「できた……」
加納美哉(かのう みや)は、満足げに小鍋を見つめて火を消した。
久々に作ったおじやだが、卵がちょうどよくトロットロでいい出来だ。
おじやをそっとお玉ですくうと、手のひらにおさまるくらいの小さな器に注ぐ。
細かく切ったネギを上に散らして、器をダイニングテーブルに置いた。
「どうぞ、透(とおる)さん」
透と呼ばれた青年は嬉(うれ)しそうに微笑(ほほえ)んだ。
年の頃は二十六歳の美哉と同じか少し上だろう。
染みもしわもない白い肌は、羨ましいほどなめらかだ。
派手な顔立ちではないが、よく見ると整っているのがわかる。
すらりとしたスタイルも魅力的だったのだろうが、今は栄養失調になったせいか痩せすぎて痛々しい。
「ありがとう、美哉さん」
透はそっとスプーンを手に取ると、ふうふう息を吐きかけながらおじやを少しずつ食べ始めた。
その様子を美哉は向かいに座ってじっと見つめた。
彼の名前は透。苗字は教えてもらわなかった。病院に付き添ったとき名前を呼ばれていた気がするが、あまりに慌てていたので覚えていない。
なんとなく『さとう』だか『かとう』だかそんな響きだった気がするが、もっと別の名前かもしれない。
彼が詮索されるのを嫌がるだろうと、敢えて聞いていない。
そう、美哉は苗字も年齢もろくに知らない訳ありの青年と訳あって同居することになってしまっているのだ。
「ニャーン」
甘えた声で体を透の足にすり寄せてきたのは、真っ白い毛並みの猫、アガサだ。
目は青と金のオッドアイで、見るたびにその美しさに感嘆してしまう。
ちなみに、すべてはこの猫がきっかけだ。
「アガサ、お腹すいた? 美哉さん、キャットフードをあげてもらえます?」
「わかりました」
美哉は近くのドラッグストアで買っておいたキャットフードの缶を慌てて出した。
猫を、いやペットを飼うのは初めてだ。自分が何も知らないことを思い知る。
そう言えば猫のごはんって一日何回あげるんだろう? 飼うのであれば何が必要なんだろうか。
あとで透に聞いて、明日必要なものを買ってこなければ。
美哉は急いでキャットフードを空のプラスチック容器にいれて出す。
「はい、どうぞ」
「ニャン」
まるで『ありがとう』と言われた気がして、美哉は苦笑した。
アガサがはぐはぐと小さな口で少しずつごはんを食べていく。
美哉の新しい同居人は、透と猫のアガサだ。
この奇妙な同居生活の発端は、昨晩土砂降りの雨の中、酔っぱらった美哉が透の飼い猫であるアガサを拾ったことだった。
そのときのことは自暴自棄すぎて、あまり思い出したくない。
その翌朝、つまり今朝(けさ)いろいろあり、栄養失調で倒れた透を病院に運んだりして――そう何となくなし崩し的に同居が始まってしまったのだ。
自分の下した大胆な決断に対しては多少の後悔と、これで何かが変わるんじゃないかという少しの期待が入り混じる。
同棲していた彼と別れてからの自分の投げやりな生活を、自分一人の力では変えることができなかったからだ。
もちろん、得体の知れない男性と同居するというリスクは承知の上だ。
だが、初めて会ったときから透は大人しく優しく、こちらに対して精一杯の気遣いと敬意を向けてくれていた。
それに何より、異性と二人きりでいるときに感じるプレッシャーがないのだ。目の前にいるのは人ではなく、植物であるかのような不思議な気分だ。
アガサはお腹がすいていたのか、あっという間にキャットフードを平らげてしまった。プラスチックの器は軽すぎて安定せず、食べにくそうだ。
「アガサ用の器とか、いろいろ用意しなきゃですねえ……」
猫を飼ったことのない美哉だったが、トイレ用品やキャリーバッグなどがすぐに浮かぶ。
そのとき、美哉はアガサを愛しげに見つめている透の手が止まっていることに気づいた。
「あれ? もうお腹いっぱいですか?」
「ええ……」
小さな器に入ったおじやは半分くらいしか減っていない。
美哉はため息をついた。
「ほんの少しなんですから、もうちょっと頑張ってみてください」
「食欲が……」
「ダメです。食べないと、ウチにおきませんよ」
