プロローグ



 死神――それは死を司る存在。

 死の告知や魂の管理をし、時には人の死を左右する。


 タロットカードでは不吉な予兆を示すが、図柄の向きによって《再生》、《しきり直し》を表すことがある。



1日目 七月一日(月曜日)

 校内に入ってきた少女が、『篠宮』の名札がついた靴箱に手をかけた。

 漆黒のストレートロングヘア、整ってはいるけれども陰気な暗い顔――事前に聞いていたとおりの外見。間違いない、彼女だ。

 橘英明は心臓が鼓動を速めるのを感じた。

 彼女は〝篠宮塔子〟だ。俺の大事な獲物――。

「篠宮さん、おはよう」

 英明は爽やかな笑顔を心がけながら、塔子に声をかけた。

 突然、背後から挨拶されて驚いたのか、塔子がぎょっとしたように振り返る。

 そして、英明を認識した途端、その目が大きく見開かれた。

 塔子の驚愕の表情に、英明は密かにほくそ笑む。

 ――そりゃ驚くよな。片思いの相手から声をかけられたら。

 友人からリサーチした情報によると、塔子は英明のことが好きらしい。そしてその情報は間違っていなかったようだ。

 恥ずかしげに目をそらす塔子に、英明は頬を緩めた。

 一年生ながらサッカー部のエースで長身のイケメン、しかも勉強もできる英明にとっては、女の子から思いを寄せられるのは珍しいことではない。

 だが、獲物が最初から気を許してくれていれば、問題解決のハードルは下がる。

 ――おまえの人生ってイージーモードだよな。

 中学のとき、クラスメイトの男子から妬ましげに言われた言葉が蘇る。

 イージーモードとは、ゲーム開始から装備が恵まれていたり、敵が弱くて攻略が容易な難易度の低い設定のことだ。

 そのとおりだと思っていた。昨晩、死神に会って死を予告されるまでは。

「偶然だね。教室まで一緒に行ってもいい?」

 英明はさっと塔子の横に並ぶと、彼女の顔を覗き込んだ。

 塔子は英明と目が合うと、気後れしたかのように目を伏せる。

「……いいけど」

「よかった! 俺、一組の橘英明っていうんだ。篠宮さん、七組だよね?」

 塔子が小さく頷くと、くせのない髪がさらさらと肩から滑り落ちた。

 慎重にいかねばならない。

 人気者の英明に急に呼び止められ、塔子は怯えと警戒をあらわにしている。

 笑顔で話しかけながら、英明はそっと塔子を観察した。

 なかなかの美人だが、とにかく翳りがあるというか陰鬱さを纏わせている。一緒にいるだけで気が滅入りそうだ。

 今までの自分ならば、視界にすら入れなかったタイプの少女だ。事実、同学年で同じ学校なのに存在を知らなかった。

 昨日、死神に教えてもらうまでは――。

 何とか塔子の心を手に入れなければならない。それが英明に残された唯一の救いだ。

 なぜなら、彼女は大事な〝獲物〟。身代わりの生け贄なのだ。

 塔子の命を捧げ、俺は生き残る――。

 そう、俺はさしずめ《塔子の死神》といったところか。たった一週間だけの。

 英明は、昨日死神と出会ったときのことを思い浮かべた。





「ねえ、聞いてるの英明!」

 田園都市線の電車に揺られながら、車窓を眺めていた英明ははっとした。

 青みがかった榛色の華蓮の目が、非難するように自分を見ていた。

「ごめん、ぼうっとしていた」

 華蓮がむっとしたように唇を尖らせ、艶やかな栗色のストレートヘアをかき上げる。

 車内の人の視線がちらちらと華蓮に向けられる。英明は密かに満足感を覚えつつも、同時に華蓮に対する苛立ちが込み上げるのを感じた。

 スウェーデン人の母と日本人の父を持つ三島華蓮とは、付き合いだして半年たつ。

 以前なら可愛く思っていた身勝手さや甘え癖を疎ましく思うことも増えてきた。

 すれ違った人が振り向くほどの美人でなければ、とっくに別れている。

 華蓮は彫りの深い顔立ちをした、モデルもしている美少女だ。

 身長は高校一年生にして百六十八センチあり、華蓮曰く『ヒールを履いた私より背の低い男とは付き合わない』のがポリシーだそうだ。

 英明の身長は現在、百八十一センチ。まだ伸び盛りとあって、華蓮のお眼鏡にかなったらしい。

 英明は自慢できる華やかな容姿を持った子しか恋人に選ばなかったので、外見重視なのはお互い様だ。

「ねえ、もうちょっと遊んでいかない?」

 華蓮の住む二子玉川が近づいてきて、あともう少しで解放されるとほっとしたのも束の間、物足りないのか華蓮が声をかけてきた。

「いや、俺明日から期末試験だから」

 何度もそう繰り返しているというのに、華蓮はふて腐れたように横を向いた。

 彼女は都内の有名インターナショナルスクールの生徒で、私立高校に通う英明とはカリキュラムが全然違う。学校はもう夏休みに入っているとかで気楽なものだ。

 英明をあちこち連れ回したがって、正直今日は疲れてしまった。

「じゃあ、七日の七夕祭りは絶対に連れていってね!」

 二子玉川の駅に着くと、華蓮が念を押してくる。

「わかったよ。じゃあな」

 英明は投げやりに言うと、電車を降りた華蓮に手を振った。

 扉が閉まって電車が動き出すと、英明はようやく息をついた。

「あーあ、疲れた……」

 午後八時を過ぎ、車窓から見る景色はすっかり夜の帳が降りていた。

 十分ほど電車に揺られ、英明は最寄り駅で電車を降りた。

 エレベーターに乗って改札階に上がると、三フロア分吹き抜けになっているドーム型の広々とした天井が遙か頭上に見える。開放感とともに、ようやく帰ってきたという気持ちが押し寄せてきた。

 明日から七月ということもあり、湿気を含んだ生ぬるい空気が夜の街を包んでいる。

 いつから夏が来るのが、こんなに早くなったのだろう。

 駅を出ると、英明は並木道を足早に歩いた。

 家に帰ったら、軽くテスト範囲を復習して寝ようと決めていた。

 もともとトップクラスの成績を誇っており、授業を聞いているだけで大抵の問題が解ける。ただ、暗記物には目を通しておきたかった。

 雑踏を人を避けながら歩いていたとき、パキンという薄い氷を割ったような澄んだ音が響いた。

「――あ?」

 突然、ひんやりとした空気に体が包まれる。

 人のざわめきや車の音が嘘のように消え、完全な静寂が訪れた。

 それだけではない。自分以外のすべてが動きを止めていた。

「なんだ、これ……?」

 まるで時間が止まっているかのようだ。いや、実際に止まっている。

 動いているのは自分だけだ。

 そう思ったとき、ゆっくり一人の男が近づいてきた。手にはタブレット端末らしきものを持っている。

「やあ、初めまして」

 声をかけてきたのは、黒っぽいスーツに黒いネクタイをした、どこにでもいるような会社員風の男性だった。年齢は不詳で、老けた二十代にも若めの五十代にも見える。

 黒い髪はオールバックに撫でつけられ、不自然なほどつるりとした肌をしている。

 下弦の月のような鋭く細い目が、英明を捉えた。

 ざわり、と胸が騒いだ。

 身長はわずかに英明のほうが高い。だが、英明の足は自然と後ずさっていた。体が本能的にこの男と距離を取りたがっている。

「きみ、橘英明だね?」

 そんな英明を気にする様子もなく、スーツ姿の男は淡々と話しかけてきた。

「そうだけど……?」

「きみの死期について話しに来ました」

「しき……?」

「そう、きみの死についての告知です」

 死期か。英明はようやく漢字に変換できた。

 まだ十六歳の自分と、〝死期〟という言葉が結びつかなかった。

「今、私たちは《時間の狭間》にいます。動けるのはこの隔離された空間、半径二メートルくらいの場所だけ。時の流れは止まっているから、安心してくれていい」

 とても安心できない状態だったが、周囲と隔絶されている理由は一応わかった。

「あんたはいったい……」

「私はいわゆる《死神》と呼ばれる存在です。ある条件下において、死期を告げたり、死者の魂を回収したりする仕事をしています」

「死神……?」

 とっさに浮かんだのは、黒いフードコートを被った骸骨の姿だった。

 目の前にいるのは、普通の会社員の男に見える。だが、えもいわれぬ恐ろしさ、理解の範疇にない存在感は肌で感じ取っていた。

 信じられないが、実際、自分たち以外は誰も動いていない異常事態のなかにいるのは間違いない。

「奇声を上げたり、騒ぎ立てたりしないんだね。理性的に振る舞ってもらえるのは有り難い。こちらも一応告知義務があるからやっていますが、まともに話も聞けない輩がいますんでね」

 ふうっとため息をつくその姿から、多少勤め人の哀愁が感じられるが、人のように見えて人ではないという、おぞましさは変わらない。

 いっそ、人ではない姿をとってくれていたほうが安心できる。

 英明は鳥肌の立っている腕を無意識にこすった。

「きみは一週間後に死ぬことになっています。正確には七月七日、棚橋町の七夕祭りの花火が終わる頃ですね」

「七夕祭り……?」

 英明は神奈川県川崎市にある棚橋町の高校に通っている。

 棚橋町は、渋谷まで電車一本で出られる便利なベッドタウンだ。英明の住む駅から電車で十五分ほどの場所で、毎年七月七日に七夕祭りが行われる。

 今年は三十周年ということで、様々なイベントや祭りのフィナーレを飾る花火を大々的に行うらしく、華蓮が行きたいと帰り際に念押しをしてきたお祭りだ。

「俺が死ぬ……? なんで?」

「それは明かせません。ただ、きみはラッキーなことに、特別救済措置の条件を満たしているので告知に来ました」

「特別救済措置……?」

「そう、きみはある少女を身代わりにすることができます」

「は?」

「身代わりには条件があり、まずは同じ生年月日であること、そして死にたがっている、つまり潜在的に自殺願望を持っている者であること。そして近くにいること」

 英明は混乱する思考を必死で落ち着かせた。

「……そんな都合のいい相手がいるってわけ?」

「同じ学校にいます」

 素っ気なく言うと、死神が手にしたタブレット端末を覗き込む。

「彼女の名前は『篠宮塔子』です」

「知らないな……」

 まったく聞き覚えのない名前だ。少なくとも、同じクラスにはいない。同学年らしいが、あまり目立たないタイプなのだろう。

「身代わりってどうやるんだ? 代わりに殺すのか?」

「七月七日、七夕祭りの花火が終わるまでに、彼女を丘の上公園に連れてくること」

「丘の上公園……?」

 その名のとおり、棚橋町の丘陵地帯にある公園だ。一度友達と行ったことがあるが、場所が場所だけに夜間の立ち入りは禁止されているはずだ。

「なんでその場所?」

「決定事項なので」

 にべもない。死神というより、融通の利かないお役所人間を相手にしている気分だ。

「そこに彼女を連れて行けば、俺は助かるの?」

「いえ、もう一つ条件があります。彼女に『命をあげてもいい』と言わせることです」

「はあ?」

 英明は思いがけない死神の言葉に呆然とした。

 一気にハードルが上がった。道理で話がうますぎると思った。

「見ず知らずの人間にそんなことを言うわけないだろ。要は俺は助からないってことかよ!」

「猶予は一週間あります」

 スーツ姿の死神は冷ややかに言う。

「その一週間で彼女と親しくなり、きみのために命を捧げると思わせればいいだけです」

「だけ、って、たった七日で!? そんなこと不可能だろうが!!」

 望みがあると一瞬期待しただけに、裏切られた気分でいっぱいになる。

「彼女は〝死にたがっている人間〟です。可能性はある。けれど、きみが諦めるというのでしたら、きみの希望を尊重します」

 死神の目は人間そっくりなのに、無機質で感情が読めない。まるでガラス玉をはめ込んでいるようだ。

「きみは特別救済措置を希望しますか?」

 死神にいきなり尋ねられ、英明はぐっと詰まった。

「そんな、いきなり言われても……! そもそも、おまえが本当に死神か証明されたわけじゃないだろ」

「信じられないのも無理はないですか……」

 面倒なことを言いだしたとばかりに、死神がタブレットを操作し始めた。

「では証拠を見せます。目の前の交差点で一分後に人と車の接触死亡事故があります。被害者は六十八歳の女性で名前は古川環。車は白のワンボックスカーでナンバーは横浜×××、な××-××。その目で確認してください」

 すらすらと自信ありげに述べる死神に、英明の心の秤が大きく傾いだ。

「では、《時間の狭間》をいったん解除します」

 死神の声と同時に、むわっとした夜の空気が押し寄せてくる。

 雑踏の賑わい、車の走行する音――一気に現実が戻り、英明は呆然とした。

 今のは、もしかして夢だったのか?

