第一話 ハートに火をつけて


1.


 近頃、同居人の凜堂があちこちのメディアに派手に取り上げられたせいで、僕はあいつとの関係をあれこれ邪推されたり、また一部の女性からはなぜかうらやましがられたりするのだけれど、それらはすべて完全なる誤解であることを、この場を借りて力強く宣言しておきたい。

 たしかに、警察も手をこまねく難事件を見事に解決する凜堂の類稀な観察力や推理力にはときに感動させられることもあるし、結果的に被害者やその関係者を助け、また慰めることにもなるその行為は、素直に称賛されるべきだと思う。凜堂のそういったところには――皆に期待されるような感情こそないものの――実は僕も、密かに尊敬の念を抱いていないでもない。

 けれど、曲がりなりにも一つ屋根の下で生活をともにする相手となると、話はまるで違ってくる。

 僕はこれまで、凜堂のような日常生活破綻者には出会ったことがなかった。これから先も間違いなくないだろう。昼夜逆転の毎日。掃除はもちろん、料理も一切しない。衣類を洗濯し、そのしわを取って干して取り込むなんて面倒な作業はもっての外だ。もちろん人間向き不向きがあるし、できないことを責めているのではない。つまるところ凜堂は、自分の住まいそのものを、大きなごみ箱か何かだと勘違いしている節があるのだ。そんな中で平気でごろごろ寝ているのだから、自分自身のことも洟をかんだあとのティッシュか何かだと思っているのかもしれない。

 おまけに凜堂は依頼があるたび、必ず僕を現場に連れ出し、そのたびに僕はあいつのフォローに回らされることになる。そして、そのために命の危険にさらされたことも一度や二度ではないのだ。ある意味、凜堂の一番の被害者は僕だと言っても過言ではない。

 そんな僕が、どうして今もまだ、こうして凜堂と同居を続けているのか? それをこれから語っていこうと思う。

 僕が凜堂と神田神保町で同居を始めた経緯は、少しばかり込み入っている。

 だからここはやはり順序よく、僕たちが知り合うきっかけとなった、あの火中の密室殺人事件の話から始めるのが適当だろう。


 年間の火災における死因でもっとも数が多いのは炎に焼かれての焼死だけれど、それに負けず劣らず多いのが、煙を吸い込んでの窒息死、及び一酸化炭素中毒死なのだそうだ。

 火災で発生する煙には、大量の一酸化炭素が含まれている。一酸化炭素は肺に取り込まれると、酸素のおよそ二五〇倍もの強さでもって血中のヘモグロビンと結合し、たちまち脳への酸素供給を阻害する。その結果、人間はあっという間に昏睡状態に陥り、最悪そのまま死に至ってしまう。仮に助かったとしても、慢性的な頭痛や記憶障害、その他いろいろな後遺症が現れることもあるらしい。もし火事に巻き込まれたときは、炎と同じぐらい煙にも気をつけなくてはならない。誰もが肝に銘じておくべき大切なことだ。

 なぜ僕がこんなことを知っているのかというと、三年ほど前、ある短編で火事のシーンを書くに当たって調べたことがあるからだ。その甲斐あってか、原稿のほうはそれなりに満足のいくものに仕上げることができたと思う。

 けれど。

 まさかその知識が実地で役に立つ日が来ようとは、もちろん僕は夢にも思っていなかったのだった。

「……ん」

 ふと何かが破裂するような、破壊的な音が聞こえた気がした。

 無理矢理眠りから叩き起こされた僕は、布団の中で小さく唸った。ややあってまぶたを擦りながら、のそりと身を起こす。

 僕が住んでいるのは、五階建てマンションの四階の一室である。特にこれといった特徴のない、質素なワンルームだ。奥のガラス戸を開ければベランダに出られ、駅へと続く細い通りを望むことができる――のだけれど、今はそちらのほうが何やら騒がしい気がした。それに、薄いカーテンに遮られたガラスの向こうが、なぜかうっすら赤く染まっているように見える。

 枕元のデスクに置いてあったスマートフォンを手に取る。ロックを解除すると、モニターに表示された時刻は午後十一時過ぎだった。

 間違いない。今はまだ夜――それも深夜だ。にもかかわらず、部屋の外がかすかに明るいのはどういうわけだろうか。

 このとき僕がもう少し注意深ければ、かすかに辺りに漂っていた焦げたような臭いから異変を察知できたかもしれない。けれど、寝起きの回らない頭ではそれも難しかった。

 ベッドから出て、何の気なくカーテンを開ける。クレセント錠を起こし、からからとガラス戸をスライドさせた。

 その途端、強烈な熱気と目の覚めるような赤が、ベランダの向こうから迫ってきた。

「うわっ!?」

 同時に風向きのせいか、もうもうとした黒煙が室内に侵入してくる。

 煙の直撃を受け、僕は文字通り呼吸が止まった。その場にしゃがみ込み、激しく咳き込む。目と喉に強い痛みを覚え、ようやく察した。

 か、火事だ。

 逃げないと!

 慌てて踵を返す。なんとかデスクの上の財布とスマートフォンだけはつかんで、そのまま玄関へと向かった。

「……っ!」

 スニーカーをつっかけてドアを開けると、壁がなく開放されているにもかかわらず、外廊下はすでに煙で満ちていた。すごい臭いに再度咳き込みながら、スウェットの袖で鼻と口を覆う。

 左手三メートルほど先、廊下の突き当たりにエレベーターがある。液晶にはケージの階数が表示されているので、まだ稼働してはいるようだ。けれど、火事のさなかにエレベーターを使うわけにもいかない。もし乗っている最中に故障でもすれば、それこそ万事休すだ。

 となれば、あとはそのすぐ手前にある階段しか避難するための経路はない。

 けれど、僕はさすがに躊躇した。廊下を覆う煙は、まさにそこから煙突のように立ち昇ってきていたからだ。どうやら火元は下の階らしい。

 とはいえ、迷ってる場合じゃない!

 僕は大きく息を吸うと、意を決して階段に飛び込んだ。たちまち熱を持ったどす黒い煙に全身を燻され、細めた目に涙が滲む。まぶたを開けているのが辛い。けれど、完全に閉じてしまえば足を踏み外しかねない。とにかくできるだけ姿勢を低くしたまま、無我夢中で煙を掻いくぐる。

 やがて三階の廊下にたどり着いたところで、僕は絶句した。

 僕が住んでいる四〇一号室の真下に当たる三〇一号室――そのドアが開き、そこから火と煙が噴き出していたからだ。まるで黒煙を吐き出しながら炎の舌を荒れ狂わせる巨大な蛇の口腔だ。全身を炙る強烈な熱に息を呑んだ、そのときだった。突然その向こう、三〇二号室のドアが勢いよく開き、中から人影がまろび出てきた。

 二十代前半とおぼしき女性だった。野暮ったいトレーナーを着て、足元にはサンダルを履いている。寝起きなのか、髪はぼさぼさだ。痩せて不健康なぐらい白い顔に、ハの字の眉、黒縁の眼鏡をかけたところには、なんとなく見覚えがあった。おそらくエレベーターで乗り合わせたり、ロビーですれ違ったりしたことがあるのだろう。

 激しく咳き込みながらその場にうずくまる彼女に、僕は大声で呼びかけた。

「は、早くこっちへ!」

 顔を上げた彼女は僕のことを認めると、廊下の手すりにつかまって立ち上がろうとした。けれど三〇一号室からの煙に巻き込まれ、すぐにまた咳き込みながら身を折ってしまう。

「っ……ええい!」

 僕はなけなしの勇を鼓して、彼女の元へと走った。廊下の幅はほんの一メートルほどしかなく、さすがに三〇一号室の前を通過するときは、その火勢に身がすくみそうになった。

「大丈夫ですか!?」

 彼女は弱々しく頷く。

「口と鼻を押さえて姿勢を低くしてください! 煙を吸わないように!」

 僕は彼女の身を起こすと、かばうようにしながら廊下を取って返した。

 二人で階段を下りる。幸いこちらはほとんど煙はなかった。――その途中、マンションの外からサイレンの音が聞こえてくることに気づく。

 一階ロビーにたどり着くと、僕たちはオートロックの自動ドアから外に出た。

 マンション前の通りでは、今まさに消防車が到着したところらしく、赤いランプが闇を切り裂く中、青い制服の消防士が大声を出して詰めかけた野次馬を整理しながら、通りの両端に立ち入り禁止テープを張っていた。

 冷たい十月の空気に白い息を吐きながら、僕はふとその野次馬の中に、またも見覚えのある顔を見つけた。

 短髪を赤に染めた浅黒い肌の青年で、こちらもたしかマンションの住人だ。目立つ髪の色なので記憶に残っていた。先に避難していたのか、ジップアップのパーカーにランニングシューズという恰好で、呆然とマンションのほうを見上げている。

