丼の中身をひとさじ口へ運び、丼谷がおごそかに口を開いた。

「春夏秋冬である」

 クーラーのない非公認サークル棟の部室に、「マジんまい!」、「素晴らしきシズル感」と、賛同の声が続く。開け放たれた窓の外からも、じょんがらじょんがらとセミたちが追随した。

 僕は額の汗をぬぐい、手にした丼をじっと見つめる。

 炊きたてではないが冷やでもないごはん。その上にぼてんと載った半丁の豆腐。全体にかかっている黒い液体は、醤油ではなくめんつゆだ。

 これはいったいなにか?

 豆腐丼である。

 正確にはトッピングのない、「素」の豆腐丼である。

 さりとて貧乏飯と笑うことなかれ。かの魯山人先生は湯豆腐についてこうおっしゃっている。『いかに薬味、醤油を吟味してかかっても、豆腐が不味ければ問題にならない』と。すなわち豆腐丼には豆腐さえ入っていればよいのである。

 いやまあ、できたらネギやしょうがを追加したい。かつぶしを丼の中でハナハナと踊らせたい。食べるラー油で偽マーボー丼っぽくしたい。

 しかし僕たち「め組」は、「貧すれば鈍する」を地でいく集団である。金もなければコネもない。だから就活が終わらない。いやそれはいま関係ない。

 僕は雑念を振り払い、豆腐をレンゲで切り崩した。

 丼の底でめんつゆに浸された白米とともに、適正な分量を口へ運ぶ。

「……まいです」

 豆腐丼は決してかき混ぜてはいけない。ほどよく温かいごはんと、ひんやり冷たい豆腐の温度差。そこに万能調味料たるめんつゆの潤いがあわさることで、人は口の中に四季を感じることができるのだ。

 これをぐちゃぐちゃに混ぜてしまうと、夏も冬もない「なまあったか~い」になってしまう。豆腐丼をおいしく食すには、ゆめゆめ混ぜることなかれ。

 ところで僕が発した「まいです」は、別に自己紹介をしたわけではない。

 人は本当に感動すると語彙力を失う。食レポ文化はおおいにけっこう。しかし人間が真にうまいものを食って発する言葉は、十中八九「うまい」の変形である。

 僕の場合は空を見上げ、豊穣の神へと感謝するよう、「……まいです」とつぶやいてしまう。まさしく心の底からの賛辞ということだ。

 まあなにが言いたいかというと、トッピングが皆無でも、大学四年の夏休みで就職が決まっていなくても、豆腐丼は百パーセントうまいのである。

 この四年間で彼女どころか女の子の知りあいもできず、過去三度のクリスマスはすべて男だらけの湯豆腐パーティーだったけれど、豆腐と白米はいつだって僕らの胃袋を優しく満たしてくれた。満たしてくれたのだ。

「くっ……!」

 思い返すと涙で塩辛くなりそうなので、僕は丼の残りを急いでかっこんだ。

「で、就活の進捗はどうだ。どこかとコミットしてるのか?」

 こたつの左斜め前で、リクルートスーツを着たニガリが言った。

 僕らの食卓であるこのこたつは、一年中出しっぱなしである。真夏のいまは布団をしまい、ヒーターの下に水が入った子どもプールを置いた状態だ。

 目下は卓を囲んだ四人全員、足をつっこんで涼をとっている。先に述べた通り、我らが部室にはクーラーがない。

 そんな暑苦しい部室でもスーツを脱がず、汗ひとつかかないニガリという男。

 彼は本名を猪狩という。出自が豆腐屋の次男坊であるため、僕らは豆腐の苦汁にひっかけたあだ名をつけた。

「まあ、ぼちぼち」

 僕は冷たい茶を飲みながら答える。目線はなるべくニガリからそらして。

 こんなド真夏に就職活動をしているのは、すでにあまたの内定を得ているにもかかわらず、理想の企業を探して面接を受け続ける就活求道者のニガリか、理想の企業が今年から採用を見送ることにしたため、「どうしたもんかなぁ」と日々をモラトリアムしている僕くらいしかいない。