「ほら、ぼうっとしてないで交差点を見て」

 儚い望みは、無機質な死神の声にかき消された。

 スーツ姿の死神が隣に立っている。

 確か、六十八歳の女性が事故に――英明は目を凝らし、信号待ちをしている人の群れを見つめた。

 信号が青に変わり、人々が横断歩道を歩き出す。

 その先頭に小柄な初老の女性がいた。

「あっ――」

 声を上げる暇はなかった。

 信号を無視した白いワンボックスカーがまっすぐ突っ込んでくると、思い切り初老の女性を撥ね上げる。凄まじい衝撃音に、周囲から悲鳴が上がった。

 英明の目は無意識にワンボックスカーのナンバープレートに向けられた。『横浜×××、な××-××』という文字を虚ろな目で確認する。

 カチカチと耳障りな音がすると思ったら、自分の歯の根が合わない音だった。

「というわけで、私たち死神は死を予見できます」

 気づくと、英明は再び《時間の狭間》の中にいた。

 事故現場に駆け寄る人たちの動きが、一時停止された画面のようにぴたりと止まっている。ざわめきも熱気も遮断されていた。

「で、どうします? この空間は長くは維持できない。返答がないならば、拒否と判断しますが」

 熟考する猶予はないと言外に言われ、英明は追い詰められた気分で口を開いた。

 すべてが彼の予言どおりだった。とすると、自分の命があと七日というのも嘘ではないのだろう。

「……彼女を連れて行かなければ、俺は絶対に死ぬのか?」

「ええ、そのとおりです」

 死神のきっぱりした口調に、英明は選択の余地がないことを悟った。

 俺は死にたくない――生きているのが楽しいし、まだまだこれから、やりたいことがいっぱいある。将来の夢だって――。

「特別救済措置を希望する」

 英明が答えると同時に、死神がタブレット端末に指を触れた。

「特別救済措置希望、承りました。七月七日の夜、丘の上公園で待っています。何か質問は?」

 一気にまくしたてられ、英明は慌てた。

「その女の子を連れていって、俺に命を捧げると言わせればいいんだな?」

「ええ、そうです。花火が終わるまでに、彼女を連れてくればきみは助かる。そうでない場合はきみは死ぬ。たとえどこに逃げても、死神の鎌からは逃れられませんよ」

「わかった……!」

 鎌など持っていないくせに、妙に芝居がかった台詞を言うものだと内心呆れる。

 気づくと、もわっとした夏の空気が体を取り巻いていた。

 車の音、人のざわめき、汗の匂い――一気に感覚が戻ってくる。

 一瞬、あれは夢か幻だと思いそうになった。

 でも――英明はそっと腕を撫でた。この蒸し暑さのなか、まだ鳥肌が立ったままだ。

 そして背を向けたスーツ姿の死神が、立ち去りながら片手を上げるのが見える。

 救急車のサイレンの音が近づいてきた。

 明日、ニュースで被害者の名前と年齢を念のため確認はするが、その必要性はほぼないも同然だった。被害者の外見、車の外観とナンバー、すべて死神の情報と一致していた。

 つまり、彼は本当に死神で、あと一週間後に自分は死ぬということだ。

「う……っ」

 吐き気に襲われ、英明は体を折った。熱い塊がせり上がってくるが、えずくだけで何も吐くことができなかった。

 嫌だ、絶対に死にたくない。

 篠宮塔子――どんな子か知らないが、死にたいんだろう?

 だったら、その命、俺のために捧げてもらってもいいよな……?

 まずは彼女に関する情報を集めねばならない。どんな子なのか知らなければ、心を奪うことはできない。

 同じ学校というのは幸いだった。

 英明はスマホを取り出し、友人に電話をかけた。



 あれから篠宮塔子に関する情報をできるだけ集め――といっても、友達のいない彼女の情報は極端に少なかった――下駄箱で彼女を待っていたというわけだ。

 英明の考えた作戦はこうだ。


 まず、塔子に近づき、親しくなる。

 そして、自分に恋するように仕向ける。もしくは愛されるよう努力する。

 それと同時に、彼女の《死にたい理由》を探る。内容次第では利用できるからだ。


 一年七組の教室に着くと、英明はあらかじめ考えていた提案をもちかけた。

「篠宮さんって勉強が得意なんだってね?」

 これは昨晩、友達に電話をかけまくって得た情報だ。

「よかったらさ、試験勉強一緒にやらない? 一人だと最近、集中できなくてさ」

 英明に残された猶予はたった七日。

 そんな短期間に彼女を落とさなくてはならない。

 じわり、と焦りが顔を覗かせたが、英明は平静を装った。

 ガツガツ必死になればなるほど、女子は引き潮のようにすうっと距離を取っていく。

 無様に女の子に追いすがっては、邪険にされている男子を見てきた。

 俺は奴らとは違う。

 余裕をもって接することができるし、何よりこちらに好意を持っている女子を落とすことなど、赤子の手を捻るより容易い。

 ――そのはずだった。

 だが、塔子の冷ややかな目に英明はたじろぎ、思い違いをしていることに気づいた。

「何が目的?」

「え?」

「勉強を教えてほしいなんて……そんなあからさまな嘘つくなんて」

 英明は絶句した。

 確かに、英明の成績は学年でもトップクラスだ。

 だが、気になっている男子から誘われたら、普通は喜ぶものではないのか?

「でも、俺、今回は自信なくって――」

「作り笑い、気持ち悪いよ」

 塔子はばっさり斬って捨てると、足早に教室に入っていった。

 ぴしゃりと閉められたドアを、英明は呆然と見つめた。

 完全に下心があると見破られている。

 舐めていた――。

 英明は己の失策を認めるしかなかった。

 密かに死にたいと思っている孤独な少女。そんな少女が片思いの相手――しかも有名な人気者だ――から話しかけられれば、舞い上がると思い込んでいた。

「くそっ」

 小さく呟き、英明は廊下を歩き出した。

 人付き合いは第一印象が肝だというのに、いきなりマイナスからのスタートだ。

 これは作戦を修正する必要がある――。



「おい、どうしてくれるんだよ」

 試験一日目が終わるや否や、英明は帰り支度をしているクラスメイトの芹沢諒の肩をつついた。

「何が?」

 諒がきょとんとする。よく大学生に間違われる切れ長の目をした大人びた顔が、こういう表情をすると同年代に見える。

「おまえの情報、間違ってたぞ」

「試験のこと?」

「ちーがーう! ほら、昨日電話しただろ。篠宮塔子のことだよ」

「彼女がどうかした?」

「おまえ、塔子が俺のこと好きなんじゃないかって言ってただろ?」

「ああ、あれかあ」

 教室を出る諒の横に慌てて並ぶ。諒も長身なので、目線が同じになって話しやすい。

「結構有名な話だよ。彼女、女子にしては珍しい一匹狼タイプで他人に興味なさそうなのに、放課後おまえのこと見てるって」

「有名なのか?」

 英明は驚いた。死神に言われるまで、自分は塔子のことを何も知らなかった。

「彼女、わりと綺麗な子だから、気にしている男子が多いんだよ」

「そうなのか……でも、俺は全然見たことがないぞ」

 英明の言葉に諒は苦笑した。

「見てるって言っても、例のファンたちみたいにグラウンドで騒ぐんじゃなくて、離れたところから見てるからな」

 一年生ながらサッカー部のエースである英明には、ちょっとしたファングループがついている。

 精一杯着飾って、英明の注意を引こうと甲高い声援を送る少女たちは可愛い。

 だが、英明が十把一絡げの彼女たちを恋人にすることは決してないだろう。

「で、何が間違ってるんだ?」

「いや、だからさ。彼女が俺に好意を持っていると思ってたのにさ」

 仲の良い友達とはいえ、この言葉を言うのは英明のプライドをいたく刺激した。できるなら話したくないが仕方がない。

「……気持ち悪い、って言われた」

 諒が目を丸くしたあと、ぷっと吹き出す。

「なんだよ、笑い事じゃないぞ」

「いや、バチが当たったんだろうな、って」

「は?」

「あんなに美人な彼女がいるのに、他の女の子にちょっかいかけるからさ」

「そういうのじゃねえんだよ……」

 別に恋愛とかじゃなくて、死神の標的なんだ――とはとても言えない。

 しかし、諒の話を聞いていると、塔子はやはり自分に興味を持っているようだ。

 なのになぜ、あんな素っ気ない態度を取るのか理解に苦しむ。

「でもおまえ、よく他のクラスの女のことまで知ってるな。しかもあんな地味な」

「偶然、美化委員会で一緒になったんだよ」

「おまえ、美化委員だっけ?」

「ほら、誰もやりたがらなくて、ジャンケンして負けてただろ」

「そうだっけ……」

 委員決めなどまったく興味がなかった英明は、首を傾げた。

「それはともかく、来月のキャンプ、おまえも行くだろ?」

「ああ」

 そういえば、クラスメイト数人とキャンプに行く計画が持ち上がっていた。

「ライングループ作っておいたから、連絡事項チェックしておいてくれよ!」

「わかった」

 正直それどころでないので、英明は適当に返事をしておいた。

「あ、噂をすれば華蓮ちゃんからラインが来たぞ。もっと恋人を大事にするように言っておいて、って」

 諒が印籠のようにかざしてきたスマホから、英明はうんざりと目をそらした。

 華蓮は人脈を広げるのが大好きなタイプで、お互いの友達を連れて遊んだりもする。

 なので、英明が連れてきた諒とも連絡先を交換していた。

 お互いを見せびらかすのが快感なので、特に気にしてもいなかったが、共通の友人がいるとこういうとき面倒だ。

 諒と駅の改札で別れ、ホームで電車を待つ間ため息がもれる。

「どうするかな……」

 本当は、帰りに塔子を誘うつもりだった。

 だが、朝の反応を見てやめた。しつこくして、決定的に嫌われたら大変だ。

 とりあえず、初日は顔見せ。引くことも大事だ――というのは言い訳だ。

 自分は欺けない。女の子から面と向かって『気持ち悪い』と言われたのが、想像以上に堪えている。

「はあ……」

 電車に乗り、最寄り駅で降りると英明は家に帰った。

 英明の家は二階建ての一軒家だ。御影石や天然木でできた、落ち着いた風合いの建物で、庭が広く取られている。

 高級住宅街のなかでも、ひときわ立派な邸宅だと自負している。

 重たい気分で玄関のドアを開けた英明を迎えたのは、目を輝かせてこちらを見ている弟の智明だった。

「兄ちゃん、お帰り!」

「お、おう……」

 いきなりの出迎えに、英明は意表を突かれて戸惑った。

「おまえ、ちょっと痩せたか?」

「えっ、そう? 日に焼けただけだと思うけど……あ、身長がちょっと伸びた!」

 智明が丸い目をくるくると動かす。英明と同じくサッカーをやっている智明は、元気いっぱいの小学五年生だ。

 智明の顔をちゃんと見るのは久々な気がする。

 靴を脱いで、洗面所で手を洗う英明を、智明がそわそわと窺ってくる。

「なんだよ?」

 手を拭いて洗面所を出ると、智明が意を決したように口を開いた。

「友達がさ、新作のゲームを貸してくれるっていうんだ。合わなかったみたいで、もうやらないからって」

「……」

 キッチンに足を向けた英明のあとを、智明が慌ててついてくる。

「それでね、兄ちゃんがいないときにプレステ4を貸してほしいんだ」

「ダメ」

 にべもない英明の言葉に、くしゃっと智明の顔が歪んだ。

 だが、英明は頓着せず、キッチンの冷蔵庫から麦茶を取り出すと、グラスに注いだ。

「いいじゃん。兄ちゃん、最近ゲームやってないし……」

「あら、お帰り!」

 リビングでくつろいでいた母が笑顔を向けてくる。マキシ丈のワンピースを着たすらりとした姿は、とても高校生の息子がいるようには見えない。四十を過ぎているものの、生来の童顔のおかげか姉に間違えられることすらある。

