「住所はここに書いてあるから、内覧したい場合はここにTELして。常識的な時間ならばオーナーが出てくれるから。叔父さんには伝えておくね、今日、訪ねてもいいよ」

 と彼女は言い残し、立ち去る。どうやら午後から講義があるらしい。

 体重を感じさせない軽い足取りできびすを返す。僕は彼女の後ろ姿を見送ると、彼女からもらったメモを改めて見つめる。

 その内容を反芻するようにつぶやく。


「横浜、本牧、冬馬ビルヂング、家賃四万円、敷金礼金なし、管理費光熱費響子込み」


 何度見ても破格の条件であるが、ひとつだけ気になることがあった。

「響子込み?」

 という言葉に首をひねる。もちろん、人名であるとは推察できるが、なぜ、彼女のメモにそのような名が記載されているのだろうか。

 気になる。メッセージアプリで尋ねようか悩んだが、やめた。

 彼女は今頃、授業かもしれない。

 性格上、授業中でも返信をくれそうであったが、真面目な女子学生から学ぶ権利を奪うのは気が引けた。なのでこのままここに書かれている住所に向かおうと思った。

 僕はメモを財布にしまい、冬馬ビルヂングのある横浜の本牧に向かうことにした。



 品川で所用を済ませると、高輪口から駅に入る。

 品川から横浜まで行くにはいくつも鉄道会社があり、とても便利である。

 僕は無難にJRを選択しようと思ったが、途中、手ぶらであることに気がつく。そこに住まうかどうかはともかく、内覧をさせてもらうのだから、なにか手土産を、と思った。

 そこで品川の駅ナカで物色することにした。品川の駅にはたくさんのテナントが入っており、手土産に困ることはない。女性なら小一時間ウィンドウ・ショッピングできるほどだが、残念ながら僕は野暮な男子、大家さんは女性なので「甘いもの」でも渡しておけば喜ぶだろう、と安易に選ぼうとするが、その偏見は正しかった。大塚さんからメッセージが届く。

『新しい大家さんは甘い物が好き』

 簡潔なメッセージだったが、要点をまとめてあり、分かりやすかった。僕はマカロンを選択し、それを包んでもらう。店員から立派な紙袋を受け取ると、とあることに気がつく。

「……そういえばまだ電話で内覧の許可を取っていなかったな」

 大塚さんは常識的な時間ならいつ電話してもいい、と言っていた。時計を見れば午後三時、常識的な時間内だった。許可を取るなら今だろう、そう思った僕は駅のホームでスマホを取り出す。

 携帯電話ではない固定電話の番号。横浜の市外局番から始まる番号に電話を掛ける。

 そういえば携帯電話でもないフリーダイヤルでもない電話番号に掛けるのは久しぶりだった。少し緊張しながらコール音を聞く。なかなか電話に出ない。もしかしたら不在なのかもしれない。そう思った瞬間、がちゃり、と音がする。

 一二回目のコールのあとだった。電話に出たのは女性だった。とても綺麗で凜とした声であったが、明らかに不機嫌であった。

「――もしもし、こちら修理工房『響』」

 と彼女は不機嫌を隠さず言う。人間誰しも不機嫌なときくらいあるので仕方ないことではあるが、そこからさらに辛辣な台詞に繋がる。

「君が不注意にも電話を掛けてしまったことはしかたない。人間、時を遡ることはできないからな。しかし、もしも次回、この工房に電話を掛けるのならば、常識的な時間にしてくれないかね」

 常識的な時間……、一応、時計を確認するがやはり三時を過ぎたばかり、世間一般では十分常識的な時間だ。

 そんな疑問を抱いたが、彼女は僕の心を読んだかのように続ける。

「今、君は午後三時に電話をしてなにがいけないのだろう、そう思っただろう。常識知らずなのはお前のほうだ、そう思っただろう」

「まさか」

 と答えるしかないが、その後が続かない。彼女はたたみかけてくる。

「常識知らずなのは君だ。三時といえば世間的には午後のおやつタイムだ。私は先ほど午後のおやつを食べ終え、糖分を吸収した。そして日課の『昼寝』をしようとしていたところだ。君は私の安眠を妨害したのだぞ」

