序章


 都会の景色が粉雪という銀化粧を纏っていく。

 辺りはすっかり宵闇に包まれ、視界は白と黒だけの世界になりつつあった。

 少年は「遅くなってごめん」と謝りつつ友人宅のチャイムを鳴らしたが、返事はなかった。このまま待っていたら凍える。仕方なく、日頃しょっちゅう出入りしていて勝手知ったる家だからと「お邪魔します!」と大声で叫んで玄関の門をくぐった。

 カトレアやシクラメンなどの冬の花が咲き誇る広い庭園の真ん中に、薄明かりを宿した屋敷がぽつんと建っていた。どこまでも続く芝生は一面、見事に雪の絨毯になっていて、足跡を着けるのも躊躇うほどまっさらなキャンバスのようだった。

 ……突然、絹が裂けたみたいな絶叫が轟いた。

 いまのは、悲鳴――。

 すぐに静寂が戻ったのでそれはもしかしたら、ただの風のうねりだったかもしれないのだが。けれど――、

 少年には何故かあの人の悲鳴に聞こえた。目の前で枝垂桜が枝だけの不気味なシルエットを見せていたから余計に恐怖心を煽られて足がすくんだ。

 少年は一瞬迷ったが、声のした方へと走った。

 全力疾走で跳ねる呼吸。飛び散る雪水の飛沫。

 ……息を切らせながら、西側の開けた場所でぐるりと辺りを見渡して誰かいないかと人の気配を探す。

 すると雲の影間を縫ってほんの一時だけ月光が差した。ゴゥと雪の勢いが強まったので彼は咄嗟に腕で顔を覆った。その腕を下ろした直後、少年の心の時計が止まった。

 天から光が差す、この幻想的で非現実的な情景をなんと表現したらよいのだろう。

 月の光すら通す透明な肌の「彼女」は、白い大地に長い金髪を広げていた。

 伏せられた睫毛に雪の結晶が乗って輝いている。唇は鮮血を塗ったみたいに深い紅だった。

 ガラス細工のような両指は神に祈りを捧げて、胸元で組まれている。

 この世のものとは思えないほどに美しく眩しい。興奮で脈動がどくどくと響いた。

 少年が瞬きも忘れて見入っていると、やがてひとりの少年が振り返った。「彼女」の前で座り込み、友人である彼もまた、両手を組んで神に祈りを捧げていたのだ。

 血まみれの姿で。


「遅かったね――、――……」


 プルルルルルルルルッ!

 ……、……俺はけたたましい機械的な電話の音でいきなり現実に引き戻された。

(また……あの夢か……)

 煎餅布団を引っぺがす。所々穴の開いた畳の床を這いずって、部屋にある唯一の電化製品である固定電話の受話器を取ると、とある大学教授の怒鳴り声が鼓膜を貫いた。

「はぁ、寝坊です……。講義でしたっけ、すみません……また休講でお願いします」

 俺は度々見るあの夢のせいで、本日も准教授としての職務を放棄してしまった。そういえば大学が後期に入ってから朝一番に選択科目の講義を入れられていたのだった。

 電話を切る直前、そんなに休講ばかり繰り返していると来期の報酬を下げられるぞとため息交じりに助言されたので、そろそろ目覚まし時計を買うべきかもしれない。体内時計に任せて生活をするのも限界だろうなと思いながら、俺は年季の入った箪笥を引き開けて、着古した真っ黒のシャツを取り出し腕を通した。心なしか全体的に布が薄くなってきている気がする。もしや目覚まし時計より先に服を買うべきだろうか。いや待て、靴下の方が先に穴が開きそうだぞ……。

 しかしあの夢を見るといつも寝坊する。続きが気になるからなのだが、まぁ――、

「ったく、俺もいいかげん忘れるべきだぜ」

 自分に釘を刺す一言を呟いて、やれやれ午後に突っ込まれている必修の講義くらいはしっかりこなそうと自ら頬をぺちりと叩いた。



第一章   深淵に眠るナイフ


 葉が大きく反り返ったイヌツゲの垣根に、藍色の実がなっている。

 全身コーディネートに掛けた金額――ざっと百五十万円の身なりで、諭吉龍一郎は高井戸にある帝真大学の二号館を訪ねた。彼のスーツは常にヴァージン・ウール素材のイタリア製である。胸元には贅沢にもイギリス製のネクタイを添えている。

 そんな彼の背中はブランドパワーに負けず劣らず、すらりと美しい。足取りは軽く雰囲気は若々しいものの、よくよく見ればその面持ちは周りの学生たちよりも十数年ほど落ち着いている。

 追い風でなびく淡い栗色の髪は地毛だ。ところどころに金糸が交じっており、夕日を浴びてきらりと輝く。色素の薄い瞳は時々、海のような透き通った碧さを見せる。

 彼はイギリス人とのハーフだ。故に日本人離れした面影を感じさせるものの、学生たちは彼に対し好奇の目を向けない。これが昭和の時代ならいざ知らず、ほとんど平成生まれで占められている学生たちの目は、混血によるグローバル化には慣れている。

「こんにちは! お邪魔します!」

 彼は二号館の守衛室前で足先をきゅっと揃え、守衛の男に瑞々しく声を掛けた。

 守衛の男は、組んだ脚の上に頬杖をついてテレビドラマを観ていた。彼はうっとうしそうに振り返る。目が合ったふたりの表情は両極端だった。

「いつも言うけどさ……」「そうですね、いつもおっしゃいますね」

 諭吉はちょっと顎を前に出しながら笑顔を返す。

「……アンタ顔パスですから」

 呆れたように守衛の男が肩を落とした。諭吉はこの大学の職員の間ではちょっとした有名人だ。

「それでもほら、僕がいつもどおりじゃない怪しい行動するかもしれないでしょう」

「しないでしょ。アンタ検事じゃん」

「いいえ正式には検事じゃなくて僕は副検事です。副検事っていうのは司法試験を通過していない、検察事務官からのたたき上げ検事みたいなもんで、刑事課ではまだ事務員みたいな扱いなんですよ。だから僕はまだ事件を任されたことはありません」

 諭吉は自分の検察庁での地位をドヤ顔で説明しながら、わざわざ胸の副検事バッジを摘んで見せてきた。デザインは秋霜烈日で菊の葉が銀色に輝いている。

 とはいえ守衛の男は彼の姿を見飽きているので特別見向きもしなかった。

「そんなん聞いてないし。どうでもいいし。……どうぞ好きに中へお入りください」

 追い払うように守衛はペイッと手を振った。本来ならば学生や業者以外が訪問する場合、受付表に署名が必要なのだが、諭吉がここを訪れるのは月一どころか週一、もっと多い時には二・三日おきなので、ほとんど大学職員みたいな扱いをされている。

「では署名を――」諭吉は受付カウンターに置かれたボールペンと紙に視線を落とす。

「いやだから顔パスだって言ってんでしょ。書かなくていいって」

「なんでいつも書かせてくれないんですか?」

「管理するこっちの身にもなってよ。受付表を用意するのもタダじゃないんだ」

「そうですか……では省略させていただきます。お勤めご苦労様でございます!」

 諭吉はうやうやしく腰を折ってお辞儀した。

「あーもういいから、さっさと行って」

 毎度コレなので正直なところ守衛もいちいち相手をするのが面倒くさい。

 軽快な足音が遠ざかっていった。彼が向かうのは決まって、とある研究室だ。

 ……、それにしてもあの副検事は大荷物だった。右手に下げたビジネスバッグは蓋がはちきれんばかりにパンパンだったし、左脇には辞書並みの厚みがあるクラッチバッグを挟んでいた。

 いつもどおりじゃないとしたらそこかな、と守衛の男は思いながらも、テレビドラマの続きと向き合った。


 二号館は味のある手焼き赤レンガを外壁に組んだ、西洋塔のようなこしらえである。諭吉が第二の故郷のように足を運ぶ研究室は八階にあり、無論、高層の建物なのでエレベータは備えつけられているのだが「この年齢になると階段も良い運動」という前向きな理由から、いつも階段を選択している。五階を過ぎた辺りから息が上がり始めるものの、健康的に齢を重ねている諭吉はそれを苦とは思わない。

 八階のフロアに彼が目指す心理学第二研究室がある。

「ふぅ……」着いた、という息を吐く。

 研究室の木製のドアの脇には、在室中なのをあらわすネームプレートがかかっている。その「犬飼秀樹」という名を目視し、諭吉は不意に察した違和感に首を捻った。

 気のせいではない、ドアの向こうから押し殺した静けさを感じる。

「僕だよ、入ってもいいかい?」

 何度ドアをノックをしても反応はない。

「もしもーし? いるんだろ、って。開いてるし」

 おかしいなと諭吉はドアノブに手を掛け、そっと隙間を作ると視線だけ覗かせた。

 こちらに背を向けているソファからさかさまの黒い両脚が静かに並んで生えていた――某ホラー小説に出てくる遺体みたいに。

「……あー……、そっかぁ……。今日はそっちか……」

 普通の人がこの光景を見たらギョッとするだろうが、諭吉はまったく驚かなかった。

 盛大にため息をついて部屋に入る。

 内側からドアの鍵を閉めて、しかめっ面で「そういうのは見飽きたよヒデちゃん」と声を掛けると、二本の脚は「くっくっく」と低い声で笑い始めた。

「つまらん反応だな、ユキチ。たいした検証にもならねぇ」

「幼馴染の僕じゃあ客観的データは取れないんじゃないの、准教授さん」

 それにしてもひどい部屋だ。大学の研究室とは日頃、学生が出入りするため、もうすこし整頓されているものだろう。しかしこの部屋の主は十二畳という広々とした研究室を用意してもらいながら、その待遇を身に余るとは微塵も思っていないらしい。彼はこの研究室を趣味部屋であるかのように好き放題荒らしている。

 ……相変わらず強盗が家探ししたあとみたいな部屋だと諭吉は口角を下げた。

 足もとには開いたままの本が散乱し、レポートか論文であろうプリントアウトされたコピー用紙が山のように積まれ、所々で崩壊して雪崩を起こしている。そもそも汚すぎて床が見えないのだが、それらを踏まないように足先で器用に避けつつ、諭吉はようやくソファの裏側にたどり着く。ひょいと顔を覗かせると、天地がひっくり返っているしたり顔の中年男と目が合った。

「いつからその恰好してたの?」

 彼の異様な態勢は、本と書類でごちゃごちゃのソファの上でそれらに埋まるように肩倒立していたからだった。

 運動不足で筋力が乏しく痩せている彼の身体は小刻みに震えていた。

「先入観は時に判断を鈍らせる。さて俺たちは遺体というものは寝転がって目を閉じ、口を閉じて硬直しているというイメージを持っているな? ということは……そうではない異様な状態で硬直ないし意識を喪失している身体を発見した際に、なにをもってそれを遺体であると認識するのだ、ろ、うっ、……なと思、っ、フギュ」

 と気難しそうに言いつつ、しかし彼の筋肉はついに限界をむかえ、態勢を崩してソファから崩れ落ちていく。最後に人間を縦に潰したような妙なうめき声を漏らした。

 あーぁ……、諭吉は言わんこっちゃないという顔で彼を見下ろす。

 諭吉はソファの傍にある木製の机――とはいっても散らかっていて机の脚でしかそれが机とは判断できないが――に、ひとまずふたつの鞄を置いた。改めて潰れている彼の傍で腰を折り、まったく仕方ないなぁと呟いて起き上がるのを手助けした。