「今日は早いのね。お腹すいてる? おやつあるわよ」

 いそいそと立ち上がろうとする母親に手を振り、英明は渋い顔で断る。

 母は過保護ぎみで、何かと世話を焼きたがるのが鬱陶しい。

「ねえ、兄ちゃんってば!」

 智明が我慢ならないというように、急に大声を出した。

「なんだよ」

 麦茶を飲み干し、英明は冷ややかに五歳年下の弟を見下ろした。

「ゲーム機貸してよ」

「絶対ダメ」

 すげなく言うと、智明の表情がみるみる曇っていく。

「英明、意地悪言わないで貸してあげたら?」

 取りなすように言う母を、英明は思い切り睨み付けた。

「こいつ、前に俺の3DS壊したんだよ? 忘れたの?」

「そんなの、何年も前の話じゃん! 大事に使うから……」

「PS4は五万もするんだぞ? しかも限定のコラボ機なんだよ。そんなに欲しいなら、誕生日プレゼントにでも買ってもらえよ」

 ちなみに、英明は祖父に買ってもらった。祖父は現在、父に社長職を譲って会社の会長となり、悠々自適の生活を送っている。

 祖父は初孫の英明をことさら可愛がってくれていて、びっくりするほどの額のお年玉やお小遣いをポンとくれるし、ねだれば大抵のものは買ってくれるのだ。

「しょうがないわね……。お小遣いを貯めて買いなさい」

 母からの追い打ちに、智明の目が潤み、ぽたぽたと大粒の涙がこぼれ落ちた。

「もういいよ!」

 わっと泣きながら出ていく智明に、英明はため息をついた。

 小学生の我が儘に付き合う余裕など自分にはないのだ。

 英明はさっさと二階に上がり、自室に入った。

 そのとき、スマホが着信を知らせてきた。取り出して見ると、そこには『華蓮』という名前が表示されていた。

「面倒だな……」

 つい衝動的に、別れを告げてしまいたくなる。中学時代も我が儘な美人とばかり付き合って、三ヶ月ほどで別れるのを繰り返した。

 だが、華蓮は外見やステータス、人脈が、これまでの恋人の中で群を抜いている。なかなか手に入らないレベルの女の子だから、それなりに大事にしておくべきだ。

 たとえ『試験中は勉強に集中したい』と何度も伝えても、無視する相手だとしても。

 とりあえず、『忙しくてごめん!』とラインの返事を送っておく。

 華蓮はむくれるだろうが、一応筋は通した。華蓮には取り巻き連中がいるから、そっちで暇つぶしをしてもらえるとありがたい。

 すぐさま華蓮から返事が来る。


 ――わかった。でも七日の七夕祭りは絶対エスコートしてね!


 普段なら、あの華蓮にしてはよく我慢したな、と思えただろう。

 だが、〝七夕祭り〟という文字を見た瞬間、胃にずしりと重みが増した。

 無難な返事すら返す気が起きず、英明はスマホをベッドに放り投げた。

 余計なことに気を回している暇はない。

 篠宮塔子を落とすための作戦を考えねばならないのだ。

 リミットがあるので時間をかけて信頼を勝ち取るという手段はとれない。

 半ば強引にでも、塔子のパーソナルスペースに食い込んでいく必要がある。

 考えろ、行動しろ、そしてチャンスを得るんだ。

 今日を入れて残り七日――なんとかしなくては。

 彼女に近づき、心の鍵を開け、愛されなければ俺は死ぬ――。

 ぐっと喉を掴まれたような感覚に襲われる。

 そのまま夜の海へと引きずり込まれていく気分だ。光の差さない、暗い暗い水底へぐいぐいと容赦なく落ちていく――。

「……っはあ!!」

 過度のストレスで息が止まってしまった。

「……うっ、ゲホッ!!」

 英明は深呼吸をしようとし、盛大にむせた。

 あまりの恐怖に体が反応したようだ。

 苦い唾を何度も飲み込んで、呼吸をようやく整える。

 ダメだ。こんなんじゃ。必死になって追いかければ、相手は怯えたウサギのように逃げていくだろう。

 いったん、忘れるんだ。死神との契約とか、七日後に死ぬとか。

 篠宮塔子を七日で恋に落とす――。

 それだけを考えるんだ。

 これはゲーム。七日間で目当ての女の子の心を奪い、秘密を探るという恋愛ゲームだ。

 手の震えが徐々に収まってくる。

 オーケイ。大丈夫だろ? おまえなら、きっとやれるさ。

 自分自身を叱咤激励し、英明は背筋を伸ばした。



2日目 七月二日(火曜日)


 試験二日目の朝は薄曇りで日は差していないものの、相変わらずむっとした暑さが漂っている。間もなく梅雨明けのはずだが、空気はまだしっかり湿り気を帯びていた。

「おはよう!」

 登校していた塔子に声をかけると、あからさまに顔をしかめられる。

 英明は気持ちを新たに早めに登校し、校門の前で待ち伏せたのだ。もう塔子の外見は覚えたから、下駄箱で張る必要はない。

「何か用?」

 塔子は挨拶を返さず、詐欺師を見るかのような胡散くさげな視線を投げて寄越した。

 その口調からも態度からも、好意どころか敵意すら感じられる。

 胸にひんやりしたものが走ったが、ここで折れるわけにはいかない。

「きみと友達になりたくて」

 なりふりなど構っていられない。

 素っ気なく歩いていく塔子のあとを、英明は慌ててついていった。

 女を必死で追いかけるなんて、こんな惨めったらしいことをなんでこの俺が――。

 苛立ちが膨れ上がるが、ぐっと吞み込む。

 英明は母鳥のあとを必死でついていく子ガモのように、スタスタ早足で歩く塔子をひたすら追っていく。

「なあ、待ってよ!」

 我慢しきれず叫ぶと、近くにいた生徒の注目が一気に集まった。

「……!!」

 周囲の好奇の視線に耐えきれなくなったのか、塔子が足を止めてようやく英明と目を合わせた。

「だから、なんで私?」

 真っ正面から塔子を見た英明は、改めて綺麗な子だと再確認した。

 日陰の花のような暗い雰囲気はいただけないが、確かに惹かれる男がいるのもわかる。あと数年もして磨かれたら、はっとするような美人になるんじゃないだろうか。

 そんな悠長なことを考えている場合ではないと、英明は自戒した。

 ここで何か、塔子の心を動かす言葉を言わなければならない。

 だが、焦るばかりで、口から言葉が出てこない。

 何か言わなくては。ほら、彼女が不審そうな顔をしている。

 何か、彼女だけの特別な何か――。

「一人でいるから」

 とっさにその一言が、英明の口からこぼれ出た。

 一瞬やらかしてしまったかと思ったが、塔子は機嫌を損ねるわけでもなく、探るようにじっとこちらを見つめたままだ。

 よし、まだチャンスはある!

「ほら、女子って一人でいるのを嫌がるよね? きみは別に周囲に嫌われているわけでもなく、嫌な奴でもないのに、なんでいつも一人なのかって気になってて……」

 英明は自分の心の思うままに話し始めた。

 実際、そのことが気になっていたのは事実だ。

 すると、塔子の完璧なポーカーフェイスに細いひびが入った。

 彼女の目が不安げに揺れている。

 お、脈あり?

 ぶ厚い灰色の雲の間から、ぱあっと晴れ間が見えた気分だ。

 ようやく、鉱脈を掘り当てたかもしれない。

「そんなの、あなたに関係ないでしょ」

 突き放すような言葉だったが、これまでよりも明らかに弱々しいトーンだ。どうやら苦し紛れの言葉が、塔子の心に一石を投じたらしい。

 彼女の心に小さい波紋が広がっているのが、ありありと伝わってくる。

 英明はガッツポーズをとる代わりに、しおらしい表情で話しかけた。

「そのとおり。でもさ、俺はきみのことが気になるんだよ。きみは俺のこと、気にくわないかもしれないけどさ……チャンスが欲しいんだ」

 塔子は黙って聞いている。もう一押しだ。

「友達になれないって判断するのは、話してみてからでもいいんじゃない? それとも、先入観や第一印象で門前払いする主義?」

 最後はちょっと強めの言葉を使って挑発を試みる。

 彼女が自分に誇りを持っているタイプならば、違うと否定したくなるだろう。

 賭けになるが果たして――。

「……はあ」

 塔子が深々とため息をつく。

 英明は塔子を慎重に観察した。

 昨日からずっと気になっていたのだが、塔子は自殺願望があるように見えない。

 これだけプレッシャーをかけているのに落ち着いている。自分をしっかり持っていて、頭の回転も速そうだ。

「……テストが始まるから行かなきゃ」

「うん。考えといて」

 英明はその返答を、さも前向きに捉えたように微笑んだ。

 これで終わりじゃない、と塔子に釘を刺すために。



「試験、どうだった?」

 下駄箱で待ち伏せして声をかけると、塔子がぎょっとしたように足を止めた。

 試験が終わってすぐ、走って下駄箱に先回りした甲斐があった。

 塔子も小走りにやってきたからだ。

 簡単に逃げられると思うなよ。こっちは命がけなんだ。

 そうまくしたててやりたい気持ちを堪え、英明は笑顔を浮かべた。

「一緒に帰らない?」

「……あなた、ストーカー?」

 呆れてはいるが、塔子に怯えている様子はないので英明はほっとした。

 怖がられて教師でも呼ばれようものなら、おおっぴらに近づきにくくなる。

 粘り強く、だが、怯えさせず――この案配が難しい。

「言ったろ? 友達になりたいって」

 微笑みかけてみたが、塔子に響いた様子はない。それどころか、塔子は露骨に唇を歪めた。

 英明は解せない気持ちでいっぱいになった。

 よしんば諒からの情報が間違っていて、塔子が俺のことを好きではないとしても、自分のようないい男にアプローチされて、なぜこんなに冷ややかに対応できるのだ。戸惑いつつも喜びを隠せないのがあるべき姿だろう。

「あなた、すごく綺麗な彼女がいるんだってね」

 思いがけない方向から飛んできたパンチに、英明は絶句した。

 どうして塔子が他校にいる華蓮のことを知っているんだ?