強く言ったのは、透が栄養失調で倒れたからだ。どうやら最近まともな食事をとっていなかった様子で、意識してバランスのいいご飯を食べさせるよう医師に言われている。
なので、晩ごはんは消化が良くて栄養のあるおじやにしてみた。
「わかりました。美哉さんがそう言うなら」
再びスプーンを手にすると、透が少しずつ食べ始める。
素直に言うことを聞いてくれたので、美哉はホッとした。
自分は透の家族でも恋人でもないので、できるだけ出しゃばった真似(まね)はしたくない。だが、同居人兼大家として早く元気になってもらいたかった。
拾った男性と猫。これからは彼らとの新しい暮らしが始まる。
わずかな不安とともに期待が胸にわきあがってくる。
そうだ、いつまでも悲しんで絶望して家でゴロゴロしている暇はない。
立て直さないと。
自分の心と生活を――。
それには他者の目があるほうがいい。一人だと、ついまた悲嘆の海に自ら飛び込んで溺れてしまうだろうから。
だから、この同居はきっといい選択だったのだ。
美哉はそう自分にいい聞かせた。
「明日、急ぎで必要なものを買いにいきますね。えーと、猫用のごはんと器、トイレ、キャリーケース……」
いざペットを飼うとなると、思ったより費用がかかるということに美哉は気づいた。
「重たいので、持ち帰れないものは配送にしてもらってください。急いで必要なものは猫用のトイレと砂、食べもの関係ですね」
「わかりました」
「もちろん、僕が出しますよ。僕の猫ですから。お金をおろしてきますね」
透がよろよろと立ち上がった。
「あ、立て替えておきます! 元気になってからでいいんで!」
「そうですか……? すいません」
透が申し訳なさそうな表情になる。
「だから、ちゃんとご飯を食べて早く元気になってくださいね?」
「はい」
透がくすくす笑って美哉を見る。
ついつい長女の癖というか、お姉さんぶってしまう自分に美哉は顔を赤らめた。
*
「えーと、これでいいのかな」
翌日、美哉はペットグッズが豊富にある徒歩圏内のホームセンターに行った。
透はついていくと言ったが、美哉は固辞した。まだ顔色が悪く、足もとがふらついている状態の透に無理はさせたくない。
美哉は猫用のグッズと、ついでに透が着られそうな男性もののスウェットの上下を買った。
透は財布と猫以外何も持っていなかった。もちろん着替えもないし、取りにいく素振りもみせない。
とりあえず部屋着の替えが必要だ。あとは元気になったら自分で調達してもらえばいい。
「まずはこれくらいでいいかな……」
お会計をして袋を手に持つと、最小限にしたとはいえ、それなりに重いしかさばる。
次からはネット通販で購入した方がいいかもしれない。
そんなことを思いながら商店街を歩いていると、人だかりができている店が目に入った。
「なんだろう?」
気になった美哉は人だかりに近づいた。
どうやら新規に開店したお店らしい。店の前にずらっと並べられた見るも華やかなフラワーアレンジメントや花輪に、『開店祝い』の札が立てられている。
看板を見ると、健康食品専門店となっていた。
「健康食品かあ……」
店もおしゃれでちょっと高級感がある。
昔ながらの商店が多いこの付近では、珍しいタイプの店だ。
どんなものを扱っているんだろう。
美哉はつい気になって覗(のぞ)き込んでしまった。
店内から溢(あふ)れた人たちの隙間から、なんとか美哉は店先に置かれたカゴを見ることができた。
どうやら目玉商品らしく、派手な黄色い札がつけられている。
そこに書かれた『ココナッツオイル』という文字に目が引きつけられる。
一時期セレブがダイエットや美容のために使っているとかで話題になったオイルだ。
商品名の下には『大人気商品入荷!! 今だけの値下げ価格!! 売り切れご免!!』と大きく書かれている。
確かに人気があるようで、カゴの中身は半分ほどになってしまっていた。この人だかりだと、あっという間に売り切れてしまいそうだ。
「……」
店先に置いてあるし、客引き用のお買い得品なのだろう。
ココナッツオイルは前から気になっていたし、試しに買ってみようか。
手を伸ばしかけた美哉だったが、値段が目についた。
「千九百八十円……」
