【prelude】


 初めてその名前を聞いたのは、大学二年の長い夏休みが終わったころだったと思う。

 受験予備校時代からの悪友である大貫が、ずいぶんと得意げに語っていた。

「声を無くした少女、と書いて『無声少女』」

「新しいアイドルか何かか?」

「まあ、アイドルっちゃアイドルかな。ネット限定だけど」

 聞かれてもいないのに大貫は滔々と語り出す。無声少女は動画サイトで一世を風靡している人気動画で、そこには十代と思しき可愛い女の子が出てくること。再生数はすでに五百万を突破したこと。無声少女という呼び名はネットで広まった通称で、動画をアップロードしている少女の正体は謎に包まれていること。

 このとき僕は、公務員試験対策の参考書を読むのに忙しくて、彼の話は右から左に聞き流していた。だいたい、大貫は巷で流行っているものにすぐに飛びついて熱狂する。確か先月は大ヒットした恋愛映画を熱烈に薦めて来たし、その前は芸人の一発芸を何本も送りつけて来た。

「永瀬はもうちょっと興味の幅を広げないと、誰とも話が合わないぞ」

 ぽんぽんと大貫が偉そうに僕の背中を叩く。付箋に書き込もうとした字が歪む。

「あんまり邪魔すると今度のローマ法、手伝わないからな」

「いやいやいや、学食でチャーシューメンおごったろ」

「あれは前期のレポートの対価」

 そこで甲高い着信音が鳴り、大貫は「おっと、新作がアップされたぞ」と楽しげにスマホを操作し始める。

 講義室に教授が入ってくる。

 僕はローマ法のテキストを城壁のように机に立てると、公務員試験の参考書にアンダーラインを引いた。


 一時間も経つと、午後の講義室は気だるい空気で満たされていた。

 居眠りをする者、スマホをいじる者、僕のように内職をする者。四百人を収容できる大講義室で、八割はまともに講義を受けていない。そんなマンモス大学にありがちな風景の中で、教授もぼそぼそとテキストを朗読する。

 陰鬱な子守唄のような講義に耐えつつ、あくびを噛み殺して参考書に向かい合う。しかし、人間は環境に左右される生き物で、周囲の学生の眠気が集団催眠のごとく僕の意識まで侵食し始めていた。隣の大貫はスマホを握り締めたまま机に突っ伏していびきを掻いている。

 ――声を無くした少女、と書いて『無声少女』。

 講義が始まる前、彼から聞いた話を思い出す。無声少女。五百万再生。ネットで話題。

 ポケットからスマホを取り出し、電源を入れると、予想したとおりに大貫からメールが届いていた。『無声新作』という注釈とともに動画サイトらしきアドレスが貼り付けてある。

 スマホにイヤホンをつなぎ、画面のアドレスをクリックする。大手動画投稿サイトのロゴが目に入ると、念のため通信をWi-Fiに切り替える。

『#16 海の底のボトルレター』

 歌のタイトルらしき名前と、脇にずらりと貼られた関連動画。どれも再生数が百万を越えており、この『新作』もすでに二十万を越えている。大貫の言うとおり、かなりの人気らしい。

 赤い三角形をタップすると、再生が始まる。業者の広告動画を飛ばすと、それは始まった。

 まず、少女が映った。さらりとした黒髪を胸の前に流した、見たところ十代なかばくらいの少女。白いシャツに淡い桃色のカーディガンを羽織り、胸には小さなリボン。背景にはクリーム色の壁に同じような色合いのカーテンが揺れ、窓の手前にはヨーロピアンな感じの座椅子が置いてある。全体として上品な、落ち着いた雰囲気。紺碧の瞳はハーフなのか、カラーコンタクトか。確かに綺麗な子だ。

 そこで僕は異変に気づいた。

 少女はこちらをまっすぐ見つめ、何かをしゃべっている。しかしそれは口パクのように唇が動くだけで、音声は何も聞こえない。ボリュームを上げる。しかし口パクは続く。

 あ、そうか。

 声を無くした少女、という言葉を思い出す。声が入っていないから『無声』。大貫の説明が一周回ってやっと腑に落ちる。しばらくしても音声が出る気配はなく、これではイヤホンをつけた意味がまるでない。

 やがて、画面の中の少女は、すっと姿勢を正して歌い始めた。歌だ、と分かるのは雰囲気からで、胸の前で手を組みながら唇を動かす仕草は、どこか教会に祈りを捧げる聖女を髣髴とさせる。

 しかし、再生して一分が過ぎたころ、僕は早くも飽き始めていた。音声が入っていない動画は、当然ながら静かで、抑揚が無くて、味気ない。少女が綺麗なのは認めるが、じゃあ他のアイドルと比べて飛びぬけて美人かと言われるとそこまででもない気がする。

 そう思って、スマホを切ろうとした瞬間。

 気配が変わった。

 曲調が変わったのか、それとも歌詞の関係か。序盤は澄ましていた少女の表情が、どこか切なげになり、身振りや手振りも情感の込められたものに変わる。

 思わず息を呑む。少女はさらに躍動する。撮影中のカメラに近づいたのだろうか、おもむろにその姿が大きくなり、その白い顔が間近になり、揺れる髪の毛の一本一本が見分けられるまでになる。

 すごい、と思った。声がまったく入っていないのに、少女が何かを訴えていることが如実に伝わる。『海の底のボトルレター』というタイトルの意味が、少女の声無き声から情景を伴って浮かび上がってくる。それは読まれることのない、暗い海の底に流れ着いたメッセージ。誰かが誰かに宛てた哀しい報せ。そんなイメージが、まるで怒涛のごとく僕の胸中に浮かんでは消えた。

