プロローグ


 高校生のとき、初めて恋をした。とても純粋で、それゆえに恥ずかしくもある、蜂蜜漬けのレモンみたいな恋だ。初めて口にした恋愛感情は、どっぷりと甘ったるい液に浸かっているくせ、酸っぱくて、ほろ苦く、それでいて最後に口の中を支配するのは、それらのどの味でもない。その複雑な風味を、言葉に言い表すことは難しい。

 恋愛という感情を、言語化するのは難解だ。特定の誰かに惹かれること、誰かのことを強く想うこと、その人を自分のものにしたいと願い、行動すること……だけどそれはニュアンスの話であって、恋という感情そのものが引き起こす非理性的な衝動をうまく言い表してはいないように思う。それを言葉にするのは難しい。けれどしいて言うのであれば、恋とは誰かが好きというよりも、誰かに好かれたいという気持ちとでも言った方が、当事者の感情にはより寄り添っているように思う。


 そう、彼女に好かれたいと、何よりも強く強く願っていたあの年、俺は紛れもなく恋をしていた。



現在1


 彼女がやってきたとき、俺はバイト前に寝起きの頭をどうにかしようとシャワーを浴びたところだった。一人暮らしの1Kに鳴り響くチャイム。控えめなノックの音。普段、宅配が来ることがわかってでもいなければ、基本的に呼び出しには応じない。一度新聞の勧誘に出てしまって面倒なことになってから、チャイムには敏感になっていた。

 濡れたままの頭からTシャツを被り、ジーンズに足を通して抜き足差し足ドアの方へ近づく。耳を澄ます。またチャイムが鳴った。諦めの悪い訪問者のようだ。知人なら来る前に連絡をくれるはずなので、たぶん違う。それでも一応誰なのかは確かめようと思って、俺は曇り気味の古いドアスコープからこっそり外を窺った。

 ドアの前に人影がある。制服を着ているように見えた。ぼやけてよくわからないが、背格好からして高校生だろうか。スカートを穿いている。

 オンボロのクーラーが音を立てながら送ってくる生ぬるい冷風が、湯上りの肌にひんやりと染みる。西日を受ける玄関は外の熱気にあてられて、ぼんやりと熱を帯びている。冷風と熱気の狭間で、俺は首にかけたタオルで頭を拭きながら首をひねった。自身の人間相関図の中に、わざわざ自分を訪ねてくるような女子高生がいただろうか。故郷を離れてすでに三年目、大学に通うために実家を出た俺は東京で希薄な人間関係を紡いでおり、こっちに出てきてからどこかの高校を訪れた記憶もない。……女子高生の知り合いなんていないはずだ。

 もう一度チャイムが鳴る。こんこん、と控えめにノックされる。

 たぶん彼女は部屋を間違えているのだと思う。表札はおろか部屋番号すら掲げられていないような物件だ、十分にあり得る。彼女は俺を訪ねてきたわけではないのだろう。それなら納得がいった。

 少なくとも新聞の勧誘ではなさそうだったので、俺はドアを開けて部屋を間違えていることを指摘した。

「たぶん部屋を間違えて、」

 ――いなかったことは、彼女の顔を見てわかった。

 それはとても見覚えのある顔だった。

 言葉を失った俺の代わりに、彼女の口が開いた。あの頃と同じ、色素の薄い、小ぶりな唇。

「久しぶり」、と。

 俺は扉を押さえたまま固まる。

 近くの電柱でアブラゼミがけたたましく鳴いている。ドアを開けた途端なだれ込んできた熱気が風呂上りの肌にみるみる汗を浮かせ、筋となって滴っていく。午後の日差しが白くまぶしくアスファルトに照りつけている。アパート前の坂のマンホールに反射した光が、ちかちかと目を刺す。

 この炎天下の中にいたはずなのに、彼女の額には汗一つ浮かんでいない。まるでクーラーの中にいるみたいに、涼しい顔をして、青白い顔をして、俺をまっすぐに見ている。俺からは少し見下ろす形になる。少女の丸く大きな澄んだ瞳に、間抜けにドアを押さえたままの自分が映っているのがぼんやり見えた。

「なんで……」

 ようやく掠れた声を発した俺に、彼女は肩をすくめた。それだけだった。

「おかしいだろ。だって君は」

 俺は必死に、もがくように、逆らうように、言葉を繋ぐ。

「君は、死んだ」

 そう。

 彼女はあの秋、死んだ。

 交通事故で死んだのだ。

 事故の現場を、見た。パトカーのサイレンが辺りを赤く照らしていた。コンクリートの石段に染みついた黒い血痕。ひしゃげたガードレール。爪痕のようなタイヤの跡。砕け散ったカーブミラー。立ち尽くす野次馬と現場を仕切る警察官。覚えている。覚えている。

 熱中症になって、幻覚でも見ているのだろうか。それとも脱水症状にでもなったか。母校の制服を着て、どこかぼんやりとした表情を浮かべて、平然と俺の前に突っ立っている真夏の亡霊は、あまりにも彼女に似過ぎている――亡霊? 否、彼女の存在はそんな希薄なものではなかった。そこに確かに実体としてあり、存在していた。圧倒的に、存在感があった。

「うん。私、死んだと思う」

 彼女は言った。

「じゃあどうしてここにいるんだ」

「生き返ったみたい」

「生き、返った……」

 そんなはずない。

 人間は生き返らない。

 俺は彼女の葬儀に出席している。彼女の死は俺や、多くのクラスメイトの心に深い傷を残し、それを俺たちは葬式という儀式を経て少しずつ、ゆっくりと、消化していった。「彼女は死んだ」。その事実は、塵のように少しずつ、けれど確実に降り積もって、この数年間で強固な事実として固定化されたはずだった。

