序 命月  一月


「この子にしようぜ」

 降ってきた言葉にまぶたを開く。

 私の頭の上に、背高さんが一人。

「ほら、背筋が素直でさ、着飾れば、いいとこの嬢ちゃん出来るよ」

 ひょいっと身軽に、背高さんが身を屈めてくる。

 私の顔を覗きこんでくる、笑った口元。

「ようっ、名前なんて言うんだ?」

 私に向けられた明るい声。

 顔を上げて見えたのは、男の人の匂いがする笑顔。

 若い大人の顔。彫りが深くて、硬そうな頬の骨がくっきりしていた。

 華やかに伸びた黒髪の下に、強い癖のある笑い方。

 その匂いが恐くて、間近に垂れ下がった窓掛の後ろへ隠れる。

 埃っぽい布地が、私をほとんど覆い隠してくれた。

「かぁっ、逃げたぞ? この俺見てよ」

 背高さんが声を上げた。空気が揺れるような声。

 それがひどく大きいから、私は裳裾を強く引き寄せ、目をつむって小さくなる。

 背に当たる閉めきられた窓枠の硬さ。板戸越しの冷気が、私の首筋を撫でてゆく。

 冬色の空気。首を縮める。

 堅い木窓の向こう、外は雪催なのだろうか。しばらく、ここを出ていないから判らない。

 背高さんはふくよかな袷の厚着だけど、私や、この施設にいる他の子達は、まともな単衣さえ持っていない。

 今日、外から来たこの人とは違う。

「やっぱ、顔が派手なガキにするかな。あとあと楽しめるし」

 背高さんの声が恐くて、私がさらに身体を小さくしようとする。

 両脇を強く身体に寄せた時

「その子は賢明だよ。君に近づくような女は信用できない」

 そう、新しい声がした。

 背高さんの向こうから。

「トエ、モテねえからって僻むなよ。俺がいい女紹介してやっからさぁ」

 背高さんが背後に向かって、ひどく気安い声を上げる。

 背高さんの隣に、誰かが、トエと呼ばれた人がやって来る足音。板の間に響く革靴。

 私は目を閉じているから、どんな人だか判らないけれど、その新しい声が、何だか優しく聞こえて、両肩の力が抜ける。

「結構だよ。それより、君は女か博打で死ぬと保証するよ」

「ありゃ、刃に死すとかさ、策謀の果てに死ぬとかじゃないの?」

「それは僕が押さえる。が、君の不摂生までは面倒みきれない」

 背高さんとトエさんという人の会話がしばらく続いたけれど、何だか騒がしくて、私にはよく判らない会話だった。

 ちょっとずつ、目を開いて足下を見る。

 素足の自分。大人達の冬作りの革靴。踏まれたら、私が痛そうだった。

 しばらくして

「来るかい?」

 トエさんの声を耳にした。

 やけにはっきり聞こえて、そっと、私は裾間から顔を出した。

 顔を上げてみる。

 普通の、ごく普通の人が、私の前に立っていた。

 同じ年頃の背高さんを背後にして、短い黒髪と穏やかな表情をした男の人。

「一人だけの女の子が僕らには必要なんだ。ただ必要な時に立っていてくれればいい」

 その人は少し身を屈めて、目線を私に合わせてくる。

 元々、大人の人にしては小さめな人だと気がつく。

「ここにいるより、少し幸せかも知れないし不幸かも知れない。面白い世界を見られるかも知れないし、結局、ここに戻ってくることになるかも知れない。変わった道を、一つ選んでみないかい? 君に損はさせないよう、努力はするよ」

