もう百年もすればこの城も廃れ、人々から忘れ去られるだろう。

 さらに百年経てば八百八のお前の子分達は根絶え、お前は一人になるだろう。

 次の百年で、孤独の意味を知るだろう。

 本当の孤独を知った時、お前の呪いは解かれるだろう。


●プロローグ

 久万山の麓にある稲生神社の裏手に回り、石畳の階段を上り、古木の穴をくぐり抜けると、山腹にもかかわらず拓けた草原に出る。

 そこからは松山の町が一望できた。

 四月。

 花冷えの風をその身に受けながら、男は派手な着流しの裾をはためかせて立っていた。浅黒い肌も金色の瞳も、沈みゆく太陽の光を受けて炯々と輝いている。

 男の名は隠神千狸。

 かつて八百八の妖を率いたことから八百八狸とも呼ばれる、この伊予松山の妖達の総大将である。

 彼の足元にある大きな石には、その面を覆い尽くすほどの正の字が刻まれていた。それは千狸がこの山に封じられてから春が来るたびに一本ずつ刻み続けたものである。

「あれから、三百年」

 千狸が息を吸い込むと、風が止み、鳥のさえずりも、木の葉が地に落ちる音さえ消えた。まるで山に息づく全てのものが彼の次の行動をじっと見守っているかのような沈黙が訪れた。

 次にその息が深く、深く吐き出されると、彼の足元に身を縮めていたアヤメの蕾達が一斉にその花弁を開き始めた。青、紺、藤色、桔梗色……。視野の限りの草原が鮮やかに染まったのを見て、千狸は町から顔を背けた。

 夜の裾野を広げた東の空には白い月が浮かんでいる。

「稲生」

 静かに、かつての友の名を呼ぶ。

「百年経ち、お前等の城が廃れ、二百年経ち、俺の最後の子分が息絶えてまた百年。だがどうだ、俺の力で木々や花々は豊かに活き、芽吹き、水は湧き、鳥や獣や虫は歌う。そこら中に生命が溢れている――これのどこが孤独だ」

 答える声は無い。

「ざまあみやがれ」

 千狸はそっと瞼を閉じた。

「ねえ、だれとお話してるの?」

 突然かかった幼い声。千狸は飛び上がって後ろを見た。

 そこに立っていたのはアヤメの花を握りしめた人間の子供。

「ひとりごとだったら、ごめんなさい」

 その子供は黒真珠のような大きな目でじっと千狸を見上げている。歳は十か、そこらだろうか。千狸は荒らげそうになった声を飲み込んで、子供に尋ねた。

「お……お前、俺が視えるのか?」

 子供はこくりと頷いたが、途端に嫌そうな顔をした。

「もしかしてあなたおばけなの?」

「おばけ?」

 千狸は心外だと顔を歪める。

「そんな低俗なものと一緒にするな。俺は隠神千狸。八百八狸でもいい。この久万山の妖怪共の大将だ」

 そう仰々しく名乗ったものの、子供は「くまなの? いぬなの? たぬきなの?」と首を傾げるばかりである。

「頭の悪い小僧だな」

「小僧じゃない。女の子だよ、わたし」

 少女が身体を翻すと千狸の目には赤い鞄が飛び込んできた。脇にぶら下がった名札には主張の激しい字と色で名前が綴られている。

「“三春”?」

 名札を摘まんで読み上げる。三春はあっと声を上げて千狸の手を払った。

「触っちゃだめ!」

「何故」

 少女の顔が欠けた硝子玉のように曇る。

「わたしに近付くと、よくないことがおこるから」

 成程。千狸は納得した。

 先程から彼女の影がチラチラ揺れているように見えたのはそのせいだろう。

 魂に何かしらのしがらみを抱えて生きるものは、時折現世との境が曖昧になる。彼女のように人ならざる者の姿が視えてしまう者も少なくはない。

「だが、近付くなとは誰に言われた」

「町の人はみんな言うよ。わたしがケガばかりしてるから」

「そんなもん驕りだぞ。くだらねぇ」 千狸は吐き捨てた。

「近付くだけで人を呪うような真似、お前ら人間にできるわけねぇだろ」

 あっけらかんと告げられて、三春は驚いた顔で「そうなの?」と尋ねた。

「当たり前だ。お前はできるのか?」

「できないよ!」

「だろうな」

 ほっと胸を撫で下ろした三春に、千狸は「ただし」と続ける。その口元には綺麗な三日月が浮かび、隙間からはギザギザした歯がのぞいた。久々に言葉を交わした人間がこんなふうに面白い小娘で、千狸は至極愉快だった。なんせ、三百年近く山にこもっていたせいで忘れていたが、彼は人間を化かして遊ぶのが何より好きだったのだ。

「他人に影響はなかろうと、お前自身は呪われてるぞ。そうだな、何をしてもちっともうまくいかねぇ呪いだ」

 その言葉に嘘はない。さて、泣くか喚くか、怯えるか。

 千狸は嬉々として黒真珠の瞳を覗き込んだが、意に反して少女は、澄んだ目で彼を見返すばかりである。終いにはぱっと花咲くように笑顔が弾け、彼は仰天して後ろによろめいた。

「ありがとう、たぬきの大将さん!」

 あまりに突然のことである。

 話が通じていなかったのだろうと、今一度噛み砕いた言い方で状況を説いてやったが、三春はうんうん頷くばかりでやはり泣き喚く様子がない。

「わたし、本当に誰かを呪っちゃったらどうしようって不安だったの」

 千狸はその笑顔の眩しさにいよいよ顔をしかめた。

「運が悪いのは昔からだよ。だって、わたしがお出かけしたら雨がふるし、かけっこしたら十回はころぶし、三日に一度は犬のうんこふむし、この前ここに引っ越してきてからはおばけまで見えるようになっちゃって……。でもおばあちゃんは気のせいだって言うの。こんなにはっきり見えるのにね」

 三春は人差し指で千狸の足をつんとつついた。

 千狸はそれを払いのけ、三春から更に一歩距離をとる。

「気やすく触るな」

「あなた、人間みたいに見えるけど、本当におばけなの?」

「まったく、よく喋るガキだな」

 千狸は三春の問いかけには答えず、からかって遊ぶのも止めにして「お前一人でここへ来たのか」と気にかかっていたことを尋ねた。

 この草原は久万山の中腹にあたり、神社の裏手にある崩れかけた石の階段や古木に空いた大きな穴の中なんかを通り抜けなければ辿り着けない場所なのだ。人間の子供一人が迷わずに来られる場所ではない。

