Prologue



 淹れたての紅茶のカップ片手に、飾り気のないメモ帳に神経質なまでに整った文字で書かれた四つのルールを私は見つめた。


 1.互いの部屋には入らない

 2.共同生活に関わることは一人で判断しない

 3.本当の夫婦でないことは他言しない

 4.どちらか一方の申し出により、いつでも関係を解消できる


「本当にこれでかまいませんね?」

 秀二さんが何度も念を押してくるので、だから私は何度も頷く。

「ばっちりです」

 たった四つのルール。私がここにいてもいい証。両手で胸に抱きしめて、ステップを踏みながらくるくる回りたい気持ちになってくる。

 ほんの数日前まで絶望のまっただ中にいたっていうのが信じられない。

 秀二さんはそんな私をメガネの奥から観察しつつ紅茶をすすり、やがてカップを置いた。

 ダイニングテーブルを挟んで向かい合っていた私たちは視線を交わし、ちょっとだけまじめな空気になって姿勢を正す。

「それでは、このルールでやっていくということで」

 そして、どちらからともなく頭を下げて。


「よろしくお願いします」


 かけた声が重なり、こうして私たちの生活がスタートした。



1.花咲く紅茶 〈Shalimar Tea〉



 駅を降りたそこは南国だった。

 強い日差しと潮の香り、そして私を見下ろす椰子の木。梅雨が明け、すっかり夏を迎えた七月初旬の東京よりも気温は高そうだが、海が近いからか通る風は心地いい。

 電車に乗ること三時間ばかし。自分はどこに来たのだっけと考えて、白壁にオレンジ色の屋根という南欧風の二階建ての駅舎をふり返る。

『JR館山駅』

 房総半島の最南端。そんなに遠くに来たつもりはなかったのに、気持ちはすっかり異国に到着したときのそれになっている。

 ショルダーバッグを肩にかけ直し、スーツケースの持ち手を掴む。時刻は午前九時前。ともかく、と自分自身に言い聞かせるようにして一歩前に足を出し、駅前のロータリーを抜けて一本道を歩きだす。二車線の道路は整備されていて、ヨーロッパ風の街灯と椰子の木が等間隔で立っている。

 ……まさか、昨晩部屋を出たときには、椰子の木を見ることになるなんて思ってもみなかった。

 スーツケースを転がしながら駅舎を背に歩いていくと、数百メートルも行かないうちに視界が開ける。

 海だ。


 少ない荷物をスーツケースに詰め込み、部屋を飛び出したのは昨日の午後十一時過ぎのことだった。

 美容室でアシスタントをやっていてまだまだ見習いの身の私は、練習のため閉店後も店に残っていることが多い。けどその日は、ビルの配電設備に異常があったとかで早々に帰らされることになった。

 サロンのオーナーで同棲もしている敦久さんはオフだったし、久しぶりに部屋でゆっくりするのもいいかもしれない。なんて思いながらマンションに到着し、玄関のドアを開けたら。

 玄関先で、なんとなく見覚えのある女の子がパンプスに足を通していた。

 ――あれ、お帰り早いですね。

 私が何も言えないでいると、「おじゃましましたー」と彼女は明るく去っていき、あとには私と廊下に立っている敦久さんだけが残された。

 ――誰?

 そう訊いてから思い出した。いつも敦久さんを指名しているお客さんの一人だ。

 ――誰でもいいだろ。

 ――よくないし。何してたの?

 ――見ればわかるだろ。

 さも面倒そうに言った敦久さんの髪はらしくないくらい乱れに乱れていて、確かに見ればわかる状態だった。

 ――もう寝るから。

 そうこちらに背を向ける敦久さんのTシャツを私は掴んだ。

 ――ほかに言うことないの?

 けど、謝罪どころか言い訳の一つもなかった。

 ――ここは俺の部屋だ。文句があるなら出てけ。

 そういうわけで、言われたとおりに荷物をまとめて部屋を出た。

 近所の漫画喫茶でどうがんばっても落ち着かない感情を持て余して一睡もできず、どこかへ行こうと思い立って翌朝午前五時台の電車に乗り、とりあえず東京駅を目指すことにして品川駅で快速電車に乗り換えた。漠然と遠くに行こうと決めた結果、東京駅に行けばどこにでも行けるような気になったのだ。

 ――なのに。

 通勤ラッシュにはまだ早く、品川駅からの列車は空いていて、シートに腰かけた瞬間に見事に爆睡、気づいたときには終点・君津駅に到着していた。聞き慣れない駅名に地図アプリで確認すると、東京湾沿いを走りに走って、房総半島のまん中くらいまで南下していたことがわかった。ならいっそこのまま南下し続けようとすぐに心は決まり、君津駅からさらに南へと向かう、銀色に黄と青のラインが入った車両の内房線の各駅停車に乗り換えて。

 到着した終点がここ、館山だった。


 重たい鈍色の東京湾の海は見慣れていたけど、ここの海はそれに比べると格段に青かった。潮風に運ばれた砂が歩道のすみに吹き溜まり、スーツケースのキャスターがじゃりじゃりと音を立てる。ここは本当に同じ関東なんだろうかと考えてから、頭上の高いところで揺れている椰子の葉を見上げた。ここは違う関東だ。

 肌を焦がす日差しの下、にわかに気持ちが昂ぶってくる。漫画喫茶を出てから四時間も経たずに、望んでいたどこか遠くに辿り着いた達成感で震えた。やればできるじゃないかと、電車で寝ていただけの自分を褒めたくなってくる。

 地図アプリを見ると、館山駅は房総半島で一番南の駅ではあるが、房総半島の南端ではないことがわかった。それならと、このまま房総半島の南端を目指すことに決めた。気分はハイで無双で、今ならなんでもできる気がする。下ろしていた長い髪を高いところで結んで気合いを入れた。

 海沿いの道をひたすら行けばいいとわかり、音を立ててスーツケースを転がしながら歩きだす。渚の駅たてやまを通過し、ずらりと並んだ漁船を横目に進み、途中のコンビニでパンとペットボトルを購入し、黙々と足を進めていくとやがて『房総フラワーライン』という看板が現れた。海沿いのドライブコースで、これを進めば南に行けるらしい。右手には海、左手にはこんもりと茂る山。天竺を目指す孤高の冒険者みたいな気分で、ともすれば蘇ろうとする記憶をふり払うようにただただ足を動かしてく。


 敦久さんに出会ったのは、美容専門学校時代の研修だった。

 実際のサロンで研修をするというもので、そこで私の担当になって色々教えてくれたのが彼だ。歳は十個上。研修の最終日に連絡先を訊かれて、後日こんな連絡が来た。

『卒業したら俺のところでアシスタントやらない?』

 独立して自分の店をかまえるので、使えるスタッフが欲しい。研修で見込みがあるように思えたから、と。

 人と接するのが好きだとか、人の髪をいじるのが好きだとか、色んな理由はあれど私が美容師を目指した一番の理由は手に職をつけたいからだった。手に職をつけ、独り立ちしたいとずっと願ってた。

 そんな独り立ちへの過剰なまでの憧れの反動に違いない、自分のサロンをかまえるという彼がとても魅力的に映ったし、誘いの文言も私の自尊心をくすぐった。彼のサロンは私が当時暮らしていた母のマンションからは少々遠く、「それならうちで一緒に暮らせば?」と言ってくれたこともまた私を舞い上がらせた。これで家を出られる、独り立ちができるんだと。

 そんなわけなかったのに。


 ……歩き続けてどれくらい経っただろう。

 やはり何事にも限界はあると痛感した。アドレナリンだけで歩くのはもう無理。

 太陽が頭の真上に昇った頃、足の痛みにギブアップした私は丁度到達した砂浜で足を止めた。途端に汗が噴き出して止まらなくなる。

 岩場が多くサーファーには人気がないのか、その砂浜には人っ子一人いなかった。スーツケースを砂の上に倒し、海面に突き出した平たい岩に腰かけてスニーカーを脱いだ途端、足がズキズキと痛みだす。

 足の裏の皮が盛大に剥けているのを見るなり南を目指す気持ちはすっかり萎え、ただただ自分が何をやっているのか問うてみるも、答えは考えたくもない。

 唯一確かなことといえば、どこまで行ってもここにあるのは房総の海で、天竺じゃないということだけだ。

 ふいに存在を思い出してショルダーバッグからスマホを取り出すと、サロンからの着信がいくつもあってますます現実に引き戻された。メッセの通知も複数あり、そこに敦久さんの名前を見つけて瞬間的に身体が強ばる。

 ……どんな顔でどんなメッセを送ってきたんだろ。

 一緒に暮らし始めたばかりの頃はよかった。でも仕事は忙しくて実務経験のない私にはわからないことも多く、練習に時間を割くことが増えるようになると、すれ違うことが増えて会話は減っていった。私は使えない新人で、彼はオーナーだししょうがない。もっと腕を上げて余裕ができれば、関係もまた変わってくるだろうって信じてたのに。

