それは僕が副検事になりたての頃だった。

 諭吉龍一郎、二十八歳。――いまから七年前の話である。


 僕の胸では銀色の秋霜烈日(しゅうそうれつじつ)バッジが光っていた。すこし前までは検察事務官をあらわす桐の紋バッジだった。

 今日、帰国する幼馴染と一緒の時間を過ごすために僕は有給休暇を取った。東京地検に行くことはないのだし、おろしたてのアルマーニのスーツを着てバッジを付ける必要はなかったけれど、せっかくなのだからこの姿を彼に見せたかった。

「ヒデちゃん……まだかな」

 僕は淡い栗色の前髪を掻き上げる。イギリス人の母親から受け継いだ地毛だ。

 成田空港第一ターミナルの売店前にある長椅子が待ち合わせ場所だった。


『ヒデちゃん』は僕の小学校からの幼馴染である。名前を犬飼秀樹という。

 思春期の頃に遺体好きの変態趣味に目覚めてしまった彼は、両親から勘当され、十五歳で単身アメリカへ渡った。

 彼の旅立ちを知ったのは、その飛行機が飛び立つ数時間前のことだった。僕は学生鞄を放り投げ、屋敷の運転手に無理を言って成田空港を目指した。ゲートの手前で僕とおなじ学生服の少年を見つけた。荒い呼吸は整ってなかったが精一杯声を張り上げた。

 ――手紙ちょうだいね! 電話でもいいから、……約束だよヒデちゃんッ!

 学生服のまま小さな鞄ひとつで旅立とうとする彼の背中に、泣きながらそう叫んだのはもう十三年も前のことになる。最後に見た彼の目は虚ろだった。そのときの僕の悲痛な願いごとに対し、返答はなかった。彼は振り返りもしなかった。

 ヒデちゃんが……僕を正面から見てくれなくなったのは小学六年生ぐらいからだろうか。ちょうど彼が遺体好きの変態趣味に目覚め始めた頃からだったような気がする。

 色が白くて細身で背が低い、女の子みたいな彼が、アメリカなんて大きな土地でどう生きていくのだろうか――。成長するのを見越して作ったであろうダボダボの学生服は最後まで彼の指を爪先まで隠していた。反対に、僕は学生服を二回作り替えた。


 ……一昨日ヒデちゃんから届いた手紙を、ガサガサと開いたり閉じたりする。肌身離さず持ち歩いていたので便せんも封筒もすっかり僕の手垢まみれになってしまった。

『帰国する。――ついでに……』

 屋敷に手紙が届いたその夜に、僕は慌てて電話をかけた。肝心の帰国日時が書かれていなかったのだ。

 彼は携帯電話を持っていないので、いますぐに連絡を取る手段は、FBIのとある研究機関に電話する方法しかなかった。僕は英語が苦手でうまく喋れない。恥ずかしいことに電話口の女性になんとか「ヒデキ、イヌカイ、プリーズコール」と伝えるだけでやっとだった。

 ベルカと名乗る彼女は、たどたどしい日本語で対応してくれた。

 ――ヒデキ、ジャパン行く。さっき出タ。

 ――あぁえーと……ファットタイム、……ウェアー……フライト時間プリーズ。

 ちぐはぐなやり取りをしているうちに本人がパスポートを忘れたといって戻ってきたらしく、事なきを得た。


「それにしても遅いな。飛行機は遅れてないっぽいのに……」

 電光掲示板を見上げる。本日は雲ひとつない晴天で、特別遅れている便はない。

僕が立ったり座ったりキョロキョロしていると、やがて前方から全身真っ黒な男性がゆったりとした足取りで近づいてきた。切れ長の瞳は気だるげで、すらりと背が高く、手脚の長さが目立つほど痩せた日系人だった。彼の整った容姿に見とれたらしい女性がすれ違い、ふと足を止めて振り返った。僕も、なんだかクールでカッコイイ人がやってきたなぁと思った。

