自分自身を信じてみるだけでいい。きっと生きる道が見えてくる

 ゲーテ



【プロローグ】


 霧島連次郎は朝が苦手だ。

 細身のスリーピースをカチッと着込み、ノーネクタイの弁護士スタイルで霧島は自室から顔を出す。しかし、その足取りは整った風体とは裏腹にゾンビのごとくおぼつかない。

 そんなエリート風ゾンビがリビングダイニングに足を踏み入れた瞬間だ。眩いフラッシュが寝ぼけ眼をマシンガンのように撃ち抜く。

「ねえねえ! お兄ちゃんがテレビに映ってるよ!」

 不機嫌そうに顔をしかめる寝起きの兄とは対照的に、長く艶やかな黒髪にシワひとつないセーラー服が清々しい妹が壁際のテレビを興奮気味に指差している。

「ああ、昨日の裁判のニュースか」

 フラッシュで白む画面の向こう側では、支援グループの女性が〝勝訴〟と書かれた紙を意気揚々と掲げ、被告人の壮年男性が長年の苦労を偲ばせるしわくちゃの顔で、涙を流しながら繰り返しお礼の言葉を述べている。

 そして、一団の背後で『さっさと面倒な囲み取材が終わらないだろうか』と仏頂面で腕組みしているのが主任弁護人の霧島だった。

「知らなかった! テレビで話題の冤罪裁判をお兄ちゃんが担当してたんだね!」

 この裁判は8年前、DNA鑑定と被告人の自白が決め手となって有罪となった殺人事件だ。被告人の男性は第1審の途中から否認に転じたが、最高裁の判決は無期懲役。そこで刑事裁判に強い霧島に依頼が回ってきたというわけだ。

「無実の人間に無罪判決が下される。自明の理だな」

「何そのあっさりしたコメント! すごいことじゃん! 何年も前に有罪になった人を今になって無罪にしちゃうなんてさ!」

 無感動な兄に妹の花蓮が声を昂らせる。

 霧島からすれば裁判に勝つことなど地球が丸いくらい当然のことだ。終わった裁判について得意げに語るのも霧島の流儀ではない。ただそれでも、妹に尊敬の眼差しを向けられて兄としては悪い気はしない。

「ふん、そうだな。俺以外の弁護士には無理だっただろうな」

 そう霧島が得意げに胸を反らすと「自分で言うかなぁ」と花蓮は小さく笑う。

「それにしても、よく無罪にできたね。勝因はなんだったの?」

 霧島は「愚問だな」と花蓮が用意してくれた焼き立てのバタートーストにかぶりつきながら臆面もなく言い放つ。

「最大の勝因は、霧島連次郎が担当弁護士だったことだ」

 花蓮が再び「自分で言うかなぁ」と呆れたのは言うまでもないことだった。

「自分で言うもなにも、合理的な疑いを差し挟む余地のない事実だ。刑事裁判で負け知らずの俺が勝てると確信して依頼を受けた。この時点ですでに逆転無罪は確定していたんだ」

 水を得た魚のように捲し立てる霧島に花蓮は白旗を振るみたいに肩をすくめる。

「でも、テレビでは最新のDNA鑑定のお陰だって言ってたよ?」

「ふざけるな、有利な証拠があっても勝てない奴には勝てないのが裁判だ。俺の弁護士としての実力が連中にはわからんのか」

 椅子にふんぞり返り憮然とする兄を12歳年の離れた妹が「はいはい、怒らない怒らない」と慣れた様子で窘める。

 霧島花蓮はしっかり者だ。去年の4月、東京の名門私立女子高校に入学したのを機に横浜の実家から出て都内にある霧島のマンションで一緒に暮らすようになったのだが、日々、弁護士として忙しく働く霧島としては手がかからない上、家事全般をそつなくこなしてくれる妹に大いに助けられている。

 ただあまりにしっかりしていて、兄としては時々立つ瀬がないわけだが。

「じゃあ、私、学校に行くから」

「花蓮、電車で寝過ごすなよ」

「しないしない、お兄ちゃんじゃないんだから」

 花蓮はそう生意気に笑ってセーラーカラーをひらりとはためかせ、椅子に置かれた学校指定のカバンを手に取り、玄関に足取り軽く向かう。玄関先で花蓮はローファーのつま先をトントンと床で叩きながら、