「遺体であるという認識? それがいまの研究テーマかい?」

「いいや全然関係ねぇ。けど面白かったろ、どこぞの小説の遺体みたいで」

「……つまりヒデちゃんは遺体のフリして僕をからかって遊んだだけなんだね」

「おまえは遊びに来たんじゃないのか。俺なりにふざけて出迎えたつもりだぞ?」

「おふざけでもキミが遺体になるのは気分が悪いよ! 金輪際しないで、いいっ?」

「この程度でマジになるなよ。まったく……真面目なやつだな」

 精神医学の辞書に尻を乗せて胡坐をかいた彼は、美麗な容姿に悪戯っぽい雰囲気を浮かべた。

 白髪がちらつく黒髪に、柄の無い真っ黒なシャツとスラックス、漆黒の瞳は切れ長で、ほとんど陽の光を浴びていない肌は病的なほど真っ白である。諭吉のように都会の風を着飾ったような洗練された艶めかしさは皆無で、その気だるそうな振る舞いにはどことなく渋めの哀愁という色気が漂っている。

 彼の名前は犬飼秀樹。帝真大学の若き准教授だ。彼は十五歳から二十八歳までの十三年間に、アメリカのFBIの特別行動科学捜査班に籍を置いていた。現在は日本で人間行動学や心理学を研究しているがもっとも得意とするのは犯罪心理学である。

 この若さで准教授ということは、すなわち紙一重な天才ということを示している。

 ちなみに見た目は良いのに彼が未だ独身で未婚なのにはわけがあり、容姿だけでは補いきれないほど性格に巨大な欠陥があるせいなのだが――。

「それにしてもおまえ、随分と荷物が多いな」犬飼は放置されたままの鞄を見やった。

「うん、今日は遊びに来たんじゃないんだ。そ、相談……したいことがあって」

 言い淀む諭吉に、犬飼はまるで見透かしたような視線を送る。目線を揃えるべく諭吉も膝を抱えて腰をおろした。正面の彼のように本の上に乗るなんて、八百万の神が住まう国でそんな罰当たりなことはしたくないので、尻の下はちゃんと床を選択した。

「ほー……相談ねぇ。いいだろう、他でもない幼馴染のおまえからの相談なら聞こうじゃないか。三十五歳にしてついに好きな女でもできたか。だとしたら喜ばしいことだが、残念ながら恋の相談だけは専門外だぞ。心理学は恋愛テキストじゃねぇ。ここ最近勘違いしている女子学生が多くて困る。三十代男性の好む女の香りだのと……」

「それは遠回しに口説かれてるんじゃないかな。……キミって見た目だけは良いし」

 察した諭吉は女子学生なりの懸命なアプローチを想像して同情の思いを向けた。

「俺をか? だったら美しい遺体になってから出直してほしいもんだぜ」

「女の子にそれ言ったら本気で許さないからね」

 諭吉は額に青筋を立たせ、真剣な怒り顔を受けた犬飼は対照的に破顔する。

「そういえば挨拶がまだだったな。久しぶりだな、ユキチ」

「三日前に来たよ」「五日前だろ」「ううん三日前だね。ヒデちゃん、ここ最近記憶があやしいよ?」「じゃあおまえ三日前の天気を言ってみろ」「……忘れた」

 そう短くやり取りした三十五歳のふたりは、互いに一瞬真顔になってから同時に目を細めた。


 犬飼は机の上に乱雑に積み上がっている書類をザーッと床に流し落とした。向かい合っているソファの上には大量の本が読みかけのままぐちゃぐちゃと置かれていたので、それらも後ろへぽいぽいと投げてから諭吉に「ほら座れよ」と促した。

 諭吉はその一連の雑な動作を半開きの口で呆然と眺めていた。相変わらず彼の雑な性格には言葉が出ないという顔をしながら、彼と向き合って反対側の席に坐す。視界が霞むほど舞い立つ埃が気になったものの諭吉は咳払いで誤魔化した。

「相談とか言って、俺に『新しい恋人』を紹介しに来てくれたんだろ?」

 鞄の中身が何なのかわかった上で犬飼は目を輝かせる。愉しさを押し隠せないのか彼は前のめりになって机に両肘をついてきた。

 いっぽうの諭吉は躊躇い気味にビジネスバッグから茶封筒を、クラッチバッグからぶあつい供述調書を二束取り出して、それらを机の上に整然と並べる。

「四日前に起きた殺人事件を知ってるよね」当然キミなら、という言い方だ。

 犬飼は供述調書の一束を取った。ページをめくるまでもなく「もちろん」と応える。専門は犯罪心理学だから日々起こる事件のリサーチは欠かさない。テレビや新聞を賑わせる事件の概要ぐらいは息を吸うように日々頭に入れている。

「男子高校生ふたりが女子高校生を拉致して、暴行を加えた末に殺害してしまったんだったな。未成年の犯行だからって氏名も現場住所も学校名も、詳細は報道されなかったが。……けどなユキチ、犯人は逮捕されてるし、そう複雑な事件でもなさそうだ。それに担当検事のお使い副検事さんが、相談なんて回りくどい言い方しないよな?」

 諭吉は「それは……」と言葉を濁し、目を逸らした。

「起訴に踏み込むにあたって、相棒の担当検事と意見の食い違いでも起きたか。おまえにはこの証拠だけでは引っかかる点があるんだな? それで俺に相談に来たと」

「う……」諭吉は苦いものを噛んだみたいに唇を歪める。

「ごめん! 僕はいつもキミに頼ってばかりで――」

「その台詞は聞き飽きたぜ」

 肩を落とす犬飼とは対照的に、諭吉は慌てふためく。

「だってキミに『依頼』するってのは、キミの貧乏に拍車が掛かるっていうか!」

「煙草を買う金があれば俺はそれで充分だ。それより早く見せろ、見合い写真……」

 犬飼は急にそわそわし始めた。彼は胸ポケットからガラムのスーリヤマイルドの赤い箱を取り出すと、一本ストンと出して茶色のフィルターを噛み、遺体写真が入っているであろう証拠の茶封筒に手を伸ばす。咄嗟に諭吉がその手をペチッと叩いた。

「順序を守って! まだ正式依頼の『宣誓』をやってないでしょ!」

 さぁやるよと気合を入れた諭吉は犬飼を見据え、胸の副検事バッジを握った。

「またアレやんのかぁ……めんどくせぇ」

 と言いつつも、犬飼は渋々と尻ポケットの財布からプラスチック製のカードを出した。眼前に翳したそれは夕日を浴びて、表面に刻まれた細かい傷に影をつくり輝く。

「……それを見せられるの久しぶりだね」

「そうだな、いつぶりだろうな?」

 不意に、ふたりの間に幼馴染とは異なる空気が流れた。

「常日頃パンの耳ぐらいしか食べていないキミに『依頼』する僕のとてつもなく深い罪悪感を忘れないように、犬飼先生?」

「オーケー。だが『依頼』は俺にとって利害一致なことも忘れんなよ、諭吉副検事」

 諭吉はすくっと立ち上がった。お手本のような敬礼を犬飼に向け『宣誓』をする。

「これより凶悪犯罪における行動心理分析特別捜査権利法を適用し、副検事・諭吉龍一郎からの特別任命により犯罪者プロファイラー登録ナンバー〇〇二、犬飼秀樹を指名し、行動科学捜査任務を遂行します!」

 凶悪犯罪における行動心理分析特別捜査権利法――略して「特権法」が、諭吉の宣誓によって現時点から正式にこの事件に適用される。

 導入からおよそ七年が経過したこの制度は、「欧米諸国の犯罪プロファイラーを手本」にして「各分野の専門家」が「知識と経験を活かして捜査に助力」し「事件の早期解決に努める」ためのものである。

 小説やドラマの私立探偵の類とは違い、れっきとした制度なので、登録されている犯罪者プロファイラーは堂々と捜査に協力できる。検事や警察官のように特別な研修や訓練はいらず、所定の手続きと試験を受け、国が認めれば犯罪のスペシャリストとして適宜、検察や警察などから依頼を受けて捜査に加わるのである。

 ――だが、この制度には重大な問題がある。

 それは登録されている犯罪者プロファイラーの捜査協力は「社会奉仕活動」という名目で、ようはタダ働きをさせられるのだ。

 いま諭吉によってなされた特権法で定められた形式通りの『宣誓』は、つまり犬飼へのタダ働きの依頼だ。

 犬飼は至極面倒くさそうにソファに座ったまま右手をへろりと挙げ、おなじく特権法で定められた『宣誓』の台詞を返す。

「はぁぃ。俺はぁ、検察局からぁ、捜査協力の『依頼』を受けましたぁ」

「では犬飼先生、資料にお目通しよろしくお願いします!」諭吉はきりっと着席する。

「毎回思うんだが、その犬飼先生っての調子くるうよな……別に誰も聞いてねぇんだからいいじゃねぇかテキトーで」

 ほんと融通の利かないやつだよな、という犬飼のぼやきは無視された。


 ようやく新しい恋人の遺体写真を拝めるとウキウキしながら、茶封筒から現像された十数枚の証拠写真を取り出した犬飼は、直後――まるで生涯の伴侶と運命の出会いを果たしたかのような衝撃を受けて激しく仰け反り「惚れたッ!」と悶える。

「この美しい異常な脚の角度。あぁこれが俺の新しい恋人か。何度も殴られ、長時間首を絞められて芸術的な激しい死に方をしているじゃないか。遺体の腐敗がすすんだことによるガスで肉の腫れあがった関節の絶妙な沈み加減といい、首に残った指の薄気味悪い青紫色のアザといい、耳からの血で固まった黒髪の濡れた広がりもまた……たまらないな、ハァなんてこった想像以上だな、やべぇこいつぁ興奮してき――」

 生々しい遺体写真を恍惚の表情でうっとりと眺める犬飼の頭を、諭吉はビンタした。

「また始まったよ、この変態ッ! 真面目に捜査協力してよ!」

「いってぇな……してるっつーの。あー勿体ねぇことしやがって」

 殴られた勢いで落ちた火の点いていない咥え煙草を犬飼は拾って、また口に戻した。

 犬飼は供述調書には手を付けず、何故か遺体と現場の写真だけを凝視していた。

「事件の概要だけど。被害者の名前は諸星なぎさ、十八歳の女子高生だ。司法解剖の結果は首を両手で絞められたことによる窒息死。全身には数十か所の打撲の痕が見受けられるけど、それらはすべて打ち身と呼べる程度で死因に至るほどの傷じゃない。被害者が学校を出たのは午後六時で、死亡推定時刻はその日の午後十一時頃だね」

「捕まったのは被害者のクラスメイトの男子ふたりだったな?」

「うん、けど被害者に暴行を加えて絞殺をしたのは田中淳一くんだけなんだ。もうひとり現場には稲垣大和くんがいたけれど、彼は被害者に指一本触れていない……ここまでは鑑識の捜査による物的証拠の話ね。僕が引っかかってるのは――」

「この遺体と事件状況の不自然さだって言いたいんだろ?」

「さすがだね……でもどう不自然なのかはっきりしなくて。なんとなく、なんだ」

 煙草の先端をぴょこぴょこ上下に揺らしながら犬飼はよっこらしょと腰を上げた。

「ニコチン切れだ。研究室内は禁煙だしな。……さぁて、本格的にプロファイリングといこうか。現場はどこだユキチ、案内しろ」

 ついでにタクシーの中でその被疑者たちの供述調書も読んでやろうと彼は告げる。ちょっと待ってよと慌てて荷物をまとめる諭吉を後目に、犬飼は愉し気な足取りで先立って研究室から出ていった。



 事件の現場は目黒区の高級住宅街にある一軒家である。

 大学を出てからガラムを存分に吸い、その甘い匂いを纏った犬飼は、タクシーの後部座席で被疑者たちの供述調書を読む。警察が取り調べて作成したもので、被疑者双方の主張に食い違いはほとんどない。

 諭吉は彼の左隣で運転手に対し道案内に徹した。

「ほー……つまり両親が仕事で海外に出張中、バカ息子が女を連れ込んでスケベなことをしようとしたが、うまくいかなくて結局ぶっ殺しちまったってわけか」

「簡潔に言うとね。っていうか、……声がでかいよヒデちゃん……」

 物騒な話にタクシーの運転手がぎょっとしてバックミラーを見ていた。


 現場に到着するとふたりはタクシーから降りた。表札には「田中」とある。庭には青々とした美しい芝が生え揃っており、大勢でバーベキューでもできそうな広さである。男ふたりが横に並んで入れるほど玄関は幅広く、警察の黄色いテープが横に二本、三本と張られていた。