 彼女は昔そうしていたように、制服の裾を擦り合わせるようにいじった。手遊びとも少し違う、彼女の独特の癖だった。

「ごめんね。困るよね、いきなり」

「困る……っていうか、びっくりして……」

「受け入れられない?」

「まあ……ウン」

「でも本当なの。私、戻ってきたの」

 どこから……と訊きたいのを俺はこらえた。それは野暮なようで、この世界の禁忌を犯す問いのように思えた。

「なんのために?」

 だから代わりにそう訊いた。

 彼女は俺をまっすぐに見上げて、こう答える。

「やり残したことがあるの。それに付き合ってほしい」



過去1


 高校生の俺は、恋を知らない人間だった。

 言葉としては知っていたし、意味も理解している――そしてそれは、経験して初めて理解を得る事象だということも。そう、俺は「恋」を知ってはいたが、わかってはいなかった。恋ができないことを嘆いていたわけじゃない。ただ、人間関係が希薄な自分には、きっと生涯縁のないことなのだろうなとぼんやり思っていただけだ。

 けれど桜舞い散る四月のこと、俺は君に出会ってしまう。


「神谷くん。予備校探してるんだって?」

 クラス替えで初めて顔を合わせた彼女は、おとなしい笑みを浮かべた、髪の長い少女だった。自己紹介のときの印象を思い出そうとするが、記憶にない。名前なんだったっけなと思いながら、俺はうなずく。

「よく知ってるな」

「先生から聞いた」

 確かに担任の教師には相談した覚えがある。

 彼女はしばし制服の裾を擦り合わせるようにしてから、こんなことを言った。

「駅前に盛南予備校ってあるじゃない? 友だちを二人紹介して一緒に入会すると、紹介した人も含めて授業料が割引になるの。一人は見つけたんだけど、もう一人がなかなか見つからなくて」

「それで俺に?」

 クラスでいつも一人でいる一匹狼な俺はちょうど声をかけやすかったのかもしれない。親切なのか、ゲンキンなのかは微妙なところだと思った。

「だめかな。いい予備校だと思うよ」

 彼女にもその自覚はあるようだ。微妙に気まずそうな笑みを浮かべている。

「ありがとう。ちょっと考えさせてもらってもいいか」

「うん、もちろん」

 それで話は終わりだと思ったのだが、視線を感じて顔を上げると、彼女はまだそこにいて俺のことを不思議そうな目で見ていた。

「なに?」

「ううん。ただ、神谷くんって、髪綺麗だなと思って」

「髪の毛?」

 思わず自分でいじってしまうが、触ったところでもじゃもじゃとした感触くらいしかわからない。少し癖があって、まっすぐではないのだ。コンプレックスというほどではないが、髪を洗うときに指が引っ掛かって鬱陶しいと思っている。しかし、色は特に気にしたことがなかった。

「うん。陽の光が当たるとちょっと茶色っぽい。もともと色素が薄いんだね、きっと」

 窓際の席に座っているので、確かに陽の光はよく当たる。

「そうかな。そんなに茶色い?」

「うん。なんかやわらかい感じがする」

 妙なことを言う子だなと思った。そういう彼女の髪の毛は漆黒で、陽の光も透けないほどに黒く、濃く、つやがあり、なんとなく育ちが良さそうだなと感じさせられた。

「私の頭、なんかついてる?」

「ああ、いや……髪の毛黒いな、と思って」

「あー、でしょ。イカ墨パスタみたいだよね」

 思わず少し笑ってしまった。自分の髪の毛をイカ墨パスタに喩える女の子がいるとは思いもよらなかったのだ。

「あ、ひどい。なんで笑うの」

「いや、ごめん。なんかツボに入った」

「えー、そんな変なこと言ったかなあ。結構コンプレックスなのに」

「染めればいいじゃん。ブリーチとかかけて」

「親が怒るの。馬鹿になるからやめなさいって。髪の毛で勉強するわけじゃないのにね」

 彼女は唇を尖らせて自分の髪の毛を擦り合わせた。それは彼女の癖のようだった。

 第一印象は、変な子。名前は皇カノン。奏でる音と書いてカノンと読むのだと、そう教えてくれた。


 第一印象に違わず、彼女は変わり者のようだった。優等生には違いない。けれどあまり他の女子と一緒にいるところを見かけなかったし、特定のグループに所属しているという雰囲気はなかった。決していじめを受けていたとか、村八分を食っていたということではないと思う。ただ彼女は文字通り風船のような存在で、皆とは少し違うところを浮遊しており、その紐を引っ張ってくれる者がクラスにはいなかったのだ。

 ……いや、いたか。

 彼女がよく話している生徒が、一人だけいた。

 井崎藤二は変わり者というよりは問題児で、色々と悪い噂のある生徒だった。遅刻、居眠り、サボリに喧嘩。長めの髪の毛に、鋭い目をしていて、いつも苛立っている。

 あからさまに話しかけづらい雰囲気なので、クラスメイトたちは一様に遠巻きにしていたが、皇はそんな彼にも平気で話しかけていた。井崎も彼女には気さくに応じていて、そういうときの井崎は普通にいいやつのように見えて、皇が予備校に誘ったというもう一人は、たぶん彼のことなのだろうと思った。

 今日も皇は井崎の席に行って話をしている。彼女たちはいわゆる付き合っている男女というふうでもなかったが、ただの友だちとするにも違う気がして、その特殊な関係性に俺はいくばくかの好奇心をそそられていた。

 ふいに、井崎と目が合った。狙いすましたようにこっちを見たので、視線に気づいていたのかもしれない。井崎が皇に何かを話しかけ、皇もこっちを見た。今さらのように目を逸らしたが、二人が立ち上がってこっちにやってくるのが視界の隅に映り、俺はどうしたものかと思案する。

