プロローグ


 ――全く、近ごろの若いもんは……。

 思わず口に出そうになったフレーズに、恵里子は最悪……と、こめかみを押さえる。背中がゾクリと震えたのは、四月にしては冷たすぎる夜風のせいではない。『近ごろの若いもんは』などという言葉が出てしまう――それはつまり、自分がもう『近ごろの若いもん』ではなくなってきている、という証拠に他ならない。

 そんな空恐ろしいものを掴ませた張本人――小霞陽向はせっかくの花見だというのに桜にも酒にも興味なし。ピザやおにぎりなんかの食べ物類もスルーで、広いブルーシートの隅っこ――同僚たちとはかなり距離のある場所に、背中を丸めて体育座りしている。成人男子にしては小さめの体躯と、顔の半分を隠してしまうほどもっさもさな無造作ヘアのせいだろう、後ろから見ると冴えない子犬感がすごい。思わず『お手!』と命じてみたくなるが、当の小霞は背後に立ち止まった恵里子には少しも気付かないで、一人黙々とスマホ画面に没頭している。……や、いくらなんでもそれはナシでしょ。

 そりゃあね、花見とはいえ会社の、それも強制参加の宴会じゃ、かたっくるしくもなるでしょうよ。こっそりメールチェックしたり、ツイッターに〈会社飲みマジだりーw〉とか呟きたくなっても不思議じゃないわよ。あそこにいる子なんてインスタ映え狙ってんのか、上司の話そっちのけでひたすらお寿司の写真撮ってるしね。幾度となく焚かれてるフラッシュで、あのサーモンそろそろ焼き鮭になるんじゃ……ていうかあのイクラ、うっかり孵化して奇跡の稚魚誕生なるか!? ってくらいの熱の入れようだけど、そんなのはまぁ可愛いもんだわ。

 だってこのもさもさワンコ……もとい小霞は、外界を完全にシャットアウト――ごっついヘッドホンつけてアニメ動画なんて見ちゃってるんだから……。

 いくらなんでもそれはナシだって。全く、近ごろの若いもんは……と、またもやババ臭いフレーズが浮かんで眩暈がする。まあ実際、彼は『若いもん』なのだから仕方ない。恵里子の勤める日用品メーカー、ミモザ・プディカの営業部に昨年配属されてきた小霞はまだ入社二年目。この春で入社六年目を迎えた――ついでに言うと今月誕生日を迎えて二八になってしまった恵里子からすると、ピチピチの鮮魚のような後輩だ。もっとも、鮮魚というには陰気で覇気がなく、もっさりとしすぎているのだけど。

 スマホでのアニメ鑑賞に夢中な彼は、相変わらず背後に立つ恵里子には気付いていない。こんなにもゴージャスなあたしのオーラを微塵も感じないなんて……!

 別にこんな冴えないワンコどうだっていい。けれどこうも気付かれないと、己の存在を無視されているようでなんだか面白くない。そうだわ!

 ふっと思いついて口の端を吊り上げた恵里子は、体育座りな小霞の後ろで腰を屈めると、彼のヘッドホンの片側をそっとずらし、もっさもさな髪から覗く形のいい耳に、ふぅーっと艶めかしく息を吹きかける。――と、驚いた小霞が「ひゃあっ……!」と素っ頓狂な声を上げた。小さな耳がしゅうっと沸騰したように赤くなる。

 あら可愛い、そんな声出しちゃうんだ。次はなに? いきなりなんてことするんですか、なんてチェリーボーイ的な抗議でもしてくるのかしら? どこか興奮した様子の小霞に、いつもつるんでいる男たちとは違う、ウブな反応を期待してニヤニヤしてしまう。けれど、全身を小刻みに震わせてこちらを向いた彼は、

「うぉぉぉぉ、リアル式神キタ――――……って……あれ……?」

 恵里子を見るやいなや、当てが外れたと言わんばかりに固まってしまった。恐らくは今、子犬のような目をぱちくりとさせているのだろう。前髪がもさもさすぎてよく見えないけど。

「このあたしを式神と間違えるだなんて、あんたいい度胸してんじゃないの」

 不本意だと仁王立ちになって見下ろす恵里子。「す、すみません、その……いろいろ事情があって………」と、ようやくヘッドホンを外した小霞は、「あっ、こっ、これです……!」と手にしていたスマホを見せる。画面を流れるのは相変わらずのアニメ動画だ。随分とクラシカルな和装をした男が宙に五芒星を描いている。

「なにこれ、歴史モノ? 天下取るやつ?」

「なっ……! 全然違いますよっ!」

 いつになく強い口調でそう言った小霞は、すうっと大きく息を吸うと、

「このアニメ、安倍晴霞っていう陰陽師が活躍する話で、『俺が描けば真になる』っていうタイトルなんですけど、知りませんか? 原作はあの美少女すぎるJK作家の隼崎綾先生の小説で近々ハリウッドで実写化されるんじゃないかってネットでも騒がれてる大注目作品なんです、ああもう、なんでチェックしてないかなぁ……で、そんな今もっとも熱いとされているこの神アニメ、原作でも評判だった感動の第二幕を特に丁寧に……」

 うわ、なんか凄い勢いで捲し立ててきた。一体なんだってのよ、あんたいつもボソボソとしか話さないじゃないの、それがなんでまたこんな早口で、しかも威勢よく語ってくんのよ、実はもう酔ってたりすんの――? いつもの陰気な彼とは違うあまりの喋りっぷりに思わず圧倒されてしまう。が、そんなことは気にも留めない小霞はさらに続けて、

「……で、次々と襲い掛かってくるあやかしに、晴霞は式神で対抗するんですけど、その式神の呼び出し方が凄いんですよ、使役したい式神を指で描いて創造できちゃうんです、描いた偽物に命を与えて実体化することができる――だから晴霞の決め台詞は『俺が描けば真になる』で、それがタイトルの由来にもなってるんですけど、描いた式神に命を与えるとき、晴霞は仕上げとしてフッと息を吹きかけるんですよ、さっきスマホで見てたのはちょうどそのシーンで、だから南城さんに耳元で息をかけられたとき、迷わず思っちゃいましたよね、うぉぉぉぉ、リアル式神キタ――――! って!」

 ちょっと、いい加減落ち着きなさいよ、あんたどこで息継ぎしてんのよ! 制止してやりたいけど「その式神はなんと……!」と法定速度以上の早口で突っ走る彼のオタトークに割って入る隙はない。え、これいつまで続くの――? と、遠い目をしていると、

「……って、すいません……その……思わず語りすぎてしまいました……」

 ようやく我に返った小霞が「晴霞のこと、誤解してほしくなくて、つい……」と、いつもの陰気な声で言った。さっきまでの熱量はどこいったのよ、温度差ありすぎて風邪引くわよもう。

「ていうかあんた、いくらなんでも会社の花見で一人アニメ鑑賞はないんじゃない? その晴霞だって、花見の片手間になんて見られたくないわよ、失礼よ」

 珍しく先輩っぽく注意してみる。――と、わかってないなぁ、と息をついた彼は、

「今って業務時間外ですよ? 本当なら定時で帰りたいところを、強制参加だなんてパワハラ受けて仕方なくここにいるわけですよ。法的拘束力のない精神的残業――なのに無給だなんて、バカらしくてやってられないです。だから本当は自宅にいるんだって体で趣味のアニメをエンジョイしてただけですけど、何か問題でも?」

 それに片手間じゃなく全力で食い入るように見てましたから、晴霞も『善き哉、善き哉』って許してくれるはずですから! なんて、子犬のようにキャンキャン抗議してくる。そういえばこの子、営業なのに得意先の接待にも出ないし、人脈広げてのし上がろうって発想ゼロなのよねー。たとえ撃たれてもこの契約&出世は誰にも渡さねぇって感じのギラギラした闘犬営業が多い中、彼のようなマイペースなもっさりワンコはかなり異質な存在だ。

「別にいいじゃないですか、与えられたノルマはちゃんとこなしてます。この花見だって、早朝から一人場所取りしてたの僕ですし。まぁ、某先輩に一番良い場所取っとけって、パシリにされただけですけど……」

「えっ、ここの場所取りしたのあんただったの? さっき根羽島が『このスペェス、俺様のグレェェートな交渉術でぇ、特別にぃぃ譲ってもらった場所なんでぇぇぇ』って、納豆かき混ぜてるみたいに粘り気強めな声で自慢してたわよ?」