 すると彼は何故か僕の目の前でスッと立ち止まった。

 誰だろう……僕になんの用だろうかと疑問の表情で見上げる。やけに虹彩が乏しい闇色の瞳とかち合う。

 その美しく、艶やかな黒色に見つめられて僕の背が――ぞくん、と震えた。

「May I sit here?」

 細長いひとさし指で、隣の席を示された。

「ここ? 隣? ど、どうぞ……?」

 断る理由は特にない。僕は腰をすこしだけ横にずらした。

 彼は使い古されたボストンバッグを床におろすと、僕の隣に座り、長い脚を組んだ。

 甘ったるくてほのかに苦い煙草の匂いを纏っている。ヘビースモーカーだろうか。

 他にも席は空いているのに何故僕の隣なのだろう。僕のパーソナルスペースの感覚は日頃から狭い方ではないと自分では思っているけれど、それにしても二の腕が当たっていてちょっと距離が近すぎる気がする。平日の夕方なんだけどな、そんなに混んでいるのかな……――いま一度ぐるりと周囲を見渡したが、やっぱりそうは思えない。

 肘にぬくもりを感じる。だからといって話し掛ける勇気はないので黙っていた。

 見た目は日系人とはいえ、彼はおそらく外国からやってきた人だ。一方で僕は混血だけれど、生まれも育ちもこの島国で、一度もこの国を出たことがない。外国人の距離感はもしかしたらこれぐらい近いものなのかもしれない。

「……くっくっく……アッハッハ!」

 すると急に、隣の男が愉快気に笑いだした。

「おいおい。まだ気づかねぇのかよ、ユキチ?」

「え……あッ、その声――……ヒデちゃん!」

「ぜんっぜん気づかねぇから傍まで来てやったぞ」

 いや見た目がそんなに変わったら気づかないよと、僕は顔をしかめる。

「なんだよ! こんなの感動の再会じゃないよ……!」

「じゃあやり直すか」と言ってヒデちゃんは席を立った。ボストンバッグを片手にさっきやって来た方向へ数メートルほど歩いて戻ると、くるりと振り返り――、

「久しぶりだなユキチ!」

 ボストンバッグを投げ捨てた彼はバッと両手を広げた。

「おかえりヒデちゃん!」

 僕は手紙をその場に落とし、立ち上がって駆けだす。

「犯罪者プロファイラーって、すごいじゃない! 僕たちは一緒に闘えるんだね!」

 飛びつくと僕の体重を支え切れなかったヒデちゃんは「ウワァー」とわざとらしい悲鳴をあげる。いい年した男ふたりが無邪気に床を転がったものだから、通行人たちが何事だろうかと訝し気に見おろしていった。

「……って、やりたかったのに!」

「いまやったからいいじゃねぇか。そんなことより身体が醤油と味噌を求めてんだ、その良いナリだといい店知ってんだろ? その、あー……なるべく安い店で頼む」

 空腹を訴えて腹をさするので、まだ陽が落ちるには早いのに昼ご飯は食べてこなかったのだろうかと不思議に思いながら僕は何気なく彼の腹に手を当てた。

 肉の感触がない。布越しに骨と皮だけのガリガリな身体を感じた。


   *


 電車を乗り継いで品川まで出た。四時からやっている居酒屋を思い出した。駅からすこし歩くことにはなったが他愛のない言葉を交わしつつ目的の店に辿り着いて「ここでいい?」と尋ねると、ヒデちゃんは物珍しそうに赤ちょうちんを見つめながら小刻みに頷いた。日本の居酒屋というものを映画やドラマの類でしか知らないらしい。そりゃあそうか、十五歳で日本を離れたのだから。

 くの字のカウンター席しかないこじんまりとしたお店だ。

「なんかおまえのイメージと合わねぇな……俺はてっきり高級ホテルのディナーにでも連れていかれるのかと思ったぞ」

 握りハチマキの頑固面の店主から差し出されたおしぼりを受け取ったヒデちゃんはちょっと意外そうな顔をしながら僕の右隣に腰を下ろした。店内は狭いので従業員の男性にボストンバッグを預けてきたようだ。

「そうかなぁ、後輩と結構来るけどね。おじちゃん、僕は生ね」

「ナマ? ナマってなんだ……焼き方がレアな食い物か?」

 声を潜めるヒデちゃんに「生ビールのことだよ」と教える。

「あぁ省略して『ナマ』なのか。そうか、日本の乾杯はビールだったな」

 ヒデちゃんにとっては居酒屋にあるものすべてが新鮮らしく、焼き鳥を焼いたときに飛び散った脂を吸い込んだメニュー表にも「ベトベトする!」と驚いていた。

「ちょっと昔はそうだったけど、いまは乾杯はビールって決まってないよ。お酒を飲めない人も増えたし、飲むことを強要するのもアルコールハラスメントっていってね、やっちゃいけないんだよ。ヒデちゃんはお酒強いの?」