 少女は歌い終えると、また元の澄まし顔に戻った。そして長い黒髪を下げて深々と一礼すると、そこで動画が終わった。

 息を止めていたことに気づき、痛いほど鼓動が高鳴っている。

 体が熱い。

 気づけば僕は、また再生ボタンを押していた。

 少女が映る。

 歌が始まる。

 そして僕は――


 彼女の虜になった。



第一章 永瀬英治



【動画をアップロードしました!】

 お知らせが表示された瞬間、指は反射的に動いた。

 画面をタップし、さっそく動画を再生する。『#20 崩れた崖の向こう岸』というタイトルが冠された新作を、貪るように視聴する。もっとも、声は入っていないので、視聴という言葉は正確ではないのかもしれない。

 スマホの中で、少女は哀切を込めて歌う。長い睫が伏せられ、哀しみに沈んだかと思うと、徐々に情熱を取り戻すかのようにその顔は熱を帯び、クライマックスへと繋がる。細くて長い両腕を広げた姿は飛翔する白鳥のごとく画面を覆い、僕の瞼の裏にはタイトルにある『崩れた崖の向こう岸』に向かって飛び立っていく主人公の姿がありありと浮かび上がる。彼女の歌はいつもそうだ。声はなくとも、その圧倒的表現力で僕を歌の世界に引きずり込んでしまう。

 聞き終えると、大きく息を吐き、僕はスマホを握り締める。そしてわずかな余韻を楽しんだあと、また新作を再生する。どんな新作もその日のうちに十回は聞き直すし、バックナンバーについてはこの一ヶ月で百回以上はリピートしただろう。

『新作見たか!? 今回も良かったな!!』

 SNSでメッセージを送ると、すぐに大貫から返事が来る。

『はえーよ! 俺まだ見てねーし!』

『早く見ろ! 遅いぞ!』

『俺はアテレコ出そろってからが本番なんだよ』

『サイレントの良さが分からんやつはニワカ』

『俺より後にハマッたくせによく言うぜー』

 やりとりを終えると、学食のラーメンをちゅるるとすする。もちろんトレーの脇にはスマホを配備し、その中では美しい少女が音の無い声で歌い続けている。最近は何をするにもすぐそばで彼女が歌っている。まるで音声のないBGM。

 この一ヶ月、無声少女のことをいろいろと調べてみた。動画には大別して二種類あり、一番最初に『無声少女』本人がアップロードした作品が『サイレント』と呼ばれる。これは無声映画で使われるサイレントと同じ意味で、音声が入っていない静かな動画、という意味だ。

 そして、サイレントと対比して使われるのが『アテレコ』。これは音声のないオリジナル画像に『声』を当てて、ユーザー側が勝手に作るファンアートのような作品。ちょうど洋画の吹き替えなどで、俳優の演技に声を当てるレコーディング風景があるが、あれをイメージして付いた名称らしい。

 元々、オリジナルの無声少女シリーズには一切の音声は無い。だからアテレコをしてファンそれぞれが勝手に『声』を当てて楽しむというのが主流になっている。放送されたアニメ声優の音源が使われることもあれば、市販の音声合成ソフトが使われることもあり、ネットでは無声少女のアテレコ動画が何万単位でアップされて人気を博していた。アメリカ合衆国大統領の過去の演説を音源にしたアテレコは、全世界で数百万再生となり、先月にはワシントンタイムズ紙が取り上げたりもした。その人気は今や国際的な広がりを見せていると言って良い。歌だけではなく、無声少女作品に含まれるMCのような『語り』部分の映像も活用され、バーチャルユーチューバーのように無声少女に雑談や漫談をしゃべらせる動画も現れている。

 これら一連の派生動画は、当初は少女本人の肖像権との関係が物議を醸したこともあった。しかし、無声少女本人が相変わらず新作をアップし続け、アナウンスもクレームも一切ないために事実上の黙認と受け取られている。

 そういうわけで、無声少女ユーザーは『アテレコ』のほうの作品群を楽しむ層が大半だった。しかし僕はもっぱら『サイレント』と呼ばれるオリジナルの作品群のほうを好きで見ている。確かによく出来たアテレコは見ていて面白いが、どうしても『物まね』感が拭えない。プロの歌手の歌をどんなにうまくはめ込んでも、本物の無声少女の表現力には到底及ばない気がするのだ。違う、そうじゃない、本当の彼女はもっと美しい声で、もっと力強い歌詞で歌い上げるはずだ――どうしても僕にはそう思えてしまうのだ。体のパーツが失われたミロのヴィーナスやサモトラケのニケが、そのままの姿で美しいように、無声少女の姿は声が失われたままでも美しいと思えた。そこに他人が勝手に何かを付け加えても、それは野暮であり、蛇足なのだ。

 そう、もしこれに『声』を当てることができるとすれば、それは無声少女本人を置いて他にない。僕にとって、無声少女のサイレント動画は唯一にして無二の存在であり、それは大量のアテレコ動画や派生作品には到底出せない輝きを放っていた。オリジナルを越えるコピーは存在しない。それは新作動画を見るたびに抱く率直な感想だった。


 そんなふうに、すっかり無声少女の虜になっていたある日のことだ。


「えー、つまり物権的請求権とは、物権の内容を実現するために認められたもので、物権的返還請求権、物権的妨害排除請求権、物権的妨害予防請求権の三つがあり――」

 その日、僕は大学の大教室でいつものように講義を受けていた。テキスト中心の専門科目の講義はたいてい退屈で、教授が使い古された基本書をごにょごにょと読み、乱雑な字でホワイトボードに専門用語が板書される。高校時代は頑張って一言一句をノートに書き写したものだが、大学ではテキストに書いてあることの丸写しに何の意味もないことは受講する学生全員が分かっている。出席確認がなければテスト当日以外はほとんど人が来ないだろう。

 この日も僕は、法律科目のテキストを一応開きながら、公務員試験対策の参考書を読んでいた。隣にはもちろん無声少女を再生したスマホ。およそ一週間に一度のペースで新作がアップされており、普段どおりなら今日あたりが新作動画のアップされる日だった。朝からウキウキしながらスマホをチェックして、こうして午後の講義を迎えていた。

 講義もなかばのころ。

 ――!