 三春は大事そうに握っていたアヤメの花を千狸の前に差し出した。

「蔵の傍で遊んでたら、急にこのお花が咲いたの。それをたどってきたんだよ」

 成程、知らないうちに導いてしまっていたらしい。

 千狸は納得すると同時に、これは面白いことになったと一人笑みを深めた。

 この山を訪れる人間は年に数人と少ないが、中でも自分の姿を見ることの出来る人間などにはこれまで会ったことがない。そして、そういった力の強い人間は、食らえばその血肉の全てから力を奪えると聞く。

「〝女は十八、男は十五〟……だったな」

 千狸の頭には遠い昔どこかで耳にした歌が浮かんだ。この後には〝人の旬は夏の蝉。肉食み骨食み花一匁〟といった詩が続く。

「お前、家はどこだ」

「知らない人には教えられない」

「しっかりしてやがる」

 千狸はふむと一度口を閉ざし、間を開けて話を切り出した。

「お前、友達はいるのか?」

 この質問は三春が俯いて首を振ることを分かっていて投げかけたものだ。予想通りの反応を見せた彼女に、賢しらな狸は恩着せがましくこんな提案をしてみせる。

「じゃあ、俺が友達を作る手伝いをしてやるよ」

 それは見る人が見れば一目で胡散臭いと感じてしまうような笑顔であったが、三春は化け狸の甘言にころっと騙された。「それ、ほんと?」 微かに震えた声で尋ね返す。

「ああ、もちろん。だが俺はこの山を出られねぇからお前がここへ来い」

「毎日来てもいいの?」

「そりゃもう、好きなだけ」

 慣れぬ土地で異端と弾かれ、遊び相手のいない人間の子供にとってその誘惑がどれほど魅力的に聞こえるか、千狸は十二分に理解していた。三春の目の奥に小さな星屑が輝いたのを見て腹の中でしめしめと呟く。

 ――まったく、いつの時代でも、ガキってのは騙されやすくて良いもんだ。こいつを化かしたり、悪知恵を仕込んで町へ放ったりすれば当分は退屈せずに過ごせるぞ。

 そんな千狸のたくらみにも気付かず、三春は改めて自己紹介を始めた。

「わたし後藤三春。おうちはね、神社の階段を下りたすぐ隣にあるの。でも、来たときは階段じゃなくて、傍の竹やぶを登って来たんだよ。神社の裏に出られるから」

「ああ、確かあの藪には小道があったな。あれを下りるとお前の家に着くのか?」

「うん、蔵のすぐ横に出るよ」

 三春は恥ずかしそうに手をもじもじさせて、上目遣いに千狸に尋ねた。

「ねえ、あなたのことは何て呼べばいい?」

「好きに呼べ」

 三春は暫く考えを巡らせると、

「わかった!」と弾んだ声で答えた。

 同時に小さな手が差し出されたが、千狸はそれを握り返さなかった。大切な暇つぶし道具の腕が折れたら事だと思ったのだ。

 かわりに足元に生えていた花を一輪手折り、切り口を数回撫でて渡してやる。花は地面に咲いていた時よりいくらか瑞々しさを増し、三春の手の中で美しい花弁を震わせた。

「アヤメだ。こいつは暫く枯れねぇ」

「どうしてそんなことが分かるの?」

 不思議そうに尋ねた三春は、千狸の答えを待たずにひらめいた顔つきで声を上げた。

「あなた、お花とおしゃべりできるのね!」

「はあ?」

「すてきね、いいなぁ! ……ねえ、ちょっとかがんでくれる?」

 腕をひいてせがむ三春に何も言わず従ってやると、アヤメの花は彼の少し尖った耳の後ろに差し込まれた。

「何だ。いらねぇのか?」

「わたしにはこっちがあるから」

 三春は来た時から手に持っていたアヤメを上にかかげた。

「そっちはじき枯れるぞ」

「大丈夫、枯れないもの」

 三春がアヤメに向かって微笑みかけると、町の方から風に乗って音楽が流れてきた。

 この時期になると太陽が西の山際に触れる頃を狙ってこの音楽がかかる。千狸はどこか寂寥感の漂うこの音が好きではなかった。

 ウサギのように耳をそばだてた三春が「帰らなきゃ」と呟いて背を向ける。

「もう行くのか?」

 千狸は自分の声が思いがけず寂しげに飛び出したのに面喰らってしまった。心中で、もっとからかってやろうと思っていたのに、と慌てて付け足すも、口にすれば一層言い訳がましいと分かっているだけに眉間のしわばかり深くなる。

「五時の音楽が鳴ったらおうちに帰る約束なの」

「ふうん……」

 千狸は少女の背中に手を伸ばした。先程言った〝ここで待つ〟 というのは止めにして、三春をさらい己のねぐらに閉じ込めることにしたのだ。急な心変わりには違いないが、よくよく考えてみれば彼女が再びこの場所を訪れる確証など一つもない。せっかくこうして現れた退屈しのぎをみすみす逃がしてしまうのはやはり惜しかった。

 ――可哀相にな。不運な小娘。

 千狸は微かに笑った。

 ――だが案ずるな。お前の身体に脈々と継がれたその呪いは、最後には俺が食ってやるから。

 尖った爪が三春の襟首に触れた。

 その時だ。軽やかに振り返った三春が、残照に晒された額を持ち上げた。まあるい輪郭が淡い紫に滲む。千狸はその小さな子供が、まるでなにか大切なものに語りかけるような声色で自分の名を紡ぐのを聞いた。

 涙が流れなかったのが不思議なほど、千狸の心は痛み、震えた。

 ああ、そうだ。人に名を呼ばれるというのはこんな感覚だった――……だが、ただそれだけ。それだけのことだろう。

「ゆびきりをしよう」

 三春は何も言わない千狸の小指と自分の小指を絡めて歌った。

 真昼の夢のように儚げに見えた少女の姿は、今ではどこにでもいるただの子供だ。

「明日も一緒に遊びましょ。指切りげんまん、うそついたら針千本のーます、ゆーびきった!」

 自分が呆けているうちに終わった指切りに、遅れて意味を理解した千狸がぎょっとして青ざめる。指切り・針千本という言葉をその通りに受け取ったためだ。

「お、お前、知らぬ間に何を……」

 深い意味などこれっぽっちも考えていない三春はひらりと駆け出し、もうずっと遠くの方で手を振っている。

「せんり、明日来なかったら針千本だよ!」

 千狸は瞬時に覚悟を決めた。

「いいだろう! お前こそ約束破るなよ!」

 大きく頷き、アヤメの草原を駆けて見えなくなった三春。

 千狸は暫く狐につままれたような思いで三春の去って行った方角を見つめていたが、やがて思考の全てを投げ出したようにその場に体を横たえた。耳の後ろに差し込まれたアヤメを抜き取り、主を失った西の空にかざす。

