十一月の小春日和は、寒さの厳しい奈良の山間部にも訪れていた。

 ここ数日は『駅』も珍しく温かい日が続いており、開け放った窓の向こうでは、うららかな陽の光を浴びた梅の木に、帰り花が咲いている。

 太一はそれをぼんやりと眺め、ひとつ溜息をついた。向かう机上には、書きかけの手紙が置かれている。太一の婚約者――、日高桃子へ送る、婚約解消を願う手紙だ。

 太一はかれこれ一時間近く、それに少しペンを走らせては止めて、ということを繰り返していた。

 

 ここは奈良県南部、吉野山地の奥深くに作られた妖怪の町『駅』。

 志摩太一はそこに身を置く陰陽師である。『駅』長である八咫烏――、旭の家の敷地に設けられた陰陽師事務所が、彼の職場兼住居だ。

 母屋から離れた場所に作られた、切妻屋根の古い平屋の建物だが、住み心地は快適そのもの。『駅』全体の作りは時代劇のように古めかしいくせに、設備の一つ一つは現代的で、事務所にはエアコンもあるし、居間の方には床暖房まである。どういう原理か説明すると長くなるが、Wi-Fiもしっかり飛んでいる。小まめに手入れがされている為、雨漏りひとつしたことがなく、まさに文句のつけようがない。

 太一はその事務所に置かれた机の前に座り、婚約者への手紙をしたためていた。

 足下のゴミ箱は、くしゃくしゃに丸められた書き損じの便箋で一杯になっている。

 何をどう書いても言い訳がましく思えてしまい、筆が進まないのだ。

 そもそも、“結婚できない理由”を一体どう彼女に説明すればいいというのか。

 太一は壁に掛けたカレンダーを見つめた。間もなく桃子の十八歳の誕生日がくる。これ以上彼女の人生を、自分の為に浪費させてはいけない。

 太一は一度大きく頭を振ると、決心して再び手紙に向かった。そしてようやく書き終えた丁度その時、玄関の引き戸が飛んで行きそうな勢いで開いた。

「不倫よ!」

 キンとした大きな声が、突如として事務所に響く。

「はっ? いきなりなんだ、後鬼!」

 太一は椅子から転げ落ちそうになりながら、振り返って訪問者の名を呼んだ。

 こざっぱりとした青い着物に身を包んだ彼女は、かつて役行者に仕えたとされる伝説の鬼の一人。藍染めを思わせる深い青色の髪と瞳、そして額から生える小さな二本の角がその証明である。見た目は二十代半ば頃の、涼しげな目にぷくりとした唇が印象的な、艶めかしい美女だ。

 その後鬼が一つに纏めた髪をうらめしげに乱し、片手に一升瓶を握り締めて仁王立ちしている。

「不倫してやるわ!」

 耳をつんざくような声で喚く後鬼に駆け寄り、太一は軽く宥めながら事務所へ招き入れた。それにしても酒臭い。太一は顔をしかめて、彼女から距離を取った。

「……まだ前鬼が帰ってこないのか?」

 後鬼が荒れる原因は簡単に予想がつく。

 訊ねると、後鬼は大仰に頷いた。

「そうなのよ!」

 彼女の夫である前鬼が『駅』を出てから、はや一年近く経つ。

 前鬼もまた役行者に仕えた鬼であり、後鬼と共に『駅』で留めやという旅館を経営している。その彼が「ちょっと買い物に行ってくるよ」とへらっと笑って『駅』を出てから、かれこれ一年帰ってきていないのだ。

