太古、天照太御神の斎庭より人の世に下ろされた稲は、稲荷神とも同一視される、宇迦之御魂神の眷属である白狐たちによって、日本中に広まった。幾柱もの狐神が、稲穂を咥えて全国を駆けたのだ。そうして今日まで、日本には豊かに水をたたえた田が空の色を映している。


「ひとつ ふたつと 親が見せ

 みっつ よっつと 子が真似る」


 まだ稲作が伝わって間もない頃、そんな歌を口ずさみながら稲の種を蒔いていく人々を、彼は微笑ましく見ていた。栽培方法も確立しておらず、今とはずいぶん田の様子も違ったが、小さな一粒から芽を出させて、育てていくところは変わらない。もっと前になれば、粟や稗などと混作していたところもある。より多くの収穫を得るにはどうすればいいかと人々は考え、少しずつ技術を構築していったのだ。時折彼からもたらされる知恵を、天啓という形で受け取りながら。


「天の恵みを いただけば

 嬉し嬉しと 躍り出て

 育て育てと 祈るだけ」


 命を繋ぐ食料を得るための作業であるのに、どこか楽しそうに手を動かす人々のことを、今でも彼はよく覚えている。田の傍らに立てられた『そほど』は、田の神の依り代として、人々に篤く信仰された。


「ひとつ ふたつと 空に歌えば

 みっつ よっつと そほども歌う」


 朽ちゆく身体で見上げた空は、この世で一番美しかった。


「そのようなくだらぬ相談事、できると思うな」

 奈良行きの電車の中で、窓ガラスに肉球を押し付けて外の景色を眺めていた黄金が、問答無用でそう却下した。

「くだらなくはないだろ」

 思わず大きくなった声を、良彦は咳払いで誤魔化す。昼過ぎの電車に乗客は多くないが、それでも座席はほとんど埋まっている。良彦はちらちらと向けられる視線が収まるのを待って、小声で続けた。

「穂乃香ちゃんの入学祝いだぞ? 結局一カ月考えても、何がいいかちっともわかんねぇし」

 桜の季節も終わって、今日から五月に入った。明後日からは大型連休が始まろうとしている。当然だが、三月に無事高校を卒業した穂乃香の大学生活はとっくに始まっており、時折やり取りするメールを見る限りは、それなりにキャンパスライフを楽しんでいるようだ。ささやかでも入学を祝ってあげたいと思ったまま、ついに一カ月が過ぎてしまった。五歳以上歳の離れた女の子が喜ぶものは一体何だろうかと悩み、バイト帰りに百貨店を覗いては、とぼとぼと帰宅する日々が続いている。おまけに彼女を溺愛する兄から、相当なものをもらっているはずだと考えると、自分の体力のない財布で見劣りしないものが買えるのかと不安にもなった。

「今から会うの、知恵の神なんだろ? いい知恵貸してくれそうじゃん」

「鬼神に訊いたらどうだ」

「苦行すぎる」

 妹が大学に入学した時には、問答無用で現金一万円を奪われた。何に使ったのかは恐ろしくて聞いていない。そもそも彼女は穂乃香の存在を知らないので、入学祝いの相談など持ちかけたが最後、根掘り葉掘り訊かれたあげく、その日のうちに両親どころか、孝太郎までが全容を知っている未来が容易に予想できる。しかも今春で大学四年生になった妹は、来年就職を控えているので、その就職祝いのハードルすら上げる結果へと繋がっていくのだ。そんな未来への口火は切りたくない。

「そう思うのであれば、なおさら自らの頭で考えるがよい。神を便利な相談屋扱いするなと言うておるのだ」

 呆れた鼻息とともにそう返され、石頭め、とぼやいた良彦の腿を、黄金の爪が容赦なく引っ掻いた。


 昨日宣之言書に現れた神の名は、良彦が全く聞いたことのないものだった。しかしモフモフ辞典によれば、古事記に一度だけその名が登場する神であるという。古事記であれば、良彦も何度か現代語訳の文庫本には目を通したはずなのだが、それでも印象に残っていなかった。そもそも登場する神様が膨大すぎて、有名どころ以外はそうそう覚えてもいられないのだ。

