――――――――プロローグ――――――――


 僕は二十三歳で、そのときイヤホンで音楽を聴きながら電車に乗っていた。

 会社帰りだ。とはいえ、その日は午後休を取ったから窓の外は明るい。

 よく晴れた四月の金曜日だった。JR埼京線の電車は赤羽駅を通りすぎ、時刻は昼の一時を過ぎたところ。

 もうすぐ例のあれがまた起きる。それは本当に不思議な出来事で、一度始まると、もつれ合うように僕も巻きこまれてしまうのだ。

 やがて電車が駅に着き、僕は外に出てロータリーを歩き始める。

 イヤホンから流れる曲がロックからクラシックに変わった。意外な曲順が好みだから僕はいつもシャッフル再生で音楽を聴く。

 静かなピアノ曲を聴きながら住宅街を抜けると、やがて荒川に突き当たった。

「……懐かしいな」

 ここは特別な思い出のある場所。だからこそ、あれを待つのにはうってつけだった。

 荒川の土手をおりていき、斜面に腰かける。春の日差しを浴びて川面は幸せそうに光り、その向こうには小さくスカイツリーが見えた。

 時計を見ると予定の時刻までには、まだかなり間がある。気が逸っていたことを自覚して苦笑したとき、イヤホンから流れてきた曲が僕をはっとさせた。それは懐かしい宇多田ヒカルの「COLORS」だった。

 なぜか隣にあの人がいるような気がして、僕は左右を見回す。

 でも誰もいない。今の僕の隣には誰もいない。

 イヤホンからは切なく美しいメロディが流れ続けている。

 僕は瞼を閉じて音楽に耳を澄ませた。当時のことを思い出すと、たまらなく感傷的な気分になる。ふたりでこれを聴いたあの時間はもう帰らない。過ぎた日々は決して取り戻せない。本当に、あれから長い年月が流れた。

 流れたんだ――。


 これから僕が語るのは何もかも終わったことだ。つまりは回想の中の出来事だ。

 でも、だからこそ、それは今も瑞々しく細部まで輝いている。

 僕は大切に思い出していく。抱きしめたくなるような愛おしいあの日々を。



――――――――第一章 小学生時代――――――――



 自分が生まれた年に、どんな出来事があったのか調べたことはあるだろうか?

 僕の場合は生まれた年に東京オリンピックとパラリンピックがあった。国をあげての祭典だったそうだが、もちろん当時の僕は赤ん坊だったから何も覚えていない。後年、ユーチューブで動画を見て、少しくらっとしただけだ。

 力を尽くす各国の選手と応援する観客たち――初めて見るその映像は、すべて遠い過去のこと。そしてそれは想像させる。幼い僕のおむつを替えながらTVでオリンピックを見ていたであろう、若き日の父と母の姿を。

 そんなことを考えていると時間というものの不思議さが身に染みて、当時の僕に目まいを起こさせたのだった。

 そう、僕は二〇二〇年の六月に生まれた。名前は嵯峨ナツキ。少子化が叫ばれる中で、社会的には祝福されて誕生したのだ。

 僕は両親の愛情を受けて、すくすくと成長する。

 一歳には立って歩けるようになり、二歳のころには自分の気持ちを言葉で表現できるようになって(ママの・ごはん・おいしい)、やがて小学校に進んだ。

 ランドセルが似合う青葉の季節だ。担任の先生に将来の夢を訊かれると、クラスの多くがユーチューバーと答えていた時期でもある。今思うと本当に懐かしい。

 そして小学校生活も佳境に入った十二歳の夏に、その不思議な出来事が起きる。

 忘れもしない。あれは七月一日の気持ちのいい午後だった。

 当時のことを振り返るたびに、まずは優しい母の声が僕の胸によみがえってくる。

「ナツキー、準備できたー? そろそろ行かないと間に合わないよー?」

 一階から母の声がして、部屋で読書していた僕は紙の本をぱたりと閉じた。

 読んでいたのは図書室で借りたマーク・トウェインの児童文学。王子と貧乏な少年が入れ替わる話だ。今思えばどこか暗示的だが、そのときは何も気づかなかった。

「ナツキー?」

「ん、今行く……」

 自分の部屋を出て、僕こと嵯峨ナツキがダイニングルームに顔を出すと、エプロン姿の母がいた。テーブルの上には料理の材料がたくさん並んでいる。

 僕の前で屈むと、母は少し心配そうに言う。

「平気、ナツキ? ひとりでちゃんとできる?」

「もちろん。もう子供じゃないんだから」

「そうだっけ?」

「そうそう。だから母さんは安心して料理してて。歓迎会やるんでしょ? ごちそう作るの、間に合わないよ」

 そう言って母を「はいはい」と苦笑させた当時の僕は小学六年生。暇なときはいつも本を読んでいたせいか、無口で早熟だと言われることが多かった。初対面の人には中学生に間違われることも多く、実際にそれを装ってもばれなかった。

 ともかく、大抵のことを僕がそつなくこなせるのは母にもわかっていたはずだ。

 でも優しい母が、僕を細かく気にかける理由もわかる。

 うちは母子家庭なのだ。家族は僕と母のふたりだけ。

 父の嵯峨愁は、僕が八歳のときに肺がんで死んだ。煙草が好きだったらしい。享年三十八歳の若すぎる死だった。

 現在、がんは決して死の病ではない。でも父の愁は多忙で、海外出張や出向も多かったから早期発見ができなかった。わかったときには転移もしていた。

 入院すると、父はあっという間に逝ってしまった。

 父の死から四年が経った今では、生活に支障がない程度には悲しみも薄れている。でも当時の母の苦悩は大変なものだったはずだ。

 というのも、それまでの母の職業は小説家だった。なかなか人気があったようだが、父の死後はぱったりと何も書けなくなってしまった。創作意欲やイメージが煙のように消えてしまったのだという。それだけ心に深い傷を負ったのだろう。

 その後の母は筆を折り、今は近くのスーパーマーケットで働いている。

 これはこれで楽しい仕事だと本人は言っているが、父が存命なら作家を続けていたはずだと考えると、僕としてはやっぱり少し淋しい。もちろん口には出さないけれど。

 そういえば、父の愁の件で言い忘れていたことがある。

 去年、家の物置を整理しているときに偶然、古い金庫をみつけた。

 そして、これがどうやら父のものらしい。年代物の小さな金庫で、0から99までの数字を示すことができるダイヤルが一個だけついている。

 一見、子供向けの玩具のようでもあるが、手強くて、いくら試しても開かない。

 壊してまで無理に開けなくてもいい。物置に忘れられていたのだし、大事なものではないのだろう――母にそう言われて放置しているものの、いつかなんとかしたいと僕は思っていた。方法さえわかれば開くはずなのだ。

