【用語/人物説明】

○スナーク:犯罪者の臓器(ブラッドコレクション)を移植され特殊能力に目覚めた人々の総称。

○Bの烙印(スティグマータ):犯罪者の臓器(ブラッドコレクション)の能力を使用する際にその臓器に赤く浮かびあがるアルファベッドBと数ケタの囚人番号。

○アッシュ・グレイブフィールド:ロンドン警視庁(スコットランドヤード)の若き新人刑事。スナークの犯罪専門部署、スナーク班に所属している。

○ジジ:アッシュのパートナー。三十路。事件のあるときにだけ警察に雇われる、普段はその日暮らしの自由人。 



◆ash【灰】


 犯行現場は密室で、そこにいるのはアッシュとジジだけだった。

「……どうしてこんなことを。ぐちゃぐちゃじゃないですか」

「俺が血に飢えた獣だからじゃないか」

「真面目に答えてください」

 アッシュが睨んで咎(とが)めても、向かいの椅子に座るジジは薄ら笑いを浮かべるばかりだ。長い足をこれ見よがしに組み替えているが、狭っくるしい三等のコンパートメントであまり動かないでほしい。

 スナーク絡みの事件で呼ばれ、郊外の小さな駅に向かう走行中の列車の中。コンパートメントについている左右のドアは内側からは開けられない。動く密室だ。アッシュはつい先ほどまで眠っていたのだが、ジジはずっと雑誌を読んでいたらしい。

 駅で売られるのは読み捨て雑誌だ。車内に監禁も同然で閉じ込められるがゆえの暇つぶし品。短い推理小説やらが掲載されているのだろう。密室で殺人を犯す男の話だとか。

 ジジは今、それこそ殺人鬼ぶっているが、彼がアッシュに加えた危害は実際のところ、足を踏んだこと、ただそれだけだ。アッシュの革靴にはべたべたと足跡がついている。

「こんなことをしたのは、お前のためだ」

「僕の?」

「……こういう話を知らないか」

 ――その神殿の偶像に捧げた供物は、連日、消えて無くなっていた。一人の男を除いて、皆、神が食べたのだと信じていた。真相としては聖職者が盗んでいただけで、男はそれを証明したかった。しかし、誰も立ち入らぬ密室状態でさえも供物は持ち去られていく。そこで男は一計を案じ、床一面に灰をまく。かくして、足跡がつき、祭壇の下の隠し扉が発見され、聖職者の罪がつまびらかになった――。

「つまり、灰(アッシュ)には真実を暴く力があるんだ。しかし、逆を言うなら、力を発揮するためにはまず踏まれなければなけない。だから俺は、力が開花されますようにと願って――――、お前(アッシュ)を踏みつけてやったのさ」

 ジジの告白に、嘘つけ、と思う。一応理由を尋ねてみたものの、どういう大義名分だ。どうせ退屈して話し相手が欲しかっただけのくせに。単に足を踏みつけてアッシュを起こしたかった。それしかない。素直に声をかければいいものを。

 しかし、出会ったころを思うと、ずいぶん寂しがりになっちゃって、まあ。

 小さく苦笑したら、なにを笑っているんだ、とジジから改めて足を踏まれた。



◆bee【蜜蜂】


「さっさと行きますよ、ジジさん。早く、早く」

「むちゃ言うな。俺は早いなんて言葉、ベッドの上でしか言われたことがない」

「それっていいことなんですか?」

「……冗談だ、お坊ちゃん。いたいけな子供相手に下品なことを吹き込んで悪かった」

「反省するふりしてばかにしてますよね?」

「正直な話、半々だな」

「ばかにするふりして本当に反省してくれている?」

「俺は案外可愛げがあるからな」

「うるさいな。のんびり歩くのやめてもらっていいですか。ああ、ほら、蜂にまで追い抜かれた。ちょっとはああいう勤勉さを見習ってください」

「嫌だ。わき目も振らずまっすぐ、他人のために蜜をせっせと作るなんてごめんだね」

「ひんまがってるなあ……」

「故アルバート公がウィンザー城内に蜂の巣箱を備えたときも同じように揶揄(やゆ)されていたらしいがな。労働者という蜂から蜜を搾取(さくしゅ)する金食いの王室め、ってな」

「言葉が過ぎますね」

「そうやって苦言を呈すあたり、根本的にお育ちがいいんだろうな、お前は」

「どういう意味ですか」

「別に。世間から使い捨てにされる人間と散々接して来ているのに、お前自身は汚れずにいるんだな、とな。嫌味じゃないぞ。褒めているわけでもないが」

「半々ですね、光栄です、とでも言っておきましょうか」

「あれか。お前は刺されないから蜂に好意的なのか」

「なんの比喩ですか? ……あんたは労働者に刺されたことが?」

「いや、そのままの意味だ。お前は刺されないよ、絶対に。蜂っていうのは、男と寝ている女を刺す。女と寝ている男も。――という、民間伝承があってな。処女かどうかを調べるために少女を蜂の群れに放り込んだなんて話もある」

「魔女裁判みたいだ。……ああそう。確かにそれならあんた、蜂が大嫌いだろうな。友好関係は築けそうにない。蝶なら仲間になれそうだけど」

「可愛いから?」

「ふらふらしてるからだよ! おじさんの自覚を持ってください! ……もう、いいから、さっさと行きますよ、ジジさん。早く、早く」



◆cat【猫】


 猫なんて本当は大嫌いなんです、とその若い女は言った。足元には薄汚れた黒猫がいて、彼女の脛(すね)に顔をこすりつけている。

「彼が好きだったから、私も好きなふりをしていただけなんです」

 彼女が見下ろす墓石の下には、彼女の恋人だったスナークの男が埋められている。一度も直接ぬくもりを感じたことがない恋人の。

 他人に触れるとその精気を吸い取ってしまう能力を持っていた男は、愛する人と愛を交わすことができない。触れた瞬間に相手が干からびてしまうからだ。だからひっそりと暮らしていたのに、運命の相手に出会ってしまったのだからしかたがない。男は動物には触れることが出来たので、彼女と彼のキスはいつも猫の鼻越しだった。

 スナークの男が大怪我をして、しかしどんなに彼女が金を出すと言っても医者は誰も手術をしなかった。当然だ、自分が死んでしまう。スナーク班ならばなんとかしてくれるかもしれないと彼女が男を警察に連れて来たときには手遅れだった。男はすでに絶命寸前で、私も一緒に死ぬと叫んだ彼女は隔離された。結局彼女はスナーク班に来たせいで恋人の最期に立ち会うことすら出来なくなってしまったわけだ。

「彼女、……後を追ったりしないですよね」

 帰り道、アッシュはジジに尋ねる。

 恨まれても文句は言えないと思っていたのに、墓参りにやって来たスナーク班相手に、彼女は穏やかに対応してくれたのだ。生に対する執着を失ったせいで心が凪(な)いでいる可能性がある。

「さてね。だが、少なくとも猫がいる限りは平気だろうな。恋人の大事な忘れ形見だ」

「……大事、ではなかったみたいですけどね。それがわかったら捨てちゃうかな」

 スナークの男が死の間際、彼女とまったく同じことを言っていたのだ。猫の世話は彼女がしてくれるかなあ。彼女は猫好きなんだ。ふふ、実は僕は猫なんか好きじゃないんだけどね。彼女が猫を好きだったから、僕も好きなふりをしていたんだよ。

「捨てられやしないさ。思い出そのものなんだからな。それに、いざとなれば猫のほうが彼女の面倒をみる。この世に留まらせる。なぜなら、知っているだろう、お坊ちゃん。『戻っておいでよ、ウィッティントン。三回市長になるのさ』」