「国造りの途中、大国主神の元に小さき神が現れた。これはお前もよく知る少彦名神のことだが、当時大国主神はその神の名がわからず、蟇蛙に尋ねたのだ。すると蛙は、『彼』ならばわかるかもしれないと言ってその神を紹介した」

 最寄りの三輪駅で電車を降りると、日本最古の神社と銘打たれた社への案内が出ている。しかし今日目指すのはそこではなく、すぐ傍にある末社だ。踏切を渡って灯篭のある参道を歩いていくと、鬱蒼とした森の入口に白木の鳥居が誘っている。そこをあえて素通りして、そうめん店の前を通り、住宅街の中を進むと、目指す社に続く参道が見えた。『知恵の神』と書かれた案内板が目を惹く。両側に竹林を見ながら石段を上ると、こぢんまりとした瓦葺の拝殿が姿を見せた。

「久延毘古命。クエとは崩ゆの意。雨風にさらされ朽ちる者。歩くことはできないが、あまねく天下のことを知る案山子だ」

「……かかし……」

 拝殿脇のスペースで、良彦はそうつぶやいたまま言葉を探した。目の前には、確かに案山子がいる。良彦の腕くらいの太さの丸太を十字に組み合わせ、つぎはぎだらけの粗末な服を着た胴体と、木肌がむき出しの脚。百六十センチほどの背丈で、顔の部分は薄汚れた布を丸めてそれっぽく作ってあった。墨で描いたと思われる二つの黒い丸が目で、鼻はひらがなの『し』のような形で描かれ、口元はにっこり笑っている。しかしその表情はぴくりとも動かず、深淵を思わせる両目が良彦を見ているだけだ。

「え、ちょ、これ生きてる!?」

「ほう、神に向かって生きているかとは、なかなか哲学的な問いよ」

「そうじゃなくて、中身入ってる!? 怖いんだけど!」

 そう言っている間も、案山子は微動だにしない。その辺の田んぼにいたら、本物の案山子だと思って見過ごしてしまいそうだ。

「そもそもさ、なんで案山子があまねく天下のことを知ってんの? 案山子って動けないよね?」

「動かないからこそ、一日中世の中を見ているとされたのだ。知恵の神以外に、農業の神や、田の神と言われることもあるがな」

 良彦はいまいち腑に落ちず瞬きする。世の中を見ているといっても、見える範囲には限界があると思うのだが。しかし黄金がそうだというからには、そうなのだろう。現代の常識は通用しないのが神様だ。

「あの……久延毘古命、ですよね……?」

 良彦は恐る恐る問いかける。これでただの案山子に話しかけていたとしたら、なかなかの笑い者だ。

「――私が久延毘古命であるかどうか……、そなたが名を呼べば、この棒と布の物体にそう名前がつくのであろう」

 一拍置いて、目の前の案山子からはそんな答えが返ってきた。声は明瞭に聞こえるが、描かれた口が動いているわけではない。しかもなんだか、面倒くさい匂いがする。『はい』か『いいえ』で済む質問だったと思うのだが。

「しかし私が久延毘古命であると名乗れば、『棒』という名と『布』という名はどこへいくのだとそなたは考える?」

 質問の答えを質問で返されて、良彦は口を開けたまま不気味さすら感じる案山子の黒目を見つめ返した。自分の人生において、棒と布のことをそこまで真剣に考えたことはない。

「おやおや、久延毘古命はまた難しいことを仰せになって、困りますねぇ」

 野太く低いが、随分のんびりした声が地面の方から聞こえて、良彦はそちらに目を向けた。いつの間にか案山子の足元に、良彦が両手でないと持てそうにないくらい大きな蟇蛙が姿を現していた。茶色とも深緑色ともつかない背中にはいくつもイボがあり、腹側は白い。大きな目玉は黄色く、ぎょろりと動いて瞳孔が縦に細くなる。