「ああ……」

 すぐそばで、一緒に逃げてきた女性が声をもらした。彼女もマンションのほうへ、どこかぼんやりとした目を向けている。その視線を追って顔を上げた僕は、

「うわ、ちょっと待った……嘘だろ……」

 思わずうめいていた。

 盛大に火が噴き上がっているのは、やはり三〇一号室のベランダだった。ただその火は、あろうことか真上の四〇一号室――つまり僕の部屋のベランダへと移り、ますますその勢いを増そうとしていた。

 目の前の光景が信じられず、僕も通りに突っ立ったまま呆然としてしまっていると、

「こちらのマンションにお住まいの方ですね!?」

 すぐ横手から口早に問いかけられた。

 見ると、消防士とおぼしき年配の男性だった。がっちりとした身体つきで、よく鍛えられていることがうかがえる。

「あ……は、はい。そうです。四〇一号室の月瀬です」

 我に返って頷くと、

「そちらは?」

 消防士は女性のほうを見た。

 彼女は今更気になってきたのか、ぼさぼさの髪を押さえながら、

「……瀧本です。瀧本麻奈。三〇二号室の――」

 と、小声で呟いた。

「逃げ遅れている方がいるかどうか、わかりますか」

「いえ、僕は彼女以外に誰も見てませんけど……」

 彼女――瀧本麻奈のほうも首を横に振った。

 僕たちは消防士の案内で、立ち入り禁止テープのほうへと向かった。その間も自室の様子が頭から離れず、気が気ではなかった。

 改めて見上げると、どうやら高熱のせいで窓が割れ、カーテンを伝って室内に火が燃え移ったらしい。部屋の中で、赤々とした光が揺らめいていた。

 あああ……本当に燃えている。

 本棚に収めたいくつもの愛読書や資料、預金通帳、ノートパソコン、ベッドやデスク、テレビなど、身の回りのすべてが何から何まで等しく炎に舐められ、灰塵へと帰していく――そんな光景が脳裏に浮かび、暗澹とした気分になっていると、

「――月瀬さん! こっちこっち!」

 不意に名前を呼ばれた。

 振り返ると、カーキ色のジャンパーを羽織った髪の白い小柄な男性が、テープの向こうで手招きしている。

「ああ……村越さん」

 不動産管理会社の村越だった。今年で六十歳らしいけれど、とても声が大きくよく通る。自宅もこのそばにあるらしく、朝夕には通学路に立って小学生たちの見守りを行う、下町のいいおじさん、といった感じの人だ。

「ああよかったわ、月瀬さんは無事で!」

「僕は? っていうと……」

 その言い回しに眉をひそめると、おそらく火事を聞きつけて慌てて飛んできたのだろう村越は、周囲の喧騒に負けない大きな声を出した。

「あれ、燃えてるの三〇一号室だよね!? どこにも井手さんの姿が見えんのですよ!」

「え……」

 正直に言えば、三〇一号室の住人の名前をはっきりと憶えていたわけではなかった。村越も僕が知っていると考えていたのではなく、興奮した弾みで口走っただけだろう。

 ……けれど、そうだ。井手さん。三〇一号室に住んでいるのは、たしかそんな名前の女性だったはずだ。

 その姿が見えない?

 まさか、と思いながら、再びマンションのほうを振り仰ぐ。けれど、もちろん僕になす術などあるはずもなく――


 ……それから三時間後、ようやく火は消し止められた。

 その間、僕は自分の住む部屋が燃えていくのを、ただひたすら見上げていることしかできなかった。


2.


 これよりほんの少し前――夕方、午後六時頃のことだ。

 僕は別の場所にいて、そこで果てしなく落ち込んでいた。

 プリントアウトされた原稿を前に、思わずマリアナ海溝の底まで沈み込んでいきそうな声を出してしまう。

「つまり、ボツってことですか……」

「大変申し上げにくいんですけど、そういうことになっちゃいますね……」

 会議室のテーブルを挟んで向かいに座った碧洋社第一文芸編集部の編集者である翁長さんは、申し訳なさそうに言った。普段はバイタリティの塊のような人で、僕が一言発するうちに三つはセンテンスを口にするほどよくしゃべる彼女だけれど、さすがに今は歯切れが悪い。

「その、たしかによく書けてはいるんです。月瀬さんは、やっぱり文章がお上手です。いくつか辻褄的に気になる部分はありましたけど、充分修正可能な範囲だと私は思いました。ミステリとしてきっちりまとまっていて、まさに月瀬さんの生真面目なお人柄がそのまま表れているかのような作品でした」

 そう言って頷きつつも、翁長さんは、ただですね、と続けた。う、と僕は怯む。編集者が口にする「ただ」ほど怖いものはない。

「その反面、どうにも個性に欠けるというか、思わず手に取りたくなるようなつかみに乏しいんですよね」

「すみません……」

 その直截な指摘に、僕はうなだれる。

 常々自覚していることではあった。我ながらおもしろみのない性格のせいか、僕は作中の設定や展開も、よく言えば地に足のついた――悪く言えばどこかで見たようなものしか書けない傾向にある。そのため数少ない読者の感想も、「悪くはないけど、なんか退屈」「とにかく地味」といったものになりがちだった。

「た、例えばですけど」

 僕は萎えそうになる気持ちを奮い立たせ、食い下がった。

「改稿次第で、なんとか出版に至る可能性はないでしょうか」

 翁長さんは肩まである髪を指先でいじりながら、じっと原稿を見直した。ユニークな丸眼鏡をかけた顔を険しくしたまま、うーん、と唸り、

「……この作品に手を入れるとすれば、もっとキャラクターの個性を大胆に際立たせて、展開も派手にする、といった方向性になると思います。ただ、そうするとあちこち手を入れなくちゃいけないわけで、結局かなりの大仕事になっちゃいますよね。それならいっそ一から新しい作品を書かれたほうが、月瀬さん的にもやりやすいんじゃないかと思うんです」

 僕はぐうの音も出せず、ますますうなだれるしかなかった。たしかに一部の修正にとどまらず、登場人物やストーリーにまで大幅に手を入れるとなると、それは一度建てた家を解体して、基礎から新たに家を建て直すようなものだ。それなら最初から、別の土地に別の家を建てたほうが、よっぽど手間も少ない。

「月瀬さん。考えてみてほしいのは、実際に原稿が本になったとき、帯になんと書かれて売り出されるかということなんです」

 翁長さんはまっすぐこちらを見て言った。僕は慌てて居住まいを正す。……いけない、呑気に打ちひしがれてる場合じゃない。

 翁長美也子は、僕がデビュー時からお世話になっている編集者である。僕よりずっと人気のある作家を何人も担当するベテランで、指摘やアドバイスは常に的確だ。ときに厳しい言葉も出てくるけれど、それも作品を作り上げることに対する情熱ゆえである。僕は彼女のことを、編集者として心から信頼していた。

「ただ普通に事件が起きて、手続き通りにそれを解いてというだけじゃ、読者はまず手に取ってくれません。謎がものすごく不思議であるとか、主人公が一風変わったお仕事をしているとか、ラストで秘められていたテーマが鮮やかに描き出されるとか――そういった華やかな個性、これという作品の魅力がほしいんです。くたびれた中年刑事が足で証言を稼いで、殺人の動機となった被害者の不倫関係を暴く、という今回の月瀬さんの作品だと、その部分がどうしても弱いわけです。いえ、個人的には中年主人公の地味なストーリー大好きですけどね? 私、五十代のおじさまがストライクなタイプなので」

「は、はあ……」

 ……そして信頼しているからこそ、その言葉がより深く胸に突き刺さるのも、また事実なのだった。

 すっかりいつもの口のなめらかさを取り戻し、あれこれと作品のだめ出しを繰り出す彼女の前で、僕は再び深く肩を落としてしまった。


 ビルの外に出た途端首でもくくりそうな顔をしていたからかもしれない。翁長さんは、「あの、月瀬さん? もしよければ次回作の構想を練りながらお食事でも……」と気遣わしげに誘ってくれた。けれどさすがに今はそんな気力も湧いてこず、僕は謹んで辞退すると、最寄りの飯田橋駅から地下鉄に乗った。

 しばらく車輛に揺られ、地元の駅を出ると、辺りにはもうすっかり夜の帳が下りていた。

 ため息をつきながら、自宅マンションへの道のりを歩く。肩にかけた原稿入りのトートバッグが、ずっしりと重かった。

 僕――月瀬純は、デビュー五年目のミステリ作家である。といっても、売れっ子なんかではまるでない。むしろ新刊の時期が過ぎればたちまち返本され、あっという間に書店から自作が消え去ってしまう零細の身だ。おまけに近頃は執筆時にいろいろ考えすぎてしまって、どうにも筆が遅くなり、もう一年近くも新作が発表できないでいた。

