第1章 日本酒BAR


〈1〉


 雑居ビルの四階にある事務室内で荷ほどきをしていた私の目の前に、はらりとピンク色の花びらが舞い落ちた。作業する手を止め、ふと顔を上げると、開けっぱなしの窓の外で咲き誇る満開の桜の木々が目に入った。

 おもむろに立ち上がり、窓辺へと近付くと、花びらが数枚、風に乗ってはらはらと散り、古い小さな町工場が建ち並ぶ街へと飛んでいく。

 町工場が集まる東京都大田区には珍しく、小高い丘の上に建つこの雑居ビル――『ツバメビル』からは、すっかり春の気配に包まれた街並みが一望出来る。遠く、青い空にはぐんぐんと高度を上げていく羽田空港から飛び立った旅客機が小さく見える。

 いい場所だなあ。こんなに居心地の良い場所だとは思わなかった。

 甘い匂いが風に乗って運ばれてくるのを感じていると、セミロングにした私の栗色の髪に一枚の花びらが舞い降りる。それを指でひょいと摘まんで眺めていると自然と顔がほころんでくる。

 と、そのとき不意に、桜の木の下、急な坂道を下っていく二人の会社員の姿が視界に入った。

 彼等は咲き誇る桜に目をとめることもなく、おそらく仕事のことについて話し込みながら、足早に通り過ぎて行ってしまう。

 仕事か……。

 私は我に返る。

 それから後ろを振り返り、がらんとした事務室内の片隅に積まれた段ボールの山に視線を戻し、大きくため息を吐く。

 急速に心が萎えていった。

 そう、桜なんかに浮かれている余裕はない。

 私は仕事をしにここに来たのだ。

 しかも、とっても乗り気のしない仕事、誰も幸せにならない仕事を。

 私は首を横に振ると、段ボールの傍にあぐらを掻いて座り、蓋を留めたガムテープを剥がしながら、荷ほどきを再開する。

 中から出てくるのは沢山の書類を綴じたファイル。

 書類だけならいいけど、これからデスクや椅子、ロッカーなどの什器類の梱包も解かなければならない。

 なんで女子が、しかも一人で、こんなことをしなくちゃいけないのか。気分はどんどん落ち込んでくる。

 空になった段ボールをたたみ、入口の扉の脇に運んで積み重ねる。既に十箱を超えたが、まだ優に半分以上は残っている。

 再びため息を吐いて作業に戻ろうとしたそのとき、コンコン、と入口の扉がノックされた。

「……はい……」

 ガス会社の人か、電話会社の人か。たしか、夕方くらいに来るとは聞いていたけど、ちょっと早すぎないだろうか?

 そう思いながら仏頂面で扉を開けたとき、私は困惑に立ち尽くした。

 そこに立っていたのは、濃紺のフォーマルなベストにネクタイを締めた、背の高い男性。

 白い肌に穏やかな笑みを浮かべ、一重の切れ長の目で私を見ている。

「こんにちは。貴女が今日から入居する、仙川さんですね?」

 優しそうな声。

「……は、はい……」

 半分上ずった声で答えると、その人は微笑みを浮かべながら、手を差し出した。

「僕は五階で日本酒BARを経営している飛田夏輝と申します。ようこそお越しくださいました」

 私の肌よりも、はるかに白くてきれいな手。

 見とれつつその手を握ると、思いのほか強い力で握りかえされてしまい、慌ててしまう。

 そんな私を、飛田さんは瑪瑙のような色の瞳で優しそうに見つめてくる。私の頬が仄かに熱を帯びた気がする。

 ええと、黙っていないで、なにか、なにか言わないと……。

 焦りながら胸ポケットから名刺入れを取り出そうとしたところで、私はハッ、と気付いて、その手を止め、更に慌てる。

 そ、そうだった、この名刺を出しちゃいけないんだった……。

 少し不思議そうな顔をする飛田さんの前で、私は急いで九十度の角度で頭を下げる。

「せ……、仙川凜香と申します……! どうぞよろしくお願いします!」

「ええ。こちらこそよろしくお願い致します」

 そして、飛田さんは、荷ほどき作業中の室内にぐるりと視線を巡らせる。

「それで、今日から、仙川さんはここでどのようなお仕事を始めるのでしょうか?」

 私は背中に冷たい汗をかきながら、慎重に今まで何度も練習してきた台詞を言う。

「……はい。ネットショップの注文受付の事務処理代行です。いくつかのショップのお仕事をまとめて受けるんです」

「なるほど。これからますます繁盛しそうなお仕事ですね。今はどこも人手不足ですから」

「ええ、まあ……」

 微笑みを浮かべる飛田さんの前で、私は後ろめたさを感じて思わず視線を逸らす。

 私が今、言ったことは、嘘だからだ。

 私は急いで話題を変えるべく、荷物の中から菓子折を取り出すと、飛田さんに尋ねた。

「あのっ……! それで、このビルの管理人さんにご挨拶をしたいのですが……。今日、こちらにいらっしゃると伺っています」

 すると、飛田さんは穏やかに言った。

「ああ、それは僕のことです。情報が行っていなかったようですね」

「し……、失礼しました!」

 総務にいるあんぽんたんの同期男子の顔を思い浮かべ、思わず心の中で舌打ちする。話が違うよ。管理人は、亡くなった先代の大家さんの奥さんが引き継いだって聞いていたのに!

 私は営業用の笑顔を貼り付けて、お世話になります、と飛田さんに菓子折を渡しながら、暗澹たる気持ちになる。

 この日本酒BARの店主が新しい管理人ということなら、これからの私の仕事はとても難しいものになるはずだ。どうして、状況はこう悪い方向にばかり転がっていくんだろう。

 と、飛田さんがにこにこ笑いながら尋ねてきた。

「ああ、仙川さん」

「……はい?」

「ご都合の良い日を教えていただけないでしょうか? 仙川さんの歓迎会を行いたいと考えておりまして」

「歓迎会……、ですか……?」

 予想外の言葉に思考が固まる。

「ええ。僕の店に、このツバメビルにテナントとして入っている経営者全員が集まる予定なんです。仙川さん、日本酒は飲めますか?」

「はあ……、まあ、少しは……」

 どこからか『さくらさくら』のピアノの演奏が聞こえてきた。軽やかで、そして、たおやかな音色。その演奏をBGMに、私は半ば呆然としながら、にこにこ笑う飛田さんの前で固まる他ない。

 風が吹いて、桜の花びらが数枚、室内に舞い込んできた。遠くから、飛行機の飛び立つ音が聞こえてくる。


〈2〉


 ことのはじまりは三週間前、三月頭のことだった。

 東京丸の内にある自分の勤め先、住愛地所株式会社ビル二十七階。このフロアでは、同社事業開発本部の一般社員、百名ほどが、いくつかのブロックに分かれて座っており、それと垂直に各課長や部長など各管理職の一回り大きなデスクが並べられている。