 あんにゃろう、後輩の手柄横取りしたってわけね? 納豆男を目で探すと、ちゃっかり部長の隣に陣取って胡麻擂りに夢中らしかった。「お疲れ気味の部長のために絶景な場所取り頑張っちゃいましたよー」なんて、真の功労者である小霞には触れもしないでバカ笑いしている。

「あんたってば、いいように使われちゃってんじゃないのもう! アニメ見てる暇あるならさっさとあそこに混ざんなさい! でもって『実際に結果にコミィィィットしたのは僕なんでぇぇぇ~~!』って糸引く感じでネバってきな!」

 ほら早く、と発破を掛けるも、「別にいいですよ、出世とか興味ありませんし」と小霞は随分冷めたことを言う。

「僕にとって仕事は自分の趣味――オタ活に必要な小金を稼ぐためのツールでしかないんです。変に昇進して忙しくなると困るんですよ。チェックしたいアニメは無限にあるのに、使える空き時間は有限――ほんの少しの残業が命取りなんですから」

 なによその使命感に燃える戦士みたいな台詞は。クールジャパンの申し子とでもいうのか、小霞の世界は清々しいまでにアニメ一色らしい。ま、消極的な業務態度って点でいえばあたしも同類だし、無理に出世狙えとは言わないけどさぁ……。

「けど社交力はもうちょい上げてもいいんじゃない? 営業なんだし、そのもっさもさの髪も綺麗に整えなさいよ。清潔感ある方が顧客からの信用度上がるし女子ウケだってするわよ?」

 前途ある若いもんに珍しく助言してやったっていうのに、「女子ウケって……」と皮肉交じりに笑った彼は、「僕、もう嫁がいるんでそういうのはいいんです」なんて、まさかの既婚者発言をかっ飛ばしてきた。

「よっ、嫁ってあんた結婚してたの……? あたしてっきり……」

「あ、嫁っていっても二次元なんで、リアルには届け出てないですけどね」

「ちょっ、二次元って! 伴侶までアニメから選ぶのはさすがにどうかと思うわよ? もしなんだったら三次元の子紹介しようか? 好みのタイプある?」

 なんだか可哀相になって申し出ると、強がりでなく「結構です!」と即答した小霞は、「三つ目の次元なんてただの飾りです、リア充にはそれがわからんのですよ」と、わけのわからないことを言ったかと思えば、「それより南城さん、僕とあんまり関わらない方がいいんじゃ……」なんて困惑したように続ける。

「リア充……実生活が充実してる人って、僕みたいなのオタクだなんだって冷たくあしらうじゃないですか。南城さん、リア充の女王って感じの人だし、僕と話してるとこ見られるの恥なんじゃないですか? 南城さんのブランドに傷が付くっていうか、ほら、南城さん目立つから、僕と関わることで南城さんに迷惑……」

「恵里子でいいわ、あんま南城南城って連呼しないでちょうだい、その名字あんまり好きじゃないのよ……っていうか……」

 そこまで言って、恵里子はゴージャスに巻かれた髪をふぁさっと大仰に掻き上げる。

「この金銀財宝よりも煌びやかなあたしの存在が、もさもさな犬っころごときと話した程度のことで霞むとでも思ってんの?」

 冗談よしてよね、と腰に手を当てて見下ろすと、畏縮したらしい小霞は「あ、はい……すみませんでした……」と頭を垂れて縮こまる。

 やだ、小動物を威嚇しちゃった……。本当に子犬をいじめてしまったような気になった恵里子は、「あんた自分がオタクだってことで卑屈になりすぎ。いいじゃん、別に悪いことしてるわけじゃないんだし、もっと自信持てば?」とささやかに励ます。

「あたしはあんたのこと、ちょっと羨ましいって思うわよ?」

「羨ましい? このもさもさスタイルがですか? 別に真似してもいいですけど……」

「するかバカ! 羨ましいのは一人でも何かに没頭できるってとこよ。あたしの場合、一人じゃ時間なんてとても潰せないし、誰かとつるまずにはいられないの。もしあんたみたいなソロスキルに恵まれてたら、こんなクズみたいな生き方しなくて済んだかもしれないのにさ」

 クズみたいって……と反応に困る彼に、「一年も会社にいれば多少は耳に入ってんでしょ、あたしのこと」と、恵里子は自嘲的な笑みを浮かべる。

「まぁその、イケメンという名の財宝を狙う夜の峰不二子だ、的な噂はチラリと……」

 歯切れ悪く、マイルドな表現に徹する小霞。そこもアニメで喩えるんだ?

「まぁね、ぶっちゃけて言えばあたし、夜遊びもイケメンも大好物なわけよ、部屋に一人でいるなんて到底考えられない。だけどね、どんなに大勢の仲間とバカ騒ぎしても、どんなにイイ男と熱い夜を過ごしても、心はいつだって寂しいものよ。全然満たされてる感ないっていうか、一人でも趣味を楽しめてるあんたの方がよっぽど健全だし、あたしより全然リア充なんじゃないかって思う。あんたの人生、アニメでちゃんと充実してんでしょ?」

 ……って、なんか余計なことまで語りすぎたかも。自分の話なんてするつもりはなかった。それなのに、この坊やがあまりにワンコちっくだからつい油断してしまった。

 あんまりらしくないことを言ったもんだから、彼の方も動揺しているらしい。何の応答もなく固まったまま、可哀相な目でこっちを見ている。といっても、もさもさの長い前髪が邪魔で、実際はどんな表情をしているかさっぱりなのだけど――。

「まっ、アニメ鑑賞自体はいいとしても、会社の飲み会でやるのはやめなさいよね?」

 漂う微妙な沈黙と、ちらりとでも己の暗部を晒してしまったことが恥ずかしくなって、誤魔化すように話を戻す。

「あんたさ、空気読めないっていうか、むしろ読まないつもりなんだろうけど、読んで掴んだ方がなにかとお得よ? 上司に煙たがられるよりは、気に入られた方が面倒事少なくて済むし、いっそ出世して昇給した方が、大好きなアニメにも投資できるんじゃない?」

「出世って……僕言いましたよね、残業でアニメ見る暇なくなるのは本末転倒……」

「バカね、やってもみないうちから出世イコール残業だなんて決めつけんじゃないわよ。そりゃ毎日定時上がりってわけにはいかないかもしれないけど、工夫すればそれなりにプライベートも確保できるし、実際そうしてる社員も大勢いるっての! こんなとこで一人の世界築いてる暇があるなら、有能な先輩に秘伝の仕事術でも教わってきな……!」

 あ、でも根羽島はやめときなね、ずる賢いけど有能とは言えないから師事するだけ無駄――。そう注釈すると、「もさもさの頭がネバネバしてきそうですしね」と、小霞が笑う。

「そっか、今の僕の収入じゃ『俺描』の等身大式神フィギュア揃えるのは到底無理だなって絶望してたんですけど、頑張り次第では手が届くかもしれないってことですよね。あ、『俺描』ってのは『俺が描けば真になる』の略称です!」

「あはは、その意気よ。仕事への熱意が乏しいって左遷――テレビの電波が届かない、ネットだって二秒に一度は落ちちゃうような最果ての支社送りになったら困るでしょ? 定時上がりでも大好きなアニメを楽しめなくなるわよ?」

「うわー、それは困りますね。『俺描』の公式イベントにも頻繁には顔が出せなくなる……ってそんな最果てに支社なんてあるんですか?」

「ハァ? 知らないわよそんなこと」

 フンと鼻で笑った恵里子は、満開の桜を見上げて――

「もっと要領よく、貪欲に幸せになりなさいよ、その資格がある人は――」

 不意に吹いた冷たい夜風が、薄桃色の花びらをさらっていく。

 今年ももう桜は終わりだ。ようやく咲いたかと思えば、あっという間に散ってしまう。そうして誰も見向きもしなくなるのだ。花が散っても変わらずそこにいるのに、花を失った桜のことなど誰も思い出しはしない。爛漫なときには、場所取りが大変なほどもて囃すくせに――。

 また一年たてば性懲りもなく群がってくるけど、それは散ってしまったあの日の桜を偲んでのことじゃない。新たに咲いた無垢な花たちを刹那的に愛でるためなのだ。

 はらはらと舞う花びらをじっと見つめていると、「南城さ……じゃない、恵里子さんは?」と、小霞が口を開く。

「恵里子さんって営業事務されてますけど、営業自体に異動しようとは思わないんですか? 恵里子さんかなり社交的だし話も上手いし、僕よりずっと向いてそうなのに……。契約取りまくって賞与荒稼ぎとかできそ……」