「お兄ちゃん! 戸締まり忘れないでね! 玄関だけじゃなくてベランダもだよ? それと! お家を出る前にぼさぼさ頭をセットするんだよ!」

「わかったから、さっさと行け」

「身だしなみをちゃんとすれば、立派な大人に見えなくもないんだからね!」

「おい、待て、どう見ても俺は立派な大人だろ?」

 矢継ぎ早に言って妹は出掛けてゆく。玄関扉がガチャリと閉まると、嵐が過ぎ去ったかのように室内が静けさに包まれる。お陰で自らのため息がよく響く。

 おもむろに霧島はスーツの内ポケットからスマホを取り出す。それから、待受画面の若い女性に視線を落として「……信じられるか? あのチビだった花蓮がすっかり生意気になった」と同意を求めるように呟く。

 しかし、待受画面の女性は笑っているだけで何も答えてはくれない。

 いつだって朝は喧騒に満ちている。電車の駆動音やレールの軋む音、発車のベルやチャイムが鳴り響き、そこかしこで挨拶が交わされ、電線で小鳥が愉快にさえずり、テレビの情報番組はうんざりするほど賑やかだ。なのになぜだろうか。

 胸中が廃墟のように閑散としていて物悲しいのはどうしてだろうか。

 それは朝を迎えると肌で思い出すからだろう。新たな一日を積み重ねても待受画面の彼女が5年前と変わらずに若く美しいからだろう。そして、繰り返し朝を迎えた結果、気づけば年上だった彼女の年齢を自分がとっくに超えてしまったからだろう。

「まだ慣れないな……優香のいない生活に」

 霧島連次郎は朝が苦手だ。

 今日も一日が始まる。



【1】


 霧島はどうにか遅刻することなく神楽坂にあるガラス張りのオフィスビルにたどり着く。ただし朝の交通機関の過酷さに就業前からすっかり疲弊しているが。

 霧島が所属する弁護士事務所は、神楽坂の街が一望できる近代的なオフィスビルの10階から最上階の12階までの3フロアにあった。

 姿見のようなビルの壁面に霧島の全身が映し出される。一瞬だけ足を止め、行き交う人々に気取られないよう満員電車で乱れた毛髪を指の腹でサッと撫でつける。年頃の妹からの忠告に素直に従う兄の図である。

 朝のニュース番組で昨日の冤罪裁判が大々的に取り上げられた影響だろう。

 エントランスに足を踏み入れると、無数の視線が一斉に霧島へと注がれる。事務所の所員だけでなく、同じビルの他の会社の人々からも注目されている。

 迷惑な話だ。霧島はイタズラな好奇に晒されることが好きではない。

 すると、若い女性たちが霧島のことを遠目に眺めながらひそひそと話しているのが視界に入り込む。霧島が即座に睨みつけると、女性たちはなぜか顔を赤らめながらそそくさと去って行ってしまう。