五百ミリリットルで約二千円。エキストラヴァージンオイルなのでものはいいのだろうが、普段購入するオリーブオイルの倍以上の値段だ。
美哉は思わずため息をついた。
二千円。それ自体はそんなに高い金額ではない。
会社員として働いていて毎月定収入があった頃なら、気軽に買っていったかもしれない。
だが、現在無職で収入のない美哉にとっては明らかに贅沢品(ぜいたくひん)だ。
「すいません!」
美哉の脇から手が伸び、カゴに入ったココナッツオイルの瓶が手に取られた。
同い年くらいの主婦らしき女性がそのままレジに向かっていく。
カゴの中にはあと十個も残っていないだろう。
今ならまだ――。
だが、乏しい財布の残りを思い浮かべると手は動かなかった。
ため息を一つつき、後ろ髪を引かれる思いで美哉は家路についた。
マンションの部屋に入ると、廊下にどさっと荷物を置く。
靴を脱いでいると、奥のリビングから透と猫が出てきた。
「お帰りなさい、美哉さん。お疲れさまでした」
「えっ、ええ、はい……」
美哉は戸惑いながら、荷物を持っていってくれる透を見た。
同棲していた彼が一度も迎えに出てきてくれなかったことに、美哉は今更ながら気づいた。
美哉が帰った音が聞こえていても、リビングのソファにどんと座ったままだった。
いろいろ無頓着な人だった。それがさっぱりして剛胆だと思えた時期もあった。
美哉は複雑な思いでリビングに入った。
透が荷物を袋から出すと、キッチンに入った。
「お茶をいれますね」
「えっ、そんなに動いて大丈夫ですか?」
「ええ。ご飯を食べて休んでいたらだいぶ元気が出てきました。やはり食べないとダメですね」
透が苦笑しながらお茶をいれてくれる。
「買い物、ありがとうございます。重かったでしょう?」
「いえいえ。足りないものはまた買い足しますね。とりあえず大丈夫だと思いますが」
お茶を飲んでくつろいでいると、美哉はなんとなくさっきのことを話したくなった。
本当に些細なオチもないつまらない話。友達にすら言わないような、ささやかな日常のエピソードだ。
だが、なんとなく透なら聞いてくれそうな気がして美哉は口を開いた。
「帰りに通った商店街で、新しいお店がオープンしてたんです」
「へえ。なんのお店ですか?」
興味深そうに透が目を輝かせる。
ああ、そうだ。こういう反応を期待していたのだ、私は。
美哉はそのことに気づいた。話題それ自体ではなく、『美哉が体験したこと』に興味を持ってくれることを。
すっかり嬉しくなって、美哉は話を続けた。
「健康食品のお店なんです。女性のお客さんがたくさん集まっていて、すごく賑わっていました」
「へえ。新規オープンの記念品を配っていたりしてたんですか?」
透がにこにこと穏やかに尋ねてくる。
「記念品はわからないですけど、目玉商品は置いてました。ココナッツオイルで、『大人気商品、今だけの値下げ』って書かれていて目の前で売れていきました」
「美哉さんは買いました?」
「迷ったんですけど、値下げしてても高くて……贅沢品かなってやめておきました」
「正解かもしれませんね」
透が静かに言う。
「買わなくてよかった、っていうことですか?」
「もちろん本当に大人気なのかもしれませんが、人だかりといい札の煽(あお)り文句といい、バンドワゴン効果をうまく狙っているのかもしれませんね」
「バンドワゴン?」
聞き慣れない言葉に、美哉は首を傾(かし)げた。
「バンドワゴンとは、行列の先頭を行く楽隊車、つまり楽器を演奏するバンドを乗せた馬車のことを言います。行動心理学用語で『バンドワゴンに乗る』というのは、『時流に乗る、勝ち馬に乗る』という意味です」
「流行(はやり)ものにのせられるってことですか?」
透が頷(うなず)いた。
「ええ。『大勢に支持されている』イコール『いいもの』、と思わせる効果です。たとえば、『アメリカで人気ナンバーワンのハンバーガーショップ』とか、『百万部突破のベストセラー本』とか気になりませんか?」
「……なります」
テレビや店頭で見たり聞いたりするそれらの言葉には、つい興味を惹かれてしまう。
「そういう心理をうまくついた集客をしているのかもしれませんね。サクラを雇って客がたくさんいるように見せて人を呼ぶ、という手法は珍しくありません」