 ――文句があるなら出てけ。

 ふざけんな、と思った直後、考えるよりも先に手にしていたスマホを海に向かって投げていた。

 波音に紛れ、スマホが着水する音は聞こえない。

 波間に沈んでいく端末の姿を想像し、防水機能ついてたっけ、などと考えてから両膝を抱える。

 とんでもなく惨めだった。私はカッコいい冒険者でもなんでもない。

 砂にまみれたスーツケースが視界のすみに映る。遠くに来て、スマホを海に捨てて。

 これからどうしよう。

 膝を抱えたままじっとしていると、剥き出しの肌がじりじりと焼けていく音が聞こえるようだった。日傘を部屋に置いてくるんじゃなかった。このままここにいるくらいなら、当初の目的だった房総半島最南端を目指すくらいした方がマシだと思う反面、疲れた身体は動くことを拒否してる。

 太陽に焼かれつつ、くり返す波音の中で動けないまま、どれくらい経ったかわからなくなった頃だった。

「自殺でもするんですか?」

 背後からそんな言葉をかけられた。


 ふり返ると、数メートル離れた砂浜の入口に、青いスクーターに跨がったハーフタイプの黒いヘルメットをかぶった男性がいた。

 歳は二十代後半くらいだろうか。銀縁メガネ。ヘルメットからは、一度も染めたことのなさそうな黒髪が見えている。手足の長いすらりとした痩身で、襟つきの黒い半袖ポロシャツとジーパン姿だ。買い出しの帰りなのか、スクーターの後部には段ボール箱が括りつけられている。

 男は焦れたようにメガネの奥で切れ長の目を細め、同じ台詞をくり返す。

「自殺でもするんですか?」

 数秒遅れて気がついた。訊かれているのは私だ。

「しません……自殺なんてしません! なんで私が、」

「この暑い中、駅からここまでふらふら歩いてきて、挙げ句海を見つめてぼうっとしてますよね。自殺志願者だと思われても文句は言えないと思いますが」

「どうして私が歩いてきたってわかるんですか」

「行きに歩いているところをすれ違いました。で、帰ってきたらここにいたというわけです」

 行動を観察されていたようでたちまち居心地が悪くなる。

 ――それにしても。

 自殺志願者だと思われる私に対してなんなんだと言いたくなるくらい、その口調には棘がある。ただでさえささくれ立っていた心に最適な話し相手とは言い難い。

「房総半島の南端に行きたかっただけです。放っといてください」

「南端? あと何十キロ歩くつもりです?」

 言葉に詰まった。そんなに距離があるとは思ってもみなかった。

 男は訝しげに眉根を寄せ、「本当に自殺しませんか?」としつこく訊いてくる。

「しませんったらしません」

「ならいいです。店の近くだと困るので」

 男は私から興味を失ったらしい。道の方に視線を戻すと、スクーターのハンドルに手をかけた。私は素足のまま慌てて立ち上がり、今にも走り去りそうな男に質問する。

「あの、店ってなんのお店ですか? もしかして食堂か何かですか?」

 男は山の方を仰ぎ見て、それから私に視線を戻した。

「喫茶店です」

 男が気のない返事をした瞬間、私の腹の虫が鳴る。時刻はとうに正午を回っていた。


 男の店は砂浜から徒歩数分の場所にあった。雑木林と民家と畑が点在する緩い上り坂の途中にある、二階建ての木造古民家。ここが何かしらの店だとわかるような看板などは一切ない。

「開店前なので何もありませんよ」

 スクーターを軒先に停めながら私の疑問に答えるように男は説明し、荷台の段ボール箱を片腕で抱えると、ジーパンのポケットから取り出した鍵でドアを開ける。

「絶対に砂を払ってから入ってください」

「絶対に」を強調した男に姿勢を正して頷くと、私は穿いていたパンツやスーツケースの砂を払ってからそっと中に踏み入った。

 わずかに渋みのある、香ばしくも清々しい匂いが鼻を突く。

 ……ハーブ?

 橙色の温かな明かりを落とす吊り照明。リフォーム済みなのか外見に比べて内装は整っており、年季の入った色の柱や梁が照明を反射して目を惹いた。フローリングのフロアの端には、ビニールカバーがかかったままのテーブルと椅子が寄せられ、段ボール箱が乱雑に積み上がっている。そしてフロアの半分を占めるカウンタースペースの奥で、男は抱えていた段ボール箱の中身を出した。

「適当に座っててください」

 店の中は冷房がきいていてたちまち身体の表面が冷えた。スーツケースを壁際に置き、カウンターのスツールにそっと腰かける。

「あの、お代は払いますので!」

 そう申し出た私に男はメガネの目を向ける。

「当然です。あと、なんでもいいから食べさせてほしいとのことでしたので、メニューは選べませんよ」

「食べ物の好き嫌いはないので問題ありません!」

「観光客なら鮨屋でも行けばいいのに……」

 男はぶつぶつ言いながら私に背を向けると腰巻きのエプロンをつけ、奥にある業務用の大きな冷蔵庫からハムやレタスを取り出して手早く準備を始めた。それから、小さなやかんでお湯を沸かし始める。

「手慣れてますね」

 男はカウンターから身を乗り出して観察している私に目もくれず、ついでに返事もくれなかった。耳つきの食パンを定規で測ったような綺麗な正方形にカットし、ハムとレタスのサンドイッチを作っていく。そしてお湯が沸騰したやかんの火を止め、カウンターの背後の棚から透明なガラス製のティーポットを出した。そこで初めて、私は奥の棚に円柱型の銀色の缶がずらりと並んでいることに気がつく。

「それ、もしかして全部紅茶ですか?」

「ここは紅茶の店ですから」

 思いもかけずなじみのない世界に踏み込んでいたことがわかって胸が高鳴る。

「紅茶のお店なんて初めて!」

「お好きな茶葉などありますか?」

 男の質問に訊き返す。

「メニューは選べないんじゃなかったんですか?」

「紅茶は選べます」

 そうなんだ、とは思うも選べるほどには詳しくない。目を凝らしたものの、缶に貼られているラベルの文字は判読できなかった。

「お任せします!」

 男は考えるようにメガネの目を細め、それからとある缶を手に取った。缶の蓋が開いた瞬間、乾いた茶葉の香りがふわりと広がる。

 店内に満ちている香りは紅茶のものだったんだ。

 男は沸かした湯でポットを温め、小さなスプーンですくった茶葉を透明なティーポットに入れると素早く蓋をして砂時計をセットする。その間にサンドイッチをこれまた正確に切り分け、皿に盛りつけると私の前に置いた。

 なんだかんだできちんと接客されていることに気がついて、急に申し訳なくなってくる。

「すみません、一方的に押しかけたのに」

 恐縮した私に男は呆れたような目を向けたものの、やがて表情を緩めた。

「軽食程度ですのでお気になさらず」

 クールな目元に控えめではあるが笑みが浮かんでいる。冷たい感じの人かと思いきや、意外といい人なのかもしれない。

 改めて男の顔をまじまじと観察する。メガネの奥の目は切れ長で、派手ではないが鼻筋が通った整った顔立ちをしており貴族っぽいと思った。貴族に会ったことなんてもちろんないけど、姿勢がよく立ち居ふる舞いが洗練されていて、どこか浮き世離れしているというか。いかにもオフって感じの今のカジュアルな服装も悪くはないけど、燕尾服みたいな正装をさせたらすごく似合いそうだ。身長は一七五センチくらい?

 砂時計の砂が落ち切ると、ガラス製のティーポットの中はすっかり色が変わっていた。男は今度は白い陶器のティーポットを用意し、茶こしを使いガラス製のティーポットの中身を注いでく。無駄のない身のこなしで手際がよく、優雅さすら漂っている。

「ティーポット、二つも使うんですか」

「最初に使ったのは蒸らし用です」

「紅茶って、ちゃんと淹れると意外と手間がかかるんですね」

 私の言葉に男は顔を上げた。

「新鮮で良質な茶葉を使う。ティーポットを温める。茶葉の分量を量る。沸騰した瞬間の熱湯を使う。茶葉を蒸らす間、ゆっくりと待つ。――ゴールデンルールを守ろうと思えば、それなりに手間はかかって当然です」

「ゴールデンルール?」

「おいしい紅茶の淹れ方ってことです」

 こうして白いティーポットとカップが私の目の前に置かれた。

 ティーカップの内側は飾り気のない白で、外側はティーソーサーと揃いの繊細な花柄が細い線で描かれている。カップには淹れたての紅茶が注がれ、ティーポットには保温のための布製のカバー――男は「ティーコジー」と呼んだ――がかぶせられる。