 ブンッ、とスマホが震え、画面にテロップのごとく表示が出た。


【〈********〉さんが動画をアップロードしました!】


 来た、と勇んでタブを指で押す。ちなみに〈********〉というのは無声少女のアカウント名で、実際に動画投稿サイトには『*』が八つ並ぶだけの無機質な名前が記載されている。

 回転する三日月のような待機画面を見ながら、僕は息を殺して再生を待つ。音声が入っていないことは分かっているので、最近はイヤホンも付けていない。

『#21 闇色に輝く時計台』。叙情的なタイトルから想像される内容に、早くも胸が高鳴る。

 少女が映る。大きな紺碧の瞳に、今日は黒っぽいノースリーブ。いつもの『語り』を終え、いよいよ『歌』に入る。僕の気持ちも最高潮になる。

 しかし次の瞬間。


 ひのあたらぬ こうえん くずれかけの すなの おしろ 


「――ッ!?」

 音声が流れた。昼下がりの静かな講義室に、大音量の少女の声が響き渡る。

 もちろん僕は慌てた。

 画面では少女が歌い続けている。いつもは音の無い歌を紡ぐはずの唇から、今は間違いなく『声』が聞こえてくる。唇の動きに連動する音声は、間違いなく彼女の歌声。


 のこされた おんなのこ みんな かえった いまはひとりぼっち


 僕は焦る指で動画を止める。音声は消える。

 心臓が止まるかと思った。大事な面接の最中にスマホが鳴り出すような気分。動悸がおかしい。脇にべっとり汗を掻いている。

 うっかりして『アテレコ』のほうを再生してしまったらしい――最初はそう思った。無声少女の新作を再生するはずが、別のボタンを押してしまったのだろう。

 伏し目がちに周囲を見る。きっと、講義中に動画を大音量で鳴らしたマヌケな男と思われているのだろう。ああ、恥を掻いた……

 変だった。

 目立たぬように、近くの席の学生たちの様子を確認する。誰もが気だるそうに講義を受けており、僕のほうを気にしている者は見当たらない。それどころか、教授も延々とテキストを読み続け、僕のほうを気にした様子もない。

 思ったより、小さな音だったのか。あるいは呆れて物も言えないのか。

 事態が呑み込めない僕は、手元のスマホを確認して、再び驚くことになる。

 先ほど再生した動画には、〈********〉のアカウント名。アップロードされたのは五分前。しかし再生数はもう五万近くになっている。

『#21 闇色に輝く時計台』

 無声少女。その動画だ。オリジナルの。いわゆるサイレントの。

 おかしい。さっきは確かに音声が出た。この耳で聞いた。

 念のため、アカウント名をクリック。画面にはずらりと、無声少女のバックナンバーが並ぶ。どれも百万再生を超える人気動画。間違いない。このアカウントが無声少女の『本物』だ。

 もう一度、震える指で再生する。ありえない、と思ったが、どうしても確かめたかった。


 どこかのいえで きこえるわらいごえ ゆうごはんの いいにおい


 また、『声』が再生される。

 確かに無声少女の動画。オリジナルの――サイレントの――動画。その動画から、声が出ている。

 無声少女が、歌っている。

 驚くべきことはもうひとつあった。

 けっこうな音量で再生しているのに、誰も僕には注目していない。誰かが睨んでくることも、教授がこちらを見ることも無い。隣にいる学生すら僕のことをちらりとも見ない。

 音量をさらに上げる。しかし結果は同じだ。スマホで出せる最大級の音量。騒がしい居酒屋でも苦情が来るレベル。

 でも、誰も僕を見ない。まるで音が聞こえていないかのように、黙々とそれぞれの日常を送っている。同じようにスマホをいじる者、内職をする者、居眠りをする者、テキストに線を引く者。誰もこちらを気にしていない。


 よるとひるのあいだで ここはいちにちがおわるばしょ


 少女は歌い続ける。

 僕はその美しい歌声を聞きながら、自分だけが世界から切り離されたように、誰も僕を見ない世界で愕然としていた。


 そう あなたは やみいろにかがやく とけいだい


 歌が終わる。少女がいつものように、丁寧に一礼する。

 そこで終了のチャイムが鳴った。



 その夜。

 六畳一間の下宿にて、血眼になってノートパソコンに向かい合う僕がいた。

 動画のコメント欄をスクロールし、ひたすらに下へ下へとめくっていく。『今日もいい感じ』『やっぱ雰囲気あるね』『かわいい~』というベタ褒めのコメントが延々と続き、特にいつもと変わったところはない。

 次に、SNSの検索ワードに『#無声少女』のタグを放り込み、ずらりと並んだ表示を確認する。これも動画サイトのコメント欄と同じで、ファンの賛辞が無限に伸び続ける。ここも異常なし。

 思いつく限りのSNSを巡回したあとは、匿名掲示板に移る。

『無声少女 新作感想スレッド PART325』

『我らサイレント同好会 87枚目』

『好きなアテレコ動画を貼っていけよ VOL118』

 関連するスレッドを片っ端から開き、何枚もめくる。無声少女が『しゃべった』となれば、それはもうファンの間では大騒ぎになっているはずだった。何か手がかりはないかと目を皿にして、指で画面を流し続ける。しかし、それらしき指摘をするコメントはついぞ見当たらない。

 元々、無声少女については『検証班』と呼ばれるネットの有志が総力を挙げて検証を続けている。無声少女は何者なのか、似ている顔のアイドルはいないか、目撃情報はないのか、部屋にある小物から何か割り出せないか――そうしたことを、全国のユーザーが昼夜を問わず調べ続けているが、いまだに何者か分かっていない。部屋は白い壁で殺風景だし、窓にはカーテンが引かれ、外の景色も分からない。少女も特徴のないワンピースなどを着ていることが多く、一着だけ服のメーカーを割り出したユーザーがいたものの、それは国内ならどこででも手に入る量販店のもので、何の決め手にもならなかった。