「だから、買わなくて正解だったってことですか?」
確かに勢いにのせられて買いそうになった。その商品のことをよく知らないのに。
「もちろん、本当にお買い得でいいものかもしれませんが……商品名を覚えてますか?」
「ええ」
ラベルに書かれていた文字を美哉はスマホで検索してみた。
すぐに店頭にあった商品と同じものの画像が出てきた。
「あっ、通販でありますね……。こっちの方がちょっと安いです」
もちろん、送料のことや手間を考えると、店頭で買うほうがいいときもあるだろう。
だが、これは送料無料なので通販のほうが価格的には得になる。
つまり、『今だけ値下げ!!』と書かれていたが、そこまでお得な商品ではなかったということだ。
「慌てて飛びつかなくてよかったんじゃないですか?」
「そうですね……」
それに家でこうやって落ち着いて考えてみると、そこまでココナッツオイルが今の自分に必要とは思えない。
あのとき慌てて買っていたら、瓶を見るたびに自分の散財にため息をついていたかもしれない。
「透さんって物知りなんですね、バンドワゴン効果って言葉、初めて聞きました」
「ちょっと心理学関係の本を読み漁ったことがあって……。全部受け売りですよ」
透が急に早口になった。謙遜にしては、言い方も素っ気ない。
それどころか、透は美哉と目も合わせようとしなかった――何が地雷だったのか、どうやら触れられたくないことらしい。
これまでちょっと感じたことのないような気まずい空気がリビングに漂った。
温厚でにこにこしている透から、初めてぴりっとするような壁を感じる。
美哉は気まずさを打破しようと、自虐ネタを披露することにした。
「あの、もしかしたら恋愛でもバンドワゴン効果ってあります?」
「恋愛?」
話題が替わってほっとしたように、透が美哉に目を向けてくる。
よかった。
美哉は安心して話を続けた。
「大学時代に彼氏ができたんです。同じサークルの人で」
「サークルって?」
「旅行系のインカレサークルです。元彼とはそこで出会ったんですが、背が高くて明るくて目立つ人でした。体力もあって、重い荷物をもってくれたり」
「モテそうですね」
透が興味津々にこちらを見ている。〝恋愛話に〟、というより〝人に〟興味があるようだ。
「そうなんです。高校時代にバレーボール部のキャプテンをしていたとかで、リーダーシップをとるのがうまくてサークルのまとめ役でした。サークル内で、結構彼に好意を持っている女の子は多かったです」
「でも、彼は美哉さんを選んだ?」
その言葉がチクリと美哉の胸を刺す。本来なら、そういう自慢話になりそうなネタだというのに私ときたら。
「……最初はなんとなくよくそばにいる、って感じでした。バスでわざわざ隣に座ってきたり、写真を撮るときはいつも近くにいたり――。大勢でいても、やたら私に話かけてくるし。私は話していて楽しいな、くらいだったんですけど、周りが羨ましがって、私もだんだんその気になって、そんなときに告白されて――」
人気者の彼に好きだと言われ、嬉しかったし誇らしかった。でも、私は本当に彼のことが好きだったのか、と言われると考えてしまう。
「今思えば周囲の盛り上がりにのせられて、相手の表面しか知らないのに恋した気になっていたんじゃないかと思います……」
あまりに軽々しかったのではないかと、過去の自分をたしなめたくなってくる。
そんな美哉に、透が慰めるように言った。
「恋愛のきっかけなんてそんなものじゃないですか? でも確かに、バンドワゴン効果もあったかもしれませんね。サークルの人気者で皆が羨ましがっている――ならば男性として上等で魅力的な人じゃないかと」
「他の人にとられたら後悔するかも、っていう心理も似てました。ココナッツオイルを買っていく人を見て焦りましたもん。なくなっちゃうって」
気を取り直した美哉のおどけた物言いに、透がくすくす笑う。
「確かに、そういう心理的な焦りも似てますね。ところでそのサークルの彼って例の――」
「ええ、ストーカーです」
結局、うまくいかなくて卒業前に別れた学生時代の彼氏が、美哉が最近同棲相手と別れたと知ってつきまとうようになったのだ。
