プロローグ


 あの日見た少女の笑顔を、今でも鮮明に思い出せる。

 覚えていたくなんてないのに、記憶から消し去りたいのに。

 今日まで呪いのように忘れられずにいる。


 それは二年前の六月、雨の夕刻のことだった。

 放課後、いつものように叔父が経営する隣町のレンタルビデオショップで、心に引っかかる映画を探していた。

 高校受験の勉強もしなければならない。何本でも立て続けに観たいというのが本音だったけれど、中学三年生になって以降、鑑賞は一日一本と決め、毎日、棚とにらめっこをしていた。

 迷いに迷ってから今日の一本を選び、レジへ向かうと、通路の向こうを見覚えのある少女が横切った。

 しばし考えて思い出す。あの子は塾の特別選抜クラスの同級生だ。

 今すぐ観たい。早く帰って再生したい。そんな思いが、嬉しそうな横顔と軽やかな足取りから分かった。

 新作が目的なら、店の奥まで立ち入る必要はない。何の映画を借りたんだろう。彼女の手の先に目を向け、雷に打たれたような衝撃を受けた。

 DVDのレーベル面に見覚えがあった。見間違うはずがない。ここで二回借り、四回も視聴したのに、結局、お小遣いで買ってしまった大好きな映画『大脱走』だった。

 その時、彼女が手にしていたのが、流行りの映画とか男性アイドルの主演映画だったなら、きっと、すぐに忘れてしまったことだろう。しかし、少女が嬉々とした顔でレジに持っていったのは、一九六三年に公開された戦争映画だった。

 喋ったことなんてない。名前も思い出せない。通っている中学すら知らない。

 それなのに、気付けば、頭の中でスティーブ・マックイーンがバイクに乗って走り出していた。大脱走マーチが、その軽快なメロディを奏で始めていた。


「ねえ、さっき『大脱走』を借りていった子って、時々、店に来るの?」

 彼女が店から出ていった後で、レジに座る叔父さんに話しかけた。

「何だ、その質問は? どうした? 一目惚れでもしたか?」

 叔父さんの顔に薄ら笑いが浮かんでいた。

「塾のクラスが一緒だったから驚いただけ。女子が借りるような映画でもないしさ」

「それは、お前の偏見だろう。名作だぞ。時々、見かけるし、近場に住んでいる子じゃないかな。貸し出し履歴を教えてやろうか?」

「そういうことをやったら駄目でしょ。守秘義務違反だ」

 興味がないと言えば嘘になるけれど。

 さすがにそこまで気持ち悪いことは頼めなかった。

「今日選んだのは、デヴィッド・リンチか」

「うん。久しぶりに観たくなって」

「受験は大丈夫なのか? 美波高校を受けるんだろ?」

「去年の夏から模試はA判定だよ。このままなら大丈夫じゃないかな。映画を観たら、最低でもその三倍の時間は勉強するって決めているし」

「……お前、中学生のくせに修行僧みたいな生活を送ってるな」

 美波高校は日本海側随一の進学校だ。俺はその中でも入学難易度の高い理数科メディカルコースを目指している。このくらいの努力は当然だった。

「スライド制度があるしね。理数科に落ちても、最悪、普通科には通えると思う」

「頭脳は親父譲りってわけか」

「母親の方かもしれないけどね」

 俺の両親はどちらも医者である。開業医であり将来的には病院を継いで欲しいと言われている。俺は一人息子だ。両親を裏切るつもりはないし、期待に応えたいとも思っている。だから、好きなことが出来る時間は限られている。

「高校生になったら映画を撮るよ。コンクールで賞を取って、表彰式で、叔父さんのお陰だって言うんだ。叔父さんが毎日、無料で映画を見せてくれたお陰だって」

「そうか。楽しみにしてるよ」

 叔父さんは軽く流したけれど、俺は本気だった。

 美波高校には映画研究部がある。私立のマンモス校だから、きっと機材や設備も揃っていることだろう。


 ビデオショップからの帰り道、あの少女の横顔を思い出していた。

 俺が塾で所属しているのは、美波高校の受験に特化した特別選抜クラスだ。学科はともかく全員が同じ高校を目指している。『大脱走』を借りていった彼女とも、来年は同じ高校に通っているかもしれない。

 六十年代の戦争映画を、嬉々として借りていくような少女である。もしかしたら彼女も高校では……。


 六月の雨の日に覚えた予感は、九ヵ月後の春に現実となる。

 俺も、彼女も、目標を達成し、美波高校に合格していた。しかし、

『人生はチョコレートの箱と同じ、開けてみるまで決して中身は分からない』

 サリー・フィールドの台詞は正しかった。


 人生というのは、本当にままならない。

 待ち受けていた高校生活は、想像とは大きく異なるものだった。 




「ちょっと待って下さい! こんな結果、納得いかないですよ!」

 私立新潟美波高等学校、東棟の三階、視聴覚室。

 映画研究部、全部員の視線が俺に注がれていた。

「笹森君。それは投票結果に異議があるということ?」

 部長の問いに答えるより早く、

「どうせ、いつもの我が儘だろ。自分の企画が、藍沢の企画に負けたことが面白くないのさ。そうだろ?」

 小馬鹿にしたような顔で、副部長に問われた。

 五月三十一日、木曜日。

 本日の部会の議題は、『高校生映画コンクール』に向けて、今年度、撮影する作品を選定することである。

 映画コンクールには同一校から何作品でも応募することが出来る。とはいえ、撮影や編集には膨大な時間がかかるため、学年ごとに企画を一つというのが、部の例年のルールだった。