 今から迎えに行く相手が、それを知っている可能性もなくはない。

 何せその人は、父の愁からすれば姪に当たる人。

 僕にとっては、初めて会う従妹なのだから。

「麻百合ちゃんに会ったら、はじめましての挨拶を忘れないでね。困ったときはお母さんに電話するのよ?」

 まだ心配そうな母に「大丈夫だよ……」と言って僕は玄関に向かった。

「行ってくる」

「うん、ごちそう作って待ってるからね。行ってらっしゃい!」

 夏の光の下、玄関先で手を振る母に見送られて、僕は歩き始める。

 その日、僕は従妹の雪見麻百合を、駅まで迎えに行くことになっていた。

 なんでも麻百合の両親が、仕事の都合で海外に長期滞在するのだという。それでしばらく預かることになったのだ。うちは僕と母のふたり暮らしで空き部屋があるし、向こうは充分な生活費を支払うそうだから、悪い話ではないのだろう。

 ただ、従妹がいたなんて、今回の話が持ち上がるまで僕はまったく知らなかった。

 叔父と叔母にも会った経験はないし、存在したこと自体が初耳だった。

 母は「あれー、言ってなかったっけ?」としらばくれていたが、そんな不自然な話があるだろうか? 僕はかなりの違和感を覚えていた。

 でもそれと同時に、たぶん大人同士いろいろあったんだろうな、とも思っていた。

 世の中の親戚関係が良好なものばかりだとは限らない。よくわからないが、親類だからこそ揉めることだってあるだろう。

 もちろん従妹を預かる以上、犬猿の仲ではないはずだ。でもデリケートな問題には違いないから、麻百合という人に会ったあと、様子見しながら訊き出していこう。

 あのころの僕なりに気を使い、そんな方針を立てていた。



 戸田公園駅に着くと、待ち合わせの時間ぴったりだった。改札の前に目印の麦わら帽子をかぶった少女がいたので、近づいていく。

「僕、嵯峨ナツキだけど……」

 返事はなかった。彼女は妙にぼんやりとこちらを見ている。

「あのー?」僕は再び話しかけた。

「……あ、こんにちは! じゃなくて、えっと、はじめまして!」

「ん。やっぱり君が?」

「雪見麻百合っ」

 彼女はこくこくと慌ただしくうなずいた。一拍置いて僕が「そっか」と呟くと、彼女は照れたように「うん……」と俯く。

 麻百合は僕と同じ十二歳。前髪が長めで肌が白い、黒目がちの少女だった。麦わら帽子の他には半袖のシャツとチェック柄のスカートを身につけ、横長の大きなリュックサックを背負っている。いかにもおとなしそうな雰囲気だ。今は緊張しているのだろう。

 僕は軽く何か言おうとした。

「あのさ」

「あの!」

 でも間が悪いことに、お互いの言葉が重なる。「あ、どうぞ……」と僕がゆずると彼女も固い表情で「いえ、どうぞどうぞっ」と慌ててゆずり返した。

「いいよ。君から喋りなよ」

「ううん、どうぞ。ほんとにどうぞ!」

 困った。遠慮がちな初対面の従妹とギアが噛み合わない。

 でもまあ、何もこの場で長々と話しこむ必要はないだろう。歩きながらでいい。

「……母さんが今、君を歓迎するごちそうを作ってくれてる」僕は言った。

「う、うん?」

「行こう。かばん持つよ」

 麻百合からリュックサックを受け取り、僕らは歩き始める。駅を出て、埼京線の高架沿いの小道をゆっくりと進んだ。

 相変わらず微妙にきっかけが掴めなくて会話は始まらない。向こうが妙に緊張しているから、こちらも話を振るに振れなかった。

 でも、ここの道沿いには植物がたっぷり植えられていて、無言でも気持ちがいい。高架の下を横切るように菖蒲川が流れ、さらに南に進むと荒川がひろがっている。

 この荒川を越えると東京都だ。この辺りの埼玉県と東京都の中間が、今まで僕が生きてきたホームグラウンドだった。

 でも、その荒川にかかる戸田橋を渡っていたとき、見慣れないものを目にする。

 前方から蛇行するトラックが近づいてくるのだ。曲がりくねり、車道のセンターラインを何度もはみ出している。歩道で僕は眉をひそめた。酔っているのだろうか?

 目を凝らすと、車の中で運転手の体はぐらぐらと揺れている。居眠り運転みたいだ。

「……怖い」やっと麻百合が自分から口を開く。

「喋った」

「え?」

「こっちの話。うん、でもたしかにあれ怖いね。早く通りすぎちゃおう」

「あ、だけど……」

「怖がらなくていいよ。いざってときは守ってあげる」

 何気なく口から出た言葉だが、麻百合の顔が少し赤くなったように見えた。

 でもそれを確認する暇はなかった。視線の先で、ふいに車の中の運転手が顔を上げたのだ。目を覚ました彼は慌ててハンドルを切る。

 それは最悪のミスだった。車が歩道の僕らへ突っこんでくる。そして激突。ものすごい音がしてフェンスが壊れた。とっさに僕は麻百合を安全な方へ突き飛ばす。

 次の瞬間、僕のリュックサックに衝撃があった。

 横殴りのすさまじい力だ。両足が宙に浮き、ひやっと全身が総毛立つ。

 そして気づいたときには、僕は宙に高く投げ出されていた。

 青空と音のない世界。ひどく非現実的な現実。橋の欄干を飛び越え、僕は弧を描いて荒川の水面に落ちていく。あっという間に着水し、川の底へと沈んでいった。

 もちろん、もがいた。必死に手足をばたつかせた。でも浮かびあがれない。

 そう、僕は泳げないのだ。息が苦しく、次第に意識がぼんやりしてくる。

 この冷たい水の中で僕は死ぬんだ――。

 死は決して悪いだけのものではないという価値観が当時の僕にはあった。なぜかはわからないが、それは僕の中に自然と息づいていたのだ。

 とくに自分の意思で死ぬことについては安らぎのイメージがあった。苦しみのない世界への旅立ち。自分から天国に行くのも、ひとつの幸せの選択なんじゃないか?