 ジジが言っているのは、英国で生まれ育てば誰もが知っている昔話だ。貧しいディック・ウィッティントンが猫のおかげで金持ちになり、市長になる物語。

「猫は果報者だというのが古くからの相場なんだよ、ニャア」

 単なる気休めなのかもしれない。だがそれでも、ジジの心遣いに感謝の意を込めて、アッシュは、猫の鳴き声全然似合いませんね、と微笑んだ。……ひっかかれた。



◆dog【犬】


 一分間に十匹達成。目の前の血の海を見て、これのなにを楽しめばいいのかアッシュにはまったくわからなかった。

 パブの二階にこっそりと設けられている競技場。時間内に犬が何匹の鼠(ねずみ)を噛み殺すことができるかの賭けが行われている。通称、鼠いじめ。警察にはこの競技を開催した店主を逮捕する権利がある。だが今は別件の秘密捜査の最中で、下手に騒ぎ立てたら調査に支障が出る。だからアッシュとジジは客にまぎれてそのまま外へ出たのだ。

「『ひどい! なんてことをするんだ! 僕は許さないぞ!』とかなんとか言って飛び出すかと思ったんだがな。ああ、お前はお育ちがいいから狩りで慣れているのか」

「……僕のことをどれだけ上流階級だと思ってるんですか。どっちにしろ、僕は狩りが好きじゃない。軟弱者だって笑われますけど。狩り好きのやつに、ほらきつねをやるよ、さあうさぎをどうぞって差し出しても絶対喜ばないんです。だって、本当の目的は獲物を得ることなんかじゃないんだから。殺戮(さつりく)そのものを楽しんでいる」

「さっきのやつらだって、鼠が欲しいわけじゃない。というより、鼠は殺すためにわざわざ集めている。駆除だとか趣味だとか小利口な理屈を並べないだけ、上のやつらよりむしろ潔いかもしれないな。……じゃあそれこそなんで大人しく見ていたんだ?」

「……捜査の途中だからですよ」

「おっと。いつのまにかずいぶん大人になっていらっしゃる」

 世間知らずのお坊ちゃん、と普段は揶揄ばかりするくせに、ジジはアッシュの聞き分けのよさに対してどこかがっかりしているようだ。もしかしたら、鼠いじめを見るのが嫌だったのはジジも同じだったのかもしれない。中年の純情な心は複雑で、取り扱いが難しい。

「実は犬が怖くて尻込みした、とかじゃないのか」

「まさか。……犬と呼ばれていたらしいあんたのことだって全然怖くないですしね」

「強がるなよ、お坊ちゃん。犬は我々の友で、服従して、奉仕して、いつでも忠実。そんなの嘘っぱちなんだからな。さっきみたいなのが本性なんだぞ。わん、わん」

 皮肉げに笑うジジに、どの口で言ってるんだ、とアッシュは呆れた。

 ちょうどニューゲート監獄の近くに差し掛かった。きっと、ジジが毎日ここに来るのは、処刑された養父の墓参り代わりなのだろうとアッシュは思っている。主人の墓の番をする。ジジは実に献身的な、典型的な犬のイメージ通りの行動をしている。

 皮肉(cynic)の語源は、ギリシャ語の犬(kynikos)に由来してたんだっけな、とアッシュは学生時代に習ったことをふいに思い出し、今さら納得した。



◆ear【耳】


 命知らずだな、とジジは思った。

 どういう成り行きか思い出したくもないが、キング――アッシュの上司でジジの天敵――の仕事現場に居合わせるはめになった。キングが追っていたスナーク。その男の屋敷に踏み込んだはいいが、敵もさるもので、キングについて徹底的に調べ上げていたようだ。キングの前には、過去、惨殺されたはずの彼の妻子が立っている。

 このスナークは代書屋の指先を移植されている。偽文書の作成をしていた犯罪者のものだ。存在しない人物を作り上げ、金を無心する。ブラッドコレクションになったその臓器は、文字通り、存在しないはずの人物を存在させられるようになった。情報さえあれば、死んだ人間でさえ寸分違わぬものを出現させられるのだ。

「どうだ、スナーク班の班長さん。さすがの貴様も手出し出来な――――」

 言い終わる前に男はキングの十五インチの警棒に突かれて倒れ伏していた。ああ、やっぱり、とジジは驚きもしなかった。

「な……、貴様、こっ、この、人でなし!」

 背中にのしかかられ、腕を捻りあげられて、手錠をかけられながら、男はキングを非難した。男の盾になっていた妻子を、キングは迷わず攻撃したのだ。警棒を次々と二人の眼窩(がんか)に突き刺し、抜いた。空洞からどろりと粘着質の真っ赤な液体が溢れ出たのはほんの一瞬で、ものも言わずに妻子は――妻子の幻影は、空中に霧散した。

「自分の嫁や子供にそっくりなのによくもあんな躊躇(ちゅうちょ)なく……!」

 ひ、と男が息を呑む。キングはにこにこしながら警棒を男の指の関節に当て、その上に膝を乗せている。この場にアッシュがいたら決して見せないだろう酷薄(こくはく)さだ。

「なあに? どこがそっくりだって? 僕の妻子を穢すような真似をしないでくれるかな。僕が愛していたのはあんな贋物(にせもの)じゃないんだよ」

 ぎゃあああ、と男の濁った汚い悲鳴が響く。ぼきり、と骨が折れる嫌な音もした。キングが膝に全体重をかけたのだ。男はひくひくと泡をふいて気絶した。

「まったく、スナークなんて、この世からきれいさっぱり消えてほしいよね」

 キングはジジを、いや、ジジの右耳を見て言った。ジジは、スナークによって妻子の命を奪われた哀れで悲劇的な班長様を見返した。俺の右耳が終始やかましいのは、感情感知の能力のせいではなく、お前のせいなのかもな、と内心で呟きながら。

 この国には、耳が火照ったり鳴ったりすると誰かに噂されているという俗説があるのだ。左ならば誰かに恋をされていて、右ならば――――、誰かに恨まれている。



◆food【食物】


「……食べないんですか?」

「お前の顔を見ているだけで腹いっぱいになりそうだ」

「だ、だって、こんなまともな食事をしたの久しぶりなんですよ。見てください、ふわっふわでとろっとろ……! こっちは香ばしくてかりっかりの歯ごたえ……! うわっ、じゅわあって肉汁が溢れてくる……! な、なんてことだ、この艶のある弾力……! あああっ、舌触りがなめらかでとろける……!」

「静かに食え。――ところでお坊ちゃん。どうして俺をここに招待してくれたんだ」

「え? ええと、この間の事件で助けたご婦人が、どうしてもお礼がしたい、と」

「ああ、やたらお前のことを気に入っていたあの。……なんだ。のろけを始めるのか?」

「ええ? そうですか? 僕、気に入られてました? その人がですね、この店のことをやたらすすめてくるんですよ。一緒に行きましょう、ごちそうします、ぜひ召し上がってほしいって。申し訳ないですけど、ちょっと辟易(へきえき)してしまうくらいに」

「それで」

「刑事として当然のことをしたまでですからお断りしてたんですけど、そんなにおいしいのかなって気になっちゃって。班長にそのことを話したら大笑いされて、特別報奨金代わりにおごってあげるから、ジジさんと行けばって二人分の予約をしてくれて」

「……お前……。なんでそれでちらりともおかしいと思わないんだ。あいつが楽しそうなときは全力で疑え。この店がどういうところなのかお前は全然わかってない」

「な、なんですか。……まるで毒入り料理でも出してるみたいに」

「ある意味ではな。自分が食ったものを思い出せ、お坊ちゃん。ケイトウ、アスパラガス、家鴨(あひる)の卵。玉ねぎと赤キャベツとともに崩れる直前まで煮込んだ脂肪分だらけの鶏肉。砂糖をたっぷりまぶしたパン。山羊のミルクにチョコレート」

「……なんですか。別に共通点なんかないじゃないですか」

「こういうのはヴィートン夫人の家政学じゃあ教えてくれないものなのかね。……ここで取り扱っている食材はすべて、催淫(さいいん)効果があると言われているものばかりだ」

