九月。猛暑も過ぎ去り、程良く涼しい晴天の日。

 東京、渋谷駅のハチ公像の前。主人を待ち続けたといういじらしい犬の銅像の周辺は、今や待ち合わせスポットとして利用される。いつだってお祭りのように賑やかだ。

 今日も今日とて、待ち合わせの人々がたくさんいる。あちらこちらで歓声が上がり、集団が小島のように形成されていく。小島と小島の間の海をひらひらと泳ぐのは、ナンパやキャッチやアンケートの人々。最も多いのは、小島と海の波打ち際で俯いてスマホをいじる人びとだった。

 時は、紛れもなく科学文明の現代。

 ハチ公像の真正面にも待ち人している若い女性がひとり。

 立元さくら。都内の大学の法学部四年生。本日は、就活の説明会帰り。

 スカートタイプの紺色のスーツには皺ひとつなく、スーツと同じ色のビジネスバッグには汚れひとつない。ナチュラルメイクにはそつがない。胸まである黒髪には、枝毛の一本も見当たらない。

 特筆すべきはその微笑。過剰な笑顔でもなく、かといって無表情でもない。絶妙なバランスの表情だった。

 特別誰に見られている訳でもないことは、さくらとてわかっている。笑顔でいる。そうすれば周囲を不快にさせる可能性が多少なりとも減る。それは媚びや不安というよりは、さくらなりの処世術。生きる戦略。

 周囲の人々は徐々に入れ替わっていく。さくらはその表情とその体勢のまま、じっとしている。実は一日ずっとヒールで就活をしていたのでそろそろ脚が痛かったが、さくらは疲労を外面に出さないように努めるタイプの人間であった。

 ちょうど十五分が経った。腕時計をチラリと見る。

 と、そのとき。待ち人が走ってくるのが視界に入った。さくらは作り物ではない笑顔になる。こっちこっち、とちょっと背伸びをして手招きする。

 向こうもさくらに気がついた。右の眉を持ち上げて悪戯っぽく笑うと、よーいどんみたいに両腕を小さく振り上げダッシュしてくる。それも彼のおどけの一環。わかっているからさくらはますます楽しい気分になってしまう。

 目の前にやってくると、井上裕翔は両手をバチッと謝罪の形に合わせた。黄緑色のチェック柄のシャツにだぼっとしたジーンズ。大学でも見慣れた服装。

「ごめん、さくら。待たせた。ちょっとシネ研の方でさ、バタバタで。三年への引継ぎのことでさ、俺がいないと片付かない問題だったから。久しぶりなのにごめんな」

「ううん、わたしもちょうど来たとこだから。いつもサークルお疲れさま、みんなの頼りの最上級生さん」

 本当は十五分以上待っていた。ひとを気遣う嘘であれば、いつでもさらっと口から出てきてくれる。

「何言ってんだよ、さくらだって四年だろ」

「わたしはサークル入ってないもの。四年だけど、最上級生って感じはしないなあ。最上級っていうのは、サークルのような序列があって初めて成り立つものでしょう? 研究会にはわたしもまだ顔を出してるけど、あそこではみんな前提として立場は同じってことになってるから……」

 裕翔は軽く噴き出した。

「ほんと、さくらはブレないなって思うわあ。サークルのごたごた会議のあとだと尚更思う」

 さくらはきょとんと裕翔を見上げた。

「何よそれ。どういう意味?」

「いつもの意味。いつもってどういう意味、って訊くのもたぶんいつも通り。……いつも通り、なのになあ」

「……え? 裕翔、どうかした?」

「いやいや、何でもない、行こう。ぜひ行こう。今日の立元さくら大写真家センセーの撮影会場はどこかなっと」

 何それ、と言いながらさくらは思わず顔を綻ばせてしまった。裕翔が自分のクセをからかってくれるのは、無性に嬉しい。

「今日はね、道玄坂の方。渋谷なんて四年間も通ってるのに、まだまだ発掘できるとこがたくさんあるって、すごいと思わない? 卒業までに行き切れるのかなあ」

「我々はそれを確かめるために、道玄坂の奥地へと向かうのであった」

「え、何それ?」

「ちょっとしたネタ」

「どういう意味?」

「特に深い意味はねえって。ユーモア、ユーモア」

 そんな会話を交わしながら、ふたりはスクランブル交差点を越えて道玄坂の方面へ歩いていった。


 道玄坂を緩やかに上り、やってきたのはレトロな雰囲気の喫茶店。さくらが雑誌で読んだところによると、内装や食器が抜群にオススメのお店だということだった。

 レンガ壁のブラウンもそこに這わせたツタのグリーンも濃い色合いで、シックな印象だった。

(わあ。評判通り、素敵なお店。良い写真が撮れそう……と、その前に)

 注文を取りに来た若い女性の店員に、内装の写真を撮っても問題ないか尋ねた。店員は愛想よく承諾してくれた。さくらは「ありがとうございます」と頭を下げた。

 コーヒーが来るまでの待ち時間に、さくらは首から提げているデジタル一眼レフのカメラで喫茶店の内装の写真を撮った。撮った写真を確認して、にんまりする。

「ねえ裕翔、ほら見て見て、よく撮れた」

「ん? ああ……」

(あれ?)

