プロローグ また出会う


 海岸沿いの学校は、潮と太陽の匂いがする。

 遅咲きの桜が舞う真昼どき。夢と希望に溢れた新入生の一人――であるはずの藤原和樹は、校舎の裏で強面の上級生たちに囲まれていた。

「おう、兄ちゃん。ジャンプしてみろや!」

「……あ、あの……」

 なにが起きたのか自分でもわからない。昇降口を出たところで、突然長ラン姿の屈強な男たちに拉致されたのだ。壁に追い詰められ、もう逃げ場所は残されていない。抗うこともできず、和樹は全力で跳躍する。

 ひときわ巨大な、ヒグマのような先輩の目が光った。ズッシィィィン! と、その両手が和樹の肩にのしかかる。

「いいね! 応援部、入らないか!?」

「……は……?」

 呆然とする和樹の首に極太の腕を回し、ヒグマ先輩は空を指し示した。

「飛び蹴りするのにジャンプ力は必須だ! あとは筋トレとボイトレと気合いで一流の応援部員になればいい! さぁ行くぞ屋上に!」

「な、なんで飛び蹴り……!? い、いえ、あの俺は――」

「待ちなさい応援部!」

 甲高い声が校舎に反響する。振り向けば、多種多様のユニフォームを身にまとった先輩たちがこちらを睨みつけていた。

「勧誘はフェアにやりなさい! ゆすり、たかり、褒めそやしは禁止! 協定で決まってるでしょうが!」

「うっせーテニス部! こっちは存続がかかってるんだ! 潰したら過去百年の先輩に末代まで祟られるんだよ!」

「問答無用! それはどの部も同じ! 金の卵をこっちによこしなさいよ!」

「す、すいませ――俺は、どの部にも――」

 人質のポーズを取らされたまま、和樹は蚊の鳴くような声を出す。むろん誰にも聞こえない。

 青ざめながらまわりを見てギョッとした。昇降口から校門までの至るところで、いたいけな新入生狩りが行われているではないか。この高校は部活の数が多いから、みんな部員獲得に必死なのだ。

 大乱闘に巻き込まれる寸前で、和樹は人波をかいくぐって逃げ出した。

「……お、重い。重すぎる……」

 伝統とか、目標とか、正直よくわからない。そんな形のない重みを背負ったところで、卒業後の世界までは持っていけないのに。

「……部活かぁ……」

 やりたい部活がある。

 そう思って、和樹はこの高校に入ったはずだった。

 だけど、あろうことかその部は消滅していた。身の置き場のない高校生活に直面して初めて、和樹は抑えていた本心に気づかされた。

 やりたい部活があるわけではなくて――。

 一緒に部活をやりたい人がいる。

 ……いや、正確には『いた』だ。

 遠い昔、友達と小さな夢を語った。

 でも、相手はこの学校にいないかもしれない。いたとしても、もうそのときのことなど覚えていない可能性だってある。和樹自身、ずっと忘れたふりをして遠ざけていたのだから。いまさら、どんな顔をして会えばよいのか。

「やっぱり、無理だよな……」

 こう呟くのは何度目だろう。自分を納得させるため、声に出せば出すほど、胸の奥底が疼くように痛んだ。それを紛らわそうと、和樹はまた「無理」と言う。そんな自分にうんざりしてしまう。

 俯く和樹に、ひときわ強い春風が吹きつける。

「ぶっ!」

 どこからか、勧誘のチラシが飛んできて顔面に貼りついた。適当に丸めようとしてそれを見た彼は、思わず目を凝らした。

「これは――」

 あたりを捜し、それでも諦めきれなくて、昇降口まで走る。花吹雪に降られながら、生徒たちの顔を一人ずつ視認し、求める姿を見つけだそうとする。途中、いくつかの部に拉致されそうになったが、頭を下げてどうにか断る。

「……はは。まさかね」

 校門近くの八重紅枝垂の下。ここにも華やいだ雪が降りしきっている。

 息切れし、幹に手をついて苦笑した和樹の背に、軽くなにかが当たった。

 最初は桜がひとひら、降りかかったのかと思った。

 触れたか触れないかくらいに、そっと誰かが呼んだのだと気づいたのは、少しあとだ。たしか、前にもこんなことがあった――おぼろげに思いながら振り向いた和樹は、手にしたチラシを離してしまった。