 花弁はしばし空の色と混ざり、まだら模様に染まった後、ひとひら、ふたひら、ひらめきながら胸の上に落ちた。

「……それ見ろ、外れだ稲生」

 小さく呟いた声だけが風の音にさらわれ、空の彼方へ消えた。


 こうして、一人きりで生きることに慣れ、孤独など鼻で笑い飛ばしてきた妖怪・隠神千狸と、不運の少女・三春の出会いは果たされた。

 今後彼女は千狸のありとあらゆる感情を引き出し、翻弄し、同時に彼の自儘な気質に大いに振り回されたりするわけだが、それはまだ彼らの知るところではない。

 愛媛松山、百花咲き乱れて春。

 これは孤独を知る少女と、孤独を知らない妖怪が、互いの大切なものを手に入れるまでの物語である。


●さかしらな狸


 厄介厄介、極めて厄介。

 春の霜柱をざくざく踏みながら俺は例の草原に向かっていた。心中はまるで穏やかじゃない。当然だ。なんせかつての俺は悪巧みをさせれば右に出る者はおらず、誰しもがその用意周到な悪戯に翻弄されみっともなく慌てふためいたというのに、最近じゃ翻弄させるどころか俺が振り回されている始末。あの小娘、三春のせいだ。

 まずここ数日の出来事を振り返ってみる。三春と初めて言葉を交わしたあの日から、既に十日ほど時が流れていた。

「いいか、今のお前に人間の友達をつくるのは無理だ」

 神妙な顔で言うと三春はたちまちぺしゃんこに項垂れた。

 どうして、と尋ねられたが、これには適当な理由をいくつかでっちあげておく。こいつに友達ができないのはこいつの持つ呪いやそれに伴って起こる不運のせいではない――が、まあその理由を教えてやる気はない。当面は見当違いの方向に突っ走らせて、それを高みから見物しつつ大笑いするつもりだ。

 俺は、たった今ひらめいた! という顔を作って三春に言った。

「まずはそこらの妖怪で慣れてみるってのはどうだ?」

「……妖怪で?」

 生意気にも訝しげにする三春。

「妖怪ってのはな、コツさえ掴めば結構簡単に仲良くなれるもんなんだよ。特に町に住んでる奴らは人も食わんし言葉も通じる。それと、こいつはここだけの話だが……」

 俺は声を抑え、小さな耳たぶに嘘を吹き込んだ。

「妖怪のほとんどはおだてに弱い」

「おだて……!」

「そのギョロギョロした目がかわいいねとか、立派なつのが素敵だねとか、適当に褒めときゃ大体仲良くしてくれる」

「それほんとう? 妖怪も、ほめられると嬉しいの?」

 ほんの一瞬垣間見えた警戒心などは本体が単純なだけに持ち腐れだ。俺がそうともと大真面目な顔で頷くと、三春はすかさず俺の足元に身を縮めた。

「せんりの親指、ツメがおうちのハシおきみたい!」

 なんだそりゃ。俺はズッコケそうになったが、反応を下からじっと窺い見られていたので仕方なく喜ぶ振りをした。

「そうだろ、箸置きみたいでかわいいだろ」

「かわいくはない」

「お前の前髪もこけしみたいでいいな」

「うん、これ自分で切ったの! うまくいったんだぁ」

 それから暫し互いを褒め合って(慣れないことをしたせいで俺は酷く気疲れした)ようやく意図する会話へ流れを運ぶことができた。

「最初は、岩堰橋の下に住むパチパチ河童に挨拶してこい」

「いわせき橋って、赤橋のこと?」

 ひとつ頷く。市中では確かあの橋をそう呼ぶ者も居た。

 岩堰にかかる赤い吊り橋の、傍らの一本松の下がパチパチ河童の住処だった。

「パチパチって、かわいい名前。あいさつすればいいの?」

「ああ。挨拶は交流の基本だろ。それに河童は礼儀正しい奴が大好きだから、すごく喜ぶぞ」

 喜びすぎて頭の皿が空高く弾け飛ぶけど、というのは言わずにおく。

 トカゲの尻尾のように皿は再生するが、三春は驚いて腰を抜かすだろうし、松山の空には瓜の形の花火が上がる。にんまり口角を持ち上げた俺に不安そうな三春が話しかけた。

「せんり、わたし、うきうきしてお出かけすると必ず雨が降っちゃうんだけど」

「何? お前本当は妖怪なんじゃねぇだろうな」

 訝しげに言うと、三春はたちまち顔を真っ赤にさせて怒った。

「ちがうもん、せんりのバカ!」

「まあいい。松山一帯の天気くらいは俺がどうにかしてやるから、お前は必ず元気よく挨拶してくるんだぞ」

 大きく頷いて出かけていった三春を見送る。

 その後、俺は雲の変化に気を配りながらちっぽけな瓜型花火が上がるのを待ち詫びていたが、いつまで経ってもその気配はない。目を真っ赤にした三春が草原に戻ってきたのはその日の夕方だった。

「せんり、ごめん、あのね、挨拶しようとしたんだけど、かっぱの顔が思ってたよりずっとこわくて。わたしびっくりしちゃって……それで、その、頭のお皿を……」

「……お前直々にカチ割ったのか」

 こくりと頷く三春。

「そしたらお皿のうらみをかっちゃって、おうちにある平たいお皿全部割れたの」

 なんという不運。とばっちりをくらった河童もまた然りだが。

 三春の顔はまだ晴れない。

「それでかっぱが、最後はお前のひざの皿だって……! ねえ、せんり、ひざの皿ってなに?」

「お前の膝にある皿のことだ!」

 なにそれぇ、と三春が必死で皿を探し回っているうちに、俺は近くを飛んでいたカラスを呼び寄せ、足にキリイチゴの入った麻袋を結んでやった。雨の滴を沢山含み、甘く熟れたイチゴの実は妖怪達のご馳走だ。三春の髪の毛を一本引き抜いて入れたのでもう奴が皿に執着することはないだろう。