「へっ? え、……えええ?」

「さしずめ今宵のお楽しみのために寄る店、だな。ご婦人の誘いにほいほい乗ってたら、食われていたのは――――」

「……僕、ってことですか」

「ごちそうさま」



◆Geranium【ゼラニウム】


「議事堂爆破をするのは俺よりもお前みたいなタイプだろうな」

 ジジがそんなことを言い出したのは、アッシュの政治的な思想について熟知しているから、というわけではない。ただ単に今日がガイ・フォークスデイであるだけだ。一六〇五年の火薬陰謀事件に由来する伝統行事。

 あちこちで花火があがっている。おがくずが詰められたガイ人形を荷車で連れ歩いて、どうか哀れなガイに、と一ペニーをねだる少年もいる。やんちゃな男児たちなど、面白がってかんしゃく玉や爆竹をアッシュの足もとに投げてくる始末だ。立て続けにぱあんと弾ける音に慌てふためくアッシュを見て、ジジは笑いをかみ殺している。

「耳元でやられなくてまだましだったな。そういう素直な反応をしていると狙われるかもしれないが」

「冗談じゃない。明日は歌姫メアリーの舞台に行くのに。ジジさんも僕にいたずらしないでくださいよ。嫌いになりますからね」

「そりゃ願ったり叶ったりだ」

「ちょっと。絶対やめてくださいよ」

「疑心暗鬼だな。そもそも爆竹なんか持ってない。鳴らすか、子供じゃあるまいし」

 そんなやりとりをした翌日、アッシュはコヴェントガーデン市場に来ていた。メアリーに渡すための花束を買いに、知人の花売り娘、キャルの元にやって来たのだ。

「……は? この花を包んでほしいって? あんた、女の人に贈るんでしょ? 相手が花言葉とか気にする人だったら大変なことになると思うけど」

「そんなの全然考えなかったな。さすが専門家だ。あ、ねえ、こっちの花言葉は?」

 以前、ジジからもらった、否、押し付けられたことがある花について尋ねる。

「ゼラニウム? それは、ええと、『育ちが良い』、あと、『愚か』」

 なんだか普段ジジからよく言われる言葉だ。まさか狙ったわけではないだろう。きっと他意はなかったはずだ。……それとも、ジジは花言葉を意識していた、のか?

「あ! それからもうひとつあった。――――『友情』!」

 アッシュはまるで打ち抜かれたように胸を押さえて後ずさった。ぱあん、というはしゃいだ音が彼の頭の中にだけ聞こえた。

「……くそ、爆竹は鳴らさないって言ったくせに……」

 アッシュのつぶやきに、爆竹? ガイ・フォークスデイは昨日だったけど? と、キャルは怪訝(けげん)な顔をした。



◆home【家庭(あるいは、特に女にとっての☓☓)】


 罰をすぐに与えられないのは地獄だ。その審判のときを待つ時間自体が罰なのではないかと思うほどに。いいや、事実そうなのだろう。

 外出禁止を言い渡され、家に監禁されてどれくらい経ったのか皆目見当もつかない。恐怖と不安で体に穴が空いていく。文字通り、幼い――それこそ十歳にも満たない――アッシュの小さな体に真っ暗な空洞ができていくのだ。右目に、喉に、左肩に、左胸に、腹に、太ももに、脛に。腹が特にひどい。ほかよりも一際大きな穴だ。

 アッシュは膝をつく。腹を守るように体を折る。

 ――――なんでこんなことに。ぼくがわるいこだから?

 アッシュはこれをなんとかできるのは父だけだということを直感的に知っている。

 ふと、父が目の前に現れる。アッシュの格好はまるで頭を垂れてすがっているようで、はたからみたら敬虔(けいけん)なありさまだ。

 なぜだか父はペストマスクをつけている。鳥のくちばしのような不気味な防護マスク。服は普段と同じものだから余計に異様だ。戸惑っていたら、父の手がふいに、腹の穴に侵入してきた。ひどく汚れた黒い掌が体の奥深い部分をかきまわす。無造作に、無遠慮に、無神経に、はらわたをほじくりまわす。穴の中はからっぽのはずなのに、先ほどからきちんと感覚がある。絶叫したいのに焼けたように喉が痛くて声が出ない。

「これは、お前が望んだことだろう。お前が私にこうさせたがっている」

 父がくぐもった声で言う。そうだっけ。これは、ぼくのせいなんだっけ。

 そこで、――――はっ、と目を覚ました。

 何度も名前を呼ばれていたようだ。珍しく、お坊ちゃん、ではなく名前を。アッシュ、と。自分がどこにいるのかわからない。だが、少なくともベッドの上ではなさそうだ。室内ではないのだ。汗でぐっしょり濡れた体はジジに支えられている。

「……な、に……」

「忘れたのか。どこでも悪夢を見せることができるスナークを追っているんだろうが」

「ああ、そう……、そうだ、そうだった……」

 捜査途中だったのだ。犯人を追いつめたところだったはずだ。

「僕を捨てて犯人を追いかけてよかったのに。彼女、なんか言ってました?」

「お前に悪夢を贈ってやった、と。――――牢獄に閉じ込められる悪夢を、な」

 ジジの証言に、アッシュはつい自嘲気味に笑った。

 家庭と牢獄。なるほど、同じだ。



◆insect【昆虫】


 脱ぎたいけれど、脱げない。

 顔をひきつらせたアッシュは、ベッド――という名の粗末なマットレス――に腰掛けたジジから不審げな視線を送られている。

 天井からぽとりと降ってきたなにかが、ちょうどアッシュの襟ぐりから背中に入り込んできたのだ。もぞもぞと皮膚の上を這うそれは足がわんさかあるタイプの虫だ。

 ジジが一週間ほどの契約で借りている安宿。無理を言ってそこに足を踏み入れたのはいいが、想像通り不潔で粗末な場所だった。虫くらい当然いるだろうが、入室早々こんな洗礼を受けることまではさすがに覚悟していなかった。

 虫そのものは別にそこまで苦手ではない。体の上で動かれるのが嫌なのだ。

 裕福な実家には、シャワーまで据えつけられていた浴室があった。だが、ことごとく湯の出が悪かった。真鍮(しんちゅう)の蛇口からは錆びた色の水とともに、よく、中に住み着いていた大量のハサミムシなどが出て来たものだ。ほとんどが死骸だが、たまに生きているのもいて、素肌を縦横無尽に這い回るのだ。あの不快感ときたら。

 さっさとシャツまで脱ぎ捨てて追い払ってしまえばいいのだが、人前で肌を晒(さら)したくない。絶対に。かといって、ジジに虫を怖がっていると思われるのもしゃくだ。

「便所か? もぞもぞして」

「い、いえ、そういうわけではなく。……うわっ、ちょ、のぼって……っ!」

 アッシュは大急ぎで上着を脱ぎ、ネクタイを外し、シャツをズボンから引き抜く。

「どうした、俺にふらちな行為を働くつもりか」

「ばか言うな! ……あっ、も、もう、一旦部屋の外に出てってくれないですか」

 しかし、ジジが移動する前にことは解決した。ばさばさとシャツをはたいていると、足元に黒い小さなヤスデが落ちたのだ。うぞうぞと蠢(うごめ)いている。

「おっと。知らぬ間に俺はすでにお前にふらちな行為を働かれていたということか。お前が呪われていたとはな」

「は、はあ?」

「精液の代わりに昆虫を出して、性交相手の内臓を食い尽くして殺してしまう、という呪われた王の神話を知らないのか。お前もそうなんだろう?」

 ジジがヤスデをつまみあげる。

「そうそう、昆虫を飲み込むと妊娠するなんて言い伝えもあったんだぞ」

 薄く笑うジジに、ようやくからかわれていると気付いたアッシュは、それは僕のじゃないです、と生真面目(きまじめ)に宣言した。



◆Judas kiss【仲間への裏切り行為】


 巡査くん、と、馴れ馴れしい猫撫で声で呼びかけてくる男なんて、心当たりは一人だけだ。アッシュは眉間に皺を寄せつつ振り返った。予想どおり、そこにいたのはマン・インザ・ライムライト誌の三文記者J・Pだった。

