かつて平安京と呼ばれた京都の街に、陰陽師はもういない――ということになっている。およそ百五十年前の明治維新によって、陰陽師たちの所属する陰陽寮は廃止されたからだ。

 しかし、京都府立洛新高校一年五組・糸野桃花は知っている。

 春には桜が咲き誇り、初夏には蛍が舞う真如堂界隈に陰陽師が住んでいる、と。

 平安時代に名を馳せたその人の名は、安倍晴明という。もっとも、郵便受けには「堀川晴明」と偽名が記されている。

 二十五、六歳の秀麗な青年の姿をしているので、通りすがりの観光客に「イケメンだ」と評されることもある。だが、晴明は決して愛想の良いたちではない。琥珀色の瞳には憂鬱な雰囲気が漂い、不機嫌な時は眉間に稲妻のごとき皺が走る。

 ともすれば冷たく陰鬱に見える晴明だが、桃花は知っている。

 死後千年も閻魔大王の部下として働いてきたため、あまり現世に慣れていないこと。

 桃花の両親と酒食をともにする時、くつろいでいること。

 現世での指南役である桃花に、丁寧に学校の勉強を教えてくれること。

 そして、困っている神やあやかしに優しいこと。

 もし実際に晴明に「優しいですね」と言えば、すぐさま否定するのだろうけど。


 勉強が終わった後の座卓から、おだやかな菊花茶の香りが広がってゆく。

 白磁の茶杯に注がれた菊花茶の輝きは、黄色い猫目石を思わせる。底で揺れるのは、桃花の指先ほどの小さな菊の花だ。

 初めて見る菊花茶の端麗さに、桃花は静かに熱中していた。晴明の大きな手がこんなに可憐な茶を淹れてくれたのだと思うと、不思議な気さえする。

「飲まないのか、桃花」

 対面に座る晴明はすでに茶杯を手にしている。柔らかそうな唇に薄い白磁のふちが触れて、やがて離れていく。

 ――かっこいいな。和室でスーツ着てお茶を飲んでるだけなのに。

「どうした。生まれたての猿よりもぼんやりしているが」

 妙なたとえ方をされたのがやるせなくて、桃花はセーラー服のリボンをもてあそぶ。

「香りを味わってたんですよ。いただきます」

 桃花は両手で茶杯を持つと、菊花の香気を楽しみながら口元へ持っていった。

 香りとうまみが溶け合った優しい風味だ。舌に生じるほのかな美味しさと、体に沁みてくる心地よさを感じる。

 ――菊花茶は、ハーブティーみたい。カモミールっていうハーブは菊の仲間だし。

 茶杯を置いてから、壁のカレンダーの日付に気づく。

 今日は九月九日、重陽の節句。別名「菊の節句」だ。市内の上賀茂神社や貴船神社では神事が行われ、菊酒が振る舞われる。

 床の間に野菊が生けられているのにも気がついて、もしかして、と桃花は思う。

「晴明さん。今日は重陽の節句で菊の節句だから、菊花茶を出してくれたんですか? わたしが未成年で菊酒を飲めないから」

 ほんのりと、菊花茶のように淡い笑みが晴明の口元に浮かぶ。

「年若いのによく知っているな。暦や行事のことを」

「どや!」

「何だそれは」

 晴明が怪訝な顔をしたので、桃花は「『どうや、すごいやろ、えへん』くらいの意味です」と説明した。

「でも、『重陽』ってどういう意味ですか? 『上賀茂神社の重陽神事』、ってガイドブックに載ってますけど」

 桃花は、手帳サイズの京都の観光案内を開いてみせた。晴明の指南役になってから何冊か買ったうちの一つだ。

「陰陽説という、古い思想の話になるが」

「あっ、陰陽術につながってきますか? 勉強したら陰陽術、使えますか?」

 つい前のめりになる桃花を、晴明は片手で制する。

「関係なくもないが、まず落ち着きなさい」

「はい。お話、遮っちゃいましたね」

 桃花が座り直してから、晴明は話しはじめる。

「陰陽説では、さまざまなモノやコトを『陰』か『陽』に分類する。そして『陰』と『陽』は互いに依存しあっていると考える。太陽は陽、月は陰、男は陽、女は陰、というように」

 膝に両手を置いて黙ったまま、桃花はうなずいた。何となくイメージはできる。

「一から九までの数ならば、奇数は陽、偶数は陰と見なす。九月九日は最も大きな陽の数字が重なるので『重陽』と呼ぶわけだ」

「へえ……。この時期に菊が咲くから、菊の節句なんですか?」

「それもあるが、秋には木気に感謝し、木気を祝福せねばならないからだ」

「もっき? これも陰陽説の言葉なんですね」

「木気は、草木の気だ。植物とその勢いを意味する。菊の節句と称して菊酒を飲むのも、植物の実りに感謝し、祝福する営みのうちだ」

 桃花は、生まれた滋賀県大津市の風景を思い出す。

 琵琶湖の湖岸に、住宅地と水田が混在する景色だ。稲刈り後の乾いた田には、落ちた籾を求めて雀が群れていた。

「木気への感謝と祝福って、収穫祭みたいなことですか? ええと、秋に新米が出回る頃、実りに感謝して神社でお祭りをするとか。北野天満宮のずいき祭で、野菜で作ったお神輿を担ぐとか」