「どうだろうな。酔ったことねぇからな」

 これは強いかもしれない。僕はポケットからウコンの錠剤を携帯しているケースを取り出すと、一粒ポイと口に放り込んだ。

 僕はあまりお酒に強くない。二十歳を迎えて、初めてうちの使用人さんたちからすすめられてワインを口にした日のことはいまでも忘れられない。たった一杯で酔いつぶれて笑いながら暴れまわったのだ。

「どうせなら飲んだことねぇやつがいいな」

「じゃあ日本酒じゃない?」

「いや日本酒は意外とアメリカで飲めるんだ」

「そうなの? だったら下町っぽい方向で攻めようか。チューハイとかは?」

 メニュー表を指さすと、ヒデちゃんは「チューハイ?」と首を傾げた。

「正式には焼酎ハイボールね。焼酎を炭酸で割ってるの、カクテルみたいに。レモンチューハイは甘くないから醤油に合うと思う。――おじちゃん、レモンチューハイと、焼き鳥の盛り合わせと、ササミの味噌添えお刺身。あと白菜の漬物ね」

 僕は彼の尻ポケットに刺さっているぺたんこの財布を見やった。

「その様子だとお金ないんでしょ。僕の奢り。その代わり僕が好きなの頼むよ?」

「……五ドルは持ってるぞ」

「日本だとワンコインだね、牛丼一杯だ」

 僕は頬杖をついて呆れる。安い店を強調していたこと、ひどく痩せ細った身体をしていることは、彼の貧乏生活が長いことをあらわしていた。僕よりちょっとだけ背が高くなったようだが、体重はおそらく僕の方が重そうだ。

 お待たせしましたと運ばれてきた生ビールとレモンチューハイのジョッキグラスをカツンと合わせて僕たちは乾杯した。同時にぷはーっと炭酸の刺激を声にする。

「ほぉ、レモン味の炭酸水か! んん……? アルコール入ってんのかコレ?」

「入ってるよ」薄く感じるということは、やっぱりお酒には強そうだ。

 喉が乾いていたらしくヒデちゃんは一気に飲み干してしまったので、僕はそっと従業員に声を掛けて二杯目を注文した。すぐにやってきたおかわりもグイッと半分までいってしまう。顔色が変わる気配は見えない。その合間にわりばしを割って、刻み昆布と混ぜられた白菜の漬物を口にしたヒデちゃんは目を輝かせていた。

「なんていうか、ヒデちゃん変わったね。変わりすぎて気づかなかった」

「おまえはあんまり変わらないな、そのハーフ独特の茶髪と茶色い目」

「僕の成長期は早かったしなぁ。って、キミは見た目だけじゃないよ。雰囲気も!」

「俺はもとからこんな感じだったろ?」

 そう言いながら左胸のポケットから安っぽいライターとともに煙草の箱を出した。赤と金の派手な箱だ。GUDANG GARAMと印字されている。ぐだ……がらむ? 煙草を吸わない僕にはそれがなんという銘柄なのかはわからない。

 ヒデちゃんは煙草の箱の底を指で叩いて一本取り出すと口に咥え、慣れた手つきで火を点けた。大人の男の色っぽいしぐさだ。煙草の先端が赤く燃えるとパチパチッと火花が散り、にわかに独特な匂いが立ち込めた。彼から感じた香辛料が混ざったような甘い香りの理由は、やはり煙草だったのだ。

「副検事合格おめでとう。それ、俺に見せるためにスーツで来たんだろ?」

 悪戯っぽく笑んだ目と合ったので、僕は急に恥ずかしくなって慌てて生ビールのジョッキを掴んだ。

 一気飲みするとカァッと顔が熱くなった。

「そ、そうだよ。ヒデちゃんだって特権法の犯罪者プロファイラー第二号でしょ? 新聞にも載ってたよ。あの有名な心理学者、山田誉教授がアメリカでスカウトした弟子が……って」