 さくらはカメラを両手で持ったまま、首を傾げた。

 喫茶店に着いてからの裕翔は、少し様子がおかしかった。いつものようにスマホをいじることもせず、腕を組んで窓の外の並木通りを睨んでいた。いつの間にか強くなってきた風が、夏の名残の緑色の葉をさらうようにして吹き飛ばしていく。

 よく撮れた自分の写真をもっと見てほしかった。けれど、そんな気持ちはぐっと呑みこむ。さくらは、相手のことを常に優先したい。だからおどけて、探検家のようにおでこに手をかざすジェスチャーをした。

「外によっぽど面白い物でもある? それともわたしが四年間ぱしゃぱしゃカメラやってたのがやっと功を奏したかな、裕翔も少しは景色とかに興味もってくれたわけ?」

「……あのさ。ずっと、さくらには言おう言おうと思ってたんだけど」

「何よ、改まっちゃって。あ、もしや。サークルでまた何かあった? わたしでよければ話くらいなら聞くけど? 最近いつも引き継ぎの愚痴ばっかりじゃない」

 裕翔はバッと顔を上げた。そこには決意の色があった。

「俺さ。彼女、できたんだ。だからこれからは、さくらとこうやってふたりで出かけたりとかできないんだ。……ごめん。今日はさくらにそのことをちゃんと伝えたくて」

 さくらはポカンとしてしまった。

(え、待ってよ。そういうことだったの? この頃会えなかったのも、電話できなかったのも。ずっと、忙しいのかなって思って気を遣ってたのに。……裕翔のことを思って我慢してきたのに……)

 心が、燃え盛るかのようだった。だがさくらが実際にしたことは、両手の手の平を合わせてわあっと歓声を上げることだった。

「ええっ……それ、ほんとなの?」

 裕翔が気まずそうに頷く。自慢気ではなかったから、却って真実なんだとその瞬間さくらは知った。

 心が、ジュッと灼ける。

(……裕翔に、彼女。うそ。でも、たぶん、……嘘じゃない)

 笑顔を維持する力が弱ってきているのを感じた。「そっかー」と言いながらさくらは俯いた。

(そっか。そうなんだ。今まで、言わなかったけどね。わたしは、わたしが一番の女の子なんだと思っていたよ。お互い告白なんてしてなくても、そんなことは裕翔もわかってくれてるんだと思ってたよ……)

 おしゃれなティーカップに注がれた紅茶。飴色の表面は、さくらの陰った表情を映し出していた。こんな顔を裕翔に見られる訳にはいかない。さくらは顔を上げて今度こそくっきりと裕翔に笑いかけた。

 そして言うのだ。

「ほんとに、ほんとにおめでとう! 彼女、大事にしなよね! 裕翔と付き合ってくれるなんてほんとにいい子なんだからさっ」

 まるで、屈託も何もないかのように。

「……そっか、うん、彼女かあ。いいなあ。わたしも、いつか誰かと付き合ってみたい!」

 あくまでも気にしてないよということをアピールするためそう付け足したのは、少し、余計だったのかもしれない。

 裕翔は苦笑した。

「や、さくらなら男なんか選び放題っしょ。ってかさくらに釣り合う男とかほぼほぼいないのが問題」

 まさか、と言ってさくらは笑った――内心では、裕翔にそんな風に思われていたことにとてつもないショックを受けながら。


 その後の空気はぎくしゃくとしていた。普段はふたりの間にある軽快なテンポが、急に軋んだ。

 お互いに、取って付けたような話題を言い出す。それに対して、一言二言のこれまた取って付けたような応答。そしてまた、長い長い沈黙のターンに戻っていく。

 裕翔の彼女はどういう女の子なのかも尋ねた。裕翔は口数も少なくボソボソと答えはした。同じ学部の後輩で、サークルで出会ったと裕翔は言った。

(道理で最近サークルがサークルがってことが多かったのね……。単純に忙しいのかなって思ってたのに。……サークルなんてゴタゴタばっかでやんなるわあ、とかわたしにグチグチ言ってたのは、どこの、誰だったのかしら)

 そんなことを思っても、さくらは努力で愛想のよさを崩さなかった。

 結局、話が盛り上がらないままに気まずく別れた。昼過ぎに待ち合わせたわけだが、まだ夕方にもなっていない時間帯だった。いつもだったら、この後レストランか居酒屋のひとつでも流れで行くというのに。

 別れ際、駅の改札内に入って別の路線に分かれていくとき。最後までまっすぐな視線を向けてこなかった裕翔は、じっとりとした上目遣いでさくらを見た。そんな裕翔に、それでもさくらはぴっかりと笑いかけて胸もとで小さく手を振った。裕翔は、「……じゃ」と言っただけでそのまま階段を上っていった。

 さくらはしばらく裕翔の背中を見上げて見送っていた。その姿が見えなくなると、柔らかな表情が少しずつ消えていく。やがてその顔からは表情らしい表情が完全に消えた。

 人波が邪魔そうにさくらを避けていく。そんなことも気づかないくらい、さくらは動揺していた。

 バレエのターンのようにくるりと背を向け、自分の乗る路線の改札の階段を上り始める。山登りのように一歩一歩と踏みしめなければ、どこかで脱力してそのまま転げ落ちてしまいそうだった。