「ほんとだ。神谷の髪、綺麗だな」

 第一声が、それだった。

 井崎はそれが当然であるかのように、最初から俺を呼び捨てにした。それでなんだか、俺もこいつのことは呼び捨てにした方がいいんだろうなと思った。

「でしょ。いいよね、うっすら茶色くって。ふわふわした感じするよね」

「ふわふわかはわからんけど、なんかやわらかい感じな」

「そうそう。触ってみたくなる」

 皇は自分の髪の毛を擦り合わせている。

「別にやわらかくなんかないって。ごわごわで、もじゃもじゃ」

 俺が言うと、井崎が自分の髪を指差す。

「ごわごわでもじゃもじゃってのは、俺みたいなのを言うんだ」

 井崎はロン毛というほどではないけれど目にかかるくらいの前髪と、全体的にぼさぼさとした髪質で、はっきり言ってちょっと鬱陶しい。不自然に真っ黒なので染めたばかりなのかもしれないが、なんだか海藻みたいだ。井崎は自分の髪型に頓着がないようで、伸ばし放題のその頭をどうにかしようとは思っていないらしい。

「切ればいいのに」と、皇。

「ここまで来るとあと二センチくらい伸びても別に変わらないんだよな」

「変わるでしょ、ふつーに」

「いいんだよ、別に。野球部じゃないんだしさ」

 井崎は部活動に所属していない。それは知っている。ちなみに皇は吹奏楽部に所属している。俺は帰宅部だ。

「そういえば神谷、奏音の話、どうだ」

 唐突に井崎が言った。

「話?」

「予備校の話。探してるんだろ?」

「ああ、あの話……」

 紹介すると授業料が割引になるとかいう。

「俺がそこに決めたら、君たちもそこに決めるってこと?」

「そうしようかと思って」

「そんな他人本位な理由でいいのか?」

「どこも同じように見えるから、金で差をつけようと思ってるんだよ」

「そんな世知辛い理由かよ……」

「ばーか。金は大事だぞ。超大事だ」

「予備校に行かないっていう選択肢はないのか?」

「俺の頭じゃ無理だ」

「皇さん優等生じゃん。勉強教えてもらえば?」

「ああ、私教えるのダメなんだー。すっごいダメ。なに言ってるか自分でもわかんなくなっちゃう」

 それは重症だ。

「で、どうなんだよ?」

 井崎に睨まれて、俺は肩をすくめた。

 正直、どこも同じように見えるというのは同感だった。規模が大きいにしろ小さいにしろ、どこもある程度の知名度はあるし、それぞれに強みや売りがある。その強みや売りで実績を作ってきたのだろうから、結果に誇張こそあれ嘘はないだろうし、入ればある程度までレベルを引き上げてくれるのは間違いない。その先まで伸ばすのは結局自分次第なのだから、あとはどこを利用するかというだけの話だ。

「行ってもいいけど……」

「いいけど?」

 井崎が眉を吊り上げたので、俺は慌てて手を振った。

「いや、君たちはそれでいいのか? なんか二人の仲に自分が割って入っていくみたいで気が引けるっていうか……」

「なんだ、そんなの全然ないから気にするなよ」

 井崎は平然と言い、皇も微笑んだ。

「あのね、誰でもよくて声かけてたわけじゃないんだよ。あの人誘おう、この人誘おうって私が言っても、藤二なかなかウンって言わなくて」

「余計なこと言うな」

「でも神谷くんは他の男子と違って空気っぽいからいいって」

「言うなっつーの」

「俺は空気かよ。結局邪魔なんじゃん」

 皇が笑い、俺も笑った。井崎は失礼なことを言ったという自覚はあったのか、渋い顔をしてそっぽを向いた。存外にいいやつかもしれない。

「まあ、いいや。空気でもよければ、一緒に入るよ」

 俺は言った。空気でいいというのが却って気楽に感じたというのもあるし、そろそろ予備校を決めなければいけなかったというのもある。クラスでも優秀な皇が行くというのなら、予備校のレベルにもきっと問題はないだろう。

「ほんと? やった!」

 皇は無邪気に喜び、井崎は自分から言い出したくせに何が気に食わなかったのか、ふんと鼻を鳴らした。そうして高校最後の年、俺は彼らと多くの時間を過ごすことになる。



 ツツジが咲き乱れ、ぽつぽつと紫陽花が蕾をつけ始める頃、俺は盛南予備校に通い始め、自習室によく籠るようになった。学校が終わるとまっすぐ予備校へ行き、まだまばらな自習室の後ろの隅っこに席を取って、黙々と復習に励む。もともと勉強は好きだ。一つのことに集中すると、比較的集中力が持続する。

 井崎はあまり自習室には来なかった。彼は見るからに勉強嫌いで、受験にもあまり乗り気ではなさそうに見える。皇は俺と同じくらいの頻度で自習室を訪れていた。俺と皇は同じクラスの授業を取っていたので、授業でもよく顔を合わせた。

「井崎、あんまり来ないな」

「そうね。バイトが忙しいのかも」

 そうか、あいつバイトしてるんだっけ。

「皇さんと井崎って、二年のときも同じクラス?」

 後に皇のことも奏音と呼び捨てにするようになるが、この頃はまだ皇さんと呼んでいた。井崎は最初から井崎だ。

「一年からずっと一緒だよ。で、ずーっとあんな感じ」

 皇は笑った。

「成績は悪いけど、頭いいんだよ。やればできる子」

「でもやらない、と」

 バイトのせいでできないのかもしれないが。

「運動神経もいいよな」

「そうね。足速いよね」

 体育の授業で知った。五十メートルを六秒前半で走って周囲を沸かせていた。

「変なやつ」

 ぼやくと、皇がまた笑う。

「神谷くんは、藤二と普通に話せるんだね」

「普通?」

「普通に話してたじゃない。初対面でも」

「あれは向こうがそういう感じできたから」

「そういう感じでくるから、苦手だって人多いんだよ。クラスでも」

「ああ、それは……」

 クラスでの井崎は明らかに浮いている。皇も浮いている。

「私たち、いいトリオかも」

「ええー、俺も入ってんの」

 ついつい反論すると、皇はくすくす笑った。

「そう。神谷くんと、藤二と、私。盛南トリオ」

 嫌なトリオだ。弾かれ者同士が傷をなめ合っているみたいで。

「ねえ、今度三人でどっか行こうよ」

 皇が言う。

「どっかって?」

「どこでも。最近天気いいし、どっかピクニックとか」

「ガラじゃないな」

「私も藤二もガラじゃないもん」

「三人ともガラじゃないのに?」

「トリオだからね。連帯責任」

 よくわからない。

 皇はときどき、突拍子もないことを言った。それは彼女の癖のような、性質のような、井崎は諦めているのか受け入れているのかそれを指摘することはないが、たぶん変だとは思っているはずだ。それに井崎は短気だ。基本苛立っている。喧嘩っ早いということは噂に聞いているし、そんな井崎がなぜ変わり者の皇と仲良くしているのか、俺にはよくわからなかった。