 沈黙を肯定とみなした塔子が、軽蔑まじりの目を向けてきた。

「なのに私にしつこく声をかけるなんて……馬鹿にしてるの?」

「あー……」

 英明はようやく周囲から向けられる視線に気づいた。特に女子たちがあからさまにこちらを見てひそひそ話している。

 確かに華蓮の存在を隠していたわけではないから、知っている奴もいるだろう。自分でも目立つカップルだというのは自覚している。

 英明が塔子に近づいているのを見て、誰かお節介な奴が塔子にご注進したのだろう。

 だが、残念だったな。ある意味俺は後ろ暗くない。

 本当に浮気ではないのだから、堂々としていればいい。

 これは恋愛に見せかけた、獲物を落とす、死神のハンティングゲームなのだから。

「彼女がいたら、他の女の子と喋っちゃダメなのか?」

「えっ……」

 今度は塔子が絶句する番だった。

 まさか、英明が気後れすることなくまっすぐ視線を返すとは思っていなかったのだろう。明らかに出鼻をくじかれている。

「友達付き合いは自由。俺たちはそうしている。彼女は異性同性問わず、たくさん友達がいるんだ。俺が女友達を作ったとしても、それは裏切りにならない」

「……私はそういうの苦手」

 塔子はそう言うと、さっと顔をそむけた。そのまま靴を履き替えて逃げるように出口に向かっていく。

 英明は余裕をもって、ゆったりと足を進めた。

 よし、流れは悪くない。

 相手からの反撃も、見事に受け流した。急くことなくゆっくり仕留めるのだ。

 篠宮塔子の心を――。

 外に出た瞬間、塔子がぎょっとしたように足を止め、天を仰いだ。

 そう、先ほど急に雨が降り始めたのだ。もちろん、英明に隙はない。

 さっとカバンから折り畳み傘を取り出すと、英明は塔子の横に並んだ。

「家まで送っていくよ」

「いらない!」

 塔子が突然走り出した。どうやら、プレッシャーをかけすぎたようだ。

 この年で追いかけっことはな――英明はため息をひとつつくと地面を蹴った。

 この程度で諦めてたまるか。伊達にサッカー部で走り込んでいるわけではない。

 だが、塔子の足は思ったよりも速く、英明は慌ててあとを追う羽目になった。

 塔子は駅とは違う方向に進んでいく。どうやら高校まで徒歩で来ているらしい。

 十分ほどハイペースで走ると、急に塔子が足を止めた。

 無理をしたらしく、すでに息が上がって苦しそうだ。肩が激しく上下に揺れている。

 そして、恨めしそうに英明を振り返った。

 雨に濡れた黒髪を顔に数本張りつけ、荒い呼吸を繰り返す塔子はなかなか見応えがあった――そう、率直に言うと、なかなか美しかった。

 塔子がキッと英明を睨む。

「いい加減にしてよね! いつまでついてくる気よ?」

 それには答えず、英明は目の前の一戸建ての表札に目をやった。そこには《篠宮》と書かれていた。

「へー、ここが家なんだ。素敵なお家だね」

 別にお世辞ではなかった。二階建ての真っ白な外観の家はまだ真新しく、見るからにスタイリッシュな注文建築だ。家主はかなりセンスがいい。

「何なのよ、もう!」

「ほらほら、ずぶ濡れだよ」

 英明はさっと近づくと、塔子に傘を向ける。

「やめてよ! 近づかないで!」

 いきなり、塔子が英明の体を押した。

 細っこい見た目から想像もつかないほどの力で、油断していた英明は足を滑らせて後方にバランスを崩した。

 そして、そのまま英明は思いきり尻餅をついてしまった――水たまりの上で。

 一瞬にして冷たい水の感触が接触部から伝わってくる。これは下着までずぶ濡れだ。

「つめた……」

「ご、ごめんね! 大丈夫?」

 塔子が慌てて手を伸ばしてくる。焦ったあまり、つい力が入ってしまったようだ。

 英明は口を引き結び、その白い手を見つめた。

 これを僥倖と言わずして、なんと言おう。

 英明は遠慮なく塔子の手をぎゅっと握った。そして、彼女に体重をかけることなく自力で立ち上がる。

「あーあ、ぐしょ濡れだよ……」

 罪悪感を煽るように、さも困ったように言ってみる。

 絶好のチャンスについ頬が緩みかけるが、そこはぐっと我慢した。

 塔子はこれまでのクールな態度からは想像もつかないほど、おろおろしている。他人への暴力は、慣れていなければ相当心理的負担がかかるものだ。

「俺、家まで電車なんだよね……」

 心底困ったように言うと、塔子が観念したように傘を拾って玄関の門に手をかけた。

「……家に上がって。服、洗って乾かすから」

 英明は内心快哉を叫んだ。

 家に入ると、つやのある白いタイルが敷き詰められた三和土が目に入る。広々としたスペースはきちんと片付いていて、余計な靴が出ていない。

「ちょっと待っててね、タオルを持ってくるから」

 塔子が家の奥に走っていったので、英明は存分に玄関ホールを観察できた。

 円形の台座には季節の花が飾られ、壁には一幅の絵。きちんと置かれたスリッパ立て。フローリングの床には塵一つない。

 母親がよっぽど綺麗好きなのか、よく客が来る家なのかもしれない。何にせよ、住んでいる人間の質は良さそうだ。

「お待たせ。靴下を脱いだらこれで足を拭いて。洗面所に案内するね」

 言われるまま塔子のあとをついていく。家はしんと静まり返り、人の気配はない。

「ご両親は仕事?」

「……ここは伯父夫婦の家なの」

「え?」

 何気ない質問に驚きの答えが返ってきた。

「私は居候。ふたりは仕事よ。渋谷で法律事務所をやっているの」

「法律事務所……ってことは弁護士?」

「伯父さんが弁護士で、伯母さんが司法書士」

「そうなんだ」

 何気ない会話をしながら、英明は素早く頭を回転させた。

 伯父夫婦と暮らしているのか。思ったより複雑な家庭環境らしい。

 保護者が仕事でいないとすると、この家に二人きりということか?

 これは距離を縮めるいい機会だ。英明は密かにほくそ笑んだ。

 塔子が洗面所のドアを開けた。

「そこの台に着替えを置いてあるから。脱いだものは洗濯機に入れてね。洗って乾燥させるから」

「わかった」

 ドラム式洗濯機に目をやった英明は、何気なく着替えを手にした。

 えらく可愛らしいキャラクターの描かれたTシャツとジャージだ。男物のMサイズで英明には少し小さい。ボクサータイプのパンツは新品らしくまだタグがついている。

 洗面所のドアを閉めようとしていた塔子に、英明は思わず声をかけた。

「……この着替え、伯父さんの?」

「ううん、従弟の服。あ、でも下着は新品……」

「従弟!?」

 思ったより大きい声が出てしまい、塔子がぎょっとしたように英明を見た。

「な、何?」

「いや、ごめん。驚いて……」

 そうか、そうだよな。伯父夫婦の家に住んでいるということは、従弟がいてもおかしくない。

「従弟って年は近いの?」

 そう聞きながら、なぜか胸が波立つのを感じた。

「うん、同い年だよ」

「えっ! 同い年の男と同居してるってこと? やばくね?」

「やばくないわよ……昔から知ってるし、弟みたいなもんだから」

 訝しげに言う塔子から、恋愛経験があまりなさそうなことが見てとれる。

「桃くんが気になる?」

「えっ?」

「従弟は篠宮桃太っていうの。同じ学校なんだけど、今ね、学校に行ってないの。不登校中」

「そうなのか」

 同じ学校と聞いて少し驚いた。塔子と同じく、桃太という名前も聞き覚えがない。交友関係の広い諒なら知っているかもしれないが。

 しかし、まだ入学して四ヶ月というのに、もう不登校とは驚きを禁じ得ない。

 負け組、落ちこぼれ、という言葉がすぐさま脳裏に浮かんだ。

 だが、油断は禁物だと英明は自分を戒めた。ダメ男に母性本能をくすぐられる女性もいるのだ。いとこ同士は結婚できるし、安全牌と決まったわけではない。

「じゃあ、部屋に引きこもってるの?」

 塔子がこくりと頷く。

 人の気配がないと思ったが、家のどこかに従弟がいるらしい。

 道理で塔子が簡単に家に上げたはずだと、英明は少々落胆した。

 濡れた体をタオルで拭き、用意してくれた服に着替えると洗面所を出る。

 廊下で待っていた塔子が近寄ってきた。

「ごめん、サイズ小さかったね……Mサイズの服しかなくて」

「いや、大丈夫だよ。気にしないで」

 Tシャツはぴちぴちだし、ジャージはしっかり足首が出てるしと、決まらないことこのうえないが、乾いた服に着替えるとだいぶさっぱりした。

 しかし、本当ににこりともしない子だな……。

 ここにいたって、英明はその異様さにようやく気づいた。

 サイズの合わないキャラクターTシャツを着ている英明を見ても、塔子は笑うどころか感情をどこかに置いてきたかのような淡々とした反応しか返さない。

 今までは警戒されているせいかと思っていたが、この子は誰に対してもこんなふうに感情を見せないのかもしれない。

 ――彼女は《死にたがり》。

 死神の言葉が蘇ってくる。それはこの複雑な家庭環境と何か関係あるのだろうか?

「よかったら、服が乾くまで私の部屋へどうぞ」

 洗濯機をセットした塔子の言葉に、英明は目を剥きそうになった。

 付き合ってもいない男を、あっさり部屋へ招き入れるとは警戒心がなさすぎる。

 塔子に続いて階段を上がり、三階に来ると彼女が奥の部屋のドアを開けた。

「ここが私の部屋」

「桃太の部屋は?」

「向かいだよ、どうして?」

「……別に」

 一応、向かいの部屋に従弟がいるとはいえ、もう少し警戒するべきでは。客間やリビングに通すとか。

 挙げ句に英明が部屋に入ると、ちゃんとドアを閉める始末だ。せめてドアは開けておくべきだろう――と英明はそわそわしてしまう。

 いや、密室のほうが自分には好都合なのだが。

「あ、お茶持ってくるね!」

「お構いなく」

 来客に慣れていないのだろう。塔子が慌てたように部屋を出ていく。

「はあ……」

 英明は思わず息を吐いた。

 ゲーム感覚で成り行きを楽しんでいたようで、思ったより緊張していたらしい。

 英明は改めて塔子の部屋を見回した。

 塔子の部屋は、高校生の女の子としてはシンプルと言っていいだろう。余計なものがあまりなかった。

 スッキリした白い壁と天井に囲まれた八畳くらいの洋室は、淡いラベンダー色のカーテンやリネン類で統一されている。

 彼女の趣味か、それとも伯父夫婦が用意したのか。どちらにしても、好ましいセンスだ。

 勉強机には教科書やノート類が置かれ、その隣には本棚があった。

 壁に唯一飾られているのは、動物のイラストの描かれた数枚の絵はがきだった。

 外国の絵本に出てくるようなクマのイラスト、あとはウサギ――これは英明もさすがに知っていた。ポターのピーターラビットだ。

 英明は華蓮の部屋を思い浮かべた。

 天蓋付きのベッド、きらびやかなレースに飾られたリネン類やカーテン。

 ヨーロピアン調のドレッサーの前にずらりと並べられた、宝石のような飾りがついた派手な化粧品や香水たち。大量のアクセサリーが目の痛くなるような光をギラギラと放っていた。

 壁には所狭しともらったお土産やら、写真やらが統一性もなく貼られており、情報量が多くて、見るだけで気疲れした。

 自分はこういうシンプルな部屋のほうが落ち着くなあ……。

 人の部屋だというのに、思わず寝転びそうになる。

「お待たせ」

 塔子の声に、くつろいでいた英明はびくりとした。

「アイスティーでよかったかな? 聞くの忘れちゃって……」

 塔子が慣れない手つきでグラスを置く。

 孤独な少女だというのは本当らしい。遊びに来る友達もいないのだろう。

「ありがとう」

 喉が渇いていたので、英明はさっそくアイスティーに口をつけた。

 しばし、沈黙が流れる。

 お互いのことをよく知らないので、会話の切り口がない。

 とっかかりを探すため、英明は部屋を見回した。

「あの壁のポストカード、可愛いね」

 気まずい空気にいたたまれず、英明は立ち上がってポストカードを見た。

「これ、ピーターラビットだよね? こっちのクマは何?」

 くまのプーさんに似ているが、どこか違う。

「それ、くまのパディントン。イギリスの児童文学に出てくるキャラクター。映画にもなったんだけど……」

「へえ」

 説明されてもピンと来ない。海外の児童文学など、守備範囲外の分野だ。

「こういう、可愛いのが好きなの?」

「ていうか、動物の絵が……」

 そのとき、英明は本棚に数冊のスケッチブックが並べられていることに気づいた。

「絵、描くの?」

 何気なくスケッチブックを手に取ると、塔子が弾かれたように立ち上がった。

「ダメ!!」

「えっ?」

 塔子の剣幕に驚いたが、英明はとっさに手を高く上げてスケッチブックを奪われまいとした。

 こんなに塔子が激しい感情を見せるのは初めてだ。

 スケッチブックにその手がかりがある!

