満塁で打席に立つ緊張感って、たぶんA判定の受験に挑むときと似ている。

 俺の場合、その受験で緊張感に堪えられずにやらかして、結局併願していた私立の秋高へ通うことになった。だからこの状況はもしかすると、野球の神さま的なアレが俺に与えた、失ったなにかを取り戻すチャンスなのかもしれない。これまでの人生を、試合と一緒にひっくり返してみろって感じ?

 だから今度こそは、俺の手で勝ちたい。

 俺は目をつぶって深く息を吸い込むと、コンコンとスパイクの土踏まずをバットで叩き、こびりついた土を落とす。いつの間にかルーティンのようになっていた、バッターボックスに立つ前の動作。

「チッス」

 俺は硬くなった体と焦りを気取られないよう、ゆっくり打席に足を踏み入れる。そして主審とキャッチャーに軽く頭を下げると前を向き、次は帽子のつばをつまんでピッチャーに礼を示した。

 そのタイミングでチラッと周りに目を走らせると、やっぱり気のせいでも幻でもVRでもなんでもなくて、全てのベースを踏んでいるのはチームメイト。

 振り逃げ、四球、四球で相手からもらったチャンス。

 いまは一点負けてるけど、ここでヒットなら同点以上が確実。もしホームランでも打てたら、逆転する上にかなり試合を優勢にできるだろう。そのまま勝てれば、俺は間違いなくこの試合のヒーロー。練習試合とは言え、自分の手でチームに勝利をもたらすことができる。

 ただ勝ちたい。失ったなにかの感触を実感したい。

 緊張で体中に響く心音を抑えながら、俺はバットを立てた。相手ピッチャーもランナーを確認してから、ゆっくりとモーションに移る。

 相手の品高は高い投手力を誇り地域でも中堅レベルで、練習試合でもそこそこのギャラリーを集める。今日もそうだ。

 OBかファンか分からないオッさんに、わざわざ試合を見に来た生徒に、父母会の母ちゃんズ。記者みたいなのは今日いないけど、それでもなんかの仕事してるっぽい大人は、グラウンドを囲うグリーンネットの外から好奇の目で試合を覗いていた。

「トライック!」

 パァンとキャッチャーミットが鳴ると、おおっというギャラリーのどよめき。見逃した俺に多くの視線が集まる。

 でも、俺は相手方のそれに興味ない。ブーイングでもなんでも好きにやってくれって思ってる。

 勝つという目的はそんなもんでブレないし、そもそも緊張でそれどころじゃない。そもそも視線の話だけで言うなら、気になってんのはベンチのただ一人だけ。

 俺はムチのように素早く、横目で自軍を確認する。

 するとそこで俺を見つめているのは、その他大勢な仲間たちと、後光が射して見えそうな女子マネの飯島【いいじま】。

 ああ、彼女の祈るようなあの期待の眼差し。あれは俺が安打を放ったあと、きっとピンクのでっかいハートマークに変化するはずだ。逆転ホームランでも打った日には、それが飛び出してくるかもしれない。そんでそのあとは少女漫画系の映画みたいに青春の香り芳しい、なんというかキラキラしたああいう都合の良い展開があるに違いない。密かに壁ドンのイメトレしておいてよかった。

 あくまで目的は勝つこと。でも勝てたら飯島へ良いとこも見せられる。

 俺はキャッチャーが返球する間にそのことを考えて精神を統一し、打席を外すと軽く素振りをした。そして緊張を溶かすように深い呼吸で肺を満たし、またスパイクの泥をバットで落とす。頭の中では、手にした勝利と、俺を称える仲間たちと、飯島がショートカットを揺らして飛び付いてくる映像でいっぱいだ。

 思えばここまで、長い道のりだった。

 入部して一年ちょい。希望を持って入部した我が秋上高校野球部だけど、すっかり弱小の水に慣れ、最近じゃ惰性で楽しむ仲良しクラブになってた感は否めない。だけど春、ウチにあの監督が来たときから全ては始まった。

 それまでだらけて緩慢に続けていた練習を見直されて、色んな変わったトレーニングを取り入れて、そんでもって弱小のはずのウチが、いまや中堅と渡り合えるほどに成長した。

 諦めていた強さが不意にもたらされた。あらゆる意味で、俺たちがこうなれるとは思ってなかった。

 だって野球やってりゃ、誰だって試合に勝ちたいとは思うだろう? 上手くなりたいって思うだろう? でも現実は甘くないから、意識が自分の実力とこれからの可能性を、リアルに認識し始めていくんだ。そして諦める。達観したフリして、夢が霧散していく様を冷静に見つめる。