「ごめんね……せんり」

 三春がいつまでも申し訳なさそうにする理由を俺は何となく察することができた。

 こいつの不運は直接周りに被害を与えない分、間接的に、余計な手間を周りに増やす。そしてそれを一番苦に思っているのはこいつ自身なのだろう。

「気にすんな。次成功させればいいじゃねえか」

 そう言うと、三春は思った通り安堵に満ちた笑顔を浮かべた。――ああ、純粋で素直で馬鹿な奴。こんなのお前を捕まえておくためだけの演技でしかねぇのにな。

 しかし三春の不運はこんなところでは終わらなかった。

 その翌日、ソバカスを気にしていると噂の“道後のツル姫”に持っていかせた大量のソバの実は途中で鳩の大群に全てついばまれた。お気に入りの服に穴が開いたと泣く三春の服を俺は縫ってやるはめになった。

 そのまた翌日、お宝があると言って湧ケ淵の蛇骨を掘り返させようと思っていたのに(あいつは自分の身体より一回りでかい牙を見て度肝を抜かすはずだった)、来る途中にどこぞの稲荷神社の狐神使にケツを噛まれたとかで、俺は三春の尻によく効く傷薬を塗ってやらねばならなかった。

 そして今日、俺より先に草原に着いていた三春は、手に持った草餅を頬にいっぱい詰め込みながら、どこで拾ったのかも知れない貧乏神を頭の上に乗せている。

 頭上のそいつを掴んで投げ捨てながら、俺はとうとう三春の良く伸びる頬を掴んだ。

「テメェいい加減にしろよ。お前は毎日毎日楽しそうでいいかも知れんが、俺の方はお前が持ってくる面倒ひっかぶってばかりで全然面白くねぇんだよ!」

「わたしだって別にたのしくないよ!」

 そこで三春が思い出したようにポケットを漁り、取り出した黒い種を俺の着物の袂にざらざら流し込んだ。

「これ、この前のかっぱがくれたの。スイカの種!」

「んなもんいるか!」

 俺は三春から草餅を奪って口に放り込む。三春は、ああっと悲痛な声を上げた。

「いいか、次失敗したらお前を茶色い毛虫にするからな!」

 まだやるの? という顔で見上げられたが、ここまできたら何としてでも成功させなければ俺の気が済まない。こんなに悪巧みが上手くいかないことなど初めてだ。

「ほら、こいつを持ってけ」

 この前河童にやったのと同じ麻袋をかかげれば、三春の目が輝いた。

「妖怪のイチゴ!」

「キリイチゴだ」

「またかっぱにあげるの?」

「いや、今度は町に居る小鬼に配ってこい。お前よくあいつらにいたずらされるだろ。ソデノシタだ」

「そでのしたね! わかった!」

 俺はいつものようにこっそりほくそ笑んだ。

 キリイチゴはたいていの妖怪達の好物だが、鬼はとにかくこの実が嫌いだ。奴らはもともと火の眷属なのでどうしたって口に合わないのだろう。小鬼に追いかけまわされて慌てる三春を想像してにやにや笑っていると、奴は五分も経たないうちに草原に戻ってきた。腹を抱えて青ざめている。

「おなかいたい……」

「何でテメェが食っちゃったんだよ!」

 つまみ食いをし、異変に気付いて戻ってきたらしい。三春の顔色はどんどん悪くなっていく。

「これは人間には毒だ馬鹿!」

 三春を寝かせてそこら中駆け回り、集めた薬草を煎じもせずに小さな口に押し込む。

「噛め! ――うるせえ、苦いのなんて我慢しろ! とにかく噛んで、吐け」

 暫くして落ち着いてきた三春は眉を寄せて目を閉じている。腹をさすってやりながら俺は心に決めた。もうこいつを使って悪巧みをするのは止めよう。俺がろくなことにならねぇ。

「せんり……」

 三春が小さく唸った。

 きらいにならないで。

 そう続けた三春の、よく伸びる頬をつまもうとして、止める。

「なるはずねぇ」

 好きでも嫌いでもねぇ。お前はただの、俺の大事な暇つぶしだ。


●わたしと千狸


 秋になった。一昨日と昨日とで降り続いた雨のせいで落ち葉の絨毯はじっとり湿り、そこらじゅうから土と雨の匂いがした。それと混ざって鉄のかおりが、つんと鼻を掠める。

「おじょうさん」

 突然背後に現れたおじいさんの姿を見てわたしは息をのんだ。

「私の片足を知らないかい」

 片足どころじゃない。右腕も、左の手首から先も、片耳も髪の毛もない! ふつうの小学生は、突然血まみれのおじいさんが現れたら悲鳴を上げて逃げ出してしまうと思う。でもわたしはほんの少しだけこんな状況に耐性があった。

 ランドセルの肩ひもを強く握って恐怖を堪え、おじいさんの足元にできた血だまりを見ないように顔を上げた。

「し、しりません……。ごめんなさい」

 おじいさんは残念そうに目尻を下げると空に溶けるように消えてしまった。空気が秋のさらさらとした肌触りに変わる。わたしは額に浮かんだ汗を拭ってまたとぼとぼ歩き出した。

 幽霊と遭遇した時、よく聞く怖い話では「じゃあお前の手足をもらおうかぁ!」なんて言って幽霊がおそってくるけど、実際にそんなことはあまり起きない。何かを探している人はまた何かを探し続けるし、大切な人に何も伝えられずに死んでしまった人は、それをかわりに伝えてくれる人を探して彷徨うだけだ。理由もなく、見ず知らずの誰かを呪う幽霊なんてそういない。ちなみにこれは、幽霊のはなし。

「いたいっ」

 足に何かが当たったと思って下を見ると小石が落ちていた。こつん、同じサイズの石が飛んできてまた足にぶつかる。石の飛んできた方向を見ると、伸びきった雑草の隙間から小さな何かがわたしを見てけらけらと笑っていた。手のひらに乗りそうなほど小さい、編み笠をかぶったひとつ目の妖怪だ。わたしは彼に見覚えがあった。

「あなた、この前もわたしを転ばせたわね!」

 妖怪の中にはこんなふうに人にいたずらをしたり、襲ったりするものもいる。

 幽霊と妖怪のはっきりとした違いは分からないけど、わたしはなんとなく、人間の強い思いから生まれたものが幽霊。ものや、動物から生まれたものを妖怪と呼ぶんじゃないかと思ってる。わたしがより苦手なのは妖怪のほうだ。