「ダージリンティーです。セカンドフラッシュと呼ばれる夏摘みのものになります」

 白いカップに注がれた紅茶は、透明感のある濃い橙色をしていた。

「ダージリンは知ってますけど、夏摘みなんてあるんですね」

「ダージリンは摘む季節によって味も香りも変わります。セカンドフラッシュには独特の甘みがあるのが特徴です。緑茶でも新茶など季節によって違いがあるでしょう?」

「確かに。そういえば、緑茶と紅茶って同じ葉っぱからできてるんでしたっけ?」

「そうです。緑茶は無発酵茶、紅茶は発酵度が八〇から一〇〇パーセントの完全発酵茶のことを指します」

「すごい、詳しいんですね」

 男の蘊蓄に素直に感心してカップに鼻を近づけ、そっとひと口飲んでみる。たちまち口の中に広がった香りはほんのりと甘く、そして渇いた喉に嬉しいさっぱりした味わいに思わず声を上げた。

「おいしい!」

 予想外に大きく響いた自分の声に恥ずかしく思ったが、男は気にした様子もなく「ならよかったです」とクールに応えた。

 紅茶のおいしさにひとしきり感動すると、身体の奥が温まったせいか段々としみじみした気分になってくる。

「こんな風にゆっくりお茶を飲むなんて久しぶりです。ずっと忙しかったし……」

 男は腰のエプロンを外し、自分の分のサンドイッチなどを盆に載せると私の二つ隣の席に腰かけた。定規でも入れたように背筋はまっすぐに伸びている。私も姿勢を正し、その涼しい横顔に話しかけた。

「あの、この辺ほかにお店もなかったし、ここでランチいただけて本当に助かりました。えっと――」

 私の疑問を先回りするように、男は自ら名乗った。

「佐山秀二です」

 なので私も名乗り返す。

「行木あやめです」

 どうぞよろしく、などと言い合うのはなんだかおかしく思え、それ以上は口には出さず、代わりに私たちは示し合わせたようにティーカップに口をつけた。


 お腹も満たされ、すっかり寛いでしまった。紅茶のお代わりまでもらった私に、カウンターの向こうに立った佐山さんが訊いてくる。

「本当に房総半島の南端まで歩いて行くつもりだったんですか? 南端だと野島埼灯台ですが、ここから二十キロくらいありますよ」

「え、そんなにあるんですか!?」

 アプリでざっと地図は見たものの、ハイで無双だった私は海沿いの道を行けば辿り着くのを確認しただけで縮尺までちゃんと見ていなかった。そして、その地図アプリの入ったスマホはもう海の底だ。

「房総フラワーラインっていうの、ひたすら歩いていけば行けるかなーって思ったんですけど……」

「この辺りはまだ歩けますが、もう少し先に行くと歩道はほとんどありません。本数は少ないですがバスに乗るか、いっそタクシーを呼んだ方が確実です」

「その、そこまでして行きたいわけじゃないというか……」

 房総半島の南端に行ったところでどうせ天竺はないし。

「それなら駅に戻ったらどうです? 少し待ちますが近くのバス停から駅に行くバスがありますし、暇なら城山公園でも行ったらいいですよ。天気もいいし、城からの眺めもいいんじゃないですか?」

「へぇ、お城なんてあるんですか!」

「館山城です。……あなた、本当に何しにここまで来たんですか?」

 ここに来る観光客なら誰でも知っているような観光地だったらしい。何をしに、と問われても答えようがない。

 それに駅に引き返したところで、どうしようもないことには変わりないし。行きたいところも戻りたいところもない。母が暮らしているマンションに行くことも考えたけど、新しい彼氏に鉢合わせしそうで気が進まない。かといって長期間ホテルなどに腰を落ち着けられるようなお金の余裕もないし……。

 そのときだった。ボコッという鈍い音がどこかから聞こえてきてビクついた。

「――またか」

 舌打ちでもしそうな苦々しい面持ちで、佐山さんはカウンターを飛び出して店の奥へ駆けていってしまう。

 ……なんの音だったんだろう。

 乱雑な店の中に一人残され落ち着かないまま座っていたが、すぐに私も席を立った。何かトラブルかもしれないし、と好奇心に言い訳しつつ、開けっ放しになっている店の奥のドアから中をそっと覗いてみる。

 ドアの向こうには狭い三和土があり、佐山さんのスニーカーが脱ぎ捨ててあった。

「佐山さーん……」

 呼びかけてみるも返事はない。

 半開きのドアから中に入って私もスニーカーを脱ぎ、軋む廊下を進んで角を曲がると無表情で立ち尽くしている佐山さんを発見した。洗面所と浴室の入口らしき戸が見える。佐山さんの背後から中を窺うと、洗面所の床一面が白い泡だらけになっていた。

「どうしたんですか、これ」

「……洗濯機がポンコツなんです」

 見ると、閉じられた蓋の隙間からカニのように泡を吐いている洗濯機があった。そのボディはなぜか傾いて壁に寄りかかっている。先ほどの音は洗濯機が壁にぶつかった音らしい。

「洗濯機、泡は吐いてるけどそれなりに新しそうですよ」

「当たり前です、買ったばかりなんですから」

 足元の泡に気をつけつつ手を伸ばし、洗濯機の傾きを直して蓋を開けた。びっくり箱の中身よろしく、泡だらけになった衣類が勢いよく飛び出してきてあとずさる。

「どうしたらこんなことになるんですか!?」

「ポンコツが……」

「ポンコツなのは洗濯機を使った人間です!」

 ひとまず廊下の方に避難したら、今度は壁際に転がっている何かに気がついた。丸いボディ、筒状の何か、見覚えのある形状のノズルなどがバラバラになって積み上げられている。

「これ、もしかして掃除機ですか?」

「こっちもすぐに壊れたんです」

「それで分解して、戻せなくなったと?」

「……ポンコツ揃いだったんです」

 佐山さんは唇を尖らせた。この古民家には、もしかしたらほかにも瀕死の家電が転がっているのではあるまいか。

「あの……お昼も用意してもらいましたし、よかったら洗濯機の片づけ、お手伝いしましょうか? あ、私、こう見えても家電とか強いんですよ」

 機械音痴な母を反面教師に家電やパソコンの扱いは自分で覚えたが、こんな風に役立つ日が来るとは思わなかった。

「結構です。自分でなんとかします」

「でも、お店も開店直前で忙しいんじゃないですか?」

 佐山さんが答えないので続けて訊いた。

「ちなみにこのお店、いつオープンする予定なんですか?」

「来週――五日後の予定です」

 思わず店の方をふり返った。看板やメニューなどがないのはともかく、フロアの半分は段ボール箱やカバーのかかったテーブルや椅子で埋まっていたような。

「間に合うんですか?」

 私の言葉に佐山さんはむっとしたように返してくる。

「なんとかします。それに遅れたら遅れたで――」

「遅れちゃダメですよ! 接客業そんなに甘くないですって!」

「告知もあまりしていないので、遅れるも何もないというか……」

 昨日まで働いていたサロンがオープンしたときのことを思い出す。ウェブサイトやチラシなどなど、何ヶ月も前から色んな準備をして告知をして、やっとオープンにこぎ着けた。

 うっかり感傷に浸りそうになって慌てて記憶をふり払い、目の前の佐山さんに意識を戻した私は妙案を思いつく。我ながら非常識極まりない思いつきだとわかっていたが、ダメ元で訊くだけ訊いてみた。

「あの、もう一つつかぬことをお伺いしますが、」

「なんです?」

「このお店、二階が居住スペースなんですか?」

「そうですが……」

「何部屋あるんですか?」

 質問の意図がわからないと言いたげな顔をしつつも、「四部屋」と佐山さんは答えた。そしてそんな佐山さんの左手を見る。指輪はない。

「お一人暮らしですか?」

「だからなんです?」

「もしかして、部屋、余ってたりするんじゃないですか?」

「さっきから何を訊きたいんですか?」

 完全に不審者を見るものに変わっている佐山さんの目にたじろぎそうになったが、ここで引いたらあとがない。思い切って提案した。

「私に一部屋貸していただく、っていうの、どうですか? その代わり、全力で開店準備をお手伝いします! あ、もちろん、掃除も洗濯も引き受けます! 家電の修理もお任せください!」

 数秒の間のあと、佐山さんは深々と嘆息して呟いた。

「……ずっと思ってましたけど。あなた、暑さに頭やられてるんじゃないですか?」

 けどこちらも必死なのですがりつく。

「無茶苦茶言ってるのはわかってます! 勢い余ってこんなところまで来ちゃったんですけど、実は泊まるところがないんです!」

「宿がないならホテルかペンションにでも泊まってください。この辺りでしたら宿泊施設には困りませんよ」

「お金もあんまりないんです!」

「若そうですけど、大学生か何かですか? 大人しく家に帰ったらどうです?」

「こ、子ども扱いしないでください、二十一ですけど学生じゃないです! これでも美容室で働いて……ました。昨日までですけど。お願いします! 開店までの間、五日間だけでいいんで!」