「あらダメよ、営業だと外回りでスーツが必須でしょう? このあたしがピタッとしたタイトなスーツ着てるとこ想像してみなさいよ、隠しきれないゴージャスバディが昼間っから取引先の人たちを無駄に興奮させちゃうでしょ、みんなあたしに夢中になって営業が営業妨害しにきたぞって問題になるでしょ、商談まとめるどころの騒ぎじゃなくなっちゃうでしょう?」

 企業平和のためにもあたしは内勤に徹した方がいいのよ、と恵里子は肉付きのいい体を艶めかしくくねらせる。「は、はぁ……」と困ったようにたじろいだ小霞は、

「そっ、それなら恵里子さんの夢って何ですか? よかったら聞かせて……」

「そんなもんないわ」

 刃のような風が吹いて、薄桃の花びらが一気に巻き上がる。

「あたしはただ、これ以上ないってくらい楽しい思い出を体いっぱいに詰め込んで、それからぱぁっと綺麗に散っていきたいだけ。今日のこの夜桜みたいに、いっそ誰の記憶にも残らないくらい、鮮やかに消えていきたいの――」

「それって……」

 踏み込もうとする小霞を、「なーんてね」と冗談めかして制する。

 風に煽られた花びらがくるくると弧を描き、提灯の儚げな明かりのそばで最後の舞を舞う。

(だけどお願い、誰か一人くらいは『私』のこと覚えてて――)

 どこかから女の子の声がした。けれど恵里子は聞こえないふりをする。

 行き場をなくした桜の花びらが、きつく巻かれた恵里子の髪にはらりと舞い落ちた。



第一章 少女の声は聞こえない


 もうこんな時間か。オフィスの壁時計を見やった恵里子はチッと舌打ちする。もうすぐ定時だというのに手付かずの仕事が残っている。今夜は久々の『彼』で遊ぼうと思っていたのに、このままでは予定が狂ってしまうではないか――。

 とりあえずはこいつを片付けよう。作りたての書類を手に課長席に向かった恵里子は、

「課長、これチェックお願いしまーす」

 気怠げな、だけどどこか艶のある声で呼び掛ける。と、硬い顔をしてパソコンに見入っていた課長は、「あ、南城君ー」と雪崩が起きたように頬を緩ませた。

「んー、やっぱりいいねぇ。南城君、華があるっていうか、声聞いただけで一日の疲れが吹き飛んじゃうよねー」

 そりゃよござんした。別に華として雇われた覚えはないんですけどねー。醒めた目で見つめていると、課長は書類の中身も確認しないうちから、表紙にポンッと承認印を押した。

 嘘でしょ、それ作るの結構大変だったのに! それに内容だけじゃなくて体裁にも何げに気を遣ってんのよ? 課長、最近老眼で小さい字見づらいって言うから、不自然にならない程度にフォントも大きくしてみたりとかさ……。

 そんな心の声も虚しく、「はい、オッケー!」と、どこがオッケーなのかさっぱりな判断を下された書類が戻ってくる。ま、いーけどね、仕事で評価してもらおうなんて米粒ほども思ってないし。この会社に勤めてはや六年。あたしはあくまで華――決して戦力としては見てもらえないことくらい、嫌というほどわかっている。

 ノーチェックではあるが承認印自体はもらえたのだ。さっさと席に戻って残りの仕事を片付けよう。何事もなかったように立ち去ろうとする恵里子を、「南城君、やっぱりさぁ……」と課長が呼び止めてくる。何? やっぱり書類、中身にも目を通しとく?

 振り返った恵里子の顔を不躾なくらい、まじまじと見つめた彼は、「うん、やっぱり……! 南城君、あの子に似てるわ、あー、名前が出てこない! 若いころファンだったんだけどなー、えーっと……そうだ、麗ちゃんだ……!」と、勢いよく手を叩く。

「南城君は若いから知らないかなー。もう随分昔の話だけど、雑誌のグラビアによく出てた子なんだよねー、白百合麗ちゃん」

「へぇ……。その人にそんなに似てます、あたし」

「似てる似てる。や、前はさほど思わなかったんだけどさ、最近はよく思うよ。目元の感じとか、麗ちゃんにそっくり!」

 無言で黙り込む恵里子を、他の女と比べられたことに腹を立てたのだと勘違いしたらしい。怒らないでよ南城君、褒めてるんだからー、と慌てて弁解した課長は「麗ちゃん、すんごい美人だったんだよ? オッパイもこうバーンと破格の大きさでさー……」などと、在りし日の白百合麗に思いを馳せながらも恵里子の胸を一瞥、鼻の下をびよーんとだらしなく伸ばした。

「まぁ麗ちゃん、人気が出てきてこれからってときに、どこぞの社長とデキ婚しちゃったんだけどねー。まだ一〇代だったのにさー」

 当時を思い出して無念そうに嘆息をもらした課長が、「あれ、でも結局離婚したんだっけかな、よく覚えてないなぁ……。結婚後はテレビとか全然出なくなったし……」と、独り言のようにブツブツこぼす。かと思えば急にニヤっとゲスな顔になって、

「まあ麗ちゃんの一〇代で結婚ってのは早すぎだと思ったけどさ、南城君はそろそろ年貢の納め時なんじゃないのー? 噂じゃ結構遊んでるみたいだけど、そろそろ寿退社狙わなきゃ、いくら美人でも売れ残っちゃうよー? あ、もしかして、それこそどこぞの社長を物色中?」

 などと、ぐいぐい探りを入れてくる。ああもう、めんどくさー……っていうかそういうのセクハラだから! 心底そう思うが、ギャンギャン言い返して生意気だの可愛げがないだの毒突かれるのはもっと面倒だ。それでも、めそめそ泣き寝入りするようなたまでもない恵里子は、まるで挑発するような声音で――

「――え、いいんですか?」

 一歩踏み込んで不満げに課長を見据える。一体どんな文句が飛び出すのかと身構える彼に、恵里子は波打つ長い髪を耳にかけながら、

「あたしが寿退社しちゃったら課長、寂しくなりません?」

 蝶が舞うように艶やかに瞬く。

「あたしは寂しいですけどねー、課長に判子押してもらえなくなるの――」

 少し拗ねたようにそう言って、手にしていた書類をきゅっと意味ありげに抱き締める。ゴクリ、と唾を飲んだ課長は、魂を抜かれたみたいに惚けた顔になった。

 ――かかった。心の中でニヤリと口の端を吊り上げた恵里子は、「やだ、もうこんな時間……!」と、わざとらしいくらいの困り声を出す。

「実は今日、大学生の妹が田舎から出てくるんです。一八時に下野駅で待ち合わせなのに、まだ仕事が終わってないなんて……。あの子、下野のパンダ楽しみにしてたのに……」

「えっ、そうなの? それなら早く言ってよー。残ってる仕事、私が引き継ぐからほら貸して、妹さんを待たせちゃ悪いからね!」

「えっ、いいんですか……? やだ、すごく助かるー!」

 チョロすぎる課長を転がすべく、「姉にこんな頼れる上司がいるなんて知ったら、妹も泣いて喜ぶと思いますー!」とか「もう泣きすぎてマスカラ滲みまくり! 目の周り真っ黒で、『下野に新種のパンダ現る!?』なんて大騒ぎになっちゃうかもー!」などとおだてていると、

「ん……? でも下野の動物園、夕方で閉園なんじゃ……」

 気付いた課長が眉をひそめる。げ、そうなの? 内心しまった、と舌を出しつつも、

「あー、そこはご心配なく! うちの妹、パンダそのものには興味ないみたいなんですよねー。なんていうかその、動物園付近に舞ってるパンダの抜け毛が目的らしくって! たくさん集めて白黒のふわふわミサンガ作りたいんだよねー的な? だから特殊な網持って今すぐ下野に集合しようよお姉ちゃん……的な?」

「ああなんだ、そうなの? 最近の女子大生は面白いことするねぇ」

「ですよねー、最近の若い子の考えることはよくわかんないですよ、ほんと!」

 言いながら、げ、また年寄り臭いフレーズを使ってしまった、と己の台詞にげんなりしてしまう。ま、これ以上ツッコまれないうちにとっととずらかろう。残っていた仕事を体良く課長にパスした恵里子は「じゃ、すみませんけど後お願いしまーす」とにこやかに微笑む。――と、