「お勤めご苦労様です。東京地検刑事課の副検事、諭吉龍一郎です!」

 警官が胸を反らせて立っていたので諭吉はお手本のような綺麗な敬礼をした。もとから姿勢の良い諭吉だが、それはまるで新人警官の敬礼で、この仕事に就いて長いというのに貫禄は皆無である。むしろ警備の警官のほうがこなれた敬礼を返してきた。

「副検事さんですか……、失礼ですけど担当検事さんは?」

 刑事課ではほぼ検察事務官扱いの副検事に、当然の疑問が投げ掛けられた。

「ちょっと、その……、確認で来たんですよ。起訴するにあたっていま一度、なんていうか、供述調書の内容が細部まで間違ってないかどうかって頼まれまして」

「なるほど確認ですか。未成年の事件ですからね、慎重になられるのもわかります」

 諭吉は乾いた笑いでそうなんですよぉと後ろ頭を掻く。

「……相変わらず嘘がヘタだな」背後で犬飼がぼそっと呟いた。

「えぇと……そちらは?」

 警官は気だるそうに立っている煙草臭い犬飼に目くばせする。

「ヒデちゃん、アレ出して。キミは民間人でしょ」

 小声の諭吉が肘で幼馴染を小突く。

「このやり取りほんとめんどくせぇんだよな……ハイハイこれね」

 犬飼は尻ポケットの財布から再びプラスチック製のカードを出すと、クリップで黒シャツの胸ポケットにぶら下げた。それの正式名称は「犯罪者プロファイラー登録証」というカードで、諭吉から『依頼』を受けた際にも見せたものだ。

 国家公務員以外の民間人が事件捜査に関わることができる許可された証である。

 警官はずいと目をこらし二回瞬きしてから、しばしキョトンとしていたが、犬飼の顔とカードに掘られた文字を交互に見やって、アーッと叫んだ。唇が裂けてしまいそうなほど口が大きく開かれる。

「は、犯罪者プロファイラーですか! しかもあの、FBIの特別行動科学捜査班にいた登録ナンバー〇〇二のヘル――」そこまで言って警官はしまったと口を閉じた。

 しかしそれは尊敬や憧れとはほど遠いリアクションである。驚きがすぐに苦々しい表情に変わって、一歩後ずさりながら沈黙とともに、どうぞ中へとすすめられた。

「いまアンタ登録ナンバー〇〇二の『ヘル』って言いましたよね。俺もしかしてこの辺の所轄で有名人だったりします?」犬飼は厭味ったらしく警官の顔を覗き込む。

「……本官はなにも言っておりません」警官の黒目がすーっと横に逸らされた。

「なんで俺の目を見ねぇんですか。『ヘル』の後は? なんて言おうとしました?」

「……」警官は能面のような表情で犬飼の存在を無視し続ける。逃げていく視線を、犬飼はしつこく追い続けたが、警官もしぶとくスルーを決め込んだ。

 結局、彼は諭吉にまで目を合わせてくれなくなった。関わりたくないらしい。

「あのあだ名かぁ……末端の警官にまでキミの悪評は拡がっているみたいだね」

「Don't be ridiculous. I have not worked wrong in Japan……」

 親指で唇をなぞりながら、舌打ち交じりに流暢な英語で文句を吐く幼馴染に「いまなんて言ったの?」と諭吉は返す。ふたりは玄関で靴を脱いでスリッパに履き替えた。

「悪評とはどういうことだ。俺は日本では悪いことはしてねぇぞっつったんだよ!」

 子どものようにぷりぷりと怒る犬飼を、じゃあアメリカでは悪いことをしていたのかよと白い目で振り返りつつ、諭吉は彼を伴って二階への階段をのぼっていく。

 犬飼はアメリカ生活の頃のクセが抜けないのか、感情が昂ると、ごく稀にだが英語を口にすることがある。青春期の日常会話が英語だったのだから仕方がないのだが。

「キミの英語は聞き取れないぐらい速いよ。声が低いから余計にさ」

「別におまえに聞かせるつもりで言ったんじゃねぇし」

「ハイハイ独り言でしょ、わかってるけど……、……あれ? なんか静かだね」

 現場の捜査はほとんど終わっていて、事件現場となった高校生・田中淳一の部屋には誰もいなかった。厳重に張り巡らされた黄色いテープを暖簾のように持ち上げ、諭吉は室内をきょろきょろと見回す。

「俺たちだけか。そりゃ好都合だ、いろいろ調べられるぜ」

 犬飼は笑顔を我慢しきれず、ニヤニヤしながら無遠慮に現場へ踏み込んだ。

「見ろよユキチ、こりゃあでっけぇゴールデンレトリバーのぬいぐるみだぞ。おまえの名前はなんていうんだ、ほぅなるほどベルカというのか! 俺のアメリカの知り合いとおなじ名前だな!」犬のぬいぐるみのタグに名前が書かれているらしい。

 持参した真っ黒な手袋をはめた犬飼は面白がってゲラゲラ笑いながら現場のベッド付近の物を触り始めた。諭吉は彼を追いかけ現場を不用意に荒らすなと怒鳴りつける。

「っるせぇな、ふざけてねぇよ。……いいかユキチ、現場には一見して事件に関係なさそうでも、実は密接な物があったりするもんだ。この犬のぬいぐるみを見てみろ」

 子どもひとりぶんぐらいの大きさのぬいぐるみだ。犬飼が「ほらよ」と差し出してきたので諭吉は慌てて白い手袋をはめて、慎重にそれを抱き留める。

「そいつをどう思う?」――プロファイリングは既に始まっていた。

 犬飼は諭吉を試すように口の端を上げて彼を流し目で見ている。

 今回の事件ではまったく関係ない、調書にも一切出てこない犬のぬいぐるみだ。証拠として押収されていないからもちろんこの部屋に残っているわけだが。

 諭吉はウゥンと唸り、犬のぬいぐるみをくるくる回してじっくりと観察した。意外と重いなとか、こんなにしっかりした作りなのだからきっと高いのだろうとか、たぶんそういうことではない。犬飼は警察や鑑識とはまた違った視点の話をしているのだ。

 毛の一本を摘んでまじまじと見つめる諭吉に「率直でいい」と犬飼は付け足す。

「ふさふさで……かわいいね」口にしてから諭吉は自分の表現力の低さに落胆した。

「なにをガッカリしてるんだ。心理学はそういう直感からでいいんだぜ」

 生徒に教えるように犬飼はひとさし指を振る。

「そのぬいぐるみはとても大事にされている。しかも一定方向に犬の毛が流れていることから察するに、田中くんは日頃それを抱いて寝ているのだろう。決まったぬいぐるみを抱いて寝る人間の心理は自信の無さからくる誰かへの依存と、漠然とした不安だ。この特徴は見逃せないと俺は思うぞ。彼は常にそのふたつの感情を持って生活していた可能性が高い。しかし彼にその特徴はちょっと妙だと思わないか?」

「自信が無いから誰かに依存してた……? でも思春期にはそういう子もいるよね」

「おいおい、おまえちゃんと警察が取った調書を読んだのかよ」犬飼は目を丸くする。

 ばかにするなよと諭吉はむっとした。今回も上司である担当検事のサポート役といえど、諭吉も東京地検刑事課で十年以上、事件を見届けてきた堂々たる副検事だ。

 逮捕された被疑者は警察の取り調べを受けてから検察に送検される。そして担当検事が起訴を決めるわけだが、諭吉は証拠や供述調書を見比べながら「ちょっと待ってください」と即決を遮った。この事件は単純じゃないと経験が察したのだ。

 ここに来るまでにタクシーの中でさらっと供述調書に目を通した犬飼も、単純そうな事件に見えるが確かになにかが引っかかるな――それが具体的になにとはまだわからないが――と彼の直感に同意していた。

「なるほどな……弱みと見下し、か……」ふと、犬飼は意味深に呟いた。

「疑問を検証していくとしよう。被害者の名前は諸星なぎさ、十七歳の女子高生だったな。よしユキチ、ちょっとベッドに寝っ転がって被害者の姿を再現してみろ」

「えっ、えぇっ? ……鑑識班は捜査し終わってるみたいだからいいけどさ……」

 渋々と諭吉はセミダブルのベッドに乗り上がる。つい先日までここに遺体があったのだと思うと少々気が引けるのと同時に、亡くなった少女の苦痛を想像して諭吉の心がしくりとした。両手を合わせて「失礼します」と仰向けになる。血が付着した掛け布団やシーツは取り払われ証拠として押収されていて、マットレスが剥き出しである。スプリングのよく効いたマットレスの上で、諭吉の身体は押し返される感覚を覚えた。高級ホテルのベッドみたいな反発と沈みのバランスが良い寝心地である。

 右腕を投げだすように外向きへと曲げて脚をやや内股ぎみにすると、カッと目をかっ開いた犬飼が厳しい口調で「おまえは遺体ってもんをわかってねぇ!」と叫んだ。

 諭吉のバッグから遺体写真を数枚取り出してきた犬飼がベッドに飛び乗った。

 そんなんじゃあ女子高生の遺体に見えねぇよと彼に文句を吐かれる。

「諸星なぎさ……妄想の中で抱いてやりたいところだったが、どうやらこの男はおまえを演じられない大根役者らしい。いまから俺がおまえを演じてやるから、それで許してくれるか?」犬飼は眉を下げて愛しい恋人の写真に口づける。

 そこに遺体があったという事実に戸惑いひとつ見せず犬飼はごろりと仰向けになり、写真を掲げて器用に脚や腕を折り曲げていく。もちろん男なので女子高生には見えないものの、諭吉と比べて細身の犬飼は――どちらかといえばだが――被害者の姿を体現するのに適していた。そうだ、彼女はこの姿で死んでいたのだと諭吉は最初に遺体写真を見た時に抱いた感情を思い出し、口を押さえて苦渋の思いを押し殺す。

「おまえ何年刑事課の副検事やってんだ。吐くのは後にして早く俺を襲え」

「は……?」世にもおそろしい提案に諭吉は思わず表情を失う。

「他に誰もいないんだ、おまえが被疑者をやるしかないだろ。プロファイリングってのは過去のデータを基に頭で考えるだけじゃねぇ。実際に事件の再現もやってみるもんだ。さぁおまえは田中淳一だ、日頃カツアゲをして警察のお世話になっているような粗暴な男子高校生。彼女をこのベッドに押し倒し、殴る蹴るの暴行を加えた」

「まさか僕に……ひ、ヒデちゃんを殴ったり蹴ったりしろっていうの?」

「おまえさっきフツーに俺を殴ってただろ。ヒデちゃんじゃない、いまからアタシは諸星なぎさよ」「うあぁ嫌だ……」裏声で喋る幼馴染を前に諭吉は絶望感を覚える。

「プロファイリングは真剣にやらなきゃ意味ねぇだろーが」

 すると本気の声色で叱られたので諭吉は「ごめんなさい」と言葉をしぼませた。

「――お、おれの、言うことをきけぇっ」

 ぽこっ。諭吉は馬乗りになり、しょぼい乱暴ぶった口調で犬飼の頬を軽く殴った。

「犯人の心理がそんな棒読み演技で暴けると思ってんのか」ややキレ気味に言われた。

「うぅぅ悪かったよ……、調書通りの台詞は最低でもこなすから……」

 改めて諭吉は自分の鞄から田中の供述調書を持ってくると、それを台本のように携えベッドへ戻った。

「えぇと」田中はまず諸星なぎさをベッドに押し倒した。それから暴れる彼女を押さえつけ、すくなくとも二十から三十回ほど顔や腹を殴っている。

『うるせぇ! 脱げ! 言う通りにしろ!』

 田中は彼女に服を脱ぐように命じた、と供述調書には書かれている。けれど彼女は頑として応じなかった。嫌ァと叫び田中を押し返す。その逃げようとする細い手首を摑み、頭に血が上った田中は彼女の左頬の骨にヒビが入るほどの一撃を加えてしまう。彼女は数分ほど意識を失った――脳震盪の形跡が見受けられると検視結果にはある。よほど強い衝撃だったのだろう。彼女は瞳をぐるりと反転させて泡を吹く。