 そして、私はそのうちの一つ、事業開発課の鈴木課長の席の前で、直立不動で立っていた。

 赤い縁の眼鏡の奥から、課長の冷たい瞳が私を睨むように見つめてくる。

「仙川さん、これからのあなたの仕事は、この『住愛さくらまち計画』の円滑な推進のための、下準備をしていただくことです。この計画は我が社にとって極めて大事なプロジェクトであり、絶対に失敗は許されません」

「はい……」

 下準備ってなんだろう、自分はなにをやらされるんだろう、と不安に思いつつ、鈴木課長の紺色のジャケットの襟元から覗く白いブラウスを見つめる。

 彼女は出来るキャリアウーマンといった人で、年齢は三十代半ばくらい。ばりばり体育会系で男性優位のこの会社において、それほど多くはない女性管理職のうちの一人だ。とはいえ、ここのところ、同年代の何人かの他の女性が部長に上がるのを見て、内心、焦っているらしい。それゆえ、前より周りにきつくあたるようになったと言われていて……。

 と、そのとき、私のブラウスの胸ポケットに入れたスマホが着信音を奏ではじめた。

「す、すみません……!」

 鈴木課長はじろり、と私を見て、

「人と話すときは、マナーモードにしておきなさい。新入社員でも言われないわよ、そんなこと」

 そう言って、ワンカラーで丁寧に手入れが施された爪でA3の書類を捲り続ける。

 その書類の上部には『住愛さくらまち計画 ――東京都大田区再開発計画――』という文字が記載され、完成イメージと題されたページには、何棟かの高層マンションのイラストが描かれていた。

 一階には小規模なショッピングセンターやクリニックの他、保育所や高齢者向けデイケア施設などが入っている。そして、桜並木のプロムナードには、ショッピングを楽しむ人やデイケア施設に向かう高齢者の姿の他、子供を真ん中に挟んで歩く複数の家族のイラスト。

 ぼうっ、と眺めていると、唐突に、課長が尋ねてきた。

「仙川さん、東京都大田区の主要産業はなんですか?」

「えっ……? 産業です、か……?」

 そもそも大田区がどこらへんにあるのかということ自体、あまりよくわかっていない。私は一応関東圏にある群馬出身ではあるけれど……。

 私が言葉に詰まっていると、課長が低い声で言った。

「この業界で働く以上、基本的な知識ですよ」

「は、はい……」

 それから、眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げながら、

「大田区は羽田空港のイメージが強い街ですが、一方で、古くから町工場を中心に発展してきた街です。高度経済成長期の日本の製造業は、大田区にあるような町工場によって支えられてきたといっても過言ではないでしょう」

 私は、あ、羽田空港って大田区にあったんだ、なんてことを思う。そういえば、飛行機に乗ったのって、大学の卒業旅行のときが最後だったなあ……。

「ですが、ここ数十年は、アジア各国からの安い輸入品に押された上、後継者不足による廃業が相次ぎ、街全体の活気が失われていることが問題になっています。これ以上、少子高齢化が加速し、空き家が増えていくことは防犯上も好ましいことではありません」

 そして課長はA3書類の『住愛さくらまち計画の意義』という、よくある事業計画のプレゼン資料みたいな見開きのページを示して、淡々と、しかし少し早い口調になって言った。

「ですので、本計画の目的は、時代の流れに取り残された街の再生を目指すことにあります。具体的には、空き家の目立つ工場地区を更地にし、ファミリー層をターゲットにした高層マンション群に作り変えます。都心部へ通勤しやすい好立地を生かし、かつ、専用保育施設や高齢者向けデイケアセンターを備え、育児、介護問題にも対応することで、高価格帯での販売も可能でしょう」

「は、はあ……」

 次々と繰り出される用語に、なかなか理解が追いつかない。

「もしこのプロジェクトが成功すれば、住愛はこの事例をモデルケースとして、全国各地の行政の後押しをうけた上で、同様の開発を次々に行っていくことが出来ます。結果、今後数年間に渡って、住愛に大きな利益をもたらします。この意味はわかりますね?」

 彼女は淡々とそう言って、眼鏡の奥から細い目で私を見つめてくる。

 意味とは、営業担当役員肝いりのプロジェクトだから、鈴木課長としても絶対に失敗が出来ないということだ。

「は、はい……」

 掠れた声で答える。背中に冷たい汗が流れる。

「結構です。それではこれから仙川さんに担当していただく『下準備』について説明します」

 ようやく本題だ。一体、なにをやらされるのだろう。

 続いて、彼女はA3の書類を数枚めくりながら、ある一ページを指で示した。

 それは『建設予定地の現況』と上部に記されたページで、地図とともに何枚かの写真が貼られていた。小さな町工場が建ち並ぶ中、ぽつんと存在する小さな丘。その上に年季の入った建物が建っている。建物は緑の蔦で覆われた五階建ての鉄筋コンクリート造りで、その傍には満開の桜の木が何本も咲いている。見方によっては、桜に飲み込まれつつあるようにも見える。

「これは……?」

「再開発予定地である『ツバメの丘』に現在、建っている建物です。名称はツバメビルで、築年数は五十年。元々は町工場として使われていた建物ですが、今は、テナントビルになっています。再開発に伴い、昨年から土地の買収交渉を続けているのですが、今に至るまで応じて頂けない状況です。入居しているテナント各社も立ち退く気は無いようです」

 瞬間、嫌な予感がした。

 まさか……。ということは……。

 鈴木課長と目が合う。

「仙川さん。あなたの業務は、このビルに入っているテナント各社に丁重にお引き取り頂くことです」

 やっぱり!

 全身からすうっ、と血の気が引いていくのがわかる。

 そんな……。立ち退き交渉なんて、私に出来る訳がない……。大義名分を振りかざしながらも、結局は、札束を使って、今、そこにいる人達を追い出す仕事なわけで……。

 なかば呆然と突っ立っていると、突然、鈴木課長が顔を上げて言った。

「仙川さん」

「は、はい……?」

 眼鏡の奥の目が更に細められる。

「どうして、この業務があなたに割り当てられたか、わかりますか?」

 瞬間、心臓がきゅっ、と縮まったような気がした。

「それは……」

 言われなくてもわかっている。

「ええ。あなたの人事評価が、同期の中で著しく低いからです。ですから、この案件は、あなたに名誉挽回を図っていただくために、言わば温情から用意したものです」

「ありがとう、ございます……」

 室内からくすくすと私を嘲る声が聞こえる。

 ――仙川、ついに追い出し屋か。

 ――どんくさいもんな、あいつ。

 ――立ち退きなんて、無理なんじゃね?