「……蛙」

 でかいな、と良彦は素直な感想を漏らした。両生類は苦手ではないが、それでも一瞬体が強張る姿だ。しかも一体、どこから現れたのだろう。

「やや! そこにおられますのは方位神様と、もしや御用人殿ですかな?」

 巨大な蛙に気を取られている間に、上空からそう声がしたかと思うと、何かが音もなく舞い降りてくる。

「ようこそ久延毘古命の社へ!」

 蛙とは対照的に、軽快な声でそう告げたのは、慣れた様子で案山子の腕に止まった体長四十センチほどの、ずんぐりとした一羽の梟だった。


「久延毘古命はこれこの通り案山子でございまして、古事記には歩くことができないとありますものの、境内と田の中やあぜ道であれば、ある程度移動が可能でございます。しかしながら、最近はこの境内でじっとしていることが多く、用事はもっぱら、眷属である私、富久と、蟇蛙の謡が承っておる次第です」

 人目につかない竹林の中へ移動して、相変わらず久延毘古命の左腕に止まった富久が、茶と白の混じった羽を動かしながら淀みなく説明した。

「人型になることもあるが、限られた場所しか歩けぬことには変わりないので、あまり外には行かぬのだ」

 富久に続けて、久延毘古命が自分でそう告げる。

「それに人型でいればいるほど、人の子と神の境界線について考え始めてしまうしな。人の子は神の姿を真似て作られたはずが、神が『人型』を取るとは如何なることか」

「あああ、そういう難しいことは今いいから!」

 思考の中に落ちそうな久延毘古命を、良彦は慌てて止める。ややこしいことは一柱の時に考えていただきたい。

「蛭児大神もそうだったけど、久延毘古命も歩けないのか……。オレも右膝壊してるけど、歩けないのは不便だろうな」

「ほう、右膝を?」

「野球でちょっとね」

 良彦は肩をすくめる。今でもまだ、天気の悪い日や、たくさん歩いた日には疼くことがある。

「それで、こっちの蛙が謡か……。もしかして、大国主神に久延毘古命を紹介したのって……」

「おお、おお、ご存知ですか御用人殿! そうですとも、私こそが、あの蟇蛙。それがご縁で、久延毘古命の眷属となったのですよぉ」

 久延毘古命の右腕に載っていた謡が、大きな口を開けて肯定する。低音でゆっくりしゃべるのが彼の特徴らしい。羽毛がフワフワしている富久と比べると、その姿はどうしても両生類のとっつきにくさがあるが、慣れてくると意外と表情が豊かなのだと気付く。

「こんなところで大国主神ファミリーに会うとはね……」

 良彦は密かにぼやいた。血縁でなくとも、彼と縁ある神や動物は多い。広義で言えば、久延毘古命すらもファミリーに入るかもしれない。

「御用人殿に覚えていただいているなど、光栄でございますなぁ。では僭越ながら、感謝の想いを込めましてここで一曲」

 そう言ったかと思うと、謡は喉の下をぷくりと膨らませ、次の瞬間地を這うような低音で歌い始めた。

『ひとつ ふたつと 親が見せ

 みっつ よっつと 子が真似る――』

 謡の低くて枯葉を擦るようなしゃがれた声と、大きく外しはしないが、確実にずれている微妙な音程が、春の陽が差し込む竹林という爽やかな環境の中ですら、この上ない気持ち悪さを運んでくる。これなら大声で叫ぶだけの下手くそな歌の方が、まだましなのではないか。