 二日後。渋谷にある、ふたりの通う大学のキャンパス。

 二限の授業が終わり、昼休みが始まるとき。

 さくらも裕翔もほとんど単位を取り終えている四年生だが、それでも週に三日ほどはお互い授業やらサークルやらで大学に来ていた。それだから、タイミングを合わせて大学構内でも頻繁に会っていたのだが――。

 昨日、裕翔と昼休みに合流しなかった。今までもどちらかに用事があって一緒に食べられないことはよくあったが、そもそも前日や当日に待ち合わせをしないのは初めてだ。ふたりはいつも、どちらともなく、昼休みの始まるタイミングで連絡を取り合って待ち合わせたというのに。

 そして――授業が終わると同時にすぐにスマホを開いてみたが、裕翔からはやっぱり何も来ていなかった。

 教室を出る。一気に賑やかになる学生たちの波に紛れて、階段を下りていく。普段だったらさくらもこのまま裕翔と合流するところなのだが――。

(今日は、どうしよう)

 昨日はひとりで昼休みを過ごした。友だちや顔見知りはたくさんいるが、誰かに連絡を取ることはしなかった。普段行かない方の食堂で早々に食事を済ませると、図書館にこもって勉強の続きをした。

(昨日も、彼女と過ごしたのかな。今日も、そうなのかな。……いつもわたしとそうしていたみたいに)

 階段を下りる足は迷わない。階段は、下りていくだけの一本道だから。だがこのまま一階に下りて旧館を出てしまえば、すぐに足が迷ってしまう予感がしていた。

 授業終わりの旧館は、大音量でざわざわしている。

 遮光窓から途切れ途切れに光が差し込んでくる、二階と三階との間の踊り場。

 さくらの足取りはふっと静止した。周囲の人達が迷惑そうに避けていくことがわかるから、さくらは慌ててその身を端に寄せた。

 今、世界で、一番、会いたくないひと。

 しかももっと酷いことに、その隣には――さくらの知らない女の子がいた。彼女はさくらの視線に気づくと、小動物が警戒するかのように裕翔の陰にささっと隠れる。

 さくらは階段を下りながら、胸のところで小さく手を上げた。挨拶だ。涼しい顔で、切り抜けたい。

「あ、お疲れ、裕翔。偶然だね」

「ああ、うん、まあ……上の教室でこれから会議だから」

 裕翔は目を合わせようとしない。

「そっか。旧館の上ってサークル会議とかで使われてるんだっけ」

「っていうか、昼休みはいつも上を借りてみんなでメシとか食ってる」

「へえ……」

(……へえ。ふうん。なるほど? これまではわたしと食べてたけど、これからはサークルで食べるってことか)

 隣にいる女の子が裕翔の服の袖を引っ張り、見上げた。

「せんぱいせんぱいっ。知り合いですか?」

「あ、うん、学部の同期。あー、その。この子、波木小奈津ちゃん。俺のサークルの……」

「裕翔先輩の彼女でっす」

 ぶい、と小奈津は真顔でピースサインを出しておどけた。

 さくらの心のなかの炎が、ボウッと燃え上がる。だがそれをおくびにも出さない。

 出してしまったら、負けだと思う。

「立元さくらです。……裕翔から少しはわたしのウワサとか聞いてるかな?」

「初めて聞きましたー、アナタのウワサも知らないし。てか、裕翔先輩の女のウワサだったら聞いてて忘れないと思いまっす」

 その物言いにさくらは驚き、小奈津の顔をまじまじと見た。

 垢抜けた女の子だった。くしゃくしゃのショートカットは最先端のトレンドだ。爪には鮮やかなワインレッドのネイルが施されている。

(キレイな子だな……)

 小奈津は真顔で頬に両手を当てて、細い腰をクネクネと回してみせる。

「何ですかあ、そんなに見ないでくださいよお」

 フラダンスみたいな妙な動きは小奈津がふざけてるのだ、と気づくのに数秒掛かった。

 さくらは小奈津に挑発されているように感じた。

「……そっかあ、あなただったんだ。裕翔の彼女って」

「おいさくら、やめろよっ。余計なこと言うなよなっ」

 裕翔はすぐにしまったという顔をした。

 沈黙。残暑の蝉の声が虚しく響く。

 授業終わりのグループが楽しそうに談笑しながら階段を降りてくる。

 さくらは右手を胸のあたりに小さく上げると、一度二度、振った。

「……じゃ。わたし、行くから。またね、お疲れ」

「あっ、待ってくださいさくらさん」

 さくらを呼び止めたのは、裕翔ではなく小奈津だった。さくらは振り向かずに立ち止まる。

「今度、あたしと裕翔先輩、ふたりで一緒に江ノ島行くんです。初デートで。それだから、さくらさんにもお土産、買ってもいいですか? 裕翔先輩のお友だちなんだし。ねっ、ゆうくん」

「……小奈津ちゃん、はは、外でゆうくんはやめてくれよなって……」

(なんでこの子は、そんな無神経なことを言うんだろう……それに、江ノ島って)

 去年のこの時期に、裕翔とふたりで江ノ島に行ったのだ。……楽しかった。

 さくらは振り向き、小奈津に向けてもう一度明るく笑いかけた。

「ありがとう。楽しみにしてるね」

 さくらは背中を向けると、階段を猛スピードで下っていった。

 今更のように涙が出てくる。すれ違う人たちの視線がさくらに突き刺さる。大学構内を早足で歩きながら、教科書を持っていない方の手で顔を覆って隠す。

(うまく、演技できて、よかった)