 もう少しうまく言いたいのだが、舌足らずになってしまうのがもどかしい。

「そうだな。神社の新嘗祭が、まさに収穫への感謝の祭りだ」

「にいなめさい……聞いたことあります」

「それにしても、京の行事に詳しいな桃花。ずいき祭まで知っているとは」

 褒められたのが嬉しくて、桃花は(どや、どや、どや!)と思う。もっとも、晴明はこの表現ではピンと来ないようなので、口に出したのは別の言い方だ。

「光栄です。文化祭の準備で、京都のお祭りや縁起物を色々と勉強したんですよ」

「ほう、文化祭があるのか。いつだ?」

 晴明は興味を引かれたようだ。

「再来週ですよ。十八日、十九日の二日間」

「高校の文化祭というのは、つまり文化発表会だな」

 ――文化発表会。古風ですね晴明さん。

 こんな時、桃花は実感する。目の前にいるのは現代の人ではない、と。

「そう、そう。もうちょっとくだけた雰囲気かも」

「桃花の学校では何をやるんだ?」

「食べ物のお店とか、音楽や演劇とか……それ以外に、校内の飾りつけ全体のコンセプトもあるんですよ。題して『おこしやす、京都のご利益さん』!」

 バッグから画帳を出す。

 美術部で使っているスケッチブックとは別の、やや小さい判型だ。

「京都で大事にされている縁起物の絵を、学校中に飾るんです。京都の神様たちも一緒に文化祭を楽しんでくださいって趣向で」

「面白い。京都の学校ならでは、だな」

「でしょ。どんな縁起物があるか調べて、アイディアスケッチを描きました」

 桃花は座卓に画帳を置き、めくってみせた。

 紫に色づいた芋の茎――ずいきで屋根を葺いた、北野天満宮のずいき神輿。

 さまざまな天満宮に置かれている、地に伏せた牛。

 下鴨神社の神紋を表す、双葉葵をかたどった御守り。

「絵がうまくなったな。少ない描線で立体を捉えている」

「あ、ありがとうございます」

 自分の描いた京の縁起物を、晴明が見つめている。しかも、上達ぶりを言葉にして伝えてくれた。桃花は、照れるような緊張するような、落ち着かない気分になった。

「節句の縁起物も描いたんですよ」

 じっとしていられなくて、画帳をめくる。特に不満を言うでもなく、晴明が新たな頁に目を落とす。

 三月三日は、桃の節句の雛人形。五月五日は、端午の節句の青々とした菖蒲の束。

 そして、九月九日重陽の節句。桃花が描いたのは菊花を浮かべた菊酒と、綿を載せた菊の花だ。

「着せ綿も調べたのか。桃花」

「どやっ」

「それはもういい」

「つい出ちゃいました」

 菊の節句の「着せ綿」は、菊の花に綿を載せたものだ。綿に菊の香りを移し、翌朝にその綿で体を拭いてケガレを祓う。

「晴明さん。『くだらない』って言われそうで、ちょっと聞きにくいんですけど」

 桃花はそっと切りだした。

 二杯目の菊花茶を飲みながら、晴明がこちらに視線を寄越す。

「女の子が着せ綿で体を拭いたら、美人になれますか?」

 晴明が無言で目をそらした。違うらしい。

「……そういうことじゃないんですね、ケガレを祓うって」

「早めに分かってくれて助かる」

 伸びやかな動きで、晴明は立ち上がった。

「次の年の実りのためにも、草木を労い、祝福せねばな」

 陰陽師らしいことを言いながら板の間を通り過ぎ、縁側に出てゆく。

 庭は夕暮れの光に鈍く照らされていた。七月から咲き続けている百日紅が、まだ暖かい風に揺れている。

 その風が吹いてくる方へ手のひらを向けると、晴明は独りごちる。

「東山の草木の気を祝わねばならない」

「東山って、東山山麓ですか? 草木の気を祝うって、何をするんですか?」

 庭へ向けられていた晴明の手が、桃花の口元でひらめく。

「質問はなるべく一回に一つ」

「はあい」

 返事をしながら、一歩下がる。家で飼っている三毛猫のミオが、時おりする動作だ。手を近づけると少し後ずさるが、そばを離れてはいかない。

「簡単に言えば、春の木気は東の方角から来る」

「東山山麓のある方から春が来るんですね」

 京都盆地の東に連なる山々は、東山連峰、東山三十六峰とも呼ばれる。大文字の送り火が灯る如意ヶ嶽もその一つだ。

「秋が始まるこの時期に、東山で草木の気を祝福する。来年の春のために」

「今から行くんですか?」

「いや。今日はまだ早い。あと一週間ほどだ」

 晴明は夕風の吹く庭を見ている。風の流れを読む鳥みたいだ、と桃花は思う。

「一週間後ってことは今月半ば過ぎ……晴明さん、大変です」

「どうした」

 予想通り、晴明は皆目動揺していない。しかし大変なことなのだ。

「いつも観光客でいっぱいの清水寺や祇園が、空いてるらしいんです。クラスの子に聞きました」

「そうなのか?」

「学校の夏休みは終わってるし、九月の連休の前だからです。ちょうど谷間なんです」

「ほう。なぜ大変なのか分からんが」

 わざとなのかと思うほど、晴明は平静そのものだ。

 ――晴明さんは男の人だから分からないんだ……!

 セーラー服の両腕を広げて、桃花は訴える。

「チャンスです。おしゃれなカフェとか京都っぽい和雑貨屋さんとか、お菓子屋さんとか、ゆっくり楽しめるじゃないですか!」

「食い気を満たす好機か。分かった」

「さらっと和雑貨屋さんを無視しないでください」

 むくれる桃花をよそに、晴明は室内に戻っていく。桃花が板の間に入ると同時に、ガラス窓が勝手に閉まった。晴明の住むこの家では、いつものことであった。



 広く薄暗い玄関ホールは、一階から二階が吹き抜けになっている。

 淡い光で展示されているのは、幕末の京都で起きた「池田屋事件」を再現したジオラマや、維新志士の肖像画などだ。

 桃花は一階の中央あたりに立って、透明な展示ケースに収められた一振りの日本刀を見つめていた。

 鞘や柄などの刀装具をすべて外されて、白布のかかった台に置かれている。

 ――刃のところどころに、光の点が見える……。武器なのに、宝石みたいにきれい。

 美術品を見ているような感動に、桃花は丈長のパーカの裾をぎゅっと握った。キュロットパンツから伸びる脚に、ざわりと不穏な微風が走った気がする。

 ――人を斬る道具が「きれい」なんて、変かな、わたし……。

 初めての刀剣鑑賞で起きた心のゆらぎを持て余していると、紙に鉛筆を走らせる音がかすかに聞こえた。

 晴明が隣でメモ帳を開き、短い鉛筆をよどみなく動かしていた。

 琥珀色の髪と瞳が館内の光を受けて、金色に見える。

 通った鼻筋に続く唇の線は柔らかい。そして長身全体の安定感は何かに似ている。

 ――分かった、スポットを浴びてるモデルさんだ。

 三つ揃いのブラウンスーツを着た晴明の姿は、暗い館内にしっくりと馴染んでいた。ネクタイは葡萄のような暗紫色だ。二十五、六歳の外見にもかかわらず、渋い装いを着こなしている。

 ――晴明さんなら、高級車のCMでもこなしちゃいそう。

 空想してみる。夜の高速道路で華麗なハンドルさばきを見せる晴明と、助手席でしなやかな脚を組む美女。響く銃声。バックミラーに映る、悪者たちを満載した車。

 ――そこで晴明さんが窓から放った呪符が、悪者たちの車に貼りついて爆発! 

 途中からアクション映画になってしまって、桃花は自分の空想癖に呆れる。(晴明さん、変な想像してごめんなさい)と心の中で謝って、現実世界に戻る。

「晴明さん、何描いてるんですか?」

「全体の形と、刃紋をスケッチしている。木気を労うことに通じるからな」

 しかし傍から見ると、刀剣鑑賞に造詣の深い青年にしか見えない。

「刀は金属ですけど、植物と関係あるんですか?」

「ある。刀を鍛えるには、大量の炭が必要だ」

「ふうん……だから、ここに来たいって言いだしたんですね」

「まあな」

「ところで、刀に波紋なんてあるんですか? 液体じゃないのに」

「その波紋ではない。刃の紋と書く」

 どの部分だろうと思い、日本刀を見直す。

 この刀の銘は「大和守源秀國」という。

 幕末の京都で市中見廻りを担った新撰組の副長・土方歳三が使用していた複数の刀の一つである。戦闘の多い新撰組にとって、刀は消耗品だったらしい。

 一見した限りで「紋」と呼べそうなのはやはり、刃の側にある白っぽい部分と、峰の側にある黒っぽい部分の境界線だろうか。直線のようでいて、よく見れば細かく波立っている。

「刃と峰の間のことですか? ところどころ、うねうねしてる」

 日本刀に関する専門用語をあまり知らないので、どうしても大ざっぱな言い方になる。しかし晴明は「当たりだ」と言ってくれた。

「刃紋は焼き入れという段階で自然に生じる。偶然が寄与する造形とも言える」

「ふうん……ドリッピングや吹き流しみたいです」

「絵の技法か何かか?」

 話している間も、晴明の鉛筆の動きは乱れない。

「当たり。中学の美術部で習ったんですよ。ドリッピングは筆から紙へ絵の具を落とすことで、吹き流しはその絵の具を息で吹くこと。ストローを使って」

 桃花がストローを持つ真似をすると、晴明が描く手を止めた。

「絵の具を吹くのに熱中しすぎて酸欠になっただろう」

「ええっ、どうして分かるんですかっ? 陰陽術?」

「直感だ。桃花の性格からして、おそらくそうだろうなと」

「ひどい」

 桃花はできるだけ派手に怒りを表そうと、勢いをつけて晴明から顔をそらした。

 展示ケースの中で、刃は鋭く清冽に輝いている。かすかに弧を描く刀身は、切っ先のあたりがやけに細いように思える。

「晴明さん。もしかしてこの刀、切っ先がすり減っちゃったんですか? 土方さんが使ってるうちに……」

「違うだろうな」

 答えながら、晴明は展示ケースに一歩近づいた。

「この刀は、おそらく最初から切っ先を細く作ってある。軽くなった分だけ実戦で使いやすい」

「実戦ってつまり、斬り合いですよね……」

 桃花はパーカのポケットから、一枚のチラシを出した。受付でもらったものだ。

 瀟洒な西洋軍服を着た土方歳三の、古びたモノクロ写真が載っている。函館に渡った時の写真らしい。

 ――怖いけど、かっこいい……。

 まるでタイムスリップしたかのように、やいばを構える土方歳三の姿が思い浮かんだ。

 こんなに間近でじっくり見て過去の時代にひたれるのは、とても幸運だと思う。もともと、幕末と明治をテーマとするこの霊山歴史館に行きたいと言いだしたのは晴明なのだけれど。

「晴明さん」

 桃花は、いつの間にか別の展示品を見ている晴明に近づいた。

 このフロアには、晴明と桃花以外の客は見あたらない。それでも公共の場なので、桃花は声をひそめて話しかける。

「やっぱり今の時期って、人が少なくていいですね。土曜日なのに」

 晴明は、ああ、と小さく返事をした。

「祇園祭の頃が嘘のようだな。紅葉の時期になればひどい混雑らしいが」

「ですねー」

 桃花はこの春に大津市から引っ越してきたので、紅葉シーズンの混雑については噂に聞くばかりでまだ実感が湧かない。それよりも、晴明の見ている展示が気になる。

「これって木刀の、握りのところですよね?」

「うむ。柄頭から峰の半分あたりまでだな」

 そこには、切断された木刀が二本並んでいた。

 細い方には「一般的な木刀」と説明が添えられている。太さは赤子の手首くらいだ。

 もう一方には「新撰組が使用していた天然理心流の木刀」と記されていた。太さは、大人の手首ほどもある。体積で言えば倍以上だ。棍棒という表現の方がふさわしい。

「新撰組の近藤勇らは、こういう特製の木刀で体を鍛えたようだ」

 ――無理、その鍛錬を見ただけで戦う気が失せるよ! 

