「昨日までの記憶を失くしたみたいです」

 昼間とはいえ雪がちらつきそうな初冬の曇天。吐く息は白く、そろそろ粗末な外套(がいとう)ではしのげないほどに寒い。それなのに、目の前の若い金髪の青年は頬をかきつつ苦笑いして、さらに寒くなるジョークを飛ばしてきた。

 じゃあどうして俺のところに来るんだよ、と正論を返してやりたいが、おそらく冗談ではないのだからたちが悪い。

 自由を愛すその日暮らしの中年であるジジは、特になにをするでもなくニューゲート監獄付近を散歩していた。単なる日課だ。

 そこへ声をかけてきたのが、アッシュだ。ジジが警察の雇われ仕事をするとき、不本意ながらパートナーを組んでいる相手。

 ロンドン警視庁(スコットランドヤード)の若き刑事で、髪の毛も、視線も、背筋も、その心もまっすぐな、目つきの悪い年下のお坊ちゃん。

 直感的にいつもと違う、と思った。髪以外のまっすぐさがなかったからだ。普段人を射抜く蒼玉の瞳が特にひどかった。金色の睫毛の下に伏せられている目はちっともこちらを見ない。

 そんな中で、挨拶もそこそこに真面目くさってアッシュが言い出したのが先の台詞だ。

 思わず、右耳に指を突っ込んで顔をしかめてしまった。不愉快な音がしたからだ。人が嘘をついたとき、自分にだけ聞こえるこのなにもかもを貫くような音はいつまで経っても慣れない。

 アッシュの挙動が不審で、ジジはひそかにスナークの力を発動していたのだ。

 スナーク。犯罪者の臓器・ブラッドコレクションを持つものを指す。身体能力が拡張され、本来人間には備わっていないはずの不可思議な能力を得てしまった悲劇の怪物。

 ジジの場合は右耳がそうだ。人の感情が音で聞こえる、感情感知の力。だから、嘘をついているのも一発でわかる。

「どうしました?」

 ジジがスナークであることを知らないかのようなアッシュの応答。

 ジジの右耳には蛇モチーフの耳飾り(イヤーカフ)がついている。スナークの力を使用すると、Bの烙印(スティグマータ)と呼ばれる個体識別の刻印が浮かび上がってしまう。それを隠すためのアクセサリーなわけだ。だからジジの力はいつ発動しているのか外からは見て取れない。

 だが、アッシュはいつもそんなもの関係なく、ジジが力を使っているかどうかをなんとなく察していた。うるさい、という態度をこちらがあからさまに取っているときならなおさらだ。

 つまり。

 記憶を失くした、というのは嘘。ただし、ジジの能力を知らないのは本当、ということになる。

「あなたのことはぼんやりとだけど、覚えているんです」

 これは、嘘をついている。

「きっと、自分の親しい知り合いですよね。だから、いろいろと教えてもらおうと思って。自分のことや、あなたのことを。なにも知らないので」

 これは、真実だと思って言っている。

 一体なんなのだ、このちぐはぐさは。嘘をつくのが下手だとかいう以前の問題で、致命的になにもかもが噛みあっておらず気持ち悪い。なにが目当てなのかさっぱりだ。

 ジジは様子を伺いつつ、いつもと同じような受け答えをしてみる。

「……親しくはないぞ。お前のことで知っていることなんてひとつもない」

 言った直後、眉間(みけん)に皺(しわ)を寄せる。耳が痛い。嘘をついたからだ。さすがにひとつもないことはない。力を使っているときは、自分が嘘をついても他人がそうしたときと同じく鼓膜を突き破るような音が聞こえてくる。

「だから、俺のことを知ったところでお前が記憶を取り戻すことはないだろうな」

 アッシュは弾かれたように顔を上げた。顔も、そして内心も焦っている。

「自分とは仲良くないんですか」

「ああ」

「……でも、食事くらいはする仲ですよ、ね」

「何度かは」

「よかった。それなら今から食事をしましょう」

「なぜ」

「たとえ友人未満でも、あなたを覚えているということにはなんらかの意味がある、と思います。だから、お話をしているうちに思い出せることがあるかな、と。それに、お腹もぺこぺこなんです」

