プロローグ


 薄衣のような雲をまとった月が、夜空に鮮やかな光の環を描き出している。

 七月下旬のある日のこと。六角牛山の麓にひっそりと佇む神社の境内には、白昼の激しい日射しの名残は既にない。樹齢を重ねた木々の間を吹き抜けてくるのは、思いがけないくらいに清涼な風と、森の香気だけだ。

 昼夜の寒暖差が激しい遠野の地では、真夏の夜であっても肌寒いほど気温が下がることがある。だから油断して薄着のまま眠ったりすると、翌朝思わぬ体調不良に見舞われたりもするのだが、今はこの涼しさが本当にありがたかった。

 長い参道を歩き、苔むした石段を上ってくるうちに俺――緒方司貴の鼓動も少々早くなっていたようだ。火照った頬を撫でていくそよ風を感じながら、目を閉じてただ待っていると、やがてそのときはやってきた。

 どどん、と打ち鳴らされた和太鼓の音が、境内に張り詰めていた清冽な空気を震わせる。さらに松明に火が灯されると、目の前が一気に朱に染まった。

 視界の先でわさわさと異形の影がうごめき、左右に分かれて道を形作ったように見えた。その中央を堂々と、痩身の青年が歩いてくる。

「――くはははは! 待たせたな者ども! とくと目に焼き付けるがいい!」

 ある程度足を進めた辺りでくいっと顎を上げ、固唾を呑んで見守る観客たちを睥睨するようにしながら、不敵に高笑いを響かせるその男。

 その容姿を端的に表現するならば、悔しいが美形と言う他はない。細面で鼻は高く、目尻は切れ長で眼光は鋭い。腰まで伸びた黒髪の生え際からは小ぶりな二本の角が飛び出しており、全身から漂うワイルドな空気感に神秘性のアクセントを加えている。

 彼の名は酒呑童子。千年を生きる鬼の王である。

「ようやくときが来た! オレ様の真の力を見せてやるときがな! 脆弱なる者どもよ、恐れ戦くがいい! 暴虐の到来であるぞ!」

 言いながら歩を進め、やがて彼が足を止めたのは、篝火に照らされた決戦の場の中心だった。とはいってもその舞台は簡素なものである。砂地を大縄で囲んで敷居を作っただけのもの――つまりは即席の土俵なのだ。

「……おいおい。土俵の上で無駄口を叩くんじゃねえよ」

 仕切り線の向こう側から苦言を呈したのは、見るも奇怪な緑の怪生物である。

 ぱっちりとした両目に平坦な鼻。黄色い嘴にゴム風船みたいな肌。背中には大きな甲羅を担ぎ、ワカメ状の髪が生えた頭にはお皿が載せられている。その姿形こそどこかのマイナーなゆるキャラにしか見えない河童だが、明かりの加減でえらく陰影の濃い顔つきになっており、やたらとシリアスな雰囲気を醸し出していた。

「言っておくが、おいらに手加減なんて期待しねえ方がいいぜ? 特に、土俵の上ではな」

 水搔きのついた手で塩を撒き、豪快に四股を踏んで迎え撃たんとする河童。

 対する酒呑童子は、「その意気やよし!」と何故か上機嫌である。和服の胸元からばっと諸手を出し、筋肉質な上半身を露わにすると、首を左右に曲げてこきこきと音を鳴らした。