 自分が幕末の京都に生まれていたら、新撰組の姿を見て震え上がっていただろうと思う。

「狭い京の路地や建物内では、弓でも鉄砲でも槍でもなく、剣の技を磨くことが有効だったのだな。直に見る機会はなかったが」

 現代人を装って桃花の隣の家に住んでいるが、晴明の正体は平安時代に生きた陰陽師・安倍晴明その人だ。死後は閻魔大王の部下として千年も働き続け、この春ようやく初めての長期休暇を得て現世に居を移した。

 ――晴明さんにとって、明治維新は『遠い昔』じゃないんだ、きっと。

「幕末から明治初期にかけての閻魔庁は、特に忙しかった」

「どうしてですか?」

「あの頃、各地で殺し合った者たちの量刑を定めるのが大変でな。一方的に殺された、罪のない者なら審理は簡単だったが」

 晴明がさらりと答え、桃花は二の句が継げなくなった。

 教科書には殺し合いの詳細までは載っていないのだ、と今更ながら気づく。

「ちなみに、戊辰戦争と呼ばれる一連の戦いはこの京都で、『鳥羽伏見の戦い』から始まった。試験勉強の時は流れを覚えておくように」

「はいっ」

 来月の下旬には中間テストがあることを思い出して、桃花は気持ちを引き締める。

「ところで、この太さの木刀が欲しい」

「えっ」

 晴明が指さしているのは、新撰組が使っていた棍棒――もとい、木刀であった。

「これも陰陽術だ。私が木刀を振るうことで木気を盛んにできる」

「そ、そうなんですか……」

 桃花は困惑した。術のためとはいえ、晴明が武器を手に入れようとしていることに。

「木刀を売っている店を知らないか」

「ええと、平安神宮の近くの武道具屋さんで売ってるって、剣道部の男子が言ってました……や、そうじゃなくて晴明さん」

 ――木刀でも、晴明さんが武器を持つの、やだ。それに……。

 言いづらくて、桃花は髪のリボンをもてあそぶ。

「何か問題でもあるのか」

 問題があっても気にしない、という調子で晴明が聞いた。

「こんなごつい木刀を買おうとしたら、お店の人に止められると思うんですよ……」

「そうか?」

 やはり晴明は動じなかった。

「剣道部の男子から聞いたんですけど、普通のより五百グラム重い木刀を買おうとしたら、店員さんに止められたらしいんです。もっと体が出来上がって、筋肉がついてからにしなさいって」

「良心的だ」

「新撰組スタイルの木刀は、五百グラム重いどころじゃないですよ、きっと。絶対もっと重いです」

「良い推論だな桃花。だが心配は要らん」

 晴明は、白い手を握ったり開いたりしてみせる。

「冥官ならば、常人以上の膂力を出せる」

「ちょっと待ってください。晴明さん」

「どうした」

「生身の人間だった頃は武闘派だったんですか? 格闘どんと来いだったんですか?」

「まさか」

 晴明は心外そうに腰に手を当てた。

「篁卿のような半分脳筋公卿と一緒にするな。切った張ったの立ち回りなど武人に任せていた」

「脳味噌筋肉って表現、知ってるんですね……」

 篁卿、つまり晴明の部下である小野篁をかばってやりたくなったが、ひとまず話を進める。

「とにかく、未経験なのに棍棒みたいな木刀を買うなんて、無理は良くないです」

「無理ではないというのに」

「お店の人にとっては晴明さんって、要するに普通の人じゃないですか。絶対ストップがかかりますよ。それに、お庭で稽古するつもりですよね?」

「もちろんだ。屋内で振るったら天井や鴨居が傷つく」

「うちのお父さんやお母さんや、通りすがりの人が見たらびっくりしますよ? 怪しまれちゃう」

「そうか?」

 桃花が抱く忌避感を見抜いているかのように、晴明は泰然としている。

 ――土方さんたちは、戦うのが仕事だったから仕方ないけど……。晴明さんがそういう技を磨くところ、見たくない。

「と、とにかく現世での指南役として、新撰組スタイルの木刀購入は賛成しません」

 断言すると、晴明は気が抜けたように笑った。

「指南役の判断ならば仕方あるまい」

「そうです、そうです」

 腕組みをして威張るそぶりをしながら、桃花は後ろめたい気持ちになる。晴明に武道の鍛錬をしてほしくない、という自分のわがままを隠しているからだ。

 ――それに、失礼だよね。武道を習ってる人たちも、晴明さんも真剣なのに。

 譲歩のつもりで、ぼそぼそと言う。

「ええと、でも……普通の木刀なら変じゃない、かも」

「普通の大きさなら買わない」

「どういうことですか、もう」

 ぼやきながら、晴明について二階へ上がった。小部屋があるので覗いてみると、浅黄色をした新撰組の羽織が壁際に並んでいた。維新期の風景を映し出すディスプレイや、坂本龍馬の等身大パネルもある。

「晴明さん、あっちで新撰組のコスプレができるみたいですよ。記念撮影も」

「仮装か。やらん」

「待って、急に早足にならないでくださいっ」

 通路に沿った大きな窓から、霊山護国神社の石垣や木立が見える。窓の下部には、文字を印刷した半透明のフィルムが貼られていた。

「何でしょう、これ」

「坂本龍馬の書いた手紙と、その現代語訳だな。なるほど、限られたスペースに多くの情報を展示する工夫か」

 いつも学校の勉強を教えてくれる晴明だが、こうしているとまるで学生のようだ。壁面に沿って並べられた展示も、興味深げに見つめている。

 近藤勇が使っていた鎖帷子。腕の毛まで細かく再現した坂本龍馬の大きな人形。

 さらに進むと、戊辰戦争で実際に使われた火縄銃と洋式銃を持ち上げてみる体験コーナーもあった。

「火縄銃と洋式銃では、重心の位置が違うな」

「銃身だけに、ですか?」

「語彙が豊富なのは良いことだ」

「駄洒落は褒めないんですね……」

 直には触れられなかった明治維新の空気を味わうかのように、晴明はゆっくりと展示を見て回った。

 もっとも、一番熱心だったのは、ミュージアムショップで関連書籍を選んでいる時であったけれど。


 霊山歴史館を出ると、灰色の雲の向こうに太陽が透けて見えた。風はやや涼しいが、桜や楓の葉は濃い緑色を保っている。何しろまだ九月の十七日だ。

「開館から一時間以上いたか。時間を取らせたな」

「いいんですよー。文化祭の準備は午後二時からですもん。ほら、見てください。この東山の頁」

 桃花はガイドブックを出し、猫の付箋が挟まった箇所を開いた。抹茶のパフェやレンタル着物、木箱に並んだ可愛らしい手まり寿司など、ひときわ華やかな見開きだ。

「清水寺も二年坂もありますよ。『京都観光定番コース』ですって」

「なるほど。八坂の塔もあるな」

 八坂の塔は通称で、正確には法観寺の五重塔という。石畳の上り坂の果てに立つ姿は、ドラマなどでよく使われる。この東山地区の観光のシンボルである。

「七夕にお仕事で来た時はちょっと混んでたけど、今日なら空いてるじゃないですか。町家を改装した、お座敷付きカフェができたんですよ。行きたいです」

「ああ。……少し待て」

 晴明は空を見上げた。一羽の鷹が高度を下げながらこちらへ飛んでくる。

「双葉だ」

 晴明が従えている式神の名だ。普段は十歳ほどの少年の姿だが、急ぎの用でもあるのだろうか。

「双葉君、何かあったのかな」

 桃花が心配していると鷹がさらに高度を下げ、足につかんでいた何かを落とした。細長く畳まれた紙だ。

「冥府からの文書か」

 拾い上げた紙を広げると、晴明は片方の眉を上げた。厄介だ、と思っているような表情である。

「まあ良かろう。ご苦労、双葉」

 晴明の言葉が聞こえたらしく、鷹は一声鳴いて飛び去っていく。東山山麓に沿って北上しているので、おそらく晴明や桃花の自宅がある真如堂付近を目指しているのだろう。

「あの、もしかして、急なお仕事の連絡ですか?」

「二十日から閻魔庁に戻らねばならん」

 ――ええっ、晴明さん、行っちゃうの? 何で?

「二十日ってことは文化祭の次の日だから、明々後日? すぐじゃないですか。何かあったんですか?」

「ちょっとした報告だ。すまんが、授業を三日ほど休みにしていいか?」

「三日間ぐらい大丈夫ですよ」

 桃花は胸をなで下ろす。もっと長い間不在にすると思っていたからだ。

「中間試験までは一ヶ月あるし、まだそんなに危機的状況じゃないです」

「そうか? 対策は早いに越したことはないぞ」

 晴明の視線に、笑顔で「大丈夫です」と返す。 

「分からないことがあったら、友だちや先輩に聞きます。今日だって文化祭の準備でいっぱいみんなと話す時間がありますから」

「文化祭といえば、私は見に行かなくていいのか。ご両親は当然行くと思うが」

「そう、そうです! 見ちゃいけません」

 桃花は両手のひらを晴明に向け、防御の仕草をする。

「というか、恥ずかしいから見ないでください」

「何の出し物か聞いていなかったが」

「美術部の作品展示と、クラスでの劇です……」

 桃花は明後日の方角を見る。

 城壁のごとく立ちはだかる霊山護国神社の石垣の上で、葉桜が風にざわめいている。

「どこが恥ずかしいんだ。分からん」

「作品展示はいいんですけど、劇は、恥ずかしいです……」

「電飾を埋めこんだ衣装でも着るのか。昨今はライトアップが流行りらしいが」

「人はライトアップしません。クリスマスツリーみたいに言わないでください」

 霊山歴史館の敷地を出ると、長い下り坂がある。

 遠くに京都市街の低いビル群が並び、その向こうには薄紫にかすむ山並みが続く。

 左手には八坂の塔が建ち、さらに遠くへ目を凝らせば京都タワーも見える。

「この坂を下りて右に曲がると、石畳の道があります。ねねの道っていうんですよ。豊臣秀吉の奥さんの、ねねさんがいた高台寺のそばの道」

 桃花は行く手を指さした。

「『ねねの道は電線を石畳に埋めてあるから、一応昔ながらの町並みが見られる』……って、学校の先生が言ってました」

「一応とは?」

「人気の観光スポットだから、写真撮影してる人が多いらしいです」

「まあ、仕方あるまいな」

「でも人力車は走ってるし、着物を着てる人も通るから、いい風情らしいです。あ、ほら。明治か大正っぽい女の人が。レンタル着物によくあるんですよ」

 坂の下から、昔の女学生のように袴を穿いた女性がやってくる。黒髪に揺れる大きなリボンとかんざし、着物を彩る赤や桃色。紫色の袴には、花びららしきピンクの模様が散っている。

