏光寺通まで行けば、人通りが減るぞ」

 晴明が言った通り、烏丸通を南へ下がって細い道と交わるあたりまで来ると、ぶつかりそうなほどではなくなった。役目は終わったとばかりに、背中の後ろから晴明の手が離れていく。

 青い夜気に包まれた仏光寺通を西へ歩き、右へ角を曲がる。

 提灯の壁が現れた、と思った。

 縦長の提灯が連結された、駒形提灯だ。将棋の駒というよりは、天を向く矢羽の形に似ている。先端にあたる三つの提灯だけが赤い。

 こちらは真木ではなく松の木が立っているので、鉾ではなく山らしい。視線を下げれば、駒形提灯とは別に「白楽天山」と書かれた提灯を掲げている。

「道の真ん中なのに、山を建てちゃうんですね」

「祭りが優先だからな。白楽天山は学業成就の利益があるが、粽を買っていくか?」

「学業成就は晴明さんもいるから、粽なしでやってみせます」

「言ったな」

 晴明の言葉が笑いを含んでいて、桃花は誇らしい気分になる。

 さらに北へ進むと、しっとりしたお囃子が聴こえてきた。

「鶏鉾だ。平和を願う鉾のお囃子は、静謐だな」

 紫と金のペルシャ絨毯を前に飾った、きらびやかな鉾であった。鶏どころか、鳳凰と極楽鳥を足したようだ。

 真木の頂点には、白い二等辺三角形らしきものがついている。

「鶏じゃなくて三角ですね、鉾頭!」

「遠くて分かりにくいが、あれは三角の太鼓の中の丸い卵だ」

「どうして太鼓に卵が? 割れちゃうから叩けませんよ?」

「古代中国・尭の時代は、戦争を知らせる太鼓に鶏が卵を産んでしまうほど、太平の世だった……という逸話から来ている」

「いいですね、のんびりしてて」

「鶏鉾では授与品を買うと、鉾に上がってお囃子が聴ける」

「生演奏ですかっ?」

「当然だ。行くぞ」

 白いテントの軒先には提灯が吊られ、浴衣姿の女性たちが次々やってくる客の応対をしている。

 通りすがりの女性の注目を浴びながら晴明が選んだのは、鶏がえがかれた扇子と、法被の形にたたまれた手拭いだった。言われなければ、本当に人形サイズの法被かと思ってしまう。

「それ可愛い! わたしも」

 桃花は手拭いと、粽を買った。紅白の短冊に「蘇民将来子孫也」「御粽」と書かれたシンプルな意匠で、縦長の紙袋に入れてくれるので七五三の千歳飴を連想する。

「晴明さん、可愛い物好きなんですね。法被そっくりの手拭い」

「さあな。自分のためとは限らんが」

 どういう意味かと思ったが、今はしっとりした鶏鉾のお囃子を楽しむことにする。

 鉾に上がると、白と紺の浴衣を着た少年たちが横並びに座って、吊り下げた金色の鉦を鳴らしているのがまず目に入った。

 ――動きがシンクロしてる!