 思い返すと本当に不思議だが、当時の僕はそんな考えを持っていたのだ。大人になった今となっては恥ずかしい。きっと頭でっかちで心が幼かったのだろう。

 ただ、実際に死にかけているとき、そういったものはすべて吹き飛ぶ。考える以前に生存本能が答えを出すのだ。

 死にたくない――。

 不思議な声が聞こえたのは、その瞬間だった。


(じゃあ人生を取り替えよう)


 ぎくりとしたのは、それが僕の声だったからだ。僕が思ってもいない言葉が、僕の声で僕の心を駆け抜けていった。何がなんだかわからない。

 わからないが、次の瞬間、僕は思いきり感情をほとばしらせていた。心の中で激しく叫んだのだ。

 取り替える!

 もっと生きたい! 死にたくなんかない!

 すると霧に似た白い光が頭の奥から湧き出す。たちまち光は意識の隅々までひろがり、僕はその輝きに包みこまれた。そしてふっと意識を失った。



 ゆっくりと瞼が開く。体を濡らす水の冷たさが、ここは現実だと告げていた。

 気を失っていたらしい。僕はうつ伏せで倒れており、頬や胸に川底の小石が当たっている。背中には照りつける太陽の熱を感じた。

「――ぷはっ!」

 起きあがると、そこは足首までしか水がない浅瀬だった。

「ここは……?」

 少し頭が痛むのは転んだせいだろう。僕はゆっくりと周囲を見渡す。

 柔らかな草が茂る広い川原だった。辺りには誰もいない。靴を濡らす水は透明で、空気はさらさらしている。川の両岸には樹木がこんもりと密集していた。

 本当にここはどこなのだろう? 僕は荒川の下流まで流されたのか?

 不幸中の幸いというべきか、手も足も折れていなかった。麻百合のリュックサックは近くに見当たらなかったが、あれが衝撃を吸収してくれたに違いない。

 そのとき、ふいに頭上から声がする。

「ねーっ!」

 顔を上げると、近くの橋の上に赤いランドセルを背負った少女がいた。橋の欄干に腕をのせて、こちらに身を乗り出している。

「大丈夫ー? 嵯峨くんっ」

 僕はまばたきする。見覚えのない初対面の相手だったが、彼女はこちらを知っているらしい。混乱して「さあ……」と首をかしげると、彼女は川原におりてきた。石ころだらけの足場を飛びはねるようにして僕のそばまで来る。

「平気? 転んだでしょ」

 彼女は僕の顔を覗きこむように見た。

「途中からだけど見てたよ。水辺の生き物を探してたんだよね? 川底の石はすべるから危ないよ。気をつけないと」

「水辺の生き物?」僕はきょとんとした。「何の話?」

「何の話って……。今日の理科の時間に習ったじゃない。例えばそこの荒川にもいろんな水生生物がいるんだよって。だから探してたんじゃないの?」

「……どうなんだろう」

 一応ここは荒川なのかと思いながら「わからない」と僕はかぶりを振る。

「えー? もしかして頭打っちゃったのかな……?」

 彼女は少しためらったあと、僕の額にそっと手を当てる。小さな柔らかい手のひらだった。優しい女の子なのかなと僕は思う。

 まもなく彼女は、ほっとしたように息を吐いた。

「ん、大丈夫。こぶはできてないよ。そんなに変な転び方にも見えなかったし、平気だとは思うんだけど」

「僕もそう思う。痛みも少しずつ引いてきたし」

「ん、よかった。……あ、でもほっぺたを擦りむいてる」

「そう?」試しに頬に触れてみると、ちくりと痛んだ。「あぁ……ほんとだ」

「大丈夫。待ってて」

 彼女は背中の赤いランドセルをおろすと、中をまさぐり始めた。

 それにしてもこの子は誰なんだろうと僕は改めて思う。好奇心の強そうな、ぱっちりした目の少女だった。年齢は僕と同じくらいで、黒髪の自然なボブカット。清涼感のある白いシャツに、鮮やかな青のデニムスカートとスニーカーがよく似合っている。

 彼女はランドセルの中から絆創膏を取り出すと、僕の頬に貼ってくれた。

「はい。これでよし」

「……ありがとう」

「どういたしましてだよ」

 彼女は黒髪をふわっと耳にかけて微笑んだ。一瞬それに見とれて、思った言葉がそのまま口から出る。

「いい子……」

「えっ?」

「なんでもない」僕はすばやくごまかした。

「なんでもないならいいんだけど」

「ところでさ、君……誰?」

 彼女は面食らったようにあごを引く。眉をよせて無理したふうに、あはぁと笑った。

「嵯峨くん、ひどいよぅ。話したことはなかったけど、一応同じクラスじゃない」

「……同じクラス?」

「君と同じ六年二組です。名前は瑠衣」

「それは……小学六年生って意味?」

「当たり前でしょ?」彼女は目をぱちぱちさせた。「いくら退屈でも朝の出欠確認くらいはちゃんと聞いておこうよ。わたしは全員の名前を覚えてるよ。もちろん君の名前もね、嵯峨愁くんっ」

 その瞬間、僕は言いようのないショックを受けた。

「……嵯峨愁?」

「うん」

「今の、もう一度言ってくれない?」

「べつにいいけど。嵯峨愁くん」

「嵯峨愁。うん、ありがとう」

 なぜこの女の子が知ってるんだ?