『寝てんじゃねぇっ、起きろ!』

 諭吉は田中の行動を真似て、犬飼の腹に直角に拳を突き刺した。

『うっ……!』諸星は暴力によって強制的に覚醒させられた。

 以後、幾度となくこれを繰り返す。

『くそっ、ちくしょう、なんでこうなっちまうんだ!』

 田中は怒りにまかせて、ついに彼女の首に両手を掛けた。歯を食いしばってぎりぎりと絞めていった。絞殺の痕に「首を絞めて殺すことに対する躊躇いのズレ」はなかったが、鎖骨から顎にかけて徐々に乱れ上がる指の痕が認められると検死結果には記されている。つまり計画的な殺意ではない、突如として湧き上がった衝動による――それも混乱を混じらせながら――がむしゃらな殺害であったと推測できる。

 田中の十指の爪が彼女の肉に食い込み、片や彼女の必死の抵抗の爪痕も田中の手の甲に刻まれた。彼女が生と死の狭間でもがいた時間はおよそ十五分前後であった。

「はぁ……、はぁっ……」

 諭吉はいつの間にか供述調書をベッドの下へ投げ捨てていた。両手を震わせながら幼馴染の首を解放する。大根役者は一連の流れを演じきって興奮に支配されていた。

 もちろん本気で犬飼の首を絞めたわけではないのだが、何故か諭吉の呼吸は本来のものからかけ離れ、浅く矢継ぎ早なものに変化しており正常ではなくなっていた。

「はぁ、っ、はッ……、ハ……ハッ、ハッ……!」

 殺す――コロス……。

 妙なスイッチが入ったように諭吉はうまく息が吸えなかった。

「おい、どうした。大丈夫か?」さすがの犬飼も幼馴染の異変に気づいた。

「っ、……平気……ち、ちょっと熱が入りすぎちゃった……かな……あはは……」

 人を殺す感覚をなぞるというのは心への負荷が凄まじいものだ。

 諭吉は時々思い込みが激しいところがある。感情が昂って過呼吸になりかけているのかもしれないなと犬飼は上体を起こして、しっかり呼吸しろと彼の背中をぽんと叩いた。頼りないものだ。これでは昇進どころか事件の担当も望めそうにない。

「まぁおまえへの演技力の採点はともかく、違和感の正体がわかったな」

 犬飼は被害者を演じながらすでにその違和感の答えを得ているようだった。

「違和感は現在の俺の衣服の状態だ」

「衣服? 特になにも……変化がないけど」「その通りだ」犬飼は指を鳴らした。

 諭吉はネクタイを緩め、額の汗を拭いながら起き上がる。供述調書に書かれた文字を追うだけではわからなかったが、なにか妙だと思っていた胸のつかえが不意に具体的な疑問となって彼の頭に浮かんだ。顎に手を当て「あれ?」と頭をもたげる。

「この事件、目的と行動がズレている。頭のお堅い童貞のおまえには少々理解しがたいかもしれんが、無理やり女を犯す上で田中くんには重要な行動が欠けているんだ」

 犬飼は枕元に放られていた遺体写真をひょいと二指で挟む。

 諸星なぎさの痛々しい姿は、きっちりと制服を着こんだままだ。紺のセーラー服はスカーフすらほどけていない。抵抗して暴れたことによる服のシワはあれども、作為的に脱がすことを試みた着衣の乱れや破れがほとんどない。

「供述調書によると田中くんは、諸星なぎさに執拗に自ら脱ぐように強要している。強引に脱がそうと思えばできたはずだ。なのに実際はそうしていない」

「すべて衣服の上からの殴打で、殺害前後の着脱の痕跡もなし、だもんね。ん……? ねぇ待って。警察からは『性的な目的により』って――」

「田中くんの行動からは性的欲求を満たしたいという意思が見えない。ユキチ、おまえの『なんとなくおかしい』は当たっていたんだ。……さて、男ふたりが長々とベッドで戯れるのもいいかげんにしようか。あぁ、おまえはそこに残れ」

 犬飼はベッドから下りると諭吉の鞄からもう一束の供述調書を取り出し、部屋の隅へと移動した。ベッドから三、四メートルは離れただろうか。彼は勉強机と本棚が並ぶ壁の隙間にしゃがみこむと、ぱらぱらと供述調書をめくりだした。

 もうひとりの被疑者として逮捕された男子高生・稲垣大和の供述調書である。

 彼は今回の事件では「不作為犯」として送検されてきた。田中の凶行を止めて彼女を助けられたかもしれないのに、それをしなかったという罪である。田中が諸星に暴行を加えている間、恐怖に震えて部屋の隅でずっとうずくまっていたらしい。

「稲垣くんは、素行不良の田中くんに日頃からお金を取られたりしていたんだって。今回も脅されて被害者の拉致に利用されたって警察は見ているそうだよ」

「男ふたりがかりで女を連れ込み、田中くんが殺した……なるほどな。警察が見立てたストーリーはそんなところか。稲垣くんは諸星なぎさとは仲がよかったのか?」

「特別仲がよかったわけじゃなさそうだけど、おはようみたいな挨拶を交わす程度の、ごく普通のクラスメイトって感じだったって担任教師から証言は取れてるよ」

「じゃあ田中くんとは?」

「田中くんのことは……クラスの誰もが避けてたみたいだね」

 田中は四か月前に別の傷害罪で不起訴になっている。被害者はクラスメイトのとある男子だ。田中はおとなしい男子をターゲットにカツアゲをしていたが、応じなかった彼をカッとなって殴り全治一か月の重傷を負わせた。当時、起訴の一歩手前までいったものの、被害者側が報復をおそれて被害届を取り下げている。

「犬のぬいぐるみを抱いて寝る田中くんと、特徴の無いごく普通の稲垣くんか……」

 呟きながら犬飼は自分の膝頭を使って頬杖をつく。

 彼の頭の中ではなにやら気になることがあったらしい。ぼんやりと考えごとをしているような目で、ベッドの上で胡坐をかいている諭吉をしばし眺めた。

 やがて、「仰向けに寝てみてくれるか?」――と諭吉は頼まれる。

「え? あぁ……うん。被害者みたいにってことだよね」

 ころりと横になった。無言で見つめる犬飼の視線は、たっぷり数分間は続いた。

「……ほー、なるほど……。よし、次は田中くんの姿勢になってくれ」

 諭吉は指示通り姿勢を変え、被害者に馬乗りになる田中に扮した。また犬飼は黙ったまま諭吉の姿を見つめた。それらの時間は諭吉にとってかなり長く感じられた。

「そういうことか。ハッ、こりゃあ相当歪んでるぜ」

 犬飼はにんまりと笑み、好奇心剥き出しの弾んだ声で独り言をこぼした。

「被疑者たちの証言確認の聴取はいつだ?」

「明日の午前十時に田中くん、午後一時から稲垣くんだよ」

「わかった、明日の聴取は俺がする。稲垣くんのイントロダクションをしたい」

「なんだって! 田中くんじゃないのかいっ?」

 びっくりして跳ね上がる諭吉を、犬飼は良い反応だといわんばかりに見据えた。

「まぁ田中くんにも用がないわけじゃあねぇんだが」

 犬飼はベッドサイドでおとなしく寝そべっている犬のぬいぐるみを見やった。

 イントロダクションとは――彼が言うに「事件関係者との対話」のことだ。田中くんとは俺は話さないときっぱり言い切る犬飼に、諭吉はただただ驚くばかりであった。



 東京地検の刑事課はいわゆるエリート部署だ。現在のところ優秀な検事とその補佐をする検察事務官で構成されており、副検事を名乗る者は諭吉しかいない。

 検事にはそれぞれ執務室が与えられ、そこで取り調べを行ったり事務的な仕事をしている。諭吉も一応「副」とはいえ検事のはずなのだが執務室が与えられていない。特定の検事を補佐しているわけでもないため、事件ごとに執務室を移動していた。

「そういやぁ聞いてなかった。今回の担当検事は誰なんだ?」

 諭吉は「天童寺」と、ため息と一緒に肩も落とした。

「あいつのサポートか……貧乏くじだな」犬飼も嫌そうに顔をしかめる。

「法学部の同期だから正直やりにくいよ」

「同期じゃなくてもあんな性格の野郎とじゃあ誰だってやりにくい」

 満員のエレベータの中で肩を寄せ、諭吉と犬飼は声を潜め合う。

「徹夜明けにヤツと話すなんざ刺激が強すぎる。アメリカで売ってるエナジードリンクなみの威力だぜ。チクショウ、今日は心身ともに穏やかに過ごせる気がしねぇな」

「徹夜はキミのせいだけどね……」諭吉はあくびをして隈が浮いた目をこすった。

 あれから諭吉は何度も何度も、犬飼から「田中くんが左頬を殴った瞬間の態勢」だとか「諸星なぎさが殴られた時の角度」をさせられ、気が付いたら事件現場で朝日を拝む羽目になった。へろへろになって田中邸から出てきた諭吉と、じっくりプロファイリングして満足げな犬飼を見送る警備の警官の視線は迷惑そうで、とてつもなく冷ややかであった。

 ――チーン、という刑事課に到着したベルですらふたりはノイズに感じていた。徹夜明けの中年男たちにはうっとうしい疲労感が纏わりつき、足取りは重い。

「犯罪者プロファイラー登録ナンバー〇〇二、犬飼秀樹さんですね。拝見しました、どうぞお通りください」

 犬飼の黒いシャツの胸ポケットから下がっている登録証を警備員は目視した。

 綺麗な敬礼でふたりは見送られる。

「いま何時だと思ってるんだいキミタチ。九時五十二分だよォ。被疑者が来るのは十時だ、ほとんど時間がないじゃないか。相手はどっちも未成年、長時間の拘束は厳重注意の対象だ。ボクの経歴に傷を付ける気ィ? 諭吉ィ、キミに言ってんのォ」

 大きな革のソファが向かい合う刑事課の共同応接室の前を通ると、やけにバウンドした太めの声に呼び止められた。諭吉はハタとして彼に向き「おはようございます」と頭を下げたが、犬飼はわざと顔をそむけた。

 犬飼は不快そうに両手をポケットに突っ込んで舌打ちした。あんなやつに礼儀正しくお辞儀なんてするもんかというひねくれた意思表示であった。犬飼はソファに座っている男――天童寺検事が嫌いなのである。

 天童寺検事は朝食のホットドックをかじりながらソファに悠々と座り、だらしなく脚を開いていた。上半身はそうでもないのに下半身だけ中年化が進んでおり、張り出している下っ腹をベルトが懸命に支えている。以前、犬飼が別の事件のイントロダクションのために来た時よりも、彼の重量感は確実に増していた。

「おい諭吉ィ、昨日の夕方どこ行ってたんだァ。別件の追加の供述調書まとめとけって言っただろォ」

「え……いえ、そんな話は聞いてなかったので本件の現場に――」

「そんな、話、だってェ? 机の上に置いといただろォッ?」

「……置いてあったのか?」犬飼が囁き問うと、諭吉は悔しそうにきゅっと唇を噛む。

「申し訳ございませんでした……僕の不手際です。本日中にはまとめます……」

「トイレ掃除もしなかったろォ。紙が切れてたって先輩が怒ってたぞォ!」

「そんなはずはっ、……いえ、すみませんでした」

 小間使い以下の扱いをされている幼馴染の様子に、犬飼は怒りを抑えきれず貧乏ゆすりを繰り返していた。天童寺検事は刑事課の中で見ればそう偉い立場でもないのに、偉そうに副検事の諭吉をいびる。心も身長も小さい男だ――犬飼は彼をそう評価する。