 私は怯えたまま、その人の目を見た。

 一重の柔らかい目元。だけど、どこか意地悪な年上の男の子に似た目。

 それが、真面目そうに私の目を見ていた。

 少しすると、その人が目を伏せた。

「悪いが、僕は善人ではないんでね。見つめ合うのは苦手だ」

 そう言って、ちょっと大げさに息を吐く。

「テン、やはり君に任す。他の子供を当たってくれ」

 向けられた言葉に、背高さんがけらけら笑う。

「けっ、ガキ手なずけて嫁作ろうなんざ、十年早いんだよ」

「丈夫そうなのにしよう。あまり将来の保証はしてやれないからね」

 もう二人とも私を見ていない。

 隠れている私を置いて、二人の男の人達はどこかへ行こうとした。

 多分、ここにいる他の子供を、私以外の誰かを連れに行くのだ。

 ここには、たくさんの子供が居る。

 似たような、私と似たような子がたくさん。

「脅かしてすまない。元気でね」

 私に向けられた言葉だが、視線はもう他の子を捜している。

 膝を曲げていたトエさんが立ち上がり、それから、ゆっくりと私に背を向けた。

 その先では、背高さんの方が、もう足早に去ろうとしている。

 不意に恐くなった。

 真っ暗な部屋の中に残されたように。知らない内に、自分の玩具を落としたと気がついた時みたいに。

「……あっ……」

 目の前で小柄な背中が揺れた時、私は小さく声を上げた。

 ゆっくりと、去り掛けた背が振り返った。

 ほっとする。なぜだか。

「何だい?」

 柔らかい声が訊いてくる。

「……あ……」

 また恐くなる。

 何か、何かを言おうとした。言えなくて、俯く。

 言葉が恐くて、胸が重くて深い感覚。

「恐かったかい? 悪いね」

 ちょっとだけ、振り返った顔が笑った。

 声が出せなくて、泣きたくなった。

 初めてだった。多分、初めて男の人の困った笑顔を見た。

 泣き方も判らなくて、私は立ちつくした。

 ただ、ずっと立っていた。

 そのはずだった。

 気がついたら、背後から風に乗った生地が頬と背中を撫でていた。

 すきま風が冷気を呼び込む。

 多分、外はもう雪景色。

 手の中にざらついた感触。

 気がついたら、目の前にいた人の袖を掴んでいた。

 厚着の外套。目立たない色の広袖。

 袖口を握る自分の指先だけを見る。

 振り返って、私を見下ろしている顔は見られない

 目が合うのがとても恐い。

「……名前は?」

 答えられなかった。

「僕はトエル・タウ。あいつはテン・フオウ」

 私は、ただ、その服の端を強く掴んだだけ。

「じゃあ、君に名前を一つあげよう。どうせ、これから君には新しい名が必要だから」

 私は頷いたかも知れない。

「空澄。僕らと来るならそう名乗りなさい」

 聞いたことのある言葉。

「そう、七月の東和詠み名。空澄だよ」

「おっ、拾ったのかよ、それ」

 頭の上から大きな声。テンという人の声。

 ゆったりとだけれど、長い足なので素早い背高さん。

 去るのも早ければ、戻るのも早い人。

 怯える間もなく、やたらと長い手が私の肩に伸び、ぽんと置かれた。

 堅くて大きくて暖かい手のひら。

「よっし、お前、お姫様やれ」

 何だか楽しそうな声。

 何のことか、考える間もなかった。

 背高さんが構わず続ける。

「いいか、俺が将軍、こいつが軍師。お前がお姫様な。三人で天下を取りに行くぞ」

 仲良さそうな相方を傍らにして、どこか高い所に顔を向けて笑い出す背高さん。

 私は口を開いて立ちつくしたのだと思う。

 天下という言葉が、何なのかも知らない。

 目の前の人達が何なのか、聞かされたことが何なのか、頭がいっぱいになる。

 ただ、やたら楽しそうな背高さんの高笑いだけが、はっきりと鮮やかな光景。

 私の中で、知らないことと、知りたいことが溢れそうになる。

 何か知っていそうな、どこかいつも考え事をしているような、もう一人へ視線を向ける。

 困ったような顔。だけど、何だか、楽しそうな顔。

 色々なことが、頭と胸をいっぱいにする。

 私はその年、九つだったと思う。

 歳初めの一の月、命月。



 それが、空澄と呼ばれるようになる私が、嘘つきのトエ様と出会った日のこと。

 それから、あの背高のテン様と出会った日のこと。

 あの時のことで、私が覚えているのは、これだけ。

 全てが始まった日のこと。

 私達が三人になった日のこと。

 三年前のあの日のこと。