 それは潮風に乗り、春の空へと舞い上がる。

 視線の先にいた人は――薄桜色の着物をまとった、四年前の夏より大人びた彼女は――はにかむような笑顔を浮かべて、彼に言った。


『和歌部、つくりませんか?』


 これが、あの夏に逃げてしまった三十一文字の歌と――そして彼女との再会だった。



第一章 うたを知る


 陽炎の中、青いラインの小田急線が逃げるように駅から走り去っていく。

「あー、こっちも暑いなー……」

 Tシャツで顔の汗を拭いながら、和樹はぼやいた。一人でこの湘南地域に来るのは初めてだ。もう六年生なのだから電車くらい乗れるけれど、知らないところで乗り換えるのはどうしても緊張する。今日も途中の藤沢駅で無駄に歩いてしまった。

「まったくもう……」

 先日、両親がものすごくいい笑顔でこう質問してきた。

「和樹。夏休み、リゾートに行きたいって言ってたよね?」

 なにがリゾートだ。思い返すとため息しか出ないから、もう家のことは忘れよう。和樹はそう決心した。せっかくの夏休みだし、今日から世話になる人は嫌いじゃない。

 むしろ――。

「あ!」

 小ぢんまりした改札のすぐ外に、待ち合わせていた人の顔が見えた。自然に頬がゆるんでしまう。

「おばあちゃん!」

「よく来たわね、和樹。元気そうね」

 小学生最後の夏休み。藤沢市の片瀬海岸近くにある『片瀬江ノ島駅』まで迎えにきてくれた祖母は、猛暑の中汗一つかかずに微笑んでいた。

 ぴっちり結い上げたロマンスグレーには一本の後れ毛もない。純白のレースの日傘と、薄い紅紫の着物が涼しげだ。素直にかっこいいと思う。

「今年も暑いわねぇ。でも、海風が抜けるから案外過ごしやすいのよ、江の島は」



 東京から電車で一時間。神奈川県藤沢市に属する江の島は、正確には『島』ではなく『陸繋島』というらしく、本州とは砂州でゆるく繋がっている。といってもそこを渡るのはあまりに頼りないので、人々は長い橋で行き来する。車は江の島大橋を、人はその隣にかけられた江の島弁天橋を使って。

 和樹は、一学期に学校と子供会の遠足で二回も江の島に来たが、そのときも対岸の水族館から長い橋を歩いた。

 クラスメイトたちは、あまり江の島にいいイメージがないようだった。

 橋をぞろぞろ歩きながら、「いつでも行ける」「古くさい」「観光客が多すぎ」などと文句を言っていた。だから、和樹は毅然と反論したのだ。心の中で。

「路地を入れば静かだし、歴史が感じられるし、きれいなところだと思うんだけどな。みんな、わかってないんだよね」

 祖母と並んで歩きながら、和樹は精一杯背伸びして話す。

「そりゃ、学校でも子供会でもなにかにつけて遠足は江の島だけど。どうせみんなお喋りばかりでなにも見ちゃいないんだ。感想文書けばすぐに忘れちゃうくせに」

 と、言ったあと、和樹は祖母が元教師――高校の先生だったことを思い出した。

 バツが悪くなって首をすくめたけれど、祖母は、「そうねぇ」とニコニコしている。優しい祖母が、和樹に怒ったことはたぶんない。

「和樹は江の島が好きなのね。ありがとう」

 そうじゃない――と言いかけて、和樹は口をつぐんだ。おばあちゃんがいるからだよなんて、六年生にもなって恥ずかしすぎる。

 代わりに、「おばあちゃんの『呪文』、聞くの嫌いじゃないしね」と答えた。

「あら、そう?」

 祖母はときどき、外国語のような文句を朗々と口にする。

 和樹には少し難しいけれど、そのリズムと響きはどこか惹きつけられるものがあった。いつも笑顔の祖母が、真剣な表情で唱えるのもかっこいいと思う。

 それが好きすぎるあまり、一日中でも聞かされるのは辟易するが。



 島に着くと、青銅の古い鳥居が来訪者を迎える。その向こうには、島の中核をなす江島神社の参道、弁財天仲見世通りが伸びている。夏休みの今日も参拝客で賑わっているけれど、祖母はするりとそれをかわし、脇道に足を踏み入れる。人混みを避ける秘密の道だ。