「次いたずらしたら、今度は追いかけてひどいことをするからね!」

 わたしがどれだけ凄んでおどしてみても、一つ目のお化けはちっとも怖がってくれない。それどころかこちらにお尻を向けて、ぺんぺんと叩いて見せてくる。

「なんですって!」

「なあ! こいつまた一人でしゃべってるぞ!」

 驚いて顔を上げると、すぐ後ろを男の子達が走り抜けていった。そのうちの一人に突き飛ばされて転んでしまう。同じクラスの健二君達だ。

「あいつに近寄ると呪われるぞ! みんな逃げろぉ!」

「ちがうよ、呪われるなんて……」

 わたしが上げた弁明の声は、坂道を上って家の陰に消えてしまった男の子達には届かない。草陰に目を落とすと、ひとつ目の妖怪の姿はもうどこにもなかった。わたしは立ち上がり、スカートの土を払って歩き出す。自分があまりに惨めで、下唇をかむと涙が零れた。

 どうしてわたしにだけ見えるのか。見えるようになってしまったのか分からない。千狸は呪いのせいだと言ったけど、ならどうしてわたしは呪われているんだろう。

 考えても仕方ないと分かっているけれど、一番悲しいのは、人間と、幽霊と、妖怪とで、わたしの目に見える世界はいつだっていっぱいなのに、相変わらずわたしの傍にはあまり人がいないことだった。

「……民家のおくの角みっつ。歯医者を左、松を右」

 坂道や小道の入り組んだこの町は抜けることの出来ない迷宮のようだ。

「階段のぼって道なりに。右角まがって道なりに」

 こうして自作の歌を歌いながら、指を折って曲がり角を数えて、ようやくおばあちゃんの家に辿り着く。瓦屋根の古い平屋。わたしがおばあちゃんと二人で暮らすには大きすぎる家だ。

 お母さんとお父さんはいない。ずっと前に事故で死んでしまったから。

 こういう悲しいことは、あまり思い出さないようにしている。

 わたしはこっそり玄関の前を横切り、蔵の裏に回った。すぐそこにある竹やぶは山にそってゆるやかに登り、上の神社に続いている。わたしが草原へ行く時は大体この近道を使っていた。

 いつもならそのまま神社の裏手へ回るところだけど、今日は境内の方に見慣れた人影を見つけた。派手な色の着物は離れていてもその人を認識させてくれる。

「せんり!」

 声をかけると、狛犬の前でなにやら険しい顔をしていた千狸が顔を上げた。彼はすぐにまた視線を戻し、狛犬の口の中を覗き込み始める。

「よう。早ぇな」

「土曜日だからお昼で終わりなの。せんり、何してるの?」

 千狸は狛犬の上あごを押さえて白い大きな犬歯を欠けた場所にはめこんでいるようだった。

「見りゃ分かるだろ。こいつの欠けた歯を、どうにかこうにかしてくっつけてやってるとこだ」

 見たとおりだったみたいだ。

 それから数分して狛犬の歯は無事くっついたけれど、千狸はすっかり不機嫌顔になってしまった。

「近頃ここを遊び場にしてるガキどもの仕業に違いねぇ……。ふざけやがって」

「そういえばこの神社、神主さんはどこにいるの?」

 千狸と会う時はいつもこの神社を通るのに人を見かけたことは一度もない。参拝する人も見たことはないけど。

「神社はいつもきれいだから、神主さんがいると思うんだけど」

「俺が全員追っ払った」

 千狸がなんてことないような顔で言うので、わたしはぽかんとしてしまった。

「ど、どうして?」

「俺が居るんだからいらねぇだろ」

 さっさと歩き出してしまう千狸の後をわたしは慌てて追いかけた。

「ねえ、どうしてせんりがいると神主さんはいらないの?」

 千狸は面倒くさそうな顔をしながらも、説明のための言葉を探してくれる。先に苔の生えた一枚岩の下をくぐり抜けた千狸は、後から来る私を振り返って待っている。

「俺がこの山を守ってるから、他の奴が居るとやりにくくなる」

「せんりは妖怪でしょ? なぜそんなことをするの?」

「別にしたくてしてるわけじゃねぇ」

 したくないのならしなければいいのに。千狸の言ってることはよく分からない。

「なら、誰かに頼まれたの?」

 そんなところだ、と千狸の答えは適当になる。

 でも千狸が言うことを聞くような相手って一体誰なんだろう。いつもえらそうにふんぞり返っている姿ばかり見ているから想像がつかない。

「ねえ、せんり」

「もう質問は終わりだ。舌噛んでもしらねぇぞ」

 頬をふくらませるわたしを知らんぷりして、千狸は先に草原に入ってしまう。

 視界の開けたゆるやかな斜面。振り返ると、わたしの暮らす町とその向こうに連なる山々が秋の色と混ざって輝いていた。

 きれいだ――。とてもきれい。

 千狸と初めて会った日から、わたしは毎日のようにここへ通っている。〝妖怪と友達になろう作戦〟は残念ながら失敗続きで止めてしまった。

 けれどここから見える景色はいつだってすごくきれいで、わたしは懲りもせず毎日この山を登って来てしまう。

 突然振り返った千狸が鼻をひくつかせた。

「お前、少し血の匂いがするぞ」

「あ……」

 千狸はたぬきの妖怪だ。

 すごく鼻がよくて、うちの晩ご飯の献立もよく当ててくれる。

「さっきちょっと転んだからその時に……」

 スカートの裾を上げて確認するとやはり擦り傷ができていた。血はもう固まり始めていたけど、気にし始めると途端にずきずき痛みがよみがえってくる。

「なんだよ、またいじめられたのか!」

 千狸が馬鹿にしたように言う。

「いじめられてない、ちょっと転んだだけだもん」

「どれ、見せてみろ」

 屈んだ千狸に擦り傷を見せると、ふんと鼻を鳴らされた。長い舌がぺろりとわたしの膝小僧を舐める。

「ぎゃあ!」

「こんな傷で喚くなよ」

「いたいよ!」

「治してやろうとしてんだろうが」

 ほら、と膝を指差される。舐められたところが空気に触れて冷たい。じんわり痛みが広がったと思えば、擦り傷はみるみるうちに薄れて消えていった。

「わ! どうして? すごい……!」

 息をのんで、目の当たりにした奇跡を確かめるように膝小僧をさすった。

「怪我なくなっちゃった……せんりが舐めたから治ったの? せんりは、どんな怪我も治せるの?」

「まあその程度の傷ならな。よく聞くだろ、唾つけときゃ治るって」

 自慢げに言う千狸。

 わたしはもと通りつるつるになった膝小僧を見つめて、すごい、すごいとひたすら声を上げていた。でも頭の片方では、卑屈なわたしが膝を抱えて指をいじくるのだ。

 こんな時、わたしは千狸が人間じゃないことを実感してこっそり落胆する。いつもそうだ。わたしは人間なのに、同じ人間の友達はいないんだって、ここへ来る前と何も変わっていない自分にがっかりしてしまうのだ。