「……お前と話すことなんてない」

「あら、つれない。そんなところ旦那に似てこなくていいのに。じゃあさ、おれと勝負してよ。勝ったらなんか情報教えて。スリーアップでどう?」

 J・Pは指を三本立てて、勝手に話をすすめる。

「半ペニー硬貨を三枚投げて、三枚とも裏か表かが揃えば得点になる。三回……まあ、それ以上でもいいけどさ、決めた回数やって得点の多いほうが勝ち」

「なんで僕がそんなことにつきあわなきゃならないんだよ」

「だって、いつだったかのパブでの勝負は、巡査くん、おれにぼろぼろに負けたわけでしょ? あーあ、負けっぱなしでいいのかなあ」

 そんな見え見えの挑発に乗るか、と思っているのに、いらいらして仕方がない。

「やめとけよ。また負けるぞ、お坊ちゃん」

 頭上から声がかかった。塀の上に腰をかけ、足をぶらりと揺らしているジジがいた。

 見てろよ、と、ジジはポケットから硬貨を三枚出す。そのまま天に向かって高く投げた。掌で受ける。すべて、表。もう一度同じことをやる。今度はすべて裏だ。硬貨にしかけでもあるのかと聞くと、ジジは小さく噴き出した。

「純粋だな、お坊ちゃん。指への載せ方と投げ方にこつがあるんだ。勝負を持ちかけてくるやつなんざ全員、こういうことができるもんだぞ」

「なんで言っちゃうかなあ、旦那」

 騙すつもりだったんだな、と、J・Pへ怒ろうとしてアッシュははたと口をつぐむ。思い出したのだ。以前、スリーアップと同じ要領のコイントスをジジに披露されたことを。金を巻き上げられただけで終わったが、つまりあれはいかさまだったわけだ。

「あんたら、寄ってたかって僕をカモにして……。この裏切りものめ」

「裏切る? そんなに俺のことを信頼してくれてたのか。光栄だな、お坊ちゃん」

 にやつくジジにかちんときて、アッシュはジジの脛を思い切り引っ張った。

「僕にこんなことはされないとお思いでした? 信頼してくれていて光栄ですよ」

 バランスを崩して塀から落ちそうになって慌てるジジに、アッシュは慇懃無礼に言い放つ。してやられたねえ旦那、と、J・Pが腹を抱えて笑った。



◆key【調】


「……ピアノを弾けるなんて知りませんでした」

 名も知らない悲しげな曲の、繊細な旋律が途切れる。

 ジジのほかには誰もいない小さな劇場。アッシュが近付くと、ジジはその長い指で鍵盤(けんばん)を叩くのを即座にやめてしまった。

「どこで習ったんですか」

「忘れた」

 言いたくない、が正解なのだろう。ならばこれ以上追究することではない。

 この場にアッシュの上司がいたら嬉々(きき)として教えてくれただろうが。――昔こいつを飼っていた奥様がたから教え込まれたんだよ。なんでも吸収して器用にこなすから、いろいろやらせるのが楽しくてしょうがなかったんだろうね。いろいろ、ね。

「そんな特技があるのなら、なんでもいいから心の音がどんなものなのか弾いてみてくださいよ」

「俺の耳に聞こえているのはまとまりのある音楽じゃないと言っているだろう」

「別に素晴らしい曲の美しい演奏なんて期待してませんって」

「興味本位ならやめとけ。そんなにいいものじゃない。本来聞こえなくていいものを暴いて聞く必要なんてない」

「僕は感情の音を聞きたいわけじゃなくて、あんたがいつも聞いている音を知りたいって言ってるんですけど」

「なにが違う」

「ジジさんの世界を共有してみたいってことですよ」

 ジジは一瞬沈黙したのち、小声で、変態、と彼にしては珍しく質素でひねりのない悪態をついた(どのあたりに変態の要素があったのかアッシュにはわからない)。

「俺はお前なんかと共有したくない」

「かっ、可愛くないなあ、あんた!」

「よく見ろよ、案外可愛いから」

 ふざけたことを言った直後、ジジはふと真面目な顔になった。

「……俺はスナークの力っていうのは、人知を超えたものという認識はおかしいと思っている。逆なんだよ。退化だ。こんな力は必要ないから元々備(そな)わってないんだ」

 ジジの口ぶりから、よほど嫌な目に遭ってきたんだな、ということくらいはわかる。どんな感情のkey(調)でも聞ける耳を持っている男。その頑なな心のkey(鍵)はどこにあるのやら、そうやすやすとその世界に侵入させてはくれないようだ。



◆lamb【子羊】


 早くなんとかしてください刑事さん、とその母親は言った。

 十代前半の息子を連れて足繁(あししげ)くスナーク班へ通ってくるこの母親は、ちょっとした有名人だ。こちらももはやまともに取り合う気がなく、班内をたらいまわしで、手の空いているものが対応することになっている。何度も繰り返される話を聞きながら、アッシュはげんなりした気分を表に出さないように必死だった。

「どうして息子に悪さをしたスナークを逮捕してくれないの」

 それは、と答える前に、彼女は言葉を重ねる。もう聞き飽きた言葉を。

「おかしいでしょう。私と主人の子供なのに、こんなになにもできないなんて。きっと、学校にスナークがいるに違いないわ。この子のことをなにか特別な力を使って妨害しているのよ。とんでもない化物ね」

「なにか証拠でもあるのか」

 偶然居合わせて同席するはめになったジジが口を挟む。

「この子の成績が悪いのが証拠よ」

「つまり証拠はなにもないっていうことだな」

「捜査するのはあなたたちの役目でしょう! ああ、可哀想」

 うつむいている息子のことを、母親は横から抱きしめる。

「この間なんて、この子、『年三十人が餓死すれば百万人が助かる都市がある。比率について述べよ』という設問に、『三十人をいけにえにすればいいというのは可哀想だ』なんて答えたのよ! 息子さんは落ちこぼれるかもしれませんね、なんて先生に嫌味を言われて! ああ、きっと、スナークにでたらめを言うよう洗脳されたんだわ。こんなことじゃあ社会福祉行政官にも会計士にもなれやしない!」

 母親は、そして息子を通わせている学校側も、実地的な教育こそ最善だと思っているのだろう。役に立つ人間の生産。人間を数字として見て、余計なことを考えない。

 彼女の尺度では息子は出来損ないで、それに耐えられずスナークのせいにしている。

「お前、本当にスナークになにかされているのか」

 ジジが息子に尋ねる。息子はおずおずとうなずいた。ジジが不快そうに耳に手を当てる。嘘なのだ。少人数でも犠牲にするのは可哀想だという優しい子供。母親の見栄に虐(しいた)げられる子羊。その彼でさえも、スナークに責任を押し付ける。

 ほらごらんなさい、と再び騒ぎ出した母親と、気弱な息子へ注がれるジジの視線が等しく冷ややかなものだと気付いて、アッシュはジジの背中を軽く叩いた。



◆moon【月】


「満月の夜には気が狂うなんて話があるな」

「よく聞きますね。月には不思議な力がある。……どうしました? 狂いました?」

「お前にな」

 あ、これ、酔ってんな。

 ものすごく珍しいことだ。なにがあったのか知らないが、多分、精神的に参っている。アッシュは今宵の満月でも落っこちてくるんじゃないかと思わず空を見上げた。

「なんか言え」

「ええ? 気持ち悪いです」

「うん」

 正直な感想を伝えたら、ジジはこくりとうなずいてから、くく、と喉の奥で笑った。

「なにかのせいにするのは楽だよな」

「はい?」

「なにかが原因で狂気になるっていうのは特に便利だ。月のせいで狂人になったことにしておけば、たとえそのとき殺人を犯したとしても、自分が持っていた気質のせいじゃないってことになる」