「ならばこれ以上の問答は無粋だな! ただ力にて語り合おうではないか!」

「いいぜ、胸を貸してやる。かかってこいよ!」

 裾を上げてふんどしを見せつつ前傾し、臨戦態勢をとる酒呑童子。

 河童もそれに呼応するように腰を落として、蹲踞の姿勢をとった。

 二人の戦意は既に臨界点に達しているようだ。至近距離で交錯した視線がばちばちと火花を散らして空気を白熱させる。もはや待ったなし。

「ではゆくぞ。はっけよーい――」

 行司をつとめるカラス天狗が軍配を縦に振り、「のこった!」の合図とともに両者が地を蹴った。

 直後、ずどん、と爆発音に近い音が周囲に響く。

 衝突の余波で篝火がぶわっと揺れ、辺りに火の粉が舞った。

 おおっ、と思わず声が漏れたが、目を奪われたのは闘いの熾烈さなどにではない。美しい弧を描きながら高く宙を舞う、哀れな酒呑童子の姿だ。

 はっきりと言おう。今のは相撲ではない。

 交通事故である。

 およそ体格から想像しうる結果を裏切り、背丈にして河童の二倍はあるはずの酒呑童子はきりもみ回転しながら優雅に空を飛び、やがてズシャアと派手な物音を立てながら砂利の上に着地した。側頭部から地面を削り取るようにだ。これは死んだか?

「……だから止めておけと言ったのに」

 実際のところ、結果は最初から見えていたのである。河童はああ見えて遠野妖怪の中でも有数の力自慢。口ばかり威勢がいい酒呑童子が勝てる相手ではないのだ。

 一体何故こんなことになってしまったのかと言えば、意外にも経緯は単純である。

 毎年この時期になると、遠野では妖怪たちによる秘祭が催されているのだが、その祭りを見物したいと酒呑童子が訪ねてきたのが今日の昼間のこと。

 彼は普段、東京で舞原玲奈さんという新人女優と一緒に暮らしているのだが、ここ最近はずっと暇を持て余していたらしい。というのも、この夏に公開された彼女の初主演映画がスマッシュヒットしたため、取材や番組出演、新作ドラマの撮影などで引っ張りだこになっているからだ。

 仕事場についていくことを禁止されている酒呑童子は、彼女が忙くて相手をしてくれないことに拗ね、置き手紙一つ残して家出してきたのである。まるで授業参観に親が来ないと嘆く小学生児童のような行動だが、そのまま口に出すのはさすがに可哀想なので言及はしなかった。

 ……で、彼が来たのが奇しくも妖怪祭りの開催予定日だったものだから、河童は「丁度良かった!」と大喜び。そしてオープニングセレモニーがてら行われた相撲の取組の結果が、目の前に展開されているこの惨状なのである。

「おい、大丈夫か? 生きてるか?」

「――くっ。クハハハ! なんのなんの!」

 心配する俺をよそに、酒呑童子は地面を叩いて勢いよく起き上がった。

「ふ、ふふふ。なかなかやるではないか! 緒戦は引き分けといったところかな!」

「いや。どう見ても負けだよ、おまえの」

 立ち上がりはしたものの、生まれたての子馬のごとく彼の膝は震えていた。

 それでも鬼王のプライドからか、「いやいや」と頑なに敗北を認めようとしない。

「勘違いするなよ? 本気でやればオレ様の勝ちは揺るがないのだ。だが魔眼を使ってしまってはあまりに一方的な試合になってしまい面白くない。あくまで相撲を楽しむため、自らに制限を課した上での負け……いや引き分けなのだ。わかるな?」

「はいはい」

 わかったわかった、と軽く流しておく。その本気とやらを出したおまえを未だに見たことはないのだが、まあそれも黙っておいてやることにしよう。

「何だその白々しい反応は……。ならば次はおまえが行くがいい! そしてオレ様の仇討ちをするのだ!」

「やるわけないだろ。俺には自殺願望なんてないんだよ」

 こちとら普通の人間である。誰が二の舞など演じるものか。

 それに敗北の味ならもう知っている。一度だけこの妖怪相撲に参加したことがあるのだが、騙し討ちに近い形で土俵に上げられて彼同様、一撃で宙を舞って即座に意識を刈り取られた。あんな体験は二度と御免だ。

 しかもあのときとは違い、周囲も俺に期待していない。ちらりと横目に土俵を見ると、何事もなかったかのように次の取組に移っているようだ。大半の観衆の興味も、河童が何連勝できるかというところに変わっている。

 何人かはこちらを見ているが、「あれが伝説に聞く酒呑童子? 全然大したことなかったな」などと陰口を叩いている始末だ。もう他人の振りを決め込んで、とっとと帰ってしまいたいところである。

「……ふん、このヘタレめ。まあ無理強いはせんがな」

 ぶつくさ文句を言いながらも、酒呑童子はすぐに提案を引っ込めた。

 というかこいつ、首が変な方向に曲がったままなのだが本当に大丈夫か?