 千狸と目が合う。

 わたしはそれと気付かれないように笑ってみせた。

「ありがとう、せんり。もういたくないよ」

 千狸はお礼を言われるのがあまり得意じゃない。良かったな、とぶっきらぼうに言ってそっぽを向いてしまった。

「それより情けねぇぞ。ちゃんとやり返してきたんだろうな」

「そんなことしないよ」

 千狸はわたしがいつもやられっぱなしなのが気に食わないみたい。

「だって、やり返したって何も解決しないもの」

「そんなの誰が言った」

 どうして誰かの受け売りだって分かったんだろう。わたしは鼻高々に言っていた手前、恥ずかしくなって俯いた。

「江西ノ神さん」

「エニシノカミ? 誰だ」

「学校の裏の祠に住んでる神様で、あう!」

 突然、千狸に長い指でぱちんとおでこを弾かれる。

「ばーか、神だなんだの言うことなんて信じるんじゃねぇ。あいつらが言うのはほとんどただの綺麗ごとだ。信じるのは馬鹿だけだ」

「小学生になんてこと教えるの!」

「それよりも」 さも楽しそうな千狸に手を引かれて立たされる。

「俺が正しい喧嘩の仕方を教えてやる」

「ええ~! いやだよ、野蛮だもん」

「いいから来い!」

 こんな時、千狸はすごく楽しそうな顔になる。

 この前学校で読んだ動物の本では、たぬきは臆病な動物だって書いてあったけど、あれはきっと間違いに違いない。だって私の知るたぬきはいつもこのくらい好戦的なんだもの。

 わたしはその日、パンチの打ち方を教わった。

「素質あるぞお前」

 嬉しげな千狸だったけど、わたしは本当のところ使う気なんてこれっぽっちもなかったのである。


●青い彼岸花


 俺が三春について知っていることは存外少ない。例えば、親がいないこと。食うことが好きなこと。友達がいないこと。きれいなもんが好きなこと。それくらい。どうして呪われたのかなど本人が知らないことを俺が知っているはずもなく、ささやかな不運をぶら下げて毎日訪れるあいつを俺は今日も退屈しながら待っている。

「――ピンポンダッシュ?」

「そう。せんり知ってる?」

 ブナ林の中にある彼岸花の群生地で、三春は身を縮め、獲物を狙う虎の子のようにじっと辺りに目を凝らしていた。俺は少し離れた倒木の上に腰かけて耳慣れぬ言葉に首を傾げる。

「知らねぇ。何だそれ」

「ピンポンしてダッシュするの。それで、ユウコちゃんのおばあちゃんがね、慌てて出ようとしたら転んで骨折しちゃったんだって」

 ひどいよねえ、と言いながら、不意に目を光らせた三春が立ち上がる。俺の足元で大きく花弁を開いた彼岸花が一度青紫色に染まり、三春が駆け寄ってきた頃にはまた元の色に戻った。不服そうに頬を膨らます三春を笑う。

「ほら、早くしねぇと日が沈むぞ」

「せんりも手伝って!」

「俺が手伝ったら勝負になんねぇだろ」

 日が沈むまでに青い彼岸花に触れば三春の勝ち。触れなければ俺の勝ち。今日の勝負はこんなところで、負けた方は何でも一つ相手の言うことをきく決まりだ。

「それで、そのピンポンなんたらがどうしたんだ」

「犯人を捕まえようと思うの」

 三春が昂然と言った。

「……お前が?」

「そうよ。だって、ユウコちゃんのおばあちゃんがかわいそうでしょ? 謝ってもらわなきゃ」

 赤い彼岸花の海の中、ぽつぽつ現れては消える青い花を追い掛けながら三春が声を張る。俺は目を細めてその背中を見た。

「さてはお前、何か企んでるな」

 分かりやすいほど小さな肩が飛び上がる。そもそもこいつが俺との勝負にここまで一生懸命なのが珍しかった。暫くじっとり睨んでいれば、観念して三春が口を開いた。

「……犯人捕まえたら、ユウコちゃんに話しかけやすくなる」

「なんだよ、お前まだ諦めてなかったのか!」

「諦めてないよ!」

 俺はすっかり面喰らってしまった。近頃のこいつは草原へやってきても、俺を引っ張って山の中を探検したり、今みたいに勝負して遊んだりばかりしていたので、もうすっかり人間の友達などどうでもよくなったのだろうと思っていたのだ。

「そんなに友達が欲しいのか?」

「ほしい!」

「……わかんねぇな。お前は俺といた方が安全だと思うが」

「昨日はせんりのせいでたんこぶできたけどね」

 つるりとしたでこを見せてくるそいつに、普段どれだけ俺が助けてやっているのかというのを説いて聞かせようかとも思ったが面倒なので止めにした。そもそも昨日転んだのだって勝手に俺の足に引っ掛かったこいつのせいだし、その先に偶然倒木があったのも俺のせいじゃない。