「謡! やめろ!」

 意気揚々としたビブラートに身震いした富久がそう叫んだかと思うと、ひらりと飛んで旋回し、謡に強烈な蹴りを入れて、再び久延毘古命の左腕に戻ってくる。

「申し訳ありません方位神様、御用人殿。謡は自覚のない音痴なのですが、吟遊詩人を名乗っており、様々な時代の出来事を歌で語り継いでおるのでございます」

「じ、自覚のない音痴が吟遊詩人って、すごいな……」

 良彦はそっと鳥肌の立った腕を摩った。富久の反応を見る限り、嫌というほど指摘は受けていそうだが、それでも自覚がないというのは、ある意味最強なのではないか。

「最後まで歌わせておくれよぉ。『田歌』は十八番なのに」

 蹴られた拍子に久延毘古命の右腕から落ちそうになった謡が、なんとか前足でしがみついている。

「そうだぞ富久、歌わせてやってもいいだろう。せいぜい眩暈を起こした小鳥が落ちるくらいだ」

「久延毘古命、それはもはや事件でございますぞ」

 久延毘古命と富久のこき下ろし方は容赦がない。それでも謡があまり堪えてないのをみると、これが彼らの日常なのかもしれなかった。

「なかなかやっかいな眷属だな……」

 黄金の耳が、戸惑い気味に伏せられている。さすがの方位神も、先ほどの歌には少々耐えられなかったようだ。

「ええと、じゃあそろそろ本題に入りたいんだけどいい?」

 とりあえず話を進めようと、良彦は呼びかける。御用をさっさと片付けて、穂乃香の入学祝いに何を贈るかの知恵を貸してもらわねばならない。

「久延毘古命の御用は?」

 本神である久延毘古命の顔を見ながら問いかけてみたが、見開かれたブラックホールのような目と、にっこりした口元はそのままだ。無言でいられると、それがなんだか妙に怖い。

「……御用、か」

 やがてぽつりと、久延毘古命がつぶやいた。

「なんでもいいんだ。困ってることとか、やってほしいこととか。ああでも、世界を変えろとか、そういう無茶なやつはなしね。オレでもできそうなこと」

「そなたでもできそうなこと?」

「そう、ごく普通の、一般庶民のオレが、できること」

 その言葉に、久延毘古命はやや小首を傾げて考える素振りを見せると、ふと閃いた様子で頭を起こした。

「では、頼みたいことがある」

「うん、何?」

「引退し――」

「あああああああああああ!」

 言いかけた久延毘古命の言葉を、富久の大音量の叫びがかき消した。その大声に、良彦は心臓が止まりそうなほど仰天する。

「久延毘古命! またそんなことをおっしゃって! 気の迷いでございますよ!」

「しかし……」

「おやおや、まだ引退したいなどと? 気弱になりましたねぇ」

 久延毘古命の右腕で、謡がやれやれと言った面持ちでゆっくりと瞬きをする。

「あ、あのさ……」

 まだ動悸の激しい胸に手をやりながら、良彦は仲良し三柱組に割って入った。

「今、久延毘古命、引退したいって言った?」

 その言葉に、久延毘古命を挟んで富久と謡が顔を見合わせ、実は、とため息まじりに話し始めた。

「ここのところ、力を削がれた久延毘古命は、何をするにも無気力になってしまいました。この前までは、動けぬのならとミステリー小説を書いたりもしていましたが、それも完成できないままで――」

「ちょっと待って、小説!? 人型になって、紙に書いてるってこと?」

 さらりと流されそうになった話に、良彦は食いつく。今見ている久延毘古命の手は紛れもない丸太だ。ペンが握れるとは思えない。

「ああ、いえいえ、紙ではなく……」

 そう言って謡がちらりと久延毘古命の着物をはだけると、胸元にリンゴのマークが入った四角いものが見えた。

「こちらのたぶれっとで」

「タブレット!」

「大国主神にいただきました」

「あいつ!」

 一体どこで手に入れたのか。良彦は脱力しそうになるのをなんとか堪える。意外な方法に驚いたが、よく考えれば知恵の神なのだから、最新機器を使いこなすくらいはお手の物なのかもしれない。

「たぶれっととはあれか、すまほの大きいやつか」

 尻尾を揺らして黄金がつぶやく。こちらはこちらで、随分現代文明に馴染んできた。

「小説を書いてみればいいと久延毘古命に勧めたのは、大国主神なのでございます。安楽椅子探偵なのだから、きっと面白いものが書けると」

「あ、あんらくいす……?」

「安楽椅子探偵とは、現場に行かずして、時に部屋から出ることもなく、もたらされる手掛かりと推理だけで犯人を探し当てる者のことで、今のみすてりい界では手法のひとつとして確立されております。故に、大国主神は思ったようです。謡からもたらされた情報のみで、少彦名神を言い当てた久延毘古命こそ……元祖なのでは? と」