「『ぼちぼち』じゃわからん。蜜柑崎のマイルストーン、もしくはリソースのアサインを具体的にアジェンダ」

 蜜柑崎というのが僕の姓だけれど、おそらくニガリのセリフはそれ以上につっこみたいところがあるだろう。

「いやまあ、企業のホームページはちょこちょこ見てるよ。でもまだ業種が決まらないんだ」

「意識が低い! ホームページっていつの時代だ。それに四年の夏スキームで進路が決まってないやつが、『業種』にプライオリティを置ける身分か?」

 違うのだろう。おそらくは就活支援サイトを見て、業種や職種を問わず、日程の早い順に片っ端から説明会に行くべき立場だ。

「でもさ、僕にはこれといってやりたいことがないんだよ。よしんば内定をもらったとしても、続かなければ意味がないじゃないか」

「ばあちゃんが作る栗きんとんより肌感覚で甘い!」

 ニガリがこたつをドンと叩く。彼はいわゆる意識高い系だけれど、ゆくゆくは家業を継ごうと考えているらしい。いまだに就活を終わらせないのも、豆腐屋に適した経営を学べる企業を探してのことだそうだ。いまどき感心な孝行青年である。

「なに他人事みたいな顔してるんだ。よく聞け蜜柑崎。おまえは世の社会人が、みんななりたい職に就いていると思うメソッド?」

「そうは思ってないメソッド」

 人はお金や才能や諸々の条件を鑑み、多かれ少なかれ妥協して職を得る。そのくらいは僕だって理解している。

「だったら大人になれ。『新卒』のバリューは一度だけだ。夢はいったん仮想通貨のように忘れろ。とりあえずどこかに勤めたら、いい転職エージェントを紹介してやるライフハック」

 いまだに就活をやめないニガリは、人生のスタートラインから前ではなく真上へと羽ばたいてしまった男だ。進捗度合いは僕と同じでも、見えている範囲はまったく違う。だからニガリが言うことは絶対的に正しい。

 けれど僕が追いかけていた夢は、「職業」ではなく「企業」なのだ。

 規模は零細に近いけれど、子どもの頃から「ここに入る」と決めていた、たったひとつの憧れの会社。そんな会社が今後の募集を一切やめてしまったのだから、いったん別の企業に就職して転職という目もない。

 ゆえに僕は、就職について根本から考え直さねばならない状態だった。

 しかしそう簡単に身の振りかたも決められず、「とりあえず説明会に出ておく」という器用さも持ち併せていないので、いまは日々をぼやぼやすごしている。

「大人になる……か。丼谷はどう思う?」

 僕は正面で腕組みしている大男に尋ねた。

 丼谷は我ら「め組」のリーダーであり、米問屋の御曹司でもある。身長は百九十を優に超え、メガネをかけて理知的だけれど、時代がかった口調で凡人には理解できない哲学を語るため、僕たち以外に友を持たない哀れな賢人だ。

 まあ偉そうに言ったけれど、僕も「め組」以外に友人はいない。

「吾輩が思うに、大人になるとは――」

 丼谷がメガネをくいと上げた。夏の陽射しでレンズが輝く。

「ナイフとフォークを用い、『まるごとバナナ』を食べることであろう」

「おお……!」

 さすが賢人だ。僕はまるごとバナナをナイフとフォークで食べたことがない。食べようと思ったことすらない。すなわち僕は子どもである。

「缶ビールをコップに注ぐがごとしか。本来は自然とそうなるべきだが、形が人を作る例もある。やはり賢人のソリューションはひと味違うな」

 ニガリが同意した。彼も丼谷には一目置いている。

「よしきた。それなら早速まるごとバナナを買いにいこう」

 僕は財布の中身を確認した。たぶん四つくらい買える。

「ど・う・で・も・Eぃぃぃぃぃぃ!」

 ずっと会話に加わらなかったイエモンが、僕の右斜め前でやや涙目になってEのコードをジャーンと鳴らした。

「違うだろぉ? いま夏だろぉ? 学生最後の夏休みだろぉ? なのに丼谷以外、俺たち彼女いないだろぉ? 就活でもバナナでもないよ! 俺たちがいまやるべきは彼女を作ることで、大人になるってのはそういうことだ!」