 もちろん、判明した事実もある。当初は『口パク動画』と揶揄された彼女の『声』は、実際に喉の動きや呼吸の様子から、まず間違いなく何らかの『発声』をしていること、すなわち彼女が実際に『歌っている』ことが証明された。これは実際に現役のボイストレーニングの先生なども証言している。また、歌詞の内容については、それこそアテレコ動画を作るファンがさまざまな試行錯誤を経て『声』を当てはめている。しかし、読唇術などの専門家が躍起になってもその『歌詞』の実際のところは分からず、仮説を立てたところで答え合わせをするすべもない。ただ、曲のタイトルだけは分かっているので、たとえば『海の底のボトルレター』の曲では、「このシーン、この瞬間で『ボトルレター』と発音しているんじゃないか」という程度の推察があるのみだ。

 つまり、だ。

 大騒ぎになっていなければおかしいのだ。もし、万が一、無声少女の『声入り』動画がアップされたのなら、蜂の巣を突いたような騒ぎになっているはずだ。ある意味では妄執的な情熱を傾けているネットユーザーたちがそれを話題にしないわけがない。

 ということは、まだ誰も――少なくともネット界隈では、彼女の『声』を聞いたものは出てきていない。

 昼間もそうだった。学生食堂で会った大貫にも、それとなく話を振り、今回の出来事を確かめてみた。だが、無声少女の話題を振っても、あるいは念のため動画を再生してみても、彼は格別の反応を示さなかった。信じがたいことだが、その『声』が聞こえるのは、やはり僕一人だけだった。

 混乱する。ありえない。僕にだけ聞こえる? それってつまり――

 震える指で、スマホを叩き、例の新作動画にアクセスする。再生ボタンを押すと、しばらくして歌が始まり、


 ひのあたらぬ こうえん くずれかけの すなの おしろ 


 やっぱり聞こえる。それは紛れもなく、動画の中の少女の唇から発せられる美しい歌声。想像以上に声量があり、伸びやかで声質に張りがある。

 彼女の歌を聞きながら、再びパソコンを操作する。検索窓に『幻聴』と入れてエンターキーを押すと、そこにはずらりと関連サイトが並ぶ。


【幻聴(げんちょう)とは】現実には音がしていないのにもかかわらず、本人が音を聞いたような気がする現象。関連ワード:幻覚、幻視


【幻聴 こんな症状に注意】

【心療内科のドクターが語る 幻覚と幻聴】

【幻聴はどんな病気?】

【幻聴に悩まされた芸能人・有名人】

【ストレス社会とメンタルヘルス〈幻聴〉】


「薬物、PTSD、統合失調症……」

 そこに並べられた病名を見て、うーんと唸る。なんだか不安になってスマホの電源を落とすと、少女の声も消える。夢にまで見た憧れの人の歌声なのに、今はそれをじっくり聞く余裕がない。

 それからも、一つ一つのワードを手繰るように検索窓に放り込み、なんだか転がり落ちるような気分で自分の『症状』に該当しそうなものを探す。しかし、医学的知識の乏しい素人には診断などつくわけもなく、すべての病気が当てはまるような気もするし、全部が何か違う気もする。病院に行けばいいのは分かっているが、「動画の見過ぎでアイドルの声が聞こえるようになった男」というレッテルを貼られるのはごめんだった。

 深呼吸。

 気を取り直し、混乱した頭で善後策を考える。要するに、この動画を再生しなければ『声』は聞こえない。それで生活に支障が出なければ問題ないはずだ。この『症状』だって、そのうち治まるかもしれない。

 当面の方針を決め、再び深呼吸すると少しだけ落ち着く。問題の新作は『#21 闇色に輝く時計台』。これさえ再生しなければいいはずなのだ。

 ――待てよ。

 そこで僕は、あることに気づく。『幻聴』の衝撃が大きくて今まで頭が回らなかったが、重大なことを見落としていた。

 もう一度スマホを鞄から取り出し、電源を入れる。それから『無声少女』のオリジナル動画――いわゆる音声の入っていない『サイレント』を呼び出す。バックナンバーは今日の新作を除けば二十本。どれもが百回以上は見たことのある動画。

 祈るような気持ちで再生ボタンを押す。まずはすべての始まりである『#1 声なき歌』。

 少女が映る。

 ごくり、と唾を飲み込む。いつもの動画。少女がそっと、こちらを見つめる。唇が動く。何も聞こえない。いつもどおりの感じの、何の変哲もない動画。一瞬、ほっとしかける。

 しかし。


 いつからでしょう あるばむから いろがにげたのは 


 ――!