 嵯峨愁は僕の死んだ父親の名前だった。そして、どうしてその名前で僕を呼ぶのだろう? からかっているようには見えないが、だったらなおさら意図がわからない。

 ふと気づき、僕は自分が着ている服を見直す。

 細身の黒いパンツに、インディゴブルーのシャツ。わりと格好いい。

 でも僕の趣味じゃなかった。そもそも僕はこんな服を持っていない。そしてなぜか体は前よりも二割ほど細くなっている。これは痩せすぎと言ってもいい。

 ポケットに手を入れると、財布と携帯電話が入っていた。スマートフォンではなく昔の携帯電話だ。僕が倒れていたのは浅瀬だったから濡れてはいない。

 慣れない携帯電話を僕は苦心して操作した。驚いたことに画面をタッチするのではなく、ボタンを使うタイプだ。SNSなどのアプリはない。メールの受信箱には嵯峨愁に宛てたものが何通も入っている。夢でも幻でもない現実のデータだ。

 どうにかカメラを起動した。そして僕は自分の顔を撮影して、その画像を見る。

 心臓がどくっと跳ねたのは、見知らぬ男子がそこにいたからだ。

「……誰?」

 なんてことだろう。僕は僕ではなくなっていた。

 顔立ちこそ似ているが、もっと線が細くて髪は少し長め。睫毛が長く、どこか眠たそうな目をしたミステリアスな少年だ。

 僕は瑠衣と名乗った少女をこわごわ振り返る。

「あのさ」

「今度は何?」

「僕って……誰?」

「もーっ。だから嵯峨愁くんだよう。君って、じつは天然くんだったの?」

 くすくす笑う彼女の前で、僕の中にひとつの仮説が形成されていく。今の僕が嵯峨ナツキではなく、父と同じ名前の嵯峨愁なのだとしたら――。

「ねえ、あとひとつだけいいかな? 今日って何年の何月何日?」

「嵯峨くん、ほんとに何? 記憶喪失にでもなっちゃったの? 二〇〇二年の七月一日に決まってるじゃない。ちなみにここは埼玉県だよ。みそポテトとお蕎麦がおいしい秩父市だよ」

「二〇〇二年……」

 僕は震撼した。やっぱりそうなのか。

 つまるところ今日は、僕がいた時代のちょうど三十年前。僕は二〇三二年の七月一日から、三十年前の七月一日に来てしまったのだ。本来なら、まだ生まれてもいない過去の世界だ。だとしたら、この体の持ち主はひとつしかありえない。

 それは「僕と同い年だったときの父親」!

 僕は十二歳のときの、嵯峨愁になってしまったのだ。

 だからこそ今の僕は戸田橋の近くではなく、秩父市にいる。 

 ここには父の実家がある。子供のころの父がずっと暮らしていた土地なのだ。

 そう、水中で頭に響いた不思議な声の言うとおり、僕と父の人生は取り替えられてしまったのだろう。「同じ年齢」という条件で、まるごとすっぽりと。

「……なんてことだ」

 呆然と立ち尽くす僕を、なんだか腑に落ちないという顔で瑠衣が見ていた。



 他人から見た今の自分が嵯峨愁なら、当面は彼として生きるしかない。

 僕はひとまず帰宅することにした。宅とはいっても、父である嵯峨愁の実家だが。

 川原に落ちていた愁のランドセルを拾い、僕は歩き始める。

「待ってよ、嵯峨くん。一緒に帰ろっ」

「家は? 近いの?」

「そういうわけじゃないけど。せっかくだし」

 親切にも、瑠衣が途中までの道案内を買って出てくれる。こんなに優しい女の子と話したことがなかったなんて、父はどんな男子だったのだろう?

 やがて瑠衣は突き当たりの交差点で立ち止まった。

「じゃあ、わたしはここで」

「あぁ……。悪かったね、いろいろ」

「いいよ、あれくらい。ばいばい!」

 にこっと微笑んで彼女は走り去り。僕はわずかに後ろ髪を引かれる。

 いや、まあいい。とりあえず県道まで出れば、祖父母の家への道はわかる。僕が八歳のときに父が死んでからは自然と疎遠になり、ずっと行っていなかったが。

 二〇〇二年の夏の秩父市は僕の時代とあまり変わっていなかった。広い青空と、草木の豊かな匂い。なんだか無性に幼いころを思い出す。

 ややあって目的地に着くと、僕は嵯峨という表札が出ている門をくぐった。

「ふうん……」

 少し感心する。昔は古びた独特の建物だと感じたものだが、今こうして見ると新しくて立派だ。じつは父は、わりと裕福な家のお坊ちゃんだったのかもしれない。

 玄関で深呼吸すると、懐かしい祖父母の家の匂いは変わっていなかった。

 内心どきどきしながら玄関で靴を脱いでいると、背後から廊下を歩いてくる音がする。

 振り返ると見知らぬ青年がいた。学生服を着ているから中学生だろう。茶色い髪の毛先を外側にはねさせた、端整な顔の男子だ。

 彼は「おやおやー?」と目をまるくすると、いきなり流暢にまくし立てた。

「遅かったじゃないですか、愁くん! 今日はお勉強の日だったはずでしょ。俺、待ってたんですよ。カルガモの親子が道路を渡り切るまで動かないパトカーみたいに根気強く待ってたんです。おっとー。もしかしてこれって愁くん流の焦らしのテクニックですか? だったら憎いよ、このカサノヴァ小学生っ。押したり引いたりで、俺の心をもてあそんで!」

 なんだこの人、と僕は呆気に取られて呟く。

「うるさ……」

「にべもない反応!」

 言下にそう返すと、青年はけらけら笑った。ものすごく陽気な人だった。何が面白いのかは見当もつかないが、とりあえず愁とは仲がいいらしい。

「それはさておき」青年はさらりと平静な顔になる。「ちょうど今、おやつをごちそうになってたところなんです。ぜんぶ俺がたいらげちゃう前に、愁くんも!」

「は、はあ」

 僕は彼に背中を押されてリビングルームに行く。これが二〇〇二年のフィーリングなのだろうか。リビングのテーブルでは、三十代の上品な女性がアイスティーを飲んでいた。僕に気づくと、彼女は優しく微笑む。

「おかえり、愁」

「た、ただいま……」 

 返事をしながら僕は必死に衝動をこらえていた。――危ない。もう少しで「おばあちゃん、若い!」と声に出すところだった。

 その人は嵯峨愁の母親の嵯峨秋子。つまり僕の祖母の三十年前の姿だった。

 柔らかそうなショートヘアで、ベージュ色のサマーニットを着ている。本当に若い。祖母にもこんな時期があったのかと僕はひそかに驚いた。

 あれから長い月日が流れた今考えると失礼極まりないのだが、当時は実感できていなかったのだ。「おばあちゃん」が昔は父の「お母さん」だったことを。父も最初から父親だったわけではなく、昔は僕と同じく少年だったという事実を。