 そして、たった今、投票の結果を受け、俺たち二年生が撮影する作品が、藍沢有架里が企画書を提出した『ひこうき雲の寿命』に決定した。

「笹森君。悔しいのは分かるよ。皆、好みが違うわけだから、撮りたいと思う作品だって違うよね」

 俺をなだめるように微笑みながら、部長が続ける。

「でも、撮影出来る作品の数には限りがあるの。多数決で決まったことだから、納得してもらえないかな」

「無理ですよ。納得なんて出来ません。俺、多数決以外の方法で決めるべきだって、投票前に何度も言いましたよね。多数決で決めるってなったら、脚本まで用意されていた藍沢の企画が勝つに決まってるじゃないですか」

 一年生だった去年も、俺たちの学年は、藍沢が企画、脚本を担当した映画を撮っている。その作品は過去最多となる五百超えの応募があった昨年のコンクールにおいて、『奨励賞』と『優秀脚本賞』を同時に受賞していた。

 美波高校の映画研究部から受賞作が出たのは初めてのことである。コンクールの結果を受け、一年生であるにも関わらず、藍沢は一躍、この部における女王の座に納まった。

 実績のある藍沢が脚本つきの企画書を提出すれば、勝つに決まっている。

 趣味が映画鑑賞だからとか、ライトな理由で入部してきた連中からしたら、最低限のクオリティを保証してくれる藍沢に票を入れない理由がない。

「脚本を書いてきた藍沢がずるいって言うなら、お前も書いてくれば良かっただろ」

「俺は脚本家じゃありません」

「それなら、なおのこと藍沢の企画で良いじゃないか。読ませてもらったけど、やっぱり藍沢は良い話を書くよ。これだけの話を書ける奴が同じ学年にいるのに、お前は何が不満なんだよ」

「大前提が狂ってる。話にならない」

 吐き捨てると、怖い顔で副部長に睨みつけられた。

「俺たちが撮るのは映画でしょ? 小説じゃないでしょ?」

 どうしてここの部員たちは、そんな基本的なことが理解出来ないんだろう。

「そりゃ、藍沢の話は一見よく出来ていますよ。暗くて、地味で、意味深に見せることだけは得意な三流邦画監督が、好んで撮りそうな題材だ。でも、そんなの映画でやる意味ないじゃないですか。不器用で誰にも理解されない彼女の気持ちとか、理不尽な社会の軋轢に傷つく繊細な彼の気持ちとか、興味が湧かないっつーの。内省を描きたいなら、一人で小説でも書いてろよ。映画は総合芸術なんだ」

「お前個人の意見を、総意みたいに言ってんじゃねえよ」

「藍沢の脚本はつまんないんですよ。もう、うんざりなんだ」

 はっきりと喧嘩を売る言葉を口にしたからだろう。

 やり取りを黙って見つめていた藍沢の顔に、敵意の眼差しが灯った。

「『ひこうき雲の寿命』には、最初から最後まで余白がない。去年もそうだったけど、藍沢は他人の意見に耳を貸さないんです。実際の撮影だって、こいつが考えていることを清書するだけです。そんなの映画じゃない」

「それは有架里の脚本が完璧だったからでしょ」

 藍沢の友人である同じ二年生の女子が口を出してきた。

 同級生の女子たちは、全員が藍沢の味方だ。

「完璧な脚本なんて存在しない。仮に存在したとしても、最初から完璧なんてことは有り得ないんだ。主義主張もない藍沢のイエスマンは黙ってろよ」

 彼女を一刀両断に切り捨ててから、もう一度、藍沢を見据える。

「高校で用意出来る役者なんて、たかが知れているんだ。演技も下手だし、ルックスも並以下。素人に日常生活では口にしないような台詞を言わせるから陳腐になる。何で役者に合わせて、台詞や撮影場所を変えようって気にならないんだ? お前が脚本に固執するせいで、せっかく用意出来た素材まで無駄になってるんだ。独りよがりな人間は小説でも書いてろよ!」

「それで、お前が書いた企画書がこれか?」

 小馬鹿にするような顔で、副部長が俺の提出した企画書を掲げる。

「読み上げてやるから、部員の反応を確認してみろ。『校内で演技力のある役者を用意するのは難しい。企画に沿った役者を探し、無理やり当てはめるのではなく、まずは存在感のある生徒、ルックスに恵まれた生徒を探すことから始める。映画出演の打診に応じてもらえたなら、生徒の雰囲気や声質を考慮して、その個性を生かせるようにストーリーを組み、当て書きで脚本を書く』。これで、すべてだ」

 副部長は企画書を俺の前に投げ、鼻で笑う。

「笹森。お前、こんな企画書で、部員を動かせると本気で思ってんのか? こんなもん、何も決まっていないのと同じだ」

「でも藍沢の脚本より、よっぽど現実的でしょ」

 今度はこちらが『ひこうき雲の寿命』の要旨を読み上げる。

「何だよ。『IQ一八〇超えの天才であるがゆえに、世界に絶望し、殻に閉じこもっている少年の話』って。何処の世界にそんな奴がいるんだ? 自意識過剰な天才の懊悩とか見飽きてんだよ。才能がない奴に限って、二番煎じみたいな映画を撮ろうとするんだ。何であんたたちは、それが分かんないわけ?」