 大妖怪たる彼の身に何かがあれば当然噂になるはずなので、単にどこかで遊んでいるのだろう。全く自由人にも程がある。

 とはいえ前鬼がふらりと姿を消してしまうのはよくあることなので、太一としては、あまり大事と捉えてはいなかった。

 だが後鬼はそうも言っていられないらしく、それこそ鬼の形相で、ずいっと太一に詰め寄った。

「だから太一、私と不倫なさいな! 前鬼が帰ってきたら、見せつけてやるのよ」

 明後日の方角を指差して言い放つ後鬼に、太一はすかさず腰を直角に曲げた。

「お断りします」

 間髪容れない太一の返事に、後鬼がむうと唇を尖らせ「ノリが悪いわねえ」とぼやいた。しかし、すぐにピンときたような表情で口を開く。

「ああ、そうよね。太一には婚約者がいるんだものね」

 それ以前の問題だが、そこはあえて指摘はせず、太一は肩をすくめた。

 ふいと顔を逸らし、後鬼に背中を向ける。

「……もうすぐ婚約者じゃなくなる」

 今日はずっとそのことを考えていたからか、つい自嘲めいた言葉を漏らしてしまう。

「あら、じゃあいいじゃない!」

 だが酔っ払いに、そんな細やかな心の機微など伝わろうはずがなかった。後鬼は勢いづいて太一に抱きつく。

「何もよくな……、わっ、ばかやめろ!」

 酒臭さにうっと鼻を摘まむ。同時に、むにっと柔らかいものが背中に当たった。

 ――この柔らかいものは、もしかして。

 うっかりそれを考えてしまった直後、ぽんっとワインのコルクが抜けるような音がして太一の体が軽くなった。後鬼が「あら、ごめんなさい」と謝って、一歩後ずさる。

「悪ふざけもいい加減にしろ!」

 太一が後鬼を、頭上に“見上げて”声を荒げる。後鬼はもう一度「ごめんなさいね」と謝って、神妙な表情で太一の前に腰を落とした。

 後鬼が太一の頭を撫でる。“耳”の押し潰れる感覚がくすぐったく、太一はぶるっと体を震わせた。ムッとして後鬼を睨むと、彼女は困ったように首を横に振った。

「太一はムラッとすると猫になっちゃうんだものねえ」

「……違う! 女性を魅力的に感じると、だ!」

 怒りに震えて叫ぶと、後ろの方で尻尾が逆立つの分かる。ついと視線を落とすと、黒毛に覆われた小さな猫の前足が視界に入った。そう、猫だ。どこをどう見ても、今の自分は黒猫である。これこそが、太一が婚約者である桃子と、結婚できない理由なのだ。

 かつて、やはり陰陽師であった曾祖父の志摩重三が、化け猫との戦いの末に負った呪い。それは太一の代に、志摩家が滅びるというものだった。

 それによって太一は、十六歳の誕生日を迎えた時からムラッと――、ではなく女性を魅力的に感じると、猫になってしまうようになったのである。

 正直、もう少しましな滅ぼし方はなかったのかと、化け猫を問いただしたい所だ。

 呪いが発現してから八年。太一は必死になってこの呪いを解く方法を探したが、結果はこの通り。太一はついに諦めて、桃子に婚約の解消を申し出ることに決めたのである。 

 そうした苦悩と今の姿がぴたりと重なり、ますます情けない気持ちになる。

 太一が尻尾をぷるぷると震わせていると、またも玄関の引き戸が開いた。姿を見せたのは、白い着物袴に、花鳥の刺繍を誂えた上掛けを羽織った、『駅』長の旭である。

「……何をやっているんです」

 旭は黄金色の瞳で太一と後鬼とを見比べると、呆れたように肩をすくめた。

 彼は、実に二千年を生きる八咫烏。絹のように艶やかな長い白髪に、黄金色の瞳を持ち、幻想的なまでに美しい青年の姿をしている。

 旭は後鬼の横に立つと、わざとらしく鼻を摘まんだ。

「酒臭い……、昼間からどれだけ飲んでるんですか」

「だって、前鬼が帰ってこないんだもの……」

 棘のある旭の口ぶりに、後鬼が項垂れる。旭が肩をすくめた。

「あれがふらっと出かけて帰ってこないのは、よくあることでしょう」

「だけど、もうすぐ結婚記念日なのよ! 千四百回目の記念の年なのに……!」

 後鬼が怒りを込めた声で叫ぶと、突如、彼女を中心として旋風が生まれた。

「ま、待て後鬼……!」

 机上に置かれた紙はもちろん、机本体までもが空中に舞い上がる。太一は慌てて前足に力を込めた。だが猫になった体は軽すぎて、簡単に風に足を取られてしまう。

「わっ」

 風に飛ばされた体がみょーんと長く伸びる。だが幸いにも飛ばされた近くに窓があった。懸命に足を伸ばして窓枠に捕まって、そのまま外へと逃げ出すことに成功する。 

 ――あ、危ないところだった!