挙げ句に家まで押しかけてきて、昨日透が追っ払ってくれた。
モテ話かと思いきや、残念話というオチだったが、透と一緒に笑えるとなればそれほど悪くない気分だ。
そのとき、アガサがひょいっと二人の間に入るように、ダイニングテーブルに飛びのってきた。
これまでソファか床にしかおらず、躾(しつけ)ができていると思っていたアガサの行動に美哉は少し驚いた。
「どうしたの、アガサ?」
構ってあげずに二人で話し込んでいたので、寂しくなってしまったのだろうか。
問いかける美哉ではなく、アガサはじっと訴えかけるようにして透を見る。
そしてテーブルの隅に置いてあった透の黒い財布を、ばしっと軽く前足で叩(たた)いた。
透がはっとしたような表情になる。
「アガサ、どうしたんですかね? 仲間外れにされて怒ってるのかな?」
美哉にはアガサの行動の意味がまったくわからない。
「いえ、違います」
透が苦笑して、自分の財布を手にとった。
「たぶん、アガサはこの財布のことを言っているんだと思います」
それは男性のジーンズのポケットにするりと入りそうな、二つ折りのコンパクトな革財布だ。
何の変哲もないその財布がどうしたのだろう。
美哉が不思議そうに見つめているのに気づき、透が口を開いた。
「これは僕がいわゆるバンドワゴン効果にのせられて買った財布なんです」
「ええ?」
透の意外な言葉に、美哉はまじまじと財布を見つめてしまった。
「財布を新しくしようと思って店に買いにいったんです。気になっていたブランドは他にあったんですが、店員が勧めてきたのがこの財布です。大人気ですぐ売り切れてしまっていて、最近ようやく再入荷したところだ、って。残りあと二つだと」
「ああ……」
まさしく今日、特売品のココナッツオイルを見たときの自分のようだったわけだ。
すぐに売り切れて再入荷するほどの品。手に入れられるのはとても幸運で、しかも今すぐ決めないと手に入らない――焦る心理がまざまざと浮かぶ。
「カードもたくさん入るし使いやすいですよって言われて、よく確かめもせずに買ったんです」
「でも、ちゃんとした財布に見えますけど……」
「ところがこれ、肝心のカードをいれるところがきつくて、取り出すときに物凄(ものすご)い力が必要なんですよ。入れ直すときも押し込まないと入らないし。だから、もう諦めてカード類は札入れのところに入れるようにしてます」
美哉は思わず吹き出した。
「ありますよね! 使えると思ったバッグのポケットが、小さすぎたり開けづらかったりって」
「ええ。はっきり言って物凄く使いにくい財布なんですが、なんかもう意地ですよね。それなりに値段もしたし、できるだけ使ってやるって。不便なのに」
二人は顔を見合わせて笑った。
ああ、こんなに何も考えず素直に笑ったのっていつぶりだろう。
「アガサはそれがわかっていて、財布を叩いたんですかね? それだと、まるで私たちの会話を全部理解していたみたい」
美哉は冗談で言ったつもりだった。
だが、透は真顔で答えた。
「アガサはちょっと特別な猫なんですよ」
透の口調はどこか誇らしげだった。
自分が誉められたときは居心地悪そうにしていたのに。
アガサはすでにテーブルを下りて、透の膝の上で丸くなっている。
ずいぶん変わった人と変わった猫と暮らすことになったのかもしれない――でも、嫌な感じはしない。
それどころか、久しぶりに余計なことを考えずに楽しんでいる。
彼らから、美哉に対する思いやりや気遣いが感じられるからだろう。
「あ、そうだ。美哉さんが買い物に行っている間におろしてきたんです」
ぽんと渡されたのは都市銀行の封筒だ。
「当面の生活費です。僕とアガサの」
中身を見た美哉は驚いた。思ったよりもずっと分厚い。
「とりあえず五十万円あるはずです」
「こんなに……!」
着の身着のままで深夜の雨のなか、さまよっていた透。帰る場所も行く場所もないと言っていた。
だが、お金にはまったく困っていないようだ。
美哉は膝の上のアガサを撫(な)でる透を見つめた。
不思議な猫と青年との生活は、まだ始まったばかり――。
美哉はまだ知らない。
これから起きる事件を。
彼らとの生活が自分にどんな影響を及ぼすかを。
了