 塔子が必死に手を伸ばしてくるが、リーチの差は明らかだ。

「えっ、なんで? 何かヤバイものなの?」

「そうじゃないけど! ……あっ!」

 つま先立ちしていた塔子がバランスを崩し、英明の胸の中に倒れ込んできた。

「おっと!」

 英明は慌てて彼女を受け止める。

 ふわっと淡い花の香りが漂い、続いて柔らかい感触が腕に沈む。

「ご、ごめん!」

 塔子が真っ赤になって離れる。

「大丈夫?」

「うん、大丈夫だから! いいよ、スケッチブックを見ても!」

 塔子は赤くなった顔を見られたくないのか、スケッチブックを必死で指差す。

 恥じらう塔子の様子が微笑ましく、もっと見ていたかったが、英明は自制してスケッチブックを開いた。

「……!!」

 一瞬にして、英明の目は釘付けになった。

 そこに描かれていたのは、鉛筆で描かれた一羽の鳥だった。

 羽毛の一本一本まで緻密に描かれており、モノクロの絵だというのに、鳥は今にも動き出しそうに生き生きとしている。

 好奇心旺盛な黒い目、ピンと立った長い尾羽、今にもさえずりそうなくちばし――今、この鳥が紙から飛び出たとしても、驚かないだろう。

 まさに、〝生きた鳥〟がそこにいた。

「す、すごい! これ、生きてるみたい! 動き出しそう! え、なにこれ鉛筆で描いてるの? きみが描いたの?」

 英明は思わずまくしたててしまった。

 はっとして塔子をみやると、彼女は目を大きく見開き、ぽかんと口を開けている。

 英明の視線に気づくと塔子は口を閉じ、不機嫌そうにむすっと唇を尖らせた。

 一瞬、怒らせたのかと焦った英明だが、頬を赤らめて必死で目をそむける塔子の様子に、すぐに勘違いだと気づいた。

 ――照れているのだ。嬉しいけれど、必死に表情に出さないようにしている。

「……どうも。私が描いたのよ。そう、鉛筆で」

 一生懸命に顔がにやけないよう頑張る塔子に、英明は吹き出しそうになった。

 素直に笑ったらいいのに。変なところで意地っ張りだなあ。

 笑いを堪えながら、英明はスケッチブックをめくった。

 そこには、様々な鳥が描かれていた。

 鳩やカラス、サギや文鳥など英明にもわかる鳥もいたが、多くは珍しい野鳥のようだった。

 そのいずれもが、スケッチブックから飛びださんとするほど生命力に溢れている。

 英明はすっかり心を奪われ、夢中でページをめくった。

 ようやく一冊見終わると、英明は一息ついた。

「鳥が好きなの?」

「うん。両親が野鳥観察が趣味でね。旅行に行くたびに、鳥の観察タイムが入るの」

 この流れなら、自然に聞けそうだ。

 英明は思いきって気になっていたことを口にした。

「きみのご両親は……?」

 ある程度覚悟していたのだろう。塔子は特に動揺もせず、静かに口を開いた。

「ふたりとも二年前に事故で死んだの。それで伯父夫婦が引き取ってくれて、ここに来たの」

「そっか……」

 彼女の翳りの理由が少しわかった気がする。

 親をふたりとも亡くす――ちょっと想像もつかないような恐ろしい出来事だ。

 引き取ってくれる裕福な親戚がいたのは幸運だったが、どれほどの悲しみや喪失感が彼女を襲っただろう。

 自分を守ってくれる絶対的な存在がいなくなる――それは歩いていた道が急に消えてしまい、断崖絶壁に取り残されるようなものではないだろうか。

 孤独感と不安が押し寄せ、きっと自分なら呆然と立ち尽くしてしまうだろう。

 暗くなった空気を変えるため、英明はことさら明るい声を出した。

「それにしてもすごいね、こんなに細部まで描けるなんて……でも鳥って動くだろ? 写真を見て描いたの?」

「ううん、実物を描いたの。私は見たものを写真みたいに映像として頭に焼き付けることができるの。だから、あとからでも絵が描ける」

「へえ――っ!」

 カメラアイと呼ばれる瞬間記憶能力のようなものなのだろうか?

 塔子の意外な才能に、英明は純粋に驚いた。

「すごいね。記憶できるのも勿論だけど、完璧にアウトプットできるのがさ。絵を習ってるの?」

「ううん、ただの趣味だよ。子どもの頃から絵を描くのが好きで、ずっと描いているだけ」

「えっ、それでこんなにうまく描けるようになるの?」

「誉めすぎだよ」

 塔子がまたむすっと唇を尖らせて目をそむける。

 気づくと、とても自然に塔子と話している自分がいた。

 塔子の表情から硬さが抜け落ち、こんなに無防備な表情も見せてくれる。

 なんで、急に心を開いてくれたんだろう?

 嬉しさとともに、英明の胸に疑問がわいてきた。

 スケッチを見たからか? いや違う――。

 英明はすぐさま気づいた。

 自分が本音で接したからだ、と。

 英明のお世辞抜きの言葉に、彼女も本音で対応してくれたのだ。

 彼女は見分けているのだ。俺の上辺だけの言葉や笑顔には騙されない。

 思い返せば、まともに話してくれたときも、苦し紛れに本音を言ったときだ。

 英明はぞっとした。

 この俺の完璧な演技が見抜かれていた?

 そういえば、最初から彼女は嫌悪感をもって自分を見ていた。

 気持ち悪い、とさえ言った。

 こんなことは初めてだった。

 愛想笑いをすれば、女性たちは皆嬉しそうに反応してきたというのに。

 相当な観察眼の持ち主――そうだ、それはスケッチからもわかる。

 ただ、鳥たちを忠実に再現しているだけではない。そのときの鳥の様子――楽しげだったり、警戒していたりという感情がはっきり伝わってくるのだから。

「どうしたの?」

 急に押し黙った英明に、塔子が話しかけてくる。

 心配げな塔子の顔が間近にあり、英明はびくっとした。

 綺麗な形の目だな。それに睫毛が長い――。

 そのとき、急にスマホが鳴った。

「あっ……」

 英明はびくりとし、伸ばしかけた手を引っ込めた。

 塔子が我に返ったように立ち上がった。

「そうだ! 伯母さんがカステラがあるって言ってた! 取ってくる!」

 そう言うと、振り向きもせず、ドアを開けて一階に下りていく。

 スマホを見ると、華蓮からラインが入っていた。

 まるで英明の下心を見抜くかのようなタイミングだ。

 英明は息を吐くとクッションに座った。

「何やってんだ俺……」

 確かに、疑似恋愛をしなくてはならない。でもそれは、俺が塔子を好きになるんじゃなくて、彼女の心を奪わなくてはならないのに――。

 キィと小さい音がしてドアが動いた。

「……?」

 塔子かと思いきやドアから顔を出したのは、目を疑うような美少年だった。

 白皙の美貌――そんな言葉が似つかわしい、色白の美少年がドアから出てきたのだ。

 大きな黒い瞳、バラ色の小さな唇。体つきも華奢なので、どこか中性的だ。

「きみ、もしかして従弟の――」

 言いかけた英明の言葉を罵声が遮った。

「何だよ、おまえ!! 塔子ちゃんに近づくな! バーカバーカ!」

「なっ……」

 貴族めいた美貌から飛び出す幼稚な言葉に、英明は度肝を抜かれてしまった。

 そして、言い返す間もなくドアがぴしゃりと閉められた。言い逃げか!

「おい、何なんだよ!!」

 ドアを開けると、向かいの部屋のドアに手をかけた桃太がびくりと振り返った。

 先ほどの威勢はどこへやら、桃太の大きな美しい瞳はおどおどと怯えに揺れていた。

 想像もしていなかった美少年の登場に一瞬気圧されたが、所詮負け犬だ。

「待てよ!!」

 素早く自室に滑り込もうとする桃太の首根っこをひっ掴む。

「うわわ!」

 桃太が暴れたが、女子と変わらぬ華奢な体格――身長百六十五センチくらい、体重は五十キロ程度と見た――なので取り押さえるのはさほど難しくなかった。

 英明はじたばたする桃太をあっさり押さえ込んだ。

「おまえ、威勢がいいのは口だけか?」

「放せよ!」

 そのとき、階段を上がってきた塔子が息を呑むのに気づいた。

 英明の手が緩んだ瞬間を逃さず、転がるようにして桃太が自室に逃げ込む。

「な、何があったの?」

 カステラの載ったお盆を手に、塔子が呆然としている。

 英明は乱れた髪を撫でつけ、咳払いをした。

「急に部屋に入ってきたんだ……あれが従弟の桃太だろ?」

「うん、そう……」

 桃太の部屋はしんと静まり返っている。

「とりあえず、部屋に戻ろうか……」

 塔子の言葉に、英明は部屋のドアを開けた。

 カステラは有名店のものらしく、ふわりと上品な甘さがした。

「あいつ、なんで不登校なんだ? アイドルみたいな美形なのに」

 あのレベルだと、女たちが放っておかないだろう。大人びた色気のある自分とはまったく別の魅力を持った、可愛らしいタイプだ。

「桃くんは昔から、あんまり周りとうまくやれないみたいで……。高校に入ってすぐ、クラスの子と喧嘩になったみたいで行きたがらなくなって」

「そっか」

 先ほどの、桃太の滅茶苦茶な言動を見ていた英明は納得した。

 外見のアドバンテージが生かせないほど、コミュニケーション能力が著しく低いタイプなのだろう。せっかく恵まれた容姿をしているというのに、宝の持ち腐れだ。

 とはいえ、中身はあれだが、外見はとびきり女心をくすぐるレベルだ。

 同い年の従弟と同居していると知って心穏やかではなかったが、本人を確認してさらに危惧の念を抱いた。

 塔子は身内を心配しているだけで、男性として意識していないように見えるが、今後どうなるかわからない。

「あいつどうすんの? こんな年から引きこもりとか、終わってるよね」

 思わぬ伏兵の存在に苛立ち、ついぽろっと本音が出てしまった。

 もっと思いやりに満ちた言葉を言うべきだったと後悔したが、言い方はともかく的を射ていたようで塔子が頷いた。

「伯父さんたちも困ってる。なんとかしたいんだけど、私とはまともに話してくれなくて……」

「でも、あのまま放っておくわけにもいかないだろ?」

 英明は不快さを隠すことができなかった。

 塔子があのヘタレ野郎を気にかけているのが気にくわない。

「そうなんだけど、部屋からひきずりだして、むりやり学校に行かせるわけにもいかないし……」

 塔子がため息をつく。

「伯父さんたちはフリースクールとか大検も視野に入れているみたいだけど、本人が話し合いに応じなくて」

「甘やかしすぎだろ」

 いい年して、部屋にこもって我が儘三昧か。聞いてて反吐が出る。

「大事な一人息子だからね。私が力になれたらいいんだけど、何の役にも立てないの」

 塔子がしょんぼりとうつむく。

「なんできみが責任を感じるの?」

 どう考えても本人の自己責任としか思えない。

「だって、両親が亡くなったとき引き取ってくれたんだよ? すごく感謝してる。恩返しをしたいけど、私はまだ養われている身で何もできてないの。共働きだからせめて家事をって思ったんだけど、プロの家政婦さんに来てもらっているから、掃除も洗濯も食事も何もしなくていいよって言われて……。せめて桃くんのことで役に立てたらって思ったのに、何もできないし……」

 塔子はどうやら罪悪感を感じているようだ。

 真面目な子なんだな。得てして要領が悪いタイプと見た。

 そのとき、英明は閃いた。

 これ、使えるんじゃないか?