 副部長が大袈裟に溜息をつく。

「俺たちが分からないのは、お前の映画が完成する未来だ。こんな適当な企画書で部員を動かせるわけないだろ。役者が見つかるかも分からない。撮りたい映画のヴィジョンもない。こんな無計画な企画に、誰が協力したいって思うんだよ。大体、これはアイドルのお遊戯映画と何が違うんだ? お前が撮ろうとしている映画の方が、よっぽど陳腐だろ」

「悟ったような顔で意味のない時間を垂れ流す映画より、狙いも客層も明確なアイドル映画の方が、よっぽど高尚ですよ。映画は人を楽しませるためのものだ。独りよがりに心情を垂れ流すためのツールじゃない」

 手にしていた藍沢の企画書を破り捨てる。

「こんなのは映画じゃないんだ!」

 俺が叫ぶのと、副部長が拳の底で机を叩くのが同時だった。

「そんなに藍沢の企画が気に入らないんなら、部を辞めて、一人で撮れよ!」

 冷たい声色で、それが告げられた。

「票が割れていたんなら、まだ話は分かる。だけど違うだろ。『ひこうき雲の寿命』には二十票近くの票が入ったのに、お前の企画に賛同した人間は、たったの二人だ。どうせ、お前は自分に票を入れたんだろうし、残りの一票は友達の長井だろ。お前の企画に賛同した人間なんて事実上いないんだ。多数決に従えないなら出て行けよ。頼むから消えてくれ。邪魔だ」

「頼まれなくたって、出て行きますよ」

「ちょっと二人とも落ち着いて。ヒートアップして大袈裟に……」

 優しさだけが取り柄の部長が、間に割って入ろうとしたけれど。

「藍沢の脚本に付き合うのも、見る目がない奴らとこれ以上、一緒に過ごすのも、うんざりだ。辞めます」

「ああ。そうしてくれ。お前の蘊蓄披露には、皆、嫌気が差していたんだ。トラブルメイカーがいなくなって、せいせいするぜ」

 頭に血が上っていた。それと同じくらい、悔しかったし、悲しかった。

 どうして、こいつらは分からないんだろう。何で理解してくれないんだろう。

 俺を見つめる部員たちの目は、総じて冷たい。

「もっと早く辞めれば良かった。馬鹿どもに付き合って、一年間を無駄にした」

 負け惜しみのように吐き捨て、視聴覚室から逃げるように走り去る。

 副部長の怒声が背中に届いたが、振り返る気にはならなかった。


 今日まで退部を考えなかったわけじゃない。

 思えば初めから、藍沢とはそりが合わなかった。好みも感性も違った。あいつが良いと主張するものが、俺にはことごとく下らなく思えたし、多分、向こうにとってもそれは同様だった。

 去年の撮影でも、何度衝突したか分からない。そして、その度に、俺の方ばかりが煮え湯を飲まされてきた。あいつの言葉に、ほかの部員たちは頭を垂れて従うばかりだった。

 自分の手で映画が撮りたくて我慢を続けてきたけれど、本当に時間の無駄だった。どうせ来年も俺たちの学年が撮るのは、藍沢が企画した作品だろう。これ以上、あいつの脚本を手伝うなんて、まっぴらごめんだ。

「瑛斗! ストップ!」

 肩に手をかけられ、たたらを踏んで立ち止まる。

「やっと追いついた。一人で出て行くなよ」

 振り返った先にいたのは、長井涼介だった。

 涼介は同じ中学から、この美波高校に進学した生徒だ。俺は理数科の生徒で、涼介は普通科に所属しているため、クラスは違うが、たった一人の親友である。

「何でお前まで飛び出してきたんだよ」

「そりゃ、俺も退部するからじゃないかな」

「お前まで辞めることないだろ」

「そうは言っても、一人で残っても仕方ないしな」

 中学時代、涼介はテニス部に所属していた。しかし、中二の冬に肘を壊して競技からは引退しており、高校では俺と共に映画研究部に入部した。

 涼介は良く言えば柔軟、悪く言えば自己主張が希薄なタイプである。ジャンルの好き嫌いもないため、薦められた映画は何でも観るというライトな鑑賞者だった。

「こんなタイミングで辞めたら、お前も部の奴らに嫌われるぞ」

「別に良いよ。こんなことで壊れる程度の関係性なら、固執しても仕方ない。それに瑛斗が言いたかったことも、分からなくはなかった」

「友達のよしみで肩を持たなくても……」

「友達だから肯定しているわけじゃないよ。さっきだって、もうちょっと言葉を選べよとは思ったしね。ただ、俺も藍沢さんの脚本は、よく分かんなかったんだよね。こういうことを考えている人もいるんだなっていう興味深さはあったけど、面白くはなかった。どうせ映画を撮るなら、俺は観ている人が楽しめる映画を撮りたいや」