 プロだ、と思ってしまったが、お囃子を担うのは山鉾町の住民だ。よほどの練習を積んだのだ。横では大人の男性が、朱の組紐で彩られた太鼓を叩いている。


 ちりん、ちりん、しゃん。

 ふぃー、らあろ、らんらん、らあ。

 とん、と、とん、と、とんとんとん。

 ふぃー、ろおらあろ、ふぁ、ら、ら。


 薫る金色の羽毛が舞い降りてくるような、優しく穏やかなお囃子だ。彼らの揃いの浴衣に飛翔する鳳凰がえがかれているのに気づいて、微笑ましい気持ちになる。

 ――いいなあ。鶏鉾のお囃子。ずっと聴いていたい。

 道路から湧き上がってくる人々のざわめきが大きくなっている。

 混雑する下界に戻っても、平らかな心でいよう――と、桃花は思った。


 案の定、山鉾町の人波はすさまじく、桃花と晴明は室町通を北へ北へと流されてしまった。稚児の行方は杳として知れなかったが、晴明はまったく動じない様子だ。

「ちょうどいいな。篁卿が待っている店の近くまで来た」

 本当に都合が良さそうに言うので、桃花は一気に緊張がゆるんでしまった。帯をきつく締めていなければ、へなへなと近くの壁にもたれていたかもしれない。

「いい店らしいぞ。キュウリは無理だが」

 祇園祭は八坂神社の祭礼だが、神紋である「五瓜に唐花」がキュウリの断面に酷似しているため、祇園祭の期間中、関係者たちはキュウリを食べないのだという。

 そんな豆知識を晴明は教えてくれたが、桃花は心配になってくる。

「お呼ばれは嬉しいですけど、ごはん食べてていいんでしょうか……」

「腹が減っては祭りができぬ、と言うだろう」

「それを言うなら戦ですっ」

「ある意味似たようなものだ」

 妙な理屈を言いながら、晴明はさらに北へと歩きだす。幸い、腰の推古鈴は鳴っていないようであった。



 長い階段を上がってドアを開けると、絨毯を敷いた店内に静かな音楽が流れていた。小ぶりなテーブルやソファが並び、白い壁の脇にはアップライトピアノがある。

 バーカウンターの奥からは肉を焼くような音が、客席からは大人たちの落ち着いた談笑が聞こえてくる。

 さっきまでただなかにいた宵々山の賑やかさが嘘のようだが、額装されて飾られた日本画は紛れもなく長刀鉾だ。

 桃花は晴明に「未成年が入っていいんですか」と聞きたくなった。案内されたのだから、入っていいに決まっているのだが。

「いらっしゃいませ。お二人様ですか?」

 カジュアルなエプロンを着けた女性の店員が笑みかけてきて、桃花は安心する。

「永見篁と、待ち合わせを」

 晴明が簡潔に告げると、店員はすぐに「はい、あちらでお待ちですよ」と窓際の席を示した。

「お疲れ様です、お二人とも」

 白いシャツを着た、背の高い黒髪の青年が立ち上がる。

 閻魔庁第十八位の冥官、小野篁。永見篁の名で私立図書館を営んでいるのは仮の姿で、平安時代の官人であった頃から冥官として現世と冥府を行き来しているという。

 篁は、晴明を見てふわりと笑った。

「晴明様。浴衣姿がお似合いですが腹回りに手ぬぐいか何か入れておられますか。普段よりどっしり貫禄がある」

 篁は自身の平らな腹をたたいてみせる。どうやら男性も女性と同様、補正具が要るものらしい。桃花も実は、腰の細さを補正するためにタオルを巻いている。

「知らんな。跡を継いで隠居させてくれない部下のせいで、腹に鬱屈が溜まっているのかもしれん」

「継がないと言っているでしょうに、昔から。長期休暇で我慢してください」

 抗いつつも篁は、自分の対面にあるソファを「どうぞ」と指し示した。

「稚児に会った。長刀鉾のそばだ」

 晴明が篁の対面に腰を下ろしながら言う。桃花もうなずきながら隣に座る。

「会えましたか」

 縁無し眼鏡の奥で、切れ長の目が見開かれる。

「あれはやはり奈良から来たようだ。南都祇園会に縁ある者かと聞かれた」

 晴明が言うと、篁は深く首肯した。

「そうでしたか」

 ――二人とも、見当がついてたの? どうして最初から、奈良から来たお稚児さんだって分かるの?

 驚いているうちに店員が来た。桃花はしばし考えてからジンジャーエールを、晴明と篁は事前に打ち合わせていたかのように伏見の酒を注文した。

「この酒を選ぶということは、鱧を食べるおつもりですね晴明様」

「鱧の季節だからな」

 二人で伏見の酒を飲みながら、鱧を食べたことがあるのだろう。晴明は篁に対して冷たいが、付かず離れずの関係ではあるのかもしれない。

 晴明が先ほどの出来事を最後まで伝えると、篁は納得した風であった。

「法隆寺の推古鈴は魔除けとしてよく使われていましたね、奈良では」

 突き出しの小さなキッシュが運ばれてきた後、桃花は尋ねてみた。

「あの、どうして二人とも、お稚児さんは奈良から来たって推測できたんですか?」

「理由が二つある」

 ガラスの酒杯に満ちた酒を見つめながら、晴明が言う。

「まず、あの稚児が滋賀県や京都北部から来たなら、平安京サル会議が気づくはずだ」

 平安京サル会議。京都から見た鬼門、つまり北東を守る猿たちだ。それぞれ、京都御所を守ったり、日吉大社の神使であったりと大事な役目を担っている。

「それに、稚児の衣装に入っていた家紋だ」

「家紋? そこまで気づかなかったです」

「双葉楓に菊。二枚の楓の間に菊が一輪咲いている図案だ」

 楓に菊。まるで秋を象徴するような家紋だ、と桃花は思う。

 篁が「珍しい家紋ですよ」と話を引き継いだ。

「この家紋はおそらく、室町時代の奈良で勢力を持っていた武将で、南都祇園会にも参加していた古市氏のもの。謎の稚児は古市氏に縁のある存在ではないか……と、晴明様と話していたんです」

「奈良にも武将がいたんですか? わたし、お坊さんばっかりいるのかと」

「良い質問です。奈良では興福寺のような寺院や春日社のような神社が大きな権力を持ち、古市氏などさまざまな武将を従えていたのです」

「へえ……お坊さんが武将より強いなんて意外」

「武力組織も商人の集団も支配下に置き、方々に高利で銭を貸す。無敵でしたよ」

 晴明の言った通りだ。自分はまだ奈良を知らない。

「高校では習わないかもしれませんね。日本中世史ではおなじみの話題ですが」

 日本の中世とは確か、鎌倉時代と室町時代だったろうか。あとで教科書を読んでおこう、と桃花は思う。

 篁が晴明の盃に酒を注ぐ。晴明も黙って返杯をした。

「あの稚児をどう見ます、晴明様。人でも動物でもない気配はしたのですが、私にはそれ以上何とも」

「あれは付喪神だな。被っていた黄金の立烏帽子が本体だ」

「さすが晴明様、一瞥でそこまで看破なさるとは。せっかくご指名いただいておりますが、やはり私ごときが跡を継ぐなど言語道断、無理難題です」

「篁卿は韜晦が過ぎる」

 絶賛されたというのに晴明はさして嬉しそうな顔もせず、運ばれてきた鱧の落としに目をやった。白い鱧と赤い梅肉、青じその葉。ガラスの皿に盛られて、いっそう爽やかに見える。