 雑多な路地は石段となり、石段はやがて人ひとり通れるほどの未舗装道路に。頭上を阻む鬱蒼とした木立はどんどん深くなる。息が詰まりそうになったころ、数軒の古い民家、そして小さな神社があるだけの集落が現れるのだった。

 そこが、祖母の住む恋若地区。

 ささやかな境内から眺める太平洋は、まるで無限に広がるステンドグラス。深く青く輝いている。

 それがどこか実際の距離以上に遠く感じられるのは、足元に泣く子も黙る断崖絶壁の岩場がそそり立っているからだろう。もちろん、そんな場所ではとても泳げない。

 境内に置かれた古い木のベンチに腰かけ、道々買ったラムネを飲んだ。蝉の声と、風が雑木林を揺らす音が響いている。

 橋から眺めた海水浴場の賑わいとは正反対だ――そう思うと、少し胸が痛んだ。

 なにげなく脇を見たところ、祖母と目が合った。その瞳がたたえる優しい光に、どきりとさせられた。

 抱いてはいけないはずの孤独感を見抜かれたような気がして、あいまいに視線をそらしながら、なんでもないようなふりをしてしまう。

「あ……なに? どうかした?」

「あのね。和樹におもしろい話を教えてあげる」

「え?」

 祖母はすぅっと息を吸った。その瞳が少し遠くへ向けられる。そして――。


都をば霞とともにたちしかど 秋風ぞ吹く白川の関


「あ、いつもの……」

 どこか心地よいリズム。懐かしいような響き。

 和樹に向け、祖母は少し口元をほころばせた。

「春の霞が立つ時期に都を発ってきたけれど、いまの福島県にあった白河の関に着くころには秋風が吹いている……という意味なのよ」

「へぇ。ずいぶん長い間旅をしていたんだね」

 それに比べれば、夏休みの間くらい預けられるのはたいしたことない――と言われるかと思ったが、祖母が口にしたことは全然違った。

「でもね、作者の能因法師という人は、これを旅先で詠んだことにするため、旅立ったふりをしてずっと都で引きこもっていたという話もあるのよ」

「へ? なにそれ?」

 ぽかんと口を開ける和樹に、祖母は袖で口を隠し笑った。

「しかもね、旅の偽装のためにわざわざ日焼けしたとかね」

「引きこもりの合間に日焼け!? めちゃくちゃ頑張ってるね。旅したほうが楽っぽいけど!?」

「ね? おもしろいでしょ? 能因さんって大好きなのよ、わたし。彼は歌人の伊勢さんのファンでね。好きすぎるあまり、彼女が歌に詠んだ『長柄の橋』が造られたときの木屑を大切に持ち歩いていたらしいわよ」

「けっこうディープだねその人」

「それを自慢した相手も、懐から蛙の干物を取りだして、『井手の蛙です』なんて言うのよ。井手は京都にある蛙の名所で、よく歌に詠まれていた『歌枕』なんだけどね」

「どっちもどっちか!」

 いつしか、突っ込み役になっている自分に気づき、和樹は少し照れ笑いした。こんなふうに人と笑って話せたのは、ずいぶん久しぶりだった。

「なんか、もっと尊い感じのものかと思ってたけど、意外とおもしろいんだね。おばあちゃんの呪文」

 祖母はくすくすと笑った。

「確かに、『呪文』というのは間違いじゃないかも。『和歌』の根っこは言葉遊びだし、太古には声に出して神様に捧げたものだった。だけど、決してショーケースの向こうにある存在ではなかったはず。それを作ったのは血の通った人間だもの」