「…………」

 それは申し訳ないが、不可抗力である。そもそも大の大人がおやつタイムだの昼寝時間などもうけるわけがない、というのが『僕の中』の常識であった。いきなり、僕のちっぽけな常識を破壊されたわけだが、彼女はそれ以上、嫌味を言うことなく、端的に尋ねてきた。

「それで内覧はいつくるのかね?」

「今からうかがわせてもらおうと思ったのですが、なぜ、僕が内覧希望者だと?」

「不動産屋から大学生がひとりくると聞いている。それに今、君がいるのは品川だろう。君の通っている大学のすぐそばだ」

「最寄り駅ではないですが」

「なにか所用があったのだろう。そして内覧をするのだから駅ナカでなにか手土産でも、と迷った。そんなところだろう」

「…………」

 絶句するが、彼女はすぐに種明かしをしてくれる。

「不動産屋から連絡があってから不自然なタイムラグがあった。君が所用に使った時間、それに駅ナカで手土産を選んでいた時間を計算するといい案配になる」

 すごい、まるでシャーロック・ホームズのようであるが、その感想はぴったりであると、後日、納得することになる。しかし、今は彼女のペースに巻き込まれっぱなしだった。彼女はなんの忌憚も遠慮もなく、こう言う。

「今、君は京急のホームに立っているだろう。京急独特のドレミファインバータが聞こえる。京急は嫌いではないが、JRに乗り換えてもらおうか」

「それはかまいませんが、どうして? 今、特急がきたのに」

 彼女は平然と言う。

「私はマカロンよりもチョコが好きなんだ。京急の駅ナカにはベルギー・チョコの店があったはず。そこのトリュフ・チョコを買ってきてくれたまえ。今の時間帯なら並ばずに買えるはずだ。買ったら次はJRのホームに下りたまえ、ちょうど電車が入ってくるぞ」

 あまりに悠然とした態度、自然な口調だったので、思わず「はい」と返答し、ホームの階段を昇り、駅ナカでチョコを購入してしまう。思わぬ出費であったが、これで受け取る相手は一〇〇パーセント喜んでくれるだろう。

 そんなふうに前向きに考えながら階段を降りる。するとちょうど、ホームにJRの車両が入ってきた。まるで魔法のようである。

 僕は狐につままれたような感覚を味わいながら、椅子に腰掛け、横浜まで電車に揺られた。



 品川から十数分ほどで横浜に着く。

 本当に東京は便利な街である。

 交通網が発達しており、車が不要なのだ。宇治に住んでいたときもそれなりに便利ではあったが、それでも東京ほどではない。お陰でいまだに免許を取らずじまいだ。

 就活が始まる来年までには免許を取るつもりだったが、就職する業界によっては不要なのでは、とも思い始めていた。

 そんなことを考えながら横浜駅で他の路線に乗り換える。このままJRに乗っていてもいいのだが、冬馬ビルヂングがある本牧は私鉄に乗り換えたほうが近い。今の時代はスマホのお陰で迷うことはないが、初めての場所なので最寄り駅から向かいたかった。

 というわけで私鉄に乗り換え、数駅で本牧に到着する。

 本牧は、神奈川県は横浜市、中区にある地区の名である。本牧は行政上の町名ではなく、複数の町名を含む一帯を指す。北は山手町、西は根岸、南と東は東京湾に面する。

 山手町は横浜随一の高級住宅地だし、付近には赤レンガ倉庫や山下公園などのお洒落スポットもある。

 ちなみに赤レンガ倉庫の正式名称は横浜税関新港埠頭倉庫、明治政府によって建設された歴史ある建物である。一九八九年までは保税倉庫として使用されていたが、今は文化施設、商業施設として利用されている。昔、一度だけ行ったことがあるが、なかなか趣のある場所だった。