 三人で見た夢の始まり。

 始まりは、ここから。



一節 空澄  七月


 耳を澄まさなくても、いつもの朝が始まる。

 ほら。

「テン! テン・フオウはどこだ!」

 また始まった。

 トエ様がいつものように喚いていて、私は可笑しくなってしまう。

 どうして、この人達は、いつも同じようにケンカするのだろう。三年間も。

 向き合っている大鏡の中、未完成の私が笑いを堪えられないでいる。

「姫様」

「あっ、はい」

 背中からの実直な声に、私は背筋を伸ばす。

 銅台座の錫張り鏡面。映り込む私の影が居ずまいを正す。

 朱の丸椅子に座す私。背後から伸びるしなやかな二本の腕が、私の髪を捉え直す。

 声と腕の主は、鏡越しに私が瞳を向けても、視線を返すことはなく、仕事に専念している。

 私付きの女性で、衣装役という一番身近な役目を担ってくれる人だ。

 鏡に浮かぶ無表情な衣装役さんは、髪を梳く手を休めない。その様子もいつも通り。

 鏡の中では、十二歳の私が澄まし顔をして、いつものように手際よくお姫様にされて行く。

 毎朝寝ぼけ眼の私は、半時近くの時間を掛けて、鏡の中で変容して行く。

 東和七宮という称号を持つ姫殿下に。

「朝風もさまぬ内から、左大臣は何をしているのでしょうか。将軍もまた懲りずに軽忽なことです」

 鏡に向けて、澄まし顔でお姫様の顔をする私。毎朝、着付けが終わる頃、こうした言葉で私は七宮の姫になり変わる。

「お諫めしましょうか?」

 誰か近くに控える侍女さんを呼ぼうかと訊かれるが、形式的な問いだ。

「いえ、やらせておきましょう」

 あのお二人は懲りないから面白い人達だ。

「懲りない諍いが楽しいのでしょう。あの方々は」

 そう続けると

「姫殿下もそのようで」

 衣装役さんに返される。

 見抜かれている。だから肩の力を抜くと、私の耳元に長い鬢が付けられ始める。

 さらさらとした素直な付け髪。

 胸元まで流れる代物。銀の細工紐で毛先が結ばれる古式の髪型を継承した鬘。色は私の地毛の、明るい色合いの黒に合わせてある。

 支え留めを含めた髪飾りが組まれる。

 本当は肩までしかない私の後ろ髪も、髢が添え加えられることで、背の中程まで届く。

 それから、櫛を通して全体を揃えると、衣装役さんが化粧道具を手箱台に置く。その音が、いつも、気持ちを切り替える合図になる。

「終わりました」

 澄まし顔が目を閉じ、一歩下がる。

「よいお手並みです」

 鏡の中の衣装役さんにお礼を言うと、彼女が私の背に深々と畏まる様子が映し出される。

 それから、あらためて自分の正面を見据えてみる。

 鏡の中にいる私は、本当の私とまるで違う。

 艶やかな裾長の姫装束に身を包む、風雅で豊かなお姫様。

 刺繍細工細やかな羽衣が肩と胸元に広がり、薄青に染めた絹地に涼しげな雪山を思わせている単衣。

 夏帯は新緑。季節色に染められた綾絹。

 耳元と背中で組まれる古式結いの髪も、淡い白粉の肌も、衣に焚き込んだ香に包まれ、精緻な清楚さを演じてくれる。

 涼やかで軽やかな姫君。

 小さく小首を傾げてみる。

 からりと、後ろ髪に付けられた色硝子の短冊が揺れる。

 どうして、こうも衣装役さんの手並みは鮮やかなのだろう。

 根が田舎娘なので、高貴さだけは手が届いていない気はするけれど、誰も疑わない東和のお姫様像。

 今日も、その役が始まる。

 静かに息をつく。

 耳を澄ますと、まだ室外からトエ様の声が聞こえた。

 まだ喚いてる。あの人。

「ご苦労でした」

 そっと、朱椅子から身を立たせる。せっかくのお姫様姿が崩れしないよう慎重に。

「左府殿の元に参ります。取り次ぎは無用です」

 左大臣の略称を告げながら、衣装役さんと、その背後に控える侍女さん二人に振り返る。

 慣れた様子で控える人々に横顔を見せ、私は衣装部屋を出た。

 左右に広がる回廊で一人になり、声のする方向を探れば、小柄な背中が板廊下の先に見えた。

 肩を震わせて進む背後に、早足で駆け寄ってみる。

 私の背で、短冊飾りが硝子音揺らめかす。細い音は鈴の音に少し似ている。

 文官服と呼ばれる、緩やかで動きやすい束帯に包まれた背中へと近づく。肌をほとんど見せない全身を包む物で、礼服の廉価版だとトエ様自身は言う。

 それに姫装束の私が追いつくには、少しだけ手間取った。裾が長すぎるから。