 私は耳を真っ赤にして立ち尽くす。

 目の前で鈴木課長が業務内容の細かい部分を説明し続けていたが、頭にはほとんど入ってきていなかった。

 と、そのとき、突然、耳元で大きな男性の声が聞こえた。

「課長、お話し中、すみません」

 視線を向けると、そこには隣の席の先輩。

 わざと周りに聞こえるようにか、大きな声で言った。

「仙川宛てに至急の電話が入っています。大東京建設の伊東さまからで、先週送ったメールの返事がまだ来ない、と、お怒りのご様子です」

 途端、室内からさらに失笑が漏れる。

「あの、課長……」

 おずおずと言うと、課長は大きくため息を吐いた。

「いいから行きなさい。お客様優先よ」

「はい、すみません……」

 周りの冷たい視線を浴びながら駆け足で自席に戻りつつ、どうしようもない劣等感だけが私の頭の中を占拠していく。


〈3〉


 昨日、金曜日に降った雨のせいで、ツバメビルの傍で咲いていた桜はだいぶ散ってしまっていた。

 とはいえ、枝のあちこちからは緑の葉が芽吹きはじめており、じきにこのビルが建つ丘の上は新緑に覆われると思われた。

 私の歓迎会は、午後六時から五階の日本酒BAR『桜燕』で行われることになっていた。参加者は私と飛田さん、そして、このビルの二階と三階にそれぞれテナントとして入っている二人。

 とはいえ、まだ店内には私と飛田さんの二人しかいない。他の人は仕事が終わってから上がってくるみたいだ。土曜日なのに仕事をしているということは、皆、やっぱりそれなりに忙しいんだろう。

 私は椅子に座りながら店内を見回す。五人くらいが座れる木製のカウンターに、四人がけのテーブルが六つ。客席は極端に少ないとはいえないものの、壁一面にずらりと並べられた、軽く百本は超えている日本酒の瓶のせいで、ここでは人より日本酒の方が主役といった感じだ。

 そして、店内装飾は木目調で統一されており、テーブルや椅子は勿論のこと、床や壁、天井に至るまで、丁寧に木板が貼り付けられて、ここが鉄筋コンクリート造りの建物の中であることを忘れさせるほどだ。聞いたら、飛田さんはわざわざ和歌山の方まで行って、知り合いの林業関係者から木材を調達してきたらしい。明かりも暖色を基調とした間接照明で、まるで山小屋の中にいるかのような不思議な落ち着きを感じさせる。

 そして、窓からは綺麗な桜の木々。もう少し早ければ、満開の夜桜と、街の夜景を眺めながらお酒を楽しめたかもしれない。

 そんなことを考えながら店内を見ていると、不意に飛田さんが尋ねてきた。

「仙川さんの事務所の名前を教えて頂けますでしょうか?」

「あ……、はい、サクラマチ企画です」

「いい名前ですね」

 そう言いながら、飛田さんは、普段はお勧めの日本酒メニューや料理の名前を書いていると思われる黒板に、達筆で『ようこそ、ツバメビルへ! サクラマチ企画・仙川凜香さん』と書き付けた。

 途端、私の中から、苦いものがせり上がってくる。

『サクラマチ企画』は屋号で、個人事業主である私が経営している事務所という位置づけだ。けれど、その実態はこの建物からテナントを追い出すために設けられた住愛地所の拠点。

 今までは住愛の担当者が、正面から買収の交渉をしていたものの、なかなか上手くいかないので、やり方を変えて、今後は、私が建物の中に入り込んで情報収集をすることで、テナントと立ち退き交渉をするための糸口を見つけようというのだ。たとえば、経営が苦しいことがわかれば住愛から資金援助を持ちかけて、その条件と引き換えに退去してもらう、といったことだ。

 いやな仕事だな……。

 やっぱり、自分にはこの仕事は向いていないんじゃないだろうか。

 北関東から出て来て、折角、一部上場企業の住愛地所に入れて、華やかな都市開発プロジェクトに関われると思ったら、まさか追い出し屋みたいなことをすることになるなんて……。

「仙川さん、どうかされましたか?」

 と、突然、飛田さんが心配そうな顔で覗き込んできた。

「えっ……」

「なにか考え事をされていたようでしたので。もしなにか困ったことがありましたら、遠慮なくおっしゃってくださいね」

「あ……、はい……、ありがとうございます……」

 嘘を吐いていることが心苦しい。私はそんな罪悪感を紛らわせるために、強引に話題を変えることにする。

「あの、そういえば、一つ気になっていることがあるんですが……」

「なんでしょう?」

 飛田さんが振り返った。

「もしかして、今日、ここのお店って貸し切りなんですか? そうしたら、なんか申し訳ないのですが……」

 土曜日とはいえ、午後六時を過ぎたのに、店内には私達以外の人がいないわけで……。

「いえいえ」

 飛田さんは、苦笑する。

「もともと、お客様はそんなに多くないんですよ。そもそも開けているのも、週三日か四日程度です。お休みの日は特に決めていないのですが、お客様は地元の方が中心で、気が向いたら、ふらり、と来て頂くような感じなので問題はありません。いらっしゃる時間も夜遅めのことが多いのです」

「はあ……」

 穏やかな笑みを浮かべる飛田さんに、私は戸惑ってしまう。そんな調子で果たしてちゃんと食べていけるのだろうか。このビルの立地はお世辞にも良いとは言えないのに。

 と、そのとき、入口の引き戸が、からからという軽やかな音とともに開いた。

「ああ、いらっしゃいました」

 引き戸の方に顔を向けた途端、私は、はっ、としてしまった。

 そこに立っていたのは、お人形さんかとみまがうほどの美しい女性。背中まで伸びた長い黒髪に、伏し目がちな黒い瞳。白いワンピースから覗く、折れてしまいそうなほど細い手足はミルクを溶かしたかのように真っ白。