 もし感情のままに行動するのであれば、イヤミの一つや二つくらい言いたかった。自分のほうが裕翔のことをずっと知っている、と小奈津に対して主張したかった。『江ノ島ね、わたしも裕翔と行ったんだよ』くらいのことを言いたかった。

 だが、さくらは気持ちを完全に殺して、感じの良い先輩女子を演じた。

 小奈津にも、自分勝手な裕翔にも、何にもダメージを与えていないはずだ。

 けど。

(我慢、できたね。よかった……)

 さくらは、心の底から、よかったと思っていた。湧き上がってくる感情は、決して聖人君子などではないというのに。

 本当は、彼らを傷つけたいと思ってしまうほどには、傷ついていたのに。


 江ノ島。ふたりで昨年の夏休みに行った、思い出の地。

 最高に楽しかった。

 ただ一点の曇り――龍恋の鐘に南京錠を掛けることが叶わなかったことだけを除けば。

 江ノ島の観光名所のひとつ、恋人の聖地とも言われる「恋人の丘・龍恋の鐘」。湘南の海を高くから見渡せる鐘のそばに、ふたりの名を書いた南京錠をロックし、鐘を高らかに鳴らす。そうすると、ふたりの恋は永遠になるのだという言い伝えだ。

 裕翔と、ちゃんと付き合いたい。友達以上恋人未満、親しいけれどだらだらとした関係ではなく。そう思っていたからさくらは、江ノ島旅行で龍恋の鐘を鳴らすことをきっかけにして正式に付き合う話をしたかった。

 だが、うまくいかなかった。裕翔は頑なに南京錠をロックすることを拒否した。そしてそれまでの明るさが嘘のように、不機嫌になった。

 夕暮れと共に江ノ島を背にした旅行の終わりは、とても気まずかった。

 焦りすぎたのかもしれない――自宅に帰ったあと、お風呂やベッドのなかでひとり何度もそう思った。すごく疲れてしまっていて、ベッドに入るとすぐに寝てしまって。

 起きたとき、自分を責める感情は驚く程に薄れていた。けれど、その分長く残った。日を追っても後悔は消えてくれなかった。

(裕翔と、龍恋の鐘で南京錠を結びたかった。……そうすれば、もしかしたら今ごろ、きちんとした彼氏彼女になれていて)

 そんな気持ちはさくらの生活の中で何度も襲ってきた。それも、全然関係のないタイミングで、ふっと。裕翔と被っていない科目の授業中とか、公務員試験対策講座のときとか、キャンパスの図書館で勉強しているときとか。

 そういうときにも、さくらはその気持ちをおくびにも出さない。

 でも、そう思うたび、さくらはうな垂れて頭を振る自分のイメージを描きだしている。そしてイメージのなかだけのさくらが、哀しい顔で自分自身に語りかけるのだ。

(無理ね。わたしはいつだって本音を言えない。だからこうやって間違えるのよ。そう。龍恋の鐘でだって――わたしが本音を言えなかったからなの)


 にこやかな笑顔のまま、裕翔と小奈津と別れて。

 昼休みは、結局キャンパスの端の教室でひとりもそもそと日替わりランチを食べて。

 そのまま午後の講義も受けて。学部の友達や研究会の後輩ともキャンパスのあちこちで出くわしたけど、何ごともなかったかのように、にこやかで。

 あんまりにもいつも通りに笑えて。むしろ友達のひとりには、「何かいいことでもあったの? ご機嫌じゃん」とか言われたりして。ああ、取り繕うために笑いすぎたかな、なんて思いつつ。何だ、全然大丈夫じゃん、って安心して。

 本日のラスト授業である、三限が終わって。さあ帰ろう、と思って通い慣れたJR山手線に乗ろうとしたはず、なのだけれど、

 さくらの足はJR渋谷駅に向かわず、東急渋谷駅に向かった。

 そして、東急東横線に乗り込んだ。

 すでに午後四時。木曜日。

 向かうは、江ノ島。

 ラッシュ直前の横浜駅で、JR横須賀線に乗り換え……海へ向けて変わっていく景色を眺めながら、鎌倉駅に到着、江ノ島電鉄に乗り込む……。

 少し遠回りではあるが、あの日裕翔と乗った江ノ電で向かおうと思ったのだった。

 何度だって、引き返すタイミングはあった。けれども、そうしなかった。

 ガタン……タタン……。

 湘南の海沿いを走る江ノ電の走る音が、今のさくらにはやけに大きく感じられて。

 ここまで来れば、もう江ノ島は目の前だ。湘南の海にちょこんとお椀を上から被せたような、かわいらしく、橋ひとつで繋がっているだけの独立した島。由緒ある観光名所。

 まだ、座席の埋まり切らない時間帯。江ノ電の程良いくすみ感のある色合いのシートに、さくらはぽつんと座っていた。

 普段、電車移動という日常のささやかな一場面でも、さくらはいつも周囲に気を配る。つまり、こんなふうに物寂しそうに俯いて座ったりしないようにしている。

 さくらは、南京錠――龍恋の鐘で裕翔と結べなかった南京錠を、握り締めていた。

(……冷たいな。これ。金属だから、そうなんだけどさ。それだけじゃ……なくてさ)