 なぜそこまでというほどに必死だ。腹が空いたなどというくだらない嘘までつくから、やかましくてかなわない。

「あなたのおすすめのお店につれていってください。おごりますよ」

 昨日までの記憶がない、それが嘘なのは確かだ。

 そして、ごく穏やかに笑うこのアッシュには昨日まで――かどうかは定かではないが、少なくとも数日前会ったときまで――は確実に存在していなかった音がある。

 太陽色の金の髪の毛と、青空色の瞳を持つ、晴天そのもののこの青年の感情からは、過去、どんなに追い詰められていようが、ただの一度も聞こえて来なかったもの。

 それは。

「ぜひあなたの好きなおいしいものを教えてくださいよ。……たとえば人生の最後に食べたいくらいの、ね」

 自殺願望、だ。


 後ろにアッシュを連れてただ街を歩く。

「どのあたりまで行くんですか。もしかして、食にはものすごいこだわりがある?」

「別に。拾ったものでも食える」

「それは結構ですね」

 アッシュが笑っている気配がした。実際、感情の音も喜んでいる。……なぜだろう。こちらの胃が強靭(きょうじん)であることがそんなに嬉しいのか。いやそれとも、衛生観念が薄いことが、か? 注意されこそすれ歓迎される事柄ではないはずだが。

 ジジがどこか適当な食堂に入店するのを先延ばしにしているのは、アッシュの望みを叶えていいのか図りかねているからだ。

 死にたがりの最後の晩餐につきあわされるのはごめんだ。だからといって突き放したらそれはそれでどうなるか。

 そもそも、どうして死にたくなっているのだ、こいつは。

 情報も打開策もなにもないのだから慎重に動くしかない。

 さも目的地があるかのように、しかしだらだらと進んでいたジジは、唐突に足を止めた。前方でいきなり悲鳴が上がったからだ。

 若い女が失神して倒れたようだ。女の恋人なのだろう、薔薇の花束を持った男が抱き起こしている。どうした、どうした、と面白がって野次馬が集まって来る。

「……行かないのか?」

「なにがですか?」

 アッシュは不思議そうに聞き返してくる。いつもなら、こういうとき、率先して首を突っ込むはずなのに。

 わかってはいたが、まるっきり別人の反応だ。

 気を失っていた女が目を覚まし、自分を抱きかかえていた男の胸を突き飛ばす。

「……ああ、もう、信じられないわ! 離れてちょうだい!」

「な、なにがだい、ハニー。僕がなにか悪いことを……」

「匂いよ!」

「え?」

「私が薔薇の花の匂いが大っ嫌いなのを知っているでしょう! それこそ気絶するくらいにね! どうしてそんなものを持ってきたの? 嫌がらせなの? 私ともう会いたくないなら回りくどいことをせずにそう言えばいいじゃない!」