 真夏の太陽の下に出したら、一発で倒れてしまいそうな人だ。

「芦花さん、こちらの席へどうぞ」

 入口に立ったままだった女性は、どこかおっかなびっくりといった様子で、私とは一切目を合わせようとせずにこちらに近付いてくる。

 そして、私が座っているテーブルの傍に来ると、一瞬、ためらった後、隣のテーブル席にちょこんと浅く腰掛ける。

 と、飛田さんが苦笑交じりに言った。

「本日は四人ですから、同じテーブルにしましょうか?」

「……は、はい……」

 飛田さんに促された彼女は、ためらいつつも私の前の席に移動。

「あ、あの……! 私、仙川といいます。この度、四階に事務所を構えることになりました。どうぞよろしくお願い致します!」

「あ……」

 私の挨拶に、真向かいの彼女が一瞬、顔を上げた後、今にも消え入りそうな声で、

「芦花千歳です……。よろしくお願い致します……」

 そう言うと再び頭を下げてしまった。その拍子に漆を塗ったような黒髪がはらりと耳からこぼれ落ちる。

「芦花さんは、三階でピアノ教室を開いていらっしゃいます。音大を首席で卒業したピアニストで、プロとしての実積もおありですよ」

「すごいです……!」

 私は素直な驚きとともに、どう見ても人見知りな彼女との会話のきっかけを作れればという思いから言った。

「私、プロの音楽家の方に、初めて会いました! CDとかも出されているんですよね!」

「……っ」

 彼女は一瞬、顔を上げて動揺した表情を見せた後、再び視線を落とし、消え入りそうな声で言った。

「以前、そういう話もあったのですが、色々な事情で立ち消えになりまして……」

「あ……」

 私と芦花さんの間に気まずい空気が流れる。

 そんな空気を慮ってか、飛田さんが努めて明るい声で言った。

「さて、あと一人来られる予定なのですが、彼女は仕事で遅くなると思いますので、先にはじめていましょうか。乾杯はスパークリングの日本酒でよろしいですか?」

 こくりと無言で頷く芦花さん。

「あ……、はい……」

 戸惑いつつ返事をする私の顔に、スパークリングの日本酒って、どういうものだろう? という疑問が浮かんでいるのに気付いたのだろう。

 飛田さんは、「説明不足、失礼しました」と言って、

「簡単に言えば、炭酸を含んだ日本酒のことですね。酵母から出る炭酸ガスをそのまま瓶の中に閉じ込めたり、炭酸ガスを溶かしたりして作ります。これは今、人気がある山口の日本酒、獺祭のスパークリング。とても飲みやすいと思います」

「はあ……」

 一体どんな味なんだろう、という好奇心の一方で、やっぱりそこはビールじゃないんだという軽い驚きも覚える。まあ、日本酒BARを掲げている以上、そこはこだわりポイントなのだろうけど……。

 それから飛田さんが、細めのワイングラスを二つ運んできて、私達の前に置いた。中に入った透明な液体からは炭酸の泡がしゅわしゅわ昇ってはじけている。

 いや、それよりも気になったのは、もう一つの普通のグラスで、飛田さんはそれを自分の席に置いた。

 この色って、もしかして……、まさか……、ウーロン茶……。

 私の訝しげな視線に気付いたのか、飛田さんは苦笑いをして言った。

「ああ……、すみません。恥ずかしながら、実は体質的に、あまりお酒に強くないものでして」

「…………へ?」

「折角の乾杯の席なので一杯くらいは、と思ったのですが、どうにも今日は体調が思わしくなくて。お酒は好きなんですけどね」

「あ、いえ……、どうか、ご無理はなさらず……」

 日本酒BARのマスターなのに、お酒に弱いということが意外で、私は戸惑ってしまう。

 飛田さんは私の正面に座ると、ウーロン茶のグラスを持ち上げる。

「それでは、仙川凜香さんのツバメビルへの仲間入りを祝して、乾杯!」

「よろしく……、お願いします……」

「お世話になります!」

 それからグラスを軽く合わせて、スパークリング日本酒を少しだけ口に含む。

 そして、ちょっと驚いた。なんというか、味わいが果実っぽいというか。

 日本酒っていうと、苦い印象の方が強くてあまり好きではなかったけど、これだったら私でも大丈夫そう。

「美味しい……」

 思わず呟いたら、飛田さんがにこにこして「安心いたしました」と言った。

 それからふと、芦花さんの方を見て、私は思わず言葉を失った。

 良く見ると、彼女のグラスの中身は既に三分の一ほどになっていた。

 そんなに一気に飲んで大丈夫なの?

 目をまん丸くして見ていると、飛田さんが苦笑交じりに言う。

「芦花さんはこう見えて、かなりお酒に強い方なんですよ。酔っ払ったところをお見かけしたことはありません」

「そうなんですか……」

 芦花さんは少し恥ずかしそうに俯くと、残りを飲み干してしまった。

 うーん、人は見かけによらない……。

「芦花さん、次のお酒、どうしますか? いつものにしますか?」

「はい、お願いします」

『いつもの』で通じるんだ、と変に感心しつつ、私はお通しとして出された菜の花のごま和えを口に運ぶ。菜の花の苦みと一緒に、ごまの甘みが口いっぱいに広がり、思わず口元がほころんでしまう。

 こういうのも全部、飛田さんが一人で丁寧に作っているらしい。

 内装から料理、お酒まで、こだわりが見えて私は好きだなあ。

 そんなことを考えながら、スパークリング日本酒を、もう一口、飲んだ時だった。

 がらりと入口の引き戸が開き、誰かが入ってきた。

「柴崎さん、お待ちしていました。随分お忙しいようですね」

「仕方ないじゃない。トラブルがあったのよ」

 肩越しに振り向くと、そこに目付きのちょっときつい女性がいた。

 大きなショルダーバッグを肩に掛けていて、淡いグレーのジャケットを着た彼女は、足早にテーブルのところに来ると、不機嫌そうにどかりと私の隣に座った。

「過剰要求も甚だしいわ。こっちとしては、担当者に何度もデザイン案を見せて確認を取って、コーディング作業にまで入っていたのよ。なのに、今になって、上司からこんなデザインはダサいって言われたので、最初からやり直せとか。まったく頭に来るわ。生一つ、ちょうだい」

「はい、わかりました。ちょっと待ってくださいね」

 柴崎と呼ばれた女性は一気にそう言って、大きくため息を吐くと、そこで初めて隣に座っている私の存在に気付いたらしく、こちらに視線を向けながら訝しげな表情を浮かべた。

 その目付きの鋭さに私は思わずびくりとして仰け反る。

「……誰、あなた?」

「え、えっと……」

 警戒心を露わにした猫のように、上から下までじろじろと見られてしまう。背中に冷たい汗が伝う。

 飛田さんが苦笑いをしながら、ジョッキをテーブルに置いて言った。

「柴崎さん、ご連絡したじゃないですか。今日は四階に新しく入られた仙川凜香さんの歓迎会だって」

「忙しいから、食事会という文字しか目に入らなかったわ」

 それから再び乾杯をした後、飛田さんが、イカのわさび漬け、揚げ出し豆腐、茄子の肉味噌詰め、トマトと大根のサラダといった一品料理をそれぞれ品良く盛りつけて出してくる。

 芦花さんは少し幸せそうな表情で日本酒をくいくい飲みながら、つまみとして料理を上品に口に運び、最後に来た柴崎彩乃さんは、よほどお腹が空いていたのか、ビールを飲みながら、それらの料理を次々と平らげていく。思わず私の頭に猫まっしぐらという言葉が頭に浮かんだ。

「柴崎さんは、二階でホームページを作る会社を経営していらっしゃるんですよ。従業員も六人くらい抱えていらっしゃいます」

 飛田さんの紹介に、柴崎さんはビールでつまみを流し込み、不機嫌そうな顔を上げて言った。

「飛田さん。これはずっと言い続けているんだけど、ホームページ制作じゃなくて、『ウェブ制作』だから。ホームページはあくまでブラウザで最初に表示されるページのこと。うちはプロのウェブ制作会社なんだから、用語の使い方もちゃんとして欲しいわけ」