「まあ……、そうですね」

「ほかのやつらもそれで安心できる。だって、もしかしたら自分の精神も殺人者と似たようなものなのかもしれないと思わずにすむからな。なにかあるとしたら月のせいなんだ」

 スナークとは悪さをするやつだ、と決める。そいつらに関わりさえしなければなにも悪いことは起きない、と安心して暮らせる。悪いことはすべて通常とは遠い世界の、倒錯的(とうさくてき)な出来事として片づけられる。結果、スナークへの迫害が始まる。……という構造と、まあ、似ている。というか、ジジが愚痴りたいのはそれなのだろう。

「……酔いに身を任せなくても、話くらい聞きますよ。若いもんには遠慮せず頼る図々しい生き物なんでしょう、おじさんっていうのは」

「ああ、そうだな。次からはお前に頼るよ。月に懸けて誓いましょう」

 月明かりに照らされて、ジジはきざったらしくそう言った。つまり、誓わないと言っているのだ。満ち欠けをする不誠実なものに懸けるということはそういう意味だ。

 酔っぱらってさえ素直じゃない中年男に少し同情してしまう。もういっそそれこそ月のせいにして狂ってしまえばいいのに、とアッシュは無責任なことを思った。



◆name【名前】

 

 お父さん、と、ジジがそう呼ばれた。思えば、ジジには二つ名――死を運ぶ猟犬(ブラックドッグ)があるのだから、今さら呼び名が増えたところで驚くに値しない。

「……なわけあるか! なんですか、隠し子なんですか!」

 大声を出してしまったアッシュのことを誰が咎(とが)められようか。

「ちょっとした事件だな」

 ジジはまるで他人事だ。彼の足元にはきゃっきゃとまとわりついている五歳程度の男の子がいる。その子が、お父さん、お父さん、と嬉しそうに連呼しているのだ。

「そ、その子が、嘘をついている、とかではないんですよね。あんたのことをお父さんだと思い込まされているだけ、とかでもなく?」

「父親だと思われることに心当たりがある」

「なん、え、なんだよ、あるのかよ。あるんですか。……えええ? 子供? あんたが? お母さん似なのかな、全然似てない。……それにしても、意外だ……」

「なんだ。俺が子供を持っちゃおかしいか。別に失敗したわけじゃないぞ。お前のほうこそうっかり父親になりそうだな。ベッドの上で避妊具ってなんですか、とでも言い出しそうだ」

「フレンチレターくらい知ってます」

「おっと。J・Pに吹き込まれたか? 向こうでは英国帽子という名前で呼ばれているらしいがな。どこの国もふらちなものはよそからやって来たことにするんだな」

「どうでもいいですよ、そんな話は……。意外っていうのはそういうことじゃないです。その子、スナークの二世になるわけでしょう。その子自身は特殊な能力を持ってないのに、スナークの血筋ってだけで迫害される。あんた、そういうの気にするのかと思ってたんですよ」

「二世にはならないぞ。俺の子じゃない」

「………………は?」

「少し前まで子犬の面倒を見ていたんだよ。こいつはその子犬なんだ。世間じゃ今、動物を人間にする力を持つスナークが好き勝手に暴れ回っている。もうしばらくしたら警察に一報が入るんじゃないか」

「そ、それならそうと僕をからかってないで最初から言ってくださいよ!」

 ジジは男の子を抱き上げながら澄ました顔で言い返してきた。

「ちゃんと言っただろうが。ちょっとした事件だな、と」



◆ogre【人食い鬼】


 最愛の娘の亡骸(なきがら)を抱き上げながら、父親は慟哭(どうこく)していた。刃物を突き立て、刺し殺した張本人であるにもかかわらず、だ。

「……スナークになった娘は愛せなかった、ということなのか。男手ひとつで育ててきて、三十年近く一緒に過ごしたのに?」

 アッシュは自分の声が固く張りつめているのを自覚する。今回は、完璧に自分の落ち度だ。娘はこうなることを予測して、スナーク班に相談に来ていたのに。

 年老いた父と三十近い娘。

 二人暮らしで慎(つつ)ましやかに生きている。けれど、私がスナークになってから、父のことが恐ろしい。まるで私を見る目が殺人鬼のそれだ、と。

「ブラッドコレクションを娘に移植したのはあんたが決めたことだろう」

「そうだ。そうしなければ、娘が助からなかった。ほうぼうから金を借りて、なにもかもなくしても、娘を助けたくて……」

「それなのになんでっ……!」

 責め立てようとしたところを、ジジに制された。冷静になれということだ。そうだ。こんなの、自分のふがいなさから八つ当たりをしているだけだ。アッシュは深呼吸を繰り返した。

「……娘のために見つけ出したブラッドコレクション、その臓器の持ち主が、……その犯罪者が、妻を殺した男だったんだ。娘を産んだ直後の私の妻を」

「……は?」

「関係ない。そんなことは関係ない。そう思っていた。実際、娘はスナークとしての力なんか使わなかった。Bの烙印(スティグマータ)を見せるようなことはしなかった。移植したことなんて、忘れてしまえ。そう自分に言い聞かせた」

 男は激しく首を振った。

「無理だった。どうしても。意識せずにいられなかった。娘の顔を見ると、妻を殺した男の高笑いが重なる。……だから、こうして、妻の、かたきを、うってしまった」

 娘の体の中のたった一部分。その臓器の奴隷にもならず娘は正気を保っていたのに、憎しみが父親の心を食い尽くしてしまった。娘は父親に殺人鬼の気配を感じ取っていたが、父親の目には、娘こそが殺人鬼に見えてしまっていた、ということだ。

 ……こんな残酷な巡り合わせがあってたまるかよ、と辛くなる。だが、どんなに同情すべき点があっても、逮捕しなくてはならない。殺人鬼よりも自分のほうがよっぽど冷酷(れいこく)で、それこそ化物のようだ。

 アッシュの口から場違いに小さく笑いが漏れた。



◆puppet【操り人形】


「嘘をつけない舌を持ったスナークに会ったことがある」

「へえ。ジジさんなら仲良くなれそうですね」

「……なんでそう思った?」

「え? だって、あんたって、嘘がわかるわけでしょう。たとえば、恋人が口先だけで愛してるって言っていて、実は心が離れていたとしたら、それがわかってしまう」

「まあそうだな」

「だから、嘘のつけない人相手ならそういうので傷つかない。安心してつきあえる」

「俺はずいぶん繊細だと思われているらしいな」

「事実でしょうが。だって、あんた、僕のことよく嘘をつくのがうまくないって言うけど、そこが好きでしょう?」

「うぬぼれるなよ、くそがき」

「にらまないでくださいよ、全然怖くないですから。それで? 嘘をつけない舌を持つスナークと恋をした話でしたっけ?」

「いつそうなった。色恋沙汰の話はないぞ。相手は年寄りの男だったんだからな」

「なにを喋りました?」

「なにも。そいつはずっと口を噤(つぐ)んでいたからな。スナークになってからしばらくは喋っていたが、そのあとは事故で死ぬまで一切喋らなかった」

「どうして黙ってたんですか? 建前も社交辞令も言えずに人間関係が壊れるから? ……違う? ほかに理由ってあります?」

「『嘘をつけなかった』からだ」

「は? ……はい。最初からそう言ってましたよね?」

「正直者になってしまう舌じゃない。言ったことが本当になってしまう舌だったんだ」

「ああ! 嘘をつけないってそういうことか。本音しか言えないんじゃないんだ。的中率百パーセントの予言者になってしまったってことですね。それで、怖くなってなにも喋れなくなった、と。もったいない。どんな願いでも叶えられるのに!」

「ぞっとするけどな。全部が自分の思い通りになってしまうっていうのは」

「……言われてみれば。自分以外の全員を操り人形にできるってことですもんね」

「お前風の言い回しをするなら、『予想外のことがなにもなくなる』……だろう?」

「そうか。そうなりますね。それはつまらない。ジジさんも、よく僕にお前は想像だにしないことをやらかしやがってって言いますけど、そこが好きですもんね」

「……本っ当に、うぬぼれるなよ、くそがき」



◆quest【探究】


 公園のベンチに腰かけてぼうっとしているジジに、隣いいですか、と声をかけてきたのは、物腰の穏やかな二十代後半の男だった。素人目にもわかるほど仕立てのいいスーツを着ている。貴族だと言われたら信じる。垂れ目の優しい顔つきに、笑みを浮かべている。ぽかぽかした陽だまりのような印象の青年。