「ならば、あちらで酒でも呑むとしよう。旧交を温めるついでにな」

 彼は観客席の後方、社の方へと指を向ける。そこには赤い敷物が敷かれた雅な空間があり、早くも樽酒を開封して盃を酌み交わしている一団が見えた。

「ああ、悪い。それがな……」

 普段ならば付き合うところなのだが、生憎今夜は予定があるのだ。

「この後まだ、仕事が残っているんだよ。今夜は河童に付き合ってもらってくれ」

「仕事だと? 親友がこれほど頼んでいるというのにか?」

 酒呑童子は不服そうな顔をする。だが親友と呼ばれて悪い気はしない。

 口調は乱暴で振る舞いは傍若無人。ときに何をしでかすかわからない危うさを感じるやつだが、根っこのところは素直で情が深い。性格もさっぱりしていて常に前向きで明るくて、付き合っていて気持ちの良いやつなのだ。だから友人扱いされることは正直嬉しく、ちょっと面映ゆい気持ちになりながら言葉を返す。

「本当にすまない。小説の締め切りが近くて、いま余裕がなくってさ」

「むう、そっちの方の仕事か。そういえば……」

 腕組みしながら、酒呑童子は何かを回想するように視線を上に向ける。

「おまえの本を、前に玲奈が読みふけっていたことがあったな。次に会うことがあれば、新作も期待していると伝えてくれと言っていたぞ。その邪魔をしたとあっては、聞こえが悪かろうな……」

 仕方があるまい、と彼は納得したようにうなずく。意外にもすんなり諦めて解放してくれるようだ。こういうところに器の大きさを感じないでもない。

「まあ機会はあるだろう。オレ様も、しばらくここの社に逗留するつもりだからな。時間のあるときに付き合え、我が友よ!」

「ありがとう。おまえも程々にな? 酒も相撲も」

「ははは! そうはいかんな!」

 酒呑童子は再び哄笑を高らかに響かせる。変わらず首は曲がったままで。

「見ておれよ! 今度まみえるときには、遠野の番付表をオレ様が塗り替えておいてやるからな!」

「はは……。まあ頑張ってくれ。期待してるよ」

 じゃあな、と別れを告げ、手を振って踵を返した。あまり彼と話し込んでいると、去り難くなってしまうだろうと思ったからだ。

 参道を歩いて戻る途中、一度だけ境内を振り返ってみたが、篝火に照らし出された妖怪たちの宴は実に奇々怪々。目を惹き付けられる魔性の魅力に満ちていた。

 河童、天狗、青入道、小豆あらい、土蜘蛛、化狸に化狐……。妖怪祭りの期間中には遠野の外からも多くのあやかしが訪れるので、初めて見る顔もたくさんいるようだが、一様に綻んだ口元を見る限りみんな心から楽しんでいるようだ。

 寿命の楔から解放され、悠久のときを生き続ける彼らは基本、暇を持て余している。だからこういった催し事が大好きなのだ。

 そしてお祭りの場では、種族の差や確執を忘れて、殊更に陽気であろうとしている。各々がその裏側にどんな悲しみや苦しみを背負っていたとしても。

 そんな彼らとともに過ごす時間は俺にとっても愛おしく、既に失いたくないものとなっていた。惜しいことをしたかなと思わなくもなかったが、締め切りに追われているのもまた厳然たる事実。

 後ろ髪を引かれる想いを断ち切って、俺は帰路についたのだった。



 自室に戻って座卓の上に原稿用紙を広げ、ボールペンを構えた体勢になってから、すでに一時間が経過しようとしていた。

 岩手の老舗旅館〝迷家荘〟で番頭を務める俺は、小説家でもある。この二足の草鞋生活も三年以上になるが、これまで不便を感じたことはない。何故かというと、小説の仕事が占める分量があまり多くはないからだ。