 言葉が過ぎたことくらい分かっている。

 自分があまり性格の良い人間ではないという自覚もある。

 ただ、それでも、譲れない思いがあった。

 映画が好きだから、大好きだから、言葉にしなければならなかった。

「だけど本当にこれで良かったの? 映画コンクールには、高校に認定された団体に所属していなきゃ応募出来ないんだろ?」

「コンクールへの応募は手段であって目的じゃないよ。自分で立ち上げたホームページでも、動画投稿サイトでも、映画は発表出来る」

「それはそうかもしれないけど、部を辞めたら機材だって」

「分かってるよ。でも仕方ないだろ。あのまま部に残ったって、どうせ来年も撮らせてもらえない」

 藍沢有架里が同学年にいる限り、撮影されるのはあいつの企画だ。


 来年は再び受験生になる。今より忙しくなることは間違いない。

 きっと、全身全霊で映画を撮るチャンスは今年が最後だった。

「高校に入ったら、撮れると思ってたんだけどな。こんな映画を撮ったんだよって、叔父さんに見せたかった」

 俺の叔父は、半年前まで隣町で小さなレンタルビデオショップを自営していた。そのお陰で、昔から映画を無料で何本でも観ることが出来た。

 中学時代に毎日、借りるようになり、そんな習慣を叔父さんが店を畳むまで続けていた。店に置かれていた古い映画は、ほぼすべて観たと言っても過言ではないかもしれない。

 シネフィルを自称するタランティーノと、自分を同列に並べて語るつもりはない。だが、俺が半年前まで送っていた生活は、レンタルビデオショップで働いていた時代に映画漬けの日々を送り、監督として上りつめたタランティーノと同種のものだ。

 映画研究部の中に、俺より沢山の映画を観てきた人間はいない。

 主義主張の希薄な人間たちに、企画を馬鹿にされたことが許せなかった。


 本当に、どうすれば良かったんだろう。

 俺は、何処で、何を間違えてしまったんだろう。

 あんなにも映画が撮りたかったのに。やりたいことが、試してみたいアイデアが、山ほどあったのに。結局、何一つ実現出来ないままだった。

 こだわりなんか捨てて、藍沢に媚びを売れば良かったんだろうか。

 そうすれば、少なくとも映画制作だけは続けられたんだろうか。

 我慢を続ければ、そんな自分にいつかは満足出来たんだろうか。

 頭が痛くなるくらいに考えてみたけれど、やっぱり答えはノーだと思った。


 どうして、こんなことになっちゃったんだろう。

 何処で、何が、狂ってしまったんだろう。


 去年の春、美波高校に進学して。

 念願だった映画研究部に入って。

 文化棟の部室で彼女を見つけた時、確かに、心は跳ねた。

 彼女が脚本を書いていると知り、運命かもしれないと思った。

 今思えば、本当に馬鹿みたいだけど。

 恥ずかしくて死にたくなるけれど。

 塾で、最後まで国語の成績だけは勝てなかった彼女が脚本を書いていると知り、頼もしいと思った。仲間になれるんじゃないかと思った。


 あの雨の日に『大脱走』を借りていった少女と。

 藍沢有架里と。


 十五歳の俺は、友達になれると信じていたのだ。




 何か劇的なことがあって仲良くなったわけじゃない。

 気付けば友達になっていて、気付けば親友になっていた。

 長井涼介はそういう友人だった。

 涼介とは中学が同じだが、クラスメイトになったことはない。知り合った場所は、塾の特別選抜クラス。立ち上げ当初、十人もいなかったそのクラスで、俺たちは中学一年生の春より机を並べてきた。

 十二歳の頃から受験を意識していた俺たちは、言わば戦友のような関係だ。三年生になる頃にはクラスの人数が二倍になっていたけれど、変わらず親友のままだった。

 家の近くにTSUTAYAがあるのに、俺が映画を薦めると、涼介はわざわざ隣町の叔父さんの店まで出向いてDVDをレンタルする。上手く説明出来ないが、涼介はそういう友達思いの良い奴だった。

 高校に進学し、同じ部活動に所属したことで、共に過ごす時間は中学時代よりも増えている。だから涼介はよく分かっていた。俺が映画研究部にどれだけの期待を抱いていたかも、どれほどの失望を味わってきたかも、理解していた。


 退部から一週間後。

「瑛斗、これを見てくれ! 凄い発見をした!」

 お昼休みが始まると同時に、涼介が教室に駆け込んできた。

 開かれた生徒手帳に目を落とすと、『同好会』の文字に丸がつけられていた。

「ほかに似たような活動をしている部があっても、同好会なら認定団体として登録してもらえるみたいだよ。予算や部室はもらえないけど、今、必要なのは、学校の承認だろ?」

 そう言えば、マジック同好会とか七宝焼き同好会なんて名前を聞いたことがある。

「撮ろうよ。瑛斗が撮りたい映画を撮って、コンクールに応募しよう! 映画研究部の奴らを見返してやりたいって気持ちは俺にだってある。悔しかったんだ。ずっと、俺は瑛斗が撮った映画を見てみたかったから」

「気持ちは嬉しいよ。でも、たった二人でなんて……」

「じゃあ、諦めるのか?」

 涼介の純真な目が、真っ直ぐに俺を見据えていた。

 映画になんて大して興味もないくせに、一年間、涼介は俺に付き合ってくれた。映画の話ばかりしている俺が孤立しないように、側にいてくれた。

「瑛斗はあいつらを見返したくないのかよ」

 今のままじゃ俺はただの負け犬だ。藍沢有架里の引き立て役にすらなれていない。部を引っかき回し、皆を不快にさせただけの厄介者。そういう人間として最後まで記憶されることになる。

 同好会を立ち上げ、そこで撮った映画で賞を取ったらどうだ?