 裕翔には秘密だったが、さくらは裕翔との江ノ島旅行のときから南京錠を毎日財布に入れて持ち歩いていたのだ。そんなに大きな南京錠ではないし、財布の中にあっても裕翔に気づかれてはいなかった。

 江ノ島から持ち帰ったこれを、江ノ島に返すなり何なりすることで、何かを清算してしまいたくって。

(……結びたかったな)

 心の中で呟いた言葉は、今更のように正直だった。

(何だかな。どうして、こうなっちゃったんだろう。裕翔に、彼女か。……いいことじゃない。わたしじゃ、駄目なんだからさ、だったらあのひとには彼女がいたほうがいいでしょ。裕翔は、……いいひとなんだからさ)

 手の温度でもちっとも温まり切らない南京錠をもう一度握り締めて、はあ、とさくらは息をついた。ため息だって普段はひとの前では絶対にしないように心がけている。……だから、あの江ノ島旅行の日、湘南の海を背景にして裕翔の前でため息をひとつついてしまったことが、わだかまりとして今だって残っている――。

 プツン、と車内放送が入った。

「えー、本日は、江ノ島電鉄をご利用いただきありがとうございます。しばらくこの電車、海沿いを走行いたします。生憎の雨模様ではありますが、趣ある鎌倉をお楽しみください」

 車内アナウンスに、さくらは思わず顔を上げた。

(あ。このアナウンス。そっか、天気に応じてちゃんと内容も変えるんだね。……前に来たときは、快晴の江ノ島って言ってた)

 本日の神奈川県藤沢市は、天気予報によると雨ときどき曇り。

(……わたしの心と同じだね)

 龍恋の鐘で、本当は大好きだったひとと鍵をかけられなかった南京錠。これをこの江ノ島でどうにかすることで、後悔自体を、呑み込み切ってしまいたい。


 江ノ電を降り、歩いてゆく。以前に裕翔とふたりで歩いた道を、今はひとりで。

 一直線に伸びる弁天橋を渡り切ると、そこはもう観光名所として有名な江ノ島だ。端から端まで視界で見通せる小さな島だが、多彩な観光名所が揃っている。

 時刻は、五時前。島は、周囲の海ごと紅色に沈み込み始めている。

(せっかく来たんだし、まずは何か江ノ島名物のおいしいものでも食べようかな)

 江島神社の参道の手前。観光客相手に、食べ物屋や土産物屋が並ぶ大通り。ちらほらと観光客もいる。通りに沿って並列に飾られた提灯が、今ちょうど点灯した頃合いだった。

「しらすソフトクリーム」と文字の書かれた売店の前で、さくらは思わず足を止めた。懐かしかったのだ。裕翔と来たとき、あのときは昼間だったけど、ここで一緒に食べたのだ。『何だよこれ、変な食べ物』と店に失礼なことを裕翔は言ったが、ただの大はしゃぎなんだとわかったから止めはしなかった。さくらも内心ちょっと疑っていたが、食べてみれば意外にもしらすの塩辛さがほんのり香った甘さでおいしかったのだし。

 売店で暇そうにお喋りをしていた店番のおばさんふたりに声をかける。

「あの、すみません。ここって、食事とかやってますか?」

「あらやだ! さっき終わっちゃったのよ! しらすソフトクリームならあるんだけどねえ」

 さくらは迷った。

 けど、一瞬のことだった。思い出の味を、今ひとりで味わう気にはなれなかったから。

「ほら、今日は平日で、九月の夏休み明けでしょう? しかも夕方ときた。お客さんも来なくってさあ! 晩ご飯だったらそこ行きなさいあそこ、裏手のカイワイ食堂。この道こう行って、そう曲がって、あっちの方だから!」

 大きなジェスチャーで道を示すおばちゃんに、もう一人が眉をひそめた。

「あら、アンタ。あそこは潰れたんでしょ」

「違うわよお。改装してるだけよ」

「嘘だあ。こないだ業者が出入りしてたってそこの曲がり角の奥さんが言ってたわよ。夜逃げかもって」

「……あ、あのっ。ありがとうございます。とりあえず、そのお店、行ってみます。この道こう行って、そう曲がって、そっちの方。ですよね」

「あらやあだ、気をつけてねえ!」

 おばちゃんふたりが同時にそう言った。さくらはぺこりと一礼して、言われた方向へ歩き出す。

(えっと。この道こういって、そっちの方。この道こういって、そっちの方)

 心の中で繰り返しながら、さくらは裕翔とこの大通りを歩いたときのことを思い出していた。二人で来たときには所狭しと観光客が押しかけていたが、今はがらんと空いている。

(そういえば、裕翔はどうしてわたしと江ノ島なんか来てくれたんだろうな。彼氏でもないのにさ。……もしかして、誰とでもよかったのかな)