「いいなあ、凝ってるし可愛い。レンタルじゃなくて自前かも」

 ずいぶん足が速いこともあって、桃花は思わず注目してしまう。

 だんだん近づいてきたその女性は、二十歳くらいだろうか。

「晴明公、桃花さんっ。ご無沙汰しております」

 声をかけられて、桃花は「あれっ」と声を上げる。

 六月の手づくり市で会った時はすっきりした朝顔の着物だったので、すぐには分からなかった。狸谷不動院に棲む狸、不動谷公子だ。

「公子か。相変わらず見事な化けっぷりだ」

 晴明も桃花も足を速めて公子と合流した。桃花を真ん中に挟んで坂を下りながら、久闊を叙し合う。

「公子さん、久しぶり! 今日は袴なんですね、可愛い」

「ありがとうございます。街で見かけた雑誌を参考に化けてみましたの」

 手入れされた指先で、公子は紫の袴をつまんでみせた。散っているピンクの模様は、キンポウゲに似たなよやかな花だ。

「秋明菊ですか?」

「そう、そう。秋の貴船山にたくさん咲くので、貴船菊とも言いますわね」

 公子の視線が、桃花のキュロットパンツの下に向けられる。

「桃花さんも可愛らしい。おみ足がきれいだから似合うのですね」

「えっ、いやあ、あはは」

 何だか急に恥ずかしくなり、桃花は手とパーカの袖口で腿を隠す。晴明はその話題にまるで頓着せず、桃花の頭越しに公子に話しかける。

「今日はどうした、急いでいたようだが」

「お宅に伺う途中、式神の双葉殿に出会いまして。このあたりにおいでだと聞いて、少々駆けて参りました。晴明公と桃花さんにお話ししたいことがあるのです」

 公子の足下を見れば、草履ではなくブーツを履いている。道理で速いはずだ。

 ――お話かぁ。じゃあカフェに入るのがいいかな。

 思えば公子と会うのは二回目で、三ヶ月ぶりだ。

「もし良かったら公子さん、カフェに行きませんか? つもる話もあるし」

「あら、嬉しい」

「今から二年坂の町家カフェに行こうと思ってて。坪庭や、お座敷があるんです」

 公子が「まあ」と頬を赤らめる。

「最近できたお店ですか? 小さなマフィンやフィナンシェの」

「そこです、そこ。ガイドブックにも載ったんですよ」

「有名な店か」

 桃花は首をぶんぶんと縦に振った。

「焼き菓子がちっちゃくてキュン映えで色々そろってるんです。わたしはカフェラテにキャラメルシロップ入れて、ブルーベリーマフィンがいいです」

 晴明が眉間に皺を寄せて「きゅんはえとはどういう言語だ」とつぶやき、公子は夢見るような視線を虚空にさまよわせる。

「ではわたくしは……バナナマフィンを。カプチーノには蜂蜜とココアパウダー」

「あ、それも素敵。キミコサン・カスタマイズですね!」

「よく分からないが、娘たちに人気があるのは伝わってきた。私が入っても問題ない店か、桃花」

「警戒しないでくださいよ、男の人も来ますから」

 晴明は六月の手づくり市でかんざし屋の店番を代わってくれたのだが、女性を中心にかなり注目を集めていた。晴明の見栄えが良いのも一因だが、本人にとっては相当面倒くさい体験だったようだ。

 ――スーツ姿でかんざしを売ってたから、不思議な感じになっちゃったんですよね。

 桃花は心の中で晴明に(あらためて、ごめんなさい)と詫びた。

「ところで公子さん、話したいことって?」

「実は狸谷の子狸たちが、人間に化けて桃花さんの高校の文化祭に行きたいと言っておりまして」

 ――えっ。公子さん、すごい偶然。

「洛新の文化祭か。奇遇だな」

「晴明公。奇遇、とおっしゃいますと?」

「ちょうど桃花と文化祭の話をしていたところだ。何やら、恥ずかしい劇らしい」

「変な言い方しないでください」

 桃花は軽く晴明の二の腕をつついた。

「公子さん。洛新の文化祭は学外からのお客さんも歓迎してるけど、普通の文化祭ですよ? 大学みたいに有名人のゲストとか、奇抜な模擬店とかないです」

「年端もゆかぬ子狸には、そこが魅力なのです」

 公子はにっこり笑った。そういうものだろうか。

「人間に迷惑はかけないと一同約束しておりますが、もしうっかり狸に戻ってしまった子を見つけたら、かくまうか逃がすかしてやってほしいのです。図々しいお願いで申し訳ないのですが」

「お手伝いしたいです。子狸って可愛いし!」

「ありがとう存じます! どのような段取りにいたしましょう?」

 坂を下りて、石畳の続くねねの道を歩く。着物姿の女性がちらほら目に入り、青年俥夫の曳く人力車も走ってくる。風情のある道だ。

「じゃあ、もしわたしが子狸を見つけたら、バッグか何かに入れて目立たない場所へ運ぶ、っていうのはどうですか? できる限りやってみます」

「充分ですわ! 助かります」

 公子は、手をポンと打ち合わせる。

「わたくし大きな風呂敷を持っておりますので、お店に入ってからお渡しいたします。当日、それで見つけた子狸を包んでいただければ」

「人間の学校で子狸の訓練か。心配だな」

 晴明が言った。葉桜の並木を背景にして、かすかに笑う。

「目立たない場所へ運ぶといっても、大変だろう。鳥に変化した双葉に文化祭全体を見張らせよう」

「助かりますわ。晴明公」

「桃花、子狸を風呂敷で包んだら、目立たない場所で口笛を吹きなさい。双葉が飛んでゆくようにしておくから」

 頬をほころばせている公子とは対照的に、桃花の頬はぴくぴくと引きつった。

「私も劇を見ていいか」

 桃花は観念した。ここでなおも「恥ずかしいから来ないでください」と主張したら、かなり子どもっぽい気がするからだ。

「『校内での撮影は、ご遠慮ください』……」

 桃花はうつむきながら、文化祭で掲示される予定の注意書きを棒読みしたのだった。



 町家の玄関にかかったモダンな暖簾を抜けると、そろいのエプロンを着けた店員たちがカフェカウンターから「こんにちは」と挨拶した。

 コーヒーの香りが漂い、ショーケースに並ぶ焼き菓子が桃花を誘惑する。

「二階のお座敷、ただいま空いておりますよ」

 店員に案内されて、嬉々として階段を上がる。

 上りきると、柔らかい光に包まれた。丸や四角の窓に、障子がはめてある。

「まるで茶室だな。障子で採光が抑えてある」

 晴明がくつろいだ口調で言った。座敷にいくつか並ぶ座卓は木製だが直線的な意匠で、和風に傾きすぎていない。

 靴を脱ぎ、畳に上がる。掛け軸のかかった床の間には、紫色の竜胆が白くさらりとした花器に生けてある。

「お庭も上手に仕立ててありますわね。枯山水で」

 公子が、リボンをふわりとなびかせながら桃花の隣に座る。フロアの一角が石と白砂と羊歯を使った坪庭になっていて、閑雅な空間が生まれているのだった。

「石の配置が巧いな」

 来る前の警戒ぶりはどこへやら、桃花の正面に座った晴明は坪庭に感心している。

「晴明公、羊歯を植えているのも面白いですわ。光が少なくても元気ですもの」

「あのう、枯山水の庭ってよく聞くけど、どういう意味ですか?」

 晴明と公子の会話についていけず寂しいので、聞いてみた。

「水を使わず、石や砂で山水を表現した庭だ。植物は植えても最少限にする」

「京都なら、龍安寺の石庭が有名ですわね」

「そうだな。いつか桃花を連れていってやらねば」

 ――ありがとうございます! でも、「連れていく」のは指南役のわたしでは?