 コンクールで映画研究部の奴らが撮った作品に勝てば、正しかったのは俺の方だと証明出来るんじゃないだろうか。

 誰よりも映画を観てきた。誰よりも映画のことを考えて、今日まで生きてきた。そこまでのことは言い切れない。言っちゃいけないと思う。脚本なんて書いたことがないし、自分に監督の才能があるとも思えない。だけど、伊達に映画漬けの日々を送ってきたわけでもない。

 アイデアならある。面白い映画を撮れるという自信もある。

『人生は、必ずしも思うようになるとは限らない』。しかし『卵を割らなければ、オムレツは作れない』のだ。

「すべてを二人でやろうとしたら、本当に大変なことになると思う。それでも付き合ってくれるか?」

「当たり前だ。やってやろうぜ」

 OK。涼介、お前が望んでくれるなら、アイル・ビー・バックだ。

 同好会を立ち上げて、二人ですべてを始めてみよう。




 週明け。

 六月十一日、月曜日のお昼休み。

「それで、瑛斗が撮りたいっていう映画は、あの企画書から変わってない?」

『映画同好会』立ち上げの申請が終わると同時に、涼介に質問された。

「ああ。変わってないよ」

 俺にオリジナル脚本を書く才能はない。そもそもシナリオで勝負したいなら、藍沢と喧嘩別れした意味がない。

 映像で観客を楽しませられる映画。画面で勝負出来る映画。目指したいのはそういう映画だ。とはいえ、口で言うほど実現は簡単じゃない。

 単純にCGを使えば何だって出来る時代である。しかし、作成には膨大な時間と予算、技術やセンスが必要になる。俺にも涼介にもそんな才能はないし、校内で都合良くCGクリエイターを見つけられるとも思えない。

「企画書に書いた通り、役者を中心に据えて準備を進めたい」

「やっぱり、あれは本気だったのか」

「含みのある言い方だな」

「瑛斗がやりたいことに反対するつもりはないよ。でも、不安はある」

「不安って何だよ。信じてくれて良いって。少なくともこの学校に、俺より沢山の映画を観てきた奴はいない。俺が一番、映画を愛してる」

「それ、時々、言うよね。でも、愛の大きさなんて測れなくない? そもそも愛情や執着は映画制作と相関関係にないでしょ。一日三本とか普通に観ているわけだし、瑛斗が映画に詳しいことは分かるよ。ただ、沢山映画を観ているから、良い映画を撮れるっていう理屈も、釈然としない。本当に役者を中心に据えるだけで面白い映画になるのかな」

「それをこれから証明するんだろ。古今東西、アイドル映画に需要がなかった時代は存在しない。たとえ拙い脚本でも、美少年か美少女がフィルムに映っていれば、商業作品になり得る。マーケットがそれを証明している。要は優先順位の問題だよ。マジョリティーには届かなくても、自分と似た嗜好の人間に喜んでもらえる映画を撮りたい。そういう動機で撮る監督だっているし、自分の好みを犠牲にしてでも万人に受ける映画を撮ろうとする監督だっている。俺たちが目指すのは後者だ」

「言いたいことは分かるよ。でも、商業映画じゃないんだから、観客動員数を計れるわけでもないだろ。その目標は、どうやって達成するわけ?」

「映画研究部の奴らにコンクールで勝てば達成出来る。映画コンクールで結果を残すことが、唯一にして最大の目標だ。勝利を目的として考察した結果、辿り着いた結論が、役者の質と素材の生かし方で勝負することだった」

「なるほどね。根拠があって、瑛斗が納得しているなら、何も言わない。話を進めよう。具体的にはどうするんだ?」

「校内一の美人を主役に据えて、映画を撮る」

 口に出すと馬鹿みたいだけれど、的外れなことは言っていないと思う。人間なんてものは、皆、程度の差はあれ美しいものが好きな生き物だからだ。

「俺たちがやるべきことは、まず演者を確保することだと思う。それから、その子を一番美しく撮れるシチュエーションを考えて、逆算してシナリオを書く。キャラクターの設定や性格も、その役者が最も映えるように計算して構築する」

「美波高校で一番の美少女か。だとすると声をかけるのは……」

 うちの高校で、校内一の美少女が誰かと聞いて回れば、大抵の生徒が、こう答えるはずだ。

「音楽科の舞原七虹さんだよな」

「ああ。彼女が第一候補だ」

 音楽科の二年生、舞原七虹。

 彼女は新潟で暮らす人間なら、その名を知らない者はいない、東日本の財界を牛耳る舞原家の令嬢である。俺は去年から、彼女と知り合いになり、映画のヒロインを打診出来ないかと考えていた。その時に備えて、情報収集もおこなってきた。

 舞原七虹は血統書つきのお嬢様であり、誰もが振り向く美貌を有している。百七十三センチという高身長で、遠目でも分かるモデル体型をしている上に、歌が上手いという個性まであった。

 軽音楽部に所属する彼女は、去年の学園祭で、ギターボーカルとしてバンドの顔を務めていた。そのボーカルにも圧倒されたが、特筆すべきはそのバンドが舞原七虹が作詞作曲したという曲を演奏していたことだろう。たった二曲の演奏で、俺はそのガールズバンドを大好きになってしまった。

 カリスマ性というのは、求めて得られるものじゃない。舞原七虹は生まれながらにして綺羅星のような何かを持っている女性なのだ。

「彼女が主演した映画なら、確かに見てみたくなるよな。あんなに綺麗な人、初めて見たもん。だけど、問題は引き受けてくれるかだろうな」

 まったくもって、その通りだった。

 外見とは裏腹に、彼女は極度の人見知りであると聞く。他人との交流を持ちたがらないタイプらしく、軽音楽部の人間や音楽科の生徒であっても、男子とはほとんど喋らないらしい。