「ああ、これは失礼いたしました。以後気をつけますね」

 柴崎さんは飲み干したジョッキをテーブルに置くと、むっ、とした表情で続ける。

「それ、この前も同じことを言っていたじゃない。一度言ったことを二度言わせないで欲しいわ」

「申し訳ありません」

 抗議を受けた飛田さんはにこにこしたまま、少しも気にする様子も無く、新しいジョッキを柴崎さんの元へ持ってくる。

 一方で、芦花さんは、相変わらずマイペースで日本酒をくいくい飲んでいる。一体何杯目だろう。小さい体なのによく飲むなあ、それにしては顔色が変わらないなあ、と思って眺めていたら、目が合ってしまった。

 数秒見つめ合った後、芦花さんは不意に目を逸らして立ち上がったかと思うと、カウンターの中から勝手になにかを取ってきて、ことり、と両手で私の前に何かを置いた。

 ――信楽焼のお猪口。

「……飲まれますか?」

 微かに首を傾げ、尋ねてくる芦花さん。

 黒曜石のような綺麗な瞳に見つめられて、思わずどきんとしてしまう。

 こんな美人に勧められて、断れるわけがない。

「あ、はい。いただきます……」

 お猪口を手にすると、芦花さんは両手で持った透明な硝子製の徳利を傾けてとくとくと注ぐ。ピアノの先生というだけあって、その細い指もまた、まるで硝子のように繊細に見える。

 芦花さんが注いでくれた日本酒を口に運ぶ。

「あれ……。美味しい……」

 口の中にふわっ、と甘い味が広がった。てっきり苦いんだろうな、と勝手に思い込んでいただけに意外だ。

 と、私の顔をじっと見つめていた芦花さんが微かに笑顔を浮かべた。それに釣られて、私もまた微笑み返す。

 なんかこうやって女性同士で日本酒を飲む感覚って、少し不思議だ。

 勿論、日本酒だけなら、今までも会社の飲み会とかで飲むことはあった。だけどそれはあくまで業務の一環だったし、加えて、若手の仕事として上司や先輩達にお酌しまくって、ひたすら気を遣っていた記憶しかない。だから、どんな銘柄かなんて気にもしていなかったし。

 でも、こうして飲むと、日本酒って美味しかったんだなあ、と私は少しうれしくなる。

「良かったら、お料理もどうぞ」

 芦花さんが、目の前にあった出汁巻き卵のお皿を私の前に差し出してくる。それをお箸で切り分けて口の中に入れると、ふわふわとした甘い卵がとろけていく。

 そこでまた私は日本酒を一口。今度はちょっとした苦みがアクセントになり、さらに食が進む。

 と、芦花さんのお猪口が空になっていることに気付き、私は徳利を手に取って、彼女にお酌をする。

 さっきまでがちがちに緊張していた芦花さんが、今はすごく良い具合にほぐれて私に笑顔を見せてくれている。

 これがお酒とお料理の力なのかな?

 私もちょっとだけほろ酔い気分で、茄子の肉味噌詰めを口に入れたときだった。

「そういえば、仙川さんもインターネット関連のお仕事なんですよね?」

「……へ?」

 突然、カウンターの中にいた飛田さんが私の名前を呼んだので、思わず変な声が出てしまった。

「そうなの?」

 続いて隣の席の柴崎さんが下から睨み付けるように覗き込んできたので、私は驚きに仰け反る。まだジョッキ二杯分くらいしか飲んでいないはずなのに、既に顔が赤い。

 もしかして、酒があまり強くない……?

「あなた、具体的にどんな仕事をやっているわけ?」

 そんな戦闘態勢の猫のように絡んでこなくても……。

「ええ……と、通販サイトの事務処理の代行です。支払い確認とか、在庫確認とか、倉庫管理とか……」

 勿論、嘘だ。そんな仕事はやっていない。部署の経費精算とかの庶務はやらされているけど。

 と、柴崎さんが自分でお猪口に日本酒を注ぎ、くいっ、と飲み干すと、少し小馬鹿にしたような顔で言った。

「ふうん。そんな仕事、あと二、三年もしたら無くなるわよ。APIでなんでも自動化されていくのが今の技術トレンドなんだから」

「エー……、ピー……?」

 と、飛田さんが助け船を出してくれた。

「柴崎さん、今日は歓迎会なんですから、お仕事の話はそれくらいにしてお飲み物とお食事を楽しみましょう」

 一方の、柴崎さんはどこ吹く風。

「思ったことを言ったまでだから。変におべんちゃらを使うのは、私の性に合わないのよ」

「あ、あの……、私はそんな気にはしていないので……」

 妙な空気になりそうだったので慌ててそう言うと、芦花さんは「飲みましょう」と言いながら、手元のお猪口に注ぎ足してくれる。

 途端、私の中に苦いものがこみ上げてくる。

 当然のことながら、私が気にする理由なんて、まったくない。なぜなら、私のそのお仕事は、このビルに潜り込むためのダミーのものだからだ。

 自分の後ろめたさを誤魔化すかのように、注いでもらったお酒を口に含んだところで不意に戸惑う。

 あれ……、どうしてだろう。なんか、さっきと違う味……。辛いというか、苦いというか……。

「ちょっと、失礼します……」

 私は席を立ち、店の奥にあるトイレに向かう。

 酔いのせいで気付いていなかったけど、いつの間にか店内には他のお客さんも入っていた。

 日本酒BARということで、ネットのグルメサイトで検索して来店したと思われる女性グループの他、それ以外にも地元の町工場の人達なのだろう、青い作業着のおじさん達の姿も見受けられた。

 と、そのうちの一人のおじさんと目が合い、いきなり声をかけられる。

「おっ、もしかして君が噂のツバメビルの新入りさんかい?」

「へっ……!?」

 それに気付いた、同じデザインのつなぎを着た別のおじさんも言う。

「仙川ちゃん、だっけ? いやあ、表に看板が出ていたからね。今日、歓迎会だって」

 私はどう答えれば良いかわからず、顔を引き攣らせるのみ。

 下町の人って、みんな、こんな慣れ慣れしい感じなんだろうか?