「話は変わるが、文化祭で上演するのはどういう劇だ? 桃花」

 晴明が単刀直入に聞いてきた。

 店に入るまでに子狸保護のおおまかな段取りは決まったので、話題がそこへ向かうのは仕方ない。

「……『竹取物語』の現代風アレンジです」

「竹から生まれたかぐや姫の話ですわね。現代風とは……?」

 公子が首をかしげた。

「原作のかぐや姫は五人の貴公子に『宝物を持ってくれば求婚に応じます』って言うんだけど、この台本では五人の若手起業家やイケメン俳優に同じことを言うんです。あっ、やっぱりフィナンシェにしようかなぁ」

 晴明の顔からわざとらしく目をそらしながら、メニューを座卓に広げる。

「しかし分からんな。いったいどこが恥ずかしいのか」

 隣に座っている公子が「ふふ、もしかして」と微笑む。

「桃花さん、主役のかぐや姫を?」

「あっ、ううん、そんな華やかな役じゃなくて……」

 桃花は声をひそめた。

「月の住人Aなんです。子ども向けの絵本だと、平安時代の女官みたいな格好をしてるんですけど」

 桃花は公子にスマートフォンの画像を見せた。晴明からは見えないように。

「衣装と小道具が、こんな風で」

「可愛いではありませんか。まさに現代風アレンジ」

 花模様の着物にフリルをつけた衣装が、ハンガーにかかっている。上半身はまだ着物の原形を残しているが、帯よりも下の部分はスカート風だ。

 衣装の隣では制服姿の桃花が、鞘の赤いおもちゃの日本刀を持って恥ずかしそうな顔で写っていた。昨日、教室で友人が撮ってくれた写真だ。

「セーラー服と日本刀の取り合わせも面白いですけれど、この衣装は街中でも着られそう。わたくしも着てみたいくらい」

「何年か前の先輩たちが、ライブで作った衣装を残していってくれたんです。可愛いけど……これを着て刀を持ってお芝居、っていうのが恥ずかしいです」

「あらら。月の住人といえば確か、かぐや姫を月に連れ帰る役目でしたかしら」

「そうなんです。女官と武官を兼ねてるってことで、こんな格好に」

 話しながら、晴明をちらりと見た。

 晴明は桃花たちの会話を気にする風もなく、坪庭を眺めている。

 店員が注文を聞きに来て、怜悧な琥珀色の瞳が動く。

 ――この格好いい人に、面白い格好を見られたくない。そんな思春期、やだ。

 たとえ晴明が気にしなくても、桃花にとっては切実な問題であった。



 美術室の窓の外から、ハードロック調の曲が聞こえてくる。三年生の出し物にコンテンポラリー・ダンスがあったのを桃花は思い出した。

「野球部の焼きそばいかがっすかー。鉄板から腕力でひっくり返してまーす」

「茶道部のお茶席、いかがですかー。主菓子は栗羊羹か、栗の薯預饅頭ですよー」

 模擬店の呼び込みが、廊下から流れこんでくる。

 ――炒飯と同じで、焼きそばもあおり方が肝なのかな。栗のお菓子もいいな。

 桃花は食欲をそそられてそわそわしたが、文化祭開始直後に友人たちと湯葉入りカスタードパイを食べたのでセーブせねばならない。

 それに今は、美術室で店番の真っ最中だ。

 美術室はいつもと違って、他の部活の生徒や親子連れでにぎわっている。

 桃花たち美術部員による絵画や版画などが飾られ、いくつかは販売もするという本格的な仕様だ。高校の名前を取って、『ギャラリー洛新』と看板も掲げた。

 真っ白な模造紙を広げた大きな机には「じゆうに、らくがきしてみよう」という札を立ててある。子どもたちが模写して遊べるように、さまざまな動物やアニメキャラクターの画像も展示中だ。

「糸野さん、緊張してへん?」

 美術部の先輩である女子生徒が、両手の指をじわじわと動かしてみせる。

「緊張してるんやったら、肩、もんであげるえ?」

「その笑顔があやしい。キリカ先輩、くすぐる気でしょ」

 桃花は手刀を繰り出すふりをして、防いだ。女子生徒は「わー」と言ってよける。

「まあ、来る人たちも高校の文化祭やって分かってはるから、美術の専門的なことは聞いてこおへんし、値切ったりもせえへんよ。お金の管理だけマメにしよなぁ」

「はーい」

 ――顔に緊張感が出てたかな。危ない、危ない。

 桃花は言われた通り、手提げ金庫に入っている札や小銭の数を確認し、領収証の残り枚数を数えた。

「糸野さん、劇に出るのは今日の午後やったっけ?」

「そうなんです、お昼食べてすぐ。今から緊張してたらもたないですよねー」

「外部の人が来るしなぁ、緊張するのはしゃあないって」

 ――ごめんなさい先輩。隠してるけど、緊張の原因は他にもあるんです。

 こうしている今も、狸谷の子狸が人に化けて校内を回っているのだ。うっかり変化の術が解けてしまったら、できる限り人目から隠してやらねばならない。野生動物なのでむやみに手を出す人間はいないだろうが、見つからないに越したことはない。

「キリカはん、おつかれ。あ、後輩さんもおつかれー」

 色白で小柄な男子生徒が美術室に入ってきた。確か、桐香と同じクラスの生徒だ。

「おこしやすー。模擬裁判、どんな感じやった?」

 男子生徒は「えらいこっちゃでぇ」と言いながら近づいてきた。

 ――模擬裁判に出てたの? この先輩、頭良さそう。

 桃花はひそかに感心した。日本弁護士連合会が催す「高校生模擬裁判選手権」という大会が近年普及し、この洛新高校からも生徒有志が参加している。架空の事件をもとにしつつ実際の刑事裁判と同じように審理が進むという、高度な頭脳戦だ。

「えらいこっちゃって何やの。被告人役の先生が暴れたとか?」

「何でそんなアドリブすんねん。そんなんと違て、スーツ着たえっらいイケメンと、背の高い着物美人が来てはった。何のドラマかと思うた」

 ――あのう、もしかしてその二人は。

 桃花は客たちの様子も見つつ、話に聞き耳を立てた。「スーツ着たえっらいイケメン」だけならまだしも、そこに「背の高い着物美人」が加わるとなると、やはりあの二人しかいないのでは、と思う。

「ぼく、裁判長の役で高いとこに座ってたからよう見えたんや。みんな、最初のうちはこっちやのうて傍聴席のイケメンと着物美人見てはった。おまけに仲良さそうやった。二重につらい」

「ふっ。途中から注目してもらえたなら、ええやん」

「注目、されたでぇ。模擬裁判が終わった時、イケメンに」

 桃花はあることに気づいた。男子生徒が、まんざらでもなさそうなのだ。

「ぼく、最後に講評したんや。『弁護側の生徒が証人を尋問する時の、この論点が基本を押さえてて良かった』とか『検察側のこの主張は論理が飛躍してた』とか」

「ふーん、詳しい人でないとできひん役やな」

「全部終わって会場出る時、そのイケメンに聞かれてん。『君の講評は説得力があった。今の日本以外の裁判制度を学ぶつもりはあるかな』って」

「どういう質問やねん?」

「そやなあ、きっと、法律学の研究者とか、海外で働く弁護士とかになる気はないか、って意味やと思う。『まずは国内の司法制度を学習したいです』って答えといた」

「法律に関わる仕事いうても、色々あるもんやなぁ」

 桃花はもう、確信していた。その男性が何者なのかを。

「『私は今の刑法には明るくないが、この催しは良い勉強になった。ありがとう』ってお礼言わはった。法律の歴史を専門にやってる人なんかなぁ」

 ――晴明さん……。高校の文化祭で、未来の閻魔庁の裁判官を探さないでください。

 くだんの「イケメン」は、晴明に違いない。

 部下の冥官である茜が付き添っているようなので、一応安心ではある。

「糸野さーん」

 同じクラスの男子生徒がいつの間にか美術室にいて、手招きしている。

「あ、西ノ浦君」

「劇のことで連絡や。ちょっとええかな?」

 桃花が何か答える前に、桐香が「行っておいで」と言ってくれた。

「ありがとうございます。すぐ戻りますー」

 客の間をすり抜けて、西ノ浦のいる壁際にたどり着く。

「連絡って、何?」

「かぐや姫が要求する宝物で『火鼠の皮衣』があるやろ? 要求された男がクマのぬいぐるみを持ってきて、かぐや姫が激怒するっていう」

「うん、あれね」

 火鼠の皮衣は、原作である『竹取物語』にも出てくる。名称はもっともらしいが、実在しない品だ。そもそも火鼠という動物自体が、無理難題を用いて求婚者たちを遠ざけようと目論むかぐや姫の創作とされている。かぐや姫が他の求婚者に要求する「蓬莱の玉の枝」なども同様だ。

 なお、クマのぬいぐるみ云々は脚本担当の生徒によるアレンジである。

「ぬいぐるみなぁ、小道具担当の子が用意しててんけど、飼ってる室内犬に噛まれてしもたんやて。画像見せてもらったけど、中身の綿が出てしもてた。スマホ、見てみ? 糸野さんにも送られてるはずや」

「ほんとだ、メッセージ来てる」

 添付画像を見て、桃花は苦笑いした。両耳が破れたクマのぬいぐるみと、首に紙製の看板をかけられた小型犬が写っている。看板には手書きで『私はこのクマを袋から出して、激しく遊びました』とあった。

「ああー……。ワンちゃんだから、仕方ないよね」

 メッセージの本文によれば、クマのぬいぐるみは専門の修理工房に送るらしい。

「そういうわけやし、クマのぬいぐるみから犬のぬいぐるみに変更やて。糸野さんやぼくが出る場面、ぬいぐるみ使うから早めに教えよ思て」

「ありがと、全然問題ないよ。オッケーオッケー」

 桃花は本心から言った。この劇のかぐや姫は月に帰りたくないがために難題を出したり怒ったりするのであって、ぬいぐるみの種類は話の流れとは無関係なのだ。

「ほな、よろしくなぁ。それと、あそこの……絹を使った版画?」

 西ノ浦は壁を指さした。桃花の作ったシルクスクリーンが展示されているあたりだ。赤い楓と黄色いイチョウの葉がモチーフで、額装もしてある。

「まったく同じのが二つあるけど、これはわざと? ぼくの勘違いならごめんやで」

 桃花は両手で口を押さえた。一点しかないはずの作品が、二点ある。

 ――もしかしてこれ、どっちかが化けた子狸? 人間に化けるんじゃなかったの?