 京都府の端っこ、宇治からやってきた田舎者としては、右を見ても左を見ても見慣れぬ光景で緊張してしまうが、小洒落た建物たちも別に田舎者を食べる妖怪ではない。恐れる必要はないだろう。こんなところでお上りのように舞い上がっていては、冬馬ビルヂングに着く前に疲れてしまう。

 そう思った僕は、虚勢を張りながら、道を歩く。途中、映画に出てきそうな洋館を見かけたが、あえて凝視するような真似はせず、視界に入れないように歩く。

 あるいはそれこそが田舎者なのかもしれないが、ともかく、僕は都会に負けたくなかった。

 

 そんな調子で歩くこと数分、地図アプリのお陰で迷うことなく到着した。

 遠くからでもそこが冬馬ビルヂングと分かったのは、目立つからだ。

 ビルに大きく名前が書かれているわけではない。むしろ冬馬という文字は遠目からは見えない。しかし、冬馬ビルヂングの一階は大きなショー・ウィンドウになっていた。一面ガラス張りで、ヴァイオリンと思しきものが陳列されている。

 これから内覧する冬馬ビルヂングのオーナーは弦楽器の修理工房を経営しているとは聞いていたので、一目でその建物が冬馬ビルヂングなのだと分かった。

「それにしても風格のあるビルだな」

 冬馬ビルはお世辞にも新しいとはいえないが、それでもおもむきのある建物だった。 決して大きくもなければ近代的でもない建物であるが、まるでイタリアあたりの小都市から移築したような独特の雰囲気を持っていた。

 ジブリ映画に出てくる感じである。五階建ての建物を見上げる。このようなビルをこんな場所に所有しているということは、このビルのオーナーの『響子』なる人物はそれなりにお金持ちなのだろうか、そんな考察をする。

「高いチョコレートを買ってきて正解だったかもしれない」

 そう口にするが、自分の口が酷く渇いていることに気が付く。どうやら緊張しているようだ。この扉の向こうには先ほど電話で話した奇人がいるのだ。緊張するなというほうが無理である。

 緊張を和らげるため、いつもの儀式をする。チョコレートを入れた紙袋の持ち手を握りしめると、スマートフォンを取り出す。

 流れるように音楽プレイヤーを起動する。

 音楽を掛ける。奏でる音楽はクラシック。パッヘルベルのカノンを流す。

 僕のような冴えない大学生がクラシックを聴いているのは、自分自身も不思議であるが、僕は『とある女性』の影響でクラシックをたしなむようになった。

 もちろん、カラオケなどで歌えるようにJPOPなども聴くが、音楽プレイヤーにはかなりのクラシックが入っている。その中でも一番好きなのが、パッヘルベルのカノンである。

 クラシックを聴くにしても、もっと奥深いというか、通をうならせるようなものを聴けばいいのに、友人からはそう揶揄されるが、僕は誰でも知っているこのポピュラーな曲が一番好きだった。

 この曲を聴くと勇気が湧くというか、心が奮い立つのである。僕は試験の直前、あるいは初対面の人と会う前など、緊張を要する場面では必ずこの曲を聴くようにしていた。

 いわば僕の勝負音楽であるが、僕の音楽プレイヤーに入っているカノンは六分ほどの長さだった。

 その間、心を落ち着ける。やはりパッヘルベルのカノンはいつ聴いても良かった。心が癒やされると同時に勇気が湧いてくる。

 不思議な感覚である。僕は最後までカノンを聴き終えると、この曲を作ってくれた作曲家に感謝をしながら、弦楽器修理工房『響』と書かれた扉を開いた。

 カラン、と鐘の音が鳴る。

 工房にある鐘だからだろうか、普通の鐘よりもよく響くような気がした。



 扉を閉めると、鐘の音はやむ。

 古めかしい扉だったが、立て付けは悪くなく、想像したよりも軽かった。

 室内に入ると木製のカウンターが目に入る。レジ等は置かれていない。カウンターの前には椅子が一脚あるだけだった。

 ここは修理工房なので、そういった商業的なものは不要なのだろう、と思ったが、よくよく店内を見ると物販もしている。

 メトロノームやヴァイオリンケースなどに値札が貼られていた。メトロノームはともかく、ヴァイオリンケースは想像以上に高く、僕の食費一ヶ月分に相当する。もしもこれを買ったら、一ヶ月、もやしとキャベツだけで生活することになるだろう。