 デビュー以来、一年に一冊ペースで本を上梓しているだけなので、日々こつこつ原稿を書き溜めていれば、早々締め切りに追われるような事態にはならないのである。

 しかしここ最近、何故だか筆が、とても重く感じる。

 自分でも驚くくらいに、小説が書けないのだ。

 今さらながら自己分析をしてみたところによると、これまで俺を執筆に駆り立てていた原動力はルサンチマンの発露というか、社会的に無力な自己への憤りというか、反骨精神というか、まあ多分そんなところだったのだと思う。

 けれど現状、私生活は満たされている。衣食住は足り、職場には優しい上司と同僚ばかり。順風満帆に日々の仕事を終え、心地よい疲労感とともに部屋に戻れば気の置けない友人たちがいて、穏やかな空気に包まれたまま良好な精神状態で眠りにつく。

 そんな日常が続くのならば、それはそれで幸せなのだろうが、結果として表現者の勘が鈍るのも仕方がないことのように思えた。

「……うん、これは仕方ないな。仕方がない」

 原稿用紙の上で構えたボールペンも、空しく宙を掻いているだけ。未だ一文字たりとも原稿に落とせてはいない。ここ数日ずっとこんな状態だった。

 なのに危機感はあまりなかった。それが自分でも意外に感じた。

 小説を書くことしか頭になかった十年前。何かに取り憑かれたようにずっと本を読み漁り、泥沼の中で足掻くように文章を紡いでいた。

 けれどその頃の情熱はもうない。精神が老成してしまったのか、他に守るべきものができたせいなのかはわからないが……。どこか冷めた視点で小説家としての自分を眺めていることに、少し前から気付いていた。

 ――いかん、ネガティブになっている。

 溜息をつきながら首を横に振ると、壁際に座った少年の姿が目に入った。

 そういえば先程からときどき、彼がページをめくる音が耳に入っていたなと考える。赤い女物の着物に身を包んだその少年は、迷家荘の守り神でもある座敷童子だ。

「ねえ先生」

 見つめられていることに気付いたのか、童子が顔を上げてこちらに視線を向ける。

 外見年齢は十歳くらい。なのに一見してそれとわからないほど端正で大人びた顔立ちをしている。掌サイズの小さな顔には鼻筋が凜々しく通り、黒目がちの大きな瞳と引き締まった口元は、見慣れているはずの俺にすら理知的な印象を抱かせた。

「あのさ、これの続きってあるの? もう読み終わっちゃったんだけど」

 手元の本を閉じながら訊ねてきた彼に、俺は疑問を返す。

「何を読んでたんだ? 漫画じゃなさそうだけど」

「あんたの本棚にあった本だよ。〝烏丸天明〟」

 童子の口から出てきたその名前に、内心とても驚いた。

 烏丸天明とは、日本で最も有名な妖怪小説家の名前である。

 だから当然、俺にとっても憧れの大作家であり、無論その著作は全て網羅している。ほとんどバイブルのように読み込んでいると言っても過言ではない。

「あ……ああ! もちろん続きもあるぞ。だけど今は和紗さんに貸していて――」

「そっか。ならいいや。んじゃそろそろ寝ようかな」

 すぐさま諦めて立ち上がった童子は、んーと声を上げながら背伸びをする。

 さっくり話を切り上げるつもりのようだが、同好の士を見つけて嬉しくなった俺は再び「なあ」と呼びかけてしまう。だって普段、漫画しか読まない童子が小説に嵌るだなんて、これはもう天変地異レベルに凄いことなのだから。

「ちょっと感想聞かせてくれよ。やっぱり面白かったか? 凄いよな烏丸作品は!」

「ん……? まあ、そりゃあね」

 返答とは裏腹に、童子の反応は冷淡なものだった。まあ普段から感情を表に出さないやつなので、本音のところはわからないが。

 彼の表情は基本、非常に読み難い。というのも、その無精な性格を物語るように伸びたボサボサの黒髪が、顔の左半分を覆い隠しているからだ。

「安定した面白さがあるよね。いくら読んでも疲れないし、読むほどに先が気になる。あんたも早くこれぐらい売れて、僕を楽させてくれよ」

「いや、なんで俺がおまえを養わないといけないんだ。というか今だって別に遠慮してないだろ? この金食い虫め」

 予期せず飛んできたカウンターパンチに、じと目になりながらそう返す。

 迷家荘を依代としている彼は、別段食事をしなくても死なない。だから養われないと生きられないなんてことはないのだ。なのに、毎日おやつ代と称して財布から小銭を抜いていくこいつは、俺にとっては貧乏神と紙一重なのである。