「――南城君」

 課長がやけに重々しい声で呼び止めた。さすがにパンダの抜け毛でミサンガは無理があったか……と肩を落とす恵里子だったが、

「その、今度食事でもどうかな……? いい店を知ってるんだ、もちろんご馳走するよ?」

 課長のねっとりとした視線が、恵里子の顔――それから胸へと絡みつく。

 なんだ、そっちか……。安堵しつつもフッと冷笑した恵里子は、

「え、課長ってばご飯ご馳走してくれるんですか、太っ腹ー! 課のみんなにはあたしから伝えておきますねー! お店の予約とか幹事的なことはこっちでするんで、そのお店の名前、会社のメール宛てに送っといてください!」

 周りの社員にも聞こえるほどの大声でそう答えると、「じゃ、あたし、パンダの毛玉が待ってるんでもう行きますね~~!」と、極上のスマイルを浮かべてフロアを後にした。


 あ、待ってるのは毛玉じゃなくて妹か。や、実際は妹も待ってないけど――。

 会社の化粧室で一人、メイク直しをしながら課長とのやり取りを思い出す。ていうか結局パンダミサンガは信じるとかマジでウケるんですけど……! くくっと笑いをこらえながら、ただでさえ盛りまくりな睫毛にさらにマスカラを重ねる。

 課長にぶん投げたのはかなり面倒くさい案件だ。少し可哀相だったかなとも思うが、セクハラ発言への慰謝料とするなら安いものだろう。これでしばらくは寿ネタでいじられることもあるまい、と息をつく。

 でもあの様子だと、性懲りもなく今後も誘ってきそうだなー。まあまた『みんなでー』とか『ランチでー』とか言って誤魔化そう。非イケメンからのお誘いは街角で配られているビラみたいなものだ。適当に躱してしまうに限る。

 もっとも、仮に課長が国宝級のイケメンだったとしても、己よりかなり年上だという時点でアウトだ。恵里子の求める『彼』の条件はイケメンかつ年齢は+3まで。性格はクズならばクズであるほど望ましい。

 これ以上ないというほどに長く鋭く盛った睫毛にホットビューラーを当てると、敵を威嚇する毒針みたいなそれは、さあ狩りの時間だと言わんばかりにキッと上向く。ギラリ――黒目がちな猫目が、獲物を求める獣のように妖しく光った。

 クスリと口角を上げ、唇にルージュを引いてメイク直しは完了。だけどまだ終わりじゃない。バッグから携帯用のヘアアイロンを取り出した恵里子は、カールのゆるんできた髪をきつく巻き直す。きつくきつく、巻き直す。付け入る隙のないくらい、ぐるんとゴージャスに巻いて、仕上げに香水を振りまく。むせ返るようなイランイランの香りが渇いた心に火を付けて、ようやく臨戦態勢が整う。

 今日の装いは、ラベンダー色のシンプルなブラウス、それに黒のタイトスカートだ。一歩間違えば下品に見えてしまう色合いだし、人によっては逆に野暮ったい印象になってしまう格好だが、恵里子が身につければ不思議と魅惑的に仕上がる。

 顔も体も、身に纏う気配さえもがグラマラスに美しい。鏡に映る、完璧に飾り立てた己を、恵里子は満足そうに見つめる。

 さあて、今日も『楽しい』をコレクションしなくっちゃ――。

 不敵な笑みを浮かべる恵里子だったが、鏡に映る己に、いないはずの『彼女』が重なって見えて、ゾクリ――背筋が冷たく震える。

『あんただって私と同じよ、今に見てなさい』

 呪いのような『彼女』の言葉が頭の中でリフレインする。

 残された時間は、きっともうそんなに長くない。

 だから行かなくちゃ。楽しいことだけを狩りに行かなくちゃ。体を面白いことでいっぱいにしなくちゃ――。

『彼女』の亡霊を振り払った恵里子は、勝ち気な瞳をキッと光らせてエレベーターホールへ向かう。ちょうど到着したエレベーターからひょっこり出てきたのは、もさもさ頭の冴えないワンコ――小霞陽向だった。

「お、お疲れ様です……」

 恵里子に気付いた小霞が、ぼそりと呟いて頭を下げる。

「うっす、お疲れー。てかあんた、もう定時なのにわざわざ戻ってきたんだ?」

 この子、仕事よりプライベート重視派よね? 外回りの後は直帰しちゃうものとばかり思ってたわ。この前の花見のときだって、アニメ鑑賞がどうのって散々熱く語ってたし……。

「珍しいね、残業でもあんの?」

「や、最近は直帰の方が珍しいですけど……。ネットが二秒に一度は落ちちゃうような孤島の支社には飛ばされたくないんで、これでもいろいろ頑張ってるんです」

「ふぅん、全然知らなかった」

 花見でのらしくない助言が効いたのだろうか。仕事に意欲を持ち始めたらしい小霞が、恵里子をじいっと見つめてくる。といっても、例によってもさもさすぎる前髪が、彼の表情を隠してしまっているのだけど――。

「恵里子さんは……これから行くんですよね、夜のお宝探しに……」

 彼の声にはどこか不満の色が滲んでいた。なによ、人には偉そうに説教しておきながらそっちは夜遊びかよ、って批判したいわけ? 仕方ないでしょ、あたしはあんたたちみたいな、幸せを開拓していける側の人間じゃないんだから――。

 はぁ、と小さく肩をすくめた恵里子は、「そーよ、夜の不二子ちゃん出動ー! じゃあね~」と手を振って、閉まりかけていたエレベーターに滑り込む。扉が閉じる前、まだ何か言いたげな小霞の姿が目に入ったけれど、今はワンコのことなど気にしてはいられない。なんたって今日は、久々の『彼』で遊ぶんだから――!

 学生時代ラグビーをしていたという『彼』ならスタミナは十分、焼き肉弁当と唐揚げ弁当を足したみたいな濃厚さでガッツリ楽しめるだろう。今夜の獲物を想像してペロリと唇を舐める。

 いま会社を出るところだと連絡を入れておこう。そう思ってバッグからスマホを取り出すと、『彼』からメッセージが来ていた。あっちももう出たのかしら。確認すると……ハァ? 風邪だから今日は行けないですって――?

 まさかのドタキャンに、スマホをギリリと握り締める。もしかして、あたしよりもっと若いイイ女との約束取り付けたんじゃないでしょうね? 風邪を引いただなんて見え透いた嘘までついて――!

 元ラグビー部員が風邪ごときにやられるわけがない。そんな偏見を多分に含んだ怒りに駆られて『彼』のスマホにコールする。このあたし相手にドタキャン決めるだなんて許せない! 電話に出ないのならそれでもいいわ、向こう一週間は悪夢にうなされてしまうような恐ろしい恨み言を留守電に吹き込んでやる! なんなら夜眠れなくなるほどの怪談話を稲川淳二風に語りかけてやろうかしら……!

 意気込んでいると、長い呼び出し音の後、聞こえてきたのは無愛想な留守番メッセージ――ではなく、ゴホゴホと咳き込む『彼』の声だった。

『ああ……恵里子……今日は本当にごめん……』

 干からびた蛙みたいなガラガラ声は、超演技派俳優でも意図的には出せないクオリティだ。なんだ、本当に風邪だったのかと安堵したような、拍子抜けしたような複雑な心持ちになる。

『朝は軽い風邪気味だったんだけど、仕事中どんどん悪化してきて熱まで出ちゃってさ、結局会社早退してきちゃったんだよね……』

 自宅で寝込んでいるらしい『彼』が、ゴホゴホと苦しそうに咳き込みながら言った。

「マジで興醒めだわ。せっかく楽しみにしてたのに」

 ったく、風邪引く予定あるなら前もって教えときなさいよね、と不満をもらす恵里子に、『へぇ、意外だな。そんなに俺に会うの楽しみだった?』と『彼』は満更でもなさそうに言った。

『俺もさ、楽しみだった……』

 スピーカー越しに聞こえてくる『彼』の声は、掠れているせいかいつもよりセクシーで、熱で苦しいのだろう、漏れ聞こえてくる荒々しい息遣いもどこか艶っぽい。ああもう、これで今日はナシだなんて、ほんと興醒めだわよもう!