「付喪神って、本で読んだことがあります。古い器物が化けた精霊ですよね」

 淡白な鱧の身を味わいながら、桃花は昔読んだ児童書を思い出していた。

 食器や巻物に手足が生えて、夜の京都を練り歩くのだ。

「よくご存じですねえ、桃花さん」

「あの付喪神は、推古鈴を見て私を南都祇園会の関係者と誤認して、寄ってきてくれたのだろう。狙い通りだ」

「え、晴明さん、初めから分かっててその鈴をつけてきたんですか?」

「さあどうだろうな」

 古代の奈良県北西部に生まれた推古鈴は、中世に至ると南都祇園会で御守りや装飾として用いられるようになったのだ、と晴明は言った。

「古市氏出身の稚児が被っていた黄金の立烏帽子が付喪神となり、『夜の南都祇園会』の一翼を担っていたのだろう。なぜ京へ出てきたのか分からないが」

 ――よ、『夜の』? もしかしてアダルトなお祭り? 単に夜開催なの?

「どうした桃花、箸が止まっているが」

「何でもないです」

「しかし、晴明様と話すつもりがないようですね。その付喪神は」

「心配するな、篁卿。呼び寄せる手立ては講じた」

 香味野菜を添えた鱧の薄造りを食べ終える頃、ドアの開く音がした。

「こんばんは」

 聞き覚えのある幼い声に、桃花は入り口を振り返った。浴衣を着た十歳くらいの少年が、あの稚児を連れて立っている。晴明がよく連れ歩いている式神の双葉であった。

「あら、お一人? 誰か、大人の人が後で来はるんかな?」

 女性の店員が双葉に話しかける。稚児の姿は見えていないようだ。

「ああ、すみません。私たちの連れです」

 篁が立ち上がり、双葉たちを戸口まで迎えにいく。その姿を見送って、桃花は晴明にひそひそ声で話しかけた。

「いつの間に双葉君を差し向けたんですか……」

「桃花が人混みに難儀している間だ」

「え、全然分からなかった。双葉君はどうやってお稚児さんを連れてきたんですか?」

「知らん。双葉に任せた」

 篁が双葉を連れてきて、自分の隣のソファに座らせた。双葉は桃花を見て、心得た様子で言う。

「わたしのあるじは陰陽師の安倍晴明さまで、今も奈良で陰陽師が仕事をしているのもご存じだと伝えたら、信用してくれました」

 ――奈良? 奈良にも陰陽師がいるんだ! しかも現役の。

 桃花が認識を改めている間に、晴明は稚児にささやいた。

「奈良に帰りづらければ、私も一緒にゆこうか」

 稚児はしばし目を泳がせたが、こくりとうなずいた。

「ただ、なぜ君がここにいるのか知りたい」

 稚児はうつむいた。両胸を見れば、確かに家紋が刺繍されている。二枚の楓に挟まれた、一輪の菊。

「我らの祭りの元となった、京の祇園祭と八坂神社を見とうて勝手に出てきてしまいました……」

「なぜ一人で」

 稚児はしばし黙っていたが、やがてもそもそと口を開いた。

「奈良の陰陽師に、止められたのです。何かあったらどうする、と」

「私でも止めるかもしれん。今の京は転変が激しい。人や物の熱気に押されて消えてしまう可能性がある」

 晴明がそっけなく言い、稚児はまたうつむいてしまう。古い器物の精といっても、心はきっと幼い子どもなのだと桃花は思う。

「奈良の陰陽師も、【都の果て】の衆も、怒っておるやも」

「私が取りなそう。もう休め」

 晴明は、鶏鉾の手拭いを出した。たたんだ法被そっくりの形に、稚児は興味を引かれたようだ。

「平和を願う鶏鉾の授与品だ。君にも平和がもたらされるように」

 手拭いを広げた晴明は、稚児の手をふわりと覆った。

 ――自分のためじゃなくて、お稚児さんのために買ったの……?