「え、いや、あの、これは」

 男は口を挟む間もなく畳みかけられて涙目だ。気が動転したのか、あたふたしながら、花束を女に差し出している。女が、やめてちょうだい、と、金切り声を出す。

「お、落ち着いて。これ、造花なんだよ」

「そんなわけないでしょう! 確かに薔薇の匂いがしたわ。だから私倒れて……、あら? おかしいわね、本当だわ」

「きみの苦手なものを僕が忘れるわけがないだろう。なんの香りづけもされてないものを選んできたんだよ。きみのように美しい薔薇をどうしても贈りたくて」

「やだ、ごめんなさい! 勘違いだったみたい!」

「いいさ、きみが無事ならそれで!」

 二人は人目もはばからず、ひし! と固く抱きしめあった。とんだ茶番だ。人々も白けたような顔つきで散らばっていく。

「造花なのに、どうして倒れたんでしょうかね」

 再び歩き出してしばらくすると、背後からアッシュが疑問を投げて寄越してきた。

「思い込みのせいだろうな」

「思い込み?」

「心因的といったほうがいいか。思い込みの力がありもしない匂いを発生させる。そして、体に支障をきたす」

「ええ? そんなことがあるんですか」

「嗅覚なんて案外適当なもんなんだよ。先入観でどうにでもなってしまう。だから、本来存在しないはずの苦痛を作り出すんだ。苦しいのは自分の頭のせいだ」

 瞬間。

 アッシュの感情がいらだちに振れたのが聞こえた。

「……そうじゃないと思いますよ」

 平静を装って話しているようだが、ジジからすればすべて丸裸なのだから滑稽だ。感情の音を聞かれているなどつゆほども気付かず、アッシュは滔々(とうとう)と続ける。

「嗅覚を侮(あなど)ったらいけません。苦しみの原因は頭の外にある。匂いの効果は馬鹿にしちゃだめです。空間や時間を越えるんですからね」

「大げさだな」

「いいえ。たとえば、牧場の濃厚な空気を深く吸い込めば、幼いころ過ごした家のことを再体験できたりもするでしょう。匂いのほうがすべてを作るんですよ」

「――――ああ、そうか」

「そうです」

「悪いな」

「いえ。……謝ってくれるなんて優しいですね」

 アッシュは満足げだったが、そうか、というのは別にアッシュの説明に納得して出た言葉ではなかった。今日のアッシュのあらゆる不自然さにようやく合点がいった、ただそれだ。

 謝罪だって、アッシュが想像したものとは違う。こう続く。

 悪いな、どうやらお前と食事に行くことはなさそうだぞ。


 アッシュが大人しく付いてくるので、ジジは苦労することなくアッシュを路地裏に連れ込むことができた。

「え? あれ……、行き止まりじゃないですか」

「そうだな」

 先に行かせたアッシュが振り向いたところで、油断だらけのその体を突きあたりの石壁に追い詰める。アッシュの背中と壁に一切の隙間がなくなる。

 自分の靴底をアッシュの脚の間に押し付け、壁に縫い付けてやる。どん、という衝撃音に、アッシュの顔がひきつる。もとより細い路地だ、逃げ場はない。

 以前、ほとんど同じようにこうしてやったことがあるのに、当然、覚えていないのだろう。あのときは虚勢を張っていたが、今は可哀想なくらい目に見えて怯(おび)えている。

「な、なに……」

 ジジはにっこりと笑う。そのまま、問う。

「――――お前、誰だ」

 アッシュは一瞬絶句した。だが、慌ててへつらうような愛想笑いを浮かべる。

「え、いや、なにを言ってるんですか。自分には記憶がないって言って……」

 言葉が途切れる。ジジがなんの前触れもなくアッシュの帽子に鼻を近づけ、犬のように匂いを嗅ぐ真似をしたからだ。

「なにやって……」

「一度匂いを嗅いだものは決して忘れることはない、超嗅覚の持ち主」

 ジジは抗議を無視して一方的に話し出す。

「その男はいつしか乙女の匂いに取りつかれた。処女ばかりを殺して、遺体から材料を抽出して、永遠の乙女の香りを再現していた調香師(パフューマー)。そいつの鼻は処刑後、ブラッドコレクションになった。さて、その鼻を移植されたらどういう能力を発動するようになる? お前は、よく知っているだろう」

 ジジの頭の中にはブラッドコレクションすべてについての巨大索引がある。だからこそ普段彼のパートナーは、こんな力は存在しますか、あんな力はどうでしょう、だとしたらどういった臓器のものですか、と気軽に尋ねてくるわけだ。こちらが結構な情報の処理を行っていることをてんで理解していない。思いやってほしいわけでも、褒められたいわけでもないので、あからさまに不平を口にしたことはないが。

 たとえば熱が出たとき、ならばきっとこれはこういう病気だな、と素人はたったひとつの事柄から判断する。それしか知らないからだ。だが、専門家である医者がなにか診断を下すのはほかのあらゆる可能性を排除したうえでのことだ。同じ結論を出したとしても、確信に至るまでの課程がまるっきり違う。