「か、彼女を作って大人になる……」

 僕もニガリも、言葉の生々しさにごくりとつばをのんだ。

 昨今の若者は、「恋愛はコスパが悪い」と男女交際に興味を示さない……なんて言われているけれど、すべての若者がそうと思ってもらっては困る。

 僕たちはいつだって、授業で隣に座った女子に偶然話しかけられる機会をうかがっていた。テスト前にはキャンパスのベンチで、完璧なノートをこれみよがしに眺めるなどあらゆる努力を怠らなかった。ついぞ実らなかったけれど。

 しかしイエモンは、卒業年になったいまでも鼻息が荒い。

 サラサラの緑髪に甘い童顔を持つ彼は、一見どころか二度見、三度見しても美少年だ。しかし残念ながらまったくモテない。

 なぜなら彼はバンドマンである。

 茶所静岡の男子高校を卒業したメガネキャラだった彼は、大学デビューを狙っていた。父親に「バンドマンはモテる」と聞いて入学と同時に髪を染め、コンタクトを買い、ノーブランドのレスポールを手に入れた。

 おかげで彼のルックスは驚異の変貌を遂げたけれど、親の時代ならいざ知らず、昨今におけるバンドマンのパブリックイメージは、「クズ」、「ヒモ」、「ギターの練習して硬くなった指の腹をやたらと触らせてくる」という、惨憺たるものである。

 かくしてモテるためにバンドマンになったイエモンは、バンドマンゆえにモテなくなった。さらに不幸なことに、彼は音楽に目覚めてしまった。最悪に輪をかけるパンクロックだ。

 当然就活なんぞしていない。赤やら金やらの派手な髪色の後輩を率いてストリートライブをする彼は、将来バンドで食っていくそうである。

 僕が言うのもなんだけれど、イエモンは人生のスタートラインから全力で逆走してしまった男だ。もう後戻りするよりは、地球を一周したほうが早いだろう。

「というわけで、蜜柑崎もバンドやろうよ。就活なんかしなくていいし、彼女もできて一石二鳥だよ? 人生の春がくるよ?」

「断る。僕はまだかろうじて人生のスタートラインにいるんだ」

 冗談じゃない。夢破れただけでも立ち直れないのに、恋愛からまで遠ざかるなんて願い下げだ。真夏に春などくるわけない。

「だが蜜柑崎。おまえは夢をかなえるという人生のゴールを失ったんだ。いまさらリスクヘッジしてなんになる? 『すっぱいブドウ』は甘いかもしれないぞ?」

 ニガリの指摘が胸に刺さった。ものすごく刺さった。

 入学してすぐに僕たちは出会った。若く、みすぼらしく、東京にいる自分がどこか恥ずかしかった僕たちは、それぞれが実家からの仕送りを持ち寄って集まった。

 丼谷は米を。ニガリは豆腐を。イエモンはお茶で、僕は特殊なビールを。

 そんな風にして「めし食いたい組合」、通称「め組」を結成した僕たちは、非公認サークル棟の一階空き室を占拠した。四年間ひたすらに豆腐丼を食し、それを青春と称した。それが僕の学生生活のすべてだ。

 けれど僕はイエモンのようにバンドに打ちこんだり、ニガリのような飽くなき向上心を養ってはこなかった。子どもの頃から憧れた会社に就職するという、ささやかな夢にあぐらをかいていた。

 僕は、人生のゴールを設定する場所を間違えていたのだ。

「ゴールを失った僕はもう、バンドマンになるしかないのか……」

「いまならベースが空いてるよ。髪の色は青でよろしく」

「ベースなんて全身にタトゥー入れないとモテないパートじゃないか! そんなの嫌だ! 賢人よ、僕に助言をくれ!」

 僕は丼谷に救いを求めた。彼は親の跡を継ぐことが決まっているし、故郷には幼なじみの許嫁が待っている。丼谷は僕らにないものをすべて持っている。そんな全知全能の賢人ならば、僕を正しく導いてくれるはずだ。