「せめて映画とかにしようぜ。ピクニックって響きがもう無理」

「ええー、まあ映画でもいいけどさあ……なんかやってたっけ、今」

 言ってはみたものの、映画の好みも綺麗に三分しそうだな、と俺はぼんやり思った。


「俺はアクションが好き。派手なやつ。スターウォーズとか」

「私は、えー、なんだろ。ジブリかな」

「サスペンスとか、ミステリとか好きだな」

 ほら、三者三様だ。

 うちの高校の校舎はコの字型になっていて、真ん中のところが中庭になっている。芝生が植えてあり、ベンチがいくつかあって、俺たちはそのベンチに三人並んで腰かけお昼を一緒に食べるのが日課になっていた。傍から見れば、さぞかし奇妙な取り合わせなのだろうなと思う。問題児と、優等生と、一匹狼。

「全員バラバラじゃん」

 井崎が言ってお行儀悪く箸をかちゃかちゃ鳴らした。彼は購買で買ってきたパンでも食べてそうなイメージがあったが、いつも普通にお弁当だ。逆に皇は購買のサンドイッチのことが多い。

「だいたい映画って、あんまり一緒に観にいく意味なくないか。どうせ見てるときはしゃべれないし」

「後で感想言い合ったりできるじゃない」

「おもしろかった、つまんなかった、で終わりだろ」

 井崎はにべもないが、皇はにこにこしている。

「私あれが見たいなあ。動物たちがレーサーになってレースするやつ。なんだっけ」

「『アニマル・レーシング』? CGアニメのやつだよな」

 アニメ、の部分が気に入らなかったのか、井崎は鼻を鳴らした。

「奏音って結構子供趣味なんだよな」

 井崎は玉子焼きを一口で呑み込むと、どうせCGならスペースオペラの派手なやつが観たいと言った。

「そんなの今はやってないよ」

「じゃあ俺パス」

「えー、藤二いつもそれじゃん。たまにはこっちの観たいのにも付き合ってよ」

 皇が頬を膨らませた。しかし藤二も渋面を崩さない。

「じゃああれはどうよ、アメコミ原作のヒーローモノ。あんまり皇さんの趣味じゃないかもしれないけど、藤二もそれならいいだろ?」

 俺が折衷案を提案すると、皇もうなずいた。

「ああ、それでもいいよ。私アメコミ好き」

 井崎もそれならと了承して、週末の土曜日に映画を観ることになった。



 ところが肝心の土曜日当日、井崎はアルバイトが入ったとか言って、待ち合わせ場所に来なかった。後には俺と、皇が残される。

 皇の私服姿は初めて見たが、紺のロングスカートに白地のチュニックは控えめな彼女らしい装いで期待を裏切らない。井崎がいたら、あいつはどんな格好をしてきたのだろう。勝手にパンクでロックなイメージを膨らませていると、皇が不機嫌を露わにした。

「これだから藤二は」

 その口調からすると、これが初めてでもなさそうだった。

「あいつと出かけたりしたことある?」

「あるよ。でも大半はドタキャンされて一人ぼっち」

「ひどいな」

「でしょー」

 皇はため息をついた。

「いっつもそうなんだ。私嫌われてるのかも。藤二と趣味合わないし」

「そんなことないと思うけど……まあ来ないもんはしょうがないね。どうする?」

 俺は若干腰が引けていた。女子と二人で映画を観るなんて、まるでアレだ。「二人で観る?」の一言を省略したのは意識的だった。自分が言うとなんだか下心があるように思われそうなのが嫌で、皇に判断を投げたのだ。

「そうだねえ。神谷くん、嫌じゃない?」

「え?」

 皇は少し言いにくそうにした。

「その、私と二人で観るの、さ。嫌ならやめとこう。実を言うと私もちょっと緊張しちゃう」

 それで却って気が少し楽になる。

「俺、空気らしいから。そう思ってみれば。それに井崎がいないんなら、逆に『アニマル・レーシング』観るチャンスかも」

 そう言ってみると、皇が目を丸くした。

「おお……その手があったわい」

 小さくガッツポーズを作る皇は微笑ましい。良くも悪くも感情に素直な皇は裏表がないのでわかりやすいのだ。いっそわかりやすすぎるくらいで、井崎とはそういうところが似ているような気もする。井崎も感情が表に出やすいタイプで、自分にも他人にも誤魔化しがない。

 俺たちは待ち合わせ場所から映画館へ向かうと、十時からの『アニマル・レーシング』字幕版のチケットを二枚買った。

「ポップコーンとか食べる人?」

「ううん。私ポップコーンってあんまり好きじゃないの。神谷くんは?」

「飲み物だけ欲しいな」

「コンビニで買ってくれば安く済むよ」

「そうだけど、それってマナー違反じゃん? 俺は映画観るときは映画館の中で飲み物買うことにしてる」

「ふーん。えらいね」

 俺たちはカウンターでそれぞれ飲み物を買った。それからしばし物販を冷やかし、開場と同時にスクリーン7に入った。席は後ろの方だ。皇は眼鏡を取り出してかけていた。皇の眼鏡姿は初めて見る。