「スカウトってそんな大層なもんじゃねぇ。あのジイさんは俺を愛人にしたかったらしいぜ」

 僕は焼き鳥のつくね串を口に運ぼうとして硬直した。

「別にアッチじゃあ珍しくないぞユキチ。なんでも自由な国アメリカだ」

 涼しい顔をしながら彼はササミのお刺身に味噌をぺたぺた塗り付ける。

「日本は恋愛もまだ不自由なのかい副検事さんよ? ……お、半生でうめぇ」

 軽く炙ったササミのお刺身はヒデちゃんの酒をすすめたようで今度は自主的にレモンチューハイの三杯目を注文した。彼の手は酒と煙草とおいしい日本の料理、と大変忙しい。

 よほど日本食が恋しかったのだろう。にこにこと喜んで、箸に味噌を付けては舐めている。

「恋愛かぁ……彼女はいないね。残念だけどまだ……」

「そりゃそうだ、検事長のひとり息子とお遊戯したいなんて立候補する度胸のある女はそうそういないだろ。そういや直々にお手紙いただいたぜ、おまえのダディー、諭吉藤吉郎検事長さまから」

「あぁお父さんから……そう。期待されてるんだね」

「拗ねんなよ。俺はさっき帰国したばっかで犯罪者プロファイラー登録証をもらってねぇぞ。捜査権を持ったのはおまえの方が先だ」

 別に拗ねてなんかいない。ただお父さんとはずっと一緒に暮らしているのに、最後に言葉を交わしたのはいつだったかなぁと寂しく思ってしまう自分がコドモだなと感じただけだ。

 僕はぼんじりを食いちぎって、串を皿の上に転がす。ヒデちゃんも砂ずりを噛んだ。

 醤油と味噌は酒を速める。僕は二杯目の生ビールを注文した。


 皮肉なものだ。

 今年施行された、民間人を刑事事件の捜査に介入させる制度「凶悪犯罪における行動心理分析特別捜査権利法」を積極的に推進したのは、僕のお父さんと、ヒデちゃんのお師匠さんなのである。

 ――民間人が持つ知識と経験を凶悪事件の早期解決に活かすべきだ。

 諭吉藤吉郎検事長は、十年以上前からマスコミをとおして国と国民たちにそう訴え続けた。彼を援護し、時に論じて国民の関心を高めたのは、お父さんの親友であり犯罪心理学者の山田誉教授だ。

 殺人罪等の重い罪に問われる刑事事件の公訴時効がなくなったのは随分と前のことだが、その上で数々の凶悪事件の捜査が難航し、捜査関係者への更なる負担が懸念されていることもあり、賛否両論のまま国はついに決断する。

 凶悪犯罪における行動心理……――略して「特権法」は、斯くして成立した。

 日本では特権法で登録されて捜査への介入を許された民間人を「犯罪者プロファイラー」と呼ぶ。

 きっとヒデちゃんは要請されればすぐにでも現場で活躍するだろう。それは明日かもしれないし、明後日かもしれない。

 ――でも僕はまだきっと……。

 自分にとって近しい人たちが華やかに活躍する中、僕だけなんだか地味だ。


「特権法かぁ……。日本もついに刑事事件の捜査に民間人を入れるんだね」

「民間人っつっても、なにか得意分野を持ってねぇといけないらしいな。しかも求められてる知識量は司法試験突破レベルだ。俺も特権法の試験っつーのをやらされたが、結局そういう基準でしか判断する術が思いつかなかったのかもな。日本は幼い頃からそうだがテストに合格しないと人生の成功は望めないさだめの国なのかもしれん」

「そこまでしたら民間人じゃないよね。公務員じゃないか」

 結局のところ特権法は成立したけれど、国としてはホイホイと積極的に民間人を捜査の現場に入れるほどの博打は打てなかったというわけだ。そうなると公務員と民間人って、なにがどう違うのだろう……。

「俺もそう思うさ。なのに犯罪者プロファイラーは捜査協力しても無報酬らしい」

 なんだって……!