「うん。『わか』ね」

 二人は微笑み合うと、海色のラムネを飲んだ。

「まぁ、あなたも寂しいわよねぇ。お父さんとお母さんは商談でアメリカだもんね」

「うん……。でも、いいんだよ。どうせ東京にいたって塾に行かされるだけだし。友達だって――」

 ――いないし。それは言えなくて、和樹は口をつぐんだ。

「でも、ほぼ一年隠れ住んだ能因さんよりはましよね」

「すごい極端な比較だね!」

 祖母は知的で優しいけれど、和歌が好きすぎて現実との区別がついているのか怪しいときがある。でも、祖母との会話で和樹の胸のもやが晴れてきたことは事実だ。

「じゃあ、少しかっこいい歌はどうかしら」

 和樹の反応を受け、祖母が悪戯っぽく投げかけた。


世の中をなににたとへむあさぼらけ こぎゆく舟のあとのしら浪


「あ、『よのなか』って、よく出てくるよね?」

「そうね。『世の中』には『社会』とか『男女の仲』とか、いくつか意味があるんだけど、今度のはそのまま『世の中』でいいのよ。『世の中を何にたとえようか。夜明けに漕ぎ出していく舟の、航跡の白波だろうか』ってところかしら。『拾遺和歌集』で、沙弥満誓さんが歌っているんだけど」

「へぇ……」

 そのとき和樹の目に、薄明るい水平線と空が映った気がした。

 乳白色と淡い朱色の遥かなグラデーションの中、一艘の小舟が水面をささやかに揺らしている。

 絵画のような光景はすぐに夏休みの神社に戻る。だがその鮮烈な一瞬は、和樹の中に白波となって残り続けた。

「よくわかんないけど、きれいな歌だね」

 祖母は微笑んだ。

「この歌はね。世の中を海、人を舟にたとえているの。そこでは、生きることは小さな波を立てること」

「小さな波だけ? そんなものなのかな?」

「これは仏教の無常観を表す歌だからね。人生は儚いものという考えなの。でも、そこにいる人々は小さくても美しい。なんていうのかしら……。そう、クールよね?」

「ま、まぁね……」

 やっぱり、和樹には少しついていけない。和歌が『呪文みたい』という思いは、さらに強くなった気がする。

 だが、その意味合いはこれまでとは少し違う。

 風景を、さまざまな感情とともに立ち上がらせる。そんな力が『和歌』にはあるのかもしれない。ほんの短いその中に、たくさんの意味が織り込まれてきた。それは絵画的というより、短い映画のようだ。

 そんなところが、『呪文』めいていると思った。



 うすうすわかっていたことだけれど、江の島には猫が多い。

 カメラを向ける人間たちを一顧だにせず、うたた寝したり毛繕いしたりと、思い思いに過ごしている。背景がなにか騒いでいるくらいにしか考えていないのだろう。

 そして和樹にとって、猫は終生の天敵だった。

 一年生のとき、ちょっかいを出して引っかかれたせいだ。以来、互いに不快にならない程度に距離を置くことにしている。それが不文律であり、クールな小学生に必要な知恵、なのだが――。

「……べ、べつに怖くなんかないからな……」

 和樹は、狭い石段の真ん中に陣取る猫と対峙していた。

 ブルーグレーの毛色は、鼠を追いかけ回す猫のアニメキャラを想起させる。ふてぶてしい目つきもそうだ。和樹のことを鼠の一種とでも思っているような、妙に威圧感のある態度で、石段からどく気はなさそうに見える。

「……しかたないな。回り道してやるよ……」

 和樹はじりじり下がりながら、自分に言い聞かせた。これは撤退ではない。転進だ。

 江の島に来て三日目。

 和樹はそこまで真面目なタイプではないが、宿題はあらかためどをつけてしまった。それほどまでにここは暇なのだ。運悪く、せっかく持ってきたゲーム機も調子が悪い。だから日中の暑さがやわらぐこの時間、島を探検しようと思い立った。外周四キロの江の島。まだ行ったことのない場所も多い。