「なにバカ正直に謝ってんだよおまえは。おかしいだろ」

「いいんだ、キミは黙ってて。……天童寺検事、遅くなってしまったのは謝ります。今後は気を付けます……。えっと、ご存知とは思いますが、こちらの犬飼先生が今回の事件の取り調べを担当してくださいます。被疑者拘留期間中には執務室に犬飼先生の出入りを許可するものとしますがよろしいですね」

 過去の事件でも何度か関わっているので初対面ではないのだが、律儀な諭吉はテンプレートに当てはめて犬飼を紹介した。

「ドぉモ、天童寺検事。肌艶も良くそれはもう、たいっへんお元気そうで?」

 犬飼はテキトウに顎をしゃくらせるものの、天童寺検事は頑として頭を下げない。

 特権法の制度に対し、諭吉のような賛成派が多いいっぽうで、検察庁には天童寺検事のように強固な反対派も存在している。理由は単純明快。――気にくわないから。

 国家公務員と民間人の壁は果てしなく高い。

「フン、おべっかはいらないよォ。おい諭吉ィ、なんでこんな単純な事件に特権法を適用させないとならないんだィ。必要ないって何度も言っただろゥ」

「犬飼先生とプロファイリングした結果、やはり起訴は再検討すべきかと……」

「はぁァ? 無能の副検事が偉そうに口出ししてくんなよォ! 出来損ないは黙って担当検事サマの言う通りに書類作ってろって何度も言ってんだろォ!」

 いよいよ我慢の限界に達した犬飼が、盛大な舌打ちを床に吐き捨てる。

「ブヒブヒうるせぇブタ検事だ。特権法をつくってくださったお国サマに感謝しな。てめぇのほうが間違ってんだよ。無能検事のクソ仕事をいまから正してやるぜ」

「なっキミィ、いまの発言はボクに対する人格的批判による捜査妨害だァ! 特権法第十三項に、いっ、違反したァッ! い、いい、いますぐ退席しろォ!」

 特権法第十三項とは――警察および検察その機関関係者と登録犯罪者プロファイラーは協力して捜査に尽力し、互いにその社会的立場ならびに人格的不一致を理由に、捜査を妨げることがあってはならない。これを侵した者には、捜査から除外もしくは一時退席を命じることができるという法令だ。

 犬飼は嗤いながら白髪交じりの前髪を掻き上げた。

「矛盾してるぜ。特権法の制度を認めていねぇくせに、都合が悪くなったら特権法を振りかざすのか? 意味がわからねぇな。説明を願うぜ、無能検事さん?」

 顔を真っ赤にした天童寺がギリィと奥歯を噛み、一触即発な空気が流れる。

 咄嗟に諭吉がふたりの間に割って入った。

「ヒデちゃっ、犬飼先生! 口が悪いですよ! ……頼むからあいつと喧嘩しないで」「担当検事サマにたてつくなってか?」「あいつに構ってる場合じゃないだろ」

 厳しい顔でぴしゃりと叱られた犬飼は不服そうに肩を落とす。

「申し訳ありません天童寺検事、彼に代わって僕が無礼を謝罪します。特権法を適用して彼に依頼したのは僕ですから、処罰を受けるなら僕が」

「やめろユキチ。……俺が悪かった、闘りあう相手が違ったな……」

 幼馴染が受け続ける明らかなパワハラを黙って見過ごすのは癪だが、犬飼はそれ以上の文句を吞み込んだ。

「フン……、勝手にやりなよォ。どうなっても知らないからァ」

 口まわりにマスタードをいっぱいつけて天童寺検事は執務室の鍵を投げてよこした。

 慌てて諭吉がそれを受け止める。諭吉は長い睫毛を瞬かせた。

「ご同席されないのですか?」

「まったく、電話番だよォ。特権法が適用されたと知れたら被疑者の親から苦情の電話が来るさ。そん時に対応しなきゃなんないのは担当検事のボクだからなァ」

「ユキチ、行くぞ」

 憤りを混じらせながら犬飼がささめく。天童寺検事は犯罪者プロファイラーによる聴取の場に立ち会うことを拒否し続けている。立ち会ったら制度の導入を認めたことになるからだ。どこまでも勝手な男である。

「わかりました。いざという時は僕が責任を取りますので」

「You are an idiot honest……」いっそ呆れる。

 なんでそう自ら首を絞めることを言うんだと犬飼は怒りを更に深めた。



女子高生拉致殺害事件、被疑者―稲垣大和―


 眼の下の隈が痛々しい、稲垣大和が警備員に連れられて入室してくる。

 本来は担当検事が座して待つ正面の席に犬飼が腰掛けており、被疑者のために用意されたパイプ椅子の横で立会事務官として座っているのは諭吉だ。

「どうぞそちらに座ってください。ここでは供述調書をもとに、犯行の事実確認を行います。あなたには黙秘権と弁護士を選任できる権利が保障されています」

 被疑者とはいえ人権は保障されている。諭吉は丁寧に冒頭説明を述べた。

「昨日はよく眠れなかったか? おそろいだ。俺たちも今日は寝ていない」

 稲垣は虹彩のやや小さい三白眼の少年だった。長い前髪から時々ヒソリと覗くその瞳には光がない。およそこの年齢の子どもがする目つきではないと、諭吉は背中に寒いものが伝うのを感じた。この世界を斜めに見ているような――キミもそう思わない? と、諭吉は犬飼と一瞬だけ目を合わせ、すぐに稲垣に視線を戻した。

 彼の落ち着いた雰囲気はどちらかというと優等生寄りで、不良とは縁が遠そうに見える。小柄で、背幅は狭く、背中は丸い。色が白くて幼い顔立ちをしている。上下グレーのスウェット姿だ。

 諭吉に再度「どうぞ」と促され、稲垣はふらりと椅子に座って両膝を揃えた。警察の取り調べで疲弊しているとでも言いたげに彼はすぐに睫毛の角度を下げた。

「さてと。じゃあ早速、名前と生年月日を教えてくれるか?」

「…………」

(……?)諭吉は静かに見つめ合うふたりを不思議に思い、交互に見やる。

「……………………」

 沈黙がしばらく続いた。

「……黙秘か? 頭がいいなおまえ。口は災いのもとだしな」

 すると突然、犬飼は力いっぱい媚びるような笑顔をつくり、それはある種不気味さすら覚えるほど可愛らしく――もとい気色悪く――小首をかしげた。

「おまえがその気なら俺は勝手に喋り続けるからな。間違ってたら言ってくれな? えーと稲垣大和くん、平成十三年四月二十五日生まれ……若いな! 昭和生まれじゃねぇのか。生まれは北海道。幼い頃には福岡にもいたのか。転勤族ってやつだな?」

(ひとりでべらべら喋り続けてる……ヒデちゃんの『いつものやつ』だな。でもなぁ片方が黙ってる時間がこうも長いと、ふぁ……やばっ……眠くなる)

 犬飼の声だけが響く室内で諭吉は口元に手を当て、密かにあくびをかみころした。

「――というわけで諸星なぎさは帰宅途中に、おまえたちに脅されて拉致された。田中くんの部屋に着いてから乱暴されると察した彼女は激しく抵抗し」

「ボクは脅してませんよ……」

 掠れた低い声に遮られ、犬飼と諭吉は同時に供述調書から目を離し、顔を上げる。

「お、喋ったな」

「間違ってたら言えって言ったのは検事さんでしょ」

「実はな、俺は検事さんじゃないんだ」

「じゃあ警察官? 裁判官? ま……なんでもいいです」

 興味なさそうに稲垣は明後日のほうを見る。

「おまえ田中くんと全然違うキャラみたいだなぁ」

「あんなやつと一緒にしないで……」

「友達じゃないのか?」

「違います……。警察で言いましたよ。ボクはあいつからお金を取られてるんです」

「金を三回も取られたそうだな。だが同情はしないぞ。いじめは屈したほうが負けだ。四か月前に田中くんが捕まったときについでに告発すればよかったのに、おまえは被害を訴えなかった。いまさら被害者ぶるのか? 実は田中くんと仲良くしたくて貢いでたんじゃないのか?」

「そんなわけないでしょ……。いじめは、いじめるほうが悪いでしょ……」

(それは僕も同感だよ、稲垣くん)

 田中の行為は犯罪だ。たとえ被害届が出ていなくても、彼の行いが肯定されることがあってはならない。

「そうかな? 俺にはおまえが泣き寝入りするような子には見えねぇが」

「……」

「ところでさっきからおまえは何度、俺を刺してる?」

「……なんの話ですか?」

「おまえのココにあるナイフの話をしている」犬飼は拳で自分の胸元をとんと叩く。

「この人、頭大丈夫ですか?」

 稲垣の呆れをあらわす視線が諭吉に向けられたが、無視を決め込む。

(……ヒデちゃんのイントロダクションの邪魔はしたくないからね……)

「残念だがそこのお兄さんは喋らない」

「あなたに黙ってろって言われてるんですか?」

「あまり器用なお兄さんじゃなくてな。喋りながら書けないのさ」

「ボクの質問のときくらい手を止めて答えてくれてもいいじゃないですか……」

「あぁ見えて、会話を記録する人ってのは大変なんだぞ。俺たちの言葉を一言一句、書き留めなきゃいけないんだからな」

「今時すごくアナログ……カメラとかで撮ったらいいんじゃないんですか?」

 可視化法か、と犬飼はごもっともな質問に、さも優し気な笑みを返す。

「俺たちは別にそれでも構わないが、最終的に供述調書に署名をするのはおまえだぞ。おまえが喋ったことも、おまえの表情の変化も、すべて記録に残されてもいいのならカメラを用意させる。けれどアナログなら俺にもおまえにも都合がいい。何故なら、いまから話すことは書くなと言えば、あのお兄さんが書き忘れたことにできるんだ」

「なにそれ……。なんか……変な取引みたい……」

「オトナの世界は面白いだろ?」「別に」稲垣はちょっと子どもっぽい顔を見せた。

(相手を油断させる『インサイト』会話だろうけど、そろそろ本題に入ってほしい)

 無関係な話で会話を弾ませることによって相手の口を緩くさせる、犬飼のお得意のイントロダクションパターンだが、さすがに脱線しすぎだ。諭吉が仕切り直しの咳払いをすると、三白眼の少年が面倒くさそうにため息をついた。

「物証っていうんですか。あいつの部屋から僕の体液は出なかったんですよね……。それでわかるじゃないですか。普段ボクはあいつの家には出入りしてないし、あの時が初めてだし、ボクは彼女に触ってもいないし……。ボクはあいつに脅されてイヤイヤ付き合わされたんですよ?」

「と、警察が取り調べた調書には書いてあるな」

「こういうのって証拠がすべてなんでしょ」

「ドラマの観すぎじゃないか。物証は事件の表面をあらわすピースに過ぎない。そこで実際になにがあり、どんなやり取りが行われたのかは、当事者に聞かないとわからんもんだ。ときには物証からは想像もつかないような真実に驚かされることもある。そう、たとえば殺したのはAくんだけど、それを指示したのはBくんだとしたら、殺したという物証はAくんのものだけしか出ないかもしれないな?」

(ヒデちゃん、ちょっと強引に揺さぶりをかけてきたな)

 いまのは典型的な『イエスセット』だ。相手にノーとは言わせない質問をして揺さぶりをかけるのだが、しかしいまのはまるでAくんが田中で、Bくんが稲垣と言い切ったようなものである。露骨すぎやしないか、と諭吉は眉を顰めた。