 ……それでも正直、ボツにされるとは思っていなかった。

 もちろんわかっている。翁長さんだって――いや、どんな編集者だって――ボツにしたくてしているわけではない。長編なら原稿用紙三百枚以上、文字数十二万字を超える原稿は、読み込むだけでも一苦労だ。それをボツにするということは、それまでにかけた時間や労力も丸ごとご破算にするということなのだから。やりたくてやっているわけがない。

 結局、読み手を満足させられる原稿を書けなかった、僕の実力のなさが悪いのだ。

 もう一度、石のようなため息を吐く。

 同時に、ぐう、と腹が鳴った。

「…………」

 どれだけ落ち込んでいても、きっちり腹は減る。ずいぶんと図太く正直な自分の身体に、乾いた笑いが込み上げた。

 力が抜ける。ややあって、胸の奥からじわりと熱が湧いてきた。

 ……そうとも。落ち込んでいても仕方がないじゃないか。悔しかったら、逆にぐうの音も出させないぐらいの作品を書くしかないのだ。

 僕は回れ右をして来た道を戻り、駅前にある牛丼屋に入った。豚汁とサラダ付きのセットで夕飯にする。正直、新作の具体的なアイディアはまだ何もない。けれど、空腹では浮かぶものも浮かばないだろう。

 思索に耽りながら、再び帰宅の途につく。マンションに帰り着いた頃には、時刻は午後九時前になっていた。

 鍵でオートロックの自動ドアを開け、ロビーに入る。すると、郵便受けの前に女性が立っていた。同じマンションの住人だろう。

「こんばんは」

 僕が挨拶をすると、女性はびくりと肩を震わせた。すぐに振り返り、

「――ああ、どうも。こんばんは」

 僕のことを認め、ほっとした顔になる。

「あ、すみません。驚かせてしまって……」

 夜中に突然、背後から男に声をかけられれば、警戒して当たり前だ。僕が慌てて謝ると、女性は苦笑した。

「ああいえ、気にしないでください」

 おそらく三十手前ぐらいだろう。会社帰りなのか、フェミニンなパンツスーツにモッズコートを羽織っている。目鼻立ちははっきりしていて、茶色の髪にはゆるくウェーブがかかっていた。なんとなく見覚えのある人だと思ったら、僕の部屋の真下、三〇一号室に住んでいる女性だ。このマンションに引っ越してきたとき、挨拶に行ったので憶えている。ただ、生憎と名前は忘れてしまっていた。郵便受けを見ても、女性の一人暮らしゆえか、ネームプレートが出されていないので確認できない。

 彼女はエレベーターのほうに向かい、ボタンを押した。すぐにケージが到着する。

「あ、乗ります?」

「ああいえ、大丈夫です。僕は階段で上がるので」

 仕事柄いつも座りっぱなしなので、外出したときはなるべく階段を使うようにしていた。それにたった今怖がらせてしまったばかりなので、狭いエレベーターで二人きりになるのも気が引けた。なんとなく彼女も、先に一人で行きたそうに見える。

 おやすみなさい、と声をかけると、彼女はお愛想の笑みだけ浮かべてエレベーターに乗った。僕も郵便受けを覗いてから、その脇の階段を登る。

 新築のマンションではないのでエレベーターも古く、その昇降も遅い。僕が三階まで上がったときも、彼女の乗ったケージはまだ到着していなかった。僕はそのまま立ち止まることなく四階に上がり、自室のドアのシリンダーに鍵を差し込む。

 まずはシャワーでも浴びてすっきりしよう。それから新作の考案だ。

 再びともった創作意欲の火を胸に、意気揚々とドアを開ける。

 ……このあと、まさか本当に自分に火がつきそうな事態に陥るとは、もちろん僕は知る由もなかったのだった。


3.


「――いやあ、本当に災難だったなあ、月瀬!」

 突然の火災に見舞われた、その三日後のことだ。

 渋谷の道玄坂小路にある居酒屋で、僕は熊谷善良と会っていた。

 彼は僕の大学時代の先輩である。知り合ったきっかけは生協でのアルバイトだった。一年のときに働き始めた僕に、面倒見のいい一つ上の熊谷は、レジ打ちから商品補充、店内でバレずにサボれるスポットまで、実にいろいろなことを教えてくれた。

 名は体を表すという諺の通り、熊のように大柄で、がっしりした身体つきをしている。けれど太い眉にちりちりの天然パーマという個性的な風貌と、豪快に笑う様子には愛嬌があり、先輩の周りからはいつも人が絶えなかった。今は都内の商社に勤めており、しがない自由業の後輩が災難に巻き込まれたことを知って、こうして連絡をくれたというわけだ。

「ニュースでお前の住んでるマンションの名前を見たときはマジで驚いたぞ。完全に二度見したもんな、二度見!」

「ご心配おかけしました……」

 豪快に笑う熊谷先輩に、力のない苦笑を返す。

「火事だってわかったときは、僕も本当に驚きましたよ。あんなに驚いたのは、二十歳になった当日、自分の本当の誕生日は実はもう一週間早かったんだって両親から聞かされたとき以来ですね……」

「その話も気になるな、おい」

 噴き出した熊谷先輩は、ふと同情的な声音になると、

「しかし気の毒だよな。その下の部屋に住んでたっていう彼女、結局亡くなっちまったんだろう?」

「あ、ええ……。そうみたいです」

 僕も声を落とした。

 井手美紀。

 それが三〇一号室に住んでいた女性の名前だった。僕はおそらく最後に彼女と顔を合わせた人間ということで、警察からより詳しい事情聴取を受けた。

 全焼した三〇一号室からは、井手美紀の焼死体が見つかった。出火の原因は、彼女が就寝前に焚いていたアロマキャンドルの火が絨毯に落ち、それが燃え広がったのだろう、とのことだ。ちなみに僕が聞いた何かが爆発したような音は、キッチンのガスに引火したときのものだったらしい。

 正直、彼女とはほとんど面識もなかったし、僕に何かができたわけでもない。それでもじかに顔を合わせ、言葉まで交わした人間が、その直後に死んでしまったというのはやはりショックだった。

 黙り込んだ僕を見かねてか、熊谷先輩は殊更明るい声を出した。

「ま、とにかくお前が無事でよかったよ。おかげで、こうしてまた一緒に美味い酒が呑めるってもんだ」

 学生時代から変わらないその朗らかさに元気づけられる。グラスを掲げる先輩に促され、僕たちは二度目の乾杯を交わした。

「で、月瀬。お前、今どうしてるんだ? 結局マンションの部屋は無事だったのか?」

「いえ、それが、実はちょっと困ったことになってまして……」

 結論から言うと、僕の部屋も無事では済まなかった。

 三〇一号室から上がった火は、綺麗にベランダを伝って僕の四〇一号室に燃え移った。下と同じくほぼ全焼した上、消防車からの放水で家財も丸ごとだめになり、とてもそのまま住み続けられなくなってしまったのである。

「仕方がないので、もうマンションの部屋は引き払って、今はとりあえず新宿のホテルに泊まってます」

「新しい部屋、見つかりそうなのか?」

「探してはいるんですけど、なかなか手頃なのがなくて……」

 おかげで先立つものも心細くなるばかりだ。もちろんすぐにも食い詰めるというわけではないけれど、このまま遠慮なくホテル暮らしを続けていられるほど優雅なわけでもない。むしろ原稿がボツになったばかりで、差し当たって収入の予定もないのだ。一応火災保険で家財の補償はされるものの、別の物件に引っ越すとなれば、新たに敷金や礼金も必要になるだろう。なるべく早く次の住まいを見つけないと、最悪、ネットカフェで難民生活を送ることになるかもしれない。

「実家は頼れないのか? たしか松戸だったよな」

「……先輩も知ってるでしょう。実家には帰れないんですよ」

 僕が目を逸らしつつ小さく頭を掻くと、

「あれ、もしかしてお前、まだ親と揉めてたのか?」

 熊谷先輩は呆れたように言った。

 碧洋社主催の新人賞に引っかかり、運よく作家としてデビューすることができた五年前、僕は都内の小さな広告会社で働いていた。しばらくの間、平日は勤め人、休日は作家として二足のわらじを履いていたけれど、だんだん勤め仕事が休日にまでかさばるようになり、やがてその無理がたたって身体を壊し、入院するはめになってしまった。そのため二年前に会社を辞めて、専業作家として活動するようになったのだ。

 ただ当然と言うべきか、両親には猛反対された。

 我ながらかなり思い切った決断だったと思うし、大学まで出させてもらったのにこんな不安定な生き方を選んで申し訳ないという気持ちもなくはない。それでも、作家になって自分の書いた小説を出版し、より多くの読者に読んでもらうこと――それは僕が子供の頃からずっと憧れ続けてきた夢だった。だからどうしても、あのままずるずるとあきらめたくはなかったのだ。