 聞こえる。今まで音が入っていないはずだった『#1』の動画から、間違いなく声が。

 反射的に動画を停止する。それから隣に並ぶ『#2』を再生する。まさか、まさか、まさかと言葉にならない息を漏らしながら、読み込まれる動画を凝視する。

 そして。

 スマホをぶん投げた。

 怖くなって尻もちをつく。一人暮らしのボロアパートが見慣れぬ他人の家のように見え始める。世界が歪む。毛布を被る。動悸がおかしい。

 過去二十本あるバックナンバー。そのすべてで。


 そのふねは もどってくる あなただけを わすれて


 少女の声が聞こえる。すべての動画で、彼女の歌声が。

 眩暈が治まってきてから、やっと呼吸を思い出し、荒い息を繰り返しながら、思った。

 これは重症だ、と。



 結論から言うと、病院に行った。

 都心にある有名な心療内科を探したものの、どこも予約でいっぱいで、すぐにかかれそうなのは郊外にある小さな診療所だった。なんだか駄菓子屋の店番をしてそうな初老の医師がうんうんと丁寧に話を聞いてくれたが、僕が『無声少女』のことを切り出すと、「へえ、アレの声が聞こえるんですか……」と驚いたような感心したような声を出された。以前テレビで取り上げられたのを見たとかで、相手が無声少女を知っていたのは説明が省けて助かったが、自分の発言の異常さも浮き彫りになった感じで僕はどうにも居心地が悪かった。挙句に、「まあ若いんだから元気出しなさいよ」と、最後は人生相談みたいなことを言われて締めくくられた。「せ、先生、僕の病名は?」思わず尋ねてしまったが、「まずはしばらく様子を見ましょう。こういうものは焦ってはいけません」という誠実だか不誠実だか分からない答弁をされた。最近では安易に診断を下し、すぐに薬を処方してしまう若い医者が増えている、と患者の僕にぼやいていた。なんだか腑に落ちなかった僕は、翌日も別の心療内科で診察を受けたが、結局病名はつかなかった。

 そして一週間。

 この間、『症状』は変わらず、かといって病院での診断もはっきりせず、何も進展がないままに時が過ぎていた。講義はもちろん、公務員試験の勉強も手がつかず、かといって無声少女の動画を見るのもなんだか怖い。日に一度くらいは症状が治まっていないかと一縷の希望を抱いて再生するも、結果は同じ。美しい少女の美しい歌声。本来ならこの上ない癒しになるはずが、これが幻聴かもしれないと思うとどうにも感情移入できなかった。


 今日も休みか? 風邪でも引いたか?


 スマホを開くと、SNSには大貫からコメントが入っていた。ついに一昨日からは講義を欠席し、三日連続休んでいる。文系の大学生なら講義をサボることなど珍しいことではないが、毎日出席してきた僕には入学以来初めてのことだった。なんと返信しようか迷っているうちに、大貫から電話が掛かってきた。

『永瀬、生きてるかー?』

「あー、大丈夫、生きてるよ」

『マジで調子悪そうだな。ちゃんとメシ食ってるか? なんか差し入れでも持ってくよ』

 大貫は珍しく心配そうな声で言った。大学受験予備校でたまたま志望校が同じだったことから仲良くなり、励まし合って最後は二人で志望校に合格できた。普段はお調子者のところがあるが、兄貴肌で面倒見が良い一面があることを僕は知っている。

 いろいろ相談したい気持ちはあったが、一方で彼にだけは話すのがためらわれた。医者はともかく、親友にまで変に思われるのは嫌だった。何より、無声少女の動画を薦めてくれたのは他ならぬ大貫なので、彼に自責の念を感じさせてしまうのは避けたかった。

「大丈夫、ちょっと風邪こじらせただけだから。熱も下がったし、来週は顔出すよ」

『そうか、ならいいけどよ。何か食いたいもんがあったら言えよ。買い物くらいはするからさ』

「サンキュ。恩に着る」

『あの……さ』そこで大貫は、やや言いにくそうに切り出した、『気に障ったら、その、ごめんな。俺、おまえのこと、ずっと心配でさ』

「ずっと?」

 思わぬ告白に驚く。

『ほら、おまえ、大学受験のころ、……急におふくろさん、亡くしただろ。あれからおまえ、ずっとノンストップつーか、休みなしだったよな。受験終わったのにどこにも遊びに行かないし、大学入っても速攻で公務員試験始めたし。このまま就活入ったらおまえ人生休みなしでいっちゃうんじゃないかって、なんかそれが心配でさ』

「…………」

『講義は俺がちゃんと出て、ノート取っとくからさ』

 大貫……。

 まさかそんなふうに心配されているなんて思わなかった。電話で良かった。ちょっと涙出てきた。

「サンキュ」どうにか返事をする。「心配かけて悪かったな」

『まあ、要約すると〈もっとサボれ〉って話なんだけどな』

 ハハハ、と二人で笑う。

『あ、でもローマ法のレポートはよろしく』

「ちゃっかりしてるな」

 それから二言、三言話して、電話を切る。

 ――受験のころ――おふくろさん――。

 大貫の言うとおり、僕は大学受験のころに母を亡くした。

 母子家庭だった。僕が生まれた翌年に父が事故死し、母は女手ひとつで僕を育てた。いつも真っ赤にあかぎれした手で、ほつれた髪の毛を安い髪留めで無理やりまとめて、パートを掛け持ちして、年齢より十歳は老けて見えるのが僕の母だった。僕が志望大学を選ぶときも、『公務員試験に強い』というのが最大の理由で、それが一番母を安心させられると思ったからだった。

 そんな矢先に、母は急死した。高校三年の二月、第一志望校の合格発表の翌日。母は布団の中で冷たくなっていた。それからは、救急車を呼んだり、警察が実況見分に来たり、医師が検死をしたりで、親戚への連絡、葬儀屋の手配、通夜と葬儀、線香を上げに来る来訪者への対応。すべてがバタバタと過ぎていった。そういえば、大貫はあのころもすごく心配してくれて、たくさん電話をくれたり、飯をおごってくれた気がする。

 ノンストップ。大貫の言うとおりだろう。母が必死に学費を捻出してくれた大学をサボるのは、母に申し訳ない気がしていた。公務員試験の勉強も毎日続けた。しかし、心の中ではどこか空しさを感じていて、家庭教師のバイトもやめて、講義を真面目に聞くのもやめ、今は公務員試験の勉強もだんだんとやる気がなくなってきた。元々、母を安心させようと始めた勉強だったから、母を失ってまでモチベーションが続かないのは当然だった。それでも続けているのは惰性と、そうすることで哀しみで空いた心の穴を埋め続ける作業だった。大貫の電話で、それを見透かされたような気がした。