 でも、そんな状況が激変した。あの監督が強くしてくれるかもって思ったときは、正直に言ってとてつもなく胸が弾んでいた。

 しかもビビったのが、あの監督はなんかのエリートビジネスマンだったらしく、野球はド素人だったこと。

 それでも頭が良いだけにやたら研究熱心で行動力もあり、野球部に革命を起こした。それは監督がしつこいくらい喋るよく分からねー理論? 理屈? によるもので、なんつったっけ。試合前ミーティングでも言ってた、あのサイ……、そう、確かサイバーマトリックス……。


「セイバーメトリクスだ」

 試合前のミーティング。

 監督の計算ミスで、異様に早く品高のグラウンドに着いた俺たち。相手の顧問兼任の監督は苦笑いしながら「蒸し暑い中、大変でしょう」って気を利かせてくれて、更衣室として用意された教室にエアコンを入れてくれた。

 さて、ユニに着替え終わったら試合の準備が整うまでご自由にってことだし、せっかくだからたまには休憩でも。今日はめっちゃ早起きだったから……、って考えていたところ、諸悪の根源である監督……、いつもヘラヘラしたツラの八雲彬【やくも・あきら】(44)が、いけしゃあしゃあとミーティングを始めたのだ。

 で、「センターメントスはもういい」という誰かの声に反応して、監督が前の黒板にその『セイバーメトリクス』を、カツカツとチョークで書いたわけ。そう、セイバーメトリクス。俺は覚えてた。

「えー、まあなんだ、諸君」

 教卓の前に立ち、先生ヨロシク俺たちを着席させて喋り始める監督。教師という職に憧れでもあったのか、授業チックになったいまの雰囲気にけっこう満足そうだ。ただし部員たちの目は死んでる。誰のせいで四時起きになったんだって顔。

「せーっかくこういう機会だしよお。春から一生懸命君たちが覚えたセイバーのこと、ちょこっとおさらいしとこうかと思うのよね。名前間違うくらいだから、よく分かってねー人もいると思うし。ねえ」

 監督は獲物を探すように教室をゆっくり見渡すと、あろうことか俺と目が合った。危険を察知し、すかさず俺は下を向くが、

「――上元【うえもと】クーン」

 嗜虐的なものを孕んだ声で、監督は俺の名を呼ぶ。観念して目を上げる俺。

「分かってると信じてんだけどさ、まあ念のために聞いとくぜ。セイバーってそもそもどういう概念だっけ?」

 監督は指でチョークをくりくり回しながらそう言った。こいつ、女房子供に逃げられたって話だけど、こういうとこ見ると納得だ。

「えーっと……。いや……」

 俺は目をキョドらせて周りを見るが、仲間の誰もがニヤつく顔でこっちを見ている。見せものじゃない。

「どしたよ、上元。言ってみろ。俺とお前の仲で遠慮は無用だぜ」

「できたらご遠慮願いたいんスけど……、いや、もちろん、あの、なんとなくは分かってんスよ。なんとなくは……」

「なら早く、そのなんとなくを答えてみなさいよ。ん?」

「つーか、上手く言葉にできねーっていうか……」

 監督はしつこく追及の手を緩めない。仕方がなく必殺のボケで場を誤魔化そうすると、

「野球を統計で分析する手法のこと」

 うしろの席から、制服のマネジ飯島が代わりに回答してくれる。

 振り返って見ると、俺の危機を救ったヒロインの、その大きな瞳はにこやかに細められ、じっとこちらを見つめていた。コイツ、ガチで俺のこと好きだろ。だろ?

「じゃあ、正解した飯島ちゃんに、も一つ質問。いまのウチの打線はそのセイバーの、どんな指標を軸にして組んでる?」

「あの、確か……、OBPでしたっけ。なんの略か忘れましたけど。意味は塁に出る確率」

「そう。飯島ちゃん。正解」

 そう言いながら監督は振り返り、黒板にチョークを躍らせた。そしてそこへ大きく書かれた文字は、On-Base Percentage。これには俺も見覚えがある。打率と似てるようで違うヤツだ。

「要するに、こりゃあ出塁率だ。計算式はご存じの通り、(安打+四球+死球)÷(打数+四球+死球+犠飛)。簡単だよな? で、セイバーでは打率よりも、コイツの方が得点への相関が高いとされている。なーら、それを踏まえた上で今度こそ上元。このOBPと打率が、どう違うか言ってみ」