「あっそ。んで、あんたの原稿はちょっとは進んだのかい?」

「うぐっ」

 痛いところを突かれた俺は、うめき声を上げながら答えた。

「……いいや、全然」

「ふうん。まあ書けないときに無理しても仕方ないかもね。あんたもそろそろ休んだ方がいいんじゃない?」

 言うだけ言って返事も待たずに押し入れの襖を開け、自分の寝床に帰っていく童子。その口振りからして、実は俺の様子を気にかけてくれていたようだ。

 途端に子供じみた皮肉を返した己が恥ずかしくなり、ただ所在なさに後頭部を掻く。

 童子の言う通り、時計を見れば既に午前二時である。旅館の仕事は朝が早いので、そろそろ眠らないと厳しそうだ。未だ雪原のように真っ白な原稿は気になるが……。

「……仕方ない、か」

 多分そのうちに書けるようになるさ、と逆に楽観的に考えることにした。

 今まで何とかなってきたのだから、きっと今回も大丈夫だろうと思う。

「というわけで空太、そろそろ寝ようか」

「きゅうん」

 座卓の下で丸くなっていた化狸の空太が、嬉しそうに立ち上がって膝に頬を擦りつけてくる。

 母親代わりの妖狐がいない間、空太は俺にべったりである。部屋の中にいるときは片時も傍を離れないし、寝るときは腕の中にすっぽりと収まり朝まで幸せそうに寝息を立てている。その蕩けそうな表情は俺にとっても精神安定剤であり、快眠と気持ちの良い目覚めを保証してくれるものでもある。

 そして布団の準備をしながらしみじみと考える。別に小説を書くことが嫌いになったわけではない。今は彼らと過ごすこの時間を大切にしたいのだろうと。

 空太がいて、座敷童子がいて、河童がいて、妖狐がいて……。

 和紗さんや絃六さんや大女将や伊草さんや、みんながいるこの迷家荘で過ごす日常を、俺は何より一番大切に想っているのだと。

「おいで、空太」

 明かりを消して横になりながら呼ぶと、空太はいつものように布団に潜り込んで俺の左脇に入った。そのまま腕の付け根を枕にし、鼻先だけ掛け布団の外に出して満足そうに吐息を放つ。

 こうして一日が終わっていく。不安も期待も成長も挫折もない、特筆することなど何もない平和な一日が。


 けれど俺はこのとき、まだ何もわかってはいなかったのである。この何気ない日常が、実はどれだけ貴重なものだったのかを。

 もうすぐ遠野の地を訪れる来訪者によって、俺の平穏なる生活の全てがあっけなく、跡形もなく破壊されてしまうことを――



第一話 災禍の招き手


 果たして、俺の平穏なる日常を破壊した者の正体とは……。

 あまり勿体つけても仕方がないので早々に明かすことにするのだが、その正体とは担当編集者の進藤久臣だった。

「――すみません緒方さん。急に呼びつけてしまって」

「いえいえ。こちらこそご足労頂いてしまって……」

 予想外の事態に恐縮しきりの俺がいるのは、遠野駅にほど近い場所にあるレトロな喫茶店のテーブル席である。

 進藤さんが遠野に来ると知ったのは今朝のことだ。だが彼からのメールには用件が書かれておらず、『近くまで行くので会えないか』とだけ記されていた。

 考えるまでもなく、これは異常事態だ。東京の出版社でいつも雑務に忙殺されているはずの彼が、どうして岩手県の遠野市なんて辺境の地までやってきたのだろうか。まるでわからない。

 いや、まさかと思うことはあった。現状、原稿は遅々として進んでおらず、彼には言い訳ばかりしている状況だ。そのことを考えるだけで背中にとめどなく汗が噴き出してきて、クーラーの直下の席にいた俺は凍えるような寒さを味わった。