 佐山さんは泡を吐き出し続けている洗濯機とバラバラ遺体と化した掃除機を見つめ、最後に何かを諦めたような顔で私を見た。


◇◆◇


 目を覚ますと微かな紅茶の香りがし、ここが昨日まで暮らしていた部屋ではないことを思い出した。

 寝間着のまま部屋を出るのはためらわれ、着替えだけ済ませてタオルを手にそっとドアを開ける。キッチンの方から何やら食器が鳴る音が聞こえ、顔を出した方がいいか一瞬迷ったものの、寝起きのスッピンをわざわざ見せることはないとすぐに思い直し廊下からそちらに声をかける。

「おはようございます! あの、洗面所、お借りします」

 食器の鳴る音が止まり、「どうぞ」とギリギリ聞こえるくらいの大きさで返事があった。

 そそくさと階段を降り、昨日は泡だらけだった洗面所で顔を洗って長い髪を一つに結い、部屋に戻って薄めの化粧をするとようやくひと息つく。そうしてダイニングスペースに顔を出すと佐山さんはすでに朝食の準備を終えていて、白い陶器のティーポットをテーブルに置いたところだった。

「おはようございます」

 私の再びの挨拶に、佐山さんはにこりともせずに「おはようございます」と丁寧に返して自分の席に着いた。

「昨日、おかげさまでよく眠れました」

 私がそう頭を下げると、佐山さんはなんでもない風に応える。

「ならよかったです。開店準備を手伝ってもらう代わりに寝床を提供するという約束ですし」

 不承不承ながらも私の提案に乗った佐山さんだったが、ゆったりした八畳間と布団一式を私に宛がい、風呂も使わせてくれたのだった。昨日は洗濯機と掃除機の修理で終わってしまったので、今日こそ開店準備を手伝おうと気を引き締める。

 佐山さんの向かいの席には私の朝食も用意されていてありがたい。その席に腰かけようとし、マグカップになみなみと注がれたミルクティーとヨーグルト、そしてサンドイッチを見て止まる。

「……一つ訊いてもいいですか?」

「なんです?」

「佐山さん、もしかしてサンドイッチしか作れなかったりします?」

 昨日の夜、佐山さんが何も言わずに私に作ってくれた夕食は昼食と同じ、ハムとレタスのサンドイッチだった。

「何か問題でも?」

「問題というか……毎食サンドイッチだと栄養が偏りすぎだし、心が死なないかなーと……」

「あなたの面倒なメンタルの問題なんて知りません。食べないなら下げます」

「いえ、ありがたくいただきます!」

 私も席に着いた。途端に沈黙が落ちて、妙な空気がダイニングを包む。

 ……これまでも彼氏と同棲してたわけだし、人と食事をするのは慣れてるつもりではあったけど。

 一緒に食事をとるのは三度目とはいえ、よそよそしい空気に落ち着かない。せめてなんでもないおしゃべりでもできればいいのに、佐山さんはそういうタイプじゃないし。

 昨晩の夕食時は少しでも気まずさをごまかそうと、あれこれ佐山さんに話しかけてみたけど逆効果だった。面倒そうな顔をされ、余計に微妙な空気になってしまった。働いているときは問題ないけど、一つ屋根の下というのはこういうときに困る。安易に「部屋を貸してくれ」なんて言っちゃったけど、他人と暮らすのがこんなに難しいとは思ってもみなかった。

 二人して黙々とサンドイッチを頬ばる。佐山さんの作るサンドイッチは確かにおいしい。とはいえやっぱり限度もあるし、と考えてから提案してみる。

「あの。よかったら今日の昼食と夕食、私に任せてもらえませんか?」

 佐山さんの手が止まる。

「佐山さんも、サンドイッチ以外の料理があれば食べますよね?」

「別にサンドイッチが続いたところで私の心は死にません」

 ここでようやく、佐山さんが澄ました顔でヘソを曲げているらしいことに気がつき、私は慌てて言葉を続けた。

「サンドイッチ、すごくおいしいです! 私じゃこんなにおいしく作れないです!」

「……当たり前です。店のメニューにするためにわざわざ習いに行ったんですから」

 そうなんだ、と感心する。

「すごくおいしいんですけど……もっと頻度を抑えた方が、ありがたみが増すと思うんですよね。例えば、朝食はサンドイッチって決めるのはどうですか? そしたら、寝る前に『朝はおいしいサンドイッチが待ってるし明日もがんばろう』って思えると思うんですよ。毎日のお楽しみっていうか」

 無理やりすぎたかと思ったが、意外にもあっさりと佐山さんは「わかりました」と応えた。

「けど、昼食と夕食を任せたからといって賃金の上乗せはできませんよ」

「あ、それはいいです。私のメンタルの問題なんで!」

「……面倒な人ですね」

 肩をすくめた佐山さんに、内心でガッツポーズをする。佐山さんの扱いが少しだけわかったような気がする。面倒なのはどっちですか。

 食べ終えた朝食の食器をシンクに下げ、キッチンにある冷蔵庫の扉を開けてみる。冷蔵庫、と一応表現したけど、中に冷凍コーナーがあるだけのビジネスホテルなどによくある小さな箱形のものだ。予想はしていたけど、一リットルパックの牛乳とヨーグルトのパック、ハム、ラップに包まれたレタスしかない。

「あの、近所にスーパーとかあります?」

「駅の方まで出ないとありませんね。車で十五分といったところでしょうか」

「ですよねー……」

 佐山さんは軽自動車とスクーターを持っている。借りられればよかったけど、残念ながら私は免許を持っていない。なんとか佐山さんが食材調達に出かけたくなるよう仕向けよう。

 冷蔵庫から離れ、食後の紅茶を味わっている佐山さんに話しかける。

「今日は洗濯して、終わったら開店準備を手伝いますね」

 私の言葉に、佐山さんは何かを思い出した顔になった。

「実は、見てもらいたいものがあります」

 かくして、リビングスペースで佐山さんが私に見せたのはノートパソコンだった。

「パソコンは使えるんですね」

「これくらい使えて当然でしょう」

 洗濯機や掃除機の惨状について触れるのはやめておき、私はソファに腰かけてローテーブルに置かれたノートパソコンの画面を覗き込んだ。

『Tea Room 渚』

「これ、お店の名前ですか? かわいいですね」

「知り合いに作ってもらったチラシのデータです」

 それには手書きのような丸みを帯びた文字で店の名前やメニュー、オープン予定日などが記載されている。

「ちゃんと告知する気はあるんですね」

「当たり前でしょう。――そこで、これを印刷したいのですが……」

 佐山さんの視線の先を追った。壁際にプリンターの箱が置いてあり、箱の上にはコピー用紙の束もある。

「……もしかして、プリンターも壊したんですか?」

「人聞きの悪いことを言わないでください」

 接続しようとがんばった形跡はあったものの、幸いなことにプリンターは無傷でホッとした。


 こうして洗濯とチラシ印刷の任をまっとうしているうちに午前中は過ぎ去った。食材調達に行く時間はなく、四食連続のサンドイッチでお腹を満たす。すでに心が死にかけている、夕飯こそなんとかしなければ。

「チラシ、印刷したらどうするんですか?」

 サンドイッチを平らげた私の質問に、一拍遅れて佐山さんが顔を上げた。

「どこかに貼るに決まっているでしょう」

 そんなこともわからないのかと言わんばかりの目で見られたので反論する。

「わかってますよそれくらい。せっかく紙がたくさんあるんだし、たくさん印刷してポスティングするのはどうかなーって思ったんです。ご近所に挨拶ついでに持っていってもいいですし」

「必要最低限の挨拶は済ませてあります」

「……その口ぶりだと、いつオープンなのか伝えてないんじゃないですか?」

 佐山さんの沈黙を是と理解した私は、昼食の片づけのあとに早速チラシの増刷に取りかかった。そうして印刷したチラシの束と財布などをトートバッグに入れて身支度を調え、一階のカフェスペースを覗く。

「一時間くらいで戻りますんで!」

 何かの段ボール箱を開封していた佐山さんが訊いてくる。

「どこに行くんですか?」

「チラシ撒いてきます」

「そんなこと頼んでいません」

「なんのためのチラシですか! 宣伝しなきゃもったいないですよ、紅茶もサンドイッチもおいしいのに!」

 私は佐山さんのため息を了承の意と受け取って店を出た。

 店の前の通りに出て、山側と海側どちらへ行くか迷う。この辺りの地図を持っていないか佐山さんに訊けばよかった。まだ行ったことがないしと、まずは上り坂になっている山の方へ行くことに決め、畑や林の間に点在する民家のポストに二つ折りにしたチラシを入れつつ歩いていく。別荘も少なからずあるようで、リゾート地なんだなと改めて実感した。平日の午前中、人や車の往来は多くないけど、夏休みになったらもう少しにぎやかになるんだろうか。