 去年の学園祭では、ボーカルのくせにライブのMCをすべてほかのメンバーに任せていた。ステージでは最後まで笑顔すら見せなかった。

 そんな彼女が、自主映画の主役を打診され、首を縦に振るだろうか。

 一年以上、彼女を主役に映画を撮りたいと思ってきたのに、未だに話しかけたことすらないのは、結局のところ、そういうことだった。

「まあ、普通に頼んだって断られるのは間違いないよ。そもそも向こうには演技をする理由がないわけだからな」

 舞原七虹を主役に据えられるなら、やってみたいことは色々とある。

 バンドの演奏レベルはともかく、彼女が作ったという曲と歌声は圧倒的だった。

 最悪、台詞なんて数シーンで良い。むしろ彼女の登場場面はすべて演奏シーンでも良いくらいかもしれない。それなら引き受けてもらえないだろうか。

 興味を持ってもらえそうなプロットを作って、彼女を説得出来れば……。


 どれくらいの時間、考え込んでいただろう。

「なあ、瑛斗。実は俺にも一つアイデアがあるんだ」

 顔を上げると、涼介が悪戯な笑みを湛えていた。

「アイデアというか、正確には耳よりな情報かな。瑛斗のコンセプトってさ、要するに、まずはルックスの良い役者を確保したいってことだよな」

「ああ。そうだよ」

「それって別に女の子じゃなくても良いんじゃないのか?」

「もちろん。目を引くルックスを持っている人間なら、性別は問わない」

「うちの高校には、もう一人、舞原七虹さんと同レベルの有名人がいるじゃないか」

 男で彼女と同レベルの有名人。真っ先に頭に浮かんだのは……。

「普通科の舞原吐季君のことか?」

 涼介が頷く。

 舞原吐季、それはあの舞原七虹よりも有名かもしれない二年生の男子生徒だった。同じ姓である彼らはいとこだと聞くが、吐季君の方は本家の長子、つまり、あの舞原家の正当な跡取りらしい。身長こそ高くも低くもないものの、その容貌の美しさは、七虹さん同様、嫌でも人目を引く。

「吐季君なら、俺だって候補に考えたことがあるよ。でも、噂くらい聞いたことあるだろ? 多分、あの人、七虹さんより説得が難しいぜ」

 勉強も運動も出来るのに、とにかく無気力な性質らしく、彼は毎日、大胆な遅刻を繰り返している。連日、始業後の正門前にリムジンを横付けさせ、あくびをしながら学校に現れるのだ。

 品行方正な噂しか耳にしない七虹さんとは対照的に、吐季君については悪評も聞く。授業中は九割方寝ているらしく、行事にもほとんど参加しないらしい。明確に排他的な性格の持ち主なのだ。そう理解していたのだけれど……。

「俺、吐季君と隣のクラスだからさ。この前、ちょっとした噂を聞いたんだ。吐季君は普段、琴弾君っていう男子と一緒にいるんだけど、その二人が、この春に演劇部を作ったらしい」

「演劇部? あの吐季君が?」

「俺も最初は信じられなかったよ。演劇になんて縁遠そうな二人だからね。でも噂は本当みたい。この四月に吐季君は演劇部を立ち上げている。彼が部長で、琴弾君が副部長だ」

 にわかには信じられなかったが、涼介が嘘をつく理由もない。

「演劇部を立ち上げってことは、演技に興味があるってことだろ。今回の瑛斗の企画に協力してもらえるんじゃないかな。吐季君と七虹さんはいとこだ。上手く話を進めれば、同時に出演してもらえるかもしれない。琴弾君のことは知ってる? ルックスの話をするなら、彼も相当、格好良いんだよ。身長も百八十センチ以上あるし、ワイルドって言えば良いのかな。吐季君とはタイプの違う美男子だ」

「見たことはあるよ。体育祭の軍団対抗リレーでアンカーを走っていた人だろ」

 現実感のない美少年である吐季君が隣にいるから目立たないだけで、琴弾君もまた十分過ぎるほどに俳優然とした容姿をした男子だ。

 舞原吐季と琴弾麗羅、加えて舞原七虹。外見だけなら、三人以上に役者として見栄えのする人間は、そういないだろう。少なくとも高校で探せる役者のレベルは凌駕している。

 彼らが演劇部だというなら、主演の打診をしない理由がなかった。




 放課後、涼介と共に文化棟へと向かった。

 美波高校では音楽系以外の文化部には、基本的に文化棟内の部室が与えられる。今年の春に復活したという演劇部の部室は、最上階の四階に存在していた。映画研究部の部室は二階だから、勧誘している姿を見られる心配もないだろう。

 同じ学年ではあるものの、舞原吐季とも琴弾麗羅とも喋ったことはない。俺たちは向こうを認識しているが、二人が俺たちを知っているということはないはずだ。

 辿り着いた部室前。

「瑛斗。どうした?」

 ドアに伸ばした手が止まったのは、『演劇部』の表札の隣に、『保健部』という予想外の文字列が並んでいたからだった。

 保健部。他校には絶対に存在しないだろう奇妙な名前の部である。そして、その部を立ち上げた人物のことを、俺はよく知っていた。彼女は……。

 いや、気にしても仕方がない。用事があるのは演劇部だ。仮にあの人物がいたとしても、見なかったことにすれば良い。

 ドアをノックすると、五秒と経たずに扉が開いた。

「はいはーい。いらっしゃい!」

 目の前に現れたのは、校内関わり合いになりたくない女ランキング(俺の中ではぶっちぎりの)第一位、メディカルコースの同級生、奇人、千桜緑葉だった。

「あれ。笹森君じゃん」

 医学部進学に特化したメディカルコースは、各学年に一クラスしかない。クラス替えもないため、俺は彼女と去年からクラスメイトだった。教室では喋ったことも、挨拶を交わしたこともないのに、彼女はまるで友達みたいに笑みを浮かべる。