「……あのう、勘違いさせているとは思いますが」

 席について一息つくなり彼は、何やら神妙な顔つきになって言った。

「ここに来たのは緒方さんの担当業務とは別件でして……。せっかく近くまで来たので挨拶だけでもと思ったのと、あと少しお願いがありまして」

「えっ? そうなんですか?」

 原稿の催促ではないのか、と内心ほっとする。

「いえ、原稿の進捗が気になってるのも事実ですよ? 軽く打ち合わせもしておこうと思っていたんです。七月の末には第一稿が仕上がりそうだと言ってましたよね?」

 油断しかけた心の脇腹に、ぐっさりと追及の矢が突き刺さった。

 その痛みに声を上擦らせながら、「そうですね」と俺は答える。

「ええと、ちょっと遅れていますかね。七月末は無理そうですので、八月の初めか、中旬か、最悪でも月末には何とか……」

 自分で口走っておいて何だが、曖昧にも程がある返事だった。

 自然と目も泳いでしまい、同時に腹の底から悔恨が込み上げてくる。昨夜は何故、一ページも進めずに寝てしまったのだろうか。少しでも書いておけば、もっと毅然としていられたかもしれないのに……。まあ焼け石に水だった気もするが。

「なるほど。予定は遅れているが、良い物には仕上がっている。そう思ってよろしいですね?」

 進藤さんは大学時代にはラグビーの選手だったそうだ。なので、見るからに体つきはがっしりとしており、太股はスラックスをぱんぱんにしている。それが笑顔のまま威圧を加えてくるのだからたまらない。

「え、ええ。もちろん!」

 と、何とか作り笑いで答える。頬が引き攣ってくるのを抑えつつ。

「最近は体の調子も良くてですね、生活にストレスがないと言いますか……。旅館の仕事の方にも慣れて、自由な時間がとれるようになったんですよ。ええ本当に」

「それなら良いんですけどね……。まだスケジュールに余裕はあるから急かしはしませんが、なるべく早くお願いしますね?」

 こちらの焦りを見透かすような目をしながらも、彼は可笑しそうに口元を緩める。それで空気が一気に弛緩していった。

 進藤さんとはデビュー以来、かれこれ八年の付き合いになる。出版した書籍は十冊を超え、それなりに喧嘩もしてきたし、熱く夢を語り合ったこともある。

 当然、下手な言い訳など通用するはずもない。それでもこんなに優しい目を向けてくれるのは、地道に構築してきた信頼関係ゆえの温情だろうと思えた。

「あのう、それで、実はご相談があるのですが――」

 ただし今の彼の表情は、これまでに見たことがない種類のものだった。

 柄にもなくテーブルの上で指を組んだり解いたりしながら、何やら気まずそうな声を漏らす進藤さん。まさかこれは……?

 すぐさま直感する。前作の売上げが芳しくないせいで、もう新刊が出せないのではないかと。

 有り得ない話ではない。初版部数だって今や新人作家と変わらないレベルだし、年に一冊しか本を出さないため離れてしまったファンも多いだろう。

 もしもそうなら、彼のこの反応もうなずける。原稿を依頼してしまったのはいいが、上の方針で本が出せなくなったのだ。決まりの悪い顔をして当然。

 この業界にいればよく聞く話だが、出版社側の都合で執筆中の原稿が世に出せなくなったとしても、労働に対する対価はほぼ発生しない。俺にとっては完全にタダ働きということになる。だから進藤さんは口を濁しているのだ。

 恐らく編集者の立場では、「すみません」と頭を下げることしかできないのだろう。彼もサラリーマンである以上、会社の命令は絶対。俺と専属契約をしているわけでもない以上、手切れ金のようなものも発生しない。ただ平身低頭謝ってこの場を収めることしかできないに違いない。