 ふうと、肉球で額をこすったその時、

「落ち着きなさい!」 

 旭の声と、ガタガタと空中に浮かんだものが落ちる音が聞こえた。窓枠に飛び乗って事務所を覗き込むと、風がやんでおり、旭が後鬼の衿を掴んで眉を吊り上げている。後鬼がハッとした表情で頬に手を当てた。

「……ごめんなさい、ついカッとなって」

「まったく危なっかしい」

 やれやれと首を横に振る旭の前に、風に舞い上がっていた紙の一枚がゆっくりと落ちてくる。それを見た太一が、思わず「わっ」と声を漏らした。あれは、桃子へ送る手紙ではないか!

 旭はそれを、何げない様子で空中で手に取ると、ふっと目を細めた。

「……桃子に送る、婚約解消の手紙ですか」

 後鬼はしょんぼりとして部屋を片付けようとしていたが、旭の言葉を聞くなり「なになに?」と手紙を覗き込みにくる。

「あら、本当に婚約破棄しちゃうのね。残念だわ。桃子を見てみたかったのに……」

 桃子という婚約者がいることは、旭達に何度か話したことがある。

 太一は細いヒゲを反らした。

「見世物じゃないぞ」

「分かってるわよ。でも太一と結婚したいからって、小さな頃から花嫁修業を頑張ってるんでしょ? 健気じゃない……」

 後鬼がそう言って、太一を抱え上げた。「やめないか!」と怒るが、「猫の時ぐらいいいじゃないの」と後鬼は取り合わない。顎の下をくすぐられると抵抗できないのが、猫の体の辛いところである。

「私は断然、桃子の味方だわ。よし、私がこれをラブレターに変えてあげちゃう!」

「わっ、ばか! やめろ酔っ払い!」

 ふふふと笑う後鬼に、太一はハッと我に返り、その腕の中から逃げ出した。

 ぴょんと軽やかに飛び上がり、後鬼の肩を踏み台にして、旭が持つ手紙を奪い取る。

 さっさと手紙を出しておかなければ危険だ。太一は机に飛び乗ると、手紙を前足でぺたりと押さえ、ふうと目を閉じた。

「太一、あなた先程外に出て土を踏んでいたから、そうすると……」

 旭が腕を伸ばして何かを言いかけたが、そこではたと思いついたように言葉を呑み込む。

 そして足早に太一に歩み寄ると、すっと手紙を取り上げた。

「太一、その姿では手紙を出すのも一苦労では? 後鬼に悪さをされないうちに、私が出しておいてあげましょう」

「え……? いいのか?」

「ええ」

 にこりと微笑む旭に、何か怪しいものを感じないでもなかったが、それより後鬼が気になって太一は頷いた。

 太一の脳裏に、一瞬、桃子の顔が浮かぶ。

 最後に会った時、彼女はまだ幼い少女だった。けれど太一と結婚するのだと、懸命に花嫁修業をするその姿が、呪いと戦う為の力になっていたのは紛れもない事実だ。この後に及んで後ろ髪を引かれる自分を振り切るように、太一は頭を振る。

 桃子の家の住所を書いた封筒は先に準備してある。その場所を前足で指して旭に教えながら、そういえばと太一は首を傾げた。

「……そうだ。旭は何か用があって事務所に来たんじゃないのか?」

「そうそう、桜の精霊送りの件なのですが……」

 旭の話に頷いていると、窓から冷たい風が吹き込んでくる。夕暮れが近づき、ぐっと気温が下がってきたようだ。晩秋の温かな一時も、そろそろ終わりだろう。

 本格的な冬が、もうすぐそこまでに迫っていた。