「前の方がよかった?」

「ううん。眼鏡かければ見えるから。前の方で見ると首痛くなるんだよね」

「授業とかではかけてなくない?」

「前の方座ってるからね。そんなに悪くないの。でも今日は字幕だから」

 それから予告編が始まって、俺は流れていく情報をぼんやり眺めながら、井崎は今頃なにをしているのだろうと考えた。

 あいつも――半分はドタキャンしているとはいえ――こんなふうに皇と二人で何度か出かけているのだとしたら、なんとも思わないのだろうか。皇にしてみたら井崎に散々ドタキャンされているわけで、誘うのはもはや意地なのかもしれないが、井崎の方はどうなのだろう。男女が二人っきりで映画を観たり、遊んだりしているとしたら、それは傍から見れば……そういうふうに見えるわけで。

 俺は大迫力の予告編に目をキラキラさせて見入っている皇をちらりと見る。もし最初から井崎がいなかったら、こうして二人で映画を観にくることはなかっただろう。今後も三人で出掛ける約束をするたびに、井崎がドタキャンをしたら、俺は皇と二人で出掛けることになるのだろうか。それは想像するとやはり少し気まずくて、鼓動が速まる。俺と皇が頻繁に二人で出掛けることを、井崎はどう思うのだろう。

 映画本編にはいまいち入りこめなかった。若干子供向けで俺には物足りなかったというのもあるが、諸々妄想を膨らませていたせいで頭に入ってこなかったというのが正直なところだと思う。


「藤二のバイト先に行ってみない?」

 映画の後で、皇が言い出した。

「ドタキャンされたときはいっつも嫌がらせで行ってやるのです」

 皇は悪い顔をしてニヤリと付け加える。

「あいつ、どこでバイトしてんの」

「駅前の喫茶店。飲食なのにあの頭でよく文句言われないなっていっつも思う」

 大いに同感だった。お客からの印象はあまりよくないだろう。

 映画を観た町から電車で地元へ戻り、駅前の喫茶店へ向かう。俺もよく知っているチェーンの店だった。井崎は土日には基本バイトを入れていないが、しょっちゅうヘルプで呼ばれて、結局大概の土日はいるらしい。

 休日の店内は混み合っていたが、なんとか二人分の席を確保してカウンターへ向かう。果たして井崎はレジに無愛想に突っ立っていた。客捌きはスムーズで長い客の列がみるみる減っていくが、致命的に笑顔が薄い。俺たちの番がきてレジの前に立つと、井崎はあからさまに嫌そうな顔をして俺と皇の顔を交互に見た。

「君たち、俺がドタキャンするたびにここに来るつもり?」

「君がドタキャンするのをやめるまで、来るのをやめません」

 皇がにこにこして「アイスのカフェラテください」と言った。それから、お昼がまだだったのでサンドイッチを吟味し始める。

「そっちは?」

 と、井崎が顎をしゃくって俺を見た。

「アイスコーヒー」

「めちゃくちゃ苦くしてやる」

「無理だろ。作り置きなんだから」

「じゃあ温くしとく」

「ごめんなさい、やめてください」

 井崎はわざとらしくグラスに氷を入れ忘れようとしたり、アイスコーヒーではなくホットコーヒーを注ぐフリをしたりして余計な時間を使ってから、きちんとアイスコーヒーを出してくれた。

「神谷も奏音を止めろよな。あいつ、いっつも来るんだ。いつもアイスのカフェラテとタマゴサンド頼むんだぜ」

「それは毎回ドタキャンしてる誰かさんが悪いだろ。約束をなんだと思ってんだよ」

「悪いとは思ってるから、こっそり割引してるよ」

「それはそれでどうなんだ。あと、飲食やるなら髪切った方がいいと思う」

「余計なお世話だ」

 皇がタマゴサンドがおいしいよと言うので俺もそれにして、飲み物と一緒に受け取る。井崎はさっさと行けと言わんばかりにしっしと手を振り、次の客に愛想のない笑顔を向けた。

「あいつって、なんでバイトしてんの」

 席に座ってから俺は疑問に思っていたことを皇にぶつけてみた。うちの高校は別にバイト禁止ではないが、なんとなく高校生はあまりアルバイトをしないものだと思う。

「大学の学費稼いでるって言ってた」

 皇がカフェラテを啜りながら口にした答えは思いのほか生真面目なもので、俺は目を丸くした。

「学費?」

「親は国公立ならお金出してくれるらしいんだけど、行きたい大学は私立なんだって。それで自分で学費稼いでるの」

「あいつ、勉強あんまりしてなさそうだけどそっちは大丈夫なのか」

「まあ、やればできる子だから。意外と密かに自習してたりするかも。ああ見えて努力家だよ。髪の毛切らないのも、お金かかるの嫌だからなのかも」

「へえ……銭ゲバみたい」

「こらこら」

 井崎がそんな理由でバイトをしているとは意外だった。勉強嫌いそうなのに、行きたい大学のためにアルバイトをする井崎の姿は、少し彼のイメージから外れている。

 それから俺はしばらく皇と話しこんだ。映画の感想や、井崎の悪口や、受験勉強の話をした。誰かとこんなにもたくさん話をしたのは久しぶりだと思った。友だちがいないわけではないが、部活動にも所属していなかったし、高校の人間関係にあまり深く関わってこなかった俺にとって、それは新鮮でかつ夢中になれるものだと知った。時間は飛ぶように過ぎていき、若干の名残惜しさを感じつつ夕方頃に店を後にし、皇と別れた。別れ際、皇が「今日はすごい楽しかった。ありがとう」と言った。俺はなんだか気恥ずかしくて、「またな」とだけ言った。

 家に帰ってからも、俺は皇との話を反芻した。話しているときの皇の仕草や、笑うときにうっすら浮かぶえくぼなどを、やけに強く思い出した。



現在2


 部屋の中には制服姿の彼女がちょこんと座っている。興味深そうに部屋をきょろきょろ見回しているので、あんまり見るなよと言いながら俺は散らかった机の上を片付ける。

「手伝おうか?」

「いい」

 オンボロのクーラーががたがた音を立てている。

 窓を閉め切っているのに、外で鳴いている蝉の声がやけにうるさく聞こえる。

 奇妙な気分だ。

 死んだはずの人間が部屋の中にいる。平然と、当たり前のように。不気味さや恐怖は薄く、困惑と懐かしさばかりがこみあげて、胸の内をぐしゃぐしゃにかき乱す。制服を着ている彼女は本当にあの頃の高校からそのまま飛び出してきたようで、長い髪も、制服の裾を擦り合わせるようにいじる癖も、瞬きの少ない大きな瞳も、俺の記憶の中のそれと寸分のズレもない。