 桃花は思わずまばたきした。

 稚児の姿は消えて、晴明の膝には手拭いと、古びた黄金の立烏帽子が載っている。

「明日は奈良へゆこうか、桃花」

 立烏帽子を手拭いでくるみながら、晴明は言う。桃花が断らないと確信している。

「行きますけど、何が起きているのか分からないです。その……『夜の南都祇園会』も、【都の果て】も何なのか分からないし」

「途絶した南都祇園会を継いで『夜の南都祇園会』を始めたのが、【都の果て】。奈良にある、神とあやかしたちの自治都市だ。彼らが主催なので祭りは夜行う」

 新たな情報の多さに、桃花は「えっと?」と困惑した。

「中世に奈良でも祇園祭が始まった、って話は人混みの中でちょろっと聞きましたけど……どうして途絶えちゃったんですか?」

「戦だ。南都祇園会の参加者である奈良の武将同士の戦が続くうちに途絶した」

「戦って、どうして……」

「舞車の順番争いだ。山鉾に似た、舞車というものが南都の祇園祭にはあった」

「ありましたねえ」

 篁が苦々しげな表情になる。

「各武将が治める地域ごとに舞車を出して、くじで巡行の順番を決めていたんですが。結局くじの結果に納得せず、戦で勝った地域が一番になったんです」

「くじの意味がないですね……」

「言っただろう、桃花。祭りも戦もある意味似たようなものだ」

「せいめいさま。蟷螂山の、かまきりが見とうございます」

 双葉がぽつりと言った。

「蟷螂山の屋根のうえで、からくりのかまきりが動くのです」

「よかろう」

 晴明の返事に、双葉は笑みを見せる。主に負けず劣らず、双葉も現世を楽しんでいるようであった。



 近鉄奈良駅から騒がしいアーケードを抜けて南の方に来ると、急に静かになった。道の幅は狭くなり、古い町家がちらほら目に入る。

「晴明さん、ここはかき氷の町ですかっ?」

 桃花は胸の高鳴りを覚えながら聞いた。

 静かな町のあちこちに、「かき氷」の貼り紙や吊り看板がある。

 そして、赤い饅頭に白い小さな饅頭を載せたような「身代わり猿」が、家々の軒先に連なっている。奈良町で大事にされている厄除けの御守りだ。

「桃花。奈良町、と言っただろう」

「覚えてまーす。興福寺の南側にある、中世から江戸時代に栄えた町ですよね」

「よろしい」

 古い町家や寺社が残るこの奈良町のことは、春に知った。

 奈良町から京都へやってきた括り猿たちが、平安京サル会議で取り上げられたのがきっかけだ。

「かき氷の店が多いのは、おそらく近くに氷室神社があるからだ」

「あっ、氷の神様ってことですね」

 冬の間に氷を保存しておく穴を氷室と呼ぶ。京都市北部の山の中にも氷室が残っているらしい。

「小さな神社や、地蔵堂が残ってますね……。ここに今も陰陽師がいるんだな、っていう気がします」

「奈良にただ一人だがな」

「たった一人? 人手不足を通り越してワンオペじゃないですか。何でまた」

「昔は、陰陽師の血筋がいくつも続いていたのだが……力を持つ者がだんだんと生まれなくなった」

「奈良でただ一人の陰陽師って、さびしくないんでしょうか」

「噂では、若いが祖父の跡を継いで立派にやっているらしい。それに奈良町の陰陽師は住民に頼られている。無暗に心配しては非礼にあたる」

 奈良の陰陽師に、敬意を払っているらしい。同じ古都だからだろうか。

 細い路地を幾度も曲がる。ふと左を見れば、屋根瓦のはるか向こうに見慣れた大文字があるではないか。

「晴明さん、奈良の山にも大文字が! どうして?」

「おお」

 初めて見たらしく、晴明が感心したような声を上げる。

「第二次大戦後に、戦死者を弔うために作られた大文字だ。あれも八月十六日に火を灯すのだと他の冥官に聞いたことがある」

「……悲しい理由だったんですね……面白がってしまいました」

「気にするな。京でも奈良でも、送り火は生きた人間も死者も楽しませてきた」

 京の歴史を思い、桃花はしんみりとする。飢饉、洪水、戦乱、疫病、火災。山に囲まれた京都盆地に、どれほどの死者があふれたのだろう。

 ――遠いようでつながってるのかな。同じような夏のお祭りがあって、京都には平安京サル会議がいて、奈良には厄除けの括り猿がいて……。

 二つの古都に思いを馳せていると、違和感のある光景が目に入った。

 ――カブトムシのでっかいおもちゃ! プールや海で遊ぶあれ!

 正面に建つ古い家の瓦屋根に、中型犬ほどのカブトムシが乗っている。

 ――浮き輪、じゃない、フロートだっけ。屋根で干すとよく乾くんだな。

 納得しかけたが、巨大カブトムシがぞわぞわと足を動かすのを見て「うぎゃ」とうめいた。

「せ、清明さん。虫! 虫?」

 いや昆虫ではないだろう。声を引きつらせる桃花のこめかみを、晴明は軽くつつく。

「落ち着け」

 ――で、でも、右から猫ちゃんとおねえさんが来ますよ?

 巨大なカブトムシは瓦屋根から降りようとしている。そして軒先には、ホットパンツを穿いた若い女性が黒猫を連れて歩いてくるところであった。

 ――なぜ止めないの? ひょっとしてあの黒い猫ちゃんに、すごい力が?

 桃花の予想は、少し外れた。

 瓦屋根からブロック塀に降りてきた不気味なカブトムシの角に、女性が無駄のない動きでアッパーカットを放ったからだ。

 夏の太陽にカブトムシの外骨格が光る。女性の細い脚が躍動し、白いスニーカーが舗装路に着地する。巨大なカブトムシは腹を見せて墜落した。

 ――ええと今、おねえさんが、倒したよね?