「全部お前がドジなせいだ」

「ドジじゃない!」

 三春がまた彼岸花の海に沈む。どうやら本気らしい。俺が眉をしかめたところへ、安全かどうかは分からないけど、と三春はこっそり付け足した。

「せんりと会う日の空はいつもきれい」

 そんな些細なことが嬉しいもんか。俺もつられて空を見上げた。木々の向こうには西日に染まった秋空が見える。

 花が風に揺れてくるぶしをくすぐった時、あっ、と遠くで声が上がった。

「とった! わたしの勝ち!」

 青い花をかかげ、満面の笑みで駆け寄ってきた三春。俺は不承不承それを受け取り、三春に口を開くよう言った。

 何の疑いもなく大きく開かれた口に、青い花弁をぱきりと折って入れてやる。

「あまい!」

 三春が驚いた目で笑った。

「花氷だ。これも食いすぎると毒だが、花弁の一枚や二枚ならお前でも食える」

 ぱきり、ぱきり、花は薄い硝子のように脆く、零れた屑は朱の色にきらめきながら地面に落ちていく。三春はそれを目で追いながら、「あまい」ともう一度呟いた。

「明日、お前の町の地図を持って草原へ来い」

 ぱっと輝いた目が持ち上がる。

「協力してくれるの!?」

「約束だからな」

 飛び上がって喜ぶ三春の後ろで俺も腰を上げる。

 ピンポンダッシュが何かは知らねぇが、ようは知恵比べというわけだ。

 悪巧みでこの俺に並ぶ者など居やしないということを、この機にしっかりこいつの頭にも刻みこんでやらねばならない。

「せんり、顔すごく怖い」

「黙ってろ!」

 でなければ、日増しに生意気になっていくこいつを止める手段がねぇからだ。


●パタパタのお化け


 次の日、わたしと千狸はいつもの草原で作戦会議をした。

「これ持ってけ」

 千狸が差し出したのは手のひらサイズのイチョウの葉っぱだ。

「この葉札を相手の眉間に押し当てれば相手はお前が何をせずともここへついてくる」

 わたしはイチョウの葉をまじまじ見つめ、不思議なところがないか確認してみた。

 どこからどう見ても普通の葉っぱだ。

「本当に使えるの? これ」

「疑り深い奴だな」

 千狸はわたしに、イチョウの葉を手のひらに挟むように言った。続けて目を閉じるようにとも。

「その葉には既に俺がまじないをかけてある」

「おまじない?」

「事が全てうまく運ぶよう。お前の不運が働かぬよう……。ほら、お前も一緒にやれ」

 わたしは目を閉じたままイチョウの葉っぱに願いをこめる。

 千狸はときどき、神様みたいだ。

「……いろんなことがうまくいきますように」

 わたしの呪いが誰かをけがさせたりしませんように。

 すると、どうだ、イチョウを挟んだ手が甲のほうからぽうっと暖かくなってきたではないか!

「すごい……せんり! これ本物だよ!」

「だからそう言ってんだろ」

 目を開けて手のひらを広げる。そこにあったのはもうただのイチョウの葉じゃない。わたしと千狸の願いがこもった世界でたった一枚の葉札だ。

「一つだけ忠告しとくぞ」

 千狸が真剣な顔で口を開いたので、わたしも大きく頷いて耳を立てた。

「こいつは必ず相手の額のど真ん中に押し当てるんだ。少しでも位置がずれたり力が弱かったりすると効果がなくなる……それどころかとんでもねぇことが起こるからな」

「とんでもないこと……」

「まあ気をつければ良いだけの話だ」

 続いて千狸はわたしが持ってきた地図を手に取った。駅に置いてある町の見どころをのせた観光マップだ。いくつかの赤い丸はこれまでピンポンダッシュの被害にあった家の場所を示している。地図を広げた千狸は驚いた顔をした。

「こいつはどうやって調べたんだ?」

「先生に聞いたの。うちのおばあちゃんもよく家に一人で、被害にあわないか心配だから教えて下さいって」

「へえ、やるじゃねぇか」

 千狸に褒められるのは珍しい。嬉しくなって頬をかく。

 千狸は長い指で丸をいくつか辿り、いつも悪巧みをする時の笑みを浮かべた。

「……こりゃ、一石で何鳥か釣れそうだ」


 わたしは千狸の顔を真似しようとして慌てて止めた。正義のヒーローになって皆と仲良くなりたいのだ。なのにこれじゃあまるで悪の親玉――…そう思った時点でやめればよかった。


 千狸と作戦会議をした翌日。わたしは、モウレツに走っていた。

「な、なんで、あのお札、ぜんぜんきかない!」

 振り返るともう少しの所まで迫り来ている男の子達。うちのクラスの健二君達だ。

「おいっ、あいつ速いぞ!」

「待てー!」

 やっとの思いで神社に辿り着いたわたしは再び絶望する。そこで落ち合うはずだった千狸の姿がどこにもなかったからだ。

「やっと追いついたぞ、ブキミ女!」

「きゃあ!」

 ぐいっとランドセルを引っ張られて尻もちをつく。恐々と見上げた先には、息を切らせた健二君と二人の男の子が居た。

「よくもやったな! 見ろよ、ケンちゃんのおでこ!」

 彼のおでこが真っ赤になっているのは、わたしがイチョウの葉札を何度も押しつけすぎたせいだ。効果が見られないことに焦って驚いて、結構な力で叩きつけてしまった気がする。

「ご、ごめんね」

「今更謝ったっておせーんだよ!」

「……でも、健二君達だって、ピンポンダッシュしてたじゃない!」

「うっせー、バーカ!」

 起き上がろうとするのを、ランドセルを引っ張られて何度も倒される。

 健二君とよく一緒にいる身体の大きな男の子がわたしの前に立った。

「そういえばお前、毎日この神社に来てるんだって? ばあちゃんが言ってた」

 わたしはどきりとして目をみはった。

「毎日毎日何しに来てんだよ、呪いのおいのりか?」

「……ちがうもん」

 千狸に会いに行ってるんだもん、そう続けようと思ったけど、千狸の姿は健二君達にはきっと見えない。気味悪がられるのもうそつき呼ばわりされるのももういやで、わたしは結局黙ってしまった。

「ほーら、いっつも一人ぼっちで、ブキミなやつ!」

 恥ずかしさと悲しさで、じんわり鼻の奥が熱くなってくる。

 大きな男の子が、今度は少しだけ声を潜めて言った。

「それにこの山、お化けがいっぱい出るんだぜ? ばあちゃんが言ってた」

「べつに俺たちはこわくないけど!」

「じゃあもしかしてお前、お化けと友達になりに来たのか?」

 ゲラゲラ笑われて、いよいよ涙が零れ落ちてしまいそうになった時、どこからか何かが倒れるような音が聞こえてきた。

 かたかた、パタン。

 突然、太陽を分厚い雲が隠した。ぱっとあたりが暗くなり、古い写真のように景色が深緑色に変わる。冷たい風が境内を吹き抜けていく。周りの木々がざわめいて、ガラン、ゴロンとひとりでに鐘が鳴った。何かとても良くないものが近付いているような感じだ。そういう時、わたしは決まっておなかのあたりがずきずき痛くなる。

 かたかた……

 パタン、

 かた……

 パッタン、

 大きな音ではないのに、それは鐘の音に混ざって耳の奥に滑り込んでくる。どこから聞こえてくるのかは分からないけれど、少しずつ、こちらに近付いてきている。

 このただごとじゃない雰囲気に健二君達もすっかり怯えきっていた。

「な、な、なんか音がするよ……こわいよう!」

「にっ、逃げようケンちゃん!」

「た、ただの音だろ!」

 彼らはダンゴムシのように固まって、音のする方、神社の縁の下のあたりにじいっと目を凝らした。わたしもそちらを見る。不意に暗闇の中から木の板がぱたんと倒れて出てきた。