 そんなわけで――

「……もし今のこのこ帰ったりしたら、やっぱりだめだったかと、鬼の首を取ったように笑われますよ」

「まさに意地の張りどころってわけか」

 お前も結構頑固だよな、と熊谷先輩は苦笑した。

「まあ、うちでよけりゃしばらく間借りさせてやっても構わないんだが――」

「いやそんな。先輩に迷惑かけるわけにはいきませんってば」

 正直そうしてしまいたい気持ちもなくはなかったけれど、家族が頼れないからといって、先輩に甘えてしまったのでは本末転倒だ。

「相変わらず真面目だな、月瀬は」

 熊谷先輩は再度苦笑すると、自分と僕のグラスが空になっているのを見て、生二つおかわり、と店員に注文した。そして、あごを掻きながら少し考える素振りをすると、

「あー、実は今、知り合いに一人、同居人を探してるやつがいるんだが」

 と言った。

「同居人?」

「そうだ。いわゆるルームシェアだな」

 すぐに注文したビールが届いた。先輩はそれを一口呑み、満足げな息を吐いて続ける。

「大学時代の一つ後輩で文学部の法文学科出身だから……ああ、月瀬、お前とはちょうど同い年で同期か。まあいつも海外をぶらぶらしてて単位が全然足りなかったから、卒業はお前より二年遅れてるけどな」

 僕たちは、都内にある私立城翠大学のOBだ。熊谷先輩は工学部、僕は文学部の日本文学科に通っていた。そしてその彼も、学科は違えど、僕と同じ文学部の出身らしい。

「卒業後はロンドンに渡ってたんだが、先月、日本に帰ってきたらしいんだ。ただ持ち合わせがあんまりないとかで、なるべく手頃な家賃の物件に住みたい、心当たりがあったら紹介してくれ、って頼まれてな。たまたま神保町に格安の物件があるって話を耳にしてたんで、それを紹介してやったんだよ」

 熊谷先輩は学生の頃から、「渋谷のスクランブル交差点を渡れば、必ず一人は知り合いとすれ違う」と言われるほど顔が広かった。今もその交友範囲は健在で、あちこちからいろいろな話が集まるらしい。

「その物件、築年数は結構イってるけど、一人で暮らすにはそこそこ広いんだ。ただでさえ格安な上、もし同居人がいれば家賃はさらに半分になる。一人口は食えぬが二人口は食える――ってこいつは違うか。ともかくそんなわけだから、今度は自分と同居できそうなやつを紹介してくれ、って頼まれてたんだよ」

 注文の多いやつだよな、と先輩は笑った。

 なるほど。独り身で金欠の僕は、その候補としてまさに打ってつけだ。

「ちなみに、家賃はいくらなんです?」

「月三万だな」

「えっ」

 思わず目を剥いた。安い。いや、むしろ安すぎる。都内の物件事情に特別詳しいわけではないけど、神保町で二人で住める広さがあってその値段というのは、どう考えてもおかしい。

「……ひょっとして、訳あり物件ですか」

 そう訊くと、先輩は何も言わずにいい笑顔を浮かべた。やはりそういうことらしい。

「ただなあ」

 熊谷先輩はあごを掻き、

「訳ありなのは物件よりも、むしろ同居人のほうなんだこれが」

「え?」

 僕が顔を上げると、先輩は説明しあぐねた様子で、

「まあ一口で言えば、ちょっと変わったやつなんだよ」

「……はあ」

 訳あり物件以上に、訳ありな同居人? 僕は嫌な予感を覚えつつ訊いた。

「一体何をしている人なんですか?」

「探偵だな」

 探偵。

 たしかに日常生活で馴染みのある仕事ではないかもしれない。かといって、大袈裟に驚くほどでもないだろう。今や身辺調査や浮気調査などで、多くの人が利用しているというし。

 けれど、熊谷先輩は再度あごを掻きながら、

「いや、あいつはそういうことはやらないんだ」

「は?」

 では、何ならやるというのだろう。

「まあ、ともかく悪いやつじゃないことは確かだ。そこだけは安心してくれていいぞ。むしろすこぶる気のいい、おもしろいやつだよ」

 熊谷先輩は笑顔で請け合った。

 疑問は何も解消されていないし、むしろ不安は募るばかりだったけれど、三万円という家賃(折半すれば一万五千円だ!)はどうしたって無視できなかった。この場で断ってしまうにはあまりに惜しい。

 僕は迷いを振り切るようにビールを喉に流し込んだ。そして、殊更何でもないことだと考えるように努めて言った。

「なんだかよくわかりませんけど、たぶん大丈夫だと思います。顔見知りの作家や編集者にも、変わった人は多いですしね」

「そうか。まあ、月瀬もなんだかんだで変わってるもんな。でなきゃ小説なんて書いてないし、まして作家になんかなってないよな!」

 その物言いにはおおいに異議を唱えたかったけれど、そこで僕はまだ肝心なことを聞いていないことに気づき、尋ねた。

「そういえば、なんて名前なんですか? その僕の同期っていうのは」

「ああ、凜堂だよ」

 熊谷先輩はビールを呑み干すと、店員に三杯目のおかわりを注文しながら言った。

「凜堂星史郎だ」


4.


 ――とにかく一度物件を見せてもらえるよう、その彼に頼んでもらえますか?

 僕がそうお願いすると、熊谷先輩は、よし来た、とその場でスマートフォンを取り出し、先方にメッセージを送ってくれた。

 すると、

 ――いつでも好きなときに来てくれて構わないよ。

 すぐにそんな返事があったらしい。ありがたくはあったものの、その馴れ馴れしいぐらいの気安さが、僕をますます不安にさせた。

 ともあれ翌日の木曜日、僕たちはさっそく現地に行ってみることになった。

「よう、待たせたか?」

 午後四時過ぎ、待ち合わせ場所の神保町交差点に、熊谷先輩はスーツ姿で現れた。聞けば外回りの途中で抜け出してきてくれたらしい。

「すみません、先輩。結局甘えることになっちゃって……」

「なあに。ちょうどこの辺りの取引先に用があったんだ。それにな月瀬、いい営業の条件って知ってるか? いかにサボりつつ仕事を取ってこられるかだ」

「たしかに、昔から要領よくサボるのは得意でしたもんね」

 僕が苦笑すると、熊谷先輩も笑い、

「そういうことだ。じゃ、行くか」

 ぶらりと歩き出した。

 神田神保町には出版社が多い。僕が以前エッセイを載せてもらった文芸誌の版元もあり、打ち合わせで何度か訪れたことがある。日本有数の書店街で、大小の通りのあちこちに新刊書店はもとより、百を超える個性的な古書店が軒を連ねているのはもはや周知のことだろう。近くにいくつか大学キャンパスがあるので、学生とおぼしき若者の姿もよく見かけ、そのせいか喫茶店やカレー、ラーメンの美味しい店も多い。思わず目的もないまま書店を梯子し、その足で通りを散策したくなってしまう――そんな昔懐かしい趣きのある街だ。

 僕たちは交通量の多い白山通りを竹橋方面に歩くと、すずらん通りから一本隣にある狭い路地に入った。一方通行で人通りがなく、両側の建物に遮られて日が陰っている。そんなうら寂しい谷間を進んでいくと、やがて奥まったところにある建物の前で、先輩は立ち止まった。

「着いたぞ。ここだ」

「……え?」

 それはアパートやマンションではなく雑居ビルの類だった。入口の脇には《神保町ビルディングB》という素っ気ない名前が書かれたプレートがはめ込まれている。

 周囲の建物よりこぢんまりとしたビルで、どうやら三階建てらしい。古い煉瓦タイルの貼られた外壁は薄汚れ、ところどころ小さなひびまで入っていた。税金対策の一環で建てられたものの、取り壊すにも金がかかるので、そのまま放置されているだけなんじゃ……と、思わずそんな想像をしてしまう。

「ここの三階だ」

 熊谷先輩は軋むドアを押した。

 狭い薄暗いロビーには、ダイヤル錠付きの郵便受けが設置されていた。けれど、それらにはネームプレートが一つも入っていない。ひょっとして空きビルなのだろうか。いくら古いとはいえ、一応駅から徒歩五分の好立地なのに?

 内心で無理矢理押し込めていた不安が、またも急速に頭をもたげてくる。

 エレベーターがなく、僕たちは足音を響かせながら、ぐるぐると上へ続く階段を登った。掃除が行き届いておらず、床や黒い手すりにはうっすらと埃が積もっている。

 各階には一つずつドアがあった。ふと二階のドアが半開きになっていたので中を覗いてみると、そこは何かの事務所のような雰囲気で、デスクやキャビネットといった備品が置かれていた。にもかかわらず、やはり人の気配はなくがらんとしている。まるで夜逃げでもしたあとかのようだ。

 ……一体何なんだここは?