「えーっと……」

 俺は考える間を置く。飯島の前でこれ以上の醜態は晒せない。

「その……、アレ。たぶん打つだけじゃなくて、フォアとか、デッドボールとかで出た確率も含む? みたいな」

「正解」

 監督はちょっと安心した顔になって、全員を見渡した。

「やっぱさ、『ヒットを打って出塁すんのが高い価値だ』って風潮はあんのよね。だけどセイバーじゃ、フォアボールとシングルヒットは等価値。結果が同じな以上は当たり前の話なのにさ、それでもヒットを上位に置いちゃったら、選球眼の良い選手が報われないでしょ。――そんで、いいか」

 教卓に両手を置き、監督は声に力を込めて言う。

「あえていまOBPの話を持ち出したのは、今日の試合じゃあ、それが特に重要だからだぜ。品川将高校のピッチャーってさ、荒れ球の速球派だかんね。県内強豪でも通用するくらい手強い。打ちにいったら返り討ちになっちまう」

 監督はニヒヒと笑う。上手いこと言ったつもりだろうけど、たぶん教室で俺以外の誰も気が付いていない。

「だからこそ、OBPを高める意識が必要になってくんだよ。フォアもシングルヒットも同じ価値だってこと、よーくよーく頭に叩き込んでだね、決してスタンドプレーに走らないように。もちろん打てるなら振っていっていいんだけど、慎重にってことでね。主人公になろうとしなくていいからさ。みんなが脇役に徹して、チームとして挑むこと」

 全員に言ってから、監督はまた頬を緩めた。

「ま、いままでさんざん練習してきてんだ。言わなくても分かるな」



 そうだ、そう。セイバーメトリクス。

 俺は審判から二度目となる「ボール」のコールを聞きながら、ふと思い出した。

 で、ついでに思い出したけど、そういや監督、打ち気に逸るな、みたいなこと言ってたっけ。

 でもいまの状況でさ、そりゃムリじゃね? って思う。

 試合は序盤。こっちが一点負けていて、そんで巡ってきたのはツーアウトながら満塁って大チャンス。

 シングルとフォアが等価値って監督は言った。いや、言ってることは分かるんだけど、でもやっぱ打ってランナー返した方がカッコいいもん。飯島にもアピれるもん。俺の手で勝ったって感じするもん。押し出しで打点って、ちょっと地味過ぎ。どうせ狙うなら同点じゃなくて打って逆転でしょ。

 確かに監督には感謝してる。

 あいつが赴任してきてから、俺たちは仲間と一緒になって色んな努力をした。監督が持ち込む練習は面白かったし、刺激にもなった。問題点を洗い出し、的確に補強していく姿は尊敬に値するものだった。

 そして上達の実感と比例して、勝ちたいという欲求も高まっていった。最近は仲間たちが勝つことに慣れて一丸になりつつある。仲良しクラブを超えた、勝つという意識を共有する集団。あの、あれ、サイバーマトリックス? を基本理念として、全員が自分の役割を弁えた合理的で効率的な野球。

 でも、それといまの状況とは別の話だ。

 だって自分の手で試合を決めたい、逆転したい、ヒーローになりたいなんて、そんなのは誰でも持ってる自然な欲求だろ? 俺だってそうだ。

 だからここは、俺の俺による俺のための見せ場。

 ワンストライクツーボール。バッティングカウントになって、向こうもストライクを取りにくるだろう。

 睨むように前を見つめると、やがて相手ピッチャーは足を上げる。そして体をダイナミックに躍動させて、そのゴツい腕を振り抜いた。

 ――キタコレ! 絶好球!

「ふっ!」

 と俺は腹の空気を短く吐き出すと、腕を伸ばしてバットをフルスイング。バットを回している間は安打を放つ輝かしいシーンを思い浮かべていたが、

「ットライク!」

 袋を割ったような音をキャッチャーミットから響かせ、俺のバットは空を切った。捉えたつもりだったけど、ボールが予想以上にキレてる。それとも俺の緊張がバットを鈍らせたか? いずれにしろヤバい。追い込まれた。