 つまり、ジジが今、目の前のアッシュ――の形をしたスナーク――に詰め寄っているのは当てずっぽうの行動ではないということだ。

「お前の持つのは、複写能力だ。その鼻で嗅いだ相手を再現できる。つまり匂いをかいだらそいつの姿になれるってことだな」

 嗅覚についてあれほど一家言(いっかげん)を持つスナークがほかにいるわけがない。

 今、真実を暴かれてぐるぐると混乱しているこのスナークは、アッシュ自身とは無関係の複写体なのだ。

 実のところ、声をかけられた時点で、中身がアッシュではないことくらいはわかっていた。アッシュの感情音はまっすぐで伸びやかで、かなり特徴的なのだ。だが、その事実だけでは、たとえば単純に体を乗っ取られていたり、あるいは分裂したうえで操られていたりという被害にあっていることを否定できない。肉体という器がアッシュのものだった場合、別人の精神と道連れに自殺されたらさすがに寝覚めが悪い。

 だからこそ大人しくしていたのだが、もう遠慮はいらない。

「本物はどこにいる?」

 アッシュもどきは、長い間だんまりを決め込んでいたが、ごまかすのは無駄だと悟ったのか、弱々しく笑って、両手をひらひらと上げた。

「なんでわかったんですか。すごいですね。……スナークですよ、私。怖くないんですか?」

「ああ」

 逃走する素振りもないのでジジはゆっくりと足を下ろす。

「男の人の体なのに、私の振る舞いがそれらしくなかったからばれちゃったんですかねえ」

「別にそういうわけじゃない」

 中身が女であろうとそうでなかろうと、ジジの能力があれば本物のアッシュではないと見破ることはできるのだ(……というか、女かもしれないとちらりと予想してはいたが、それで正解だったらしい)。

「安心してください、このお兄さんに悪さはしてないですよ」アッシュもどきは胸に手を置いた。「隙をついて匂いを嗅いだだけで」

 ぼやぼやしすぎだろう、とジジは内心で呆れた。なにをやっているんだ、あのお坊ちゃんは。

「このお兄さんは線が細いですよね。いいものを着ているのにあまりご飯が食べられてないんでしょうか」

「さあな」

「それと足が長い! 形も悪くないですね」

「そうか」

 一切興味がないので適当に返事をしていたら、アッシュもどきは苦笑いをして話を戻した。

「……監獄の前でこのお兄さんがあなたと一緒にいるところをよく見かけていたんですよ。だから、この姿ならあなたが油断するかなって」

「俺が狙いか」

「今さら隠してもしょうがないですね。そうですよ」

「だろうな」

「あらら、もしかして、ばれちゃってましたか。あなたのことが好きなんですよね」

 アッシュもどきは、あっけらかんと言った。恋心を吐露(とろ)するのなら、ぜひとも早急に複写能力を解除してほしいところだ。

「だから、あなたの好きな食べ物が知りたくて、ついこんなことを」

 嘘ではない。だが、額面通りに受け取ってはならない。

 まるで恋する相手のことならどんな些末なことでも知りたいという小娘のような発言だが、もどきの真意はちょっと外れたところにある。

「……俺に自殺の片棒を担がせないでくれないか」

 指摘してやると、もどきは驚きに目を見開いた。

「俺も鼻はいいほうでね。あんたからは死にたがりの匂いがするよ」

 言いながらジジは顔をしかめる。嘘をついたからだ。実際は、鼻で感じたわけではなく、耳の能力のおかげで彼女の自殺願望に気付いた。だが、もどき相手に自分もスナークであると開示してやる義理はない。

「よくわかりましたね」

 もどきは潔く肯定した。いいかげん耳が痛むのは勘弁してほしいので嘘を重ねられなくて助かった。

「そうなんです。あなたに食べてもらえればいいなあと思ってたんです。この力を使ってあなたの好きな食べ物の姿になって、あなたの目のつくところに落ちて、ね」

 さらりと恐ろしい願望を口にしないでほしい。しかし、これがジジが清潔さに頓着しないのを歓迎していた理由なのだろう。複写能力は人間に対してだけ発揮されるわけではないのだ。