 知り合いでもないし、座る場所はほかにいくらでも空いている。青年の行動は不自然極まりないのだが、攻撃性も感じられないので少し様子を見ることにした。勝手にしろ、の意でジジは小さくうなずいた。

「かたつむりだ。なつかしいなあ」

 鳥の巣やかえる、かたつむりなどを売る呼売商人を見て、青年はふふ、と笑う。

「お前さん、食えるのか。あの商売をしているやつが、フランス人にしか売れないと言っていたが」

 青年は愚にもつかない世間話を絶え間なく続けている。ジジは適当に応える。

「いいえ。あれはですね、塗ると、背筋が伸びて健康になるっていう効果があるんですよ。……と、信じられていた、と言ったほうがいいですね。手桶いっぱいの何百匹を一気にゆでて、出てくる緑色の泡を塗るんです。うちの父親なんかは、中身も一緒のほうがいいだろうって、すりつぶしたかたつむりごと塗ってました。僕の弟にね」

「へえ」

「弟はすごく可愛いんですよ。僕は嫌われちゃってますけど。僕、よく優等生なんて言われるんですけど、単に優柔不断でね。弟は僕にやれないことを簡単にやってのけるすごいやつなんです。まっすぐすぎて誤解されがちなところはありますけど」

 青年はのろけるように笑う。その後も一方的に話していた青年は、話題が尽きたのか、それでは、と、現れたときと同様、ふわりと突然ジジの前から去って行った。

 数日後、ジジは同じ公園にアッシュと来ることになった。アッシュはかたつむりを持ち運ぶ呼売商人に目をやって、うわ、と少し尻込みしてみせた。

「どうした」

「……よくわからないんですけど、昔、家庭内で無言で背中に塗りたくられたことが……。ぬちゃぬちゃしてて……、あれ、なんだったんだろう。絶対嫌がらせですよね」

 なるほど。ジジの頭の中ですべてが繋がった。どうやら自分は、わざわざロンドンまで出向いてきたアッシュの兄に、パートナーとして査定されていたらしい。

 過保護だな、とアッシュのまっすぐな背筋を見ながら思わずつぶやいたジジに、アッシュは小さく首を傾げた。



◆Rumpelstiltskin【トム・ティット・トット】


 僕は非力で、弱虫で、きみを痛めつけるやつからきみを守る力を手に入れたかっただけなんだ。ああ、それなのに、その力できみを殺すことになるなんて!

「……でも、きみが悪いんだ。僕はきみのためにスナークになったのに」

 アッシュとジジが現場に駆け付けたときには手遅れだった。追っていたスナークの恋人である少女の体は、全身を鋭利な刃物で切り付けられたかのようにずたずただ。左足がないのは、元からだ。そのせいで、彼女は周囲から虐(しいた)げられていた。

 倒れている少女は男の腕の中、まだかろうじて息をしている。

「スナークになったから、僕を愛せなくなったんだろう。だから僕の元から去った。僕のことが悪魔にでも見えていたのか。この力さえあればなんでもできるのに!」

 違うわ、と、少女は血だらけの両手でそのスナークの頬を包む。

「たとえ、私に、ひどいことをしてきた人たちにだって、これ以上仕返しをしてほしくなかった……。私の存在のせいで、いつか……、あなたが……、人を殺(あや)めてしまうんじゃないかって心配で……。私、誰かに傷付けられても……、あなたさえ、いてくれれば……、耐えられたのに……」

「だからスナークの僕が嫌になったってことだろう! はっきり言えよ!」

「そうじゃない……。力を過信するあなたに、不安になったの。ねえ……、スナークじゃないわ。……私、あなたのことを一度でもそう呼んだ? 私にとって、ずっと……、ずっと……、あなたは、ただの……」

 少女は、スナークの名前を――男個人の名前を呼んでこと切れた。

 自分の元から彼女が逃げ出したのは、スナークになったからじゃない。傲慢(ごうまん)になったからだ。スナークにとらわれていたのは、自分のほうだ。

 名前を呼ばれた男は、今さらそんなことに気付いて、愕然として、錯乱して、――――こんな力! と、叫び、自らを切り刻もうとする。

 しかし走り込んできたジジが、男の胸部を思い切り蹴り上げた。

「……力があれば、頼りたくなるもんだよな」

 ジジは気を失った男を見下ろして、ぽつりと言った。

「俺は、物心ついたときから常に力とともにあった。だから、これ無しじゃあ人の感情を推(お)しはかれない。きっと、本当はお坊ちゃんよりも鈍いのさ。……力を持ったほうが弱くなるってことくらい、わからないものなのかね」

 否定も肯定もできない。アッシュにできたのは、ジジの物悲しげな背中をただじっと見つめることだけだった。



◆sleeping【眠り】


「……キスしても目覚めないからな、諦めろ」

 するつもりなんかねえよ、と粗野に言い返すのをアッシュはなんとか耐えた。なにをとち狂ったことを言っているんだこの三十路男は、と頭を抱える。

 ジジはベッドにうつ伏せになって、目を閉じている。勝手に宿を突き止め押し掛けてきたアッシュを歓迎する理由などどこにもない、と態度で示している。まったくもってそのとおりなのだが、こっちだって遊びに来ているわけではないのだ。どうしても同行してほしい案件がある。とはいえ厳密には仕事ではないので強く出られない。

「おじさんのくせに眠り姫気取りですか」

「可愛いからな」

「うるせえな」

 今度は無理だった。こらえきれず、間髪入れずに暴言で返してしまった。

 ジジは頻繁に自分のことを可愛いと言うが、もしや、気に入っている冗談というわけではなくて、本気でそう思っているのだろうか。少し怖くなってくる。

「勝手に泊まる人数を増やす気じゃないだろうね! 追加料金をもらうよ!」

 バン! とやかましい音を立てていきなりドアが開いた。家主なのだろう、中年の女が殺気立った形相で立っている。ジジは億劫(おっくう)そうに上半身を起こした。

「すぐに追い返すから勘弁してくれ。金がないからあんたに体で払うしかなくなる」

「ふん、そんなんじゃ足りないよ!」

 自分の体を宿賃より低く見積もられたというのに、ジジは声を立てて笑った。

「くだらないったらないね! 取っちまいな、そんなもん!」

 家主はジジの股間を顎(あご)でしゃくって指し示してから、いらだたしげに去って行った。

「お前のことを見習って去勢しろと言われたぞ」

「だから、してないですってば。……ちょ、なにまた寝ようとしてるんですか!」

「俺はうるさいんだろう? お前がそう言った。静かにしてやろうという心遣いだ」

「うるさくていいですから、起きてくださいよ!」

 ジジの体を揺さぶりながら諦めずにしつこく懇願していると、やかましいね! と先ほどの家主が現れた。ジジとアッシュをまとめて部屋からぽいっと放り出す。

 三十路男の眠り姫を起こすのに必要なのは口づけではなく実力行使のみ。

 とてもおとぎばなしにはなりそうにないなあ、と逃避的な感想を抱いたあと、さて、これからどうやってジジの機嫌を取ろう、と、アッシュはさらに頭を抱えた。



◆tickling【くすぐったい】


 かつて僕がこんなにも優位に立ったことがあるだろうか、と、アッシュはやや歪(ゆが)んだ喜びを噛みしめている。

「……さっさと外せよ、お坊ちゃん」

「あれ? なんですかそれ。もしかして、命令しちゃってます? この状況で? 唯一あんたを助けることができる僕に? いつも人によく考えて動けって言ってるのに、勝手に行動したあげく、おもちゃにされて、ここに放置されてるジジさんが?」