 もちろん、僕にヴァイオリンの素養はないので購入することはないだろうが。

 軽く店内を眺めると、いたるところにヴァイオリンが吊されていた。文字通り売るほどある。しかもそのどれもが高そうであった。

 ただヴァイオリンが吊されているだけなのに、格調高さがあふれていた。

 まるで異世界に迷い込んだような雰囲気を醸し出している。

 そんな感想が浮かんだが、その感想は間違っていなかった。

 店内を眺めていると、とてもこの世のものとは思えないものが目に入る。

 修理工房の一角、出窓の側で目をつむっている女性。

 正確には安楽椅子に腰掛けている女性。彼女はこの世界の人間ではないかのように浮世離れしてみえた。

 陶器の人形のような顔立ち、漆黒の闇を思わせる黒髪。

 フランス人形と市松人形のいいとこ取りをした見目麗しい女性。

 一瞬、誰しもがその作り物めいた美しさに驚かされるが、彼女は人形ではない。

 目は閉じているが、その胸は上下していた。呼吸をしている証拠である。

 そして人形ではないことを証明するかのように彼女は口を開いた。目を開けることなく、桜色の唇を開く。

「――ヨハン・パッヘルベル。神聖ローマ帝国、今のドイツのニュルンベルクの生まれ。一六五三年に生まれた彼はバロック中期における最も重要な作家のひとりである。彼の代表作はパッヘルベルのカノンと呼ばれ、世界中で愛されている。日本では卒業式でよく掛けられているかな。彼はオルガン奏者としても優秀であったが、作曲者としても抜きん出ていた。彼の作ったカノンはこの世に生まれ落ちたことを感謝してしまうくらい美しい」

 ――もっとも、と彼女は続ける。

「曲が終わればこの世界がろくでもないと再確認させてくれるのだが。そういった意味では罪深い曲だよ、まったく」

 君もそう思うだろう? と彼女は両目を開ける。

 黒曜石を溶かしたような綺麗な黒目が僕を見つめる。

 その美しさに見とれているのだろうか、唐突な質問に戸惑っているのだろうか、自分でも判断できなかったが、答えに窮す。

 僕はしばしの沈黙のあとに気が付く。そもそもなぜ、彼女は突然、パッヘルベルのカノンの話をしたのだろうか。それと彼女はこのビルのオーナーなのだろうか。

 ふたつの疑問が湧いたが、彼女は僕を見透かすように微笑する。

「君の頭の中にはふたつの疑問があるはずだ。なぜ、この女はいきなりカノンの話を始めたのだろうか、そんな疑問だ。当然だな。初対面の人間がいきなり話すにしては唐突すぎる。もうひとつは私がこのビルのオーナー『響子』なのだろうか、というものだが、重要度は前者よりも低いかな」

「…………」

 その通りなので沈黙するしかなかった。

「重要度が低いというよりも前者があまりにも衝撃的すぎたのだろう。『自分』が先ほどまで聴いていた曲を言い当てられるのだから、肝が冷えたんじゃないか?」

 僕は、冷えました、という顔をしているのだろうが、それを言語化することはなかった。代わりに前者の疑問を尋ねる。

「なぜ、僕が直前までカノンを聴いていたと分かったのです?」

「それは『聞こえた』からだよ。この両耳に」

「……まさか、信じられない。僕はイヤホンをして聴いていました。それに外で聴いてたんですよ」

「だが、しっかり聴いていたのだろう。音楽プレイヤーを鳴らしたのだろう? 知っているか? 音というのは空気を伝わるのだ」

「それは知っていますが……」

 僕が着けていたのはカナル型のイヤホンである。多少音が漏れ出るかもしれないが、ごく小さいはず。吐息を感じるくらいまで接近してやっと音漏れしたのが聞こえるか、そんなレベルのはず。建物の外、それも十メートルは離れた場所から音が聞こえるなど信じられない。そう主張すると彼女はにやりと笑う。 