 私も姫殿下仕様の、実務的な単衣を作ってもらおうと、いつも思う。多分、ひらひらとか装飾とかが大分付くのだろうけど。毎度、これでは大変だ。

「朝から楽しそうに出かけましたよ」

 トエ様の背後に取り付く私。

 見たところ、ここにいるのは二人だけだから、言葉づかいに地の私が顔を見せる。

「今日は戻らないみたいです。新しい女性と親しくなったそうです」

 私が早足のまま告げると

「昨日、不倫騒ぎで、名家のご婦人と別れたばかりだろうが」

 振り返らないまま、トエ様の足が速くなる。足は長くないけれど、トエ様は短い距離ではひどく早い。

「はい、中原風に云うと、連日相手が変わる舞踊なのだそうです」

 私の声も、その足と一緒に速くなる。

 見上げる背中はあまり大きくない。この人は、今年、十二歳になる私に比べて、頭二つほどしか上背がない。その代わり、小回りが利くらしく、こんな時は見事な足早になる。

 小柄な身体は素早く廊下を歩む。

「くっ、あの根無し草め」

 また新しい言葉をトエ様は使った。

 昨日は確か歩く不渡り手形とか、季節草とか、テン様のことを形容していた。

 季節草というのは、季節が変わると幾ら探しても見つからないという意味らしい。テン様が居ようと居まいと、ほとんど言いたい放題な人だったりする。

 回廊内に、トエ様の早い足音が響きわたる。

 床材が木材なので、音も高い。

 ここは平城の二階層だから、廊下はそれなりに長かったものの、私達は城内の端から端まで、すぐに行き着いてしまった。

「ちぃっ、外か」

 トエ様は舌打ちして立ち止まり、傍らに開けた窓から外を眺めた。

 私もそれにならう。

 場外の陽ざしには、夏の明るさ。

 もう七月の末、季節詠み名で言えば空澄。

 私の名になる外の景色。四角い窓枠から、背が高くなり始めた夏草の群生が望める。

 二階層とはいえ、堅固な石造りの土台上にある城は、高い視野を私達に与えている。

 見渡す大地は緩やかな丘陵が続く荒れた草原。西の果てに霞む山々は西方山脈。

 大陸の東に位置する、東和と呼称される土地は、今日も豊かな陽の光に満ちていた。

 ここは西北都市部の守護城。世間には七宮城と呼ばれている。

 石造りの城壁の上、火矢を通さないという触れ込みの厚い土壁を表に張り巡らせた木造城。築城から五十年は経っているから、古い部分と新しい部分が入り混じっているのを隠せない小さな城。

 私達は、その二階の外周廊下を歩んでいた。

 ほぼ円陣形の、簡素なお城だ。

 城と言うより、本当は中継補給基地と言った方が正しいとトエ様は言う。

 群雄並ぶ乱世。ここ東和が位置する東部平野は、中央の勢力争いから零れた地方だ。

 西から北へ延びる西方山脈に囲まれているため、中原と呼ばれる都の方と隔絶され、大陸の中央政権からほぼ独立した地方。

 人口だけが多く、どちらかと言えば戦国の世の避難所として、中央から逃れる人々の溢れる都市群国家【東和】。

 その一つ【歌仙】。

 東和で七つ目に数えられる宮都市。

 その辺境警備の出城として、広野の一角に造られたのが、この城なのだそうだ。

 元々は石材で一階層だった物を、トエ様とテン様が木材で二階層や楼閣を増築したお城。

 戦禍がこちらまで無いのをいいことに、城主のテン様が好き勝手やったらそうなったらしいが、他のお城を見たことが無いので、それが良いことか悪いことか私には判らない。

 内側に広く、外側には狭い角度で組まれた硬質木材の窓枠に、二人で手を添える。

 攻められた時、城中から外を窺いやすく、囲み手からは攻めにくい工夫。それは私達の視野を、並んだ位置からの角度で手狭に選ばせる。

「居るか?」

 左に立つトエ様には、右手側が奥深くまで見え

「居ませんね」

 右に立つ私の角度では、左手側が奥深くまで見える。

 見える光景は、お互い背丈の高い草原だ。

 初夏を思わせる朝の光に、長閑な景色。

 途中、草の群生が切れるのは小道と塹壕。

 随分先に林や丘が見える。おそらく、そうした光景の向こうにテン様の出払い先がある。

 どこかの、豪族の奥様か令嬢のところ。

 ここからは、長閑な広野しか見えない。

 小さな牧場ほどの敷地を、簡素な城壁と塹壕で囲んだこの城は、私が居着いてから二年半、一度も争いの中に入ったことがない。

 何度かテン様が中心で軍事行動や野党狩りを行ったことこそあるが、兵は常時は百人足らずで、多い時でも三百程度だから、ちょっとした都市自衛団程度でしかないと、大方の人には思われている。