 そうして数分も歩かないうちに、ほかの民家と比べて明らかに大きな白壁の建物が現れた。背の高い生け垣が青々と茂っている。入口には『ペンション ミサ』との立て札。

「何かご用?」

 突然背後から声をかけられて飛び上がった。

 ふり返ると、畑仕事でもしていたのか、エプロンに長靴に帽子という格好の六十代くらいの女性がいかにも人のよさそうな笑みを浮かべている。

「あの……すぐそこにお店を開く予定でして。チラシができたのでご挨拶にと」

「あら、もしかして佐山さんのところの?」

 最低限の挨拶は済ませてあるという佐山さんの言葉は嘘じゃなかったらしい。

 女性は新山美沙と名乗った。夫婦でこのペンションを切り盛りしているという。

「お店を開く予定だとは聞いていたんだけど、どうなってるのかなって気になってたのよ」

「すみません、お知らせが遅くなってしまって」

 チラシを受け取ると、「あら」と美沙さんは目を少し丸くした。

「紅茶のお店なのね。もしかして、紅茶の葉っぱ、買えるのかしら?」

「あ、かもしれません。訊いてみます!」

「うちのお客さんに出す紅茶、何かいいのがないかなって思ってたところなの! 前は近所に紅茶好きな人がいて色々教えてもらってたんだけど、それもできなくなっちゃってどうしたものかと思ってたのよ」

 それから美沙さんは、近くのお店などの情報を教えてくれ、自治会の掲示板にチラシを貼ってもいいか問い合わせてくれると言った。

「色々教えていただいて助かります、ありがとうございます!」

「いいのよー、ご近所に若いご夫婦が越してきてくれてこちらも嬉しいし。お店のオープン楽しみにしてるから!」

 じゃあまた! と美沙さんは颯爽と去っていき、言葉を返す間もなかった。

 若いご夫婦。

 そういえば、話に夢中でちゃんと名乗っていなかったような。

 ふり返るももう美沙さんの姿はない。今から誤解を解きに行くのもなんだし、また今度にしよう。

 店に戻ってチラシがはけたと報告すると、佐山さんは「おつかれさまです」と応えた。

「そこの段ボール箱の中身、棚に移してもらえますか?」

「あ、はい……」

 なんだか拍子抜けしてしまい、佐山さんをじっと見ていたら気づかれた。

「なんです?」

「勝手なことしたし、チラシのこと、怒られるかなって思ってました」

 佐山さんはじとっとした目をこちらに向けたものの、すぐに眉間を揉んだ。

「珍獣とやり合っても体力の無駄ですし」

「ち、珍獣ってなんですか!」

「そのままです。日本語もろくに通じませんし」

 いやいやいやいや。

「どっちの台詞だと――」

「ほら、無駄口叩いてないで、寝床と食事代の分は働いてください。この段ボール箱の山がなくなったら車でスーパーに行きます」

 え、と思わず動きを止めて佐山さんを見返した。

「車、出してくれるんですか?」

「私も用があるってだけです」

 佐山さんに顎で示され、私は早速指示された箱に駆け寄った。

 ……失礼だしよくわからない人ではあるけど。

 なんだかんだでいい人っていうかお人好しっていうか、私みたいなよくわからないであろう人間も意外とあっさり受け入れちゃうし……。

「佐山さん、そのうち詐欺にでも遭いそうでなんだか心配です」

 思いっ切り舌打ちされた。

「沸いた頭でわけがわからないことばかり言わないでください」

「沸いてません」

 やっぱり失礼だ。


◇◆◇


 佐山さんは無駄なおしゃべりはしないしたまに口を開けば失礼ではあったけど、開店準備自体は大きな問題もなく進んだ。仕事が終われば顔を合わせるのは食事の場くらいで、風呂を除けば佐山さんはほとんど自室から出てこず、おかげで余計な気を遣わずにも済んでいる。シェアハウスの同居人だったらこんなものかと思いながらの居候生活も、こうして三日目を迎えた。スーパーで食材調達もでき、丸一日ぶりにサンドイッチ以外の食事をとれた次の日の午前中のこと。

「佐山さんも、こんなにかわいい奥さまがいるならそうとおっしゃってくれればいいのに! 嬉しくてみんなに話しちゃった!」

 ペンションの美沙さんが自家栽培の小松菜と共に店に現れた。

 ポカンとしている佐山さんに美沙さんは小松菜の束を押しつけ、「お忙しいでしょうし長居はしませんからね!」と言い置いて嵐のように去っていく。

 しまった、という顔の私に、佐山さんは静かに訊いてくる。

「『奥さま』って何のことですか?」

 言い訳してもしょうがない。昨日、挨拶した際に誤解された旨を正直に話すと、佐山さんは小松菜を手にしたまま俯いた。

 さすがにこれは怒らせてしまったかもしれない。今ここを追い出されてはかなわない、「すみません!」と全力で頭を下げる。

「あの、なんなら今から誤解、解いてきますんで!」

 そう店を飛び出そうとした私を佐山さんは止める。

「いいです、小さな町でややこしいことをしたくありません」

「でも――」

「あの調子だと、もうご近所中に広まっているでしょうし」

 放置したらなお一層ややこしいことになるのでは、と思いつつも、突っ込む代わりにもう一度謝った。

「勝手なことしたせいで、本当にすみません!」

「自分が珍獣である自覚ができました?」

 今回ばかりは言い返すこともできず、小さくなるしかない。

 そんな美沙さんのクチコミによる効果か、その日や翌日はご近所さんが何人も散歩のついでだなんだと理由をつけて店の様子を見に来た。物珍しいのと単純に新しいお店ができるのが楽しみということらしい。そして誤解を解く機会はますます遠ざかり、すっかり「佐山さんの奥さん」と呼ばれ慣れてしまう。

 そうして居候生活も四日目の夜。

 いつものようにダイニングテーブルに佐山さんと向かい合って座り、どちらからともなく「いただきます」と声をかけて食事が始まった。

「……枝豆、おいしいですね。自分で茹でたんですか?」

「そうです。美沙さんにもらったんですけど、旬だからおいしいですよね。こっちの煮物は――」

 初日はサンドイッチのみだった食卓が、今では嘘みたいに豪華になっている。ご近所さんたちが顔を出す度に置いていってくれる手土産の野菜、果物、魚介類のおかげで、メニューに頭を悩ませられるようになるなんて思ってもみなかった。

 私の説明をひととおり聞くと、佐山さんは「ありがたいことですね」と静かに応えて箸を進めていく。

 食事どきの会話はあいかわらず途切れがちだ。が、四日目ともなるとこれが佐山さんのペースなのだとわかったし、もうそこまで気詰まりでもなかった。無理にどうでもいい会話をするよりはずっと楽だ。

 黙々と食事を続ける佐山さんの様子をそっと窺う。箸の持ち方は完璧で、感心するくらいに食べ方は綺麗だ。最初に感じた「貴族っぽい」という印象は、どんなに悪態をつかれようともいまだに覆っていない。当然ながら佐山さんが私に自分語りなどするわけがないけど、きっと育ちがいいんだろう。

「何か?」

 視線に気づかれ、小さく首を横にふる。

「なんでもないです。開店準備、明日にはちゃんと終わりそうでよかったなって」

「そうですね」

 旬の食材でいっぱいの食卓をまじまじと眺め、込み上げてくる甘酸っぱさにも似た気持ちに箸を動かす手がつい止まる。

 明日が約束の五日目。ここにいられるのもあと少し。

 勢いだけで部屋を飛び出して、辿り着いたのがここでよかったとしみじみ思った。

 忙しくしていたおかげで余計なことを考えないで済んだし、ご近所さんもいい人たちばかりだったし、佐山さんもよくわからない人だったけど面白かったし。

 佐山さんが何か言いたげにこちらを見たような気がしたけど、気のせいだったのか、その目はすでに別のところを向いていた。

 そうしてここでの最後の夕食を終え、名残惜しい気持ちでもらいもののスイカをデザートに食べていたときだった。先にダイニングからいなくなっていた佐山さんが、戻ってくるなり唐突に訊いてきた。

「それを食べたら、ちょっと外に出ませんか?」

「外?」

 食べ終えた私は、佐山さんに続いて古民家の外に出た。

「外に何か――」

 目を上げた瞬間、言葉の続きを呑み込んだ。

「昨日まで少し曇っていたのですが、今日は晴れていたので」

 佐山さんの言葉に何か返そうと思うもうまい言葉が見つからず、ただただ立ち尽くすことしかできない。

 満天の星。

 吸い込まれそうなほど深い夜空に、煌めく星々が無数に散っている。

「月もそんなに明るくないですし、今日はよく見えますね」

 景色がいいところだと思ってはいたけど不意打ちだった。

「……ここ、こんなに暗かったんですね」

 鬱蒼とした木々に囲まれ、街灯やほかの建物の存在を認識できない。カーテンの閉じた二階の窓から細く漏れる明かりだけが唯一の光源で、辺りは静かな闇に沈んでいる。

「大都会じゃないことなんてわかりきってるじゃないですか」

 なのに隣の佐山さんはいつもの口調で、曖昧になっていく足元の感覚と現実のギャップに困惑する。

「……星座とか、わかりますか?」

 平常心を装うように、星空から視線を剥がして隣に訊く。空に目を向けたまま、「まったく」と佐山さんは答えた。

「わかれば別の楽しみ方もあるのでしょうけど。私はぼんやり眺めるくらいで丁度いいです」

「佐山さん、ぼんやりしたりするんですか」

「しますよ。人のことをなんだと思ってるんですか」

 私も空に目を戻した。星降るような空、という表現を思い出すも、私たちの遥か上空に広がるそれを単純に「美しい」と表現するのは憚られる。煌めく星々の奥に広がる深い闇に、私の目はどうしても吸い寄せられてしまい息苦しく感じた。