「今日は少し遅かったのね。何かあったの?」愁の母の秋子さんが言う。

 秋子さん――僕の知っている祖母とはやっぱり別人に見えるから、心の中ではそう呼ばせてもらおう。

「べつに……。転んだからクラスメートに手当てしてもらってた」僕は答える。

「あら、平気なの?」

「大したことないよ」

「そ。じゃあ、おやつにしなさい。食べる前に石けんで手を洗うのよ」

 見た目が嵯峨愁でも、僕の正体は嵯峨ナツキだ。でも彼女がそれに気づいた様子はなかった。ほっとしたような、どこか拍子抜けした気分で僕は手を洗う。リビングに戻り、秋子さんと学生服を着た青年に挟まれてテーブルについた。

 空腹だったこともあって、ひとまず僕はガラスの皿に入ったおやつに手をのばす。チョコレートで表面が覆われたポテトチップだ。

「珍しいでしょ? どう?」秋子さんが尋ねる。

「……いける」

「北海道の叔母さんが送ってくれたの。あとでお礼を言っておかなきゃね」

 あとで知ったことだが、このポテトチップは二〇〇二年のヒット商品で、かなり流行ったらしい。実際、チョコレートの甘みと、じゃがいもの塩味がよく合っていた。

「うんうん、たまにはこうしてお菓子を食べつつ、まったりするだけの日があってもいいですね。日日是好日っ。なんだかんだで愁くんは遊び盛りの小学生なわけですし」

 前髪をかきあげて青年が明るく言う。

 秋子さんとの会話から知ったところによると、彼は愁の勉強を定期的に見てくれている人で、名前は中島透。僕より二歳年上の成績優秀な中学生だそうだ。

 親同士が知り合いで家も近所。だから中島透は昔から何かと愁の世話を焼いてくれているのだという。いわゆる幼なじみの親切なお兄さんなのだろう。

「でもやっぱりねぇ……。こういうのは習慣が大事だから」

 秋子さんが溜息をついて続けた。

「就職氷河期もまだ終わらないみたいだし、今の子たちって本当に大変……。中島くんがいてくれて助かるわ。食べ終わったら愁の勉強の方、見てあげてね」

「以上の件について、愁くんはどう思います?」

 中島さんがいたずらっぽい目を向けてくるので、僕は仕方なく答える。

「……じゃあ、お願いするよ」

 僕が元いた時代の「祖母」の彼女は、学業に口を出したことはない。

 でも、それは僕が孫だったからなのかもしれない。愁の「母親」の秋子さんには、わりと教育熱心で心配性な一面があったのかもしれなかった。



 間食のあと、僕は中島さんに勉強を見てもらうために二階の愁の部屋へ向かった。

「うわ……」

 ドアを開けると室内はおそろしく散らかっていた。床は玩具だらけだ。

 バトルえんぴつ、遊戯王のカード、たまごっち、ベイブレード、ゲームボーイアドバンス、初代のファービー……。他にも様々なものが散乱している。

 白い犬のかたちをしたロボットもあり、僕は思わずはっとした。

 それは昔この家に遊びに来たとき、リビングの窓際に置物として飾られていたものだった。あのときに見た犬型ロボットは色褪せて埃をかぶり、いかにも骨董品という印象だったが、今目の前にあるこれは新品同様だ。ただし動く気配はない。

「これは?」僕は中島さんに尋ねる。

「あー。それ、秋子さんがお風呂に入れてあげようとして壊したんでしょ? ずいぶん高価だったらしいのに、うそーんって感じですよね」

「ええぇ? おばあちゃん……」

 僕はつい脱力する。

 長い年月が流れて大人になった今思い返すと笑い話だが、それはAIBOというペットロボットだった。当時としては最新型で、子供の貯金では買えない。きっと愁が親にねだったのではないだろうか? 僕の父は恵まれた家で育ったようだ。

 それから僕は机につき、一時間ほど中島さんに勉強を見てもらった。ランドセルに入っていたノートを頼りに、ドリルの問題をひとつずつ解いていく。

「ほんと、今日はいい感じですね、愁くん。問題すらすら解いちゃって。いつもはもっとこう、勉強なんかやってられませんよってオーラがすごいのに」

「……そんな日もある」

「そう、今日はそんな日。明日はどんな日? もともと愁くんはやればできる子。やる、やるとき、やれば、やれ、やろう!」

 ラップのようにそう言いながら、中島さんは上機嫌だ。面白い人だった。

 やがて夕方になると「はい、今日はここまで!」と言って彼はそそくさと家に帰る。

 それで僕はようやく肩の力が抜けた。ふうっと深呼吸する。

「ほんと、いい人ではあるんだろうけど……」

 気づまりな時間だったこともたしかだ。

 僕はリラックスするために部屋の掃除を始めた。こんなに散らかった場所では今後のことを落ち着いて考えられない。本は本棚に、玩具は収納ボックスに、ゲーム機のコードはくるくると巻いて机の引き出しへ放りこんでいく。

 部屋が片づいたころ、愁の父親が帰宅した。そして「愁、夕食よー」と秋子さんが一階から僕を呼んだ。



 午後七時、僕は愁の両親と夕食をとった。家族三人の静かな食卓だ。

 夕食の献立はいわしのフライ、和風ハンバーグ、キャベツのせん切りとポテトサラダ。いわしのフライをさくっとかじり、愁の父の敏夫さんが言う。

「うまい」

「うまい」僕もうなずく。

「おいしいよねぇ、いわし」秋子さんがにっこりする。

 敏夫さん――愁の父で、僕の祖父でもあるこの人は、やっぱり三十年前の姿だから別人に見えた。だから秋子さんと同じように名前で呼ばせてもらおう。

 敏夫さんは見た感じ四十歳前後。目もとが涼しく面長で、細い眼鏡をかけている。なんとなくだが、もてそうだ。勤務先は埼玉県の大手IT企業。この家はそれなりに裕福なようだし、重い役職に就いているのかもしれない。

 後年、思い返したことを付け加えるなら、実際に敏夫さんは責任ある立場だった。いつも忙しくて家には寄りつかない。だから僕は彼と話した記憶がほとんどなかった。この日は例外的に帰りが早かったのだ。ただ、彼の多忙が何を意味していたのか知ってからは僕の見る目もずいぶん変わるのだけれど――。