「……どうして俺に? もしかして、面識があるのか? すまないが、喋っていてもなにも思い出せない」

「いいんですよ。そのまま思い出さないでください。私だと認識されたくない」

 もどきは切なく笑う。

「きっと、あなたにとっては私はその他大勢のうちのひとりだったんでしょう。でも、私にとってはたったひとり。あなただけが私に優しくしてくれたんです。あなたみたいな人は珍しい」

「珍しい?」

「そう。煙突掃除の少年よりも真っ黒になって、ごみ処理場のごみ山に行き倒れて、醜(みにく)く汚れている私を優しく抱き起こしてくれた」

 そんなことをした記憶がない。ごみ処理場はめぼしいものを拾って小銭を稼ぐ目的で下層民が寄りつくところではある。だが、最近出入りしたことなどない、というより、過去、頻繁に通った覚えもない。いつの話をしているのだろう。忘れてしまっているのか、それとも、――――なんらかの比喩なのか。自分のことながら判然としない。

「世間様は、たとえ私と同じくらい汚れている人でも、これ以上汚れるのはごめんだって見捨てていくんです。だから、あなたみたいな振る舞いは嬉しかった。とっても。お姫様みたいに扱ってもらったのなんて初めてでした」

 もどきは、ふ、と肩の力を抜くと、およそ本物のアッシュが見せない表情をした。つまり、諦め、だ。

「この複写の力を持っていると、なんだか生きるのが馬鹿みたいに思えてくるんです。最初は恩恵を受けた気でいたんですけどね。誰かに成りすましていいとこどりをして。お仕事でもどんどん利用して。でも、そうすると、表面しか見ていない浅薄な人たちとばかり接することになるんです。――――あなたは私がこのお兄さんではないと見破りましたけどね」

 くすぐったそうに笑われて、少し居心地が悪い。見る目があると称えられる資格はない。スナークの力を使ったのだから、いかさまのようなものだ。

「それに、どんなに気高く、賢く、美しい姿になっても、客からの扱いは結局同じなんですよ。ひざまずかされて、つま先にキスをさせられ、おもちゃにされる」

 もどきの顔に陰が指す。

「要するにですね、元の醜い私が血のにじむような努力をして、私の憧れるきらびやかな人になったとしても、今と同じように悩んで、同じように苦しむってことなんです。身分が高かろうが、教養があろうが、見目がよかろうが、凡人以下と一緒。人間、誰しも、みーんなおんなじ。それって希望? いいえ、絶望です。行きつくところが同じなら、どうして頑張らなきゃいけないの。生きてる意味なんてないでしょう」

「意味、ねえ」

「だからもう死んじゃおうって」

「極端だな」

「死は裏切らないでしょう? どんな大嘘つきだって、いつか死ぬっていう約束だけは守ってくれる」

「まあそうだ」

「でも、自殺って大変なんですね」

 もどきは指折り数えていく。

「流行り歌にもあるでしょう。拳銃は手に入らない、縄はうまく結べない、ガスなんて臭くって、って。まったく、生きているほうが楽に思えてきちゃう」

「本末転倒だな。……複写能力を使えばもっと楽な方法はたくさんあるだろう。新聞紙になって馬車に轢(ひ)かれるだとか」

「乙女心をわかっていませんね。どうせスナークなんかの力を使って死ぬのなら、あなたの一部になりたかったんですよ」

「俺は案外乙女だが、あまり共感できないな」

 あら、と、もどきがくすくす笑う。

「あなたが監獄の近くによく現れるってことに偶然気付いたときには天にも昇る気持ちだったんですけどね」

「残念だったな、俺のせいで計画が失敗に終わって」

「本当にそうですよ」

「生きていることに意味なんかないぞ」

 ジジの言葉に、もどきはきょとん、としてみせた。

「生まれてきたことにもな。生きるだけだ。死ぬまでは。一時しのぎをしながらな」

「しんどい、ですねえ」

「そうだな。しんどい。生きることはしんどい。……さしあたって今日の一時しのぎくらいにはなってやろうか」

 ジジは両腕を広げた。

 なぜこんな残酷な提案をしたのか自分でもわからない。

 普段なら、与え続ける気もないものを分けたりしない。

 もどきがアッシュの姿をしているから? ――――いいや、それとも、この女となにか共鳴するものがあったから?