 歌仙全域から召集すれば、兵力五千は何とかなると、二人が話しているのを聞いたことがあるけれど、実際には見たことがない。

「まったく、僕に全権を任せればいいんだ。あいつは僕の指揮下にあるべきだ」

 トエ様がまだ喚いているから

「でも、トエ様はテン様の軍師ですし」

 私は落ち着いて宥めた。

「策を授けるにも、本人がいないじゃないか。今日は軍議だと言い含めてあるのに」

 いつものように、私達はテン様を捜しつつ、不穏な会話をする。

 それから、私は傍らの横顔を見上げた。

 まだ若く見えるけれど、大人しい顔立ちは、表情次第で何歳にも見える。

 黙ってれば穏やかなのに、喚いていると、ひどく子供っぽい顔をする。人の良さそうな顔立ちなのに、妙に皮肉な顔もする。

 その見上げる横顔は初めて会った頃から、ほとんど変わらないように見える。ただ、私の背が少し高くなったから、近くに見えるようになったけれど。

 大人なのに、どこか子供っぽい雰囲気もある人。

 年齢もよく判らない。もうすぐ、二十代の終わりだと、何年も前から私には言っているけれど、対外的には三十代だと語っているらしい。

 本当は幾つなのか、多分、ほとんど誰も知らない人。知っているとしたら、あの相方の背高さんぐらいだと思う。

 そんなトエ様と私の側へ、侍従の一団が回廊を歩み寄ってきた。

 ご高齢の侍従長さんが前に立っている。

 従えているのは私の侍従団。そうは言っても、数えて三人。きちんとしたお姫様なら、きっと、この何倍も多くの侍従がいらっしゃるのだろうと思う。

「朝のご挨拶に探しておりました。姫殿下。それに、タウ左大臣殿」

 侍従長さんが恭しく黙礼した。従えている方々も続く。

「これは侍従長殿、今朝もお早く」

 トエ様の声が執務用に変わる。

 居ずまいを正しながら、トエ様は廊下の端に身を寄せた。

 素直な直立。

 私に道を空けたのだ。

「朝から声を荒らげてしまい、姫殿下に、自重せよとたしなめられました。至らない身を引き締めなければなりません」

 白々しいことを、もっともらしく言う。

 相変わらずトエ様は変わり身が早い。

 私も馴れた。

 きっと、他の人達もある程度そうなのだろう。

 先程のようなぞんざいな口の聞き方こそ、人前では、まず見せないけれど、この人の二面性自体は誰もが知っている。

「姫殿下、本日もご機嫌麗しゅうございます」

 深々と、あらためて朝の挨拶を私にする侍従長さん。

「変わりなく」

 私も略礼をする。

 礼式で再度、深々と挨拶する侍従長さん。背後の侍臣さん方もあらためて続く。

 そして、侍従長さんは顔を上げると

「それでは、本日のご予定はいかがなさりますか?」

 予定の確認をしてきた。

 職務に忠実な人。ここ一年くらいは、まったく変わらぬ日々が続いているのに。

「いつもどおりに。定例会を、その後……」

 トエ様の方を見る。

 顔を伏せたトエ様は何も言わない。好きにしろという意味だと感じる。

「昼までは、ここにいるトエル・タウと、今後の協議を散策がてら行いましょうか。午後は未定ですか、いつも通り、修学時間となるでしょう」

「はっ、恙なくお過ごしを」

 侍従長さんが頭を下げる。

 ふと、その頭髪が以前に増して白くなったと感じる。

 そう言えば、流行の感冒を患っていたらしいと思い当たった。

「御老、お風邪の具合はよろしいのですか? 忠臣の健在ありてこその仮の宮です。お身体をご自愛なさってください」

 そう言うと、トエ様の口元が少し引かれるのが目の端に入った。お姫様らしく言えたから、ちょっと、喜んでもらえたらしい。

「勿体ないお言葉。姫殿下のお心遣いに老臣が身も引き締まります」

 本当に感動したのだろうか。皆さんと揃って平伏するご老人。

 しばらく、そうした儀礼が続くと

「僭越ながら、先程より、フオウ将軍のお姿を捜しているとお訊きしました」

 侍従長さんの言葉に、私達は顔を合わせる。

「所在をご存じでありますか?」

「はっ」

 トエ様が尋ねると、侍従長さんの部下が外窓を手で指し

「あちらに先刻より」

 侍従長さんの言葉が続く。

 私とトエ様で、二人して窓枠に顔を寄せ外を眺める。

 先程と変わらない。

 石造りの城壁の向こうに、ただ広い広野が目に映るだけ。

 風に靡く夏草の豊かな光景に、ふと、妙な動きが見えた。変な揺れ。

 動物、狸か、山犬か。狼は城のずっと背後、山脈周辺にしか出現しないはず。先日、獣を遠くへ追い払う山狩りをテン様達がやったばかりだから、大きな獣はいないはず。

「あのバカ」

「え?」

 トエ様が舌打ちすると、その途端、赤い輝きが視界に映った。

 ぽっと、動きのあった一角に伸び上がる揺らぎ。

 炎だ。

 すごい勢いで左右に広がる。

 火の道がある動きだ。油がしみこませてあるのだろう。