 桃花自身は目線の高さに作品を展示したはずだが、それよりも斜め下に、同じ作品があるではないか。腰をかがめて顔を近づければ、かすかに犬のような猫のような匂いがする。

 ――公子さーん! 迷惑はかかってないけど、想定外の事態です!

 何も知らない級友には、単なる手違いだと思ってもらおう――と桃花は決心した。

「ありがとう、西ノ浦君」

 簡潔に礼を言う。西ノ浦が、ああやっぱり伝えて良かったんやな、という表情を浮かべた。

「ほな、もう行くし。また後でなぁ」

「うん、劇がんばろうねー」

「おお、がんばろなー」

 桃花は美術室を出て行く西ノ浦に手を振った。桃花たち一年五組のメンバーは教室で昼食を取った後、劇の上演される小講堂で本番の準備に入るのだ。

「糸野さん、もうお昼ご飯行ってええよ。そろそろ交替要員来るから」

「はーい、ありがとうございますー」

 桃花は先輩に良い返事を返しながら、あやしい方の額を外した。

「あれ、片っぽ取ってまうの? きれいやのに」

「あはは、こっちのは微妙に出来上がりが気に入らなくて」

 笑顔を返し、桃花はミニポシェットから風呂敷を出す。深緑にどんぐりの転がる、秋らしい柄だ。子狸に戻らないように、そっと額を包んだ。



 ともかく、子狸は確保した。鳥に変化した双葉とはどこで落ち合おう、と思案した桃花だが、幸運なことに美術室を出てすぐに晴明と茜を見つけた。

 遊園地の巨大迷路で全体を見渡す時の要領で窓から校庭を見下ろしたところ、三年生のコンテンポラリー・ダンスを見ている観客の中に、赤い訪問着とブラウンスーツが見えたのだ。赤といっても濃い桃色に白と朱の花を散らした上品な意匠で、つい見入ってしまいそうになる。

 校庭に出て観客の方へ走り寄ると、晴明が先に振り向いた。

「さっそく捕まえたか。ご苦労」

「晴明さん、想定外で絵が、絵がいっこ増えてたんです。子狸が人じゃなくて、わたしのシルクスクリーンに」

「落ち着け」

「おつかれさま、桃花ちゃん」

 長身にぴたりと沿った、赤い絹地が艶っぽい。口紅も着物にふさわしい緋色だ。

「こんにちは、茜さん……。ああ、どきどきした」

 茜が風呂敷を受け取ってくれた。中身が子狸だと把握済みのようだ。晴明が結び目をゆるめると、小さな黒っぽい鼻先がのぞいた。ぷるぷると震えている。

 子狸の口がわずかに動く。その声はダンスの音楽にまぎれて桃花の耳には届かなかったが、晴明と茜は視線を交わしてうなずきあった。

「分かるんですか?」

「冥官は聴覚が鋭いからね。それにしてもまあ、困った子たちだこと」

「『たち』?」

 まさか、一匹だけではないのか。

「すでにうまく人間に化けて、巡回中の公子に褒められたそうだ。いい気分になって、今度は物に化けようと兄と話し合った、だそうだ」

 晴明が憂鬱そうに言う。

「人間に化けていれば、いつでも逃げられるものを」

 子狸の鼻先が、しょんぼりと下がる。

「まあまあ。で、君のお兄さんは何に化けてるんだい」

 とりなすように茜が言う。

 しばらくして、晴明が「ふむ」と思案げにうなずいた。

「何、何て言ったんです?」

「兄の方は、茶色い屋根の建物でおもちゃの日本刀に化けた、だそうだ」

「え、茶色い建物ですか?」

「黒い鞘の日本刀が気に入ったので、それに化けたとも言っている」

 茜が、子狸のくるまった風呂敷をあやすように揺らした。

「探すのは難しそうですねえ。大きな物ならともかく日本刀だなんて」

「や、あの、茜さん……。わたし、心当たり、あります。茶色い建物……小講堂は、うちのクラスが劇をやる場所だし……他のクラスの劇は、コスプレしないんです」

 桃花は途方に暮れて、その場にしゃがみこんでしまう。

「どうしよう、お昼ご飯が済んだらすぐ本番なのに」

「ここに冥官が二人もいるじゃないか。お立ちよ、桃花ちゃん」

 茜が手を差し伸べてくれた。とにもかくにも立ち上がる。

「黒い鞘の日本刀が、桃花ちゃんのクラスの劇で使われる、ってことだね?」

 茜が手短にまとめてくれて、桃花は少しだけ落ち着いた。

「そう、しかも腰に差して戦いに使うんです。わたしと同じ月の住人の役で、西ノ浦君って男子が。振り回したり戦ったりするのに、何かあったら……」

「どこかで聞いた苗字だな」

 晴明が反応した。

「以前、猫の里親を見つけてくれた少年か」

「その西ノ浦君です」

 六月のある日の下校途中、式神の双葉から「せいめいさまが、こねこをひろいました」と教えられた桃花は、通りかかった西ノ浦に事情を尋ねられた。すると西ノ浦はその日のうちに、里親が見つかった、とメッセージを送ってくれたのだった。

「西ノ浦君は、あやかしのことなんて知らないから……『君の刀は子狸だよ』って言うわけにもいかないです」

「大丈夫、大丈夫。晴明様もいるんだから、ね」

 茜が肩をたたいて慰める。

 晴明はスーツのポケットからメモ帳を出した。霊山歴史館で土方歳三の刀をスケッチしていた品だ。

「桃花、手のひらを出しなさい。両方」

「また呪符をくれるんですか?」

 疑いもせず両の手のひらを差し出しながら、桃花は聞いた。そこへ晴明の人差し指が一本ずつ線を描いていったので、思わず首をすくめる。わずかに反った、刀身に似た曲線であった。

「くすぐったい! 何ですか今のっ」

「呪符を使わない陰陽術だ」

 それを聞いて、非難する気が失せた。続きが聞きたくて、琥珀色の瞳を見上げる。

「桃花と見た土方歳三の佩刀、大和守源秀國を描いた」

 光点をまとってきらめく刀身を思い出して、桃花の脚に微風が走る。展示ケースの前に立っていた時の、あの感覚だ。

「しばらくは、刀という形相を持った物を自在に操れる」

 ――けいそう、って確か、呪符に使ってたような。性質みたいなもの?

 五月のことだ。

 人間の女性に化けたもののわずかな量しか飲み食いできなかった女神・うつくし御前に対して、晴明は「蚕」の一字を使ってまじないをかけた。桑の葉を大量に食む蚕の形相が、うつくし御前のかわりに栄養を貪るように、と。

「つまり今の桃花は、剣豪だ」

「け、剣豪ですか」

 幼い頃、アニメで見たキャラクターたちが脳裏に明滅する。

 ――二刀流だったり、ちょんまげ結ってたりする、あの人たち?

「獅子王や太郎太刀、どんな太刀も思いのままだ。目にも留まらぬ速さで首を落とすことも可能だ」

 ――すごく物騒な話をしてる! しかも効果は実証済みっぽい!

 しかし晴明の琥珀色の瞳は、自慢げに輝いている、ような気がする。

「待ってください、そういう役じゃないですから。だいたい、子狸を捕まえるのに関係あるんですか?」

「あるとも。刀を差して行動する役ならば、刀をうまく扱えるようになっていた方がずっとうまく動ける」

「要するに自分で考えて動くしかないんですね……。術はちょっと助けになるだけで」

「物を隠す術はあるが、桃花には負担が大きすぎる。自分で工夫しなさい」

 晴明は遠くへ視線を投げた。

「公子もこの校内にいるから、事情は伝えておく。早く風呂敷を持って、昼食を食べに行きなさい」

 茜が抱えている風呂敷包みに、晴明が手を差しこむ。すぐに引き出されたその手が握っていたのは、信楽焼の小さな狸の置物であった。丸い腹や、手に持った徳利がつやつやと光っている。

「もっと別の物に変化させましょうよ、晴明様。それを剥き出しで持ち歩いてたら妙ですからね。ほら三角袋」

 茜が自分の巾着からMの字に似た布袋を取りだして、信楽焼の狸を入れた。長い部分を結び合わせると、三角形の手提げになる。

「助かる。狸から狸の置物へ変化させる方が楽なので、ついな」

 ――ああ、茜さんがいてくれて良かった。晴明さんが「可愛い信楽焼の狸を持って歩く目立ちすぎるイケメン」になるところだったもの。

「桃花、早く持っていきなさい。おもちゃの刀なら包める大きさだ」

「あっ、はい」

 風呂敷を桃花に渡すと、晴明は自然な動作で三角袋を茜から取り上げた。

 ――今の晴明さん、現世の人っぽい! 女性の荷物を持ってあげる優しいイケメンに見える!