 ボリューム満点のスタミナ系弁当に土壇場でお預けを食らってしまった恵里子が一人焦れていると、

『やっぱ会いたいわ、顔だけでも見たい。恵里子さえよければ今からウチに……』

「あ、ムリムリ、全然よくないから! 元気になったらまた遊ばせて?」

 冷たくあしらった恵里子は返事も聞かないうちから、ていっと電話を切ってエレベーターを降りる。

 やつはあくまで『彼』であって『彼氏』ではないのだ。弱っているところを優しく看病だなんて、彼女みたいな対応を求められても困る。熱で苦しんでいる相手になんて酷い女だと思われるかもしれないが、恵里子よりもっと酷い『彼』はこの後きっと、『彼』に気のある他の女を誘うだろう。恵里子よりは劣る美貌の、だが恵里子よりずっと健気で献身的な女に、『こんなとき頼れるのはお前だけなんだ』なんて呼び出して看病させる。その女のことなど、砂粒ほども愛しちゃいないくせに――。

 なぜそんなことがわかるのかといえば、『彼』は恵里子の見込んだ一級品のクズだからだ。そしてそんなクズい『彼』は、元気になったらケロリとした顔で献身女を放置、『やっぱりお前が一番だ』なんて言いながら恵里子と寝るのだろうし、恵里子も喜んで応じるだろう。

 そう、恵里子の言うところの『彼』とはつまり恋人ではなく恋愛感情抜きの『性的なお友達』なのだ。とはいえ露骨にセフレが、しかも複数いるなどとは公言できない。恵里子が夜な夜な大人の日替わり弁当を食い荒らしまくっているだなんて知ったら、良識のある善良な婦女子――殊に、こっちが鳥肌立ってしまいそうなくらい純情乙女な親友、三春千紗は泡を吹いて倒れてしまうだろう。だから表向き、セフレのことは『彼』だと言って誤魔化している。

 さてと、早く代わりの弁当を手配しなくっちゃ。あっさりと切り替えた恵里子は慣れた手つきでスマホを操作、ストックしてある『彼』数人に連絡を送る。個別のメッセージだが文面はどれも同じだ。

〈ねぇ、今夜暇?〉

 挨拶も絵文字もなしの、ぶっきらぼうな誘いに、〈暇だったけど予定ができた。恵里子と朝まで騒ぎたい〉と超速の返信が来た。送信者は――なんだ、こいつか……。『彼』の中でも優先度低めな相手だ。正直もう切りどきかな、とも思っている。

 だけどまぁ、あと少しくらいなら楽しめるかもしれない。イケメンで同い年でクズ――恵里子の及第点はクリアしているし、だからこそ『彼』としてキープしていたのだ。

 そんな『彼』に〈じゃあ今すぐここに来て〉と待ち合わせ場所を指定した恵里子は、次々に送られてくる他の『彼』からの〈暇だけど恵里子も?〉という期待を含んだ問いかけに、〈ごめん、聞いてみただけ。あたしは全然暇じゃない〉とだけ返すと、クビ寸前の『彼』に知らせた待ち合わせ場所へと急いだ。


 待ち合わせ場所で『彼』と無事合流した恵里子は、「今日も綺麗だね」なんて飽きるほど聞いた陳腐な口説き文句を「知ってるー」と軽く受け流す。もっとも、そんな綺麗さがいつまでも続かないってことも痛いほどよく知っているけれど――。

 だからこそ今は、『楽しい』で体をいっぱいにしてしまいたい。とりあえずは腹ごしらえを、とカジュアルレストランに寄って、「俺って器用になんでもこなせちゃうだろ? だから会社でもみんな俺に頼りきりでさー」なんて、あくびが出るほど退屈な『彼』の話を、聞き流すだけの英会話教材のようにサラッと聞き流しながらディナーを済ませる。

 食事を終え、夜のレジャーランド――つまりはラブホに向かいながら、やっぱりイケてるなぁ、と『彼』の整った横顔を見つめながら思う。長身で細身の『彼』は、そのクズさとは裏腹に至極爽やかな目鼻立ち。戦隊モノのヒーローみたいな万人受けするイケメンだ。食事中のクソつまんない自慢話も、その顔に免じて許してやろう。

 だからねぇ、さいっこうに楽しませてよ? 今日のメインディッシュはこっちなんだから――と、ホテルのエントランスに入った恵里子は焦れた思いで入室を待つ。

 逸っていたのは恵里子だけではない。手続きを済ませて部屋に飛び込むやいなや、『彼』は待ちきれない様子で恵里子を抱き寄せ、ぷるりと誘う深紅の唇にかぶりつく。荒々しい蛇のような乱暴さで攻め込んできた『彼』の舌を、『獲物はあくまでそっちだから』と言わんばかりの強引さで恵里子が絡め取った。『彼』の首の裏に手を回し、いやらしい音を立てながら執拗に舌を弄ぶ。唾液の淫らな波音が劣情を焚きつけ、ねっとりとしたキスを続けながらも、『彼』の足の隙間に、己の足を割り入れて絡める。早くも汗ばむ二人の体がひときわ密着して――

「やっぱり恵里子は最高だよ……」

 一旦唇を離した『彼』が、もどかしそうにスーツのネクタイを緩める。

「実は彼女と先約があったんだ。けどそっち蹴って正解だった」

 そんなゲスいことを、『彼』はとてつもなく綺麗な顔で言った。

「あいつさ、恵里子と違って全然色気ないんだよね、ベッドの上でも積極性に欠けるっていうか、反応薄くて盛り上がらないのなんのって。まぁ外見はそこそこだし若いし、俺だけに一途だから、とりあえずキープって感じで付き合ってるんだけどねー」

 さすがは恵里子の見込んだクズの一人だ。聞いてもいないのにドクズな発言を平然と垂れ流す。『彼』にはきっと悪気などないのだろう。その美術品のような顔には、へらへらと楽しそうな笑みが浮かんでいる。

「まずはさ、シャワー浴びない?」

 恵里子が体を離すと、「だねー」とバカみたいに明るく応えた『彼』は、鼻歌交じりの軽い足取りでバスルームに向かう。

「わ、風呂の形が貝とか、夜のインスタ映え狙いかよ、えっろー!」

 バスルームを占拠する、貝殻形のバスタブを目にした『彼』が興奮気味に言った。

「あー、それね。そこのスイッチで虹色のライト点くよ。あたし的には明るいレインボーカラーより、ピンク一色の方がエロいと思うけど」

「……なんでそんなこと知ってんの?」

 先ほどまでバカみたいにへらへらしていた『彼』の顔が不服そうに歪んだ。

「なんでって、前に来たことあるのよ、他の男と」

 それ以外に知る術ないでしょ。当然のように答えると、

「他のやつと前に来たとか、ファミレス寄ったみたいな気軽さで言うなよ、萎えるだろ!」

 咎めるような視線に、「あっそ、なら帰れば?」と冷たく返した恵里子は嘲るように笑って、

「こっちは全然萎えてるように見えないけど――」

 そう言って、不自然に膨らんだ『彼』のスラックスを膝でくりくりと押し潰す。

「ねぇ、本当に萎えちゃった?」

 扇情的な上目遣いで問いかける。――と、檻から飛び出した獣のような勢いで恵里子の唇にむしゃぶりついてきた『彼』は、「シャワーは後でいいよな」と、恵里子の腕を引っ張って部屋の奥まで進み、天蓋付きのベッドに押し倒した。

「スーツ脱ぎなよ、シワになるでしょ」

 組み敷かれながらも冷静に指摘すると、『彼』は「ああ……」と起き上がり、せかせかと服を脱いでベッドそばのテーブルに投げ掛けた。

 一つ、二つ――恵里子が緩慢な動作でブラウスのボタンを外していると、「そのままでいいよ、俺が脱がすから」と、辛抱たまらないらしい『彼』が覆い被さってきた。

「なあさっきの、俺に嫉妬させたくて言ったんだろ? 俺が彼女の話なんてしたから」

 恵里子の首筋に舌を這わせながら『彼』が言った。

「お前、俺のこと好きだもんな。でなきゃこんなことさせないよな」

 全くもってそんなことはない。なのに、どうしてこの男はこうも己に都合のいい解釈ができてしまうんだろう。思わず鼻で笑ってしまう。――と、「違うのかよ」と、不機嫌そうに眉をひそめた『彼』は、ボタンの外れたブラウスから覗く、恵里子の豊かな胸を乱暴に掴んだ。ぐにゃりとたわんだ胸の谷間から、忍ばせていたお菓子みたいなコンドームがチラリと顔を出す。あらぬところからのゴム登場に、『彼』は驚きながらも薄笑いを浮かべた。