「上元ー! 見てけ見てけ!」

「リラックス!」

 味方から声が聞こえる。分かってるよ、うるせえな。と考えていたら、

「ボオッ」

 次のボールが明らかに外れて、これでフルカウント。

 向こうもこっちも、もう余裕はない。勝負はここからだ。

 俺は次のボールに頭を巡らせる。

 飯島はずっと俺の応援してるし、満塁だし、フルカウントだし、相手のコントロールは良くなさそうだし、振り逃げもされてキャッチャーはあんま上手くなさそうだから、たぶん落ちる系、たまにフォーク使うらしいけど、それはないと思う。向こうも入れようとしてくるだろうけど、真っ直ぐに絞って待てるなら、俺がちょっとは有利な感じ。飯島も俺を応援してるし。

 俺はバットをグッと握った。

 この一打で勝利と将来の結婚相手を決める、そんな心境だった。

 気持ちを込めて、俺は自軍ベンチをチラ見する。

 そこではほぼ許嫁と化した飯島と共に、俺を見つめて鼓舞するような声を上げるチームメイトの目。そして監督の眼差しもあった。

 刺さる仲間たちの目。その視線に罪悪感を覚えた理由は、なにより自分の心がよく理解していた。

『主人公になろうとしなくていいからさ』

 監督の声が蘇る。分かってるよ、うっせえなと、俺は頭に響く声にまた同じ答えを返した。

 フォアザチームってヤツだろ? でも打てば問題ないんじゃね? 

 俺は言い訳のように考えながら、尾を引くなにかを振り切るように前を向く。すると相手ピッチャーと呼吸が合った。

 くちびるを噛む俺。緊張感マックス。

 相手も足を前に踏み込ませると、軸足から体重を前に移動させた。そして胸を引っぱるように腕をしならせると、立てた指先からボールを放つ。

 ――やっぱ真っ直ぐ。でも――!

 俺の腹筋には反射的に力が入る。

 そしてノーステップで足を前に出して体を支えると、投げられた白球に狙いを定めた。それはたぶんボール球だったけど、手を出せばヒットにできるかもしれない微妙なボール。

 ああ、もうなんでだよ。明らかに届かない球なら見逃せるのに。手ぇ出しても打てないから見逃そうって、自分に言い訳できるのに。

 もう、仕方ねー。この強張る頭と体で打てるか分からねーけど!

 俺は肩を反応させ、スイングを開始。するとヒーローになりたい願望が腰を回す。腕を逞しくする。でも!

「ボオッ!」

 体に染み込んだ脇役の根性が、全ての動作を制止させた。あーっと残念そうにどよめく品高ギャラリー。それに対抗するように歓喜の声を上げる自軍ベンチ。そしてそれらを横目にしながら俺は打席を出て、青空を仰いだ。

 分かってるよ。分かってた。

 全員が自分の役割を弁えてる。こんな俺だって、春からみんなと一緒に練習してきてんだ。全員野球の意識と選球眼はイヤってほど鍛えられた。そしてなによりチームとして勝ちたい欲求は、目立ちたい心理よりも余裕で強かった。飯島のことは、ちょっとそんなことあればいーなって思っただけだよ畜生。

 ああ、これで押し出し一点。同点にはできたけど。

 俺はファーストベースに向かいながら、誰にも分からない小さなため息をついた。アウトになるより全然マシ。これで試合も優勢に進むって分かってるんだけど、つくづくヒーローになれない。受験で心にぽっかり空いた穴は、たぶんもう埋められないんだろうな。別にいーけど。


 結局この回は、あとのバッターがヒットを放ち、合計三点を入れた。ヒーローの座は持って行かれたのだ。

 でもまあ俺ってこんなもんだろと思い、サードベースからベンチに帰った。で、そこで仲間とハイタッチしていたら、

「今日のヒーロー!」

 って、飯島が柔らかく俺の背中を叩いた。俺は軽い驚きと共に、おいおい分かってるな飯島と思いながら応じるように振り向き、

『俺に惚れんなよ』

 と、言える勇気があれば、まあ、たぶんスイングしてたよなあと思いながらヘラリと笑みを向け、ガシガシ頭をかいてベンチに座った。そしてスパイクを結び直す。でもそのとき下を向いた俺の顔は、だらしなく緩んでいた。

 いま、胸にキてるのって言葉にできない感情だったけど、なんとなく『失ったものを取り返す』って行為に対し、どうにかこうにか出塁だけはできた感じ? チームの勝利に貢献するって意識が個人を超えたことで、そう感じるのかもしれない。ぼんやりとだけど良い感じの感触が、胸の中には宿っている。

 たかが出塁だけど、でもこれだってヒットとは等価値なんだって思えば、それはけっこう悪くない気分だった。