 だが、出発して十秒で障壁が現れた。まさかこれしきのことで冒険を諦めるわけには――。

「ニャー」

「ぎゃー!」

 猫の一声で、和樹の決意など雲散霧消した。踵を返して石段を戻る。

 その先にあるのは恋若地区の、いつもの神社だ。古びた境内は相変わらず、夏の江の島とは思えないほど静かだ。

「もういい。冒険は終わりだ……」

 だけど、人心地つくと同時に少し寂しくもなった。最近、家族以外で話しかけたのはあの猫くらいかもしれない。

「ちぇっ……」

 せっかく出てきたので帰る気になれなくて、和樹は社殿の脇を抜けて海側へ行く。

 相模湾を見下ろせる崖の上に立つと、自分が小さな島にいることが実感できた。

 遮るもののない海は途方もない広さで、どこまでも続く紺碧の海面が、傾きかけた日射しを受けて輝いている。

 こんな世界ってあるんだ。東京のマンションで暮らす和樹は素直にそう思った。

 海を前にすると、人はちっぽけな存在だと思い知らされる。だけど。

 もしも、和歌が本当に『呪文』なら、唱えることでなにかが変わるだろうか。なにか、新しいことが起きるとか。

 和樹は海を見つめながら柵に寄りかかる。祖母から教わった和歌が、無意識に唇に宿る。それをそっと呟こうとしたそのとき、和樹の口は半開きのまま固まった。


 軽やかな風のような、鳥のはばたきのような音がする。


 一瞬、自分が別世界に紛れ込んだのかと思った。

 和樹に背を向ける格好で、浴衣姿の女の子がお手玉をしている。

 浴衣は白地に折鶴柄。お手玉も合わせたように白い。後ろでふんわりとアップさせた髪が大人びてはいるけれど、肩まわりが華奢なので、同い年くらいだろうか。

 一心に玉を追うその背は清らかで、だけどどこか寂しそうだと――思ってしまった。

 いつしか日射しはどこかへ去り、淡い夕暮れが訪れている。

 水彩絵の具で描いたような空の色と、そこへ浮かぶお手玉。

(これって――)

 和樹の眼前で、ある光景が二重写しになる。

 それは現実のものではない。先日、祖母と話したときに浮かんだ架空の景色だ。

 乳白色と淡い朱色のグラデーションの海。

 小舟がかすかに引き、やがて消える波。

 祖母が好きだという世界。

「……こぎゆく舟の……」

 頭に残っていたフレーズを、つい呟いてしまった。少女が、驚いたように振り返る。

 お手玉が地面に落下した。

「あっ……ご、ごめんなさい……」

 和樹は慌てて何度もお辞儀した。完全に不審者だ。

 少女はなにも言わず、和樹の顔をしげしげと眺めた。長い睫とくっきりとした目鼻立ちが、和樹をますます狼狽させる。なにもかも見透かされているようだった。

「いまの、なに?」

 だが、彼女は別のところに食いついてきた。

「……え? な、なにって?」

「『舟』って言ったでしょ? なんて言ったの? 呪文?」

「呪文? ……って、和歌のこと?」

「あぁ、『わか』なら知ってる! 五・七・五だよね」

 少女が見せた微笑みとくだけた口調に、和樹はようやく詰めていた息を吐いた。だけど、まだ心臓は早鐘を打っている。

「ちょっ、ちょっと違うかな。えーと、待ってて……」

 動揺をごまかすように、和樹はハーフパンツのポケットをさぐった。あまりにも暇だったから、暗記できたらかっこいいと思って、祖母に書いてもらったはず。

「あった。『世の中をなににたとへむ、あさぼらけ、こぎゆく舟の、あとのしら浪』」

 ぐしゃぐしゃになったメモ用紙を、つっかえながら読み上げた。

「へー。ちょっと長いね。なんだっけ? 俳句じゃなく――あ、短歌?」

「あ、いや……俳句は五・七・五でしょ? これは五・七・五・七・七。平安時代とか、昔の言葉で詠んだものが『和歌』。現代の言葉を使うのは『短歌』って呼んで分けることが多いらしいよ。でも、絶対ってわけじゃないけど……」

 完全に祖母の受け売りだが、和樹はどうにかそれらしくふるまった。

 相変わらず、胸が高鳴っている。

 紅潮した頬を悟られたらどうしようと、そっと少女を見やる。だが、彼女の目はメモに落ちたきりだった。真剣な顔つきで、なにやら小さく独り言を呟いている。

「あの……そういえば、きみの名前は?」

 まだ互いに名乗っていないことを思い出し、和樹は切り出した。

「俺は藤原和樹。あそこの屋根瓦の家の、藤原小町の孫だよ。きみは――」

「明日歌」

「え?」

「柿本明日歌」

 短く自己紹介する少女――明日歌は、まだ和樹の手元を凝視している。自分が名乗ったことさえ認識していないのかもしれなかった。これから話をどう続けるか、和樹が悩みはじめたそのとき――。