 知らず、自嘲的な薄笑いが浮かぶ。

 正直な話、アッシュの外見で抱き着かれるのは嫌だ。かなり嫌だ。可及的速やかに複写をやめてほしい。彼女は本来の姿を晒(さら)したくないようなので、元に戻れよなどと無理強いはしないが。

 ジジは、おいで、とばかりに指先をくい、と動かす。途端、ほとんど体当たりで、もどきが胸に飛び込んできた。

「………………おい」

 軽く抱擁するだけのつもりだったのに、もどきはジジの首筋で、すん、と鼻を動かした。匂いを吸い込んだのだ。苦い煙草と甘い菓子と体臭とが混ざり合って、熟し切った果物のような濃密な匂い。

 今やアッシュの姿は消え失せ、すぐそこにいるのは自分に瓜二つの三十路の男だ。

「どうせ一時しのぎなら、これくらい良いでしょう。悪用はしませんよ。あなたがここからいなくなったらすぐに元に戻ります。信用してください」

 もちろん、信用はする。嘘をついていないのは結構なことだ。だが、いたずらっ子のような無邪気な笑顔を向けて来ないでほしい。誰だお前は、と妙な気分になる。

「……わあ、やっぱりすごい腹筋!」

「おいおい、そんなことがやりたかったのか、お前さん」

「もう一度あなたにこうしてみたかったんです。ずっと」

「あんまりいじくりまわしてくれるなよ」

 シャツをめくってうっとりと肌に直接触れる自分もどきに苦笑する(もう一度、に言及するのはやめておいた。この女となにがあったのかいまだに思い当たらない)。

「こういうことをされるのは恥ずかしい?」

「そうだな、恥ずかしい」

「……外で恥ずかしいことをされるのは好き?」

「さあ、どうだろうな」

「それにしても傷だらけですよね……。これ、なんなんですか?」

 もどきのむき出しの腹。その浅黒い肌の上には、他人からつけられた傷痕が何匹もの蛇のように渦巻いている。だが、脇腹にうっすらとあるのは、刑務所にぶち込まれていた十代のときに己の爪で刻みつけたものだ。

 縦の平行線四本、五本目でそれらを斜めに貫く縫合痕のような画線法(tally)。両手の自由が奪われていなかったうちは、健気にも経過日数を数えていたのだ。窓も光もないところに隔離されていると簡単に感覚が狂ってしまう。

「死んでしまえば楽だったのにな」

 正面で、自分の顔をした男が、自分の過ぎ去った日々のことを神妙に聞いている。不可思議な気分だった。

「俺は臆病者で、死を恐れて、あそこから出る日を待っていた。律儀に一日一日、自分で自分の体を抉(えぐ)ってな」

 人生は一度きりだ(You only live once)。つまり、死も一度きりだ。だというのに、臆病者は、起こってもいないさまざまな不安にさいなまれ、頭の中で千度死ぬ。常に恐怖に蹂躙(じゅうりん)されている。

 贋物(にせもの)の苦痛で、現実を台無しにする。

「……今にして思えば、なにをあんなにぐちゃぐちゃ余計なことを考えていたんだろうな。どうせ死ぬのはたった一回だけなんだ。怯えることなんてないのに」

 明け透けに過去を晒(さら)す趣味は持ち合わせていない。口が軽くなったのは、やはり自分の姿を相手にしているからだろうか。鏡に向かって喋るようなもので、いわば独り言だ。……鏡はこうも同情的な視線を投げかけては来ないだろうが。