 良彦はこめかみに指を当てる。言われてみればそうと言えなくもないが、一体大国主神は何がきっかけでそのことを思いついたのか。

「大国主神からは、『体は案山子、頭脳は叡智、その名は名探偵・神』というきゃっちふれーずもいただいておりましたのに……」

「あいつ漫画読みすぎだろ」

「なんにせよ、先ほど申し上げました通り、小説も途中で滞り、景色を見ても心は動かず、参拝に来る人の子を眺めても無反応。ついには、引退したいと口にするようになってしまった次第でございます……」

 翼で目元を拭い、富久は涙ながらに説明する。

「引退って、神様を引退するってこと……?」

 それはつまり、高天原に還るということなのだろうか。尋ねた良彦に、久延毘古命は力なく頷く。

「知恵の神である私は、この世の叡智を手にしている。もはや驚くことも、感心することもなくなってしまった。この世で一番美しいと思っていた空さえ、もう見飽きてしまった。……もうこの世に、私がおらずともよかろう」

 久延毘古命は心地なく頭を動かして、竹林の中から見える空を見上げる。

「いやいや、よくないって! そりゃ驚くこととかは少ないかもしれないけど、神様にはいてもらわないと!」

「しかし田のことは、稲荷や、稲の精霊などが見てまわるだろうし――」

「で、でも知恵の神様としての需要はあるじゃん! 学問と人間は切っても切り離せないしさ!」

「学問……」

 久延毘古命が低く口にして、富久と謡が明らかにまずい、という顔をした。

「……御用人殿、そなた学問の神と聞いて、私を思い浮かべたか?」

 黒々とした表情の読めない目を向けられて、良彦は返答に詰まった。これは嘘偽りなく答えるべきところなのだろうか。

「が、学問の神って言えば、正直……北野天満宮――」

「御用人殿おぉ 空気を読んでくださいますかなああああああ」

 富久が矢のように飛んできて、良彦は避ける暇もなく顔面でそれを受けとめ、その衝撃で後ろに倒れ込んだ。

「やはりな……。しかしそれは間違っておらん。そもそも私の『知恵』とは、農耕や灌漑など生きていくための必然に関することが多かった。学問をする余裕は、食うことが充分賄われてから生まれたのであって、私にとっては随分最近のことだ。それを考えると、私はかなり時代遅れの神になってしまった。やはり知恵と学問の神は北野天満宮や太宰府天満宮に鎮座する菅原道真に役目を譲って、老いたる神は引退するのがよかろう」

 遅れてやってきた謡に良彦が腹を踏まれている間に、久延毘古命は遠くを眺めてしみじみとつぶやいた。まさか地雷を踏んでしまうとは。

「では御用人殿、そなたに言い付ける御用は、『引退に伴う諸々の引継ぎを手伝う』で頼む」

「いいえ! 引退など私ども眷属が許しませぬ! 御用は『久延毘古命を引退させぬこと』!」

 久延毘古命の言葉にかぶせるように、富久が良彦の両目を至近距離で覗き込んで口にする。

「こ、この場合、どうなんの?」

 良彦は起き上がれないまま、ごろりと頭を巡らせて、黄金に尋ねた。

「どうするも何も、宣之言書に尋ねるがよい」

 あくまでも冷静に良彦を見下ろして、黄金は答える。

「富久、御用人殿は私の御用を聞きに来たのだぞ」

「そうは申されましても、そのような御用を許容するわけにはいきませぬぞ!」

「力が弱まって、少し自信をなくしておられるだけですよぉ」

 良彦が手繰り寄せたカバンから宣之言書を取り出している間に、神と眷属は自分を下敷きにしたまま言い争っている。なんとか宣之言書の久延毘古命のページを開いた良彦は、そこで改めて久延毘古命に尋ねた。

「久延毘古命の御用は、『引退したい』だよな?」

「そうだ」

 しかし宣之言書には、何の変化も起こらない。

「……富久と謡の願いは、『引退させない』」

「その通り!」

 声をそろえた彼らの返事が聞こえるや否や、宣之言書はいつものように光って御用の受理を知らせた。

「大神の意志は、こっちらしいけど……」

 良彦は、くっきりと墨の入った紙面から、恐る恐る顔を上げる。小躍りする梟と蛙の傍で、朽ちかけた案山子ががっくりとうなだれていた。