 もちろん本が出せなくなることは純粋に哀しい。以前の俺ならば、目の前が真っ白になるほどのショックを味わっただろう。

 ただし今は文句なんて言えない。それどころか心苦しさすらある。何故ならばその原稿は未だ、プロローグすら完成していないのだから。

「だ、大丈夫ですよ? 俺なら何を言われても平気ですから」

 重い沈黙を挟んだ進藤さんに、そう声をかけつつ脳内で会話のシミュレーションを繰り返す。できるだけ相手を傷つけないように、その上でなるべく自身も傷つかないようにしなければ――

「ありがとうございます」

 そこで彼は、ふっと吹っ切れたような笑みを浮かべた。

「そう言っていただけて心が楽になりました。……正直、緒方さんの担当編集者としては失格だと思います。仕事以外のことで、お手を煩わせることになってしまうかもしれませんので」

「……ん? 仕事以外のことで?」

「ええ。もうすぐここに来られると思いますが――」

 何かを言いかけたタイミングで、店の入口に備え付けられた鐘がカランと鳴った。

 それから入店してきたのは、灰色のシャツに細身のレザージャケットを着こなした人物である。その、初老の域に差し掛かった白髪の目立つ男性は、やけに鋭い目つきで店内を見回した後にこちらに歩み寄ってきた。

「進藤くん、そこにいたか」

「はい、先生。道には迷われませんでしたか」

「勝手知ったる、というやつだ。ここには腐るほど足を運んでいるからな」

 皺深い顔つきに精力的な笑みを湛えながら、男は進藤さんと親しげに言葉を交わす。

 背が高くてスタイルも良く、全体的に若作りな印象のある風貌だ。髪も八割は白髪だが毛量は多く、センターから両脇に分けて知的かつ上品にセットしていた。

 何より特徴的なのは、その強すぎる眼光であろう。大きな目が眼窩からぐりんと飛び出していて、視線を向けられるだけで言い様のない緊張が走る。

 どことなく、昨年の秋に出会った映画界の巨匠、大沢昭雄監督を彷彿とさせる人物だ。そんな感慨を抱いたところで、

「君が緒方くんだな?」

「は、はい。初めまして。緒方司貴と申します」

 呼びかけられた俺は、まず番頭の習性から椅子を立って頭を下げる。

 この人はもしや、出版社のお偉いさんなのではないか。感じとったオーラから勝手にそう推察していると、進藤さんがこほんと咳払いを挟んで口を開く。

「緒方さん、紹介しますね。この方が烏丸天明先生です」

「は――――?」

 衝撃だった。突然の落雷に脳天を貫かれたようにすら感じた。

 だから呆けたような声を漏らし、呼吸すら忘れて目の前の人物に見入ってしまったのも詮無きことである。

 烏丸天明。その著作は百を超え、今なお新刊を出す度に漏れなくベストセラー入りを果たすという文学界の怪物。高額納税者番付にも毎年名を連ねているあの……。

 いや、世間の風評なんてこの際どうでもいいのだ。俺自身がこの世でもっとも尊敬する作家がすぐそこにいる。手を伸ばせば届いてしまう位置に。

 思えば、子供の頃からずっと彼の本の虜だった。熱に浮かされるように新刊を買い求め、書店からの帰り道はずっと本を胸に抱いたままで、部屋に戻れば寝食を忘れて読みふけった。そんな憧れの人が、さっき俺の名を――

「は、は、は、初めまして! わたくし、僭越ながら小説家をさせていただいております、緒方司貴と申します!」

「それはもう聞いた」

 感激のあまりに上擦った俺の声をするりとかわし、烏丸先生は椅子に座った。

「すまないが注文を頼む。ブレンドをホットで。あと野菜サンドを一つ」

 こなれた調子で注文をして、テーブルに肘をつくなりふうと息を放つ。

 遠野に来るのは初めてではないと言っていたので、この喫茶店にも何度か訪れているのかもしれない。そりゃ妖怪小説の第一人者なら、妖怪の聖地である遠野など庭のようなものだろう。そう一人で納得しつつ、引き続き熱っぽい視線を送っていると、