「ボクはなにもしてません」

「オーケー、俺はその一言が聞きたかった。そこがまずおかしい」

 稲垣の無気力な表情が、僅かにだがピクッと強張った。

「力のベクトルでいうといじめっ子は田中くんで、いじめられっ子がおまえだと仮定すると、田中くんのほうが有利だったんだろう?」

「そうですよ。ボクはいじめられてたんですから」

「いじめというのは不思議なものでな。普段はいじめっ子がいじめられっ子に危害を加えていたとしても、矛先が他人への危害に及ぶと心理的脅迫が働く。いじめっ子は自分の手を汚さず、いじめられっ子に悪いことをさせて楽しむことを覚える。いじめとはそうした支配と服従の関係への過程だ。人間社会の縮図と言っても過言ではない。……話を戻そう。田中くんがおまえをいじめていたと言ったな? ということは田中くんはおまえを支配する立場にあった。いっぽうでおまえは田中くんに服従する立場にあった。間違いないな?」

「はぁ……まぁ、……ちょっと違いますけど」

 服従してたわけじゃないけど、と稲垣が呟く。

「じゃあ服従させられてた?」

「まぁ、そっちです……」

「田中くんが怖いからか?」

「そうです。殴られたくないし」

「田中くんに殴られたことは?」

「ありません……お金渡したから」

「親や先生に相談したことはないのか?」

「ありませんよ、言ったって無駄でしょ」

「模範的ないじめられっ子の回答をありがとう」

 望んでいた返答を聞けたらしく、犬飼はご満悦にフンフンと頷いた。

「では改めて事件の話をしようか。諸星なぎさを拉致した田中くんは、おまえを引き連れて家へ行った。部屋に着くなり田中くんは諸星なぎさに乱暴を加えようとし、激しく抵抗され、何度も殴った。やがてエキサイトした田中くんは諸星なぎさの首を絞めて殺害。五分後、田中家の電話回線から一一〇番がされている。最初の一言は『殺しちまったかもしれない』と消防本部に録音されているから、これは田中くんだな。さて、ここまで聞いてなにか違和感はないか?」

「別にありませんけど」稲垣はふと左斜め下に目をやった。

(っ……、もしかして……この事件って……)

 諭吉が初めてこの事件概要を読んだとき、喉に魚の骨が引っかかるような思いがした。彼らの話を聞いていて閃く。――田中の言動と行動はいじめっ子として矛盾している。犬飼がタクシーの中で呟いた「弱みと見下し」の輪郭が徐々に見えてきた。

「稲垣大和くん、おまえは諸星なぎさが殴られていたのをただ見ていたのか?」

「あいつに反抗したいとは思わないですよ」

「助けたいとは思わなかったのか?」

「思いましたよ……でもできないでしょ」

「どうして?」「怖かったから」「一貫しているな。もうひとつ訊こう」

 奥歯をぎりと食いしばる音がした。「しつこいなぁ……」稲垣がやおら苛立つ。

「諸星なぎさが学校を出た午後六時から死亡推定時刻の十一時過ぎまで五時間もある。学校から田中くんの家まではそう遠くない。つまり三人は田中くんの部屋でおよそ五時間弱は居たことになるわけだが、お楽しみにしてはかなり長いな。床に散った唾液の量もごく微量で口論していて長引いたわけでもなさそうだが?」

「諸星さんが逃げようとするから……」

 言い掛けて稲垣ははっと息を止める。

「逃げようとしたから? それで田中くんが彼女を捕まえたのか。そしてベッドに押し倒した。ほぅ、ということはかなりの時間、田中くんは彼女を嬲っていたわけか」

「そ……そういうことですよ」

「その時おまえはなにをしていたんだ?」「見てました」「見てた、どこから?」

 犬飼は調書の束を裏返して部屋の見取り図を書いた。それを稲垣の眼前に差し出す。

 稲垣の指がおずおずと部屋の隅を差し示す。ベッドからの距離はかなり遠い。

「遺体の状態から、最初の強い殴打から首を絞めるまで、約一時間であったと推測される。……おかしいな、四時間ぐらい余る計算になるぞ。それはともかく、その間、おまえはずっとここにいたということか? 立っていた? しゃがんでいた?」

「しゃがんでました……」

「こういう感じか?」犬飼は立ち上がって稲垣の傍までいくと、両膝を大きく離し、両手を前に垂れ下げてしゃがみこんだ。見下ろす稲垣は不機嫌に「そんな感じじゃないです」と言い、それを受けた犬飼が「じゃあこうか?」と今度は両膝を揃えて抱え込む。稲垣はすぐに「違います」と答えた。

「そうか、こっちだな?」くるりと背中を向けた犬飼は両手で耳をふさいで小さくなった。「そうっ、そうです」稲垣はやや興奮ぎみに答える。

「これじゃあなにも見えないじゃないか。本当に諸星なぎさは逃げようとしたか?」

「っ、……『助けて』って叫んだんで……」

「誰に?」「誰って……誰かに」「おまえに対してじゃないのか?」「ボクが助けられるわけないじゃないですか」「そう決めつけられる根拠はなんだ? おまえ以外に彼女を助けられる人間はいなかっただろう。田中家には両親は不在だったんだぞ」

「彼女はボクが助けてくれないと思ったんです!」

 その場の空気が弾けたように稲垣の目が見開かれた。

「助けてくれない? それはおかしいな。クラスメイトで顔見知りの男子だぞ。そんな状況で助けてくれないと確信を持つ理由が見当たらねぇな。……これは面白いぞ、諸星なぎさが田中くんに抵抗したのは彼女の手足の爪に残った皮膚片で明らかだが、おまえがそこに関わった物理的な情報はひとつもない。これにおまえの供述を加えると、諸星なぎさは『助けて』と叫びながら逃げようとした。けれどおまえは彼女を助けなかったし、彼女もおまえに助けを求めたわけではない。ではこの現場でのおまえの役割はなんだ?」空白の四時間も気になるな、と犬飼は愉しそうに笑う。

「し、知りませんよそんなの、あいつに訊いてくださいよ」

「田中くんの自供を採用していいのか?」

 席に戻った犬飼は、午前中に書かれた諭吉のメモを手に取る。

「あ、あいつ、なんて言ってたんですか……?」

「それは言えねぇな。けどおまえにとっちゃあかなり不利なことを言ってたぜ」

「なっ、あなたたち……あんなやつの言うことを信じるんですか! 諸星さんを殺したのはあいつですよ! ボクは彼女に触ってもいません! 誓って絶対に殺してません! ふざけやがって、あいつ! 嘘をついてますよッ!」

 頭に血が上った稲垣が椅子を蹴るように立ち上がった。

 急速に息は荒くなり、目はぎゅっと血走り始めた。

「俺はさっき心理的脅迫の話をしたな。モラルハラスメントとしても広く知られているが、言葉や態度によって精神的に暴力を加え、支配下に置くことをいう。一概に加害者たちは自分こそ被害者だと主張するのが特徴だ。相手にとってよかれと思って言った、という偽善者を気取る輩もいるが。そうだな……おまえは前者かな?」

「ボクがっ、田中を精神的に支配していたとでも言うんですか? 逆でしょ!」

「田中くんには諸星なぎさをどうにかしようという理由がないんだよな」

「いやッ! あいつは女だったら誰だっていいクソ野郎なんです!」

「なんだおまえは知らなかったのか? 田中くんには付き合っている女子がいるんだぞ。そこのお兄さんが彼女とさっき電話で話した。事実だそうだ」

「え、っ……? ……う……、うそ……」

 衝撃の事実を突きつけられ、稲垣はのろのろと脱力して椅子に尻をついた。



 午前中のことだが、諭吉はひとりで三十分ほど田中の聴取を行った。

『……夏休みから始めたバイト先で知り合った、女子大生とオレ付き合ってんだ。あいつきっと……もうオレのこと嫌いになっちまっただろうな……』

 彼の声は涙で掠れていた。眉が薄くいかつい顔つきなのに、気はとても小さかった。

『オレ……取り返しのつかないことしちまった……』

『その彼女の連絡先を教えてもらえる?』

 天童寺検事の許可を得て、諭吉が電話を掛けた。

 大学生の彼女は想像していたよりもずっと口調がしっかりしていた。

『えぇそうです、その犬のぬいぐるみをプレゼントしたのはアタシです。嫌いになんかなってないって伝えてください。ちゃんと罪を償って出てきなよって……。副検事さんは知ってますか、あいつずっと学校行きたくないって言ってたんですよ。とある男子が、怖いからって――アタシらの仲が知れたら、アタシに危害が及ぶかもしれないって言ってました。すごく怯えてました。だから安心させてやりたくて、その犬のぬいぐるみを贈りました。大丈夫よ、アタシはずっとあんたの傍にいるからって』

 彼女は田中がおそれていた男子の名前を知らなかった。

 また、田中との聴取中に「奪う」という単語を諭吉が何気なく口にした瞬間、彼は水を浴びせられた子犬のように震えだしたのである。

 その話はすぐさま、喫煙所で稲垣の供述調書を読み返しつつ煙草を吸っていた犬飼に伝えられ「これで田中くんがとある人物から長期間ないし長時間、心的外傷性ストレスを受け続けていたことが確定したな」と、諭吉にねぎらいの煙が吐きつけられた。


「稲垣くん、おまえの言動には気になる点がいくつかある。まずひとつめは常に被害者意識でものを喋るという点だ。ボクのせいじゃない、ボクはイヤだったんだ、ボクは無関係なんだ、というように。理不尽を受け止めきれずに責任を外部へと向け、自分こそ常識であり正しいと思っている。他人を貶めることで自分を正当化している」

「……」

「もうひとつは自分が不利になるとわかった瞬間に態度が大きく変わる点だ。ぼそぼそ陰気に喋っていたかと思えば、さっきみたいにいきなり声をでかくして怒鳴りつける。心理的脅迫者の典型的特徴だな。そしてなにより一番は、その目だ。俺はおまえがこの部屋に入ってきた瞬間に確信したよ。いままで心の中で何人殺してきた?」

「……殺してません……」

「言い方を変えよう。なにを、どう奪ってきた? 現実でという話じゃない。妄想の中でどうやってきたのかを教えてほしい。これは聴取とは関係なく、俺の興味で訊いている。おまえの瞳に映る凶器がとても美しくてな……」

 犬飼は前のめりになって、薄気味悪い声色で彼の殺意を褒め称える。

「……おじさん……、何者なの……?」

「あぁ自己紹介が遅れたな。俺は犯罪者プロファイラーだ。ちょいと犯罪心理学をかじっている。おまえたちみたいな一線を越えた人間に興味津々の変な生き物でな」

「検事さんじゃないなら話す必要ないです……」「なんだ、俺まで怖くなったか?」

(ヒデちゃんの悪いクセが出てきたな)

 諭吉は長丁場を覚悟する。犬飼が得意とする悪魔の対話術イーブルテクニックがついに少年にその深淵で眠るナイフを覗かせた。――諭吉は手を止めず犬飼を盗み見る。

 稲垣に仕掛けた『インサイト』も『イエスセット』もイーブルテクニックのひとつであり、彼は心理学をある種、悪用し、様々な対話技法を用いて犯人と闘う。

 ――心理学は本来こういう意図で使っちゃならねぇのさ。

 ――どうして?