 現実だと確かめるために、桃花は耳を引っ張ってみる。痛い。現実だ。

「だ、大丈夫ですか……そのカブトムシ、触っちゃって……いや、カブトムシ?」

 晴明がそばにいる安心感も手伝って、桃花はつい、女性に話しかけていた。

 女性がこちらを向く。つややかな髪が風に吹かれ、おしとやかな顔立ちがあらわになった。年齢は二十一、二歳だろうか。首に華奢なネックレスが光っている。

「あっれー……。あなた、あやかしが見えるのかな?」

 まいったな、といった風情で女性は言った。

「誰も見てないと思ったのになー。うっかりうっかり」

 てへへ、と言わんばかりに女性は微笑する。可愛さと大技のギャップが、怖い。

「晴明はん、えらいご無沙汰やったなぁ」

 威勢のいい声を発したのは、女性の足元にいる黒猫だった。

 ――え、え、猫ちゃんが女の子の声を出したっ。

 桃花は目を回しそうになる。女性も黒猫も、黙っていれば単なる「美人さん」としか思えないのだが。

「こんな雑魚は、うちの肉球で充分や」

 地面でのたうつ巨大カブトムシを、黒猫が前足で一打ちした。

 三度ほど身じろぎして、巨大カブトムシはほろほろと崩れ去っていく。

「奈良町に溜まった、夏の瘴気や。『夜の南都祇園会』で、祓ったらなあかん」

 猫パンチを放った肉球を、黒猫はぺろぺろと舐めて手入れしている。

「墨香。奈良駅周辺に観光客が増えているようだな」

「せやな。来てくれはるのはええけど、どうにも瘴気が溜まりやすうなってんねん」

 五月に京都市と滋賀県の境界で起きたのと同じような危機が、この奈良にも迫っているらしい。

「ゆかりちゃん、ごめんやけど、抱っこしてや。挨拶しやすいさかい」

「はいはーい」

 ゆかりちゃんと呼ばれた女性は、墨香のしなやかな肢体をひょいと抱き上げた。

「ふふ、晴明さんだなんて、まるで安倍晴明みたいなお名前ですねえ」

「本人やで、ゆかりちゃん。会社員みたいなかっこやけど」

 墨香に言われて、ゆかりは口を大きく開ける。

「大変失礼しました!」

 ゆかりが深くお辞儀したので、腕の中で墨香が「むぎゅ、胸が」と声を上げる。

 わあ、胸――とどきまぎした桃花に対して、晴明は平然としたものだ。

「しかし久しぶりだな、墨香」

「せやな。晴明はんは、ながーい休暇、もらわはったそうやなぁ。閻魔様から」

 ゆかりは「わ、閻魔様の部下? すごい」と目を丸くしている。順応が早い。

「晴明はん、礼を言わせてもらうわ。ええもん持ってきてくれたやないか」

 黒猫はきらりと鋭く山吹色の目を光らせた。晴明の手には、風呂敷で包まれた金の立烏帽子がある。

「墨香、あまり叱らない方がいい。京の騒がしさに怯えていたようだ」

 ピンク色の口を大きく開けて、墨香は「くああ」とあくびをした。

「うちは、齢四百年の奈良の猫又やで。金烏帽子より若いとはいえ、きつう叱らねば示しがつかんのや」

 ――きれいな黒猫さんなのに、漫画の悪役みたいに怖い。

 桃花がどきどきしていると、墨香がこちらに首を向けてきた。

「こちらのお嬢ちゃんは?」

「隣の家の高校生で、桃花という。現世での指南役だ」

 ゆかりの腕の中で、墨香はひげをぴんと跳ね上げる。

「若い先生やな」

「帰りに奈良町のかき氷を食べさせようと思って連れてきた」

「それが理由だったんですか? 何かお手伝いできるかと思ったのにっ」

 ショックを受けていると、墨香が「うにゃん」と鳴いた。

「桃花ちゃんは、かき氷嫌いなんか?」

「いえ、甘いものは何でも好きです」

「ほな、後でおいしいとこ色々教えてあげまひょ」

 ゆかりが「うんうんっ」と墨香に同調する。

「わたし、この近くの女子大でタウン誌作ってるんだ。奈良町でかき氷食べられる店は網羅してるから任せて」

「ゆかりちゃんは、奈良の陰陽師の幼なじみや」

 墨香が紹介すると、ゆかりは「よろしく」とほほ笑む。

「陰陽術は使えなくて、あやかしを殴れるだけなんだけどね」

 充分強いと桃花は思い、口を開けて「すごいですね」と感嘆する。

「あとで案内をお願いするか、桃花」

「お願いしますっ。……でも、大変な時に、お邪魔じゃないですか……?」

「大丈夫、こうしてお二人が金烏帽子さんを連れてきてくれたし、奈良町には陰陽師がいるから」

 絶大な信頼を寄せているのが感じられる言葉だった。

 ――わたしが、晴明さんがいれば大丈夫って思っているのときっと同じだ。

「ほな、シノブの家へ行こ。シノブを喜ばせたらなあかん」

「シノブ、心配してたもんね。金烏帽子さんのこと」