「なぜ逃げる? 言いたいことがあるならはっきり言え」

 そう不機嫌なオーラを醸し出しながら霧島がエレベーターを待っていると「よう、人気者!」と男が声を弾ませる。

 隣を見やると、イタリア製のスリーピースにスイス製の高級腕時計を装備し髪をオールバックに決めた長身の男が今日も今日とて爽やかに立っていた。

 毛艶のいいサラブレッドを思わせるこの男は朝倉遥輝。霧島の大学時代の先輩であり同期の弁護士だ。

「朝倉、俺を客寄せパンダ扱いするな」

「裁判に勝ったんだから素直に喜べばいいじゃないか。少なくとも、負けて注目されるよりもいいだろ?」

「有り得ない話をするな。この俺が裁判で負けることなどない」

「はいはい、そうだったな」朝倉は長い首をすくめて苦笑する。

 到着したエレベーターに二人は慣れた足取りで乗り込む。扉が閉まるのを見計らって朝倉が霧島のことをからかってくる。

「それにしても、朝に弱い連次郎が遅刻せずに来るなんて偉いじゃないか。頭を撫でてやろう」

「子供扱いするな。俺は〝立派な大人〟だ。朝などどうってことはない」

 霧島が隣から伸びてくる長い腕をぞんざいに払うのに「どの口が言うんだよ」と朝倉は楽しげに笑っている。

「連次郎が大学3年の時のことを忘れたのか? 司法試験の朝、寝坊したお前を試験

会場までバイクに乗せていってやったのは誰だったかな?」

「恩着せがましく言うな。お前も受ける試験だったろうが。命知らずのパラリーガル

が運転する暴走バイクの後部座席で俺は死ぬ想いを味わったんだぞ?」

「いや、論点をすり替えるな。そもそもの原因は目覚まし時計を3個とも壁に叩きつけて破壊した連次郎の自業自得だろ?」

「仕方ない。目覚まし時計を壁に全力で叩きつけると壊れるとは知らなかったんだ」

「嘘をつけ。よく平然と言えるな」

 朝倉は口調とは裏腹に満足げな表情だ。3つ年下である霧島の無礼な態度にもまったく気を悪くした様子はない。

 思えば、大学時代から朝倉のこういうところは変わらない。

 朝倉遥輝は弁舌爽やかで人当たりがよく、男女ともに好かれ法学部の教授からの覚えもすこぶるよかった。男女ともから偉そうな奴だと言われ法学部の教授からも生意気だと煙たがられていた霧島連次郎とは真逆の存在だ。

 まったく世の中とはわからないものである。入学当初は誰にでも愛想を振りまく先輩を『日和見野郎』と軽蔑していたのに、気づけばそんな男と10年以上経った今でも毎日顔を合わせているのだから。

 小気味よい電子音が鳴りエレベーターが10階で停止する。左右に扉が開くと、視界に真新しくて広々としたフロアが飛び込んでくる。

 ここが日本有数の法律事務所、伊左地弁護士事務所の本拠である。

 オープンレイアウトを採用した明るく見晴らしのいいオフィスは、交通事故、労働事件、相続、債務整理、家事事件などなどジャンルによって区分けされ、常時50人近い弁護士と多数のパラリーガルが忙しなく働いている。

 ちなみに霧島の個人ルームは最上階の刑事事件のブロックにあった。

「連次郎、もう時間がない急ごう」

 霧島と朝倉は全体朝礼が行われる大会議室へと長い通路を移動する。

 同じく大会議室に向かう先輩弁護士たちが霧島たちに気づく。「おはようございます」と八方美人の朝倉は律儀に笑顔で挨拶しているが、愛想を母親の胎内に忘れてきてしまったのか、霧島は「どうも」と素っ気なく目配せする程度だ。

「霧島は相変わらずだな! もう少し愛想よくできんのか?」

 先輩弁護士たちは口々に嘆く。もっとも怒っているのではなく呆れているのだ。

 霧島が伊左地弁護士事務所で働き始めて約6年。多くの所員が霧島連次郎という弁護士が実力はあるが尊大な人間だとよく理解しているのだ。最早『霧島の耳に念仏』と諦めの境地に達していると言ってよかった。

 大会議室に入る。出遅れたせいですでに椅子が埋め尽くされていた。どうしたものかと霧島と朝倉が顔を見合わせたのと同時だ。

「私の隣が空いているわ」

 集団の中でも一際目立つパンツスーツのスラリとした女性が、しなやかな指先でちょいちょいと霧島と朝倉を手招きしてくる。涼しげな目元が特徴的な色白の彼女は、霧島と同じ29歳で同期の吹越未来だ。

「助かるよ未来ちゃん」

 笑顔で感謝する朝倉とは対照的に、霧島は我が物顔で吹越の隣にドカッと腰を下ろす。初対面なら面食らいそうな無遠慮な態度にも、司法修習生時代から霧島と付き合いがある吹越は涼しい顔で長い髪をかきあげている。

 やがて大会議室の前方の扉が開き、事務所の幹部クラスが続々と入場してくる。

 瞬間だ。最後尾にダブルのスーツを着込んだロマンスグレーのダンディな人物が現れると、大会議室が水を打ったように静まり返った。室内には男の革靴が床を叩く音だけが甲高く響いている。

 このヒュー・ジャックマンのような色男が所長の伊左地耕助だ。

 伊左地は若い頃は凄腕の弁護士として法曹界に名を轟かせ、経営者に転身してからは見事な手腕で個人事務所を十数年で東京を代表する法律事務所へと成長させた。そんな伊左地耕助は所員たちにとって生きた伝説であり、絶対的な指針であり、成功の象徴だった。