 ともあれ、二〇〇二年のTV番組を見ながら、僕らは楽しく食事をした。

 いいな、こういうのって……と僕はぼんやり思う。

 本来なら、今はもっとびくびくしているべき状況のはずだ。それなのに落ち着く。この場所は僕が存在することを許してくれている。素直にあたたかいと感じる。

 でもそれと同時に、ひどく風変わりな気分でもあった。

 この家族団欒はたしかに心地いいけれど、実際には父のもの。僕は少年期の父の時間を追体験しているのだ。いわば父の記憶の中にいるような状況。そう考えるとすごく不思議な気分になる。究極のVRゲームというのは案外こういうものかもしれない。

 ふいに敏夫さんが、ポテトサラダを口に運びながら尋ねる。

「なあ愁、今日は学校どうだった?」

「え? なんだろう。……普通」と僕は答える。今はそう言っておくしかない。

「普通か」

「ん、ちゃんと行ったよ。普通に」

「そうか。……愁はいつも『普通』だなぁ」

 敏夫さんは苦笑した。一瞬、僕は強い衝動にかられる。この場で洗いざらい事情を打ち明けてしまおうか――。じつは僕の正体は、三十年先の世界からやってきた愁の息子なのだと。元に戻る方法がわからなくて途方に暮れているのだと。

 でも、できなかった。すっかりくつろいでいる彼らの前では、とても言えない。

「でもな、愁。それでいいんだ」敏夫さんが言った。

「えっ?」

「いいことも悪いことも大抵、自分の都合とは無関係に起きる。だったら気にすることない。何事もない普通の日こそが、本当の意味で自分らしい一日だってことだよ」

 敏夫さんは「普通こそが普通。それが神様の思し召しだ」と言ってうなずく。

 突然出てきた神様という言葉に僕は少し面食らった。でも真理なのかもしれない。



 夕食のあと、僕は二階の愁の部屋に戻ってベッドに寝転がった。

「ふう……」

 まったく大変な一日だった。

 でも当面、どうにか嵯峨愁として生きていくことはできそうだと僕は結論づける。

 正直、こんなに正体に気づかれないものだとは思わなかった。愁の両親には迷惑をかけてしまうが、しばらくお世話になろう。僕の心は嵯峨ナツキでも、体はれっきとした嵯峨愁なのだから。

 しかし、どうすれば僕は元のナツキの体に戻れるのだろうか?

 それを考える前に疑問がひとつある。

「父さんは……どうなったんだ?」

 それは非常に気になっていた。十二歳の嵯峨愁の体には僕が入っている。だったら十二歳の嵯峨愁の心はどこに? 考えられる行き先はひとつしかない。

「……僕の体に入ってるんだよな」

 他にはちょっと思いつかない。

 それに水中で聞こえたあの声も『人生を取り替えよう』と言っていた。あれが幻聴なのか妄想だったのかは不明だが、こうして僕が嵯峨愁になっていることは事実。

 だったらまずは現実を認めよう。これは精神の移し替えであり、プレイヤーの立場がまるごと入れ替わる人生ゲームなのだ。当時の僕にはそう理解するしかなかった。

「父さん……」

 僕は瞼を閉じて思い出に浸る。

 父の嵯峨愁は僕が八歳のときに三十八歳で死んだ。だから覚えていることはそう多くない。でも、もちろん忘れられない出来事はいくつもある。休日はよく一緒に遊んでもらったし、様々な場所に連れていってもらったりもした。

 最後に父とこの秩父を訪れたのは七歳のときだ。母が屋内で祖父母と話をしているあいだ、父とふたりで近所の草原を散歩したことを今でも記憶している。

 黒のポロシャツとデニム姿で僕の隣を歩いていた、父のあの姿――。

「……悪くない」草原の中で父がふいに呟く。

「え?」

 不思議に思って僕が顔を向けると、「あぁ、こっちの話。とくに意図はないよ。緑が多い風景って、なんとなく和むだろ?」と父はお茶目に目くばせした。

「ん。お父さんは原っぱが好きなの?」僕は尋ねる。

「そうでもない」

「……どういうこと?」

「あはは、悪い悪い。意味不明だったな」父は笑った。「……なんていうんだろう。ナツキにはまだわからないかもしれないけど、子供ができると、自分が幼かったころを妙に思い出すものでさ。お父さん、昔はここでの暮らしに退屈してたんだ」

「退屈?」

「そう。もっとこう、刺激が欲しかった。よくも悪くも、お父さんはそういう性格だったんだよ。周りに自然だけはいっぱいあったけど、べつに興味なかった」

 だけど、と父は声の調子をわずかに落とす。

「今こうして見ると、懐かしさだけじゃない。自分を育んできたものの一部がたしかにここにある……。そう思えて、胸が静かに熱くなるんだ。自然の懐は大きい。俺の故郷は今も昔も変わらない。そういうの、じつはぜんぜん悪くないよなって」

「ふうん……」

 当時七歳の僕は、父の言いたいことがよくわからなかった。首をかしげていると「ははっ。また変なこと言っちゃったな」と父は笑い、僕の頭をくしゃくしゃと撫でる。

「まぁ、あれだ。ナツキにもこの風景を好きになってもらえると、父さんは喜ぶ」

 好きな相手と好きなものを共有したいからさ、と父は照れ笑いしながら言った。

「うん! 僕、こういうの好き」

「そっか」

 僕の顔を見ながら父は頬をゆるめた。「父さんもナツキのことが大好きだよ」

 すごくうれしそうな表情だった。

 それから僕らは草原にシートを敷き、母が用意してくれたおにぎりを頬張る。

 しゃけと大葉がふんだんに入ったおにぎりだ。心地いい風に吹かれながら、父子で楽しく食事をした。食べながら、僕も父のことが本当に大好きなんだと全身で感じた。

 それが今でも忘れられない、父との印象的な思い出だ。

「……父さん」

 回想から我に返り、十二歳の僕は嵯峨愁の部屋のベッドの上で呟く。

「僕は今、父さんの子供時代を味わってるんだよ。残念ながら退屈する暇はぜんぜんなさそうだけど……」

 それどころか何もかも手探りの状態だ。少なくとも入れ替わりが元に戻るまでは。

 でも、なぜこんな不思議な現象が起きてしまったのだろう? 僕はしばらく考えたが、見当もつかなかった。今はもう少し身近なことに目を向けた方がいいのかもしれない。

 十二歳の父は、僕の体でうまくやれているのだろうか?