 思い出してみれば最初から偶然でしかなかった、とさくらは裕翔との出会いを思い返す。


 裕翔と初めて言葉を交わしたのは、大学に入学してすぐのタイミングだった。語学の授業でたまたま席が近かったのだ。

『ごめん、辞書見せてくれないかな。重くて持ってくんの諦めたんだ』

 知らない相手に堂々と頼み込む態度にさくらは面食らった。しかも異性に。女子高出身ゆえに、異性という存在はそう気軽に話しかけてはいけないのだと感じていた。

 それに不注意で忘れたならともかく、持ってくるのを諦めたと言い切ることにも驚いた。授業終わりに『サンキュー。お礼に昼メシおごらせてくんない?』と何の遠慮もなく言われたときには、もはや驚きを通り越して楽しくなってしまって、さくらは笑ってオーケーしていた。

 さくらにとって、裕翔は驚きの連続だった。

 さくらと裕翔はタイプは全く違ったが、不思議と波長が合った。色んな話をして、ふたりだけでちょっとお茶とかご飯に行ってみて。そのままなんとなく親しくなり、なんとなく一緒に出かけるようになった。色んなところに行った。水族館、映画館、博物館、遊園地。手を繋いだりはしなかった。けれど、ふたりで並んでいれば周囲には恋人だと思われてでもいることはわかった。

 一度言ってみたことがある。

『ねえ、わたしたちって、お互い一番の仲良しだよね。ふたりきりで、こんなにいろいろ行ってるものね』

『だな。さくらってどこ行ってもおもしれえんだよなー。コメントがおもろい。ドキドキの連続って感じだわー』

『何よー、それ』

 さくらは口元に手を当てて笑った。

 それはそう遠くない過去の出来事のはずだった。裕翔は結局――彼女を、作った。さくらではない女の子を選んだ。


 裕翔とのあんなに楽しかった思い出を苦く噛みしめながら、さくらは歩き続ける。

 大通りの裏手には、江島神社の切り立った巨大な岩が崖みたいにそびえ立っている。観光地らしさが一気になくなり、一軒家がぽつぽつと並ぶ。普通の住宅街のような景色だ。

 そんな中に。

 薄闇特有の、澄んだ水色の空を背景として。

 強烈なショッキングピンクの鯉のぼりが、ひらりひらりと気持ちよさそうに舞っていた。目に至っては真っ赤なハート型だ。その下の真っ白な石造りの建物の扉には「売却済み」と書かれた紙が貼ってあったが、さくらの視線は鯉のぼりに釘付けだった。

 口をぽかんと空けてそれを見上げる。やっぱり、目が恋の色の鯉のぼりがはたはたと揺れている。

(あの鯉のぼり、何? なかなかに強烈なデザイン。目をハート型にするっていうのはアイデアよね)

 カバンから一眼レフを取り出して、写真を一枚撮った。

 ファインダーを覗いていた顔をそっと離した。「売却済み」の紙が、やっと目に入った。

(ほんとだ。食堂は、潰れちゃったのね)

 それならばあれは何なんだろうと視線を上げてはみるけれど、それがいったい何なのかは不明である。

(面白いものに出会えたかもしれない。おばさんたちの勢いで流されて来ちゃったわりにはね)

 大通りに戻ろうと背を向けた、そのときだった。

 大きく、風が吹いた。風に吹かれて、崖に生えている木々がざわめいた。夕暮れ、江ノ島。神社を抱く切り立った崖。神秘的な感覚を覚えて、さくらは立ち止まって目を細めた。

 その目が直後、驚きに見開かれる――人の気配が微塵もなかった旧食堂の建物の前に、ひとりの青年がシルエットのように立っていたからだ。

 五歩では届かない。だけど、十歩も行けば届く距離。

 軽やかに遊ぶ金髪に、どこまでもお見通しと言わんばかりの澄んで蒼い瞳。漆黒の燕尾服という正装も相まって、――人間離れしていた。

 あ、撮りたい。

 さくらは、咄嗟にそう思った。

「道に、迷われていますか」

 まるで舞台みたいに、テノールの声はよく通った。

「後悔を、されているのではないですか」

「……え? 何ですか……?」

 青年はそっと微笑んだ。

「迷子と後悔には敏感な性質でしてね。秋の始まり。今宵も冷えます。よろしければ、一杯の温かい紅茶などはいかがですか」

「えっ、あのっ、……食堂の方、とかですか……?」

「いえ。建物を譲り受けて、今はここでわたくしがお店をやっております。恋愛のやり直しの店、恋のぼり恋愛レンタル店を」

(恋愛、レンタル……?)

「さあ。立ち話というのも何ですので、どうぞ中へ……」

 青年は建物の中へとさくらを促す。

 唐突で、強引。しかし――断ろうとは、思わなかった。

 青年は、「売却済み」と書かれた扉をキィッと開けた。控えて、お辞儀と手でさくらを促す。

 金髪碧眼で燕尾服、微笑をたたえた店主だと名乗る青年。

 さくらは、思った。――翼がないのが不思議なくらいだ。

 バタン、と扉が閉まった。ひたひた満ちてくる夕闇に、江ノ島全体が染まってきている。木々も、そして気持ちよさそうにはためくショッキングピンクの鯉のぼりも。


 出されたのは、薄緑色のハーブティーと鎌倉名物だというカラフルな豆菓子。

 青年は「すぐに戻ってきます」と言い残して、台所の裏手に消えていったところだ。さくらは部屋を見回す。

(売店のおばさんたちが言った通りだったんだね。食堂は潰れちゃって、ここは新しいお店にリニューアル中だったんだ。それにしても)