「私には『絶対聴覚』というものが存在する」

「絶対聴覚? 絶対音感ではなく?」

「絶対音感も持っているぞ。私の耳はすべての音が音階で聞こえる。ただ、私の絶対音感はさらにその上を行く」

「その上?」

「そうだ。私の耳は音階だけでなく、あらゆる音域を聞き分ける。音を記憶する力がずば抜けているんだ。絶対的に音を感じる力、それが私の絶対音感だ」

「すごい……」

「すごいだろう。私は君が軋ませる筋繊維の音ですら聞き分ける。その音階を区別する。ミミズクが木の葉の上を歩む野鼠の足音を聞き逃さないように、私はどんな音も聞き逃さない。集中すれば十数メートル先を歩いている人間の心音さえ聞こえることがある」

「信じられない」

「当然だ、冗談だからな」

「…………」

「だが、スマホから漏れ出る音くらいは聞こえる。君は大音量で音楽を聴く癖があるようだね」

 実際、フルボリュームで聴く癖があるが、それでも音が漏れ出るほどだとは思えない。

「にわかには信じられないか。ちなみに君が聴いていたのはウィーンにある管弦楽団が一九九二年に録音したものだ。指揮者はすでに故人だが、私は彼が大好きでね。ヴォルフガング・リヒテンシュタイン。人類が生んだ至高の指揮者のひとりだ」

「!?」

 どきり、としてしまう。ズバリ言い当てられたからだ。

 僕が聴いていたのはたしかにその管弦楽団が演奏したカノンだった。それを言い当てたということは、彼女は本当に僕の聴いていた音楽を聞き分けたということだろうか?

 一瞬、寒気さえ覚えた。僕はしばし呆然と彼女を見つめる。彼女は真剣なまなざしで僕の瞳を覗き込んでいたが、数秒ほど気まずい沈黙が続くと、突然、「かっかっか」と笑い出した。なにごとが起きたのだろう、と尋ねると彼女はその答えを教えてくれた。

「いや、君があまりにも真剣な表情をするからね、つい。いや、悪かった、驚かせてしまったようだね。安心したまえ、私の聴力は普通の人間より多少いいくらいだよ」

 彼女はそう言うと自分のスマートフォンを取り出す。

「昨今、メッセージアプリには余計なものが取り付けられている。自分の聴いている音楽を他者と共有できるお節介機能だ。君を紹介した同級生がその機能を私に知らせてくれてね。結城広大という男はよくパッヘルベルのカノンを聴いていると教えてくれた。だから君が聴いていると鎌を掛けてみたのだが、どうやらどんぴしゃりだったようだね」

 その言葉を聞いて僕はほっとした。彼女が『普通』の人間であると分かって安心したのだ。それを察したのだろうか、響子は再び人の悪い笑みを浮かべると、右手を差し出した。

 一瞬、彼女の行為が分からなかったが、握手を求めていることを察した僕は、右手を差し出し、彼女の右手を握る。彼女は女性らしい柔やかな手をしていた。思わずぽうっとしてしまうが、彼女は気にした様子もなく、自分の身分を明かす。

「私の名は冬馬響子。この冬馬ビルヂングのオーナーだ。そこの看板にもあるとおりヴァイオリンの修理工房を経営している。ヴァイオリンだけでなく、弦楽器ならなんでも直せるから、弦楽器修理工房を名乗っているが」

 改めてよろしく、と笑みを漏らす妙齢の女性。

 彼女は森の妖精のように美しかった。

 こうして僕と響子さんは出逢った。

 後に響子さんは横浜ヴァイオリン工房のホームズと呼ばれるようになるのだが、僕はまだその運命を知らなかった。