「迷わず行けよ。行けばわかるさ」

 僕はがっかりした。賢人の言葉が安直なパクリだからじゃない。

「いやだからさ、僕は行くべき場所がなくて迷ってるんだってば」

「行くべき場所がないのなら、迷っているとは言わぬ」

 はっとなった。声も出せずにその場で固まる。

「ここへきて迷ってすらいないというのはつらいな。なにもしていないのに、気がついたら二十年がスポイルされていたってところか」

 まさにニガリの言う通りだ。

「こうなったら、もう流れに身を任せるほうがいいかもねー。新しく知りあった人間が、自分を変えてくれることを願う、的な? 的な?」

 親身に同情してくれるイエモンたちがありがたい。僕は期待に応えるべきだ。

「よしわかった。僕はいまからまるごとバナナを買いにいく」

「いやバンド誘ってんだよ! 出会いあるって!」

「嫌だ。デスボイスでアドバイスされても聞き取れない」

「蜜柑崎、さっきからバンドマンに偏見ありすぎない? 好きだった女の子をかっさらわれた経験でもあんの?」

 実はある。バンドマン憎けりゃ革ジャンまで憎い。

「くだらないことを言ってないで聞け蜜柑崎。現代の就活では、自己肯定感を高めるのが肝要だ。ジャストアイデアだが、部屋の掃除をして達成感を積み重ねるのは有用らしい。やる気は作れるぞ」

「おお……さすがニガリは話が早い。僕が求めているのはそういうのだ」

「掃除と言えば、まずはいらないものを捨てることからだなー。蜜柑崎の部屋、なんかミニカーとかブリキのロボットとか、ガラクタたくさんあるじゃん」

 イエモンの言葉に僕はむっとなった。

「僕の部屋にガラクタなんてない。おもちゃはすべて宝物だ」

「知ってるよ。ちょっとハッパかけただけだって。でもあれは? 下駄箱の上に電話帳あったじゃん? あれとか別に大事じゃないっしょ」

 確かにそうだ。携帯電話だけでも十分なのに、ひとり暮らしをする際に母親が強引に固定電話を引いた。電話帳はそのときもらったものだけれど、言われてみれば一度もページをめくったことがない。これだ。

「よし。輝かしい未来に備えて、まずは電話帳を捨てることから始めよう」


 そんなわけで、僕は帰宅するべく電車に乗っていた。

 うちの大学は東京と神奈川の境にある。地方から出てきた学生は東京側に住みたがるけれど、僕のように仕送りの少ない人間は、家賃の安い神奈川の川沙希に住むことが多い。僕だけでなく、丼谷もイエモンも川沙希住まいだ。

 最寄りの望口駅から大学までは電車で五分。そして金はなくとも時間はあるのが大学生。だから僕たちは、夏休みでも豆腐丼を食うために部室へ集まる。

 まあニガリだけは東京生まれの東京育ちだけれど、彼は高尾山のふもとという東京都下、というより、「東京都か?」と思える場所に住んでいるので、部室で準備してから都内へ面接に行くことが多かった。おかげで僕らは夏休みでも、毎日のように新鮮な豆腐が食べられる。