「あの、先輩」

 先を行く熊谷先輩に、僕はおそるおそる声をかけた。

「あえてこれまで訊きませんでしたけど……ここって一体どういう建物なんです?」

「あー……まあ、いつまでも隠してるわけにもいかないよなあ」

 先輩はバツが悪そうに頭を掻きながら、実はな、と言った。

「――殺人事件があったんだよ」

「は?」

 ぽかんとする僕に、熊谷先輩は続けた。

「先月、神保町の雑居ビルで、テナントの従業員が殺されたって話、知らないか?」

「あ、ええ。それならネットのニュースでもトップになってたから見た覚えがありますけど……って、え、ま、待ってください! まさか――」

 熊谷先輩は気まずげに口の端を上げながら、足元を指差し、

「それ、ここだ。というか、これから行く部屋が、まさにその事件現場なんだ」

「なっ!」

 思わず周囲を見回してしまう僕に、先輩は説明した。

「その会社ってのが、性質の悪い消費者金融だったんだけどな。従業員が殺されてた状況が、どうもちっとばかり妙だったらしい」

「妙?」

「ああ。まあ俺も詳しくは知らないんだが……そのせいで警察も、犯人の見当がつかずに手をこまねいてたそうだ。で、このビルのテナントはその消費者金融含めて、そろいもそろって後ろ暗いところのある連中ばっかりだったらしい。警察が出入りするようになったのを嫌がって、備品もそのままに、あっという間に出ていっちまったそうだ」

 つまり、上から下まで後ろ暗い業者の巣窟だったらしい。つくづくどんなビルなんだ。まさか、そういう人間を引きつけるパワースポットだったりするのだろうか?

「で、このビルのオーナーが、水門桜っていう、都内にいくつも不動産を持ってる八十過ぎの婆様なんだが。その婆様も、客に逃げられるわ、いつまで経っても警察がうろうろしてて新しく貸しに出せないわで、いい加減業を煮やしてたんだ。そこで俺が、ちょうどそのときロンドンから帰国したばかりだった凜堂を紹介したってわけだ」

 僕は眉をひそめた。話が飛躍したように思えるけれど。

「あいつの仕事は説明したよな?」

 先輩の質問に、僕は頷いた。

「あ、ええ。たしか探偵なんですよね。ただ身辺調査や浮気調査の類はしないっていう」

「その通り。あいつは、そういう妙な事件専門の探偵なんだ」

「え?」

 そうこうしているうちに、僕たちは問題の三階へと到着した。熊谷先輩は黒い木製のドアを叩く。

「凜堂、来たぞ」

 けれど、しばらく待ってみても返事がない。

 先輩は首をかしげ、ドアノブを握った。すると鍵はかかっておらず、ドアはゆっくりと開いた。

「おーい凜堂、入るぞー」

 そう声をかけ、部屋に入っていく。

 ……この部屋で殺人事件があった? 本当に?

 突然知らされたとんでもない話に実感を抱けないまま、生唾を飲み込みながら、僕も先輩のあとに続いた。そして、たちまち恐怖とは別の理由で絶句してしまった。

 もともと居住用のスペースではないため玄関はなく、いきなり板張りの床になっていた。広さは十二畳程度で、やはり個人、あるいは二、三人が、事務所として使うのが適当な感じだ。天井にはダクトが走り、業務用エアコンが設置されている。奥にはブラインドの上がった窓が二つ並んでいるけれど、北向きのせいか、日当たりはあまりよくなかった。書類の詰まったキャビネットやデスクで島が形成されているのは、やはり以前のテナント――たしか消費者金融だったか――が残していった備品だろう。右手に流しのついた給湯スペースとドアが一つあり、左手にもドアが二つあった。

 もちろんそれらだけなら、特に驚くようなこともない普通の事務所だ。僕が言葉を失ってしまったのは、その尋常でないぐらいの散らかりように、だった。

 床には空のペットボトル、弁当や菓子パンのパッケージ、それらの詰まったごみ袋が山のように転がり、足の踏み場もない有り様だ。ここが殺人事件の現場かと構えていたら、一転、目の前に現れたのはごみ屋敷――もはや感情が振り切れてしまい、呆然とすることしかできなかった。

「変だな」

 部屋を見回しながら、熊谷先輩が言った。

「この時間に来るって伝えといたのに。凜堂のやつ、どこに行ったんだ?」

 たしかに、室内に人影の類は見当たらない。

「……コンビニにでも出かけてるんじゃないですか?」

「なるほど、そうかもな。だったらここで待たせてもらうか」

「あ、いや、僕はできれば外のほうがいいんじゃないかと――」

 そのときだった。

 いきなり僕たちの足元から、唸り声が聞こえてきた。


 それこそ、本当に殺された人間の霊でも出たのかと思った。たとえそうでなくとも、すぐそばに放置されていたごみ袋が突然がさがさとひとりでに動き出せば、僕でなくても大声とともに飛び上がっただろう。さすがの熊谷先輩も、おおう、とうめき、後ずさった。

 けれど。

 ややあってからごみ袋がよけられ、その陰から、なんと一人の男性がむくりと上体を起こした。どうやら今の今まで床に寝ていたらしく――周囲のごみに紛れて気がつかなかった――呑気にあくびをしながら伸びをする。

「うわ、凜堂か?」

「え?」

 先輩が声をかけると、

「……ん?」

 彼は寝ぼけまなこで僕たちのことを見上げた。そして、

「ああ、先輩か。いらっしゃい」

 事もなげにそう言って、微笑んだ。

 僕は言葉に詰まる。僕の同期だという彼は、ちょっと驚くぐらいの美形だったからだ。

 無造作なスタイルの髪に、すっきりとした細い眉、通った鼻筋、顔の輪郭――そのどれもが、芸術彫刻めいた整い方をしている。そんな中、白い部分がかすかに青みがかった大きな瞳だけが、どこか少年のような無防備な輝きを宿していた。両耳には、プラチナとおぼしき五角柱のピアスがきらきらと揺れている。ただそれだけの何気ない居住まいに、まるで銀幕の中の人間であるかのような〝華〟が感じられた。

「おいおい凜堂。お前、なんだってそんなところで寝てるんだ?」

 熊谷先輩が呆れたように訊くと、

「なんだってと言われても」

 彼は小さく両手を広げ、

「そもそもまだベッドがないんだから、どこで寝たって同じさ。昔、デリーの空港でロストバゲージしたときは、間違ってコルカタに送られた荷物の到着を待ちながらロビーの床で丸三日寝てたこともあるんだ。それにくらべれば人通りや喧騒がない分、ここのほうがずっと快適なぐらいだよ」

 平然とそうのたまう。

 僕はいよいよ口元を引きつらせてしまった。

 たしかに先輩は彼のことを、〝ちょっと変わったやつ〟と称していた。だから僕も、きっとそれなりにユニークな人物なのだろうと覚悟はしていた。なので、ごみが山積した床でホームレスみたいな生活スタイルを送っていることは、まあ百歩……いや、千歩譲っていいとしよう。

 けれど、先月ここでは殺人事件が起こったという。そんなところに堂々と居座った挙げ句、その床で寝て、おまけに快適だとまで言ってのけるような人間を、〝ちょっと変わったやつ〟なんて一言で片づけていいのだろうか……?

「な、おもしろいやつだろ?」

「は、はあ……」

 熊谷先輩は本気でおもしろがっているようだけれど、有り体に言って僕は引いていた。

 そこへ、

「やあ、君が月瀬か!」

 彼は腰を払い、猫のように立ち上がった。背は一八〇センチはありそうだ。裸足にチノパン、上はオックスフォードシャツ一枚というシンプルで野性味のある服装は、まるで誂えたように似合っていた。

「凜堂星史郎だ」

 満面の笑みでそう名乗り、手を差し出してくる。

「あ、ああ……うん」

 けれど僕は気後れするばかりで、まともにそれに応じられないでいた。

 凜堂は小さく首をかしげたけれど、

「まあ、ともあれだ」

 特に気にした様子もなく手を引っ込めると、すぐに朗らかな笑顔に戻り、仕切り直すように、ぱん、と手を合わせた。

「もう先輩から聞いてるかもしれないが、改めて説明しよう。僕らの住まいは、この神保町ビルディングBの三階だ。とりあえずこの部屋を共用のリビングにして、他二部屋をそれぞれの個室として使おう。前のテナントは、窓際の部屋を社長室、廊下側の部屋を備品倉庫として使っていたらしい。僕は日当たりのいいほうが好きだから断然窓際の元社長室を希望するが、そこはフェアにジャンケンか、あるいはコイントスとでもいこう。バスルームとトイレはそっちのドアだ。それから――」

「ち、ちょっと待った! 待ってくれ!」

 いきなり立て板に水とばかりにしゃべり始めた凜堂を、慌てて止める。凜堂はきょとんとして、

「なんだい?」

「い、いやその……悪いけど、僕はまだここに住むと決めたわけじゃないんだ」

 というのは、なるべく相手を刺激しない言い回しにしただけで、僕はすでに全力でこの話を断るつもりでいた。新居は人死にが出た事件現場で、同居人もそこで平気で熟睡するド変人だなんて――ただでさえ仕事がうまくいってなくていっぱいいっぱいだというのに、これ以上厄介事を抱えたくない。

「ふうん、そうなのかい?」

 凜堂は上から下まで僕を眺め、

「しかし君、今日はどこに泊まるつもりなんだ? 住吉のマンションの部屋は火事で燃えてしまったし、宿泊中のホテルだって引き払って来たんだろう? 早くどこかに腰を据えて、小説の原稿を書かなくちゃいけないんじゃないか?」

「いやまあ、それはそうだけど……」

 口ごもった僕は、ややあってから、ん、と思う。

 どうして僕の現状や仕事のことを知っているんだ?