「なんだよこれ、いつからこんなもん隠してたの?」

「いつからって……今夜会えるってわかってから」

「ってことは待ち合わせの時点で既に? 食事中もずっと入れてたのかよ、やらしーな」

 なんだ、やっぱりお前、俺のこと好きなんじゃん――。にやついた『彼』が、勝ち誇ったように恵里子を見下ろす。

 まぁ実際はさっき、あんたがスーツ脱いでる隙に仕込んだだけなんだけどねー。いざ使おうってときに出すの手間取ると盛り下がるし、『いいよナシで』とか言い出されると氷点下まで盛り下がってもはや冬眠するしかなくなる。まあラブホだから一応置いてはあるけど、粗悪品だったら困るし、自分で用意したものの方が断然信頼できるしね。

 そんな恵里子の思惑を知る由もない『彼』はご機嫌顔だ。魅惑の谷間からひょいとつまみ出したゴムを枕元に移すと、慣れた手つきで恵里子の衣服に手をかけ、纏っていたもの全てをあっという間に取り去って、

「……ったく素直じゃないね、恵里子は。言えよほら、俺のこと好きだって」

 露わになった恵里子の胸に吸い付く。

「さぁて、どうかしら」

 心地良い刺激に身をよじらせながらもはぐらかすと、『彼』の唇は腰のくびれへと下がり、もったい付けるようにそこばかりを舐めた。だめよ、戻って。

「好きよ? だからこんなこと許してるんじゃない……」

 焦れた恵里子がようやく答えると、「だよな」と満足そうに笑った『彼』は再び恵里子の胸を攻め始めた。繊細な先端を転がすように舐められ、待ちわびた快感に肌が粟立つ。それでも、熱くなる体とは裏腹に頭は至極冷静で、こいつってばほんとクズ、と呆れが止まらない。

 自分だって浮気してるくせに、その相手には誠実な愛を求めるだなんて、随分とロマンチストだこと。女が体を許すのは相手のことが好きだからって? 冗談、女だって愛はなくても男の一人や二人や三人……何人だって抱けてしまえるのだ。むしろ恵里子の場合、気持ちがないからこそ簡単に寝てしまえるし、口先だけの愛ならいとも容易く囁ける。

 本当に好きなら、こんなに易々と体を許したりするものか。本当に愛しているなら、『好き』さえ軽々しくは口にできないだろう。そんな恐ろしいこと、できるはずがない。……なんて、『愛』なんていう目にも見えない不確かなもの、そもそも信じてはいないのだけど――。

 もっとも、幼少期に両親が離婚――典型的なダメ女である母に引き取られ、冷え切った家庭……というかただの家で育った恵里子に愛を信じろという方が無理な話だ。男なしでは生きられないくせにワガママで高飛車だった母は、賃貸の契約更新かってほど頻繁に結婚と離婚を繰り返し、何かあるごとに『私が幸せになれないのはあんたがいるせいよ』なんて、わめき散らしていた。実父はもちろん、歴代養父にも不信感しか抱けなかった恵里子は、愛などろくすっぽ教わらずに生きてきたのだ。

 とはいえ、恵里子だって最初からこんなクズい夜のトレジャーハンターだったわけではない。男を取っ替え引っ替えしては捨てられていた母を反面教師にして、あたしは一途な愛に生きてみせる! なんて青臭いことを考えていた時期もある。自分は母親とは違うんだ、愛のある素敵な人と幸せになるんだ、などと息巻いたりもしていた。けれど残念、母と同じで男を見る目がなかったらしい。

 愛に飢えていたせいもあったのだろう。高校時代、『愛してるよ』なんて甘い言葉にころっと騙されて入れ込んだクズ男は、『あなたになら……』と全てを捧げたその翌日に速攻で浮気した。というか、実際は遊ばれただけ。彼にとって恵里子は本命の彼女ですらなかったのだ。

 というのも彼は、『恵里子、意外と簡単にヤらせてくれたぜ? そうだ、お前らも試してみれば?』なんて仲間内に自慢していたらしい。高校生にして既に完成された美を誇っていた恵里子だが、家庭環境がアレすぎていろいろ尖りまくりの問題児だったから、彼にしてみれば『人に懐かない美麗な珍獣ハントできた俺スゲー』とか思っていたのだろう。

 彼が今まで優しくしてくれていたのは――『俺なら君の孤独をわかってあげられるよ』なんて親身になってくれたのは結局ソレが目的か。そう気付いた瞬間、愛を装った甚く汚らしいものに酷く穢されたような気がした。それからしばらくは体が壊れたみたいにゲェゲェ吐いて、愛なんて勘違い、ろくなもんじゃねぇな、と悟った。

 だけどいい勉強にはなったと思う。女心が手に取るようにわかるのはそれだけ女慣れしているからであって、キスがやたら上手いのも散々女と遊んでるからであって、つまりは口も上手くてエッチも上手い男なんて、その大抵はクズなのだ。

 そんなわけで、早い段階で愛ってものに見切りを付けた恵里子が信じているのは、目に見える確かなものだ。男でいえば顔――心の綺麗さはわからないけれど、顔の綺麗さは一目瞭然。たとえ心は嘘でも、麗しいその顔は紛れもない本物だから、安心して信じることができる。

 ちなみにクズい元カレ(もどき)は、そんなにイケてる部類の顔ではなかった。せめてイケメンなら消したい記憶ではなく、綺麗な思い出として溜めておけたのにな、と残念に思う。彼との思い出は、今となってはもう除去できぬほど根深く巣くったカビみたいなもので、見たくもないおぞましいものなのに今後も一生、恵里子の中に居座り続けるのだ。どうせ忘れられないのなら、表面だけでも美しく思い出せるイケメンの方がずっとずっとよかったのに――。そんなことを考えていると、

「なぁ、もういい?」

 恵里子の奥深いところを指で潤していた『彼』が、待ちきれない様子で言った。これ以上ないというほどに逞しく育ったものが、恵里子の腹に押し当てられる。「いいよ、つけたげる」と、一旦起き上がって枕元のゴムを開封した恵里子は、慣れた手つきでゆっくりと巻き下ろし、『彼』を確実に覆っていく。

 よく、彼氏が付けてくれないの、と嘆く子がいるけど、そういうときは自分で付けちゃえば、と答えている。強引に押し切られて変な病気をもらっても困るし、望まれずにうっかり誕生する命ほど悲しいものはないと、うっかり誕生させられてしまった側の恵里子は、身をもって実感している。

 自分から付けるなんて、はしたなくない? とも聞かれるけど、その後もっとはしたないコトするくせに何言ってんのよ、って感じしかない。後で泣きを見たくないなら、自分の身くらい自分で守らなきゃね。男に焦って適当に付けられた結果、上手く装着できていなかった、なんて悲劇も防げるし、余計な心配ゴトなしで没頭できる方が断然気持ちいいでしょ。ま、それでも一〇〇%大丈夫って保証はないから、子どもがデキて困るような相手と致すなら、それなりのリスクは覚悟しておくべきだと思うけど――。

 はい、一丁上がり! すっぽりと守られた『彼』を指先でつんとつつくと、「こら」と笑って押し倒された。それからすぐに二人は繋がって、『彼』がリズムを刻み始める。

 悪くない波が押し寄せてきている。いいわ、このままもっと――盛り上がっている最中だっていうのに、なんで今……? テーブルに投げ掛けられた『彼』のスーツから、ムードぶち壊しの振動音がする。恐らくは電話でもかかってきたのだろう。マナーモードらしく着信音はしないが、ヴーンと耳障りな振動が唸り続けている。

「ねぇ、出なくていいの?」

「ほっときゃそのうち切れるだろ……」

 言いながらも腰のビートを止めない『彼』が熱い息を漏らす。ほどなくして、不快な振動音は止んだ。――が、しばらくするとまたヴーンヴーンと息を吹き返し、それからまた沈黙、そしてまた唸る。その繰り返しだった。

 いくらマナーモードとはいえ、微かな息遣いすらこだまする秘めやかな空間で聞こえる無機的な唸りは、頭痛時に響く工事の音みたいに酷く煩わしい。

「ねぇ、出たら? たぶん彼女よ、ドタキャンなんてしたからブチ切れてんのよ。今ごろ留守録に稲川淳二風の怪談溜まりまくりよ、きっと」

 興醒めだわ、と嘆息する恵里子に、「怪談?」と眉を寄せた『彼』は、

「ほっときゃいいよカナミなんて。ったく、せっかくのいい気分を邪魔しやがって。従順なとこしか取り柄のない、つまんない女のくせにさ……!」

 苦々しげにそう言うと、苛立ちをぶつけるように腰のビートを荒らげる。ビク、と反応しながらも、「ふぅん」と興味なさそうに答えた恵里子は、淫らに潤う体とは裏腹に、心がカサカサに乾いていくのを感じて――

「そんなんじゃノれない!」

 キッと『彼』を見据えた恵里子は、勢いよく体を起こし、食らいつくように『彼』の喉仏を舐めた。獲物に襲い掛かる豹のようにしなやか、かつ獰猛な動きに、本気で喉元を噛み切られるとでも思ったのだろうか。『彼』が「ひっ」と情けない声を漏らした。――瞬間、『彼』を押し倒して攻守交代。『彼』の上に馬乗りになった恵里子は、停滞していた波を引き戻すべく体を揺らし始める。

 こんなんじゃだめ、まだだめ、もっと――! きつく巻いた髪を振り乱しながら、己のリズムで渇きを満たしていく。いいわ、この調子――。

 このままどんどん昇り詰めていきたいのに、スーツから聞こえるヴーンと冷たい振動音がそれを阻止する。それなのに、『彼』の方はそんな音、まるで聞こえてないかのように恍惚とした表情を浮かべていて、

 ――こんなクズ、地獄に堕ちてしまえばいいのに……!