「なんか飲む?」

 俺は場をしのぐようにそう訊いた。

「と言っても、選択肢そんなにないけど」

「おかまいなく」

 奏音はにこりと微笑んで、「背、伸びたね」とどうでもいいことを言った。

「そんなに伸びてない」

「そう?」

「まだあれから数年だし」

 ついついぶっきらぼうにしてしまうのは照れ隠しなのか、それともこのどうしていいのかわからない感情をやみくもにぶつけているだけなのか。

「それで、やり残したことって?」

 俺が訊ねると、奏音は首を傾げた。

「他に訊きたいことないの?」

「他って?」

「どうやって戻ってきたのか、とか」

「訊いたら答えてくれんの?」

「ううん。私にもわかんない」

 突拍子のなさ、脈絡の欠落、彼女が昔も持っていた性質だ。

 電球が一つ切れている蛍光灯の薄明かりが気になるのか、奏音は天井を見上げてふわふわと体を揺らしている。そんな彼女を見ていると、俺は無性に苛立ちを覚える。

 だって、彼女は死んだはずなのだ。俺はその死を受け止めて、受け入れて、この数年でやっと消化したのだ。なのにどうして今さら、戻ってきた。そりゃあ、死んでほしくなかった。生きていてほしかった。彼女が生きていれば――何度も思った。だけどこうして目の前に彼女が現れると、そこに喜びは薄くただただ苛立った自分がいるだけだ。

「なんか怒ってる?」

 彼女にも気づかれた。

「別に」

「ごめんね。やっぱり、迷惑だよね」

「大丈夫。いいから話せって」

 俺は奏音と自分自身を誤魔化すように強引に話を進めた。彼女は紛れもなく皇奏音なのに、それを信じたくない自分がいるのだ。信じてしまえば、何かから逃れられなくなる気がしている。そうなる前に、面倒事は片付けてしまいたかった。

「わかった」

 奏音がうなずいたので、俺はいったいなにを言われるかと身構えた。

「映画館に行きたい」

 俺は目を瞬いた。意味がよくわからなかったのだ。

「君と映画を観にいきたいの」

 彼女は繰り返した。聞き間違いではなかったらしい。

「……映画?」

 やっとのことで、そう返す。

「そう。映画」

 奏音はうなずく。

「俺と一緒に?」

 間抜けなことを訊ねると、奏音はもう一度深くうなずいた。

「だからここに来たの」

「そのために戻ってきたのか?」

「そう。変?」

「変っていうか……変だろ」

 俺はつぶやくように言った。

 今さらだ。皇奏音はもうこの世の人間ではない。そんな彼女が今さら俺と映画なんか観て、いったいなんになるというのだろう。それができたら彼女は成仏するとでもいうのか。

 冗談じゃない。なんで俺がそんなことをしなくてはならないのだ。俺は彼女の死を受け入れた。それはそんな昔のことじゃない。時間が解決してくれる傷は多い。だけどそれは、大概とても時間がかかる。

 やっと、前に進めると思ったのだ。やっと。やっと。ようやく。

「……嫌だ」

 気がつくと俺はそう答えていた。

「皇奏音はもう死んだんだ。君が皇奏音だとしても、俺にとってはここにいない人間だ。いない人と、映画を観にいくことなんてできない」

 奏音はまっすぐに俺を見ていた。胸の奥底に溜まったどろどろとした感情……その底に埋もれた本音まで見透かすような、決して睨んでいるふうではないのに鋭いまなざしに俺は目を逸らす。

「そっか。わかった」

 奏音は短くそう言った。

「いいのか?」

 何を訊いているのだろう。自分で断ったくせに。

「いいよ。無理かもって思ってた」

 奏音は落胆した様子は見せなかった。本当にそう思っていたのかもしれないし、気を遣ったのかもしれない。俺にとってはどっちでも同じことだ。

「さてと。フラれちゃったし、おいとましようかな」

 奏音が言って、膝を払いながら立ち上がるのを俺はぼんやり見ていた。

「これからどうするんだ」

 そんなことを訊いてしまう。訊いたところで、どうするわけでもないのに。

「さあ……どうだろう。断られたときのことはあまり考えてなかったんだよね」

「断られると思っていたくせに?」

「それとこれとは話が別だよ」

 呑気なことを言って、奏音は伸びをする。

「君は……消えるのか」

 目の前の彼女は幽霊と呼ぶにはあまりに存在感があり、生物としてそこにあり、はっきりと存在している。触ればきっと熱があり、生々しい少女の弾力があり、鼓動さえも感じるのだろう。そう簡単に、魔法みたいに、消えてしまいそうには思えない。けれど彼女がこの世のものでないのなら、いつか世界から消えるのが世の定めなのだろうとも思う。

「消えるのかもしれないね」

 奏音はつぶやくように言った。それからゆっくり踵を返し、玄関の方へ向かっていった。俺はその後をのろのろと追った。見送ろうと思ったわけではない。ただ惰性で足が動いただけだ。

 奏音は靴を履くと、一度だけ俺を振り向いた。

「さようなら」

 別れの挨拶は短かった。

 ドアが開いて、長い髪とスカートが翻り、すっと視界から消える。ドアは俺が言葉を返す前にけたたましい音を立てて閉じた。後にはぼろいクーラーが立てる騒音と、蝉の鳴き声が残される。

 ドアの前から足音が遠ざかっていくと、急にどっと疲れたような気がして俺はそのまま玄関にへたり込んだ。

 頬をつねる。それから、ぱんぱんと両頬を挟むようにして叩く。

 夢?