「ようこそ、保健部へ! さあ、入って。今、カルテを用意するから!」

 千桜緑葉ほど『残念な美人』という言葉が似合う女を、俺は知らない。彼女は舞原家と双璧をなす名家、千桜本家の娘である。しかも、あの東桜医療大学、学長の孫娘であるらしい。しかし、とにかく言動が粗野で、奇行が目立つ生徒でもあった。

 今日もネクタイが結べていないし、足下では靴紐がだらしなくほどけている。

「あ、待って!」

「ん? クラスメイトだからって遠慮しなくて良いよ。張り紙を見て、保健部に相談に来たんでしょ?」

 保健部というのは彼女がこの春に新設した部である。生徒の悩みを解決することを目的に活動していると聞くが、正直、意味不明だった。

「いや、俺たちが会いに来たのは演劇部の方で」

「そうなの? 保健部のお客さんじゃなかったのか」

 残念そうに笑ってから、彼女は部室の奥に目をやる。

 彼女の視線の先を追うと、想像もしていなかった光景が飛び込んできた。

 部室を分断するように、床にチョークで引いた黄色い線が伸びている。その向こう側のスペースに、豪奢なベッドやソファーが鎮座していた。それだけではない。大型テレビ、冷蔵庫、レンジ、パソコンなどの家電製品まで並んでいる。ここは演劇部の部室ではなかったのだろうか。

「吐季と麗羅、どっちに用事? 呼んであげるよ」

 あの背の高いシルエットが琴弾麗羅君だろう。彼はソファーに座り、テレビゲームに興じているようだった。こちらに背を向け、ヘッドフォンをつけているため、俺たちのやり取りに気付いていない。

 もう一人、舞原吐季君はベッドで安らかな寝顔を見せていた。大抵の授業で居眠りをしていると聞いたことがあるが、放課後まで寝ているとは……。と言うか、どうして部室にベッドがあるんだろう。

「出来れば、二人と話がしたくて」

「OK。任せて」

 千桜さんは椅子を壁際まで寄せると、そこに乗り、次の瞬間、躊躇いもなくブレーカーを落としていた。

 テレビの画面が暗転し、琴弾君が固まる。彼が遊んでいたのは、シミュレーションRPGだった。セーブだってしていないだろうに、酷い。酷過ぎる。

「緑葉! てめえ、また、やりやがったな!」

 ヘッドフォンを投げ捨て、怒り狂った顔で琴弾君が振り返る。

「演劇部にお客さんだよ。感謝しなさいよね。このあたしが呼んであげたんだから」

「普通に呼べよ! ブレーカーを落とすのをやめろ!」

「ヘッドフォンをつけているあんたが悪いのよ」

「肩を叩けば良いだろ!」

「無理。国境線を越えたら死刑なんだから、ブレーカーを落とすしかないじゃん」

 何て傍若無人な女なのだろう。横でやり取りを見ていた涼介は完全に引いていたが、正直、この程度の奇行はまだ可愛いものだった。

 去年なんか洗濯をした直後の乾いていない制服を着て、登校してきたこともあったくらいだ。一人暮らしをしているらしく、前日の洗濯を忘れていて、朝、慌てて洗濯機を回したという話だったが、何をどう考えたら、生乾きの制服で登校しようなんて発想になるのだろう。

「新入生か? うちは入部希望を受け付けていないぞ」

「演劇部に入りたいなら、あたしが顧問に話してあげようか」

「お前は関係ねえだろ」

「あるわよ。吐季の彼女だもん」

「自称だろ!」

 ん? どういうことだ?

 新潟を代表する旧家、千桜家と舞原家は犬猿の仲だったはずだ。最近も医療過誤か何かの事件で、裁判沙汰になっていた。

「あの、違います。俺たちは新入生じゃないですし、入部希望者でもありません」

「ふーん。じゃあ、吐季に用事か?」

「いえ、お二人に話があって」

「俺にも? 何だよ」

「よし、じゃあ、とりあえず吐季を起こそう」

 傍で二人が騒いでいたのに、吐季君は変わらず安らかな寝息をたてていた。間近で見ると、同じ生き物であることが信じられないくらいに綺麗な顔をしている。

 三十秒前に国境線を越えたら死刑と言っていたくせに、部屋の奥にあった冷蔵庫に向かい、千桜さんはペットボトルを二本取り出した。

「おい。何をする気だ」

「試してみたい起こし方があったんだよね。どっちにしようかな」

 左手に握られているのは清涼飲料水、右手に握られているのはコーラである。しばしの逡巡を経て、ベッドの脇に立った彼女は、コーラのペットボトルの蓋を開ける。吐季君の唇に親指と人差し指を当てると、その口を強引に開き、次の瞬間、コーラの入ったペットボトルを逆さまにして突っ込んでいた。