 急速に広がる火の手。水分の多い夏草がじわじわと焼き上がる。

 あっという間に城周辺の一角が燃え上がる。

「ひゃっほうっ」

 妙な声がした。

 広がる草原の中から飛び出してきたのは、着崩した羽織の軍服姿。

 陽光と炎を照り返す長身の男性。

 ここからでは小さいけれど、やけに明るい笑顔がはっきり見えた。

 細身の背高に、目鼻のはっきりした、鋭い顔つきの人。

 彫りの深い顔立ちは整った男らしい物だけど、大きく崩れやすい。逆に、その崩れた笑顔がひどく人懐っこい。

 何だか、やたら、楽しそうな横顔。

 はしゃいで上下する肩には、穂先が筒に入ったままの豪快な槍が一槍担がれていた。

 背高さんに続いて、あちらこちらから、その配下の人達が数十人、出現してくる。

「将軍! 火付け早すぎますよ!」  

「油使い過ぎじゃあないですか!」

 後から来た人達が、口々に背高さんに詰め寄る。皆、軽装だが軍服や武装をしている兵隊さん達だ。見覚えがる。うちの人達。

 間違いなく、あの人の指示だ。この火事。

「ハハハハっ、悪い、悪い!」

 背高さんの高らかな笑い声が、ここまでもよく聞こえる。

 何せ、何もない草地に孤立する城。城壁の向こうからでも、声はひたすら通る。

 全然、変わらないな。この人も初めて会った頃と。

「こ、これは、また派手に」

 侍従長さんが驚きの声を上げる。

 この人も詳細は知らなかったのだろう。

 誰も、背高さんのすることは判らない。

「将軍は、草原での訓練をすると言っていらしたのですが……」

 侍従長さんの声が呆れる。

「で、ありましょうな。火攻めの実地訓練でしょうが……」

 応じたトエ様の言葉は丁寧だが、その声は震えていた。

 お怒りだ。

 そっと、距離を取る私。侍従長さん達も悟ったのだろう。無言で続く。

 何だ何だと、城のあちこちで声が上がり始める。

 風は少ないから煙はそれほど来ないが、異常な匂いがやがて届き始めた。

 燃えにくい夏草を無理に燃やした時の、不完全な燃え具合の匂い。

 いや、風向きが急にこちらへ変わり始めて、そのうち、私達の視界が白くなり始めたりする。

 とてもまずい。

 私達が咳き込み始める。肩を震わすトエ様を除いて。

 やがて、煙が辺り一面蔓延し始めた時、何が可笑しいのか、まだ続いてるけらけらとした背高さんの爆笑が引き金となる。

「テン・フオウっ!! 何をしてる!!」

 いつものように、トエ様の怒声が城下に響きわたった。



 そうして、

「いやさ、火攻めの修練を……」

「もっと、遠くでやれ!」

「だって、うちの領地、小さくて手頃な場所がなかったから」

「ああゆうのは枯れ草でやる物だろう!」

「いや、そう都合のいい枯れ草なんて見つからないし、備えあれば憂い無しとかさ」

 だんだん小さくなるテン様の声。

「いいか! だいたい、君はなぁ!」

 ほとんど、城の中にいれば、誰でも聞こえるようなトエ様怒りの追及が、その日一日続いた。



 その夜も更け始めた頃。

 中原語。私達の使う東和言葉より洗練された都言葉の修学を終え、私は七宮城の天守閣へ上った。

「姫殿下、このような所へ参られては」

 長弓と長槍を抱えた若い衛兵さんが、篝火の下から、慌てた声を上げてきた。

「東征将軍は上でしょう。今日のことは責めねばなりません。公式以外にもです」

 止める衛兵さんを制して、私は天守内部に入り、樫材の梯子に手を掛けた。筒状の外壁に護られた、天守上層への唯一の経路。

 東征将軍はテン様の役職だ。私が与えたことになっているが、東征という呼称には別に何の後ろ盾も根拠もない。

 本当は右将軍、右府という地位なのだけれど、単にただの将軍では、他と区別が付きにくいので、それなりの武人は、立派な名前を付けたがるらしいのだ。

 どこの地方もそうだという。政権の所在がはっきりしていないから、地方ごとに勝手な命名や任命がまかり通っているらしい。

 この時間、テン様は良く天守閣に登る。特に、トエ様に怒られた夜はそうらしいと、侍女さん達の話しだった。

 でも、きっと嘘だ。

 薄暗がりで、梯子に取りつく。

 慣れない木梯子に少し手間取りつつ、テン様一人の場所を目指す。

 そのために、昼間の裾長や装身具をやめ、粗野な格好をしている。

 散策用の軽い衣装だ。両足をそれぞれ包んだ広がりのある生地を足首の銀糸で止めてある細袴だから、比較的、脚絆の男の子のように動ける。

 早く、実務服か何か作ってもらおう。

 見上げた頭上に小さな灯りの漏れ。

「よいしょよいしょ」

 天守閣とは名ばかりの展望台は、城の中央付近にある物見櫓に、それなりの外層をしただけの物だ。巫女姫たる七宮の居城に、あからさまに軍事施設は似合わないので、梯子と骨組みを漆喰と石材で簡潔に囲っただけだったりする。