 熊谷先輩のほうを見る。けれど先輩は、何か含むところがあるようににやにやと笑い、

「いやいや、俺じゃない。俺は月瀬の名前と、あとは大学の一つ後輩だってことしか凜堂には伝えてないよ」

「それじゃ、どうして……」

 僕が再び目を向けると、

「そりゃあわかるさ。君のことを観察して、ほんの少し推理すれば」

「推理?」

 そうとも、と凜堂は頷き、淀みなく話し始めた。

「突然こんないわく付きの格安物件に転がり込んできたことから、君が何か普通でない事情を抱えていることはうかがえる。十中八九、金にも困っているだろう。たとえ君がこのビルのいわくを知らなかったんだとしても、先輩がその事情を慮って紹介したことは間違いないからだ。では一体、君に何があったんだろうか? そう考えて君を観察してみたところ、右のスニーカーの内側、ソールの縁の部分に黒い煤が付着していた」

 え、と思い、すぐに足を上げてみる。すると、たしかに言われた通りの箇所に煤が付いていた。……これまで全然気がつかなかった。

「さっきまで僕は床で横になっていた。おかげでよく見えたよ」

 と、凜堂は笑った。

「しかし君の着ているもの――ニットにデニム、羽織ったダウンジャケットは、どれも新品同様だ。ファストファッションブランドの比較的安価な衣類ばかりだが、金に困っているときに上から下までまとめて服を新調するのはいささか解せない。では、その理由は? 靴の煤と合わせて考えれば答えは一つ。火事だ。君はつい最近火事に巻き込まれ、衣類も住む家も失った。だから買ったばかりの新品の衣服に身を包み、こんないわく付きの訳あり物件を訪れたわけだ。……と、ここまで来て、人並みにニュースをチェックする習慣があれば、君が巻き込まれた火事と先日住吉であったマンション火災を結び付けるのは、何ら難しい仕事じゃない」

 凜堂はすたすたと部屋の奥へ歩いていった。そこにはごみ屋敷に不釣り合いな、見るからに上等そうな猫脚の革張りソファが置いてある。載っていたごみ袋を横に放りのけると、どっかりとそこへ腰を下ろし、

「そして、君が肩から提げているやはり新品のトートバッグには、ノートパソコンが入っているのが見える。こっちは衣服と違って新しくない。しかし火災時にノートパソコンを抱えて避難したとも思えないから、あとから中古ショップで買ったんだろう。ともあれ、古い型だけあってそれなりに重そうだ。目算で二キロ超といったところかな。物件の下見に持ってくるものとしては似つかわしくない。先輩との約束まで喫茶店かファミレスで仕事をしていたんだとしても、重いし、普通はホテルに置いてくるはずだ。ということは、やはり金に困っていることもあって、すでにそのホテル自体引き払ったんじゃないか――そう考えたんだ」

 僕は呆気に取られた。……それだけのことを、僕の姿を目にしてからこれまでの、ほんのわずかな間に考え抜いてしまったというのか?

 何もかも彼の言う通りだった。僕が住んでいたのは、住吉にあるマンション《住吉グリーンハイツ》である。少しでも安価なところを探そうと、新宿のホテルもチェックアウトしてきたのだ。もし内見先の物件を気に入り、かつ同居人が許してくれるのなら、そのまま入居してしまってもいい――そんな目論見もあった。

「僕が小説を書いてることは、どうして?」

「君が私服だからだ」

 凜堂は長い足を組み、ぶらぶらさせた。

「今日は木曜日――平日だ。昨日の今日で都合がついたことといい、まず普通の勤め人じゃない。先輩の一つ後輩、つまり僕の同期だというから、未だに学生ということもないだろう。となれば、自営業、フリーター、あるいは無職。そのうちパソコンをわざわざ持ち歩こうなんてのは、まず間違いなくものを書く類の自営業者だ」

「だからって作家とは限らないんじゃ……」

 そもそもここには、立派に勤め人を果たしている熊谷先輩だっているんだし。

 その部分だけ理屈に飛躍がある気がして訝しむと、凜堂は突然、あっはっは、と両耳のピアスを揺らしながら無邪気に笑い出した。

 僕が戸惑っていると、

「悪い悪い。後半はただの冗談だよ。あらかじめ君の名前だけは先輩から教えてもらったと言ったろう? だからこれで検索しただけさ」

 そう言って、チノパンのポケットからスマートフォンを取り出した。

 やられた、と思う。僕の名前で検索すれば、作家としてのプロフィールや著作の情報はすぐに出てくる。前半が見事だった分、後半まで半分信じ込まされてしまった。

「だから昨夜は、表の通りにある本屋で買ったこれを読んでいたんだ」

 凜堂はソファの上に置いてあったものを手に取った。文庫本だ。大手書店のロゴが入ったカバーを外すと、出てきたのは僕の著作だった。一年前に文庫化されたもので、一応僕の最新刊ということになる。

「君の小説、派手さはないが、おもしろかったよ」

 柔和な笑みとともにかけられたそんな言葉に、僕はたちまち顔が熱くなった。――仕方がないのだ。なぜならそれは作家にとって、大袈裟でなく殺し文句の一つなのだから。

「あ、ありがとう……」

 小さく頭を掻く。我ながら簡単に丸め込まれすぎだと思わないでもないけれど、僕は正直この一言だけで、出会ったばかりのこの風変わりな同期のことを、多少なりとも信じてもいいかもしれないという気になってしまっていた。……そうとも。たしかに第一印象は最悪だったかもしれない。けれど、きっと悪いやつではないのだろう、と。

 すると、僕の気持ちが軟化したことを察してか、熊谷先輩が笑って提案した。

「よし、それじゃ全員で協力して片づけでもするか! これじゃ、引っ越し祝いの出前を広げるスペースもありゃしないからな!」


5.


 かくして僕はその日から、神保町ビルディングBの三階に間借りさせてもらうことになった。といっても正式に同居を始めるのではなく、あくまで凜堂に別の同居人が見つかるまでの、ごく短い間だけのつもりでだ。

 その晩は四角い部屋を丸く掃いたあと、コンビニで買ってきた酒とつまみ、デリバリーのピザやチキンで宴会になった(こんな廃墟のようなビルに品物を届ける宅配人も、さぞ不気味だったことだろう)。熊谷先輩と凜堂の二人はおおいに盛り上がり、僕もそれに半ば強引に巻き込まれながら、内心では、とにかく、と決意を固めていた。……そう、とにかく生活を立て直すには、一刻も早く担当さんを唸らせるような作品を書くしかない。

 そして翌朝、午前十時。

 僕がソファでまぶたを擦りながら目を覚ますと、すでに熊谷先輩の姿はなく、すぐそばに『せいぜい仲よくやれよ!』というメモ書きだけが残されていた。今日も仕事だったのに遅くまで付き合ってくれたことに、僕は申し訳なさと感謝の念を覚える。

 そしてその仲よくすべき相手の凜堂はというと、昨日と同じく、それこそ行き倒れた死体のような有り様で床に転がって寝ていた。……一体どんな生活様態をしてるんだ、この男は。

「凜堂、そんなところで寝てると風邪を引くよ」

「ううん……」

 まるで起きる気配がない。さすがに放置しておくこともできず、僕は凜堂に肩を貸し、とりあえず窓側の個室へ運んだ。元社長室という言に間違いはなく、デスクにアームチェアが置かれている。僕は凜堂をそこに寝かせ、自分のダウンジャケットをかけてやった。

 反対側のドアには、これまた凜堂が言った通り、トイレと洗面所、バスタブ付きのシャワー室があった。それを借りて僕はシャワーを浴びる。それから昨日買い出しをしたとき、一緒にかごに入れていたサンドイッチと缶コーヒーで遅めの朝食をとった。

 片手間にスマートフォンをチェックすると、翁長さんからメールが届いていた。碧洋社から毎月刊行されているエンターテインメント系の小説誌『エクリュ』に、読み切り短編を書かないか、という誘いだった。

『もちろん短編には短編の、長編とは違った難しさがありますけど、完成までの時間が短くなることは間違いありません。とにかくまず一本作品を書き上げて、成果を出しましょう。そうすれば勘をつかんで、復調できるかもしれませんし』