 どうしようもなく一人だ。

 まっ暗な宇宙で一人ぼっち。

 都会で人の波に揉まれているときは意識しないで済んでいたことを、強烈に意識させられて薄ら寒くなってくる。

 一人になってしまってここに来たつもりだったけど、そんなことはなかった。

 私は最初から一人だ。

「――先に中に戻ります」

 ふいに隣から声をかけられ、なんだか急に心許なくなった。

「そ、それなら私も戻ります!」

「別に合わせなくてもいいです」

「いやでも、その……一人で残されるのはなんか、心細いというか」

 正直に言ってしまってから、たちまち恥ずかしさで頬が熱を持つ。寂しがり屋の子どもじゃあるまいし――

「タヌキくらいしか出ないと思いますけどね」

 佐山さんはその場から動かず空に目を戻した。

「……中に戻るんじゃなかったんですか」

「中に戻るのもここに留まるのも私の自由です」

 この人は、何を思って私に星空を見せようと思ったんだろう。

 深い意味なんてまったくないのかもしれないけど、それを考え始めたらさっきまでの薄ら寒さが和らいだ。永遠に瞬き続ける星々を改めて見つめると、今度は素直に美しいと思えた。


◇◆◇


 そうして次の日、とうとう開店予定日の前日。

 山になっていた段ボール箱の片づけなども昨日までに終わっていて、昼前にはすっかりやることがなくなった。佐山さんの知り合いからいくつか花が届き、それを入口の近くに並べていく。

「本当に明日オープンするんですね」

 夏らしいヒマワリの鉢植えについつい頬が緩んでしまう。

「しまりのない顔してますね」

 そういう佐山さんの声も、今日は幾分かマイルドに響く。

「自分だって嬉しいくせに」

「当たり前です。ここまで来るのに長かったですし」

 佐山さんがどういう経緯でお店を開こうと決意したのかはわからないけど、どれくらいの時間と労力が必要だったんだろう。あまり自分のことを話さないし感情を表に出さない人ではあるけど、それなりに苦労してきたのかもしれない。

 なんだかしみじみしている私に、佐山さんは言葉を続ける。

「ずっと休みなしでしたし、ゆっくりしていていいですよ」

 手持ち無沙汰な私にそう言って、佐山さんは店の片すみで書類に目を戻した。事務処理はまだあるらしいが、それは私の手伝える範疇じゃない。そっとフロアを出て階段を上り、二階の自室に戻った。空気を入れ換えようと開け放ったままだった窓を閉める。

 期限が来た。

 ここで働くのは開店までの五日間、という約束はちゃんと守る。なんだかんだで人のいい佐山さんのこと、「出ていけ」とは言いづらいだろうし、これ以上好意に甘えるわけにはいかない。ここは自分から出ていくべきだろう。

 さして多くない荷物をスーツケースに押し込む。ここに来たときみたいに駅までスーツケースを転がすのはしんどいなと考えてから、近くにバス停があることを思い出した。

「ちょっと散歩してきます」と佐山さんに断って店を出て、海水浴場の近くのバス停の時刻表を見に行った。館山駅行きのバスは日に四本、十二時台のバスは近すぎるし、残りは午後五時台と七時台だ。

 バスの時間をしっかりと頭に刻み、緩やかな上り坂を戻っていく。夏の日差しに、波音と木々のざわめく音ばかり。こうやって店に戻るのも最後だと思うと、隠しようのない寂しさと、考えないようにしてきた現実に眩暈がしてくる。

 これからどうしよう。

 大きなため息を呑み込んで、表情を取り繕ってから店のドアを開けた。

「戻りましたー……」

 そう声をかけてフロアを覗くと、カウンターの奥、業務用の冷蔵庫の扉を開けて佐山さんが立ち尽くしていた。

「何やってるんですか? 扉、開けっ放しじゃ電気代がもったいないですよ」

 そう近づくと、困惑気味の佐山さんと目が合った。

「冷蔵庫、壊れているみたいです」


 その言葉を聞いた瞬間、私は佐山さんを押し退けて体当たりするように冷蔵庫の扉を閉めた。

「なんですか!」

「冷蔵庫が壊れてるのに、冷気を逃がしてどうするんですか!」

 数秒遅れて私の言いたいことがわかったらしい。佐山さんは途端に決まり悪そうな顔になった。

「すみません」

 珍しく素直に謝った佐山さんに、事態の深刻さが伝わってくる。冷蔵庫の側面に耳を寄せるも、確かにモーター音が聞こえない。

「冷蔵庫、どうやって壊したんですか?」

「人のことをなんだと思ってるんですか。気づいたら動いていなかったんです」

 憮然とした佐山さんに「冷蔵庫の修理はできませんよ」と断ってから、そっと冷凍庫の引き出しを開け、素早く中を確認して戻した。中の霜がまだついているので、そんなに時間は経っていないようだ。

「メーカーに電話して、修理に来てもらうしかなさそうですね」

 そうして佐山さんが電話で問い合わせたものの、修理に来られるのは明日の夕方以降とのことで血の気が引いた。

「明日の夕方じゃ、中のもの腐っちゃいますよ」

 ミルクティー用に仕入れた大量の牛乳、ハム、レタス、その他もろもろ。今日は冷蔵庫の中に入れておけば保つかもしれないけど、店が開いたら扉を閉めっ放しにはできないだろうし、何よりこの暑さだ。

「上の冷蔵庫に移動しますか?」という佐山さんの提案に首をふる。

「小さすぎて全然入らないですよね」

 二人して頭を抱えてから、佐山さんが諦めたように呟いた。

「一日遅らせますか」

 思わず目を見開いて佐山さんを凝視した。

「遅らせますかって……オープンを?」

「ほかに何があるんです」

「ダメですよそんなの!」

「しょうがないでしょう。腐りかけの食材は使えません」

 でも、と言いかけた私を佐山さんは手で制した。

「実はこれでも当初の予定より二週間遅いんです。本当は月初めにオープンしたかったんですが、リフォームや資材の準備がうまくいかず遅れてしまって。……まぁ、一人でやっていればこんなものです」

「こんなもの」と口にした佐山さんに瞬間的にカッとした。

 不器用ながらも一人で必死にやってきたくせに。

 お花が届いて嬉しそうな顔をしてたくせに。

「――つまらない大人みたいなこと言ってんじゃないですよ!」

 声を荒らげた私に、佐山さんはその目を細めた。

「あなたが怒ることじゃないでしょう。それにこっちはいい歳した大人です」

「怒りますよ! 怒るに決まってるじゃないですか! これまでがんばってきたのに簡単に諦めて!」

「こっちだって簡単に諦めているわけではありません。しょうがないものはしょうがないじゃないですか! それにたった一日で――」

「たった一日で失われる信用がどれだけあると思ってるんですか!」

 佐山さんは私の言葉に押し黙った。

「みんな楽しみにしてるんです。《渚》は明日オープンすべきです! 明日オープンできるようにギリギリまでがんばるべきです!」

「がんばるって……精神論で済むなら困っていません!」

「ごちゃごちゃうるさいです! いつもエラそうなんだから頭働かせてください!」

 怒鳴り合って息を切らして、二人して顔を逸らしてから黙り込んだ。

 そのままたっぷり数十秒、静かに深呼吸してから佐山さんが口を開く。

「食材が腐らないようにしつつ、かつ明日使える冷蔵庫があればいい、そういうことですよね」

 私は頷いて佐山さんに向き直った。

「ホームセンターとかコンビニに行って、氷とか保冷剤を買い込んで来ますか? あ、製氷機ならここにもあるじゃないですか!」

「それで明日の夕方まで保たせるのは厳しいのでは? そもそも水やアイスティーに使うための氷ですし」

「やっぱり使える冷蔵庫があるに越したことはないですよね……」

 かといって二階の冷蔵庫は小さすぎるし冷凍コーナーしかないし――

 私は「そうだ!」と声を上げて手を叩いた。

「二階の小さな冷蔵庫、この機会にちょっと大きな冷蔵庫に買い換えましょう!」

「買い換える?」

「新しい冷蔵庫を買って、明日はそっちを使いましょう! 大きな家電量販店なら、当日に配送してくれるお店もありますし。まだ正午前だしギリギリいけるかも!」

「そうなんですか?」

 なんて便利な、と佐山さんは心底驚いた顔になる。これまで家電はどこで買っていたんだろう。

「なので、佐山さんはこれから車で冷蔵庫を買いに行ってください。あ、事前に電話で当日配送できるか聞いた方がいいかも」

「あなたは?」

「私は近所を回って、保冷剤を貸してもらえないか訊いてきます。それで足りなかったら、近くのコンビニまで走っていってアイスでもなんでも買ってきます」


 早速二手に分かれて行動に移った。佐山さんは家電量販店をネットで調べて車で出かけていき、私はまずはペンションの美沙さんのところに駆けた。

 ランチ時に邪魔をした非礼を詫びて事情を話すと、クーラーボックスに保冷剤と二袋分の氷、ついでに氷枕まで貸してくれた。

「前日に災難だったね。氷が欲しくなったらいつでも言って」

 重たいクーラーボックスを抱えて急いで店に戻り、分けてもらったもろもろをまずは冷蔵庫に詰めた。今は冷えているけど冷凍庫もどうにかしないと、と考えていたら店のドアを叩く音がした。