 心底そう思いながらも、早く天国を見せてと『彼』の上で一心不乱に踊り続ける。激しいスイングが脳みそをもぐちゃぐちゃに掻き回し、めくるめく劣情が快を求めて暴れだす。いつもならこのままバカになれるはずなのに、

『似てる似てる。や、前はさほど思わなかったんだけどさ、最近はよく思うよ。目元の感じとか、麗ちゃんにそっくり!』

 今はまだ考えたくないことが、ぐるぐると渦になって興奮をせき止める。

 だめ、今は全部忘れて! 今はただ『楽しい』だけをコレクションするんだから――!

 纏わり付く闇を掻き散らすように、必死に踊って踊って踊って、そうしているうちに、『彼』から伝わる確かな熱が――まぎれもない他人の温もりが、恵里子の中で広がっていく。頭は相変わらず冷静で、心も砂漠のように乾いていて、だけどそれでも自分とは違う体温が、匂いが、汗が、一人では起こせない大波を呼んでくるのだ。

 やっぱりクズはいい。クズなら私情に巻き込んでも罪悪感を覚えずに済むし、心置きなく消費してしまえる。だけどただのクズじゃだめ。やっぱり綺麗なクズがいいと、惚けた顔で波を愉しむ『彼』を見下ろしながら思う。

 綺麗なクズとなら、どんな思い出だって楽しいものになる。多少下手くそでも、合間に出る声が酷く間抜けでもちゃんと絵になる。取れないカビなんかじゃない、素敵な思い出だけを残してくれるのだ。

 悦楽に身を委ねる『彼』の醜くも美しい姿を眺めながら、パシャリ――。心のシャッターを押して記念撮影をする。こんな卑猥なメモリー、とてもじゃないけど形としては残せないから、体に、記憶に、楽しかった思い出として焼き付ける。

 こうやって、楽しいを溜め込んで、面白おかしい思い出だけで体がいっぱいになったら――そのときはゲームセットが来る前に……。

 だけど今はまだ、そのときじゃないから余計なことは考えない。

 もっともっと、もっと『楽しい』をちょうだい――!

 絡みつくようなアレグロで攻め立てると、『彼』の反撃が始まる。下から盛んに突き上げられ、たらりと汗の滴る熟れた乳房が、テンポ速めのメトロノームみたいに揺れた。

 ああ、これはホンモノ――『本物』だ。『彼』の美しい姿も、『彼』から伝わる異質な熱も全てが本物で、迫りくる最高の瞬間には、恵里子も『彼』も、理屈抜きで確実に互いを欲している。その一瞬だけは決して一人じゃない。たとえそれが体だけのことだとしても、そのホンモノは紛れもない『本物』なのだ。

 もっと、もっと熱を分けてよ――!

 アクセル全開の激しいビートで踊り狂う。飛び散って混じり合う互いの汗の匂いと、絡みつくように伝わる灼熱が、恵里子をどんどん高みへ昇らせていく。

 お願いだから、あたしに『本物』をちょうだい――。

 切に願った刹那、膨れ上がった熱に波が弾けて体の芯が痺れる。駆け巡る快感が脳を騙し、ぼろぼろの心を無事に麻痺させる。

 そうして今日も、胸の奥で(助けて……!)と震える女の子の声には気付かないふりをするのだ。

 よかった、今夜もいい絵が撮れた。果てた『彼』の少し情けない顔を見下ろしながら、恵里子はいま一度パシャリ――心のシャッターを押した。


 無事に代打の日替わり弁当を平らげた恵里子は、ベッドで燃え尽きた『彼』に「おつかれー」と声をかけると、剥かれた服をひょいと回収し、素っ裸のまま一人バスルームへ向かう。汗やら何やらでべとべとになった体をサッと洗って戻ると、『彼』はまだベッドの上、暑さで萎びた野菜(でもやっぱりイケメン)みたいにぐったりとしていた。

「さっさとシャワーしてきたら? その様子じゃ今日はもうおかわり無理でしょ」

 早くしないと無駄に延長料金がかかる。親切心で言ってやったのに、「恵里子っていっつもそうだよな。ちょっとは余韻楽しむとかいう情緒ないわけ?」と『彼』は恨めしそうに言った。どうやら事後のイチャイチャタイムがなかったことが不満らしい。

「普通さ、女の方がもっと構ってくれって言ってこないか? ったくどっちが男なんだか……」

 呆れながらもバスルームに向かう『彼』の背中に、「ごめんごめん、今日も普通に良かったよ、ごちそうさまー!」と投げやりなフォローをぶつける。

 今夜も一通り楽しめたのだ。恵里子としては目的を達した後なのだから、今さらクズとイチャついてもしょうがない。むしろ、せっかくの熱や感触が消えないうちに早く家に帰らなくては、なんて思っていた。

 今後もまた味わいたいような相手なら多少のイチャイチャは提供するけど、『彼』の場合はやはりもう切りどきだな、と思う。イケメンらしく、食欲をそそる美味しそうな盛りつけだけど、夜の弁当というより、所詮はお子様ランチなのだ。幼稚すぎるし、味に深みがない。

 テーブルにだらりと掛かったままのスーツからは――またか。諦めの悪いスマホが唸り声を上げる。どうやら彼女からの連絡を放置したままらしい。あたしがシャワーしてる間にかけ直してやればよかったのに……。

 今日はこのノイズのせいでイマイチ乗り切れなかった。そもそも、仮にも自分の彼女を貶めるようなこと、ヘラヘラ笑顔で言ってんじゃないわよ、クズのくせに。彼女への、あの無礼すぎる仕打ちがなければ、こっちだってもっとバカになれたのに――。

 恵里子が『彼』と体を重ねるのは、それが刹那的なものであっても『楽しい』という感情を収獲できるからであって、快よりも虚しさの方が大きくなったら、たとえどんなに体の相性がよくてもその関係には何の意味もない。つまりは『彼』の捨てどきなのだ。

 ヴーン、ヴーン、ヴーン……スマホは相変わらずクズを求めて泣いている。魔が差した、とでもいうのだろうか。気付けば『彼』のスマホを手にしていた。画面に表示されている発信者名は〈加菜美〉。先ほどベッドで聞いた名前と同じだ。『彼』のハニーで間違いないと判断した恵里子は、何のためらいもなく応答ボタンを押すと、

「あ、もしもしカナミちゃーん、元気ー?」

 恐らくは全く元気ではないであろう相手に、歌のおねえさんかってほど明るく語りかける。応答したのが『彼』ではなく、浮気相手と思しき女だったことに戸惑いを隠せないカナミは、しばしの沈黙のあと、絶望と怒りに震える声で言った。

『……彼に、彼に代わってください、今どこにいるんですか!』

「あー、シャワー中だからしばらく出てこないよ? ここのバスタブ貝殻の形してんだけど、今ごろ彼、虹色のヴィーナス誕生って感じになってるわ、たぶん超ウケる絵面だと思うんだけど、なんなら写メって送ろうか?」