 風呂敷に包まれた金烏帽子を、晴明の大きな手が優しく撫でた。



 京都で言えば西陣に似た、町家の目立つ路地を歩いていく間に、桃花は不思議の国に入りこんだ気分になっていた。

 神やあやかしの存在が身近なのは京都も同じだが、この奈良町は一味違う。

 墨香を抱いて歩くゆかりに、地元の住人らしき人々が声をかけていくのだ。

「ゆかりちゃん、うちのお祖父ちゃんが今年初盆やねんけど、お供えどんなんがええか迷ってんねん。シノブ君、こういう相談も乗ってくれはるやろか?」

「いいと思いますよー。お店の方に来てくれたら、本人がいなくてもご両親が聞いておいてくれますし」

「そやなぁ。水ようかん食べたいし、近いうち行くわぁ」

 若い女性が料理のコツでも聞くような気軽さで話しかけ、ゆかりも同じ調子で答える。奈良の陰陽師・シノブは、奈良町で頼られる存在であるらしい。

 しかも、生活に密着している。陰陽師への依頼と水ようかんが、この奈良町では同等の日常性を保持しているのだ。

 お年寄りが、手を振りながら歩いてくる。

「ゆかりちゃん、シノブ君の御守り札、めっちゃ効いたわぁ。怖い夢見ぃひんくなったわ」

「良かったですねえ。シノブも喜びます!」

 ゆかりの後ろを歩きながら、桃花は晴明にこそっと話しかける。

「陰陽師が、めっちゃ馴染んでますね……」

「『奈良には奈良の不思議あり、奈良町に陰陽師あり』。奈良町は陰陽師の住む町だったので今もそう言われている」

「晴明さんも、昔の奈良町に来たことがあるんですか?」

「ああ。昔、ずっと昔にな」

 十年や二十年の昔ではないのだろう。

 小さな子どもたちが「あ、シノブ君ちの猫だー」と墨香を撫でていき、さらにしばらく歩くと白い麻の暖簾がはためく町家があった。

「ここが『くすば菓子店』やで。うちは一応猫やさかい、売り場やお台所は通らんようにしてんねん。遠回りや」

 墨香は桃花に説明すると、ゆかりの腕から一階の屋根へ跳躍した。二階の窓を器用に前足で開けて、中に入っていく。

「さすがは猫又の跳躍力だ」

「墨香ちゃんはパンチもキックもすごいんですよ。こんにちはー」

 ゆかりが暖簾をくぐる。桃花は玄関脇に掲示された名刺大の板に気がついた。

『奈良の神仏、怪異に関するよろず相談事承ります』とある。

 縦に連なった「厄除け猿」や小ぶりの額縁に納まった商品一覧の方が目立つので、気づく観光客はあまりいないだろう。

「いらっしゃいませ」

 白い作業着と縁なし帽子を身に着けた、菓子職人らしい中年男性が一行を見た。

「ゆかりちゃん。雰囲気的に、お菓子とちゃう方のお客さんやね?」

「はい、京都から、金烏帽子さん連れてきてくださって」

「そらどうもありがとうございます! 菓子職人なんで、帽子被ったまんまですんません」

 中年の男性が頭を下げる。ここの店主のようだ。

「おじさん、この方、安倍晴明さんですって。陰陽師の」

「ふぁっ! ほんまか、ゆかりちゃん!! 安倍晴明さまが」

 店主は両手で帽子を引っつかみ、脱ぎ捨てかねない勢いだ。

「そのままでいい。普通にしてくれ」

 晴明に声をかけられて、店主は「へい」と苦笑する。

「せがれは裏の座敷で厄除けのお札作ってまして散らかってますけど、どうぞお入りください」

 ――店主さんは、陰陽師のお父さんなんだ。菓子職人って言ってるけど、陰陽術がどんなものかは知ってるみたい。

 座敷へ通じる暖簾へ向かいつつ、桃花はまだ面食らっていた。

 晴明や篁が普通の人間を装って京都で暮らしているのと違って、奈良町ではいともすんなりと陰陽師の存在が受け入れられている。

「シノブ、お客さん。金烏帽子さんも一緒だよ」

「ありがと」

 座卓に向かってお札らしきものを書いていた青年が顔を上げる。

 サラサラした前髪と、緑がかった瞳が爽やかだ。やや細身な体型と相まって、桃花は(シュッとしたおにいさん)と思った。

「陰陽師の安倍晴明はんと、隣に住んではるお嬢ちゃんや。休暇もろてはるって、前に言うたやろ」

 墨香が座敷に上がってきて、二人をシノブに紹介した。

「わあ、初めまして」

「何で冷静やねん。陰陽師の安倍晴明て言うたやろ」

 墨香の問いかけに、シノブは「あはは」と気の抜けた笑いを漏らす。

「父さんの叫びが聞こえたから、心の準備ができただけ。さ、どうぞ、どうぞ」

 奈良でただ一人の陰陽師は、桃花が想像していたよりも腰の低い青年であるらしい。座敷の隅に積んであった座布団を、五人分まとめて持ってきてくれた。晴明と桃花とゆかり、そして墨香と、風呂敷に包まれた金烏帽子の分だ。