 はーい、と声をかけてドアを開けると、近くで一人暮らしをしている米寿のおばあさん、富子さんがいた。富子さんとは以前、チラシを渡したときに少し立ち話をして以来だ。

 はい、と富子さんは膨らんだスーパーの袋を差し出してくる。受け取ったそれはずっしりと重たい。

「美沙さんから聞いたよ。これ、よかったら使って」

 袋には、持ち帰りのケーキなどについているような手のひらサイズの保冷剤がぎっしりと詰まっている。

「いいんですか?」

 驚いて顔を上げると、「いいのいいの!」と富子さんはカラカラ笑った。

「家にあっても使わないものだし!」

 胸が詰まって何も言えなくなってしまった私の腕を、富子さんは軽く叩く。

「明日、楽しみにしてるからね!」

 ――そうして数時間経った頃、佐山さんが帰ってきた。時刻は午後三時を回ったところだ。

 途中でスーパーに寄ってくれたようで、氷やアイス、持ち帰り用のドライアイスを多めにもらってきてくれている。

「冷蔵庫、買えました?」

 受け取ったドライアイスの袋を冷凍庫に入れつつ聞くと、佐山さんはカタログをこちらに見せた。

「家庭用の冷蔵庫で大きめのものを選んでもらいました。五時半頃に設置しに来てくれるそうです。そちらはどうですか?」

 私は冷蔵庫の中をさっと見せた。

「……これだけあると、牛乳が凍りそうですね」

 富子さんを筆頭に、美沙さんから話を聞いたという近所の人たちがポツポツと店を訪れ、保冷剤を置いていってくれたのだ。おかげで冷蔵庫は保冷剤でパンパンだ。

「ありがたすぎて泣きそうになりました」

 佐山さんは私の言葉に頷いてから、ボソッと言った。

「チラシのおかげですかね」

「チラシ?」

「あなた自らチラシを配りに行って、近所の方々と親しくなったおかげでしょう」

 そして、ポツリと漏らす。

「私一人じゃ、どうにもなりませんでした」

 ふいにどうしようもなく胸が熱くなって息を呑んだ。ホッとしたせいか、嬉しいせいか、感動したせいか。

 言葉にならない感情を抱えたまま、壁の時計をこっそりと見た。


◇◆◇


 辺りはすっかり夜の装いで、通りの外灯が白い光を地面に落とし、海水浴場から人の姿は消えている。そして、私は午前中と同じようにバス停の前に立っていた。

「行っちゃったかぁー……」

 新しい冷蔵庫が届き、設置してもらって説明を受けたりなんだりし、すべてが終わったときには午後七時を回っていた。わかっちゃいたけど、館山駅行きのバスはもうない。できればこっそり出ていきたかったのに、完全にタイミングを逃してしまった。

 のろのろと店への道を歩く。胃は重くて空っぽだ。あのドタバタで、ランチを食べ損ねていたのを思い出す。佐山さんもお腹空いてるかな……。

 店の前に到着したところで私は足を止めた。腕を組んだ佐山さんが、開いた店のドアにもたれかかっている。

「バスはもうないでしょう?」

 店内の照明が逆光になっていて、そう訊いてきた佐山さんの表情はわからなかった。

「……私が出てくつもりだったの、わかってたんですか?」

「荷物、まとめてありましたし」

「人の部屋、勝手に見ないでくださいよ!」

「ドアを開け放しておいてよく言いますよ」

 呆れ顔の佐山さんは、うなだれた私に道を空けるように、ドアを開けたまま店の中に戻る。

「さっさと入ってください」

 急に鼻孔の奥がつんとして、それをごまかすように店に飛び込んだ。


 佐山さんに促され、渋々カウンター席に着いた。小さくなっている私を、佐山さんはカウンター越しに見下ろしている。

「出ていきたいと言うものを止めるつもりはありません。もともと開店までという話でしたし」

 ただ、と佐山さんは一度言葉を切った。

「ここを出て自殺でもされると寝覚めが悪いなと」

 そういえば、初めて佐山さんに会ったときも「自殺でもするんですか?」と訊かれたんだった。

「……死ぬつもりはないので安心してください」

「では、家出をやめて帰るといったところですか?」

 家出なんてかわいいもののつもりはなかったし、帰るところなんてない。けどここでそんなことを言っても仕方ないし――

 そのとき、佐山さんが唐突に「東京都」から始まる住所を口にしてギョッとした。

「この住所には帰らないんですか?」

 敦久さんと暮らしていた部屋の住所だった。

「なんでそれを――」

「あなたの財布に何かの会員証が入っていたので」

 その言葉が意味していることを理解して、瞬間的に頭に血が上った。

「さ、最低! 人のお財布勝手に見たんですか!? プライバシー侵害です!」

「身元のわからない得体の知れない人間を泊めたんです。個人情報くらい調べて当然でしょう」

 言葉が続かない。少々失礼なお人好しだと思っていたこっちが甘かったということだ。

 怒りの波が通り過ぎると、途端に脱力してカウンターに突っ伏した。

「そこには帰りません。……同棲してた、元カレの部屋なんで」

 意識して「元」を強調して説明してしまい、バカな女丸出しみたいで悲しくなった。いや、事実そのとおりなんだけど。

 私が独り立ちしたい、手に職をつけたいと強く思うようになった理由の一つが母の存在だった。

 うちはいわゆる母子家庭で、女手一つで育ててくれた母には感謝している。けど、男運がないのか見る目がないのか、ことあるごとに男にフラれたとめそめそするのだけは如何ともし難く、ああいう風にだけはなるものかと幼心に誓った結果がそれだった。

 なのに結局のところ、今の自分も大差ない。

 部屋を追い出されて一人になれば、行くところも帰るところもなくて、独り立ちなんてほど遠い。それどころか、一人でいるのが耐え難くて仕方ない。

「……私、何やってるんでしょうね」

 悔しいやら悲しいやら惨めやらで、いつの間にか嗚咽が漏れていた。涙が止まらなくなっていて、顔を上げるとカウンター越しにティッシュ箱を差し出されている。

「……すみません」

 一枚引き抜いて鼻をかむが、止まらなくてそのまま顔を伏せる。

 必死にやってきたつもりだった。

 うまくやれているつもりだった。

 全然そんなことなかったのに。

 母のことなんて何も言えない。

 ティッシュペーパーを箱から続けて何枚か抜いて目元を押さえる。最後の最後でみっともない。

 ぐずぐず泣いていたら、食器が鳴る音に目を上げた。佐山さんがやかんで湯を沸かし、茶器を用意している。私に気を遣って紅茶を淹れてくれているのかも。

 ますます申し訳なくて、再び目元を押さえて俯いていたら。

「――どうぞ」

 予想どおり目の前にティーカップが置かれ、けどそれを目にした瞬間ハッとする。

 カップにヒマワリが咲いている。

 そう思ってよく見たら、カップの表面に浮いているのは輪切りのオレンジだった。

「シャリマティーといいます」

 そう説明した佐山さんに訊いた。

「いただいていいんですか?」

「もちろん」

 ティッシュペーパーで目元を拭い、鼻をかんでからカップに手を伸ばした。そっとひと口含むと、酸味のあるオレンジの香りがふわりと鼻孔の奥に広がる。紅茶の渋みも感じるものの、それはすぐにオレンジとわずかに加えられた砂糖の甘みで消えていく。しょっぱくなっていた私の中に、それは清々しいほど爽やかに広がり落ちていった。

「シャリマというのは、インドのカシミール地方の花園の名前だそうです。花が浮かんでいるように見えませんか?」

「あ、わかります!」

 店の入口に置いた鉢植えのヒマワリをふり返った。

「パッと見たとき、ヒマワリが咲いてるかと思いました!」

 そう声を上げてしまってから、すみません、と小さくなる。つい子どもみたいにはしゃいでしまった。

 再び紅茶に口をつけて香りを楽しむ。気がつけば身体から力が抜け、さっきまでの渦巻くような感情はどこかに行ってしまっている。

「なんだか落ち着いてきました」

「紅茶には鎮静作用もあるそうですからね」

「そうなんですか? カフェインが入ってるのに?」

「紅茶の茶葉自体にはコーヒーの二倍ほどカフェインが含まれていますが、紅茶として飲む際にはコーヒーの半分ほどに減ります。それに、紅茶に含まれているテアニンにはリラックス効果があると言われていますしね」