 それゆえいつもはニガリが面接に行くまでだらだらするのだけれど、今日はどうにも尻の据わりが悪かった。なので僕だけがひとりで先に帰っている。

 別に、いち早く電話帳を捨てたかったわけではない。

 自分が人生に迷ってすらいないというのが、けっこうショックだったのだ。

 人から見れば結果を出していない時点で同じだろうけれど、僕はニガリやイエモンと違って上にも後ろにも進んでいない。だから空より芝生のほうが青く見える。

 僕は大学院に進む頭もない。アルバイトだってしていない。ゆえに卒業したら完全な無職になるのに、どうにも就職活動をする気がおきない。

 やるべきことがたくさんあるのに、募集をやめた会社への未練をただ引きずる。これではまるで片思いの失恋だ。

 でも、それだけ僕は本気だったのだ。

 僕は体四計社に入り、子どもの頃に受けた恩を返したかったのだ。

「……はあ」

 情けないため息が出てしまい、恥ずかしくなって遠くを見る。

 この時間の下り電車は人が少ない。座席は埋まっているけれど、立っている乗客はいなかった。おかげで僕が座った席からは、向かいの景色がよく見える。

 車窓を流れていく街並みには覚えがあった。そろそろあの風変わりな家が見えてくる頃……見えた。でも一瞬で過ぎ去った。

 とはいえ、通学途中になんども目にしているので詳細は覚えている。

 その家の建物は古い。いわゆる古民家と呼ばれるたたずまいだ。ほどほどの庭と昼寝をしたくなるような縁側があり、周囲は漆喰の白い塀で覆われている。

 ここまではちょっと古めかしいくらいで、別段おかしなところもない。

 僕が奇妙に思う点は、あの家の門より先にある。

 時代を感じる木製引き戸の玄関脇、本来ならば表札を掲げるべき場所に、あの家はなぜか「時計」を設置しているのだ。

 時計自体は珍しいものでもないので、目に留める人は少ないかもしれない。しかし玄関脇に時計があるというのは、よくよく考えるとけっこう不思議だ。

 玄関は出入り口であって、滞在する空間ではない。時間を気にすべきタイミング自体が存在しない。ではなぜ時計を掲げるのか?

 僕が時計表札に気づいたのは二年生の頃だった。それから電車に乗るたびに考えてみたけれど、玄関に時計を飾る理由はまるで思いつかない。

 まあ真相は、「捨てるのがもったいなかった」程度のことなんだろう。

 しかしながら、時計表札の謎に思いを巡らせるのはちょうどよかった。

 電車で二駅という本を読むには微妙な時間をつぶすにも、今日みたいになんとなく落ちこんだ気分をまぎらわせるのにも。

 さてと僕は不毛な考察を始める。

 きっとあの引き戸は、一定の時刻しか開かないようになっているのだ。あの家は代々そうやって伝説の剣を守っていて――。

 そんな子どもっぽい空想をしていると、電車が駅に着いた。

 思いがけずにほとんどの乗客が降り、車内がガラガラになる。

 向かいの七人がけシートには誰もいなくなった。

 僕が座っているほうも、自分を除いてひとりしかいない。

 しかしてそのひとりが隣にいるのだから、気まずいことこの上なかった。

 さっきまでなんとも思っていなかったのに、席が空きだすと人のパーソナルスペースはとたんに広くなる。どこにだって座れるのに、なぜわざわざ肩身を狭くする必要があるのかと感じてしまう。ことに僕のような庶民はそうだ。

 こういうときは、どちらかが座席の隅に移動するのがセオリーだろう。

 その際はできる限りなにくわぬ顔で、しかしそそくさと、中腰のカニ歩きで一番隅の席へと移動するのが望ましい。

 なぜならば、移動されたほうはちょっと傷つくから。

 隣りあっているほうが気まずいのに、相手に離れられると人は自分に原因があると感じてしまう。「昨日お風呂入ったけど、さっき汗かいたから……」などと、エクスキューズを盛りこんだ理由を探してしまう。ことに僕のような庶民はそうだ。

 人のメンタルを豆腐にたとえる人は多い。

 しかし僕はそうめんのほうが適切だと思っている。

 そうめんは乾いているとパキリと折れやすい。日々に潤いのない僕の心は、もじゃもじゃした草の塊が風で転がるほどにカラカラだ。おまけに『迷ってすらいない』と言われ、いまはヒビまで入っている。