 翁長さんの気遣いに感謝し、ありがとうございます、ぜひお受けします、と返事を送る。

 よし、と気合いを入れると、僕はデスクの一つを借り、そこにノートパソコンを開いた。そして、クラウドにバックアップを取っていたアイディアのメモを呼び出す。

 実のところ、自分が書くべき作品の形はまだ見えていなかった。とりあえず前回の打ち合わせで翁長さんに指摘された通り、キャラクターの個性を際立たせ、展開も派手にする――それを念頭にいくつか設定やプロットを考えてみたものの、どれも決定打に欠ける気がしていたからだ。

 うーん、何かないか。何か、何か……。

 事件の発端が訪れたのは、僕が歯がゆい気分でそう唸っていたときだった。


 午後一時頃、凜堂が起きてきた。もともと部屋に持ち込んでいたらしいガウンに着替え、スリッパをはいている。裾は引きずり、髪も乱れ放題だ。けれど美形ゆえ、そんなだらしない恰好も、ずるいぐらい絵になっていた。

「おはよう、凜堂」

 僕が声をかけると、凜堂は大きなあくびをしてから、「ああ、おはよ……」と返してきた。

「コンビニのサンドイッチとコーヒーでよければ、君の分もあるけど」

「そうかい……ありがたくもらうよ」

 ぼんやりとした顔つきで言う。サンドイッチとコーヒーの入った袋を渡すと、定位置らしいソファに身を沈めた。そして封を切った玉子サンドを、もそもそとウサギのように食べ始める。

「……コーヒーメーカーと豆は買ってこないとなあ」

 缶コーヒーをすすり、のんびりと言うその耳元では、窓からの陽光でピアスがきらきらと輝いていた。まるで優雅な休日を過ごす海外セレブのようだけれど、世間は平日の昼過ぎである(ついでに言うと、昨夜出たごみのせいで辺りはまたも散らかり放題だ)。人のことを普通の勤め人ではないなどと言ってくれていたけれど、自分はどうなのだろう。

「……凜堂。立ち入ったことを訊くようだけど、君、仕事は?」

「んー?」

 僕のほうを見ないまま、やはりぼんやりと言う。

「先輩から聞いてないのかい?」

「聞いたよ。たしか探偵だって話だけど」

「まさにその通りだよ」

「けど身辺調査や浮気調査とか、そういったことはやらないんだとも聞いたよ。妙な事件専門なんだとか」

「ほれもほの通りだ」

 二枚目の玉子サンドを食べながら頷く。

「つまり、その報酬で生計を立てているわけかい?」

 そんなことができるものなのだろうか、という疑問を込めて訊くと、

「まあ贅沢三昧ができるほどじゃないけどね。幸い食うに困らない程度にはやれてるよ。世の中、厄介事に巻き込まれる人間の数は案外多い。そして水が高きから低きへ流れるように、難事件解決の依頼は、それが可能な探偵の元へ持ち込まれるものさ」

「……ふうん」

 たしかに、初見でこちらの事情を綺麗に言い当ててみせた推理は見事だった。が、それでもまだいまいち信じ切れない。僕はもう少し突っ込んで訊いてみた。

「たしか大学卒業後はずっとロンドンにいたんだろう? 向こうでもそれを生業に?」

「そうだよ」

「そもそも君、どうしてロンドンに?」

 凜堂はサンドイッチを食べ終えると、両手で持った缶コーヒーをすすりながら、

「向こうに姉がいてね。旅の終点にはちょうどよかったんだ」

「旅?」

「そう。僕は学生時代からバックパッカーをやっていた」

 そういえば目の前の同期は、海外をぶらぶらしていたせいで卒業が二年遅れている、と先輩が言っていた。

「君は旅行が好きなのか?」

「うーん、旅行というより、何かを追い求めて険しきを冒す行為そのもの。いわば、まだ見ぬ冒険が好きなんだ」

「……冒険?」

「そう。だから僕は君を含めた、あまねく作家のことを心から尊敬している。彼ら彼女らはいつだって、僕たち読者に魅力的な冒険を与えてくれるからだ」

 その子供のような物言いに呆れる反面、僕は少し興味も惹かれた。

 作家は自由業――文字通り、好きなときに起きて、好きなときに働き、好きなときに食べる、自由気ままで気楽な稼業――そんなふうに思われることが多い。けれど、実態はまるで違う。編集者という取引先との打ち合わせはあるし、ときには仕事をもらうために営業もかけなくてはならない。授賞式やパーティーにこまめに足を運んで、関係者と顔を繋いでおくことも大事だ。確定申告などの書類仕事も多々あるし、何より著作が求められなくなれば即無職という不安定さは、とても日々気楽に構えてなどいられず、心休まる暇がない。何の保証もないまま、それでも毎日パソコンと自分を鎖で繋ぎ、コツコツものを書くしかない――真の〝自由〟からは、かくも遠い立場だ。

 けれど、凜堂はそんなあれこれとはまるで無関係に――何物にも縛られず、本当に自由に人生そのものを謳歌しているように思えた。

「そんなわけで、僕は大学卒業後もバックパックを担いで旅に出た。とりあえずロンドンまでユーラシア経由の陸路で行ってみるか、とね」

「まるで『深夜特急』の主人公みたいだな……」

「ああ、僕もその旅の途中で読んだよ」

 と、凜堂は笑った。

「ロンドンに着いたあとは、しばらく姉のところに居候しながら、姉が産んだ子供――姉は向こうの人間と結婚しているんだ――のベビーシッターをしていた。だがある日、アダム――こっちは姉の夫だ――の実家で、奇妙な事件が起こった」

「奇妙な事件?」

「そう。ハートフォードシャーで暮らす彼の両親が、毎週末の午前六時、庭の木のそばに双子の幽霊を見ると言うんだ」

 幽霊?

 僕は怪訝な顔つきで訊いた。

「ただの見間違いじゃ? たしかに英国は、幽霊の目撃談が多いお国柄だって聞くけど」

「アダムも最初、両親にそう言っていたらしい。早朝の薄靄を見間違えたか、さもなきゃ二人そろって寝ぼけていたんだろうとね。しかし、それから数日後のことだった。なんと両親と一緒に暮らしていたケヴィンが、無惨にも庭で殺されてしまったんだ」

「えっ!」

 目を見開く。

「こ、殺された? そのケヴィンというのは誰なんだ?」

「アダムの両親が飼っていた犬だよ」

 思わずうなだれてしまった。……犬。いや、もちろんそれでも大事ではあるけれど。

「警察には通報したが、残念ながら殺されたのが犬じゃ、人と同じようには捜査してくれない。ケヴィンは幽霊に憑り殺されたんだ、と両親は嘆き怯え、アダムも途方に暮れた。そこで相談を受けた僕が、すぐに彼の実家に向かった」

「事件を解決するために?」

「いや、本物の幽霊を見てみたかったんだ。生憎と、まだお目にかかったことがなくてね」

「ああ、そう……」

「まあでも、結果的には君の言う通りになってしまったよ」

 凜堂はコーヒーを飲み干すと、缶を振って空になったことを確かめながら、

「僕は現場を観察して、少しばかり推理した。すると幽霊の正体も、犬を殺したのも、すべて人間の仕業だとわかってしまった。犯人の正体は……まあそれはいいか」

 むしろぜひ聞かせてほしかったけれど、凜堂はさっさと話を進めた。

「その話がどこでどう伝わったのか、以後、僕の元には、時折そういった奇妙な事件の解決依頼が舞い込むようになった。いつまでも姉の家に居候するのも気が引けるし、僕はロンドン郊外にアパートを借りて、そこでそういった事件専門の探偵を始めたというわけだ」

「…………」

 僕はしばらく言葉を失った。まるでフィクションに登場する探偵そのもの――それこそ英国と聞けば真っ先に思い出される、かの名探偵のようなエピソードではないか。

 食事を終えた凜堂はごみをビニール袋にまとめ、さて、と言った。

「君、今日はどうするんだ?」

 ひょっとして今も何か事件を抱えていて、これからその調査に? そんな期待を込めて訊いてみる。

 けれど凜堂は、

「んー? 差し当たってすべきこともないし、僕はもう少し寝るよ」

 そんなことを言っておもむろにソファに横になるので、僕はたちまち脱力した。……これが名探偵? やはりどうにも信じられない。本当は今の話も全部でたらめなんじゃないだろうか。そんなふうに訝りつつ、

「……ところで凜堂。君、どうせ暇なら、少しはここ片づけたほうがいいんじゃないか? こうも散らかってると、気になって仕方がないよ」

「そうかい? まあ君がそうしたいと言うのなら止めないさ。存分にやってくれ」

「いやなんで僕が。昨日も言ったけど、僕はあくまで一時的に間借りさせてもらうつもりであって、同居するって決めたわけじゃ――」

 と、そのときだった。

 こんこん、とドアがノックされた。ん? と眉をひそめた僕は、すぐに、ああしまった、と額を押さえる。

「……忘れてた。今日は来客があるんだった」

「来客? 君の担当編集者かい?」

「いや、警察だよ」

「警察?」

「そう。昨夜、電話があったんだ。君と先輩は大騒ぎしてて気づかなかっただろうけど」

 改めてマンション火災について詳しい話を聞きたい、という用件だった。なぜ今更また? と思ったものの、断る理由もないので僕はここの住所を伝えたのだ。――ただ一つ気になったのは、通話先の相手が以前とは違う刑事だったことだ。