「シノブ、こっちにちょうだい」

 ゆかりがシノブの腕の中から座布団を一枚一枚取って、座卓の周りに置いていく。

 息の合った様子に、(もしかして恋人同士?)と桃花は思った。

 おしとやかな顔立ちに可愛さと活発さも併せ持つゆかりとは似合いのカップルに思えて、うらやましい。

「晴明様。南都の仲間を連れ帰ってくださって誠にありがとうございます。奈良町の陰陽師・楠葉志乃夫として、深く御礼申し上げます」

 シノブが畳に手をついて深々と礼をすると、晴明も同様に頭を下げて応えた。

「こちらこそ、楠葉家のご子孫に会えて光栄に思う」

 晴明が、卓上に置かれた一冊の本に目を移す。

「しかも、この本の著者のお孫さんだと聞いている」

 本の背表紙には、『近代陰陽道研究の理論と実践』とある。

 いかにも難しそうで、桃花はさらなる羨望の視線でシノブを見た。

「うーん、世間一般から見るとマニアックというか、近代の陰陽道って時点で歴史学者からも顰蹙を買っちゃうかもしれない本ですけど」

 挨拶の口上は特別だったのか、シノブの口調と表情が一気にくだけた風に変わる。

「でも、祖父の著書を知っててくださって嬉しいです。奈良の陰陽師として何かを遺そうとしてたと思うから」

 言葉の通り、シノブは嬉しそうだ。

 お祖父ちゃん思いなんだな、と桃花はしんみりする。

「晴明様は、どちらで祖父の著書を知ったんですか?」

「何年か前に、部下の経営する図書館で借りた」

「え、置いてくださってる図書館があるんですか。ありがたいです」

 意外そうにシノブは言った。

「……お邪魔します。粗茶ですが、どうぞ……」

 今度は、シノブの母親らしき女性がガラス器に入った緑茶に干菓子を添えて持ってきた。器が小刻みにカタカタと震えている。

「母さん、普通に、普通にね」

 シノブが立ち上がって、母親の腕に手を添える。ふ、と母親の肩から力が抜ける。

 呪符も呪文も使わなかったが、陰陽師・安倍晴明の来訪に緊張する母親を、一瞬でリラックスさせてしまった。すごい人だと桃花は絶句する。

「おばさん、ありがとうございます」

「ゆかりちゃん、こんにちはー。うちの息子、就活の邪魔してへん?」

「だーいじょうぶ!」

 シノブの母親とゆかりが手分けして、茶器と干菓子の皿を置いていく。桃花は(ご両親公認の仲だ、すてき)と内心で勝手に盛り上がった。

「良かったやないか、シノブ。天竺どのも喜ばはるわ」

「あー、ご先祖様ねえ。『原点である僕の本も読まれるべきだ』って言いそう」

「天竺どのとは、天竺ムスルどののことか」

 シノブと墨香との会話に、晴明が反応した。

「あ、はい。奥さんと一緒に【都の果て】で元気にやってます。神様になっちゃったので、元気ってのもちょっと変ですけど」

 ――え、え? 先祖が神様でお祖父さんが陰陽師? シノブさんて……。

 サラブレッド、というある意味無遠慮な言葉が思い浮かぶ。

 奈良には、京都とはまた違う奥深い世界があるようだ。

「桃花。日本史の用語集に、おそらく楠葉西忍という人物が載っている」

「は、はい。今のとこ知らないですけど」

「若い頃の名は天竺ムスル。今で言うイランから渡ってきた異国人を父に持つ、商人にして妖術使いだ」

 ――あっ、だからシノブさんの瞳、緑がかってるんだ。

「奥さんは、奈良の武将の立野氏出身だよ。室町時代のご先祖」

 シノブが言葉を添える。

「は、はい……。大陸から渡来してきた人、奈良時代にもいたって習いました」

 答えながらも桃花はとまどっていた。

 ――どうして、あのお稚児さんがそっちのけなの? さっき、南都の仲間を連れてきてくれてありがとうって、シノブさんお礼言ってたのに!