 それでも、かなりの周囲が見えるので、実際、警戒には役に立つし、建物としての見栄えもそれなりにいいのだそうだ。

 テン様は天守閣、トエ様は単に楼閣と呼び、付近の人達は七宮塔と呼んでいるらしい。

 七宮は私だから、私の塔なのか。

 そう思っても、ここ二年ほどで五回くらいしか上がったことがない。

 実際、大方がこんな物だった。よく判っていることはとても少ない。

 絹の衣類を与えられ、宝玉を幾つも持とうと、多少の修学を積もうと、ここにいる自分は十二歳の子供でしかなかった。ほとんどが知らないこと、やったことのないことばかり。

 七宮の空澄姫か。

 複雑な思いを胸に梯子を上る。

 ぎしぎしと微細な音を立てるが、子供の体重だから揺らぎは少ない。一階層分くらいの高さで楼内に及ぶ。

 篝火に灯影が僅かに浮かぶ空間へ、頭を出そうとして

「やってくれたね」

 トエ様の声だ。

 私ではなく、楼内の相手に向けられた声の響き。

 ほら、やっぱり。

 多分、下の衛兵さんもここでの密会を知らなかったのだろう。ここの警備はそれほど厳重ではない。

「あの夏草、燃やしてくれて助かった」

 続いた、トエ様の声。

 穏やかな語り口は昼間とは全く違う。

「そろそろ、密偵なり何なり来そうだったからな。手近な群生は減らした方がいい」

 応じるテン様の声も、悪びれず堂々としている。

「三宮と四宮、どちらかが動きそうだ。君が上手く調練の失火と偽ってくれたから、こちらが迂闊にも見せられるし、敵の攻め手も減らせたよ」

 どうせ、そんなことだと思った。

 この人達はいつもそうだ。

 十回に九回は、平気で嘘を並べる。

 判ってるんだから。私。

 音を立てぬよう、そのままで聞き耳を立てる。

「なあに、ちょうど御婦人に逃げられて腹が立ったからな。上手く自棄になる理由が出来た」

 そう言い終わると、けらけらとしたテン様の笑い声が続く。

「見る目ある御婦人に感謝だ」

 楽しそうなトエ様の声。

「ぬかせ! が、どうやら、実家が志乃其調和党についたらしい」

 志乃其は四宮姫の後衛だ。運河の輸送力と技術工業で財をなした四宮鼓都市。その都市運営の代表者達。政にも多大な影響力を持つという。

「何せ、歌仙は豊かなのは農地と山間部での林業ぐらいか。この城も町中にはないから、余計、田舎者になる」

「他は大都市か城下町だからな。うちは後発。ここしか、まともに城らしい城は残ってなかったからな」

 二人の談笑が続いている。

 七姫最後の私は、やっぱり、他の姫より小物なのだろうか。

 どうも、話しに聞くところによると、他のお姫様は立派な宮殿に住み、豪奢きわまりない生活をしているらしい。お国自体の規模が大きいらしい。

 今よりいい暮らしをしたいとは思わないけれど、弱小すぎると言うのなら不安になる。

 心配して耳をそばだてると、テン様が少し声の色を変え始める。

「他の動きは読めたか?」

 あまり笑っていない色。

「四宮鼓都市の戦力は四千の兵。金があるから諸群と傭兵併せて最大八千だ。三宮の夏目都市が平時八千に傭兵で一万を超える。連携されれば兵力一万八千、僕らは辛い」

 二つの都市は隣国ともいえる距離に位置し、私達の歌仙都市とは微妙な力関係で向き合っている。修学に付き合ってくれるトエ様と侍従長さんからは、そう教わっている。