 そんなオチを期待していたわけではない。

 俺はただ、このぼんやりとした、もやもやとした、はっきりと答えの出ない思考の迷路に、出口を求めているのだ。さっきまで、奏音が家にいた。その事実に対して、自分が取るべき行動は結局わからないまま、俺は一番簡単な方法でそれを解決しようとした。思考することを放棄したのだ。

 だけどそれは本当に解決したのだろうか。俺は正しい選択をしたのだろうか。一つのもやもやは確かに消えて、けれど別のもやもやが胸の内に忍び込んできている。このもやもやはどうすれば晴れるのだろう。寝て、目が覚めればすっきりするのだろうか。それとも明日になってもずきずきと生傷のようにうずいて、俺の中に居座り続けるのだろうか。



「ボールちょうだい」

 彼女が両手を掲げて仁王立ちしているのをしばし無視して、俺はボールをつきながら空を見上げる。秋晴れの青い空。綺麗ないわし雲。涼しい風が吹いて髪を揺らす。袖をまくっていると少し肌寒いけれど、動けば暑くなりそうで、そういう意味では運動日和だ。

 昼休みのバスケットコートは生徒たちで賑わっている。放課後はバスケ部が占有しているそのスペースも、この時間は誰でも使える。反対側のゴールでは、一年生と思しき男子の集団がわらわらとボールを追いかけている。

「ねえってば。ボール!」

 視線を戻し、バスケットボールを片手で放り投げると、にゅおっ、とか奇声を発しながら彼女は飛びつくようにそれをキャッチした。

「バスケットボールって苦手なんだよね。なんであんなにゴール小さくしたんだろ」

 カーディガンを腰巻きにして、袖をまくった少女は、ボールの軌道をイメージするようにシュートフォームを作って片目を眇めている。

「サッカーとかはあんなに大きいのに」

「サッカーにはキーパーがいるだろ」

「バスケだって、全員でゴール邪魔するじゃない。同じよ」

 彼女は片目をつぶったまま、勢いよくジャンプシュートを放った。結わえた髪の毛が大きく揺れ、カーディガンとスカートがはためく。やや低い軌道でゴールへ向かったボールはリングに嫌われ、大きく弾んで少女の下へ戻った。

「あー、もう。せめてもうちょっと低くしてくれたらなあ」

「それじゃあバスケにならない」

 俺は笑った。彼女は平均的に見ても小柄な方だが、同じくらいの背丈で活躍している選手だっている。

「ねえ、ダンクできる?」

 不意に訊かれ、俺は首を横に振った。タッパはある方だが、リングには大きくジャンプして手がやっと届くかどうかだ。

「やってみてよ」

 ボールをパスされ、ついでに無茶ぶりもされる。俺は首を傾げながらゴールリングを見上げる。普通に高い。バスケ部でも、ダンクできる人間はそう多くないと聞いている。身長百九十もあればジャンプして掴めるだろうか。しかし、ダンクはその上からボールを叩きこまねばならないのだ。

「無理だよ」

 言いながらも俺はボールをつきはじめた。助走の距離を見定め、数歩後ずさる。彼女がゴール前を空けた。期待するように俺を見つめている。少し気持ちが昂ぶった。

 俺は走り始める。

 ドリブルしながらぐんぐん加速する。

 ゴールはみるみるうちに目の前に迫り、俺はボールを抱えて飛んだ。

 ふわっ、と驚くほど体が軽い。

 肉体は地を遠く離れる。

 飛んでいるのかと思った。

 ゴールリングが目の前にある。

 掲げた腕はさらに高い。

 俺は両手で掴んだボールをゴールにたたき込む。

 ――耳をつんざく急ブレーキの音。

 急に世界が暗転した。リングが消えた。ボールも消えた。俺は盛大に空ぶって、勢いよく前方宙返りをかます。

 着地。耳慣れない水音がして、見下ろすといつのまにか足下には血だまりができている。一面の血の海に、自分の足が足首まで浸かっている。

「奏音?」

 俺はそこにいるはずの彼女の名前を呼ぶ。しかし返事はない。

「奏音!」

 ばちゃり、と何かが血の水面に倒れるような音が応える。

 振り向くとそこに、カーディガンを腰巻きにした少女の体が力なく横たわっている。

 俺は声にならない悲鳴をあげる。

 どこからともなく、サイレンの音がして――。


 サイレンの音で我に返り、頭を上げた。途端に壁に側頭部をしたたかにぶつける。玄関で膝を抱えたまま、眠ってしまったらしい。

 嫌な夢を見た気がするが、記憶はおぼろげだった。しばらくぼんやりとして、奏音が家にきたことを思い出した。あれも夢だったならよかったのに……そう思いつつ俺は体を起こし、窓の外が薄暗くなっていることに気がつく。

「やべっ、バイト……」

 携帯を見ると何本も連絡が入っており、時計を見ると自分の勤務時間はとうに半分を過ぎていた。慌てて立ち上がり、荷物を引っ掴んで家を飛び出そうとして――けれど玄関で立ち止まる。

 サイレンの音。

 夕暮れ時。

 あの日も、どこかでサイレンが鳴っていた。

 あのとき、俺は彼女と喧嘩をしていたのだ。そしてそのことを後悔していた。すぐに謝った方がいいと、頭のどこかではわかっていた。

 だけどそうはせず、俺は一人ふらふらと町へ出た。

 事故が起きたのは、その直後だ。

 ひしゃげたガードレールと、砕け散った車のフロントガラス、黒いタイヤの跡。コンクリートにできた大きな染み、警察の張った黄色いテープと、赤いロードコーン。パトカーのサイレンの真っ赤な光。

 帰りに現場を通りかかって、事故があったことを聞いた。事故に遭った人物の名を聞き、俺の理性は吹っ飛んだ。だから、それから後のことはよく覚えていない。

 ずっと頭の隅に引っ掛かっていることがある。

 もしあの日、俺が謝りにいっていたら。

 死ななかったかもしれない。事故に巻き込まれることは、なかったかもしれない。

 裏を返せば、俺のせいで死んだのかもしれない。俺が殺したのかもしれない。

 サイレンの音が聞こえる。

 さっきよりも近い気がする。

 彼女はどこへ行ったのだろう。

 ――君は……消えるのか。

 そう問うた俺に、彼女は答えた。

 ――消えるのかもしれないね。

 消える。いつ? あれから何時間が過ぎた。死んだはずの人間に行く当てなんてあるわけがない。彼女は消えようとしているのだろうか。消えるって、どういう意味だ。死ぬのか? もう一度?