 無声少女にハマッたのは、そんな僕の心の隙間がどうしようもなく空いたころだった。ガス欠気味で、渇ききった僕の心に、彼女の『曲』は美しい泉のごとく潤いを与えてくれた。サークル活動も飲み会もろくに出ず、頑張り続けた反動だったのだろう。もしかすると、『幻聴』も、そういうストレスとか、過労が理由かもしれない。大貫の言うとおり、今は心と体を休める時期かもしれない。

 少し、気が楽になったときだ。

 スマホが鳴った。また大貫かなと思ったが、違った。


【〈********〉さんが動画をアップロードしました!】


 それは無声少女の新作動画だった。『#22 明日、雨が降ったら』というタイトルのナンバー。

 じっと、画面を見つめる。見たい気持ちと、見てはいけないような気持ち。少し前まで心待ちにしていた新作動画が、今は呪いのメールのように僕の体を硬直させる。しばらくは無声少女から遠ざかるほうが自分にとっていいような気がする。再生さえしなければ、あの声は聞こえないのだから。

 だけど答えは決まっていた。僕の指は震えながらも画面を操作し、通知の流れたタブを押す。今度はどんな歌声を聞かせてくれるのだろう、という期待が隠しようもなく胸の奥底にあった。怖さもあるが、結局、幻聴を聞くほどに僕は彼女の『虜』だったのだ。

 動画が始まる。


 あした あめがふると だれが きめたのだろう


 歌声が流れ出す。いつものように、美しい、伸びのある歌声。僕は息を殺しながら、画面の中の少女を見つめる。紺碧の瞳が僕を見つめ返す。


 よほうは あめ ひゃくぱーせんとの あめ 

 だけど もしもはれたなら

 そうだ はんぎゃくを はじめるんだ


 今日も情感たっぷりに、切なげに歌い上げる。これが幻聴だなんてやっぱり信じられない。僕の脳が作り出した妄想の中の歌声が、こんなにも美しい旋律ならば、僕には音楽の才能があるんじゃないだろうか。そんな馬鹿なことさえ考え始める。

 一週間ずっと悩み続けたせいだろう。体がだるくて、なんだか催眠音楽のごとく彼女の声がすーっと耳から脳に入ってくる。これまでは幻聴とか病気とかが気になって集中できなかったが、今日は素直に歌声が自分に入ってくる気がしていた。もしかしたら、大貫が励ましてくれたことで少しだけ心に余裕ができたのかもしれない。

 改めて聞くと、本当に素晴らしい歌声だった。控えめだった音量を上げ、ただただ歌声に没頭する。


 あめが やむまえに あのおかへ いこう

 あかい はなが さく あのおかへ

 おにが ないたという でんせつの おかへ


 ――鬼が泣いたという伝説の丘へ。

 歌詞を聞きながら、ひとつのフレーズが引っかかる。鬼が泣いた丘。なんだろう、どこかで聞いた。

 歌は続く。僕はキーボードを叩く。検索窓には『鬼が泣いた丘』と打ち込む。すると、検索結果がずらりと表示される。

 そのほとんどが『泣いた赤鬼』という絵本に関するサイト。『地名』というキーワードを足して再検索。これも『泣いた赤鬼』がほとんどだったが、そのうちのひとつ、『鬼のつく地名』というサイトに目が留まる。クリックすると、全国の市町村や住所で『鬼』がつく名前が表示される。全部で八十六箇所。温泉地で有名な『鬼怒川』などの地名を除けば、聞きなれぬものが多い。

 ――ないか……。

 もう一度、検索ワードを変えてみる。『鬼』『泣く』『涙』『丘』と組み合わせを変えながらやってみると、ひとつ、気になるワードを見つける。

『鬼泪山』

 千葉県にあるという山。鬼が泣く丘、という無声少女の歌詞とちょっとだけ近いような気もする。

 別に、だからなんなんだ、と言われればそれまでだった。調べたところで、「ここが歌に出てくる場所だ」なんて偶然あるわけがない。日本全国に似たような名前、似たような地名がいったいいくらあるのか。百か二百か。検索に引っかからない地名はどれだけある?

 だけど、それが契機だった。一週間、原因不明の『幻聴』に翻弄され続けた僕にとって、その行動は今の自分にできる唯一の能動的なものに思えた。かつて小さいころの僕が、母を助けられるお手伝いが唯一お風呂掃除だけだったころ、毎日お風呂掃除ばかりを繰り返しやっていたように。

 スマホにヘッドフォンをつなぐ。ノートパソコンのテキストソフトを起動する。無声少女の『#1』から聞き直し、歌詞を書き起こす。前に教授を相手にやったテープ起こしの要領で、何度も聞き直し、一言一句間違わぬように打ち出していく。

 まるで苦でなかった。少女の声は美しく、切なく、伸びやかに僕の心に届いた。何度だって聞いていられる。だから何度も聞きながら僕は『歌詞』を書き起こした。『#1』が終わると『#2』へ、それが終われば『#3』へ――。

 全部で二十二本の動画を文字に起こすのは、なかなかの労力だった。最初の三時間くらいは夢中でやったが、それでも十本には届かない。少し休憩し、腕をほぐし、それからまた取り掛かる。気づけば夜も更け、朝が近くなる。突っ伏すように一時間ほど寝落ちしたあと、顔を洗って作業を再開する。多少疲れても、彼女の歌声が僕を駆り立て、励まし、後押しをした。彼女の『声』が聞こえるのが、本当に僕だけなら。ひょっとして、彼女に会うことができるかもしれないとしたら。キーを叩きながら、そんな期待が僕の背中を押した。いつしか使命感のような想いが胸に芽生えていた。