 すごい散らかりようだった。元々が小規模な食堂だった空間。正方形の大理石造りの巨大なテーブルや、食堂部分と直結しているキッチンの配置はそのままで、昔ながらのビデオテープが床にもテーブルの上にも椅子の上にも所狭しと積まれている。段ボールやら紙屑やらの詰まったポリ袋や、コンビニ弁当の空箱が入った色付きのビニール袋。

 テーブルには、繊細な模様の施されたシルバーの大きな燭台。レトロで本格的なものだが、この散らかった部屋では完全に埋もれてしまっていた。

 さくらはテーブルを囲む椅子に座っていた。そのスペースさえ、ビデオテープを青年がどかしてようやく現れたのだった。しかもそのときの青年の手つきはぞんざいすぎて、片付けるというよりはただ床に落としていたのだった。

(かなり意外。絵画の世界から来たようなひとだから、てっきり大聖堂みたいなところかと思ったけど。……わたし、今失礼なこと思ってるよね)

 さくらはハーブティーを両手で持って、ふうふうと吹きつける。

(お店を持って、片付けもこのひとなりに頑張っているんだろうけど……これだと開店するにもまだまだ先が長そうだよね。見た目からしても、日本人じゃないのかな。だったら、このひとにとっては外国の日本で手慣れてないのも納得ではあるけど。こんな素敵な物件、この部屋をもっと良くするには……)

 そこまで考えて、ハッと我に返る。

(いけない、わたしの悪い癖。裕翔に何回言われたんだろ……人間関係は授業とかとは違うんだよ、って)

 これからはもう裕翔とふたりで話す機会も減る――改めて思い出して、ズキリと心が痛んだ。

(……はー)

 心の中だけでため息をついて、さくらはハーブティーを一口飲んだ。

 その表情がふっと変わった。

(えっ、不思議な味。でも、なんか……染みる)

 確かめるようにもう一口、二口と飲む。

(何だろう。落ち着くっていうか、癒されるっていうか……不思議な味)

 青年がさくらの隣に座った。近くで見ると、整った顔つきがますますよくわかる。

「改めまして。わたくし、恋愛レンタル店の店主、ノアと申します」

「ノア、さん?」

「ええ。ノアです」

 ノアはにこにこしていて、それ以上のことを言う気配はない。名字も気にはなったが、それ以上突っ込むことも野暮かと判断した。

「わたしは、さくらです。立元さくら」

「この国の、儚い花の名前と同じですね」

「そう、その桜と同じです、わたしの名前はひらがなですけど……あっ、店主さんって、外国の方ですか?」

「ええ、そのような側面もあるでしょう。しかし、……もうこの国も長いですので。この国の言語なら、この国の皆さまと関わるのに支障ない程には嗜みがあります。お気遣い、ありがとうございます」

「あっ、そうなんですね、日本語お上手ですもんね。っていうか、わたしなんかより丁寧できれいな言葉……」

 初対面の相手でも、積極的にコミュニケーションを図ろうとする。そんなさくらの癖は、ここでも遺憾なく発揮されていた。

「このハーブティー、とてもおいしいですね」

「何よりでございます。当店スペシャルの、癒しのカモミールティーでございますので」

「……あの、店主さんは、ここで何のお店をやってるんですか?」

「恋愛レンタルです。……やり直しの石板を借りてくる、とでも申しましょうか」

(恋愛……レンタル? 石板?)

 よくわからない。

「それが、商品なんですか? ここにあるビデオが関係あったりしますか?」

 大理石のベンチにも、ビデオテープが数十本積まれた山がある。この山はまだ小さなほうで、この空間にはしめて数百本のビデオテープがある。ラベルはどれも白色。映画のビデオというよりはホームビデオに見えるが、それだとするとラベルの英数字があまりにも機械的だ。

 奇妙な静寂が部屋を支配している。時折、夕刻らしい烏の鳴き声が聞こえてくる。

「……当店の恋愛レンタルですがね」

 ノアは奇妙によく通るテノールの声で喋りながら立ち上がり、部屋のカーテンを端から閉め出した。しっかりとした分厚い遮光カーテンで、部屋の明度は見る見るうちに落ちていく。

「まあ、商品と言えば商品です。対価を頂いてお客さまに提供するものですので。しかし一般で言う商品、とは少し違うかもしれません」

 全ての遮光カーテンを閉め終わると、部屋はまるで深夜のように真っ暗になる。そしてノアは――指先に小さな明かりを灯した。その炎は電子機器でもなく、マッチやライターでもない。ノアの指先からそのまま生まれ出ている、炎だ。物理法則ではありえないはずの現象。さくらは思わず息を呑んだ。

「何、契約をしてくださればいいだけのことです。それだけで、貴女はチャンスを手に入れる。……友達以上で恋人未満というのは苦しかったものでしょう」

 裕翔のことを話してはいない――さくらはまたしても驚いて、胸を押さえた。

 ノアは指先の炎をテーブルの上の燭台に移した。ノアの顔が燭台の大きな炎にゆらゆらと照らし出される。端正で、静かな顔。まるで、アラビアンナイトに出てくる悪魔のようだった。