 明日歌は顔を上げ、清らかな瞳で和樹を見据え言った。


たそがれにしら浪さえも立てないで 海の向こうのあなた来たのね


「…………」

 とっさのことに圧倒されてしまい、和樹はなにも言えなかった。

 吸い込まれそうな瞳に。そして、凜とした声がつむいだその言葉に。

「うーん……。『わか』って確かに難しいね。字数を合わせなきゃいけないし……」

「……え……あの、それって、この歌に返事したってことだよね? ちょっと考えただけで――」

「うん。俳句だったら学校で作ったことあるし。あなたもあるでしょ?」

「そうだけど。でも、和歌だよ? 呪文だよ? 明日歌ちゃん、すごいよ」

 名前を呼ばれ、明日歌はただでさえつぶらな目を見開いた。

「な、なんで私の名前知ってるの?」

「さっき自分で名乗ったじゃないか! やっぱり覚えてないんだ!」

 改めて和樹が名乗ると、明日歌は納得したように頷いた。

「和樹くんね。やっぱり観光客じゃないんだ。藤原さんのおばあちゃんなら近所だから知ってるよ。去年死んじゃった私のおばあちゃんとも友達だったんだよ」

 そして、「私の家はあそこ」と、祖母の家とは境内を挟んで反対側にある、ログハウス風の三角屋根の家を指さした。こんな辺境にあるとは思えないほど可愛らしい。

「私って一人っ子だし、お父さんもお母さんも仕事で、今年の夏休み寂しいんだよね。和樹くんに和歌習いに行こうかなー」

 悪戯っぽく告げられ、思わず目をそらしてしまう。

「え? い、いや、俺は――」

「なーんてね。嘘だよ。気にしないで」

「と……友達はどうしたの? 遊ばないの?」

 和樹がどぎまぎしながら問うと、「んー、みんな旅行中。熱海とか軽井沢とか。うらやましいよね」と明日歌は小さく笑った。

「俺もそんな感じだよ。親はアメリカだし、クラスメイトもけっこう海外だなぁ」

「なにそのセレブ感! 熱海で悪かったね!」

「俺は行けてないんだから関係なくない!?」

 この明日歌という子は、ずいぶんアグレッシブだと思った。真夏の太陽のようだ。

「実はね。今日、お母さんと鎌倉のお祭りに行くはずだったんだ。でも急に夜勤入っちゃって、行けないんだって。ひどいよねー」

 どこか他人ごとのように言うが、その笑顔は少し寂しげだった。浴衣まで着込んだということは、家を出る直前にキャンセルになったのかもしれない。それでもなんとなく、この子は「しょうがないよねー」と笑って済ませたような気がする。その心がどれほど痛んでいたとしても。

「あのさ――」

 そこまで考えたところで、和樹は反射的に口を開いていた。

「よかったら、一緒に和歌やってみようよ。俺もちょうどやることなくてさ」

 明日歌は、ぽかんと口を開けて和樹を見ていた。それがみるみる、花が咲くような笑顔に変わり、「うん!」と頷いた。

「やったー! 和歌ができたらきっとかっこいいよね! 楽しそう」

「うん。じゃあ、うちのおばあちゃんに――」

「和樹くんに教わるなんて楽しみだなー」

「……んっ!?」

 どこかで重大な齟齬が生じていることに気づき、和樹はにわかに青くなった。よろけてぶつかった柵がギギギッと不気味に軋む。

「和樹くん頭よさそうだもんねー。私、勉強得意じゃないけど頑張るよ。和歌!」

「あっ、う、うん。がが頑張ろう! あはは!」

 自分がいったいどう見えているのか知らないが、べつに成績はよくないし、和歌なんてもっとわからない。それなのにとっさにかっこつけてしまった。もう笑うしかない。