 小鳥が鳴き、夜が明けても僕は夢中で作業を続けた。

 すべてを終えると、僕は玄関を飛び出した。



 下宿からバイクを飛ばすこと十分。

 平日の市立図書館は閑散としていて、駐車場には僕以外に一台のみ。涼しげな緑のアーチをくぐり、館内に入ると、あくびをしていた受付の女性職員が慌てて口を隠した。

「あの、貸出カードの再発行ってできますか? 去年作ってもらったやつ、無くしちゃったみたいで……」

「はいはい、できますよ。身分証明書はお持ちですか?」

 大学の学生証を差し出すと、職員のおばちゃんが「へえ、明教大学。頭いいのねぇ。ウチの甥っ子もそこに通っていてねぇ」と目を細める。目尻の皺がどこか亡き母を思わせ、なんだか懐かしい気分になる。

 検索コーナーはあっち、お茶のサービスはこっち、何か分からないことがあればなんでも遠慮なくどうぞ、と懇切丁寧な案内を受けたあと、再発行された貸出カードを片手に僕は適当な椅子に座る。

 大学構内の図書館ではなく、わざわざ遠出して市立図書館に来たのには理由があった。蔵書が豊富で、前に来たときに地理や地名などの資料が充実していたのは知っていたし、何より大学のほうはいつも学生たちで混雑している。落ち着いて調べものをするにはこっちの図書館のほうが向いていると思った。

 鞄から紙束を取り出し、パラパラとめくる。そこには書き起こしたばかりの歌詞がびっしりと並んでおり、すでに何か所かには蛍光ペンでチェックが入っている。そのデータをスマホにも表示させてみる。


『あしの おれた ぞうの すべりだい』

『みつまたに わかれた さかみちの じぞう』

『むげんに つづく かなあみの しろには』

『とわに いきて くちた ごしんぼく』

『よぞらに ほたるが めされる みなと』

『やみいろに かがやく とけいだい』

『おにが ないたという でんせつの おかへ』


 ひらがなだと分かりにくいので、漢字に変換してみる。


『足の折れた象の滑り台』

『三又に分かれた坂道の地蔵』

『無限に続く金網の城には』

『永久に生きて朽ちたご神木』

『夜空に蛍が召される港』

『闇色に輝く時計台』

『鬼が泣いたという伝説の丘へ』


 全部で七つ。もちろんこれ以外にもあったが、『特定』に役立ちそうなのはこの七つだった。

 確信はないが、曲の舞台は実在の街のような気がしていた。身近な風景を曲のモチーフにするのはありそうなことだし、『丘』『港』『公園』などは曲をまたいで繰り返し登場する。近所にそういう場所があるから登場させている――それはいかにもありそうなことだった。逆を言えば、そうでも考えない限り手がかりなどないに等しい。

 まずはキーワードをそのまま検索してみる。それから昨日『鬼が泣いたという伝説の丘』でも試したように、ワードを入れ変えて再検索。『鬼泪山』のような、それっぽい地名に突き当たるまで試してみる。無理っぽいなら次の歌詞に移り、そしてまた同じ検索作業を繰り返す。

 地名の候補を挙げればキリがない。『丘』も『港』も『坂道』も、全国にはいくらだってあるだろう。だけど、『鬼が泣いたという伝説の丘』『夜空に蛍が召される港』『三又に分かれた坂道の地蔵』といった特徴が当てはまる場所はだいぶ限られるだろうし、それらがすべて揃う街となればほとんど一つに絞られるのではないだろうか。そんな予感があった。『城』『神木』『時計台』といったものも同じだ。

 一通り検索を済ませると、次の段階に移る。ヒットした地名を手がかりに、それに関係する資料を図書館中から掻き集める。『河川百景』『百名山』『全国の時計台』といった地理関係の書籍や辞典をテーブルに置いていくと、ちょっとしたタワーのようになる。それらをスマホ検索と並行しながらページを手繰る。知識をピンポイントで探し出すにはインターネットが便利だが、やはり一定のまとまった分量を調べるには紙の書籍のほうに強みがある。このへんは大学のレポート作成と同じだ。

 千葉、神奈川、富山、新潟、北海道、鹿児島……様々な地域が浮かび上がる。それっぽい地名がいくらでも出て来て、最初はあっさりと見つかりそうな気がしていたが、だんだんとそうでもないことに気づく。『滑り台』は全国にいくらでもあるし、『象の滑り台』だけでも画像検索で腐るほど出てくる。しかし『足の折れた』という限定がつくと途端にゼロになる。これは『ご神木』でも同じで、全国に神社の数は八万以上あり、それぞれに有名無名のご神木が存在する。そうなると特定どころの話ではない。『朽ちたご神木』と言っても、樹齢の長い神木はたいてい多少は朽ちている。

 そんな感じで、特定は困難を極めた。極端に数が多いケースと、一切見つからないケース。その両極端ばかりで、すべての特徴がぴたりと当てはまる地域はなかなか導き出せない。たとえるなら、『七月生まれの少年』みたいな広すぎる条件と、『海賊王を目指している少年』みたいな狭すぎる条件しかない、みたいな。

 この日、閉館時間まで粘ったが、結局これといった収穫は得られなかった。


 しばらくの間、僕は図書館に通い詰めた。もちろん無声少女の曲の舞台を特定するためだ。

 隣の市の図書館や、郷土資料館なども当たってみたし、気になる地域の市役所や観光センターに電話で聞いてみたりもした。しかし、ことごとく空振りに終わり、自分の見通しの甘さを痛感する日々が続いていた。

 別に、曲の舞台を突き止めたからといって、何かが解決するわけでもなかった。逆を言えば、突き止められなくても僕が何か損をするわけでもない。

 そもそも僕は、幻聴を根拠に調べものをして、いったい何をやっているんだろう。冷静に考えたら完全にヤバい人間になってないだろうか。その日も、図書館の終了時刻が近づき、ふと振り返ってみると空しさばかり残る。