 その瞬間、わたしは思わず口を押さえて息をのむ。

 板が倒れる前に見えてしまったのだ。緑色の苔にびっしりと覆われた女の顔を。

「ひ……!」

 板がひとりでに立ち上がり、また倒れる。もう一度。

 かた、パッタン。

 面が表に向いた時、板の女はおぞましい笑みを浮かべていた。

「ぎゃあ――っ!」

 すさまじい悲鳴をあげながら、三人が我先にと神社の出口に向かって走り出す。わたしは声も上げられず、逃げ出すこともできずに、だんだん近付いてくる板を震えながら見つめていた。

 いくらお化けは見慣れていると言っても、それは他の人に比べて少しという程度のことなのだ。たった半年前に急に見えるようになっただけのわたしが、こんな恐ろしいものに太刀打ちできる手段なんて一つだってあるわけない。

 それでも板が目の前まで来た時には、わたしは半泣きになりながらも意を決し、それに向かって目いっぱい拳を突き出した。

「悪霊退さぁぁああん!!!」

 バキャ、木板の割れる音。

 それと同時に、「俺の最高傑作が!」 とすぐそこで悲痛な叫び声が上がり、張りつめていた禍々しい空気がぷつんと途切れた。

 顔を上げる。

 傍には割れた木板を両手にわなわなと震える千狸が立っていた。

「せ、せんり……?」

 爽やかな風が雲をさらい、山から駆け降りてくる。陽光の下でわたしは千狸を見上げた。彼は目を三角にして何やら怒鳴り散らしている。

「テメェ一体何のつもりだ! せっかく俺が夜なべして作った最高傑作をこんな有様にしやがって!」

 ――つくった、さいこうけっさく?

 わたしはへなへなと身体の力が抜けるままうなだれた。

「ん? へたりこんでどうしたお前」

「どうしたじゃないよ、もう……」

 未だに身体の震えが止まらない。こんなに怖い目にあったのは生まれて初めてだ。

「それにしても、見たかあのガキどもの顔」

 一人思い出してにやにや笑う千狸。

「あのでかいやつも確実にちびってたな。ハハ、興味本位でガキがこの山に立ち入ると一体どういう目に合うか」

「せんりのバカ!」

 バッチン!

 紅葉の彩るいつもの境内に、小気味の良い音が響いた。


 さっさと草原に向かうわたしを追いかけて、赤くなったほっぺたを押さえた千狸がついてくる。

「何で俺がぶたれなきゃいけねぇ。いじめっ子のガキ共を追い払ってやったのに」

 ぜったい自分が楽しんでただけのくせに。

 わたしは振り返って千狸の持っている板を指差した。

「そんな気持ち悪いのが転がってきたら普通の小学生はトラウマになるんだからね!」

「これのどこが気持ち悪いんだ」

 千狸の腕の中で板がケタケタと笑い出した。

「怖いし気持ち悪いよ!」

「大体お前はこんなの見慣れてるだろ?」

「見慣れてない! パチパチ河童だってもうちょっとかわいかったよ!」

 そんなにかと首を傾げつつ、草原に着けばもうどうでもよくなってしまったらしい。千狸はわたしを追い抜いて草原に身を投げた。

「今日は昼寝日和だな」

 気持ちよさそうなその姿を見て呆れてしまう。

 わたしも隣に転がって、ポケットに入っていたイチョウの葉っぱを取り出した。

「……千狸ごめん、このお札きかなかった」

 わたしがずっと持っていたから効力が切れてしまったのかな、と心配していたわたしは、次の千狸の言葉でロボットのように動きを止める。

「そうかそうか。ふふ、そりゃそうだ、そいつはただの葉っぱだからな!」

 ぎょっとして身体を起こした。

「なんで……おまじないは!?」

「そんなもんかけてねぇよ」

 言葉をなくして口を開ける。千狸は悪戯を成功させた時のしたり顔で思いっきり伸びをした。

「やっと思った通りに事が進んだ! 葉札? そんなもんあるか! 俺はな、自分以外を化けさせんのはとんと苦手なんだ。全部どんぐりか毛虫になる。人を操るのなんてもっと無理だ!」

「そんな、だって、けど……お願いしたら手があったかくなったのに!」

 千狸は着物の懐を漁って、おもむろにマッチを取り出した。頭がくらくらする。

「わ、わたしの手あぶったの!?」

「おう。神社で一服してる奴からくすねた」

「もう……もう! せんりのうそつきバカ!」

 千狸がべろを鼻先にくっつけた腹の立つ顔をこちらに向けた。

「うそなんてついてねぇ。でこに叩きつけたら、ちゃーんと神社まで付いてきてくれただろ」

「とっても怒りながらね! ――もう、バカバカきらい! いじわる!」

 わたしがどれだけ怒っても千狸はもうどこ吹く風だ。大欠伸をして寝返りを打ち、板のお化けをそこらへんに投げ捨てた。わたしはまたもや、あーっと大声を上げる。

「うるせぇな、何だよ!」

「いやだ! ちょっとどうして捨てるの!」

「は? お前が気持ち悪いって言うからだろうが……もしかして欲しくなったのか?」

 少し嬉しそうな千狸。

「いらないよ! あんなの野放しにされたら、わたしもうここ来ないからね!」

「何だと?」

 飛び起きた千狸が舌打ちをして辺りに目を配った。

「あ!」

 草原の向こうと樫の木のそばにパタパタ転がっていく影を見つける。

「お前は向こうを追え。つかまえるぞ!」

「さわりたくないよう……」

「ぐだぐだ言うな!」

「せんりのせいでしょ!」

 こうしてわたし達と板のお化けの追いかけっこは夕方まで続いた。

 すっかりへとへとになってしまったわたしに「ガキのくせに体力がねぇな」と笑う千狸だったけど、全ては追いかけっこの途中で何度も板を逃がして遊んでいた千狸のせいだ。そんなことを言い返す元気も残っていないけれど。

 置いておいたランドセルを背負って立ち上がる。おい、と後ろから声がかかった。

「また明日な」

 振り返ると、千狸が金色の目でじっとこちらを見ている――ああ、そっか、わたしがさっきもう来ないって言ったから……。

 わたしは千狸に駆け寄って、いつかのように小指を差し出した。

「うん、また明日」

 千狸と板に見送られて山道を下る。そういえば、誰かと一緒に計画したことがうまくいったのは初めてだ。

 健二君達もきっともうピンポンダッシュをしようとは思わないだろうし……そりゃ怖い目にはあったけど、誰かがけがをするようなことにもならなかった。

「……せんりのお札、本当は効果あったのかも」

 明日わたしがユウコちゃんに話しかけられたら、千狸にはちゃんとお礼をしよう。

 千狸はかなり口が悪いし、乱暴者だし意地悪だけど――きっと、彼はわたしのたった一人の友達だった。