「盗賊の類は追い出した。総力を向けて、うちは五千。護りきるにはぎりぎりだな」

「そう、ここは西から北に延びる西方山脈越えを警戒した城だ。歌仙の後方を中原からの遠征軍から護ると言えば聞こえはいいが、東和都市群からは辺境。僕らの地盤都市歌仙までも行軍は半日近い。奴らに都市部を狙われる可能性がある」

「攻城戦の火攻めは、これで牽制した。三宮と四宮は歌仙都市制圧を優先するか、ここを先に潰しに来るか」

 難しい話で、私にはよく判らないが戦争の動きがある。それは理解できたし、不利そうなのも判った。

「一宮と潰しあわせたかったんだが、あそこの姫は違うな」

「ああ、だから、後方を窺う僕らが先に狙われるか」

 一宮姫はもっとも有力な姫だ。七人の宮姫の中でも私などとは違う。おそらく、本物の東和姫だと言われている人。

 他勢力のことを色々考えていると

「空澄姫、いかがなされた?」

 不意に声を掛けられる。

「は、はい、将軍……」

 慌てて、顔を上げると、楽しそうなテン様の顔があった。

 すぐ、登り切った先。

「わぁっ」

 慌てて退こうとして、梯子から落ちそうになる。

 長い両腕が私の脇の下に伸びた。

 ひょいと、何事もないように受け止める。

 大きな手。見た目以上に堅い。

「捕まえた。カラ」

 そのまま子供みたいに、小さな子供みたいに抱え上げられる。

 私には考えもつかない、大きな腕力。どこまでも伸びるような長い腕。

「おっ、大きくなったな」

「テ、テン様!」

 抱えられた楼内は大人なら五、六人連座できる場所で、四方に私の背丈ほどの壁が張り巡らせられていた。

 その上の開けた部分から、遠くの土地までが見渡せる。

 テン様に抱えられたそのままの位置。その肩越しに、遠く歌仙のほのかな街灯りが稜線で滲んでいる。壁際には稜線を背にしたトエ様の立ち姿。

「重要会議だ。判るね、空澄」

 諭すトエ様の声。

「ご、ご免なさい。わ、私、立ち聞きするつもりは……」

「さて、どんなお仕置きをしようかな」

 抱えた私を見上げるテン様の言葉に、顔が崩れそうになる。

 不動の両腕に抱えられ、私には抗うすべもない。

 その上、テン様の腰には小刀が差し込まれており、傍らには弓具やらも転がっているのが見受けられる。

 何か、恐いことになってしまった。

 私が何だか泣きそうになった途端、テン様が破顔した。

「かあいいな、カラは」

 わっ。

 突然、抱き寄せられ、お人形のように振り回される。

 な、何? く、苦しい。

「俺達が俺達のお姫様を怒るわけないだろう? お前が怒っていいんだよ」

 耳元で聞くテン様の楽しそうな声。

「おいで、姫殿下」

 トエ様も穏やかな声で告げると、その場に座した。

「三人で作戦会議だよ。昔みたいにね」

 三人で、昔みたいに。

 泣きたくなるぐらい、優しい言葉。

「付き合うか? 夜は長いぞ」

 ようやく胸元から放してくれたテン様が、それでも私を抱え上げたまま聞いた。

 子供を可愛がるような、屈託のない表情は、まるでいい人みたいだった。

 本当は悪い人だということを、不意に忘れてしまいそうになる顔。

 初めて会った時と同じように。

 懐かしい、あの頃みたいに。

 三人の関係が始まった頃みたいに。

 だから、私は躊躇わず

「はい」

 はっきりと返事した。