「……いい笑顔だな」

 ジジは吐き捨てた。自由にならない体で。

 さびれた田舎に事件の調査に来ていた。ジジはロンドンのように気忙(きぜわ)しくないその雰囲気に油断したのかもしれない。

 というわけで、現在、ジジは、町はずれに捨て置かれた足枷の晒し台――当然今はもう処刑なんかには使用されていないのだろうが――と不本意ながら仲良くするはめになっている。座った状態で、木板に両足を固定されているのだ。スナークのしわざではなく、単に、地元の子供たちの悪戯だ。

「まあまあ、安心してくださいよ。気を失うまでくすぐるような真似はしませんから」

 抵抗できないのをいいことに、ふざけてうきうきと靴と靴下を脱がせてみた。

「足汚いですね」

「ほっとけ。おい、なに日頃の鬱憤(うっぷん)を晴らそうとしてるんだ。残念だが、俺は別に足の裏なんかなにも感じな――――、い」

 人差し指で踵からつま先までを撫で上げると、ぴくり、とわずかに反応があった。

「嘘つきました?」

「……なぶり殺しはやめろ。一気にいけよ」

「冗談ですよ。なにを投げやりになってるんですか」

「もういい」

「ちょっと、拗(す)ねないでください。すぐに外してあげますってば。……ちゃんとお願いしてくれればね?」

「……………………外してください」

 勝った! とアッシュは顔を輝かせた。が、すぐにジジの恨めし気な視線に気付いて、これ、外した途端、僕、殺されるやつじゃないかな、とびくびくする。

 優越感をくすぐられた代償はあまりにも大きかった。



◆underworld【冥界】


 地獄というものはどこにでもある。

 ロンドンなら主に東側。それから、救貧院。慈善学校。ルーカリー(スラム街)もそうだ。そして、なにより忘れてはならないのは刑務所だ。

 永遠に続くと錯覚しそうな責め苦。地獄のはずなのに、いや地獄だからこそか、死ぬのも難しい。だからせめて一時的にでもそこから逃げ出そうとする。ゆえに刑務所に入ると仮病のノウハウを学ぶことになる。病院へ連れていってもらえるからだ。

 ジジは自身の十代の頃のことを思い出す。

 一番手軽な方法は、石鹸(せっけん)のかけらを食べることだ。得られる症状は下痢と発熱。ちなみに、調子に乗って丸ごと一個いってしまうと脈がおかしくなる。仮病のために命がけ、という矛盾に陥(おちい)る。

 仮病の中でも、気の狂ったふりはなかなかに過酷だ。本当に狂気のさなかにあるのかを確認するために、排便用の容器と食事の容器を同じもので用意される。汚れた容器に盛られた食事を取ることに、ちょっとでも迷う素振りを見せたら終わりだ。正気を保っているとみなされる。

 なぜいきなりこんなことを考えているのかと言えば。

「ああ……。どうしよう、班長に会わせる顔がない……」

 隣で頭を抱えるアッシュがうるさいからだ。

 彼は上司の神経を確実に逆撫(さかな)でするだろうことをやらかし、報告に踏ん切りがつかずにいる。本気ではないだろうが、先ほどまでぶつぶつと仮病を画策してもいた。

「いつもの鬱陶(うっとう)しいまっすぐさはどうした。先延ばしにしたところであいつは余計にねちねち責めてくるだけだぞ」

「わかってますよ。わかってますけど、心の準備ってものがあるでしょうが」

 アッシュに対して、石鹸を食えよ、などと助言できるわけもない。いや、言ったところで、きっと悪気なくこう返ってくる。そんなことまでしたくないですよ、と。そんなことまで。そうやって切り捨てられるのだ、このお坊ちゃんは。

 アッシュは地獄とは無縁で生きていられる種類の人間なのだ。その無神経さは少々腹立たしいが、どこかほっとしている自分がいることにもジジは気付いている。

 こいつは無垢(むく)に育てあげられたせいで大変な目に遭ってきているのに、こんなに近くにいる人間からまだ無垢であることを願われているなんて、地獄のようだ。

 やっぱり地獄はどこにでもあるもんだな、とジジは他人事のように思った。



◆Valentine【バレンタイン】


 泣きそうになっている花売り娘キャルを、ジジが慰(なぐさ)めていた。

 バレンタインデイ。親類、友、恋人など大切な人へカードを贈る。美しい絵柄、愛にあふれる文面。その反対に、わざわざいたずら目的で送られるものもある。醜悪なイラスト、過激な悪口。キャルは後者を受け取ってしまったのだ。こういったカードはキャルよりずっと年上の未婚女にもよく贈られる。

「お前が悪いんじゃない。男になびかない女に、『ブス』だとか『ババア』だとか言わずにいられないくだらないやつがいるんだ」

 カードだけではない。知人の三文記者、J・Pが所属する露悪的風刺雑誌『マン・イン・ザ・ライムライト』でもそうだ。

 権利を欲する女が戯画的に描かれ――痩せぎすの女、あるいは肥満の女、醜い女、または年を取っている女――それを茶化す詩が添えられる。女が自分の意見を持つのは美しくない、と喧伝しているのだ。同時にこういう主張をしていることになる。美しい女と言われたければ従順であるべし、と。

 頭を使うのは男、それが合理的。女には服従がお似合い。嫌がったり、反論したりしたら、なんだこいつ、もしかして女なのに意思があるのか、と驚かれる。同じ人間だとはつゆほども思っていない。

 そういう意味では女とスナークは似ているのかもしれない。

「そんなひどいやつらいなくなっちゃえばいいのに」

 キャルはジジの上着の裾を震える手でぎゅっと握っている。こういうときくらい抱き着いて泣いてしまえばいいのに、こういうときでも抱き着いて泣かないからジジはこの少女を突き放さないんだろうなあ、とアッシュは思う。

「どうだろうな。残念ながら、お前さんの生きているうちには変わらないだろうな」

「すぐに改善していきますよ、そんなの」

 悲観的なことを言うジジに、アッシュは口を挟む。己の、願望と希望を。

「十年後?」と、キャル。それはさすがに無理だろうな、とアッシュは弱腰になる。

「三十年後? 五十年後? 百年後? 百一? 百二? 百三、百四、百五?」

 馬鹿馬鹿しくなったのか、疲れたのか、キャルは百三十八までカウントして中途半端に止めた。百三十八年後。

 二〇一七年。

 それくらい経てばきっと、こういうのは十九世紀の悪習ってことになってるよ。

 そう言うアッシュのことを、おめでたいな、という目でジジは見ていた。



◆Water【水】


 貴族の奥様や娘が万引きという趣味を持つことがある。

 その気になれば店ごとお買い上げあそばすことができるのにわざわざ盗むのだから、商品が欲しいわけではない。鬱屈(うっくつ)とした日々のはけ口としての行為だ。盗みが店主に見つかって口止め代わりに結婚するはめになったものもいると聞く。

 ジジを脅迫してきた女も、その店主と同じロジックを使っていた。

 自分と結婚してくれるのなら、あなたがスナークだと黙っておいてあげるわ、と。つまり、窃盗(せっとう)もスナークも世間からは弱みであると思われているということだ。

 熱烈なアプローチを受け、ジジは珍しくうまくかわすことができず疲弊していた。なにをどうしても諦めてもらえず、追いかけまわされている。ようやく逃げた先で情けなくも池に落ちる始末だ。

「水に濡れてもいい男で参っちゃいますね?」

 軽口を叩きながら貸そうとしたアッシュの手を、ジジは思い切りはたいた。不機嫌を隠さず自力で池から這い上がってくる。そのままびちょびちょの上着を脱いで絞り始めた。

「水、吸っちゃって重いでしょう。せっかくあんた、重くならないように生きているのに台無しですね」

「……なんの話だ?」

「え? そのままですよ。自由を愛してるだなんだって言ってるけど、あんたって、結構気を遣うタイプじゃないですか。重くならないよう、負担にならないよう、適当に、軽薄に振る舞う。誰かの一番になりたくない。そして、自分の特別を作りたくない。だから、ああやって情熱的かつ本気で迫って来られると及(およ)び腰になる。なんか間違ったこと言ってます、僕?」