 瞼を閉じると、あの日の景色が、まるでペンキか何かで瞼の裏に塗ってあるかのように鮮やかによみがえる。消そうとしても、消そうとしても、一向に薄れることのない記憶が、今日は一段と濃く、深く、強く――。

 やめろ。

 もう過ぎたことだ。とっくの昔に、終わったはずのことなんだ。

 後悔なら腐るほどした。大切な人が死んで、俺の心は真っ暗に塗りつぶされた。それでも乗り越えて、今日まで生きてこれたのは、時間をかけて少しずつ、傷が癒えて、塞がって、消えることはなくとも薄れていこうとしているからだ。

 それを今さら、塞がった瘡蓋を、無理矢理剥がすような。

 彼女は死んでいるのだ。

 もう一度死ぬなんてあるわけがない。

 今日とあの日は違う。あの日と同じことなんて、起こるわけがない。それに俺はバイトに大幅に遅刻している。バイトに行くべきなんだ。

 そう強く強く強く、身に刻み込むように言い聞かせて、けれど遠くから今度は救急車のサイレンが聞こえて俺の心は何かに陥落した。

「くそっ」

 詰りながら俺はバイトの荷物を放り出し、スニーカーを引っかけて玄関から飛び出した。


 住んでいる町は都心からは少し離れていて、緑も多く郊外といえば郊外だが、少し歩けばコンビニもスーパーもある。近くに団地があって、雰囲気も実情も概ねベッドタウンだ。夜の道に人気はなく、街灯のおぼつかない光の中を羽虫がちらほら飛んでいる。空は少し曇り模様で、月が薄く雲の向こう側にぼんやりと光を灯している。

 俺は靴の紐もろくに締めないまま、家の前の坂を駆け下りた。彼女がどこへ行ったかなんて見当もつかない。あれから何時間も経っている。彼女は電車に乗ったかもしれない。タクシーを拾ったかもしれない。あるいはバスに乗ったかもしれないし、走ってどこかへ行ってしまったかもしれない。近くになんて、いないかもしれないのに、走り始めた足は止まることを許してくれない。

 もう消えてしまったかもしれない。

 その可能性はもっとも高いように思われたが、俺はそれを考えないようにし続けた。考えてしまえば足が止まる。俺は足を止めたくなかった。認めたくはなかったが、彼女を探したかったのだ。

 サイレンの音に耳を澄ませる。まだ聞こえる。パトカーのサイレンは止んでいたが、救急車のサイレンがまだ鳴っている。耳を頼りに俺は音のする方目指してしゃかりきに足を動かす。

 坂を下りきって、少し大きめの通りを最寄の駅に向かってまっすぐに走っていくうちにサイレンは止んでしまったが、サイレンが照らす赤い光が見えてきた。すでに宵闇に包まれた町に、赤色灯は不気味に明滅する。パトカーが一台、救急車が一台止まっている。周囲を近所の野次馬が取り囲むようにして、小さく輪を作っている。

 何があったのか憶測する間も惜しみ、野次馬をやや強引にかき分けるようにして、俺は現場に体を割り込ませた。

 一瞬身が竦んだのは、交通事故だったからだ。

 車が派手に電柱に激突している。フロントガラスは粉々に砕け散り、フロントバンパーは見る影もなくひしゃげている。ぶつかられた電柱の方も少し傾いているようだ。よほどの勢いでぶつかったらしい。

 救急車はすでに被害者の搬入を終えているようで、怪我人の姿は見当たらなかった。事故車の中には誰もいない。血痕は、ひとまず見当たらない。

「すみません!」

 事情を聴取しているらしい警察官に、俺は縋りつくようにして訊ねる。

「被害に遭った方はどうなりました?」

「はい? ……運転手の男性が重傷ですが、命に別状はないですよ。お知り合いですか?」

 俺は放心した。

 それは安堵だったろうか。はっきりとはわからない。

「いえ、違います。すみません……」

 俺は不審げな警察に背を向けてのろのろと野次馬の輪から出た。

 いったい自分はなにをしているのだろう――我に返って少し恥ずかしくなる。

 やはりあの日と同じことが起きるはずがなかった。そうそう簡単に人が死んでたまるか――そう思う俺は、やはり少し安堵しているだろうか。

「そうだよな。奏音が二度も交通事故に遭うわけが、」

 しかし、ふらふらと顔を上げて野次馬に取り囲まれた事故現場をぼーっと見つめていた俺は、今度こそ心臓が止まりそうになる。

 野次馬の中に、見覚えのある制服姿が混じっていた。

 長い髪がさらさらと夜風に揺れている。つま先立ちをして、事故の現場を見ようとしている。自分が事故に遭って死んだというのに、なぜ交通事故の現場など見たがるのか。見つけた、という気持ちよりも憤慨が湧きおこり、俺は深くため息をこぼす。

 皇奏音が、そこにいた。

 俺はつかつかと歩み寄り彼女の腕を掴んだ。驚いたように振り向いた彼女が、俺の顔を見てさらに目を丸くした。

「事故の野次馬なんかするもんじゃない」

「……どうしてここにいるの」

「こっちの台詞だ、まったく」

 俺はそのまま彼女を引きずるようにして人混みから連れ出し、少し離れた路地まで行って手を離した。

 まじまじと彼女を見て、もう一度ため息をつく。確かに、皇奏音だ。安堵して、安堵してしまった自分に呆れた。俺はまるっきり矛盾している。

「映画館に行きたいんだったな」

 吐き捨てるようにそう言った俺に、彼女はきょとんとした。