 大あくびをしていた霧島も師匠の登場に慌てて口を閉じる。伊左地が司法修習生時代の教官ということもあって、霧島はその俳優のような彫りの深い顔を見るだけでパブロフの犬よろしく自然と背筋が伸びてしまうのだ。

 司会役の「一同、起立!」との号令で全所員が一斉に立ち上がる。大会議室を包み込む盛大な挨拶を合図に、伊左地弁護士事務所の月イチの全体朝礼が始まる。



 霧島は真剣な表情で幹部や所長のありがたい訓示を右から左に流す。

 脳みそがまだ完全に働いていないのだ。伊左地弁護士事務所はコアタイム制を採用しているので普段は今頃が霧島の起床する時間だった。

 心配はない。重要な内容があれば後で朝倉や吹越が教えてくれるだろう。

 そんな調子のいい考えを同期の二人は長年の経験から見透かしていた。示し合わせたかのように両サイドから肘で『真面目に聞け』とばかりに小突かれる。霧島は『痛いだろ』と二人を交互に睨みつける。その時だ。

「――霧島連次郎」

 唐突に壇上の伊左地からバリトンボイスで名前を呼ばれる。何事だろうか。伊左地は勘のいい男だ。右から左に訓示を流していたのがバレたのだろうか。

 そう霧島が警戒して眉をひそめていると、同僚たちから万雷の拍手が湧き起こる。隣の朝倉も我が事のように誇らしげに手を叩いている。

「少しは嬉しそうにしろよ。今月も連次郎が『所長賞』に選ばれたんだよ!」

 朝倉に言われ霧島は「なるほどな」と納得して腕組みする。

 伊左地弁護士事務所の月イチの全体朝礼では、活躍が認められた弁護士に所長賞が贈られる。これは所員にとって非常に名誉なことで、特に若手弁護士にとっては弁護活動におけるひとつの目標であった。当然である。天下の伊左地耕助に認められれば弁護士として箔が付くからだ。

 同僚たちは受賞した霧島について口々に語る。

「妥当と言える。あの冤罪事件で逆転無罪を勝ち取ったんだからな」

「霧島さんはこれで何度目だ? 将来の幹部は間違いないだろうな」

「いや、独立するんじゃない? これだけの実績があるなら」

 表現こそ異なれど誰もが霧島の弁護士としての実力を認めていた。同僚たちが霧島の尊大な態度を容認しているのも実力があるからこそだ。

 しかし、霧島のリアクションは周囲の称賛ムードとは裏腹にひどく薄い。

 吹越が手を叩きながら「驚かないのね」と不思議そうに尋ねてくる。それに対して霧島は臆面もなく言い放つのである。

「俺以外に誰がいる?」と。

 直後、朝倉と吹越が顔を見合わせ苦笑したのは言うまでもないことだった。

 ようやく眠たい全体朝礼が終わる。所長賞の発表は朝礼の最後に行われるのが慣例なのだ。霧島は解放感から大あくびをする。ところがだ。

「おーい、例の刑事記録を皆に配ってくれ!」

 壇上の伊左地がイレギュラーな指示を飛ばす。パラリーガルたちがクリアファイルに収められた刑事記録を弁護士たちに整然と配り始める。予想外な展開に大会議室は怪訝なざわめきに包まれている。

 霧島たちの手にもほどなくして刑事記録が届く。国選弁護人の案件だ。朝倉と吹越を含め周囲の弁護士たちはさっそく中身に目を通し始める。唯一、霧島だけは床に落ちたトーストでも扱うみたいに指先でクリアファイルを摘みブラブラと遊ばせている。

 霧島はげんなりするほど乗り気でない。なぜなら、司法修習生時代に伊左地から今日のように唐突な感じで『この事件は任せたぞ』と何度も難解な事件を丸投げされた過去があるのだ。断言できる。どうせ今回もロクな事件ではない。