「……くそがき」

「ああ、それから、言い返すことが出来ないときにそう言いますよね」

 アッシュはにっこりと笑ってみせた。さらに言えば、こうやって、あなたを理解していますよ、と示されるのをジジが嫌うということも承知している。

「ちょっと、冷たい、冷たい!」

 わざと頭を振りたくったジジの髪の毛から水滴が飛んできた(犬か、あんた)。

 なんてわかりやすいことをするんだ、と思う。最初はそれこそ水のようにとらえどころのない男だと思っていたはずなのになあ、とアッシュは顔を拭(ぬぐ)った。



◆X【未知数】


「どこを大きくしてるんだ」

 指の隙間から覗く瞳の色は琥珀。

 視線は股間ではなく、むしろ上に向かっている。上目遣いで見られているのだ。両手で顔を覆うなど、恥じらいの表現だとしたら、三十路の男らしからぬずいぶん可愛らしいものだ。だが、もちろん、ジジは恥ずかしがっているわけではない。笑っているし、なんだったらこちらをちらちら盗み見ることで馬鹿にしている。

「……なんでそういう下品に聞こえる言い回しをするんですか」

「おじさんだからな」

「でしょうね、わかってます」

 アッシュはジジを見下ろす。……そう、見下ろせるのだ、この六フィートもある男のことを。

「どこまで育つんだろうな、お坊ちゃん」

 そう言って、ジジが爪先立ちをする。それでも、アッシュより小さい。

 日々、アッシュの背丈が伸びていく。今さらすくすくと成長しているわけではない。スナークのしわざなのだろう。なにが目的なのかはわからないが、平和なものだ。……などと、楽観視していられたのは最初のうちだけだ。止まる気配が一向になく、ジジより頭ひとつぶん以上身長が高くなったところで、さすがに不安になってきた。

「きっと、お前は木を登って来たジャックに殺されるんだろうな」

 ジジは慣れ親しまれた民話の話をしている。巨人になるぞ、と言っているのだ。

「嫌ですよ、そんなの。どうせなら僕がジャックになります。そうだ、僕がジャックだとしたら、ジルとともに力を合わせてさっさとこの問題を解決しますよ。どんなジャックにだって寄り添うべきジルがいる(Every Jack has his Jill)ものですからね」

 アッシュは世間でよく使われることわざを口にした。『誰にだってふさわしいパートナーがいる』。ジャックは若い男の、ジルは若い女の代名詞だ。

「誰がジルだ」

「別に僕はジジさんがそうだとは言ってませんけど?」

 してやったりと笑うと、やられた、とでもいうように、ジジが顔をしかめた。

「まあでも、そんなに言うならジジさんをジルにしてあげても……、痛ってえ!」

 股間を蹴り上げられてアッシュは身悶(みもだ)える。背が大きくなって、気も大きくなっていたが、どうもここばかりはどこまでも縮こまっていく一方だ。



◆yes【はい】


 気の弱い年下の知人、ソレンジの処世術は、すべてを受け入れること。

 はい。はい。はい。

 それだけを言って、反抗しない。そうして嵐が通り過ぎるのを待っていれば、やがて平穏が――少なくとも一時的な平穏が――訪れる。

 とはいえ、これはしばらく前の話で、ソレンジは、今のぼくはそんなのおすすめしませんよ、と言っていた。それについては諸手(もろて)を上げて賛成したい、とジジは思う。

 私の犬になってくれる? 

 少年期、金持ちの女のこの質問に、はい、と答えたせいで大変な目に遭ったせいだ。

 文字通りに犬にされた。女がスナークの力を持っていて獣化させられた、とかいう意味ではなく、人間の姿のまま犬として扱われたのだ。

 うなじが隠れる程度だった今より短いジジの髪をその女はいたく気に入っていた。手入れをしながら、きれいね、と褒め称える口調は、毛並みのいい犬に対するそれだった。彼女のご自慢の愛玩犬(おまけに、どんな愛し方をしても獣姦罪には問われないのだから、まったく都合のいい存在だ!)。

 わん。わん。わん。

 はい、の代わりにそうやって吠えているだけで、食べるものも住むところも与えられる、快適な暮らし。……着るものにはちょっと困るかもしれない。首輪は選びきれないほどあれども(ああ、食事もテーブルでなんてのは期待しないほうがいい。ときには己の体が酒を飲む杯にされる覚悟だって必要だ)。逃避的に、盲目的に、無気力に服従していると、いつの間にかとんでもないところに到着しているということだ。

「ちょっと、あんた、どこをすり抜けて来たんですか。すごく汚くなってますよ」

 そんなことに思いを馳(は)せたのは、ばったり出会ったアッシュが後ろ髪に触ってきたからだ。蜘蛛の巣でもついていたのだろう、毛づくろいをするかのごとく、毛束をほぐしている。ジジは煩(わずら)わしい顔を隠しもせず、アッシュの手から逃れる。

「触るな」

「あっ、もう! 汚れたままでいいんですか?」

「いいさ。お綺麗で窮屈な思いをするより、そのほうがずっとましだ」

「……髪の話ですよね?」

 なにか齟齬を感じたのか、首を傾げるアッシュに、ジジはうっすら微笑んだ。

 イエス、イエス、イエス。従順にしていればなんでも手に入る。

 自由以外は。



◆zero【ゼロ】


「この世界のすべてが幻想だとしたらですよ。ジジさんと出会ってから今までのことは、全部、僕の頭の中の出来事なのかもしれないってことになるでしょう」

「そうだな」

「あんたは僕にちょっかいかけて邪魔したり、僕にとって都合の悪い言動を取ったりするけど、それも含めてすべてが僕の妄想なのかもしれない」

「…………そんなものを作り出すなんて、お前、いじめられるのが好きなのか?」

「わりとね。……あの、冗談なのでその顔やめてもらっていいですか。それで、そのうえ、実はジジさん自体存在していないってこともありえるでしょう」

「さしずめお前は無(ゼロ)に名を授けて世界を形作る詩人のペンってところだな」

「そうなると、話していることも全部僕の独り言だ。世界っていうのは、なにもかも、なんて儚(はかな)いんだろう……」

「俺も儚いか」

「はいはい、あんた、案外儚くて可愛いですよ」

「それ、先に言われるとつまらないな」

「面倒くさい人だな」

「実際、人生は泡のようで、夢か現実かの区別もつかない。疑い出したらどこまでも疑えてしまう。だから、信じたいものを信じろよ。大事なのはそれだろう」

「もとより、僕にできるのはそれだけですしね。……ああ、夢だのなんだの言ってたらまた眠くなってきたな」

「よい会話はよいベッドよりも糧(かて)となる(A good conversation is better than a good bed)。知らないのか? お喋りは眠ることよりも体にとって必要なことなんだぞ」

「別に睡眠が要らないって言ってるわけじゃないでしょうが、そのことわざは。……あんた、本当に、今、暇なんだな。僕はまだ寝たいんです、これ以上はつきあいません。雑誌でも読み直しててくださいよ」

「お前みたいなお育ちのいいやつがよくこんな三等車両で寝られるな」

「そうだ。このあと夢を見たら、今が現実っていうことの証明になりませんかね」

「夢の中でまた夢を見ているだけかもしれないだろうが」

「ややこしいなあ。それでもいいですけどね、僕は」

「なぜ」

「すべてが夢でも、……まあ、いい夢でしたから」


【よい会話はよいベッドよりも糧となる、あるいは刑事とスナークの二十六の日常―A good conversation is better than a good bed/Police&Snark A to Z――THE END……END OF A DREAM?】


参考文献●罪と監獄のロンドン スティーブジョーンズ(著)友成純一(翻訳)筑摩書房