 指南役として大いに褒めてあげたかったが、早く行かねば弁当を食べる時間がなくなってしまう。桃花はどんぐり柄の風呂敷を抱きしめて、教室へ駆けだした。



 紅白の提灯が連なる外廊下を通って、校舎に入る。窓や壁には生徒たちの描いた茅の輪、餅花、招き猫など、祝祭と四季がないまぜになった空間を演出している。

 幼い子どもを連れた父兄や、大学生らしき若者たちの姿も、本来ここにはないはずの存在だ。

 ――まるで、外の世界が学校に混ざりこんできたみたい。

 入り口に黒い幕のかかった教室から「きゃあっ」「おわあ」と悲鳴が聞こえてきた。

 他のクラスが主催する、お化け屋敷だ。《ぜんぜん怖くないお化け屋敷だよ!》と看板を掲げているのは、額に大きな目を描いて僧の格好をした男子生徒だ。どうやら三つ目小僧の扮装らしい。隣では、狐のお面を側頭部に着けた女子生徒が「いらっしゃーい」と可愛い声で客を勧誘している。

 その隣の教室は《どうぶつカフェ》だ。開いた入り口からワニの覆面を被ったウェイターが顔を出して、桃花は「ひゃっ!」と後ずさる。

「すいません。足、ひねってへん?」

 誰かは分からないが、男子生徒らしき声でワニウェイターが謝る。

「ううん。こちらこそ、びっくりしすぎてごめんなさい」

「うはは、びっくりさすのが狙いやし、ええよ」

 寛大なワニである。いや、おそらく同じ学年の男子の誰かなのだが。

「がんばってね、どうぶつカフェ」

「おおきに!」

 桃花と名前の分からないワニウェイターは、手を振り合って別れようとする。すると教室から馬の覆面を被ったウェイターが出てきて、

「おいおい、ええなぁ! 五組の子やん」

 とワニウェイターの背中をどつく。

 ――わわわ、わたしのこと知ってた……。『ええなぁ』って何? 

 戸惑いながら、桃花はその場を去る。

 もしや自分は、案外もてているのか――と思った後で、違うだろうなと思い直す。

 美術部以外で男子と話すことはあまりないし、もっと華やかな見目麗しい女子は何人もいる。きっと馬の覆面を被った男子は「他のクラスの女子と話せてうらやましい」くらいの意味で『ええなぁ』と言ったのに違いない。

 ――何か、胸がどきどきしてる。

 異形のウェイターたちのせいだけではない。

 見慣れた学校が、別の場所のように思えるからだ。 

 行き交う見知らぬ人々の波や、教室から聞こえてくる歓声や音楽に胸が沸き立つ。

 浮かれて予定外の物に化けたくなった子狸の気持ちも分かる。

「ぼく、あれ分かるで! 雛祭りの流し雛や。下鴨神社でも、しはるんやろ?」

 小学生らしき男児が声を上げる。

 指さしている絵は、藁の舟に載せられた二体の簡素な雛人形だ。人間の身のケガレを移して水に流す、祓えのための人形である。

「物知りさんですね」

 結った髪に菊の花かんざしを挿した和服姿の女性が、白い手で男児の頭を撫でる。後ろ姿だが公子に違いない。連れている男児は、化けた子狸たちの一人だろうか。

「公子さんっ」

「あっ、桃花さん」

 振り返った公子は笑顔であったが、やや青ざめていた。子狸たちを人里に連れてきて、緊張しているのだろう。

「お、落ち着いて聞いてくださいね。晴明さんも来てくれてますから」

 桃花は小声で顛末を話した。子狸が桃花の作品に化けていたことや、晴明が信楽焼の狸に化けさせたことを。

 最初は不安げに聞いていた公子だが、信楽焼の狸のくだりになると、菊の咲き誇る着物の袖で口元を隠して「あらまあ」と微笑した。

「晴明公、ちょうど良いお灸を据えてくださいましたわ。もう一人のいたずらっ子の行方が気がかりですけれど……」

「公子ねえちゃん、ぼく、たいくつや」

 男児が公子の袖をつつく。公子は「はいはい、着物をいじらないで」と手をつないでやる。小さい子どものいる母親はこういう感じだろうか――と、桃花は公子の気苦労を思いやる。

「公子さん、心配しないでください。晴明さんも茜さんも双葉君も、微力ながらわたしもいますから」

 胸を叩いてみせる桃花に、公子は困ったように笑う。

「本当に、お手数をおかけします。大事な学校行事なのに……!」

 と、公子が一方の手を差し伸べる。

「公子さんこそ、おつかれさまですっ」

 桃花は公子の肩を抱いた。

 がっしりと抱き合う二人に、男児も「なーに? ぼくも」とくっついてくる。

 通りすがりの幼い女児が「お母さん、あのおねえちゃんたち何してはるの?」と尋ねるのが聞こえ、母親が「ええか、あれが青春や」と答えたので、桃花はこんな時だというのに笑ってしまう。

 祭りのテンションで、桃花自身も多少は浮かれているのかもしれなかった。



 一年五組の『現代版・竹取物語』は、順調に、時おり脱力系の笑いを惹起しながら進んでいく。

 かぐや姫を見出した竹取の翁が、動転して「おまわりさん、迷子が!」と叫ぶ。

 成長したかぐや姫に振り向いてもらえず思い悩んだ少年が、「せめてかぐや姫の入っていた竹をください!」と竹取の翁に懇願して「変態め」と叩き出される。

 舞台袖で一緒に見守っている男子の一人が「竹をくれって、何のフェチやねん」と小声で突っこみ、他の級友たちが抑制された鼻息で笑う。

 しかし桃花にとっては、西ノ浦の所在の方が気になる。

 ――西ノ浦君、まだ二階で照明の手伝いしてるのかな……。

 着々と舞台は進む。

 月夜を表す青い照明が降りる中、かぐや姫一家の住む日本家屋に何者かが近づく。

 スーツを着て髪を固めた男子生徒だ。服装だけでなく、バッグも会社員風である。

 女子生徒によるナレーションが流れる。

『かぐや姫の気を引こうと、社長は夜の庭先で笛を吹きました。古来、貴族の男子が女性を口説くために用いたメソッドです』

 社長役の生徒が取り出したのは、授業で使われるアルトリコーダーであった。生真面目な顔で吹きはじめたのは、正月のBGMでおなじみの『春の海』だ。

 客席のあちこちから、じわじわと笑い声が漏れる。

「貴族のメソッドやのに、現代人がやると不審者やわぁ」

 ぼそりと女子生徒がつぶやき、また舞台袖にひそやかな笑いが起こる。

 だが、桃花にとってはサスペンスドラマを見ている気分だ。

 西ノ浦が階段で舞台袖に下りてきた時には、心臓がばくんと跳ねた。

「あれ、西ノ浦君て、二本差しやったっけ?」

 別の男子が西ノ浦に尋ねた。弓道部から借りたという西ノ浦の袴には、鞘の黒いおもちゃの刀が二本差さっている。

「いや、昼飯の後で小道具置き場見たら、黒いの二本あったんや」

「増えた? んなわけないよなぁ」

「もともと、演劇部の倉庫に長年溜まってる刀の山を丸ごと借りてるやん? どっかからもう一本出てきたんちゃうかな」

「あー、倉庫はカオスらしいからな。刀狩りしたみたいにぎょうさんあって」

 刀の話はそこで終わったので、桃花はひとまず自分の役に没入する。

 ――だって、出番がもう迫ってる。

 月の住人Aは、地上でさんざん駄々をこねたかぐや姫を叱責する役どころだ。

 ――台詞はちゃんと覚えてる。『かぐやさま、ありもしない宝物など要求して、地上の男たちを困らせましたね?』っていう一言だけ。

 かぐや姫は屏風の陰からぬいぐるみを出し、怒る。「だって、あの人たちだってずるいもん。火鼠の皮衣を持ってこいって言ったら、これを送ってきたんだもん」と。

 ぬいぐるみを見て、かぐや姫を取り巻く武士たちも怒りだす。「かぐや姫を愚弄しおって。無理やり連れて行こうとするお前らも同類じゃ」と。

 そこで西ノ浦が扮する月の住人Bが「八つ当たりではないか! もう許さんぞ」と言いながら抜刀する。あわや乱闘、となったところで帝が仲裁に入る――という筋書きだ。

 ――もし西ノ浦君の刀が子狸に戻ったら、どうしたらいいの? 何かの拍子に変化の術が解けてしまったら……。

 自分の腰にベルトで固定してある、赤い鞘の刀に触れる。

 ――そうだ、晴明さんの術で、今のわたしは剣豪なんだ! この刀にパッと子狸を乗っけて、天井の照明器具へ放り上げる……なーんて、うまく行くわけないよね。

 そわそわと髪のリボンや衣装のフリルをいじってみても、妙案は浮かばない。

 考えているうちに、舞台に黄色や赤の光が乱舞して、派手な音楽が流れる。月の住人たちが地上を急襲する場面が来てしまったのだ。

 ――んーっ、何とかなぁれっ。

 やけ気味に祈ると、他の生徒たちとともに舞台へ駆ける。自分の立ち位置は、観客から見て中央からやや左。目印の蛍光テープのおかげですぐそれと分かる。

 桃花は目印の上に立つと、胸を張って声を出した。

「かぐやさま、ありもしない宝物など要求して、地上の男たちを困らせましたね?」

 ちゃんと台詞が言えた、と安堵した桃花は、かぐや姫が出してきたぬいぐるみを見て驚愕した。

 西ノ浦から聞いていた通り、犬のぬいぐるみだ。犬では、あるのだが。

 ――ぬいぐるみの顔が、怖い! しかも大きい!