「まあ、扱いが難しい年頃だもんな。あのさ、俺、ちょっと桃太と話してみようか?」

「えっ?」

 塔子が意表を突かれたように目を見開く。

「同じ学校だしさ、俺と仲良くなったら学校に戻るきっかけになるんじゃないか? 男同士話しやすいだろうし、うまくいけば夏休み明けに登校できるようになるかもしれない」

「でも、そんな……橘くんには関係ないのに……」

「関係あるよ、きみの従弟だろ?」

 英明はわざとらしくならないよう気をつけながら微笑んだ。

 将を射んと欲すれば、まず馬を射よ――昔の人はうまいこと言ったもんだな。

 我ながら素晴らしい作戦だ。

 桃太を気にかけている塔子にとっては断りづらい申し出だし、俺としてはスムーズに彼女に近づく口実になる。

 もちろん、桃太などどうでもいいが、全力で接近してやる。

「これから学校が終わったら、きみの家に寄って桃太に声をかけるよ。最初はなかなかうまくいかないだろうけど、慣れてきたら少し話してくれるかもしれないし」

「……」

 英明の唐突な申し出を、塔子が戸惑いつつも検討しているのがその表情から窺える。

「で、俺はきみともちょっと話せるだろ? だから、Win-Win」

 英明はすかさず、ただの善意ではなく、塔子と仲良くなりたいという目的を告げた。

 少しは下心があると見せておいたほうが自然だし、塔子も納得しやすいだろう。

 プレッシャーをかけすぎず、それでいて受け入れやすく。

「私と話す……」

「そう、俺、きみのことが知りたいんだ」

 英明は塔子をまっすぐ見つめた。彼女には嘘や誤魔化しが通じない。

 でも、これは俺の本心だ。

 塔子の秘密を暴きたい。きっとそれが目的のための〝鍵〟になるはずだ。

 彼女が死にたいと思っている理由――それを知れば、命を捧げるように誘導しやすくなる。

 そして距離が縮まれば、愛される可能性も高くなる。


 ――なぜきみは死にたがっているのか?

 ――どういうことに心を動かすのか?


 すごく知りたいんだ。その真剣さは伝わるだろ?

 きみなら――わかるはずだ。

 英明は熱意と信頼を込めて塔子を見つめた。

「わかった……」

 塔子が頷いたとき、英明は飛び上がりたいほど嬉しかった。



3日目 七月三日(水曜日)


 三日目の試験が終わり、英明は思わず伸びをした。

 教室の窓から見える空は、昨日とはうって変わってすっきりした青空だ。そろそろ夏の兆しが見え始めている。

 英明は教室を出ると、四階の一年七組の教室に向かった。

 教室のドアを開けると、帰り支度をしている塔子の姿がぱっと目に入る。

「塔子!」

 わざと下の名前で呼びかけると、クラス中がざわめいた。校内の有名人である英明が突如現れただけでなく、親しげに女子の名前を呼んだのだ。それは皆、驚くだろう。

 大勢の視線を集めるのは気分がいいものだ。

 予想どおり、塔子が慌てたように足早に向かってきた。

「ちょっと、何?」

「ほら、桃太に会いに行くからさ、一緒に帰ろうと思って」

 大義名分があるってなんと素晴らしいのだろう。

 英明の堂々とした言葉に、塔子がぐっと詰まる。

「なんで呼び捨てなの?」

「だって『塔子』って名前だろ?」

「そ、そうだけど……」

「ほら、桃太も同じ『篠宮』だろ。苗字で呼んだら、ややこしいじゃん」

 我ながら理に適っている。

 得意げに見やると、塔子が根負けしたように目を伏せた。

「まあ、そうだけど……」

「よし、じゃあ行こうか」

「えっ、今からすぐ来るの? 昼ごはんは?」

「途中で適当に何か買うよ」

「……お昼は適当に作って食べようと思ってたの。よかったら一緒にどう?」

「作ってくれるの!? いいね!」

 英明はにこりと笑った。

 昼ごはんをシェアしてくれるということは、彼女なりに英明に恩義を感じているということだ。

 引け目を感じている相手なら、簡単に優位に立てる。これでぐっと近づきやすくなった。桃太様様、不登校最高だな。

 英明たちは周囲の視線を集めながら学校を出た。相変わらず、塔子の表情は暗い。

「……きみって強引なんだね」

 塔子がぽつりと呟いたので、英明はちょっと慌てた。

「あ、ごめん。ウザイ?」

「ううん。自分に自信があるんだなあって」

「まあね」

 そこは否定してもかえって嫌みだろう。

 試験の話など、当たり障りのない会話をしながら家に向かう。

「お邪魔します」

 家に上がると、塔子が二十畳はあろうかという広々としたリビングダイニングに案内してくれた。

 こちらも白を基調とした、すっきりしたデザインの家具がセンスよく置かれている。

「じゃあ、用意をするから座って待ってて」

 お言葉に甘えて、ダイニングテーブルの椅子に座る。

 対面式のカウンターキッチンなので、作業する塔子の姿が観察できた。

 塔子が冷蔵庫から出してきたのは、どっさり牛肉が入ったパックだった。

「メニューは?」

「疲れてるから、スタミナ丼にする」

「は?」

 パスタのような、お洒落なメニューを想像していた英明は面食らった。

 英明の戸惑いなど知るよしもなく、塔子が慣れた手つきで大量の牛肉を炒め始める。

「ご飯、どのくらい?」

「あ、多めで」

 刻んだネギと調味料を合わせてさらに炒めると、塔子は丼に盛った白飯の上に豪快にかけた。

 そして、仕上げとばかりに冷蔵庫から卵を取り出す。

「お待たせ」

 目の前にどんと置かれたのは、山盛りの牛肉の上に卵黄が載った野趣あふれる丼だった。

「……いただきます」

 意外なチョイスだったが、肉には目がない。英明は湯気の立つ牛肉を思いきりかき込んだ。口の中いっぱいに、甘じょっぱいタレと肉の旨味が広がる。

 まさに試験帰りに食べたいパワフルな味だった。

 しばし、ふたりは無言で丼飯をかきこんだ。

「うまかった! ご馳走さま!」

 ぺろりと平らげて手を合わせると、まだ半分も食べていない塔子が驚いたように顔を上げる。

「早いね……ご飯、私の倍くらいの量だったのに」

「ああ、このくらい余裕だよ。まだ腹八分目くらい」

 英明の言葉に、塔子が信じられないというように目を見開く。

「やっぱり、運動部の男の子ってすごく食べるんだね……」

「桃太はこんなに食べないの?」

「私と同じくらいかな。でも、最近は一緒に食べないから……」

「そっか。それにしても、手際よかったね。料理、よく作るの?」

 塔子がむすっとした表情になる。もう見慣れてきた、照れ隠しの顔だ。

「一人で食べることが多いから」

 桃太は引きこもっているし、伯父夫婦も共働きなので食卓をあまり囲まないらしい。

「橘くんの家ってどんな感じ?」

 塔子が自分に興味を持ってくれて、英明は嬉しくなった。

 まずは自分のことを知ってもらわないと、好きになってもらえない。

「ウチは会社社長の父親と主婦の母親。それに五歳年下の弟」

「弟がいるんだ……だから面倒見がいいの?」

 英明は思わず苦笑してしまった。

「年が離れてるから、あんまり一緒に遊ばないなあ。ゲームをするときくらい?」

 それも最近はほとんどない。中学の頃から英明は部活や人付き合いで忙しくて、あまり弟を構ってこなかった。

「そうなんだ……私、一人っ子だったから、家に兄弟姉妹がいたら楽しそうだな、って思うけど」

「いたらいたで邪魔くさいよ」

「そんなものかなあ……」

 兄弟に夢見ていたらしい塔子が首を傾げる。

「桃太がいるじゃん。あれは従弟だけど、同居してるし兄弟みたいなもんだろ」

「でも、あんまり話してないよ。一緒に遊んだりもしないし。もっと話したいんだけどね……」

 塔子が寂しげに呟く。

 そんなに桃太と仲良くなりたいのか――そう思ったとき、苛々している自分に気づいた。

 同居している家族ともっと馴染みたいという感情はごく自然なものだ。

 なのに、もやもやが収まらず、英明は椅子から立ち上がった。変なことを口走ったり、塔子に八つ当たりする前に距離を置いたほうがいい。

「さて、桃太の様子をちょっと見てくるよ」

「うん、お願いね」

 さも頼りがいがありそうに、余裕の笑みを浮かべて英明は階段を上がった。

 正直、引きこもりの様子を見るなんぞ面倒きわまりないが、ここに通う口実なので仕方ない。

 しかし、努力の甲斐があって、だいぶ塔子とスムーズに話せるようになってきた。

 強引に近づいたが、結果的にそれが良かったようだ。

 まずは友達――そのハードルは越えた気がする。

 あとはもっと特別な相手と思ってもらうようにしなくては。

 三階に上がると、桃太の部屋の前に来た。

「おい! 俺だ! 入るぞ!」

 ノックをすると、英明は答えを待たずにドアを開けた。

「わっ!」

 ドアを押さえようとしたらしい桃太が、勢いあまったのか足もとに転がってくる。

 昨日の所行といい、なんて無様なんだろう。せっかくの美貌が泣くというものだ。

 英明は無言で桃太の体をまたぐと、部屋の中へと足を進めた。

「なっ、何だよ、おまえ!」

 桃太が慌てて立ち上がった。

「俺は橘英明。よろしくな、桃太」

「なっ……呼び捨てに……勝手に入ってくんなよ!」

 英明は喚く桃太を無視して、ぐるりと部屋を見回した。

 八畳くらいのフローリングの部屋だ。塔子の部屋と同じくらいの広さか。

「ふーん……。いい部屋だな」

 大きい張り出し窓から、光が燦々と惜しみなく差し込んでいる。

 明るく心地いい部屋だ。引きこもっていると言うから、薄暗く足の踏み場もないゴミ部屋を想像していたが、思ったより片付いている。

 だが、やたらと本と物が多くごちゃごちゃしている。シンプルな塔子の部屋とは対照的だ。

「へー、読書家なんだな」

 英明は本や漫画がぎっしり詰まった本棚に目を向けた。

「馬鹿にしてるんだろ!」

 吠える桃太を無視して、英明は隣の棚に目をやった。まるでおもちゃ屋のように、フィギュアやプラモデルがずらりと並んでいる。

 壁に飾られているのは、レプリカの剣にモデルガン。アメコミのヒーローのマスク。机の上にはパソコン――。

「おまえ、オタクか」

 そう言うと、桃太が怯んだように口を閉ざした。

 その白い顔がかすかに紅潮している。

 変なキャラクターのTシャツに、膝丈の綿のパンツという部屋着を着ていても、桃太は油断するとつい引き込まれそうになる美少年だ。

「……おまえに関係ない」

「フーン。何これ、『現代都市伝説――ダークサイドはそこにある――』?」

「わわ!!」

 桃太がパソコンのモニターに飛びつくようにして画面を隠す。

「勝手に見るな!」

「オカルトとか好きなのか。なるほどな……」

 よく見ると、本棚にも怪しげなタイトルのものがずらりと並んでいる。怪物やクリーチャーのフィギュアが多いのにも納得だ。

 そのとき、英明は机の片隅にあるものを見つけて一瞬息が止まった。

 そうか、こいつ――。

 だが、それには触れないでおく。これはとっておきの情報になりそうだ。

「おまえさ、なんで学校に行かないの?」

 いきなり核心に触れられると思わなかったのか、桃太が絶句する。

 そして、すぐさまその大きな黒い瞳に挑戦的な光が宿った。

「おまえみたいな奴がいるからだよ!」

「俺みたいな? すごいイケメンで背が高くてかっこよくてモテて頭がよくて運動もできる奴ってこと? そんな奴俺の他にいる? ウチの学校で」

「……そうじゃなくって!!」

 どうやら英明の発言がお気に召さなかったらしく、桃太が地団駄を踏む。

「おまえらみたいな、傲岸不遜で人を簡単に見下すような奴らってこと!!」

「はあ……」

「ちょっと恵まれているからって調子に乗りやがって……!!」

 英明は我慢して、桃太の罵詈雑言を最後まで聞いてやった。

 要はクラスメイトにからかわれて、プライドを傷つけられたということか。

 それで拗ねて、家に引きこもり、塔子を心配させている――いいご身分だな。

 じわりと苛立ちが頭をもたげてくる。

 確かに生きづらそうだが、でもおまえはまだ死なないんだろ?