「あの」

「なんだ」

「……今は、生き延びてきてよかったって思ってますか?」

 おずおずと尋ねられたそれは、厳密にはジジに対してではないだろう。死を考えたことがある先人の感想を欲しているのだ。ジジは視線をさまよわせ、間を置く。

 そして、答えた。

「――――もちろんだ」

 それを聞いて。

 ほんの少し、ぼんやりとしていたら聞き逃してしまいそうなほどだが少しだけ、もどきの自殺願望の音が弱まった。

 無防備に安堵(あんど)している自分の顔と、苦痛に満ちているだろう自分の顔。二人の自分が対照的な表情で向かい合って立っている。

 もちろんだ。その言葉に、ほっとしたように眉を下げているのはもどきだ。ほとんど無意識に眉間(みけん)に皺(しわ)を寄せたのはジジだ。

 もちろんだ。先ほどそう発した瞬間、なぜだかジジの耳が痛みだしたのだ。

 もちろんだ。ひどく、痛い。我慢できないほど、痛い。痛い――――。


「あれ、ジジさんじゃないですか。偶然ですね」

「…………お前は本物だな」

「は?」

 アッシュは間の抜けた声を出す。

 スコットランドヤードの近くで偶然ジジの姿を見かけて声をかけたら、わけのわからない返しをされたのだから当然だ。

「お前、今日は寝不足かなにかだったのか。ぼんやりとしてないで、ちゃんと目を開けていろよ、お坊ちゃん」

「え、ちょっと、なんでいきなり謂(い)われなき説教を食らってるんですか、僕は。いろいろと妙なことがあって大変だったんですから」

「ふうん。なにがあった」

「あれ、興味あります?」

「ああ」

 あっさり首肯されて肩透かしを食う。いやに素直だ。

「あのですね、調べものの帰り道で、背後からいきなり気分が悪いって言ってもたれかかってきた女性がいたんですよ。しかも、ある安宿であなたのことを探していた人がいたから、そこに行ってほしい、なんて教えてくれて」

「……どんな女だった?」

「顔は見てないんですよ。声の感じは僕より年上かなあ、くらいで。息が苦しいからちょっとじっとしてて、なんて言われてその通りにしていたんです。僕の背中で何度か深呼吸してたと思ったら、いつの間にか消えていてですね」

「振り返ったら逃げられていて誰もいなかった?」

「そうなんですよ。おかしいなあって思いながらもとりあえずその宿を訪ねてみたものの誰も待っていやしなくて。ね、妙でしょう」

「どうせ騙されてからかわれたんだろう。警察嫌いの市民にな」

「だったらいいんですけど。なにも事件が起こっていないのならそれでね」

「そうだな、事件なんかなにもなかった……」

 ジジがいつも眠そうにしている目をさらに閉じた。アッシュの愚痴の内容に呆れ果てたという表明なのかと思ったが、そうではなく、むしろ、ぼんやりしているのは彼のほうだということなのかもしれない。

「……なんか、疲れてます?」

「別に」

「じゃあお腹すいてるんですか? ご飯でも行きましょうか」

 食事に誘っただけなのに、ジジはやたら皮肉げな笑いを浮かべた。なんで今日に限ってこうもやさぐれているのだろう。

「それとも、なにか嫌なことでもあったんですか」

「保護者気取りか、お坊ちゃん。俺のことを幼い子供だとでも思っているのか」

「ときどきはね、思ってます」

「……くそがき」

「ほら、そうやってすぐかんしゃく起こす」

 からかってみたものの、なにも返ってこなかった。ジジは右の耳を庇(かば)うように掌で覆っている。

「……なにかありました?」

「耳が痛いだけだ」

「どうしたんですか」

「さあな」

「怪我したんだったら……」

「構うな」

 機嫌が悪いのか、気分が悪いのか、ジジは素っ気ない。

 痛いというのは殴られただとかの物理的な痛みではないということなのだろうか。実は今、能力を発動させていて、不快な音が聞こえているとか? しかしながら、能力を使っている素振りはない。

 もしかすると、ここに来るまでにすでに能力を使用していたのかもしれない。おそらく、そのとき、あまり心地よくない感情の音、それこそ嘘の音にでも耳がやられてしまったのだ。

 アッシュは思う。

 ジジがこんなにまでなっているのだから、それはきっと、よっぽどの大嘘だったんだろうなあ、と。


 ―You only live once,……once is enough―【END】


★第3話は2017年9月23日アップ予定です。