 そんなことを思い煩いながら、引っ張り出していた書籍を片付けようとしたときだ。

 スマホが鳴った。

 画面を見ると一本の通知が表示されている。


『あなたの質問箱にアンサーが付きました!』


 回答がつくのは久々だな、と思いながらタブを開く。どうせダメだろうなと思ってしまうのはこの間の何十回という空振りのせいだ。 

 調査開始の翌日あたりから、僕はSNSのほうにも投稿を続けていた。いわゆる質問箱やお悩み相談、Q&Aコーナーなどに質問を寄せ、手がかりとなりそうな情報を募集していた。

『幼いころに見た思い出の場所を探しています。当時のおぼろげな記憶しか手がかりがなくて、よろしかったら当てはまりそうな場所を教えてもらえると嬉しいです』

 そういう前振りをしたあとに、例の歌詞を書き込んだ。ただし、『無限に続く金網の城』などはそのまま書いても分かりにくいので、『フェンスのようなものに囲まれた城みたいな建物』というようにニュアンスで伝えることにした。他のワードも同じだ。

 最初のうちは、日に一、二通のペースで回答がもらえた。『ウチの近所に象の滑り台ありますよ』とか、『○○って地区で坂道が三又になってます』など、それらしい情報が集まった。一つ一つはなかなか興味深かったのだが、回答が十個を超えたあたりでこの方法の限界に気づく。確かに個別には当てはまるのだが、それを地図に書き出してみると、北は北海道から南は沖縄まで、全国各地バラバラに点在している。さすがに全部回るというわけにはいかないし、これだとネット検索や図書館で調べたのと大して変わりがない。

 そうやって集めているうちに、回答は徐々に減り、この三日はゼロの日が続いていた。おそらくもう駄目だろう、と思っていたので、回答がついただけでもマシといえばマシだったが、期待値はかなり下がっていた。


【これは、引っ越す前に住んでいた街の話なんですが……】


 そうやって始まる回答コメントを、なんとなく読んでいく。最初はどこか斜めに読んでいた僕だったが、途中から「これは」と思い、食い入るように画面をスクロールし出す。


40代〈名無しの保育士さん〉のアンサー

 これは、引っ越す前に住んでいた街の話なんですが、家の近所に思い当たる場所がいくつもありました。N県I町、平成の大合併で統合されて今はS市となっているところです。『三又に分かれた坂道があり、お地蔵さんが近くにある場所』は、この町にある県立高校の近くで、そこに続く坂道が三又に分かれており、小さなお地蔵さんがありました。ちなみに私もその高校の卒業生です。『フェンスのようなものに囲まれた城みたいな建物』というのは、もしかすると高校の旧校舎のことかもしれません。老朽化して、耐震的に危ないとかで在学中は生徒が立ち入り禁止になっていました。バラ線みたいな金網でぐるっと囲まれていましたし、古い建築物だったので城のような外観だったのを覚えております。『蛍が生息している港町』は分かりませんが、高校の敷地からは港の風景がよく見えました。一応港町といって差し支えないと思います。『樹齢の長いご神木』は、もしかすると神社の杉の木のことかなあ、と。

※『足が壊れている象さんの滑り台』『黒っぽい色の時計台』『鬼が泣いた伝説のある丘陵あるいは山』というのは、ちょっと分かりません。

 ご参考になれば幸いです。



 その回答は今までで一番詳しいものだった。七つのワードのうち、四つを網羅している。この回答だけでだ。

 N県I町、平成の大合併で今はS市。そこまで読んで、何かが心の中でざわつく。閉館時間のメロディが流れる中、心当たりの書棚まで走る。棚の下段から一冊の分厚い本を取り出す。「図録 消えた地名・消えた市町村」という書籍。

 二〇〇〇年代のなかばにピークを迎えたと言われる「平成の大合併」は、多くの自治体を統合し、結果として少なくない地名が地図から消えたと言われる。こうした地名は現在使われていないだけに検索に引っかかりにくい。

 巻末にある索引から、N県I町を探し当てる。確かに、平成の大合併で近隣三つの市町村が統合し、今はS市となっている。

 ページを手繰る。胸が高鳴る。I町の中にある『消えた地名』の一覧、その中に、確かに存在した。【兄が丘】とある。

 ――兄が丘。

 ぐるりと本棚を回り込み、次は『全国 忘れられた民話・口承』を取り出し、手繰る。この本も前に調べたし、『兄が丘』の地名はどこかで聞き覚えがあった。ページを一心不乱にめくっていると、女性職員が「あの、そろそろ……」と様子を覗きに来たので、「ごめんなさい! あとちょっとだけ!」と頭を下げながら調べものを続ける。この手の資料はすでに貸し出し冊数いっぱいまで借りているので、今日は借りて帰るわけにはいかない。

 N県南部の民話、と題された項目には、こんな記述があった。


【兄が丘の由来】

 この地域には、兄が丘と呼ばれる地域がある。I町(現・S市)にある小高い丘には、その昔、禁忌を侵したとして、とある兄妹が村を追われ、妹は逃亡の末に命を落としたという口伝がある。その後、兄は哀しみのあまり鬼と化し、妹を弔うために巨大な墓を作ったと言われる。それが兄が丘の名の由来となる。その後、夜な夜な丘のほうから鳴き声のような音が聞こえてくると噂になり、近隣では『兄が丘』あるいは『鬼が丘』と呼ばれている。


 ――鬼が泣いたという伝説の丘。

 これで、七つのうち、五つが当てはまった。もう偶然とは思えない。残る二つは『足の折れた象の滑り台』と『闇色に輝く時計台』だが、これらについてはなんとでもなる気がした。『滑り台』も『時計台』も全国にいくらでもある。むしろ資料やデータから探すのはここらで限界だろう。

 本を閉じる。

 少女の歌声が心の中で再生され、僕は背中を押されるように立ち上がる。

 気づけば口ずさんでいた。


 おにが ないた という でんせつの おかへ


 翌日、僕は旅立った。