 まだまだ何十年も生きるって思っているから、こうやってのほほんと逃避していられるんだろ? あと四日で死ぬってわかっていたら、こんなふうに部屋で無駄な時間を過ごしていないはずだ。

 それを棚に上げて、〝恵まれている〟だと?

 ずいっと一歩を踏み出すと、桃太が怯えた顔で後ずさった。

「な、何だよ……」

 威勢がいいわりに、ずいぶん怖がりなようだ。

 そういえば昨日も言うだけ言って、自分の部屋に逃げ込んでいた。気が強いが臆病――体をプルプルと小刻みに震わせているチワワでも相手にしている気分だ。

「傲慢なのはおまえもだろ」

「えっ……」

 桃太が虚をつかれたようにぽかんとした。

「何が〝おまえらみたいな奴〟だよ。勝手に人をカテゴライズしてんじゃねえよ。おまえがそうやって相手を見下しているから、相手もおまえを見下すんじゃねえの」

 気に障ったのか、桃太が噛みつくようにして叫んだ。

「おまえなんかにわかるかよ!!」

 桃太はさっと英明から距離を取り、手近にあったレプリカの剣を手に取った。

 一応剣を構えているが、へっぴり腰で勇ましさなどかけらもない。サッカーで鍛えた英明のキック一つで吹っ飛びそうだ。

「ああ、わからないね。じゃあ、また明日」

「は?」

「また明日来るから」

 英明が片手を挙げると、剣を構えていた桃太の手がだらりと下がった。

 桃太が何か言いかけたようだが、英明はさっさと部屋を出るとドアを閉めた。

「よし」

 これで今日のノルマは終わり。

 桃太の様子を観察したし、話もいっぱいした。これで塔子に堂々と報告ができる。

 向かいにある塔子の部屋のドアをノックすると、すぐさまドアが開いた。どうやら様子をずっと窺っていたらしい。

 心配そうに塔子が顔を覗かせる。

「どうだった? 何か大きい声がしたけど……」

「なかなか有意義だったよ。いろいろ話せた」

「ほんと!?」

 塔子が驚いたように目を見開く。

「すごい……私だとろくに目も合わせてくれないのに……」

「……」

 それは桃太がきみを好きだからじゃないか?

 英明はそう思ったが、敢えて口に出さなかった。誰が敵に塩を送ってやるものか。

 さっき、桃太の部屋でみつけたアレ。

 あの妙ちきりんなグッズが置かれたなかで、一つだけまともなものがあった。

 シンプルな白い木枠の写真立てだ。

 そこには高校の入学式で撮ったとおぼしき、校門の前に制服姿で並んで立っている塔子と桃太の写真が入っていた。

 だが、これまでの様子だと、せっかく一つ屋根の下にいるというのに、桃太はろくに塔子にアプローチできていない。少なくとも、塔子はまったく桃太の思いに気づいていない。

「まあ、明日もちょっと話してみるよ。彼の趣味も面白そうだし」

 これくらいで、桃太のことを気遣う振りは十分だな。

 英明は本題に入ることにした。

「じゃ、きみのことも聞かせてよ」

 顔を覗き込むようにして、少し塔子と距離を近づける。

 シャンプーの残り香なのか、ふわっと甘い花の香りがした。

「えっ、私……?」

 塔子が意外そうに言う。ヘタレの桃太にも問題はあるが、彼女もたいがい鈍い。

「言っただろ。友達になりたい、きみに興味があるってさ」

「……交換条件ってわけ?」

 英明は肩をすくめてみせた。

「無理にとは言わないよ。これは俺の勝手な希望だから」

 しばし、塔子は探るように英明の顔を見つめてきた。

 英明は臆することなく塔子を見つめ返した。

「いいよ。何が聞きたいの?」

 根負けしたのか、塔子がぽつりと言う。

 ――なぜ、きみは死にたいの?

 そう聞きたいところだが、さすがに急に踏み込みすぎだと英明は思いとどまった。核心部分に触れる前に、ゆっくり周囲を剥がしていこう。そうっと柔らかそうなところから。

「きみはさ、なんでいつも一人なの?」

「……変かな」

「うん、変わってる。みんな一人でいるのが怖いだろ。うまくやれないひとりぼっち、って思われたくなくて、必死で友達とつるんでる。あと、寂しくない?」

「ずいぶん、はっきり言うのね」

 塔子は苦笑いを浮かべたが、不快そうではなかった。やはり聡明な子だ。英明が彼女を貶める意図ではなく、純粋に好奇心から言ったと理解している。

 英明はじっと塔子を見つめた。

 彼女の逡巡が手に取るようにわかる。

 こんなに胡散くさい英明相手にも、適当な嘘や誤魔化しをしたくないのだろう。

 でも、まだ本音を言うほど親しくないし、英明を信頼していない。

 そんな塔子の葛藤は、英明の目には好ましく映った。

 人に対して誠実であろうとしている。不器用ではあるが、真摯な態度だ。

 先ほどはわざときつい言葉を使ったが、英明は今度は優しく尋ねることにした。

「無理に言わなくていいんだ。気になったから聞いただけ。どうやったら、そんなに強くいられるのかって」

「強いんじゃなくて……逃げてるだけかも。桃くんのこと、どうこう言えないね」

 塔子の薄い唇が歪み、苦い笑みが浮かぶ。

 昨日のこぼれるような笑みとは真逆の、夜闇を思わせる暗い笑いだ。

 英明は心臓をざらりとした手で撫でられた気分になった。

 ――彼女の心に踏み込むのはまだ早かったか。

 ここで無理に聞き出したとしても、きっといい結果にはならないだろう。

 英明はすぐさま撤退を決意した。

「ごめん、変なこと言った!」

 英明は手を合わせ、笑顔を浮かべた。

「昨日のさ、スケッチすごかったよね。実際に描くところを見たいんだけど、ダメかな?」

「絵を描けってこと……?」

「うん。俺、初めてなんだよ。あんな本格的な鉛筆画を見るの」

 塔子の得意なスケッチの話題で、気まずい空気を払拭したかった。

「……いいよ」

 あまり気乗りはしないようだったが、塔子もこの空気を変えたかったのか、立ち上がるとスケッチブックと鉛筆を取り出した。

 白紙のページを開くと、鉛筆を手にする。

「何がいい?」

「何でも」

 躊躇いもなく、塔子が無言で鉛筆を走らせた。

「……!!」

 アタリも下書きもなしで、塔子はいきなり描き出した。瞬く間に鳥の顔が現れる。

 その迷いのない、目にも止まらぬ鉛筆の動きに英明は目を奪われた。

 塔子が鉛筆を動かすたびに、鳥が徐々に形を作っていく。

 なめらかな筆さばきに、英明は息をするのも忘れてただただ見入った。

 ほんの数分で、大きく半円状に翼を広げた黒っぽい鳥が生まれた。少し長めの尾がピンとまっすぐ伸びている。

「すごいな……」

 英明は目の前で行われた奇跡に、素直に感嘆した。

「なんていうか、魔法みたいだ……」

「何それ。大げさね」

 塔子がむすっとした、照れ隠しの表情になる。

「人前で描くのって久しぶりだから緊張しちゃった」

「そうなの? 全然手が止まらなかったけど」

 英明にはとても自然に見えて、緊張などまったく感じ取れなかった。

 黒っぽいカラスに似た鳥だったが、羽の先端は白い。

 きりっとした凜々しい表情をしており、かなり頭が良さそうだ。

「この鳥って何? 見たことないな」

「カササギだよ。佐賀で繁殖している鳥で、旅行中に見たの」

「翼の付け根と先端が白いんだな……。まるで黒と白の扇みたいだ……」

「これ、鉛筆だからわかりにくいけど、羽は黒じゃなくて艶のあるダークブルーなの」

「へえ……」

「そういえば、カササギって七夕に関係しているって知ってた?」

「カササギが?」

「そう。伝承によると、天の川にかかる橋は翼を広げたカササギなんだって」

「そりゃ、ずいぶんでかいカササギだな」

 塔子がぷっと吹き出す。

「一羽じゃなくて、たくさん飛んできて連なるみたいよ」

「そうなんだ」

 七夕伝説は昔読んだ覚えがあるが、記憶がおぼろげだ。

 機を織る織姫と牛飼いの牽牛が、年に一回天の川を渡って会えるということしか覚えていない。

 言われてみれば、川を挟んで彼らがどうやって会うかなど気にしたこともなかった。

「つまり、カササギは愛の架け橋なのか……」

 思わず呟いた言葉に、塔子がたまらず吹き出した。

「なっ、なんだよ……!」

 英明はカッと頬が赤くなるのを感じた。

「だって、愛の架け橋って……! すごいロマンティストなんだね」

 一瞬、自分の失言に羞恥を覚えたが、すぐさま英明は腹を抱えて笑う塔子の姿に心を奪われてしまった。

 屈託なく笑う塔子を見ていると、心がほんのり温かくなる。

「……それが素顔なんだな」

「え?」

 指で涙を拭きながら、塔子がようやく笑いを止める。

「いつもと全然違う。《孤独でクールな女子高生》なきみと」

 すると、塔子が微笑みながら見つめてきた。

「あなたもそうじゃない? 《完璧で大人びたイケメン》じゃなくて、今のが《橘英明》でしょ?」

「は?」

「いつものすかした笑顔のきみより、ずっといい」

 すかしてなんかいない――そんなまがい物の言葉を言う気にはなれなかった。

 塔子が心を開いてくれている気がする。なのに、塔子の目がまともに見られなくなって、英明は慌ててスケッチブックに視線を戻した。

 英明は狼狽を隠すため、ぱらぱらとページをめくっていった。

 スケッチを見ていくと、ほとんどが鳥だったが犬や猫も少し描かれている。

「動物が好きなんだ?」

「うん。見ていて飽きない」

 塔子の動物たちに対する興味や愛情が、描かれている線一本一本から伝わってくる。

 生命力にあふれた動物たちは、何度見ても飽きない魅力に満ちていた。

 そのとき、素朴な疑問が浮かんだ。

「人間は描かないの?」

 きっと塔子の筆致で描かれた人間は、生きていると見まごうばかりだろう。

「人間が一番表情豊かだと思うけど……」

 そのとき、英明はいいアイディアを思いついた。

「ね、俺の似顔絵を描いてよ!」

「えっ」

 突然の申し出に、塔子がうろたえたように目を泳がせた。

「い、いいけど……」

「やった!」

 英明はさっそく、とっておきの爽やかな笑みを浮かべて塔子を見つめた。

 じっと自分の顔を見てもらえるし、距離が縮まりそうだと思った英明だったが、塔子の様子がおかしいことに気づいた。

 鉛筆を持つ塔子の手がかすかに震えている。

 顔からは血の気が引き、紙のように白くなっていく。

「どうしたの……?」

 英明が驚いて声をかけた瞬間、塔子が苦しげに胸をかきむしり、はっはっと荒く短い呼吸を繰り返し始めた。

「大丈夫!?」

 英明は異変に驚き、床にうずくまる塔子の背中を慌ててさすった。

「病気? 発作? 救急車呼ぶ?」

 英明の呼びかけに塔子は無言で首を振ると、引き出しから紙袋を取り出した。

 それを口に当て、必死で呼吸をする。

「過呼吸!?」

 以前見たことがある。うまく呼吸ができなくなり、パニックになって呼吸困難を起こす発作だ。

 塔子はまるで海に落ち、溺れもがいているようだった。

 英明は何もできず、ただ苦しげに息をしようとする塔子を見つめるしかなかった。

 数分で塔子の呼吸は戻り、袋から口を離した。

 塔子がふうっと長い呼気を吐く。

 顔はまだ青白いが、少し落ち着いたようだ。

「大丈夫?」

「うん……ごめんね」

「なんできみが謝るの? 俺、変なこと言ったかな?」

 過呼吸はストレスで起こると聞いたことがある。

 何がそんなに心の負担になったのだろう?