 気付くと、店内にいたお客さん全員の目がこちらに向けられていて、更に私は身動きが取れなくなる。

 と、そこへ飛田さんがやってきた。

「そうです。先日、こちらの四階に入居されました、サクラマチ企画の仙川凜香さんです。みなさんもどうぞ仲良くしてあげてください。出来ればお仕事の発注などもご検討いただければ。……あ、そうそう、こちら、季節の野菜を使った新作メニューです。田所製作所のみなさんに是非召し上がって頂きたくてお持ちしました」

「お! 美味そうだなあ! おい、おまえらも食べろ食べろ!」

 飛田さんは料理の説明をしつつ、私に向かって目配せをしてくれた。

 私は慌てて頭を下げると、トイレに入り、鏡の前でほっと一息。

 ああ、びっくりした……。

 こじゃれたお店だけど、結構地元の人も来ているんだな、と。

 どちらかというと人見知りの方に分類される自分としては、正直、心臓に悪い。

 私は、ふう、ともう一度大きくため息。

 それから目の前にある鏡に映った青ざめた自分の顔を見る。

 再び、苦いものがこみ上げてくる。

 仙川凜香はツバメビルの新入り。でも、その立場は嘘で……。

 急に酔いが覚めていく。

 こんな風に仲良く歓迎会をしてもらっているけれど、スパイとしての本分を忘れてはいけないわけで……。

 気が進まないけど、仕方がないよね……。

 私は手を洗いながら、自分に言い聞かせる。

 私は私の仕事を全うしなければ。


「お帰りなさい。大丈夫ですか?」

 席に戻ると、飛田さんが私のために水とおしぼりを用意してくれていた。

「顔色が少し悪いようですが」

「そ、そうですか……? 自分は特になにも感じないのですが……」

「ならいいのですが。でも、無理はなさらないでくださいね」

 心臓の鼓動が速くなる。

 相変わらず柴崎さんは飛田さんや常連客相手に仕事の話を続けていて、芦花さんは日本酒をかぱかぱ飲み続けている。

 皆の話を聞きながら、私は時間をかけてゆっくり残ったお酒を飲み干し、大きく深呼吸すると、少し不安そうな顔を浮かべながら思い切って尋ねた。

「ところで、飛田さん、一つ質問しても良いでしょうか?」

「なんでしょう?」

 飛田さんが人の良さそうな笑みを私に向けてくれる。

「このビルがある場所ですが……」

 私はそこで一旦、言葉を止め、後は一気に続けた。

「再開発の話があるって噂で聞いたのですが……、みなさん、なにかご存じでしょうか?」

 ――直後、一瞬にして場が凍り付いた。

 芦花さんは、お猪口を手にしたまま固まった。

 柴崎さんは、ジャガイモを掴んでいたお箸を取り落とす。

 飛田さんも、ウーロン茶を手にしたまま微かに表情を曇らせる。

 このテーブルだけじゃない。

 常連客と思しき人達もまた黙り込んでしまい、しん、と静まり返ってしまった店内で、私もまた狼狽えて視線を彷徨わせる。

 緊張に心臓が早鐘のように鳴り続ける。

 それからややあって、飛田さんが苦笑いを浮かべて言った。

「ええ。確かにそういう話はあります。町工場が多いこの街は、他の自治体と同じく高齢化に悩んでいますからね。この建物の跡地に高層マンションを建てて、若い方を誘致しようとしているそうです」

 と、話を聞いていた田所製作所のおじさん達が少し憤った感じで言った。

「あれだろ? この建物も、桜の木も、この丘もぜーんぶ崩して、三十階建てのでっかいマンションをおっ建てるっていう話だろ? 乱暴な話だよなあ! そんなのが出来たら、うっとうしくてかなわん!」

「なんでも、最近、店じまいしたところも含めて、いろんなところに売却を持ちかける話が来ているんだってよ。この町の今までの歴史とか関係なく、ぜーんぶ更地にしてマンションをどんどん建てるつもりらしいぞ」

「住愛地所だったっけ!? 大企業ってやつは横暴だよなあ!」

 飛田さんはそれに対して、肯定することも否定することもせずに言う。

「ツバメビルは古い建物ですし、街全体の若返りのためには再開発も必要だとは思います。とはいえ、少し困ったことになったな、というのが本音です。仙川さんにも来て頂いたばかりなわけですし」

 と、芦花さんがお猪口をテーブルに置き、水面を見つめながらぽつりと言った。

「私は、出来れば、このままがいいです……。桜が綺麗で、とても手入れのいきとどいた建物ですし、ここでピアノを弾くのが一番楽しいです。それに、なによりみんなと一緒がいいですし……」

 柴崎さんも、ぱんっ、と両手でテーブルを叩いて言った。

「こういうやり方をするから、大企業は好きになれないのよ! 中小零細企業なんて札束で頬をひっぱたけばどうにでもなる、って思っているんでしょ!?」

 それから飛田さんは私の方を向いて言った。

「まあ……、正直に言うともう少し待って頂きたい、という思いがあります」

 そして、少しの間を置き、ゆっくりと、どこか想いのこもった口調で続けた。

「このツバメビルは元々、部品工場を経営し、そしてこの町の町内会長だった先代のオーナーが、格安で僕に譲ってくださった、とてもとても大切な建物なんです。このままだと高齢化で街が立ち行かなくなってしまう。そうならないように、若手世代が自由に商売が出来る場を作って、街全体の若返りを図ることが大切だ、という理想を抱いていらっしゃいましてね。上手く行ったら、空いている町工場を改装して、オフィスやお店にしてもらいたいという計画をお持ちだったようです。大企業主導による画一的な再開発ではなく、下町らしい、中小企業主導の商売を中心とした若返りということです」

「…………」

 真剣な表情と口調に私は気圧され、押し黙ってしまう。

「ツバメビルという名前の由来もそこから来ています。若い商売人、つまり、雛鳥がこのビルで成長して、無事に一人前になって巣立ちの日を迎えることが出来るように、という想いからです。……そして、僕も含めて、今、このビルで商売をしている人達は、みんな、まだ雛鳥です。巣立ちにはもう少し時間がかかります」

「そ……、そうなんですね……」

 それから、飛田さんは、ふと表情を緩め、笑顔を見せて言った。

「仙川さんも不安に思われるかもしれませんが、安心してください。僕としては、なんとか当面、ここのビルを残してもらうように、住愛さんの窓口の方と交渉をしていますから。それが先代のオーナーから、このビルを譲り受けた僕の責任です」

 芦花さんが、少し目を潤ませながら私に言う。

「私もちょっと不安ですが、でも、仙川さんもこのツバメビルの一員になられたわけですし、ちゃんと夢を掴めるように、一緒に頑張りましょう」

 顔を赤らめた柴崎さんも、意外と真面目な顔で私を見て言う。

「まあ、あなたに関しては、ビジネスモデルの再検討が必要だとは思うけど、ウェブショップという目の付け所は悪くはないし、固定費が安いここで勉強も兼ねて頑張ってみるのもいいんじゃないかしら」

「そうですね……」

 すっかり座が白けてしまった。

 皆がお酒を静かに飲む中、飛田さんが皆を元気づけるかのようにあえて明るい声で言った。

「さて、もっとお料理も用意していますし、皆さん、どんどん召し上がってください。仙川さんは、本日は飲み放題ですし、遠慮なさらずに。……あ、ですが、芦花さんはうちが潰れない程度にお願いいただけると嬉しいです」

「はい……」

 酔いからというよりは、恥ずかしさにほんの少し顔を赤らめる芦花さん。

 それからは、店内はまた先程までのような活気を取り戻す。

 そんな様子を見ながら、私の心はずきりずきり、と激しく痛む。

 私はこの人達を騙している。

 でも、これはお仕事だし、仕方のないことだし……。

 私はそんな葛藤を覚えつつ、作り笑いを浮かべながら、その場にいるほかなかった。


〈4〉


 私が住愛地所の本社に呼び出されたのは、それから一週間後のことだった。

 久しぶりに本社ビル二十七階のフロアに足を踏み入れ、とりあえず自分の席がまだあることを確認してほっとしたのも束の間、奥の席に座った鈴木課長がこちらをじっと見ていることに気付き、足早に近寄る。