 シノブは先ほど奈良の武将を話題にしたが、同じく奈良の武将である古市氏ゆかりの付喪神が、元の姿に戻って風呂敷に包まれ、座布団の上に置かれているのだが――。

「われが悪かった、シノブどの」

 しょげた声が、風呂敷から聞こえた。

 シノブがにっこりと笑って、風呂敷に包まれた金烏帽子を見た。ただし、無言で。

「勝手に出て行って、申し訳なかった……」

「もー。シノブ、謝らせてあげずに別の話をしてるなんて、いけずっ」

 ゆかりが叱ったので、桃花はシノブの真意を悟った。

 奈良を出て行った付喪神が自分から謝るように、わざと話題をそらしていたのだ。ゆかりの言う通り、意地悪をしているのだろうか。

「わざといけずしたんじゃないよ。おれも、どう切り出していいか分からなくてさ」

 シノブが腰を上げ、金烏帽子のそばに膝をついた。

「晴明さん。風呂敷をほどいてもいいですか」

「ああ」

 ゆるい結び目をシノブの手がほどく。座布団に風呂敷と、鶏鉾の手拭いが広がる。

 黄金色の立烏帽子がふうっと浮き上がったかと思うと、あの稚児がシノブの首にしがみついていた。

「おいおい、ちっちゃい子か君は。実際、稚児の姿だけど」

 そう言うシノブも、幼子をなぐさめるかのように稚児の背中を両手で支えている。

「心配したんだよもう、ご先祖様は『現代の京で金烏帽子が消えてしまうならそれまでの縁だろう』なんて恐ろしいこと言うしさぁ」

 墨香が長いしっぽを振り回した。

「天竺どのはツンデレやさかいに。優しい割にえげつない台詞を挟んできはんねん」

「墨香ちゃん、いつの間にそんな現代語覚えたの」

 ゆかりが笑って墨香を撫でた。晴明がこちらを振り返る。

「桃花、ツンデレとは何だ」

「ツンとして冷たいけどたまにデレッと甘く接してくれる人、って意味らしいです」

「忙しそうな性格だな。よく分からないが」

 わいわいがやがやと周りが話している間も、金烏帽子の稚児はシノブの首からいっこうに離れようとしない。

「京の祇園会は、今も行われておって、楽しみにされておる。うらやましゅうてならんかったのです」

「うらやましいのに、悔しいのに、わざわざ見に行ったのかぁ」

 子どもをあやすような調子でシノブが言う。

「見て、どうだった?」

「……やはり、生きた人間たちに見てほしい……」

「おれと、ゆかりだけじゃ嫌かな?」

「申し訳ないが、人数が少ない」

 稚児の言葉に、シノブは苦笑した。

「そっかあ。うーん、百人くらいでもいいかな?」

「百人なら、嬉しい。舞車や楽に、心浮き立たせてほしい」

「そっか。よいしょ」

 稚児を膝から下ろして、シノブは書きかけの札を手に取る。

「どないするんや、シノブ?」

「このお稚児さんの願いを叶えるんだよ。『夜の南都祇園会』を、百人の人間に見せる」

 稚児が、ばね仕掛けのように飛び上がった。

「できるのかっ」

「ただし、夢の中限定でね。おれが実際に見たものを、眠っている人間に見せる術があるんだ」

「まことに? やってほしい」

 稚児が前のめりになる。

 桃花は、ゆかりの眉がぴんと上がって精彩に満ちた表情になるのを見た。まるで、シノブがそういう術を使いこなせると知っていたように。

「南都祇園会が行われる東大寺付近……つまり春日山のふもと周辺に、たくさんゲストハウスや旅館があるからね。一軒あたり十人くらい、夢で『夜の南都祇園会』を見てもらおうよ」

 金の烏帽子を激しく上下させて、稚児がうなずく。

「ありがとう、シノブどの。われを、許してくれて」

「んー」

 シノブは札を床に置いて、干菓子を一つ口に放りこんだ。

 それが溶けてきたであろう頃、「あのね」と語りだす。

「『うらやましい』という気持ちが、京都へ行ったことで『生きた人間に見てほしい』という具体的な望みに変わったからさ。君の家出も、無駄じゃなかったと思う」

 稚児が目を見開く。ゆかりが、いとおしそうな表情をシノブに向けた。

「シノブは甘いねん。ま、うちも同感やけどな」

「へへ、墨香さんもおれと同じ気持ち?」

 抱き上げようと伸ばされた手を、墨香は前足でパシリと打った。

「うちはお目付け役や。抱っこなんぞされてたまるかい」

「あああ、爪、爪が手の甲にヒットした……」

 シノブが悲しげにみずからの手をさする。労わるように稚児がその身に寄り添った。

 うらやましかった、という稚児の心が、桃花にはほんの少し分かる。

 ――晴明さんとわたしは、世を忍ぶ仮の姿でないといけないもんね。

 もう長年気持ちが通じ合っているような、シノブとゆかりの仲もうらやましい。

 ――あ、わたし今、うらやましさで怖い顔になってるかも。

「どうした桃花。正座がつらいなら崩していいと思うぞ」

 晴明がいつもの調子で言うので、桃花は穴の開いた風船のようにしゅるしゅると力が抜けて、やっと足を崩したのだった。



 七月も下旬に入った頃。動画サイトに、二人の大学生による動画が投稿された。

「奈良の祇園会闇夜に踊れ」と名付けられたその動画には、不思議な出来事を語るキャプションが付けられていた。

《奈良へ旅行に行ったら、仲間同士で同じ夢を見ました。夜の奈良で、あやかしたちが祭りをする夢。一緒に動画投稿やってると、こんなシンクロも起こるのかな》

 背景画は、鹿の群れる夜の東大寺門前。あるいは、闇に浮かぶ春日大社の大鳥居。

 やいやいやい、ほいほいほいと声を上げて練り歩くのは、花傘を振り回す大蜘蛛、黄金の鉾を掲げた武士や僧侶たち。

 山車には金色の冠をかぶった稚児が乗り、袖を広げて舞を舞う。

 白い狐の面をかぶった女たちが、紅い灯籠を手にして踊る。

 笛や太鼓の音、そして歌声はデスクトップミュージック。つまり合成音楽だ。


 奈良の祇園会 踊れや踊れ

 南都祇園会 厄よ来い 春日のお山が喰うてやる

 奈良の祇園会 闇夜に踊れ……


 可憐な少女の声と陽気な音楽で展開される禍々しくも力強い動画は、夏祭りの狂騒にふさわしいものとしてネット上に拡散した。

 面白いな、と思った桃花は、授業の合間にノートパソコンで動画を見せてみた。

 晴明の感想は、「あちこち違うが、愉快でよろしい」というものであった。


第十一話・了