 またドアがノックされた。

「あ、はい。今出ます」

 ドアの向こうにそう声をかけてから、凜堂のほうを振り返る。

「……あのさ、凜堂。間借りさせてもらってる身で指図するのも気が引けるけど、君、頼むから、もう少しちゃんとした恰好に着替えてきてくれないか?」

「どうしてだい? 別に僕のことなんて気にせず、君たちは君たちの話をしてくれればいいさ」

「いや、気になるに決まってるだろ。初対面の相手に寝間着姿の男同伴でなんて、いくら何でも非常識じゃないか」

「非常識か。だが月瀬、常識とは一体何だろう。それぞれが属するコミュニティや持ち得る思想によって、それらは千差万別だ。つまり個人の背景となる文化への理解なくして、常識や非常識といったものへの言及は――」

「ああもう、今は君と文化人類学の議論を交わす気はないんだよ! 早くしてくれ!」

 僕がわめいても、凜堂はガウン姿で寝転がったまま頭の後ろに両手を回し、のんびり足を組み替えるだけだった。

「しかし昨日着ていた服以外は、全部クリーニングに出してしまっているからなあ」

「なんで一度に全部出すんだ!」

 どんどん、とさっきよりも強めにノックがされた。

「ああもううるさいな! 今出ますって! ……ほら早く! ないなら昨日の服でいいだろ!」

「わかったわかった。母親みたいな男だなあ、君は」

 凜堂は再び呑気にあくびしながら、のろのろと自室に引っ込んでいった。それを見届けてから、僕は急いで出入り口に向かい、ドアを開ける。

「――すみません、お待たせしました」

 そこに立っていたのは、スーツを着た二人の男性だった。

 一人は背が低く小太りで、さらさらとした長めの髪を両側に分けている。顔は丸くて鼻も低く、それだけなら愛嬌のある顔立ちなのに、目だけはきつい三白眼で、見るからに印象が悪かった。

 もう一人は対照的に、背が高くすっきりとしていた。ただぴっちりと整えられた髪に、四角四面な眼鏡をかけており、どこか無機質な感じがする。

 二人ともまだ若く、おそらく僕と同年代だろう。けれどその佇まいには、どこか一筋縄ではいかないような雰囲気があった。

 小太りのほうが上役なのか、体型ゆえにやや張ったスーツの内側から警察手帳を取り出した。

「警視庁捜査一課の与茂木と申します」

 それに合わせ、隣の長身眼鏡も、

「同じく、天元です」

 と、にこりともせず自己紹介する。

 与茂木と名乗った小太りの刑事は、やはり特徴的なその三白眼で僕を睨めつけ、

「……お取り込み中でしたか? 何か、うるさい、といったような罵声が聞こえた気がしましたが」

「あー……きっと空耳ですよ」

 僕はぎこちない返事をしながら、どうぞ、と刑事たちを招き入れた。部屋に入った二人が、その恐ろしく雑然とした空間に、たちまち鼻白むのがわかる。

「差し出がましいかもしれませんが、よくこんなところにお住まいになれますね。あなた、ここがどういう場所かご存知で――」

 与茂木が呆れたように言いかけたものの、すぐに、いや失礼、と撤回した。さすがに警察だけあって、ここで何があったかは承知しているらしい。僕は即座に、いやこれには深い訳が……と弁解したくなった。

 以前のテナントが置いていった椅子を出し、二人に勧める。与茂木は、どうも、と言い、遠慮なくみしりと音を立てて座ったけれど、天元は断り、立ったままでいた。

 僕が向かいに腰かけると、与茂木の脇で手帳を取り出した天元が、慇懃に訊いてきた。

「本日はお時間をいただき、ありがとうございます。改めて、火災当日の状況をご説明いただけますか」

「あの、そのことならもう別の刑事さんに話しましたけど」

「念のためですので」

 はあ、と僕は生返事をし、改めて火事に遭うまでや、遭ったあとのことを説明した。二人ともじっと黙ったまま相槌すら打たないので、ちゃんと聞いてもらえているのか不安になってくる。

 やがて話を終えると、天元が訊いてきた。

「あなたの下の部屋、三〇一号室に住んでいた井手美紀さんが亡くなったことはご存知ですね」

「あ、ええ」

「井手さんと面識はありましたか」

「ええまあ。マンションに引っ越してきたとき、部屋まで挨拶に行きましたから。火事の前にもロビーで会いましたよ。これももう話しましたけど」

 僕の返事には特に応じず、天元は言った。

「捜査の結果、三〇一号室から火が出たのは当夜の午後十時四十五分前後と判明しています。ご自宅に帰られてからそれまでの間、どうされていましたか」

「どうと言われても……飯田橋の編集部から午後九時頃に帰宅して、そのまま風呂に直行したあとは、ノートパソコンの前で小説のアイディアを練っていました」

「たしかご職業は作家でいらっしゃるとか」

「ええ。でも、いいアイディアが浮かばなかったので、しばらくしてからあきらめてベッドに入りました。それがたしか十時頃です。あとは十一時すぎ、火事に気づいて目が覚めるまで、そのまま眠ってました」

「ではその間、一度も自宅からは」

「出てません」

 刑事二人からの視線が鋭さを増した気がした。僕は眉をひそめる。一体何が訊きたいのだろうか。

「あの……」

「――なんだ、誰かと思えば警察というのは君たちのことか。それならわざわざ着替える必要もなかったな」

 そのとき個室のドアが開き、拍子抜けしたような声とともに凜堂が姿を現した。昨日と同じオックスフォードシャツにチノパンという装いだったけれど、今日はきちんとソックスとバーガンディのプレーントゥシューズをはいている。

 すると、

「り――」

 与茂木が思いも寄らない激しい反応をした。椅子から腰を浮かせたかと思うと、目を見開き、

「凜堂!? なんでお前がここにいる!」

「それはもちろんここに住んでいるからだとも」

「はあ!? 住んでるだと!?」

 大声を出す与茂木を無視して、凜堂は、「やあ、天元くん」と手を上げた。天元のほうはやはり表情を変えず、ご無沙汰しています、と応じる。

 すたすたこちらにやってきた凜堂は、再びどっかりとソファに横になった。腕を頭の後ろに回し、長い足を組む。

 与茂木がヒステリックに叫んだ。

「お、おいこら! そこで寝るんじゃない! あっちに行ってろ!」

「ここは僕の住まいだ。どこで寝ようが僕の勝手じゃないか。まあ僕のことは気にせず、君たちは話を続けてくれ。もっとも、どういう類の用件で来たのかは聞かなくてもわかるけどね」

「さ、最初からお前に聞かせるつもりなんかないわい!」

「まあまあ、そうつれないことを言うなよ。この間は協力して一緒に事件を解決した仲じゃないか、与茂田」

「僕の名前は与茂田じゃなく与茂木だ!」

 どうやら凜堂と刑事たちは、すでに顔見知りらしかった。いや、それよりも――

「なあ、凜堂。今、彼らの用件がわかるって」

「ん? ああ、簡単なことさ」

 凜堂は寝転がったまま、革靴のつま先をぶらぶらさせながら淀みなく言った。

「そこの二人は捜査一課の強行犯――中でも殺人、傷害係の刑事だ。それがあとからこうして出張ってきたということは、例のマンション火災の原因はただの失火だという当初の見解を覆さざるを得ない何らかの所見が見つかって、捜査本部の体制も変更になったからだろう。では、その所見とは何か? 考えられる可能性は三つだ。一、現場の状況におかしなところがあった。二、遺体の状況におかしなところがあった。三、その両方。まあタイミングから鑑みて、今回は二の可能性が濃厚だろう。司法解剖に回した遺体から何か見つかったんじゃないかな? 例えばそう、他殺であることを示す証拠だとか――」

「おいこら! 全部先に言うんじゃない、このクソ探偵!」

「――先輩」

 いきり立つ与茂木を、天元が無表情でなだめる。

「つまりだ」

 凜堂は罵る刑事を綺麗に無視し、笑顔で言った。

「君は今まさに、その井手美紀を殺害した犯人として警察から疑われているんだよ、月瀬」

 与茂木は苦々しげな顔つきで凜堂を睨む。けれど、その台詞自体を否定することはしなかった。

 愕然とする僕に、天元が訊いてくる。

「――帰宅してから火の手が上がるまで、自宅からは出ていないとのことでしたが、それを証明することはできますか」

 これまで幾度となく同じようなシーンを書いてきたくせに、僕はしばらくの間、自分が犯行時のアリバイを訊かれているのだと気づくことができなかった。