 課長は、プリントアウトした書類の束の上に両手を置き、低く静かな声で切り出した。

「仙川さん、あなたのこの一週間の日報を読ませていただきました。ここには、この本部の経費精算業務をやったことくらいしか書かれていないようですが」

「はい……」

「とりあえず、状況に進捗は無い、という解釈でいいでしょうか」

 じろりと睨んでくる爬虫類のような目に肝を冷やしながら、私は反論を試みる。

「ええと、先方と信頼関係を築きはじめておりまして、色々なことを、遠慮無く聞けるようになりました」

「それは進捗とは言いません」

 ぴしゃりと言われてしまい、私は口を噤む。

 背後から同僚達のくすくすという笑い声が聞こえる。

「今後、交渉を行うにあたって重要なのは、相手の足元を見る事が出来るような状況をつくること。つまり、即座に弱みを握ることです。消防法違反行為、不正会計、労働基準法違反等々、世間一般的にコンプライアンスに反する行為を把握しておくことです。一週間もの時間があったなら、その一つや二つ、日報に書かれていてもおかしくない話ですね」

「…………」

 反論の余地が無くて、私は俯くほかない。

 と同時に、飛田さんの優しそうな顔が脳裏にちらつく。

 しばらくの間、沈黙が落ちた後、鈴木課長は芝居がかったため息とともに言った。

「どうしたものかと思っていたのですが、やはり、仕事には明確な期限を設けることが必要ですね」

「期限、ですか……?」

「そう。期限です。期限すら守れない者は、住愛社員として、いや、社会人として失格であることはあなたも充分にわかっていることでしょう?」

 それはそうだけど……。

 脈がどんどん速くなっていく。

 課長は赤い手帳を捲りながら、まるで死刑宣告をするかのように言った。

「期限は六月末です。それまでにテナントを完全に退去させてください」

「……ろ、ろく……!?」

 思わず声が裏返ってしまった。

 頭の中が混乱していく。

 ええと、今が、三月末だから……。

「つ、つまり、三ヶ月で、っていうことですか!? 立ち退き交渉を!?」

「そうです。それだけの時間があれば充分でしょう?」

「い、いえ……。正直、経験がありませんし、それもこれは、先方にも事情がある話ですし……」

「経験が無くとも、住愛の社員ならば軽くこなせるレベルの業務ですよ。私があなたくらいの年次のときには一ヶ月半でこなしました。それに、先方の事情が一体どうしたというのですか? それも含めて滞りなく解決するのが、私達の仕事です」

 そして、鈴木課長は腕時計をちらりと見ると、次の打ち合わせの準備のためか書類を纏めながら続けた。

「なお、万一、それまでに成果が出なかった場合には、速やかに担当を他の方に代わっていただくとともに、あなたには子会社へ行っていただくことになります。つまり、これはラストチャンスになるということです」

「へっ……?」

 私は間抜けな声を出して、固まってしまう。

 今、なんて言った?

「ラストチャンス……?」

「そうです。チャンスをものに出来なかったときは、子会社か、あるいは孫会社に異動していただき、一から業務を学び直していただきます」

 それだけ言い残すと、鈴木課長は足早にフロアから出て行ってしまった。

 ――出たよ、鈴木課長のラストチャンス。

 ――あー、ありゃ、仙川は子会社行き確定だな。しかも片道切符。

 ――まあ、出世なんて最初から無理そうだったし、あれでいいんじゃね?

 私は室内のあちこちから聞こえてくる同僚達のひそひそ声を聞きながら、呆けたように立ち尽くすほかなかった。


〈5〉


 夜になり、ひんやりとした空気が、ツバメビル四階の事務所の中に入り込んで来た。

 私は窓に向けられて置かれたスチール製の事務机の前に座りながら、ぼんやりと外を眺めていた。ちょっと前まではあんなに咲き誇っていた桜の木も、今はすっかり緑の葉に変わってしまっていた。

 丘の上から見下ろす夜の下町は静かだ。東京だというのに明かりは多いとはいえず、寂しい印象を受ける。どことなく静かな住宅街という雰囲気に近いかもしれない。

 私は今日、何十回目かのため息を吐くと、視線を机の上に落とした。

 そこに置かれているのは、数時間前にプリンターから出力した、一枚の紙。

 そして、その右端には縦書きの明朝体で、『退職願』と記載されている。住愛地所の退職願のフォーマットで、日付と氏名の欄はまだなにも書かれていない。

 いや……。

 これを出す勇気なんて、まったく無い。

 もし本当に会社を辞めたいのなら転職先を見つけてからだ、っていうことは、どこの転職情報サイトにも書かれていることだし。

 それに、たった入社二年目で辞めるなんて、単なる逃げだと思う。一度逃げ癖が付いたら、後はなにかある度に、ひたすら逃げる人生になってしまうんじゃないかという恐怖を感じる。

 その一方で、会社から与えられた仕事を全うするということは、このビルに集まった人達をだまし続けるということになってしまう。

 どうすればいいんだろう。

 どうすれば。

「仙川さん、いかがいたしましたか?」

「……ひゃっ!?」

 そのとき、突然、何の前触れも無く、横から飛田さんの顔が現れた。驚きの余り、椅子ごと後ろに引っ繰り返りそうになるのを、飛田さんが片手で支えてくれる。

「申し訳ありません。ノックをしたものの、お返事がないもので」

「す、すみません……」

 私はバツが悪くなり、ぺこりと頭を下げる。

「いえいえ、仙川さんが謝ることではありませんよ」

 と、そこで突然、飛田さんの言葉が途切れた。

 そして、おもむろに手がデスクの上に伸びる。

「あっ……」

 とっさに隠そうとしたけど、既に時遅し。

「……退職願。……住愛地所株式会社 総務人事本部人事部長殿……?」

 飛田さんが退職願を手に読み上げて、「あれ」とつぶやく。

 私の顔からみるみる血の気が引いていく。

 ばれた…………。

 こんなにも、あっさりと……。

 これで終わりだ。なにもかも。

 なんで私はこんなところまで間が抜けているんだろう。

 よりによって、一番見つかってはいけない管理人さんに見つかるなんて……。

 私は飛田さんをはじめとした、このビルの人達からは白い目で見られ、罵られながら、明日にでも荷物をまとめてここを出て行かなければいけない。

 飛田さんの声がどこか遠くから聞こえてくるような気がする。

「ここ数日、元気が無いようでしたから、気になって伺ったのですが、なるほど、こういうことですか」

 私はそれに対してなにも答えることが出来ずに、ただ青白い顔で黙り込んでいるだけ。

 飛田さんの声は優しいが、内心はすごく怒っているのかもしれない。

 顔が直視出来ず、俯く。

 とはいえ。

 このまま黙っていたかったけど、そういうわけにはいかない、とも思った。半ばやけっぱちになったのと同時に、ばれた以上は、せめて最低限の礼儀として、きちんと謝らなくちゃいけないと思ったからだ。