「霧島、どうした? 刑事記録に目を通さないのか?」

 しかし、師匠の伊左地に笑顔で見つめられたら「……その、読もうと思ってたところです」と霧島は蛇に睨まれた蛙のごとく従うしかない。

 弁護士のいろはを霧島に叩き込んでくれたのは伊左地だ。また過去のある事件をきっかけに弁護士を辞めようとした時『お前には才能がある。続けるべきだ』と真剣に引き止めてくれたのも伊左地だ。実に厄介な男だが、今の霧島があるのはその厄介な男のお陰なのだから。

 渋々と手元の刑事記録のページを捲る。最初に『女子高生踏切殺人事件』の文字が飛び込んでくる。どうやら殺しの事件らしい。概要はざっとこうだ――。


 20歳の青年が『勝手踏切』と呼ばれる遮断機のない踏切で、17歳の女子高生を急行電車が通過するのに合わせて背中から押して殺害した。被害者と加害者は異父兄妹で、殺害動機は『東京で何不自由なく暮らす恵まれた妹への嫉妬』だった。

 逮捕の決め手は踏切近くに停まっていたタクシーのドライブレコーダーの映像だ。映像には犯行の瞬間が映っていた。他にも事件の2週間前から踏切近くの商店街で頻繁に青年が目撃されていたり、6月頃より青年が被害者の女子高生に行っていたストーカー行為なども状況証拠となった。

 犯行は計画的で悪質、殺害動機は身勝手で情状の余地はなく、犯行の様態から殺意は否定しようがなく、検察は青年を厳罰に処すべきだとしている。無期懲役が求刑される見通しとのことだ。


 ――不意にページを捲る霧島の指先が固まる。霧島は険しい表情で刑事記録の一点を睨みつけている。気づくと、自分の指先が震えていた。

 やがて伊左地が品定めの眼差しで、大会議室を見回してにこやかに尋ねてくる。実はサプライズの本番はここからだった。

「誰かこの事件を――『無罪』にできる者はいないか?」

 一瞬にして大会議室の〝ざわめき〟が〝どよめき〟に変わったのは言うまでもない。

 なぜなら、弁護士なら誰でもひと目見て、この事件を『無罪にするのは不可能だ』と判断するからだ。朝倉と吹越が困惑した顔で言う。

「無罪は無理だ。状況証拠が完璧に揃ってる……これをすべて覆すのは不可能だ。まったく所長も無茶を言うよ」

「決定的なのは青年が殺害を自供していることだわ。無罪なんて無謀よ。情状酌量による減刑を目指すのが現実的ね」

 そう二人は諦めムードで嘆息してから、ゆっくりと霧島に視線を預ける。

 この男なら我々とは違う見解を示すかもしれない、という期待が霧島をよく知る二人にはあった。

 しかし、予想外なことに霧島は無言で刑事記録を足元に放り捨てると『俺に話しかけるな』という不機嫌なオーラを全開にして眠るように瞼を閉じてしまう。

『――受けた依頼は必ず勝つ』

 そう豪語する霧島にも唯一受けないと決めている案件があった。今回の案件がまさにそれだった。

 再びロマンスグレーのダンディが大会議室を見回して問う。

「誰もいないのか? この事件を無罪にできる者は?」

 バリトンボイスが静寂の大会議室に溶けて消える。

 誰もがわかっている。この場で名乗りをあげれば所長の目に留まることは。しかし、絶対に負ける試合に『勝てます』と啖呵を切れるほど度胸のある者はいない。仮に言えたとしても所長の望む結果が伴わないことは明白で、己を弁えない愚かな人間として却って心証を悪くするだけであろう。

 その時だ。獲物を物色するライオンのような伊左地の視線が、不機嫌そうに脚組みする一人の青年に止まる。伊左地は挑発的に問いかける。

「さすがの『法廷の王様』でもお手上げか?」

 同僚たちの視線が一斉に霧島に注がれる。

 弁護士としてデビューしてから今日まで法廷で負け知らずの霧島のことを『法廷の王様』と伊左地弁護士事務所の人間は称している。もっとも、王様のごとき尊大な言動が理由の半分以上を占めているのだが。

 そんな『法廷の王様』がどう答えるのか知りたくない者はいない。ただし、誰もが『さすがの霧島でも無罪は不可能だ』と考えていた。しかし、

「いや、俺なら無罪にできます」

 霧島は平然と答えた。大会議室がにわかに騒がしくなる。