 悪魔は、いざなう。

「貴女の恋愛、やり直しましょう」

(こんなの絶対怪しい……よね。でも。……話を、聞いてみるだけなら……)

「わたし、……彼氏だと思ってたひとと別れたんです。それが、理不尽な別れ方で。後悔、いっぱいあるんです。あのときああしていればよかった、こうしていればよかった、って。そういうのも……やり直せたりするんでしょうか?」

「ええ。もちろん。貴女がそうお望みであるのならば、チャンスを手に入れることができます。……こちらご確認のうえ、一筆、どうぞ。契約書です」

 さくらは筆ペンとともに店主から差し出された契約書を穴の空くほど見つめた。さくらの知っている契約書とは随分異なる。黄金の薄い板に、いくつかの短い文言と署名欄があるだけだった。




恋愛レンタル契約書


契約内容:あなたの後悔した恋愛をレンタルします

泊数:七泊八日


レンタル料:あなたの大事なものをひとつ

条件:ビデオにあなたの恋愛を撮らせろ


以上、よろしくお願いします。

署名欄:



 つまり一体何の契約なのか、よくわからなかった。

 契約書というよりも、子どものおままごとの道具にさえ思えた。それにしては、純金の板という点だけが豪華すぎたが。

「この『あなたの大事なものをひとつ』っていうのは何なんですか?」

「貴女にとっての宝物、とでも申しましょうか。それをひとつ私にください、ということです。……お嫌ですか?」

 さくらは少し考え込んだ。

「宝物なのかどうか、わからないんですけど……」

 さくらはカバンに手を入れて、南京錠を取り出した。どこにでもあるような南京錠だが、錠にはさくらと裕翔の名前がそれぞれフルネームで書かれていた。

「それは、龍恋の鐘の南京錠ですね。ちょうどこの地のもの。恋人同士の名前をそのようにして書いてロックをすれば、ふたりの愛は永遠となるとか」

 さくらは神妙に頷いた。

 江島神社の中心から少し離れた閑静な森林のなかに、龍恋の鐘はある。「恋人の丘」を登ったところにあり、恋人たちの聖地として有名な江ノ島の観光名所のひとつだ。いわく、ふたりの名前を書いた南京錠を龍恋の鐘のフェンスに取り付けてから鐘を鳴らすと、ふたりの愛は永遠になるという。湘南の海を臨む小ぶりな鐘の傍には、おびただしい数の南京錠の取り付けられたフェンスがある。

 昨年のちょうどこのくらいの時期、秋の始めの季節の裕翔との江ノ島小旅行。龍恋の鐘には、さくらがどうしてもと誘ったのだ。裕翔は明らかに乗り気ではなかったが、南京錠を買うときには財布から小銭を出して割り勘にしてくれた。さくらはとても嬉しくなって、恋人の丘の階段を登っていくときにはずっと喋り通しだった。永遠の恋なんてどきどきするね、と。

 その間、裕翔はずっとへらへらとしていて、そして龍恋の鐘の前では、いよいよ不機嫌になってしまって――。

『俺らって、なんかそういう永遠とかと違くね?』

 ショックだった。けれど、笑顔で不満を呑み込んだ。

 いつも通りに。

 その南京錠。今日、江ノ島で、手放そうと思ったから持ってきた――。

「去年のこのくらいの季節に、そのひとと、龍恋の鐘に行ったんです。二人で南京錠を買ったのに、結局、南京錠をロックしないで帰ってきちゃって。照れちゃったんですよね、永遠の恋なんてわたし達らしくないって、勝手に。わたし、彼にかわいい彼女さんができて、なんか今になって後悔しちゃってるんです。……あのとき龍恋の鐘に南京錠をロックしてれば、もしかしたらわたし達は今頃恋人同士だったのかもしれない、なんて」

 初対面の相手にここまで語ってしまっているのが、自分でも不思議だった。

「そのような大事なものをいただいてしまって、本当によろしいのですか」

「はい」

 南京錠の小さなカギが、さくらの白くて細い手から、ノアの男性らしく骨ばった手に渡る。

「それでは。後は、お名前を」

 さくらはじっと契約書を見下ろした。そして決意すると、筆ペンを執り、きれいな字で自分の名前を書いた。

「……これで」

「ええ。恋愛レンタル、――始めさせていただきます」

 ノアはまたしても人差し指に炎を灯した――と、思ったら、ぼやけた青色から明確な金色に輝いた。金塊よりも眩しい光に、さくらの視線は釘付けとなる。

 光は増えて増えて、溢れて溢れて、空間全部を喰らい尽くす勢いだ。

 今ここには、光しかない。――今ここはこの世ではないのではないか、と錯覚する。

「契約成立です。立元さくらさん。このたびは、ご契約誠にありがとうございます。貴女の恋愛――やり直しましょう」

 まっさらな金色の光のなか。

 ふわっ、と身体が浮いて。

 さくらの渡した龍恋の鐘の南京錠が、光の向こうへぐるぐると吸われていって。手を伸ばしても、もう届かなくって。

 もう光以外には何も見えない――そう思ったときに、扉がバタンと閉まる音が、聞こえた。

(人間が眠りにつく前に最後まで持っている五感って、そういえば聴覚だって言われてるんだっけ)

 夜に眠るときには暗闇の中へ意識が消えていくが、今は――光の向こうに、渡っていった。