 ここで相手に移動されたら、僕はパキリと死ぬかもしれない。

 だったら先に移動してしまえばいいのだけれど、それも少々ためらわれた。

 というのも、僕の隣にいるのは女性なのだ。

 顔は見えないけれど、涼やかなサンダルの足下からして間違いない。

 僕は思う。男子たるもの、いかなる理由があっても女性に恥をかかせるべきではないと。モテなくたってそのくらいの矜持はある。

 そして僕が先に動いたならば、隣の女性はちょっぴり傷つくだろう。ならば彼女に移動してもらうのが「次善」の策だ。

 その場合、僕は男性に移動されたときの二倍傷つくことになる。「バンドマンじゃないのに女性に避けられるなんて……」と落ちこむことになる。

 されど男子はかくあるべしだ。だって「最善」の策は、このままどちらも動かないことだから。「ゲーム理論」はゲームの理論でしかない。

 僕は覚悟を決めた。切腹に臨む武士のごとくに、座して時を待つ――。

 が、なかなか女性が動かない。

 チラと横目で見ると、二の足を踏むようにかかとが浮いたり沈んだりしていた。これはひょっとして、僕に気を使ってくれているのだろうか。

 なんて考えは、ニガリのおばあちゃんが作る栗きんとんより甘かった。

 女性がおもむろに腰を上げた。

 しかし横にスライドするのかと思いきや、彼女はまっすぐ歩いて向かいの席の右隅へ座った。おまけに僕の視線を避けるよう、振り返るほどに顔をそむけた。

 心に亀裂が走っていく。「あぁ……うぅ……」と、声にならない声で喘ぐ。

 通常こういったケースでは、同じ座席の隅へと移動するのが暗黙の了解であるはずだ。それは移動「する側」が「される側」へすべき、最大限の配慮と言える。

 にもかかわらず、彼女は僕からもっとも遠い場所へと移動した。

 これでは気まずさから逃れるためではなく、僕を避けたようではないか。

 泣きそうである。というかちょっと泣いてる。

 確かに僕はモテないけれども、風呂には毎日入っている。鋲つきの革ジャンだって着ていない。面相なんてフリー素材のイラストみたいに人畜無害の極致だ。なのにここまで酷い仕打ちをされるなんて。

 そして……ああ……彼女が美人であるようなのがまた悲しい。

 僕の席からは横顔しか見えないけれど、輪郭は米粒のように形がよく、肌は豆腐のようになめらかだ。ウェーブのかかった栗色の髪はやわらかそうで、耳の上から後頭部にかけて上品な編みこみがある。

 抱えているのもフランスパンが似合いそうな籐のバッグで、そこはかとない気品が感じられた。間違いなく顔立ちも整っているだろう。

 せめてそのご尊顔を拝見したかったけれど、彼女は背後の扉横にある広告をずっと見つめている。こちらには一瞥もくれたくないという強固な意志が感じられ、僕の心はいよいよ砕けようとしていた。