 それについては非常に気になるが、心配しても仕方なかった。だってこの時点からすれば、それはまだ起きていない出来事なのだから。父が見舞われる現象は今から三十年後に起きる。そんなに先では鬼だって笑えない。

 その後も僕はベッドの上でいろんなことを考えた。でも疲れのせいで、いつのまにかぐっすり眠ってしまっていた。



 翌朝、目覚めると普段とは違う天井が見えた。ベッドを出て、自分の姿を鏡で見ると、それはやっぱりミステリアスで眠そうな瞳の少年――十二歳の嵯峨愁のままだ。

「……仕方ない」

 ひと晩寝たら元に戻るような甘いものではなかったようだ。

 もう覚悟を決めるしかない。この入れ替わりは取り消せないのだ。

 そう考えると、急に元の世界の母のことが思い出される。「平気、ナツキ? ひとりでちゃんとできる?」――あの声がこだまのように心に響いてきた。

 できるさ、と僕は顔を上げる。

 きっとあの現象がもう一度起きない限り、元の体には戻れないのだろう。それまではこの三十年前の秩父で無難に暮らしていくしかない。

 無難に生きることは大切だ。嵯峨愁である今の僕に何かあれば、ナツキは将来生まれてこないかもしれないのだから。とにかく、今は目の前の現実に向き合った方がいい。

 僕は一階におりて顔を洗うと、かりかりのトーストと牛乳とヨーグルトという朝食をとった。それからランドセルを背負って玄関へ向かう。

「愁、今朝はずいぶん早いのね」秋子さんが見送りに来てくれた。

「たまにはね……。行ってきます」

「気をつけてね。行ってらっしゃい!」

 母親というのはありがたい存在なのだと、秋子さんを通して改めて実感する。

 さておき、家を早めに出たのは小学校の正確な場所を知らなかったからだ。登校中の生徒に適当についていく予定だったのだが、通学路の見守りボランティアの人が道を教えてくれた。校舎は優しいクリーム色だった。

 昨日の瑠衣の話だと、クラスは六年二組のはずだ。

 昇降口から廊下を奥に進み、教室に入ると懐かしい光景がひろがっている。

 小学生の僕が、小学校の教室をそう表現するのは本来はおかしい。でも直感的にそう感じたのだ。本来もう存在しないはずの過去が今、目の前にある。すべてが瑞々しくて、なおかつノスタルジックだった。

 そう、あれから長い年月が流れて、大人になった今でも僕は鮮やかに思い出せる。

 日直の名前が書かれた濃い緑色の黒板。チョークと黒板消し。木目の床。教師用の大きな三角定規。ふたつ合わせて並んだ机。教室の後ろに生徒の描いた図画がたくさん飾られた、二〇〇二年、平成十四年の小学校の教室――。

 教室内にはすでに多くの生徒がいた。窓際で楽しそうにTV番組の話をしている。

「昨日の犬夜叉、見た? すごかったよねぇ」

「うん、ほんと格好よかった」

「おジャ魔女となら、どっちが好き?」

「ミルモでポン!」

「人の話ちゃんと聞いてよーっ」

 多くの人が同じTV番組を観ているらしく、新鮮だ。そういう時代だったのだろう。

 ともあれ、僕は教室内をぐるりと歩きながら、愁の人間関係を軽く探ってみる。

「嵯峨くん、おはー!」

「おっはー、嵯峨くん」

「よう、今日は早いな、嵯峨!」

 男子も女子も気さくに僕に声をかけてきた。そういう意味だと、嵯峨愁は皆に幅広く人気があるらしい。しかし、そこからもう一歩踏みこんでくる者はいない。自分たちの輪に強引に招き入れたり、無意味にじゃれついてくるような人はいなかった。

 愁は知り合いは多くても、友達が少ないタイプだったのだろうか?

 首をひねって僕が廊下に出ると、昨日の親切な女の子にばったり会った。

「あ。君、昨日の――」

「瑠衣」彼女は先んじて言った。「おはよ、嵯峨くん」

「ん……。おはよう、瑠衣」

 今日の瑠衣は、ぱりっとした半袖シャツと赤いランドセルとデニムスカート姿だった。

「嵯峨くん、頭の方はもういいの?」

「ついてるよ、一応」

「見ればわかるよぅ」瑠衣は眉尻を下げて笑う。

「頭」と僕は言った。

「頭」と彼女も言う。「昨日、川で転んだでしょ。それで嵯峨くん、ちょっと変だったじゃない? わたしは誰、ここはどこって」

「まぁ、そんな言い方はしてないけどね……」

 でもせっかくだ。ここは誤解に便乗させてもらおう。

「おかげさまで、ひと晩寝たら痛みは引いたよ。でも、まだ混乱してるみたいでさ。悪いけど教えてくれない?」

「何を?」

「僕って、クラスではどんなやつだった?」

「また……!」

 彼女は大きな目をぱちぱちさせて、それから心配そうに眉根をよせる。

「嵯峨くん、それ、ぜんぜん大丈夫じゃないよね……?」

「なのかな? でも、だから早く思い出したいんだ。僕のクラスでの立ち位置とか、仲のいい友達のこととか。……頼むよ」

 僕が丁寧にお願いすると、「なんだかなぁ。面と向かって言うことじゃない気がするんだけど」と溜息をついて彼女は続ける。

「嵯峨くんは、まあなんていうか、わたしと同じかな。どう言えばいいんだろう。ちょっと変わった子?」

「へえ」

 それは少し意外だった。あははと彼女は苦笑して、手のひらを胸の前で振る。

「べつにさ。これって個人の意見だからね? わたしの目には、なんとなくそう見えてただけ。だって、いつもひとりで行動してるんだもん」

「そうなんだ?」短期間のうちに父に抱いていたイメージが急変していく。「でも、みんな普通に挨拶してくれたし、嫌われてる感じはしなかったけど」

「嫌われてなんかないよ。むしろみんな憧れて、一目置いてる? それだけ人気があるのに友達を作らないから変わってるんだよ。なんていうのかな。嵯峨くんは自分から、みんなとのあいだに線を引いてるというか……少し離れたところで観察してる感じ?」