 私は意を決すると、恐る恐る顔を上げ、それでも飛田さんの目を見ることは出来ずに小さな声で言った。

「あの……、申し訳ありませんでした……」

「一体、どうしたのですか?」

 きょとんとした顔で首を傾げる飛田さん。

「私は……、本当は住愛地所の社員で、ここには実は業務命令で来ていまして……」

「ああ、そうなんですね。では、サクラマチ企画は、住愛地所さんの関係会社なんでしょうか」

「そうなんですが……、でも、そうでないというか……」

 あれ、と思う。なんかちょっと会話がかみ合っていないというか……。

「それで、どうして仙川さんが謝られるんですか?」

 飛田さんは少し困ったように頭を掻く。

「えっ……」

「ん」

 お互いに戸惑いながら見つめ合ってしまう。

 私は慌てて両手を振り回しつつしどろもどろで言う。

「そうですね、ええと、あの……、ここの土地の再開発ですが、住愛地所が推進している事業で、それで、私はそこの社員なわけで……」

「ああ、なるほど。言われれば、確かにそうでしたね」

「それで、再開発の障壁になっているこのツバメビルの立ち退きを推進するように言われてここに来て……」

「ああ、そういうことですか……! それで色々、納得がいきましたよ。つまり、仙川さんはスパイみたいなものなんですね」

 満面に笑みを浮かべた飛田さんが、ぽんと手を打って言った。

 私は呆気にとられる。

「気付いていたんですか?」

「いえ、全然。ですが、仙川さんは、時々思い詰めたような顔をしていらっしゃいました。なにか訳がありそうだな、とは思っていましたので」

「あの……、怒らないんですか?」

「怒る? なぜでしょう?」

「いや……、なぜって……」

 わけがわからず混乱していると、不意に飛田さんが私から離れ、窓の傍に積まれたままの段ボール箱に背をもたれさせた。

 窓から差し込んだ月明かりが、彼のやさしげな表情を照らし出し、その光景に何故か私はどきりとする。

「仙川さん」

「……は、はい……」

「失礼ですが、住愛地所には、どのくらいの年数、いらっしゃるのですか?」

「え……」

 一瞬、戸惑う。一体なにを言い出すんだろう。

「ええと、新卒で入って、二年目です……」

「そうですか」

 と、飛田さんは、一瞬だけふと、何故か寂しそうな表情を見せたものの、すぐに、微笑んでみせた。

「その仕事、僕にお手伝いさせていただけないでしょうか。若いうちはなによりも成功体験が必要ですし」

「…………へ?」

 今、なんて言った? 手伝う……?

 聞き間違いじゃないだろうか。

 と、飛田さんが少し困ったような顔をして、

「ああ。いきなりお手伝いする、なんてことを言い出したら、それは戸惑われますよね。お返事は後日で結構ですので」

 聞き間違いじゃない。

 とすると、……いや、だって、それって、その意味って。

「あ、あの……!」

「はい?」

「私はその、ツバメビルを潰そうとしているんですよ。それなのに……」

 飛田さんは、にこにこ笑いながら私を見る。

「そうですね。矛盾していますよね。ですが、仙川さんを見ていると放っておけないという気持ちの方が先に来てしまいまして」

「…………?」

「実は僕は、四菱不動産の出身なんですよ」

「え……?」

 私は度肝を抜かれる。

 四菱不動産は、その名の通り、四菱グループの一角を成す大企業であり、業界第一位のディベロッパーだ。ちなみに住愛地所は業界第三位。

 理解が追いつかない状況ながらも、私は一番気になったことを聞いてしまう。

「し、失礼ですが、どうして、四菱不動産ご出身の方がこんなところに……。というか、そもそも、なんで、四菱なんてすごいところを辞められてしまったんですか? あそこでしたら世界的に大きなプロジェクトに関われますし、こう言ったらあれですが、お給料もすごくいいと思いますし……」

「そうですね。ある日、ふと、日本酒の蔵元巡りの旅に出たくなりましてね、それで辞めたんですよ」

 冗談か本当かわからない答えに戸惑っていると、飛田さんは少しだけ真顔になって言った。

「ですから、業界の後輩である仙川さんを見ていると、他人事とは思えないんです。特に二年目は成功体験を積んでいく大事な時期ですし、仙川さんには、与えられた仕事を全うして貰いたいと思ってしまったのです」

 なにを言えばいいのか、言葉が出てこない。

「立ち退き交渉も立派な仕事です。仕事はきれいごとだけじゃ済みません。泥水を啜るような経験をすることだって必要なときもあります。仙川さんは、多分、今がそのときなのです」

 そして、短くため息を吐くと、細い眉を八の字に曲げて言った。

「勿論、僕も、そして芦花さんも柴崎さんにも生活がありますから、すぐにここから出て行くことは出来ません。皆さん、お仕事を軌道に乗せるには、ここで三年くらいは商売を続ける必要があると思います。正直、どうすればいいか、という解を、今は持ち合わせていないというのが本当のところです」

「…………」

 私は呆けたように飛田さんの顔を見ているほかない。

「それに、仙川さんをツバメビルの一員として迎え入れた以上、僕はツバメビルの掟に則って貴女と接しなければいけないんです」

「掟……、ですか……?」

「ええ。僕は亡くなられた大家さんにこの建物を譲り受けるときに言われたんです。ここはツバメビル、すなわち、『ツバメの巣』。雛鳥を中途半端な状態で放り出すことだけは、絶対にしてはいけない、と」

 飛田さんの澄んだ瞳が、私の目を射貫くように見つめている。何故か、視線を逸らすことが出来なかった。

「だから、僕は、仙川さんと一緒に解決策を見つけていこうと考えています。仙川さんが、ここから無事に巣立つことが出来るように」

 飛田さんはそう言い、段ボール箱から離れてこちらに近付いて来ると、私の顔を覗き込むようにして微笑んだ。

 思わずどきりとする。

「さて。辛気くさいお話はここまでにいたしましょう。仙川さん、これから、少し上で飲んでいきませんか? 新しく入った日本酒の感想を是非、お伺いしたくて。飲み口がフルーティで女性に人気があるということです」

「え、ええと……、は、はい……」

 私はこくりと頷くしかない。

「それと、夕飯もまだですよね。よろしければご一緒に。本日は感想を伺う代わりに、サービスさせていただきますので」

 飛田さんに促され、私は事務所の外へと出る。

 そのとき、何故かふと気になって後ろを振り向くと、窓越しにピンク色の花びらが一枚、木の枝から離れて飛んでいくのが目に入った。それはまるで桜の季節の終わりを告げるかのようだった。