 が、そのときである。

 彼女がふいに正面を向いたのだ。

 彼方の記憶を探るように、斜め上を向いた黒い瞳。

 考え事に夢中なのか、むずむずしている小さな鼻。

 なにかを思いついたかのごとく、ニヤリと笑みを浮かべた赤い唇。

 僕が見た彼女は、端的に言ってきれいな顔立ちをしていた。

 そうは言っても、彼女よりも美しい女性はそれなりにいるだろう。

 けれどこの瞬間、『考えつく娘』と題された写真で、彼女よりも相応しいモデルはいない。そんな刹那の美に触れた衝撃に、僕の心は打ちのめされていた。

「よし、正解」

 彼女が再び広告を振り返ってつぶやく。そしてのびやかに――実に「のびやか」としか言いようがない――笑みを浮かべた。

 この瞬間を写真に撮ったら、そのタイトルは『よく寝て起きた女神』以外に考えられない。そう力説したくなるほどに、喜びと安寧に満ちた笑顔だった。

 もしかしたら、彼女は豊穣の女神なのかもしれない。僕が毎日豆腐丼の感謝を伝えているから、よきにはからえと姿をお見せくださったのだ。

 なんて想ったのもつかの間、僕はずんと落ちこむ。

 だって僕すんごい拒絶されたし。神に見放されてるし。

 が、そのときである。

 女神が予想だにしなかった行動に出た。

 彼女はおもむろに立ち上がると、僕のほうへとすたすた歩いてきた。

 そうしてなにごともなかったように、僕の隣へひょいと座ったのだ。

 こんなもの、呆気にとられるしかない。

 僕はぽかんと口を開け、高野豆腐のように固まっていた。

 が、そのときである。

 彼女が三度立ち上がった……というか車内にアナウンスが聞こえるので、普通に停車駅で降りるようだ。

 彼女は真にしゃんとした姿勢で、ホームをきびきび歩いている。

 その凜とした乙女の行方を、僕は口を開けたまま見送って――。

「――る場合じゃない!」

 ドアが閉まりかけていた電車から、僕は慌てて飛び降りた。


 坂道を上る女神の背後を、適度な距離を保って歩く。

 言っておくが僕はストーカーではない。彼女が降りた望口駅は、僕の下宿がある街でもある。それにしては改札を出てからもずっと背後を歩いているけれど、本当にストーカーではない。たまたま僕のアパートもこっち方面なのだ。信じて。

 いやまあ、本音を言えば彼女のことは気になっている。

 その美しさはひとまず置いて、電車内での彼女の行動はあまりに妙だ。

 あのとき、彼女は席を移動して正面の七人がけシートに座った。それも僕から一番遠い端っこで、振り返るような姿勢で扉の横を見ていた。

 これが僕には「避けられている」ように感じられたけれど、電車を降りる際に目を向けたところ、彼女が見つめていたのは学習塾のクイズ広告だとわかった。頭のやわらかさを問うタイプのあれだ。

 彼女は考えるような顔つきだったし、もう一度広告を確認したときには「よし、正解」などとつぶやいている。となると彼女は僕を避けたのではなく、広告のクイズをそばで見るために移動した可能性が高い。

 そう。彼女は僕を避けたのではないのだ!

 それが証拠に、涼しい顔で僕の隣に戻ってきたではないか!

 しかしそれこそが、奇妙の最たるところである。

 当たり前だけれど、私鉄の各駅停車に指定席なんてものはない。どこにだって座れるのだから、彼女は僕の隣に戻ってくる必要などない。

 ではなぜ、彼女は僕のもとへ戻ってきたのだろうか?

 もちろんそこにいた青年を好ましく感じたから……などと考えるほど僕の面の皮は厚くない。モテないゆえにそのくらいの分別はある。

 正解はおそらく、「僕の存在が見えなかった」か、「別の意図がある」のどちらかだろう。せめて後者であってほしいけれど、それはそれで困ることになる。だって真相なんて確かめようがない。

 僕は少々うらめしい気分で、坂を上る彼女を見た。

 するとその姿がふっと消える。どうやら横あいの一軒家へ入ったらしい。

 僕は毎日この坂を上るので知っている。彼女が消えた家は単なる住居ではなく、一階でパン屋が営まれているのだ。僕はごはん党だから利用したことはないけれど、わざわざ電車に乗って買いにくる人がいるならおいしい店なんだろう。

 家の入り口に差しかかった。小さな庭を歩く彼女を横目で見る。

 もう二度と、彼女に会うことはないだろう。残念だけれどしかたがない。「電車で見かけたんですが」などと声をかければ、下手をすれば通報されてしまう。

 などと物わかりのいいふりをしながらも、僕は未練たらたらだった。

 急に向かい風でも吹いてきたように、つまりは後ろ髪どころか全身を彼女に引きずられながら、ゆっくりゆっくりと家の前を歩く。

 しかし散々逡巡しながらも、結局は通りすぎてしまった。

「……はあ」

 そりゃあため息も出る。世の中はどうしようもないことばかりだ。気になる女性も憧れの企業も、こちらからは声をかけることすら許されない。

 かといって、待っていれば風に吹かれた草の塊みたいに、果報が転がってくるわけでもない。僕は二十年を無駄にしただけで、道に迷ってすらいないのだ。

「人生って、ちょっと難しすぎない……?」

 などと愚痴をこぼしたときだった。

 遠くでドアが開く音を、僕の庶民イヤーがかすかに拾う。

 そしてすぐ、福音の調べに似た女神の声を聞いた。

「ただいま。陽子さんの店に配達してきたよ」