 そんなものいりません、ふざけないでください! ……なんて激昂してくるかな、と思ったのに、彼女の反応は恵里子の意図しないもので、

『……いないの……私には彼しかいないの……。お願いだから彼を取らないで……!』

 どうやらカナミは泣いているようだった。途切れ途切れの、しゃくり上げるような声がスピーカー越しに震える。女の涙は嫌いだ。恵里子はハァとため息をついた。

 ったくあのクズ、クズならクズらしくクズ女とつるんでなさいよ、こんな遊び慣れてない子にまで手を出すなっての! バスルームの虹色ヴィーナスに殺意を覚えた恵里子は、

「『彼』とはあんたが思ってるような疑わしい関係じゃないわ、単にイカガワしいだけ! それも今日で綺麗サッパリおしまいだしね」

 そうあっけらかんと宣言すると、「あいつ、あんたのことボロクソに言ってたわよ? あんなやつのどこがいいわけ、やっぱり顔?」と畳み掛けるように続ける。

「あたしの大好物、ドクズなイケメンなのよ。そんなあたしに選ばれるような『彼』、ろくな男じゃないんだから、めそめそ泣いてる暇があるならさっさと別れてもっとイイ男捕まえなさい、あんたまだ若いんでしょ?」

『えっと……二二です』

「にっ、二二……!? 若っ、孫かと思ったわよ! それならなおさらあんなクズやめときなさいよ! あいつ、高嶺の花すぎるこのあたしにも怖じ気づくことなくサラッと手を出すような豪胆さだもの、あたしとの関係が切れたって、別の女を手軽におつまみしちゃうわよ、レジ横で〈どうぞご自由に〉って盛られてる飴玉取ってくくらいの気軽さでヒョイヒョイつまんじゃうわよ、そういう男なのよあいつは!」

 ほぼノー息継ぎで捲し立てた恵里子は、「そうだわ! こうして知り合ったのも何かの縁だし、あたしがもっとイイ男紹介するわよ、連絡先教えて、ほら早く!」と、思いつくままに追い立てる。え……えっと……と戸惑いながらも、恵里子に気圧されたカナミは、おずおずと連絡先を告げ始めた。

 ちょっ! こんな見ず知らずのアヤしい相手に、そんな簡単に個人情報漏らしちゃだめでしょ……! 自分で聞いておきながら不安になってくる。この子ってば押しに弱すぎ。こういうとこがクズ男にカモられちゃう所以なんだろうけど大丈夫かな……。心配になりつつも己のスマホを取り出して〈カナミ〉を登録、「じゃ、あとで連絡入れるわ!」と通話を終了した。

 バスルームからはまだ水音が聞こえている。『彼』はまだ絶賛虹色ヴィーナス中らしい。カナミとのやり取りを知ったら一体どんな顔をするだろうか。慌てるだろうか、怒るだろうか、それとも慣れた様子でヘラヘラ笑うんだろうか。

 いずれにしても、性格はともかく顔だけは最高な『彼』だから、どんな表情でもとても美しく決まるのだろう。もっとも、それを確認することはもうないのだけど――。

 身支度を整え、バッグを手にした恵里子は、『彼』が前払いしていたホテル代のきっちり半額をテーブルの上に置くと、『彼』に声をかけることなく一人で部屋を出た。

 夜をエンジョイする際の食事やホテル代は基本ワリカンだ。自らが楽しむための必要経費だから別に全額を出してもいいのだけど、相手の方が『俺の格好がつかないから』と嫌がるので半々にしている。半分ずつなら対等だからまあいいかな、と思う。『全額出すよ』と言ってくる男は多いし、というかほぼ全員が奢りたがるのだけど、お金を出されてしまうとなんだか自分がその金額で消費されている気がしてすごく嫌だ。といっても、夜が絡まないランチなんかは、ありがたく……というかむしろ積極的にご馳走してもらっているのだが。

 ちなみに言うと、相手を置いて先に帰るのもいつものことで、『彼』のクズさに嫌気がさしたから苛ついて出てきたってわけじゃない。いつも、誰とでもそうだ。たとえその日が泊まりでも、部屋を出るときは自分から先に出ると決めている。とはいえ、おかわり確定な『彼』なら『先に帰る』と一声くらいはかけていくけれど――。

 ホテルから出た恵里子は、通りでタクシーを捕まえ自宅へと急ぐ。急いで帰ったところで誰も待ってはいない。必要最小限の物しかない殺風景な部屋は、住人の派手さとは真逆で極めてシンプル――コンクリート打ちっ放しの壁は温かみゼロで、スチールのベッドは病院みたいに味気がなくて酷く他人行儀だ。

 それでも、今日も自分で『彼』を置いてきたのだから――自分が置いていかれたわけじゃないのだから大丈夫。ひやりと寂しい布団だって、今この体に残っている『彼』の熱で充分に暖められる。だからこそ、この体から人の熱が消え去ってしまう前に、早く帰らなければ――。

 景色を見ようとタクシーの窓に目をやる。深夜でも賑々しい都会のネオンは慰めの足しにはなる……はずだったけれど、ふとガラスに反射して見えた己の姿に――いないはずの『彼女』の影に再び心は陰る。

『似てる似てる。や、前はさほど思わなかったんだけどさ、最近はよく思うよ。目元の感じとか、麗ちゃんにそっくり!』

 ちゃちなセクハラ発言よりもずっと恐ろしい言葉だった。まさか白百合麗に――母に似ているなどと、課長から指摘される日が来るとは夢にも思っていなかった。

 ガラスに映る己を今一度見やると、かつては父親似だったはずの顔が、若き日の母に恐ろしいほどよく似ている。

『あんただって私と同じよ、今に見てなさい』

 呪いのような母の言葉が頭の中をリフレインする。

 考えちゃだめ――。亡霊を振り払うように首を振った恵里子は、そうだ、とスマホを取り出してメッセージアプリを起動、捨てたてホヤホヤの『彼』をブロックすると、大企業の顧客リストかというほど膨大な数の連絡先から数人をピックアップして、例のカナミ宛てに送る。

 紹介したのは、今日の『彼』よりイケメン度は低いけれど、みんな真っ当なイイ男……というか良い男だし、だからこそ恵里子は味見もしなかった純粋な男友達だ。カナミの未来に幸あれ、と願いながらも、心は上手い具合に晴れなくて、よせばいいのについ検索してしまった。

 検索ワード――〈白百合麗〉

 自動で表示された画像一覧に、見覚えのありすぎる、水着姿の女性が表示される。もう随分と昔の写真だから、水着の形も柄も時代後れなのだけど、微笑んでいる白百合麗――母の笑顔は今も褪せることなく美しく輝いていて、それがまた一段と恵里子の心を苛む。

 さして目新しい情報は見つからなかった。各種SNSでも、昔のグラビアアイドル――しかもデキ婚で事実上引退した者のことなど、今さら誰も言及したりはしない。ただ一つ見つかったのは、『あの人は今!?』的な下らないゴシップ記事だった。

〈泥棒猫は変死していた!? 元グラビアアイドル・白百合麗の悲惨な末路!〉

 そんなタイトルで勝手気ままに書かれた記事には、誰がいつ提供したのだろうか、もしかしたら隠し撮りなのかもしれない、他界する少し前くらいの母の写真があった。先ほど検索で出てきた全盛期の彼女と同一人物とは思えぬほどの、醜くやつれ果てた姿だった。〈え、これがあの白百合麗?〉〈ひでぇ劣化ぶり、これじゃテレビとか出てこられなかったわけだ〉なんて、コメント欄は心ない言葉で荒れ狂っている。

 死亡時すでに落ちぶれており、世間から忘れ去られていた白百合麗――その訃報が大々的に報道されることはなかった。だから、〈彼女もう死んでたんだ? 悲惨な最期だけど、まぁ自業自得だよねー〉なんて、驚きを含んだ揶揄も多かった。

 今日の話しぶりだと、課長もまだ母の死を知らないのだろうし、もう一生知ることはないのかもしれない。今日たまたま母の話をしたのだって、娘の恵里子に昔の記憶を刺激されただけで、積極的に思い出したかったわけではないのだ。

 白百合麗――母が亡くなって、もうすぐ六年――。

 しくしくしく――。胸の奥で女の子が泣いている声がした。

 大丈夫だよ、あたしも幸せにはなれないけど、それでも最後はちゃんと笑って終わらせるから……。誰にも気付かれないうちに、美しいまま、桜みたいに散ってみせるから……。

 だけどそのためにはもっと『楽しい』を集めなくちゃ――。

 だから、それまではまだごめんね……。

 そう心の中で呼び掛けて、恵里子は再び耳を塞ぐ。

 しくしくと泣く少女の声は聞こえなくなった。