 全体的に茶色い、垂れ耳の犬であった。鼻面は黒く、顔には筋肉を連想させる深い皺が寄っている。武士たちの間から、台本通り怒りの声が上がった。

 ――土佐の闘犬……?

 桃花は思い出した。狸は猛犬が非常に苦手だ、とどこかで聞いたのを。

 ガチャガチャン、と激しい金属音がする。西ノ浦が腰に差した刀の、一方だけが狂った時計の秒針のように跳ね、空中に飛ぶ。

 ――子狸! 変化は解けてないけど、逃げちゃった……!

 桃花は、放物線を描く刀へ手を伸ばす。晴明が術をかけてくれた、自分の手を。

 パシリと音を立てて、黒鞘の刀の柄が左手に収まった。そのまま動きを止めず、右手で自分の刀を抜く。

 ――西ノ浦君の台詞、まだ出てないっ。言わなきゃ!

 舞台を持たせなければ、と思う。桃花は二刀を武士たちに向けた。

「や、八つ当たりではないか! もう許さんぞ」

 アドリブで桃花の発した声に、武士たちがひるむ。客席から拍手が上がる。

 ――今のわたし、無駄にかっこいい……!

 頬が熱くなった時、西ノ浦の「許さんぞ!」という怒号が響いた。二人に呼応して、武士たちが台本通りに鬨の声を響かせた。

 ――西ノ浦君、うまくつないでくれた!

 一瞬、桃花と西ノ浦の視線が交錯する。

 そして、帝登場の前兆である紫の光線と、雅な音楽が舞台を満たしはじめる。

 一時のハプニングはあったものの、今やすべては台本の流れ通りだ。桃花は舞台袖へ退場しながら、黒鞘の刀を胸に抱いた。

「糸野さん、ナイスフォローや。西ノ浦君のミスをきれいに生かさはった」

 舞台袖に入った直後、舞台監督の男子に褒められて「へへ」と笑う。

「みんな、ごめん。糸野さん、おおきに」

 ぺこり、と西ノ浦が頭を下げる。桃花たちが「どんまい」と応じる。

「西ノ浦君も、うまく立ち直らはった。あの『許さんぞ!』、かっこよかったでぇ」

 励ます舞台監督と、西ノ浦が握手をする。

 音楽にまぎれて、胸元から「ごめんなさい」とかすかな声が聞こえた。



 長かった一日を終えて家の玄関に入ると、「お帰り! 鍋だけ先に始めてるよー」と父親の良介の声が聞こえた。

「ただいま。みんな、居間にいるの?」

 果たして、居間のテーブルとソファに大人たちが勢ぞろいしていた。

 満面の笑みを浮かべている父親の良介と、母親の葉子。

 そして、無表情なのが逆に怖い晴明。三毛猫のミオは、座布団で寝ている。

 卓上には湯気を立てる土鍋と、グラスに満たした日本酒が並んでいた。今夜は鶏の水炊きらしい。

「演技かっこよかったでえ、桃花!」

 拍手しながら母親の葉子が言う。

「すごかったなあ、あれ、事故だよな? 男の子が弓道の袴に二本も無理に差してるから、危ないと思ってたんだ」

 父親の良介は賞賛と心配が混じった言い方だが、やはり笑っている。

「あんまり言わないでよっ、あの後、大変だったんだから」

「ほう、大変とは?」

 晴明がしれっと言った。劇の後、ひと気のない場所で変化を解いた子狸はどんぐり柄の風呂敷にくるまれ、双葉に託されたのだが――大変とは、そのことではない。

「演劇部の女子には『うちらの部に来てえな』って誘われるし、他の女子には『ナイス』ってハグされるし、もう、恥ずかしかった……」

 自分もソファに座り、「ジュースちょうだい」と足をばたつかせる。

「はいはい、かぐやさま。いや、月の剣豪だっけ」

 笑いながら良介が席を立って隣のキッチンへ行き、冷蔵庫からオレンジジュースの瓶とグラスを持ってきた。桃花は頬をいっぱいに膨らませてから「ありがとう」と受け取る。

「撮影したかったな」

 晴明が、日本酒のグラスを口に運びながら言った。

「とても面白い劇だった」

「うーん晴明さん、ぼくらも撮りたかったよ。でもあんな可愛い姿が外部に流出するのは防犯上よろしくないからねえ。学校が撮影禁止にするのも分かる」

 眉を八の字にしながら、良介が応じる。

「良介さん、副菜が焼ける頃やし、手伝うて。ウィンナと舞茸のオイル焼き」

 葉子がキッチンへと向かいながら、良介を手招きする。食欲を揺さぶる匂いが漂ってきた。

 ――うちの家族ってよく食べるなぁ、ほんと。

 桃花は眠るミオに手を伸ばし、起こさぬよう優しくなでた。ほっとする手触りだ。

「ご苦労だったな、桃花」

 両親がキッチンで作業を始めた頃合いに、晴明が言った。

「公子と子狸たちは、詫びの代わりに文化祭に招待してくれるそうだ」

「狸のですか?」

「狸の」

 短くおうむ返しをした晴明は、そこで初めて笑った。

「行きたいです」

「よし」

 油をまとったキノコの蠱惑的な香りが強くなる。両親を手伝おうと、桃花は席を立って廊下に出た。

 ――楽しめたんだ、晴明さん。面白い格好は見られちゃったけど、やっぱり来てもらって良かった。

 キッチンでは、出来立てのオイル焼きがオーブンから出されるところだった。

「彩りが足らへんな。桃花、冷蔵庫から蒸し野菜出して。量は飯碗に山盛りくらい」

 葉子の指揮に従い「りょうかーい」と冷蔵庫を開ける。小房に分けたブロッコリーとカリフラワー、そして輪切りのニンジンが保存容器に入っていた。

「お母さん、ニンジンだけ半月に切って、クレイジーソルトからめたらどうかな?」

「ええやん。お願いするわ」

「何か手伝おうか?」

 晴明の立ち上がる気配を感じて、桃花は「ううんっ」と声で制する。

 ――晴明さん、料理は茜さんに頼りきりじゃないですかっ。危険すぎます。

「指切ったら大変だから、慣れない人は座っててください!」

「こらこら、桃花。失礼なことを」

 良介が駄目出しをする。

「それに晴明さんの世代ならもう、男子も家庭科で調理実習を受けてるはずだ」

「あ、ごめんなさい」

 ――お父さん。ほんとは晴明さんの世代、家庭科なんてないよ。

「晴明さんはお客さんやから、ええんやで!」

 葉子が、ごく真っ当な理由を居間に向かって投げかけた。

「でも、ミオが鍋を狙わへんように見張っててくれたら嬉しいわぁ」

「分かった」

 ミオの眠たげな鳴き声が上がった。自分の名前が聞こえたので起きたらしい。

 輪切りのニンジンを半月切りにしながら、桃花はふと想像する。

 料理を運んでくる家族たちにしっぽを立てて近づくミオ。これは人間の食事だと話しかける自分や両親。そしてミオを押さえる晴明。

 日常に晴明が溶けこんでいる今を、良い思春期だ、と思う。

 ――うん。全体的に、良い思春期。

「あのね、突然だけど」

 両親が、作業しながら「ん?」と応える。

「一年五組は、いいクラスだよ。前から少しはそう思ってたけど、今日確信した」

「そうか、そうか」

 良介が嬉しそうに、オイル焼きの大皿を盆に載せる。

「晴明さんにも言うたげや。桃花が帰ってくるちょっと前、『桃花はクラスではどうだろう』って聞いてきはったから」

 葉子の言葉に驚いて、桃花の手が止まる。

 心配いらないのに、とも思い、なぜか恥ずかしいとも思う。手のひらに刀を描かれた時よりも、くすぐったい気持ちであった。


第十六話・了