 ――相手が隠してる心を無理やり暴くことは、そもそも悪い行為だからな。

 ――だからイーブル……「邪悪」なテクニックなんだね。

 ――俺はおまえたち正義の検事さんと違って、邪悪な話術を使う悪魔なんだよ。

 悪を裁くのは天使でなければならないという正道を否定するのが、彼の犯罪心理学だ。悪魔が悪魔を裁いたっていいのではないか。ヤクザが組のルールを犯した仲間の落とし前をつけるのと似たようなものだと彼は言う。

 諭吉は立場上納得できなかったが、現に被疑者たちが彼を信頼して口を割るものだから、蛇の道は蛇――そういう道もアリなのだろうと思った。

「俺はおまえの話をもっと聞きたいんだ。遠慮せず本音で話してくれよ」

 たとえ途中で相手が降参しようと彼は追求を止めない。一旦ターゲットに噛みついたら自分の好奇心が満たされるまで離さない。

 犬飼のその犯罪心理への執念から、この業界では黒妖犬と呼ばれているそうだ。諭吉はそれを他の検事や大学のお偉方が揶揄して口にするのを耳にしたことがある。

「本音、ねぇ……。おじさん、もうボクのこと、わかってて訊いてますよね……」

 獣のような重くて荒々しい呼吸音が稲垣の口から漏れて這いずってくる。

 先ほどとはまるで別人だ。抜身の刃物を構えているかのような私怨が犬飼に向けられている。諭吉は頬にぬるい汗が伝うのを感じた。

「おまえは人を殺す田中を見て興奮したのか? それとも――」

 犬飼は宙に泳がせていた指先をスゥッと彼に向けた。

「好きな女が殺されるのを見て興奮したのか?」

「……それって……どっちか選ばなきゃダメですか……?」

 いままでのどんな受け答えよりもねっとりしていた。

(この子は、歪んでいる。単純な事件じゃない。僕の直感は正しかった……)

 田中が諸星の首を絞めているときの稲垣の姿を想像して、諭吉はぞっとした。

「空白の四時間はおまえからの『脅迫』と田中と彼女の『演技』の四時間だった。だがおまえからの心理的脅迫がエスカレートし田中くんの『演技』は崩壊した」

 そうして本気で奪い奪われ始めたふたりを、彼はずっと、ずっと――、瞬きも忘れて凝視していたのだろう。

 彼はそのとき初めて自分の中に絶頂を知ったのかもしれない。

 自己愛を超えた快楽は、想像を絶するような甘美さであっただろう。

 稲垣は手錠が掛けられた両手を太腿のあいだに挟むと、顔に落ちてくる前髪を掻き上げようともせず、口だけニタリと歪めて笑ったのだった。

「愉しかったのは最後の一時間だけ……。おじさんはもうわかってるんでしょ」

「迫真の演技よりリアルのほうが興奮するよな」

「ふたりとも良い顔だったなぁ……良い声だった……。あの血の匂い、思い出す度に、何度だってボクは興奮するんです。ほら、あぁまた……」稲垣は背中を丸める。

 やがて、ねばつくような口調で語られた犯行に至るまでの「欲望」の真実を、犬飼は称賛する。――おまえは俺にとって素晴らしい恋のライバルだった、と。



 稲垣大和の十七年という人生は、誰から見ても平凡で記録に残るものではない。

 テストの成績は概ね平均だ。特別運動神経が良いわけでもなく、悪いともいえない。

 友達は親友と呼べるほど親しい者はいないが、その場限りで笑い合える面子が揃っている適当なグループには属している。

 リーダー格ではない。空気という存在でもない。

 いじめられることもいじめることも彼は経験していない。問題を起こして指導を受けたこともない。ハタから見れば平和な学生生活を送っていた、ごく普通の男子高校生だといえた。

 彼が――田中と諸星に出会うまでは……。

 今年の春、高校二年生になりクラスの顔ぶれが替わった。

 そこそこ仲が良かった男子たちとは離れ離れになった。こればかりは仕方がない。

 今年はどこのグループに入って一年を過ごそうかと教室を見渡して、ふと諸星と目が合った。それは偶然であった。諸星は学びをともにする男子に深い意味はないただの挨拶としてにこりと微笑みかけ、しかしいっぽうで稲垣はそれまで芽すら膨らんだこともなかった桜が自分の中でぶわっと満開になるのを感じた。急に胸がどきどきしだして慌てて目を逸らした。無意味に制服の第二ボタンを握った。

 そんな彼の様子を遠くからにやついて見ていたのが田中である。

 稲垣が田中から最初にカツアゲを受けたのはゴールデンウィークの直前だ。

 連休が明けたらまた金をせびってきた。その一週間後にも胸ぐらを掴まれ財布ごと差し出した。合計三回、稲垣はそれまでこつこつと貯めていたおこづかいのほとんどを田中に渡してしまう。

 一年生の頃から田中が問題児であることは誰もが認知しているほど有名だった。逆らえば殴られる。おとなしく言う通りに金を渡せば痛い思いをしなくて済む。

 稲垣は空っぽにされて投げ捨てられた自分の財布を拾い「しょうがない、しょうがない」と自分に言い聞かせた。しかし本当は「しょうがない」とは思えなかった。

 どうしてこんな理不尽がまかり通るんだ? ボクだけがあいつから金を取られてるのか? クラスの誰があいつから金を取られて、誰が取られていないんだ? 男子だけ? 女子は? もしかして諸星さんもあいつから脅されたことがあるのか? もしかしたら奪っているのは金だけじゃないかもしれない。女子が相手なら……そうだ、あいつならやりかねない……金以外を奪っていたっておかしくないのだ。

 彼は――田中の行為を非難しなかった。むしろ羨ましいと思った。

 ……いいなぁ……ボクもあいつみたいに……奪える人間になりたい……。

 やがて六月になり、田中はクラスの男子に重傷を負わせて逮捕された。

『ねぇ話があるんだけど』

 稲垣は不起訴で戻ってきた田中に声を掛けた。裏庭で寝ていた彼に、ひっそりと。

『ボクからお金取ったこと先生たちに言ったら、キミの未来はどうなるのかなぁ? 証拠ならあるよ。ボクが黙ってお金渡してたと思う?』証拠など無論、嘘であった。

『その気になればね、ボクはキミの大事なものを奪えるんだ……覚えておきなよ』

 冗談っぽい口調だったが目が笑っていない稲垣の顔に、田中はおそろしい寒気を感じた。奪ってやる、と喉をくつくつ鳴らして笑う稲垣。田中には小さな悪魔に見えた。

 稲垣による田中への心の支配は物を要求するものではなかった。廊下ですれ違うと稲垣は口の両端をにんまりと上げて田中を凝視する。そして『ボクはいつでもキミから希望を奪えるよ』と囁く。それは毎日繰り返され、田中は次第に恐怖を覚えた。

 田中にはそのとき、大切な彼女がいたからである。クラスでは付き合っている女子がいることを隠していた。彼女の存在は田中にとって心の支えでありながらも、弱みでもあった。――稲垣は、オレがあいつと付き合ってるのを知ってるのか――!

 いっぽうで事情を知らない稲垣は優越感と高揚感に酔いしれていた。

 みんなは気づいていないが自分はあの田中よりも実は強い男で、いつだってなんでも奪えるのに、それをしない。本気になれば諸星を物陰に誘い、襲って、処女だって奪えるのだ。でも「あえて」していないのが強さの象徴だと信じていた。

 妄想の中で稲垣は、自分こそ真の実力者であるという錯覚に心地よさを感じていた。

 なのに――、

『……昼休みに廊下で言ってたこと本当なの?』稲垣は、田中の仲間内の虚勢発言を真に受けて、放課後、裏庭に呼び出した。能面のような面持ちで問い詰める。

『どうして諸星が処女じゃないって言いきれるの?』

『オレが、抱いたからだよ』もちろん嘘である。思春期の男子によくある誇張だった。

 稲垣の中でずっと綺麗に咲いていた桜が散った。あっけないほど一瞬であった。

 自分はいつでも彼らを食える捕食者で、田中はもちろん諸星も捕食される側の人間のはずだった。

 ――なんだよ……、なんだよ、なんだよ、なんだよ、なんだよっ……!

 ――共食いしてんじゃねぇよ。オマエたちを食べるのはボクだろ……――ッ!

『ボクに諸星とセックスしてるところ見せて。え、無理? 抱いたとか嘘なんだ?』

『う、嘘じゃねぇよ』

『じゃあできるよね。できるでしょ?』

『……で、できるよ』

 稲垣の禍々しい誘導に、田中は常日頃抱いていた憂惧もあり気圧されてしまった。


 途中までは稲垣の計画通りだった。

 田中が諸星を無理やり家に連れ込んでから、怯えきった彼女に『わかってんだろ』と詰め寄る様子を見つめて愉しんでいた。涙目の諸星は想像以上に可愛かった。

『ボ、ボクちょっとトイレ……』

 自分も田中に脅されて連れてこられたんだ、いま助けを呼んでくるから、という目くばせの演技を諸星に見せてから稲垣は部屋を出た。だが真実は違う。稲垣は興奮を一度冷まそうと、恐怖に震える諸星を妄想しながらトイレで気持ちよく抜いた。

 本番はこれからだと部屋に戻ると、田中と諸星の様子が明らかに変わっていた。

 セックスを始める素振りも見せず、ふたりは他愛もない会話で無駄な時間を過ごし、だらだらとベッドで戯れた。喋っているだけじゃないかと稲垣は親指の爪を噛んだ。

『まだなの……ねぇ、まだかよ! 田中ァッ! わかってるよなぁ!』

 苛立ちが最高潮に達した稲垣は乱暴な口調で叫んだ。

 すると諸星が田中に『合わせて』と囁いたのを、稲垣は聞き逃さなかった。

『奪うぞ! おまえのッ希望を! ぜんぶぜんぶぜんぶ奪ってやるからなあああ!』

『うあっ、あああぁ、っあああ、あ、あああ、ああああアアアァアア……――ッ!』

 田中はやっと見つけた居場所を護りたかった。

 虚勢を張らなくてもいい、弱くても情けなくてもいい、ありのままを受け入れてくれる恋人を稲垣に奪われるわけにはいかなかった。

 バイト先で知り合った彼女からの贈り物――ゴールデンレトリバーのぬいぐるみがベッドの下に落ちておらず、もし田中の視界に僅かでも映っていたら、彼は踏みとどまることができたかもしれない。



「おい、ヘルハウンド」

 天童寺検事の太い声に呼び掛けられたヘビースモーカーの男は、吸いかけの煙草を口に咥えたまま振り返る。

 諭吉が書類の書き直しのために執務室に残って一時間経つ。犬飼はひとり東京地検内の喫煙所で無糖の缶コーヒーを片手に休憩していた。数分おきに大あくびを繰り返しながら、これから幼馴染に連れて行ってもらうねぎらいの夕飯を待っているのだ。

「それって俺のあだ名っすよねぇ。苗字に犬って入ってるからっすか。だったらせめてワンちゃんとか、かわいいのにしてくださいよ、誰がつけたか知りませんけどセンスが厨二ですよ」いまは諭吉が傍にいない。なので犬飼は嘲笑をめいっぱいぶつけた。

「調子に乗るなよォ。特権法が仇になる日が、きっと来る」

 嫌味たっぷりに言いながら天童寺検事は自動販売機に小銭を入れて、オレンジジュースのペットボトルを買った。犬飼は煙草を摘んでまたひとつ大きいあくびをする。

「今回も特権法のおかげでアンタの無能さが露見しなくて済んだくせに……」

「フンッ、学者はおとなしく研究室で静かに本でも読んでるのがお似合いだよォ」

 とにかく文句が言いたかっただけなのだろう。反論する暇も与えず、天童寺検事は踵を返してのしのし執務室へと戻っていく。犬飼はやれやれと首を鳴らした。

 これまで一度として、どんな凄まじく痛めつけられた遺体を見ても、凶悪な犯罪者を目の前にしても犬飼は怯まなかった。むしろ人間はどこまで黒くなれるのか、その深淵の底の深さを知りたくて仕方がない。この好奇心は性善説からきているのだろうか、それとも性悪説からなのか。どちらにしろ人間は一度、闇に触れてしまうと好奇心からその奥深い場所になにがあるのか探求してしまう生き物なのかもしれない。

「特権法が仇になる……ねぇ……」

 犬飼はガラムの甘いフィルターを軽く噛んだ。あるとしたら、ありきたりだがニーチェの『怪物と戦う者は、その過程で自分自身も怪物になることのないように気をつけなくてはならない――』の通り、自分が犯罪を犯してしまったときだろうか。