「まず言っておくが、作家としての君には興味がない」

 無慈悲なほどに冷淡な口調で、烏丸先生は言った。

「だからお互い様だ。こんなジジィ相手に硬くなることはない。気楽にやってくれ」

「い、いえいえ、そんなわけには」

「進藤くんに無理を言って呼び出してもらったのは、迷家荘の番頭としての君に取材をしたかったからだ。ちょっとこいつを見てくれないか」

 血管の浮き出た細い手がジャケットの胸ポケットを探っていく。それを黙って見ていると、やがて烏丸先生は一枚の写真を取り出してテーブルに置いた。

 差し出されたそれを反射的に覗き込んでみると、写っているのは古びた木箱だった。

 さらに注視してみる。木箱の中には紫色の布が敷かれており、中央には象牙のような色合いをした細長い物体が安置されているようだ。何かの動物の骨か、乾燥させた老木の根っこのように見える。

「これを見てどう思う? 何か感じるものはないか」

「どう、と言われましても……。これは何の写真なんですか?」

「そうか。わからないか」

 失望を露わにして目を伏せながら、彼は写真に指を乗せてトンと叩く。

「まあ、いい。現物を見れば違う感想も出てくるだろう。迷家荘に着いたら確認してみてくれ」

 そう告げられ、「え?」と声を漏らす。

「迷家荘に着いたら……? それってどういうことですか?」

「説明不足ですみません」

 申し訳なさそうに言ったのは進藤さんだ。説明を求めてそちらに顔を向けると、彼は何故か目を逸らし、眉間を揉みほぐしながら言葉を続ける。

「その……。宿泊予約が入っていると思いますが、烏丸先生はこれから五日間、迷家荘に滞在される予定なんです」

「は?」

 間抜けな声を出しつつも考えてみる。四泊五日の宿泊予約は、確かに入っていた覚えがある。だが予約名は〝大間天明〟だったはずで……。

 いや、考えるまでもないか。烏丸というのはペンネームなのだろう。

「緒方さん。もうわかっておられるかと思いますが、自分は今、烏丸先生の担当編集者でもありまして……。本来なら立場上、こういうことをしてはいけないんですが、烏丸先生がどうしても緒方さんに話を聞きたいと仰いまして――」

 ああ、なるほど。事情が飲み込めてきた。

 烏丸先生の新作を発表するということは、出版社にとってはかなり利のある話だ。ぶっちゃけ俺クラスの作家が百人いたって先生一人に及ばない。だから進藤さんは、烏丸先生の意向を可能な限り尊重したいのだろう。

 ただそのせいで、別の担当作家に負担をかけることは好ましくない。真面目な彼のことだ、会社の方針と自身のポリシーの間で板挟みにあっているに違いない。

 彼の気持ちはよくわかる。ただその懸念は、正直的外れとしか言い様がない。

 何故なら俺は今、憧れの作家を前にして、舞い上がるくらいに嬉しいのだから。

 まさか烏丸先生に名前を呼んでもらえるだなんて……。小説家になる前からファンだった俺からすると、それだけで天にも昇る心地になるのだ。ペンネームと本名が同じで良かったと心底思う程に。

 そもそも原稿に行き詰まっている現状、烏丸先生の手伝いを命じられるのは願ってもないことだ。とても良い刺激になるに違いないし、番頭としても客室が埋まるのはありがたいことなので、進藤さんが後ろめたさを覚える必要は全くないのである。

「なあ緒方くん」

「は? はい、何でしょうか烏丸先生」

「もう一度聞くが、本当に心当たりはないか? 写真に写っているものに」

「心当たり、ですか?」

 言われて再び写真に目を落とす。やはり何かの骨か、木の根っこにしか見えない。強いて言うなら、皮を剥いた牛蒡を何本か束ねた感じだろうか。

 ――いや待て。これはもしや。

「まさか、ここに写ってるのって指ですか? なら何かの動物の腕――」

「そうだ。それすらわかっていなかったとは思わなかったがな」

 烏丸先生は呆れたように眉根に皺を寄せ、一度重い溜息をつく。

 写真を指先で引き寄せて胸ポケットにしまい込むと、その大きな眼球をギョロリとこちらに向けて、ひどく真剣な声でこう言ったのだ。

「こいつは腕だよ。――多分、河童のな」