 勢いよくコーラが寝ている吐季君の口の中に流し込まれ……。

 五秒と待たずに盛大にむせて、吐季君が飛び起きる。

 さすがは奇人、千桜緑葉。

 酷い。本当に酷い。

 気管に入ったのだろう。顔面蒼白の顔で、しばらく咳き込んでから、恐ろしい顔で吐季君は千桜さんを睨む。

「……何すんだ、お前」

「むせても吐季って格好良いね」

 腰にしなを作り、千桜さんは良い感じの笑みを浮かべていた。完全にサイコパスの所業である。

「紹介するね。あたしのクラスメイトの笹森君。吐季と麗羅に用事があるんだって。じゃあ、あたしは保健部の仕事があるから帰るよ」

 満足そうな表情を浮かべて、彼女は保健部のスペースへと戻って行った。そんな彼女を吐季君は睨みつけるだけだったし、琴弾君の方も薄ら笑いを浮かべて見ているだけだった。この部室では、こんなやり取りが日常茶飯事なのだろうか。

「用事って何?」

 あんな起こされ方をした直後である。当然ながら吐季君の顔に浮かぶ表情は険しい。これから重大な頼み事をしなければならないというのに、千桜さんのせいで印象はマイナスからのスタートだった。

「はじめまして。俺はメディカルコース二年の笹森瑛斗、こっちは普通科二年の長井涼介です。俺たちは映画同好会のメンバーで、高校生映画コンクールへの応募を考えています。うちの学校には映画研究部って部があるんですけど、制作に関してトラブルになっちゃって、部を辞めて同好会を作りました。映画研究部の奴らに勝つために、どうしても賞が取りたいんです。それで、まずは画面映えのする役者を探すことから始めていて、吐季君や音楽科の舞原七虹さんに出演をお願い出来ないかなって考えていました。もちろん、琴弾君にも出演してもらいたいと思っています」

 二人は無表情のまま、俺の話を聞いていた。

「演劇部の活動もあるでしょうし、極力、迷惑はかけないようにします。舞台や衣装の準備も、編集も、すべて俺たちがやります。役者第一主義がコンセプトなので、脚本は当て書きをするつもりです。琴弾君は運動神経が抜群ですよね。中学時代はサッカー部で北信越大会まで勝ち進んだと聞きました。吐季君もサッカーが好きなら、それをテーマにしても良いと思います。経験者なら絵になるはずですから」

 伝えたいことは山ほどあった。早口でまくし立てていく。

「共演したい人がいれば、役者を増やしてもらっても結構です。さっき俺が候補に挙げた舞原七虹さんとか、雪蛍さんでしたっけ。一年生の吐季君の妹とか、容姿の端麗な人たちは、画面に説得力を増してくれるので大歓迎です。可能なら七虹さんの歌う曲を映画に使わせて欲しいとも思っています。俺、去年の学園祭で軽音楽部のライブを見て凄く感動して、演出の手段として音楽ほど効果的な……」

「なあ、いつまでこの話は続くんだ?」

 突き放すような声が鼓膜に届き、気付く。

 吐季君の顔に、はっきりと嫌悪の色が浮かんでいた。

「あんたに言いたいことが二つある。一つ、俺たちは演劇部じゃない」

「え。でも、二人が春にこの部を作ったって……」

「俺たちの正体は睡眠部だ。安眠出来る場所を確保するために部室が欲しかっただけで、演劇になんて興味がない。二つ、七虹も雪蛍も演技なんてしない。あいつらを巻き込むな」

「それは俺たちをからかって言ってるわけじゃ……」

「何でそんなことをしなきゃいけないんだ。同好会に協力する義理はない。そんな時間もない。毎日、放課後は十二時間眠るって決めているんだ」

 寝過ぎでしょ、それは……。

 そう思うのに、彼の迫力に気圧されて言葉が出てこなかった。

「声をかけた相手が悪かったな」

 腕組みをしながら聞いていた琴弾君が、軽い口調で告げる。

「ほかを当たれよ。映画を撮るなんて面白そうな話じゃないか。探せば協力してくれる奴は見つかるだろ」

「それじゃ駄目なんです。そこら辺の同級生じゃ……」

「演技力のある奴を見つけるのが難しいからか?」

「いいえ。初めから演技力は求めていません。所詮、素人の高校生ですから、期待もしていません。最低限の演技力があれば十分なんです。でも、だからこそ、誰もが振り向くような容姿を持った役者で撮る必要がある。吐季君や琴弾君なら……」

「帰ってくれ。昨日は十時間しか眠れなかったから寝不足なんだ」

 吐季君は大きなあくびをした。

「出演してくれるなら、どんな希望も聞きます。どうしても駄目ですか?」

「無理だな。忙しい」

「そう……ですか」

 同情するように琴弾君が苦笑いを浮かべた。

「笹森だったっけ。残念だったな。吐季は情も涙もない人間だ。諦めた方が良いぜ。説得なんて時間の無駄だ」

「どういう意味だよ」

「言葉の通りだよ。お前、自覚がないのか?」

 睡眠のために部を作ったなんて、にわかには信じられる話じゃない。だが、取り付く島もなし。それだけは、はっきりと分かってしまった。舞原七虹さんや一年生の妹に声をかけることについても、釘を刺されてしまった。

 どうしよう。期待していた候補が、わずか一日で全員消えてしまった。

 俺たちになんて興味もないのだろう。吐季君は既にベッドに戻っている。零れたコーラでベッドが濡れていても、眠気の前では関係ないらしい。

「瑛斗。帰ろう。もう一度、コンセプトから考え直すべきだ」

 涼介に肩を叩かれ、きびすを返す。

 そして、ドアノブに手をかけたその時……。

「待ちなさい」

 凜とした少女の声が届く。

 振り返ると、両手を腰に当てて、胸を張る少女と目があった。

 満面の笑みを浮かべて、奇人、千桜緑葉が俺たちを見つめている。


「話は聞かせてもらったわ。その案件、保健部に任せなさい!」