 塔子の唇は紫色で、顔色はすぐれない。

「ううん……私、絵のことをあまり人に話したことがなくて……それで……」

 塔子が何を言っているのか、よくわからなかった。

 だが、塔子の闇を垣間見た気がした。塔子が《死にたがり》になった何か――それは絵に関係しているのか?

「あの――」

「ごめん、今日はもう帰ってくれる?」

 苦しげに胸を押さえた真っ青な塔子にそう言われ、英明は頷くしかなかった。

 塔子の助けにはなれないし、むしろ自分は邪魔だろう。

 自分の無力さを痛感する。

「うん、お大事に。……また明日」

 塔子はうつむいたまま、こちらを見ようともしなかった。

 英明は暗い気分で塔子の家を出た。

 今日はなかなかの収穫があった。彼女の内面により踏み込めた。

 だが、高揚感はなく、それどころか気持ちは急降下していた。

 どろりとした黒い泥沼へ、ずぶりと沈みこんだように心も体も重い。

 彼女の死にたくなるほどの何かに触れたのだから当然か。

「あーあ……」

 英明は歩きながら、思わずため息をもらした。

 死神からの提案を聞いたときは、もっと塔子のことを突き放して考えられると思っていた。

 赤の他人だし、死にたいと思っている人間に身代わりになってもらうのは、そんなに罪悪感がないだろう、とも。

 でも、違った。

 篠宮塔子は生きていて、悩んでいて苦しんでいる。それを目の前にして、平然と駒を動かすように『はい、一マス進めた!』などと思えなかった。

 自分はもっと理性的な現実主義者だと思っていたのに。

「くそっ!」

 苛々する。俺は生き延びるために頑張っているだけだ!

 それの何が悪い!!

 重い足を引きずりながら、英明は電車に乗って家に帰った。

「ただいま」

「あら、遅かったのね。試験はお昼までだったんでしょ?」

 キッチンから母が飛んでくる。

 英明の帰りが遅いのは中学の頃からずっとだというのに、毎回こうやっていちいち構ってくるのが鬱陶しい。

「お昼は食べた? お腹がすいているなら、晩ごはん前に何か作るけど――」

「ちゃんと食べたから大丈夫だよ」

 英明は強めに遮ると、階段を上がって二階の自室に入った。

 制服のネクタイを乱暴にむしり取ると、どさりとベッドに仰向けになる。

 華蓮にラインをしなければいけないし、諒たちとのキャンプのグループラインもチェックしなくてはならない。

 だが、面倒で指一つ動かす気になれない。

「疲れた……」

 そうだ、俺は疲弊しきっているのだ。

 いきなり死神に死を予告され、急に知らない女の子に近づいて、どんどん深入りして――もう何も考えたくない。キャパがいっぱい、もう限界なんだ。

 英明はきつく目を閉じた。

 いっそ、すべて夢だといいのに……。


「英明――! 英明! ごはんよ!」

 階下からの母の声に、英明はゆっくり目を覚ました。

 どうやらうたた寝をしていたらしい。

「兄ちゃん、ごはんだって!」

 智明がドアを勢いよく開けて入ってくる。

「……おまえ、勝手に入ってくるなよ……」

 英明は目をこすりながら、体を起こした。

「だって今日、天ぷらなんだよ? 揚げたて食べたいじゃん。早く早く!!」

「わかったよ……」

 特に用事がないときは、家族で食卓を囲む、というのが橘家のルールだ。

 智明はゲームのことは諦めたのか、それとも買ってもらうことになったのか、まったくそのことについて言及してこなかった。

 一緒に階段を下り、ダイニングに行くと母親から声が飛んだ。

「英明、ほらちょっと手伝って!」

「はいはい」

 ランチョンマットと箸置きを渡され、テーブルセッティングを始める。

 あっという間にテーブルには山盛りの天ぷらとごはん、赤だしが並ぶ。

「いただきます!」

 三人で手を合わせ、箸を伸ばす。

 揚げたての天ぷらはシャキシャキでおいしい。熱くて舌が火傷しそうだが、箸が止まらない。エビにかぼちゃにしいたけ、ししとうと、次々と口に入れていく。

「おいしい?」

 食べっぷりを見ればわかるだろうに、母親がわざわざ聞いてくる。

「ああ、うまいよ」

「お代わり!」

 智明の声に、母が苦笑いする。

「パパの分、なくなっちゃいそうね」

 そう言いつつ、楽しげにキッチンに向かう。

 わいわいとごはんを食べながら、英明はふと塔子のことを思い出した。

 彼女は今、一人でごはんを食べているのだろうか――。

 うざったく思うこともある家族の団らんだが、もし毎日一人無言で食べるとなったら、どんなに味気ないことだろう。

 そもそも、具合が悪くて食べていないのかも。

 ――いや、そんなことは俺に関係ないだろ。

 英明は我に返り、ご飯をかきこんだ。

 英明が食後のお茶を飲んでいると、智明が洗いものをしている母に声をかけた。

「ねえ、映画行きたいー。アクション映画。友達と行っちゃダメ?」

「うーん、友達と行くのは中学からね」

 心配性の母が首を振ったので、智明が不服そうに唇を尖らせる。

「えー、じゃあ、お母さん連れていってよ!」

「でもお母さん、ああいう怖そうなの苦手なのよ。銃とか撃ち合うんでしょ? 英明、あんた連れていってあげなさいよ」

「えっ、俺?」

 急に言われて英明はむせそうになった。

「兄ちゃんは無理だよ。いつも忙しいって言うし!」

 智明が拗ねたように頬をふくらませる。

 言われてみれば、英明と遊びたがる智明の誘いを全部断ってきた。

 小学生の弟より、同級生や大人たちと出掛けるほうが刺激的で面白かったのだ。

「その映画、いつから公開なんだ?」

「来週の金曜日!」

「ってことは、十二日からか……」

 いいよ、連れてってやる、と言いかけて、英明ははっと口をつぐんだ。

 俺の命の期限は七月七日。もしかしたら、そのときもう俺は――。

「ほら! やっぱりダメなんでしょ!」

 智明が不満そうに声を荒らげる。

「あ、ごめん……まだ予定がわからなくて」

 英明はそう言うので精一杯だった。

 こんなことになるんだったら、もっといっぱい智明と遊んでやるんだった。

「そうだ、PS4貸してやるよ」

「えっ」

 智明がいきなりの申し出に、ぽかんと口を開けている。

「おまえ、使いたがっていただろ?」

「そうだけど……」

 てっきり大喜びすると思いきや、智明が戸惑ったように見上げてくる。

「英明どうしたの? 何かあった?」

 母まで心配そうに尋ねてくる始末だ。俺が親切にするのがそんなに驚くことか。

「別に! しばらく使わないから貸してやろうと思っただけだよ」

「ただいまー」

 父が帰ってきたので、英明はほっとした。

「お、もうみんな食ったのか」

 父がネクタイを外しながら食卓を覗き込む。

「八月にちょっと休みが取れそうなんだ。十三日から三泊でバリ島に行くぞ! お父さんも一緒に行きたいってさ」

「えっ、じいちゃんも!?」

 智明が嬉しそうに声を上げた。

 ほんの三日前ならば、家族旅行かとうんざりした顔になったはずだ。

 だけど、俺はこのままだとあと四日で死ぬ。

 だから旅行には行けない。行かないんじゃなくて、行けないのだ。

 去年の夏に行ったハワイが、最後の家族旅行になる。海で遊ぶとき以外は、つまらなそうにずっとスマホをいじっていたことを思い出す。

 家族で過ごす最後の旅行だとわかっていたら、もっとちゃんと楽しんだはずだ。

 当たり前に続くはずだった人生が消える。

 この何気ない日常が、下らないと決めつけていた家庭生活が、かけがえのないものだったと嫌でも思い知る。

「どうだ? おまえ、夏休みの部活は? 合宿とかぶってないか?」

「……スケジュールを確認するよ」

 英明はなんとか、そう答えた。

 来月、俺はもうこの世にいないかもしれない。

 この家でみんなといるのもあと四日――。

「ごちそうさま。明日、期末テストの最終日だから勉強しないと」

 涙を見られたくなくて、英明はさっさと席を立った。

 廊下に出てひとりになると、ぐいっと涙を拭く。

 やっぱり俺、死にたくない。家族ともっとずっと一緒にいたい。

 英明は二階に上がった。

 自室に入ると、スマホから着信音が聞こえた。

 手に取ると、予想どおり華蓮からだ。

 しばらくすると電話は切れ、代わりにラインメッセージが画面に現れた。

 そこにはなぜ連絡をしてこないのかと、詰る言葉が並べ立てられている。怒りを表すスタンプが連打されていた。

 また文句か。相変わらず自分のことばかりだな。

 恋人なら少しでも、俺のことを気遣う振りくらいしてもいいんじゃないか?

「だから俺は試験中で忙しいって言ってんだろ!」

 思わずスマホを床にたたきつけそうになり、英明はぐっと耐えた。

 確かに華蓮は自慢の恋人だが、もうすぐ死ぬかもしれないというときに何の役にも立たない。何の支えにもならない。

 それどころか、自分を苛立たせるだけだ。

「くそっ……!!」

 英明はベッドに転がった。

 浮かぶのは、塔子の真っ青な顔、震えていた紫色の唇、必死で息をしようと苦しんでいた姿だ。なぜか胸に鋭い痛みが走り、英明は顔をしかめた。

 彼女は《死にたがり》だ。だから、何かつらいものを抱えているのはわかっていた。だが、間近で真っ青になって苦しむ彼女を見て、いたたまれなかった。

 俺は――彼女の苦しみを利用しようとしている。

 ああ、そうだ。何が悪い? 命がかかっているんだ。

 だいたい、死にたいんだろ?

 そうさ、死んだら彼女は楽になる。俺は助かる。何か問題が?

 ――俺は誰に対して言い訳してるんだろ。

 必死で討論を脳内で繰り返した英明は、虚しい気分になった。

 胸に大きな穴が開いたかのように、体の中心を風がすり抜けていく。

 ダメだ、集中しろ。もう三日目。あと残り四日しかないんだ。

 俺は――死にたくない。

 英明はうつぶせになると、顔を枕に強く押しつけた。