「ヒデちゃんお待たせっ!」明るい足音が近づいてくる。

 まぁあいつがいる限りその日は来ないと犬飼は密かに笑み、残っていた缶コーヒーをぐいと一気に飲みほして空き缶をゴミ箱に投げた。

「夕ご飯なんだけどさ、久しぶりに僕のウチで食べようよ!」

 想定外の提案に犬飼は激しく瞬きして「は?」と素っ頓狂な声を上げた。



「あっらぁ――秀樹くんッ? アラアラまぁっ、うそでしょぉッ!」

「ご無沙汰してま……」「こんなに大きくなってぇ!」「えっ、う、うぉっ」

 感動の再会に興奮を抑えきれなくなった使用人の真壁響子に挨拶を遮られ、彼女のむっちりとした両腕に無理やり抱きしめられる。胸と腹が一体化した体格に圧迫されて犬飼の爪楊枝みたいな身体はへし折られそうであった。

 いっぽう諭吉はというと、タクシー横付けで大豪邸の自宅に着くなり「相変わらずでっけぇ家だ……」と巨大な正門を見上げ久々の往訪に戸惑う幼馴染の背中をホラホラと押してエスコートしてからというもの、彼の後方でずっとニコニコしていた。

 ……諭吉邸は、高級住宅街のど真ん中に尋常ならざる敷地をもっている。二十五年も経てばその間に多少の補修は加えられていて当然なのだが、門戸の滑らかな飴色が思い出の色よりも濃くなっているぐらいで、幼い犬飼が毎日のように訪ねていたあの頃と瞳に映る景色はさほど変わっていない。

 正門をくぐると屋敷を囲うように庭園が広がっており、都会のそこら辺の公園よりも遙かに広い。四季折々を感じられる花々が植えられていて、植物園のようだから近所からは「ガーデン」と呼ばれている。

 屋敷も随分と仰々しい英国式の「白い巨塔」なのは思い出のままだ。犬飼自身が成長してもやはり屋根のてっぺんは見えなかった。

 背の高い観音開きの扉が使用人ふたりがかりで開かれ、大理石の床に深いブラウン色の絨毯が敷かれたホールに犬飼が居心地悪く一歩足を踏み入れると、待ち構えていた真壁に飛びつかれた――……というのが、つい数秒前までの出来事である。

「く、苦しいです……」「あっ、まぁまぁごめんなさい!」

 苦悶を訴えた犬飼を真壁が慌てて離す。あやうく熱い抱擁で呼吸困難を起こすところだった。犬飼はゲホゴホと咳払いした。諭吉を含め――その様子を微笑ましく眺めていた若い女性の使用人が三人と、執事らしき年配の使用人がひとり、揃ってクスクスと上品に笑う。豪華絢爛で若干浮世離れしたこれが諭吉邸の日常である。

「二十五年ぶり? 秀樹くんってばちっちゃくて女の子みたいだったのにねぇ」

 真壁は感極まってぼろぼろ溢れる涙をエプロンの裾で拭う。幼い頃はほぼ毎日顔を合わせていたので、親戚のおばさんのような感覚なのかもしれない。しかし「女の子みたいだった」という話は犬飼にとってあまり好ましくない昔話である。

 色白で周りの男子よりもやや成長が遅かった犬飼は、現在こそ諭吉の身長を数センチ追い越したものの、当時は女子と間違えられることも多かった。犬飼がやっと成長期を迎えたのはアメリカに渡ってからなので、帰国後に諭吉と再会した時には「もしかして僕より大きくなったのッ?」と驚かれた。

「ゲホッ……、俺もすっかりオッサンになりましたよ」

「おじさんって、なに言ってんの。まだ全然若いじゃないの。いくつになったの?」

「ボケないでくださいよ。俺はお宅のお坊ちゃまと同い年ですよ」

「アラッ! そうだったわねぇ、おなじクラスだったわね、オホホ私ったら!」

 なんとなく、数歩うしろにいる諭吉を肩越しに振り返る。目が合うと諭吉はちょっとだけ不思議そうな顔をしたが、すぐに「よかったね真壁さん」と小首をかしげて笑顔を深めた。犬飼を家に招いた理由は、本日付で使用人を辞める真壁に会わせるためであった。タクシーの車内で「今夜は真壁さんの送別会なんだよ」と説明された。

「えぇ、えぇ、ありがとうございます、若様……。なんて懐かしいのかしら」

 私はシチューを温めて参りますねと真壁は後輩の使用人たちを伴い、メイド服を翻してパタパタと厨房へと駆けていった。諭吉は「先にダイニング行ってるね!」と人懐っこく大声を飛ばす。真壁らしき女性の声が「はぁい」と応えた。

「若様……そういや……おまえ若様だったな……」「どうかしたのヒデちゃん?」

 頭を抱えている幼馴染を引き連れながら変なの、と首を捻る諭吉の感覚のほうが変である。玄関をくぐって靴を脱がずに生活する空間は犬飼もアメリカで慣れている。だがここは日本だ。そして犬飼はごく一般的な家庭で育ち、決して裕福ではなかったし、双方の親同士に繋がりは一切ない。ただ学区が一緒で、おなじクラスで隣の席だった――ふたりの出会いはたったそれだけの理由なのである。

 時代が違えばかなりの身分差だ。今日が明治や大正であれば関わることもなかったろう。犬飼はしみじみ良い時代になったもんだと年寄りじみた。

 ダンスホールで立食形式の豪勢な食事会が開かれている中、グランドピアノの音色に乗りながら、諭吉とメイド姿の若い女性がぎこちないワルツを踊っている。

 その様子を小皿を片手に、窓の縁に腰骨を置きながら(ここは日本か?)とぼんやり眺めていた犬飼に「秀樹くんも踊りましょうよ」と真壁が手を差し伸べてきた。

「俺は踊れませんよ。英国紳士とは無縁な男なんで」と、丁重にお断りする。

「あら残念。マリアさまが生きていらっしゃったら、きっとお優しく教えてくださったかしら。秀樹くんにならきっと喜んでワルツを教えてくださったでしょうねぇ」

 マリア……、その懐かしくも口にするのを憚られる名前を頭の隅で反芻する。

「そういえば真壁さんだけですよね、あの頃からのお手伝いさんって。他は俺が知らない顔ばかりです」そう言うと真壁は頬肉を五指で持ち上げてため息をついた。

「色々あったからねぇ。二十年……、二十四、五年前だったかしら……一気に辞めちゃって、私もちょっと考えたけどやっぱり若様がかわいそうで」

 哀愁を帯びながら波を打つように弾かれるメロディはホイットニー=ヒューストンの『Greatest Love Of All』だろうか。諭吉は足取りのおぼつかない新人の使用人女性を優しく導いてフロアの中央でくるくると回っている。華麗にエスコートしているつもりだろうが、残念ながら目は泳いでいるので童貞臭が隠せていないのが滑稽だ。

 毎夜夢に見る孤独を乗り越えて自己愛を誇れという力強いメッセージを感じる曲に、犬飼はこの昔話を重ねるのは少々自虐めいているかとも思ったが、真壁は本日をもって諭吉邸を去ってしまう。当時を知る重要な人物から話を訊きたい。この諭吉邸が二十五年間も秘めている底知れない闇についてだ。

「この屋敷でマリアさんが不可解な自殺をしたからみなさん辞めたんですね」

 すると真壁の顔が一気に青ざめた。申し訳なさそうに眉が垂れる。

「っ、……! あぁ……そうだったわね。秀樹くんが……」

「救急車を呼んだのは俺ですからね」

「そうそう、私はあのときは厨房にいたのよ、救急車の後にパトカーが来てからやっと知ったのよ。かわいそうに……秀樹くん、トラウマになっちゃったでしょう」

 同情の眼差しを向けてくる真壁に、犬飼はふっと口の端を上げて軽く黒髪を振った。

「いいえ、むしろ逆ですよ。未だに夢に見ますから」

「それこそトラウマってものじゃないのかねぇ?」

 心理学的にいえば犬飼のそれはトラウマではない。外因ないし内因の衝撃によって受けた心理的外傷のことを指すが、それにより否定的な影響を受けるのが一般的にはトラウマと呼ばれているものだ。犬飼の場合はむしろ逆に作用している。

「ところで真壁さん、あいつのオヤジさんは今日はどちらへ?」

「旦那様? あ、あぁ……、奥様と、ちょっと今日は……外でお食事を」

 真壁の歯切れの悪い返答は、察するのに十分であった。

「……あいつにはマリアさんの話をしたこと、言わないでくださいよ」

 真壁には悟られないように諭吉夫妻に嫌悪感を抱いた犬飼は「ごちそうさま。こんなに美味い飯は久しぶりでした」と告げて使用済みの小皿とフォークを彼女に託した。


 ガラムのスーリヤマイルドに百円ライターで火を点けながら、犬飼は外に出た。

 理由は使用人同士による二次会が始まったから部外者は出ていくべきだなと思ったのもあったが、屋敷内が全面禁煙なのもある。すっかり腹が満ちたので食後のニコチン摂取だ。

 陽が落ちて薄暗いガーデンにキラキラした水しぶきが舞っている。

「なんだおまえ、若様なのに庭の水やり担当なのか」

「今日はたまたま。みんなお酒入って酔っぱらってるでしょ?」

 背後で盛大な笑い声が立った。確かに、上機嫌になって自分の職務を忘れていそうな者がいてもおかしくなさそうな雰囲気だ。今日はあらゆる意味で無礼講らしい。

 諭吉はさっきからおなじ茂みにばかり水を撒いている。大量の水分を吸い込みきれない周辺の土がぬかるんで緩くなり、彼の革の靴底がずぶりと沈んでしまっていた。このままだと池ができてしまいそうだ。

「おい、そんなに水をやったら枯れるぞ」さすがにやりすぎだろう。

「それがなかなか枯れないんだよねぇ、この植物。すごく生命力が強いみたいでさ。……ねぇヒデちゃん、ウチに来るの久しぶりだよね。なんで来なかったの?」

 返答せずただ黙って煙草を吸う犬飼に、背中越しに「まぁいいけど」と諭吉は言う。

 鼻歌交じりの白シャツの背中はまるで犬飼になにか得体のしれないものを訴えかけているようで、けれどまったくその「なにか」が読み取れなかった。意図を持った誘導か、顕在意識か。犬飼は火が点いていない四本目の煙草を咥えたまま両手をポケットに突っ込んで、彼を臨床検査対象のようにじっくりと観察する。

 なにせ背を向けられているせいで表情が見えない上に、返事に特別な波は感じられない。しかし日頃の諭吉のまともな行動からはパラノイア的行動とも思えなかった。

「……やめとけ」限界だ。

 弥が上にもこの家にいるとあの事件がちらつく。

 水遊びにしても明らかにおかしい量を撒くのが見るに堪えず、犬飼は蛇口を締めた。

「子どもじゃねぇんだ。水やりの加減ぐらいわかるだろーが」

 勢いを失ってしなるホースの先端を片手に、すこし間をおいて諭吉が振り返る。

 その刹那――、犬飼は自分の心臓がぎゅっと強張るのを感じた。

 ――……マリア……さん……。

 夜風で波打つ白いシャツに、幾度となく夢で見る白いワンピース姿の幻影が見えた。

 金の筋が混ざった栗色の髪がさらさらと諭吉の頬を撫でつけている。あの美しいイギリス人の女性の血を色濃く受け継いだ彼が、穏やかな表情で幼馴染を見つめる。

 犬飼はどこかに意識をもっていかれそうになり二度、瞬きした。

「ヒデちゃん、またウチに遊びにきてよ。ね?」

 声も口元も笑っているのに、碧の色が混ざった瞳は笑っていなかった。

 暗闇の中でバシャッと泥水が跳ねる音が響く。複数の水たまりの上にホースが投げられた。高級な諭吉のスラックスの裾が跳ねた泥で汚れる。

 犬飼はどうしても「また来る」とは応えられなかった。