 いつになく淀みなくしゃべる佐山さんに、はたと気づく。

「もしかして、元気づけようとしてくれてます?」

 は? と即座に返してきた佐山さんはいつものクールな表情かと思いきや、わずかに目を逸らして咳払いした。

「誰かがらしくないからでしょう」

「すみません」

「……少なくとも、この五日間はそれなりに助けられました。洗濯機も直りましたし、何もできないってことはないんじゃないですか?」

 素っ気ない口調ながらも温かい佐山さんの言葉を噛みしめつつ、姿勢を正して頭を下げた。

「ありがとうございます」

 穏やかな気持ちで花咲く紅茶に手を伸ばす。

 ――ここに来られてよかった。

 短い間だったけど、現実逃避でしかなかったかもしれないけど、それでも楽しかった。

 ご近所さんもいい人たちばかりだったし。

 紅茶もおいしかったし。

 佐山さんもわかりにくいけどいい人だったし。

 最後に元気ももらえたし、どこにいてもそれなりに生きていけるんじゃないかという気もしてくる。

 なんとかなる、多分。

「――では、改めて訊きますが」

 佐山さんの質問が私を現実に引き戻す。

「さっきの住所に戻らないなら、どこか行く当てはあるんですか?」

 なんとかなると思ったばかりなのに、改めて訊かれてしまうと先ほどまでのふんわりした決意がわずかに揺らぐ。

「これといってないですけど……」

 そうですか、と小さく答えて佐山さんは黙った。

 そして、考えるような数秒の間のあと。

「このまま、ここで働きますか?」

 いつもどおりの何気ない口調で、さらりとそんなことを口にした。

 一方の私は何か言わねばと思うのに喉からは変な音しか出せず、瞬時に身体が熱くなって手にしていたティーカップを音を立てて置いた。

「あまり予備がないのでカップは大事にしてください。前から思っていましたが、何かとガサツですよね」

「すみません! でもあの、ちょっと驚いて……」

 短距離走でもしてきたみたいに心臓が音を立て始め、紅茶によるリラックス効果はすっかり吹っ飛んでしまう。

「思いつきなので、流していただいてもかまいません」

「いえあの、違うんです、すみません、とても……とてもありがたいです、けど」

 舞い上がってしまいそうな気持ちを必死に抑え、深呼吸してから問題を一つ思い出す。

「このままここにいると、夫婦だと勘違いされたままになりそうなのは、その、あまりよろしくないような……?」

 とはいえ、それを言うなら誤解されたまま私がいなくなるのも問題かもしれない。結局問題しかなかった。やはり誤解は解いておいた方が――

「正直なところ、誤解を解くのが面倒だという気持ちがあります。なので、いっそそういう設定でここで働いてもらうというのも手かなと思ったところです」

「そんな設定いいんですか?」

 こちらがこんなに動揺しているというのに、佐山さんはまったく動じていない。悪い人ではないとは思いつつ、やっぱりこの人はよくわからない。

「無理強いはしませんし、どこか行くところがあるなら止めません」

「行くところはないです、けど……」

 舞い上がりかけた気持ちがたちまち萎んで落っこちる。

 佐山さんと敦久さんが同じだとは思っていないし、ましてや恋人関係でもない。

 とはいえ、一つ屋根の下でこのまま共同生活を続けることなんてできるのか。

 私はまた、失敗するんじゃないのか。

「不安です」

「何が?」

「色々と、うまくやっていけるのか」

 言葉にしてみてわかった。

 泣きたいくらい、今の私は自分に自信がない。

 だって、うまくやれなかったから今ここにいるわけだし。期待と不安がない交ぜで叫び出したくなってくる。

 何も言えなくなってしまった私を見た佐山さんは、いっとき思案顔になると「それなら」と提案してきた。

「いくつかルールを決めましょう」

 頭に疑問符を浮かべた私を、そして佐山さんはせっついた。

「けど、それは夕食のあとで、です」

 あ、と思った瞬間、腹の虫が鳴ったのは私の方だった。気持ちが落ち着いたせいか、ここぞとばかりに空っぽの胃がその存在を主張する。

「昼食と夕食を任せろと言ったのはあなたですよね?」

「はい……はい、そうです! 今すぐ作ります!」

 佐山さんに見送られ、新しい冷蔵庫のことや、残っている食材のことや、ルールってなんだろうという疑問で頭をいっぱいにしつつ、二階のキッチンへと駆けた。


◇◆◇


『食事の用意は当番制とする』

 メモ帳に書かれたいかにも神経質そうな線の細い字を見て、私はすぐさま手を挙げた。

「当番制ってどういうことですか?」

「文字どおりです。平等な条件の下で共同生活をするのなら、当番制にするのが一番でしょう」

「私、二食に一食がサンドイッチになるなんて嫌なんですけど」

 ダイニングテーブルの向かいに座った佐山さんが、途端に不満そうに眉根を寄せた。

「おいしいって言ってたじゃないですか!」

「おいしいので、サンドイッチは今までどおり朝食だけにしましょう。昼と夜は私が用意します。あ、でも、風邪引いたり体調が悪かったりするときもあるじゃないですか。そういうときは臨機応変にできるといいですよね。助け合いっていうか」

「……どういう文章でルールにするんですか、それ」

「こんなの明文化しなくてもいいじゃないですか。家事は全般、いい感じに分担してやりましょう」

 佐山さんは盛大なため息をつきつつ、『食事の用意は当番制とする』の一文を二重線で消した。二重線で消されたルールの素案で埋め尽くされたメモを、佐山さんは切り取って丁寧に四つ折りにするとゴミ箱に投げた。

「あなたのせいでまったくルールが決まりません」

「佐山さんの考えるルール、細かすぎるんですもん。そんなに細かいこと決められても覚えられませんよ」

「不安だって言ったのはどこの誰ですか」

「そうですけどー……」

 唇を尖らせつつ、私はマグカップに手を伸ばした。夕食後に佐山さんが淹れてくれた紅茶は、長引くルール策定にすっかり常温になっている。

「あ、こういうのはどうですか? 『互いの部屋には入らない』」

「その心は?」

「誰かが勝手に人のお財布とか見ないようにするためです!」

 それは、と佐山さんは反論しかけたものの、思い直したのか私が口にした文言をメモ帳の新しいページに書きつけた。

「互いのプライバシーを尊重するという意味ではよさそうです」

「やった! 採用ですね!」

 そんな調子で、一時間以上かけて決めたルールを佐山さんが清書した。


 1.互いの部屋には入らない

 2.共同生活に関わることは一人で判断しない

 3.本当の夫婦でないことは他言しない

 4.どちらか一方の申し出により、いつでも関係を解消できる


「すごい、四つも決まりましたね」

「四つしか決まらなくて、私は現在、非常にがっくりしていますが」

「でも私、これでうまいことやれるような気がしてきました!」

「シンプルな構造の脳みそでうらやましい限りです」

 佐山さんの書いてくれたメモを何度も見返し、事実、私は満足していた。

 ルールの数自体は少ないかもしれないけど、こういうものがあるという事実がある種の拠り所に思える。安心の担保とでもいうか。なんだか世間からズレているし、すぐに家電を壊すという特技があるものの、佐山さんがあくまで理性的なキャラなのも心強い。

「……雇用契約書はこれとは別に作りますよ。時給×店での勤務時間から、光熱費・食費を折半したものを天引きする、といった形でしょうか。さすがにこれまでみたいに宿泊費の代わりに働けというわけにはいきませんし」

「計算は苦手なんでお任せします」

「ちゃんと確認してくださいよ」

 佐山さんは眉間を揉みつつ立ち上がり、ティーポットを手にした。

「紅茶、淹れ直します。あなたも要りますか?」

「ありがとうございます、秀二さん」

 キッチンの方を向いたまま佐山さんが固まったのに気づいた。

「すみません、夫婦のフリするなら『佐山さん』って呼ぶの微妙だなって……」

 こちらをふり向いた佐山さんは目を細め、そしてしばしの間のあと。

「わかりました、あやめさん」

 そのまま睨み合うように見つめ合ったのち、耐えられなくなり二人して顔を伏せた。

「……すみません、思ったより恥ずかしかったです」

 私が謝ると佐山さんは顔を赤くした。

「先に呼んできたのはそちらでしょう!」

「でも私、『さん』づけで呼ばれたことなんてないですもん! あ、いっそ呼び捨てとか『ちゃん』づけはどうです?」

「絶対に嫌です!」

 赤い顔をごまかすように背を向けた佐山さんに思わず吹き出した。

 望んでやまなかった新しい生活に、子どもみたいに心が弾んでしょうがない。