 そっか、と僕は頬をかく。

「一匹狼だったのかな。それとも人づきあいが退屈だったのかな」

「自分のことでしょっ? でも、うーん……どうなんだろうね」

 彼女は眉尻を下げ、少し困ったように微笑んで言葉をつぐ。

「嵯峨くん、なんでもよくできるし、大人っぽいからじゃないのかな。周りの人が子供に見えちゃうことって、誰にでもあると思うんだよ……ときどきは」

「君も? そうなの?」

「わたしは……べつに」

 瑠衣は口を濁して黙った。含みのある沈黙に感じたが、気のせいかもしれない。

 ともあれ、僕は純粋に疑問に思う。少年時代の父は具体的にどんな性格だったのだろう? もしも同じ時代にいたら友達になれただろうか? 想像すると、どこか遠くに来たような不思議な感覚になる。

 僕はかぶりを振って彼女に向き直った。

「ところで瑠衣はどこが変わってるの?」

「わたしもやっぱり同じかな。……いつもひとりだから?」

「ふうん」

「ふうん、だよね」

 瑠衣は少し無理な笑みを浮かべる。「ふうんとしか言えないよね、こういうのは」

「いや、べつに。僕でよければ手を貸すけど」

「何に?」

「友達のこと。お返しがしたいから」

 一瞬、瑠衣の表情がぱっと明るくなり、すぐに元に戻る。

「でも……わたし」

 彼女が何か言いかけたとき、僕は後ろから誰かが廊下を歩いてくることに気づく。振り返ると、三十代くらいの垢抜けた雰囲気の男性がいた。

「あの人、誰?」僕は瑠衣に尋ねる。

「また、もう。能代先生に決まってるでしょ。担任だよっ」彼女は笑った。

「……だよね」

「ほらほら。朝の会、始めるぞ。みんな席につけー」

 能代先生がそう言うと、廊下にいた生徒は一斉に教室へ戻っていった。



「はい、元気です!」

 朝の出欠確認で名前を呼ばれた生徒は、なぜか皆そんな返事をした。「はい」だけでは足りないらしい。この学校のルールなのだろうから、僕も真似をする。

「嵯峨愁」

「はい……元気です……」

 元気のない声で言ってみたが、僕が愁ではないことに気づく者はいなかった。

 出欠確認のあいだ、僕はクラスメートの顔と名前を覚えることに集中した。名前にはなんとなく独特の傾向がある。こういうのって時代で決まるんだなと思う。

 それにしても瑠衣はなかなか名前を呼ばれなかった。昨日、朝の出欠確認くらいはしっかり聞いておくように彼女に言われたこともあって、少し気にしていたのだ。

 そもそも初対面のときに瑠衣の苗字を聞き忘れていた。

 出欠確認は五十音順だから、とりあえず安藤や伊東ではない。瑠衣というのは可愛い名前だし、変なものでなければいいと思う。「きみがわ」とか「しにものぐ」といった苗字なら目も当てられなかった。

 埒もないことを考えていると彼女が呼ばれる。

「緑原瑠衣」

「はい、元気です」

 その瞬間、僕の心臓は強烈に跳ねる。全身から汗がどっと噴き出す。

 いったい何が起きた……? 頭が理解するよりも先に体が驚いたのだ。

 ――緑原瑠衣。

 その名前を僕は知っていた。

 緑原という珍しい苗字とセットで覚えていたから、名前だけでは気づかなかった。そうだ、あれはたしかに瑠衣という名前だった。緑原瑠衣だ――。

 それを呼び水に記憶が次々とよみがえる。父との思い出と混ざり合い、心の奥底に刻まれた出来事があふれてきた。

「あのファイルだ……」

 思い出す。

 あれは去年の早春の、よく晴れた昼下がりのことだった。

 もちろん去年というのは僕が元いた時代の去年のことだ。当時の僕は小学五年生。入れ替わりが起きる前だから、嵯峨ナツキとしてのんびり休日を過ごしていた。

 ちょうど母が外出していたので、僕はひとりで家のパソコンを使っていた。前からひそかに取り組んでいたことがあったのだ。

 それは、父の愁が遺した文書ファイルを読めるようにすること。

 うちのパソコンは生前の父も使っていた家族の共有物だ。そしてあるとき僕は偶然、ハードディスクの見えない場所に、亡き父の秘密の文書ファイルが隠されているのをみつけてしまったのだった。

『そして、その日まで君を愛する』という名前の文書ファイルだ。

 母も存在を知らないそのファイルを僕は沈没船をサルベージするように引きあげた。でもファイルは施錠されていた。普通の方式とはまったく違う特殊な鍵がかかっている。よほど見られたくないものらしい。

 そういうものを僕の母なら見ようとしないだろう。亡き父の意思を尊重して、封じられたままにしておく。だから僕は単独で解錠しようと決めた。そしてひそかにずっと悪戦苦闘していた。それを読むことで、父の一部を取り戻せるような気がしていたのだ。

 そして僕はその日とうとう鍵を開けることに成功する。

「……やった、開いた!」

 深層ウェブでたまたま手に入れた、特殊な解錠ツールが役に立った。

 それは暗号化されたファイルを無理やり開けるというもので、まだプロトタイプだと書かれていたが、試しに使ってみたら効果てきめんだった。

 僕は早速『そして、その日まで君を愛する』を開いて読もうとする。

 でもその解錠ツールには、やはり仕組み上の問題があったらしい。

「あ……。化けてる」

 ファイルの中身は、ほとんどが変な記号に文字化けしていた。

 とくに後半はまったくだめ。仕方なく僕は前半の読める部分だけを拾い読みする。

 どうやらそれは父の自分史らしかった。自ら綴った人生の記録だ。

 でも父のこれは――たぶん小説家だった僕の母の影響で――かなり小説風に書いてある。台詞や心理描写がたっぷり織り交ぜられていて、躍動感があるのだ。

 面白いのは、大人が子供時代を振り返るように書いてある点だ。会話は少年少女の言動を再現しているのだが、地の文は大人の筆致らしく端正に整理されている。

 まあ回想して書いているなら当然そうなるのだろうが、なかなか効果的に思えた。よくわからない不思議な郷愁を醸し出している。

 でも拾い読みを続けていくうちに、おだやかじゃない記述に行き当たった。

 読み進めていくと血の気が引く。

「……なんだこれ?」

 そこに書かれていたのだ。父が小学六年生のときに起きた、おそろしい連続殺人事件のことが。

 ぜんぶで四人殺された、その事件の最初の被害者の名前が『緑原瑠衣』だった。