 僕は正直なところ特権法については検察側にとって有益な情報しか知らされていなくて、ヒデちゃんの口から語られた衝撃の事実に怒りが込み上げた。

「いやいやダメだよそんなの、おかしいよ! 働いた人には相応の対価が支払われるべきだ!」

「民間人と公務員には明確な差をつける、そうしねぇといろんなヤツが納得しなかったんだろ。その点で言えば日本はやっぱり実力がすべての自由の国とはほど遠い。けど自由がすべて良いとも限らねぇぞユキチ。銃ぶっ放すのも自由な国では身を守ってくれるのは銃しかないからな」

「あぁそっかヒデちゃんFBIにいたんだっけ……。う、撃った?」

「いや撃ってない。護身術として練習ならさせられたけどな」

「へぇー、じゃあ撃とうと思えば撃てるんだ!」

 僕の好奇心のせいで話はすこしずつ阿呆な方向へとズレていく。

「帰国記念に一発撃ってやろうか。……バーン、ってな?」

 ひとさし指がグイと頬に押し付けられた。僕は鼻で嗤ってその指を掴む。

「はいヒデちゃん逮捕。日本では銃刀法違反で逮捕だよ」

「帰国して早々にやらかしちまったぜ。逮捕は勘弁してくださいよぉ刑事さん」

「いいえ副検事さんでした」

 僕は酔いが回ってきてケラケラと笑う。

「酔っぱらい副検事さん、そんなんで俺を起訴できるんですかぁ?」

 おどけるヒデちゃんが吐き出した煙で目の前が白くなり、居酒屋らしい会話になってきた。


   *


 十三年間の空白を埋めるのなんて簡単だった。

「おうちまで寝るなよユキチ?」

 僕は気が付いたら上着を脱いでいて、机の上でぐでっと潰れていた。

 ヒデちゃんがおまえ苦しそうだなと僕のネクタイをちょっと引っ張ってゆるめてくれる。……こういうところは変わっていなくて安心した、ヒデちゃんはいつもさりげなく優しい。

 ……小学生のとき……僕がぜんぜん勉強してなくて、テスト中にどうしようって髪の毛を掻きむしってたら、隣の席のヒデちゃんがこっそり答案を見せてくれたんだよなぁと思い出した。ヒデちゃんは僕よりずっと勉強ができて毎回満点ばかり取っていた。もちろんその後は先生に見つかってふたり一緒にこっぴどく叱られたけど……。

 外はすっかり夜だった。赤ちょうちんが橙色の光を放っている。

 仕事帰りのサラリーマンふたり組が「二軒目ぇ~」と言いながらやってきた。片方は完全に酔っぱらっていてネクタイを頭に巻いている。

「こうやってヒデちゃんと飲めるなんて思ってなかったなぁ……」

「ガキの頃にこの未来を思い描いてたらそれはそれで怖くねぇか?」

「違う……もう会えないと思ったから」

 するとヒデちゃんは眉尻を下げて、複雑そうな笑みを浮かべる。煙草の灰を灰皿にトンと落として煙を深く、深く吸った。――否定はしないんだね。

 特権法が成立しなかったらヒデちゃんが帰国することはなかったのだろうか。

「僕のせい……?」

「ん?」

 訊き返すヒデちゃんの声色はやけに優しかった。

「なに言ってんだ、おまえのせいなわけないだろ。遺体を見つけると興奮してアドレナリン出っぱなしになっちまうバカな俺のせいだよ。親には一応、申し訳ないとは思ってるさ……ろくな息子に育たなくて悪かったなって。一応な。一応は思ってる」

 嘘だよ。だってヒデちゃんはこんな人じゃなかった。もっとおとなしくて、生真面目で、女の子みたいな高い声でオドオドしながら僕の家の玄関で『ユキチー、あそぼーっ!』って言うだけで顔を真っ赤にしちゃうような男の子だったんだ。


 ――あの事件のせいだ……。僕が、ヒデちゃんを壊したんだ……。


「そんな怖い顔すんなよ。飲みすぎて悪かったと思ってる、一応な?」

 七杯目、いや八杯目か。レモンチューハイのジョッキグラスの側面を爪で弾くヒデちゃんは素面も同然で、僕みたいに出来上がるほど酔っぱらっていない。

 突如、斜め向こうでドワッと盛り上がる声が立った。

「だぁかぁら、オレァな? 言っへやっらんやよぉッ!」

「そのとおりだァ、ったくあの部長はよぉ、下々の気持ちをわかってねぇんだ!」

 サラリーマンふたり組が大声で上司の愚痴を吐き出している。

 その様子を横目に、ヒデちゃんは苦笑い気味に「酔っぱらいさんはどこの国も変わんねぇな」と呟いた。

 彼はサラリーマンの支離滅裂な会話を盗み聞きし、時折クスッと笑う。

 ――あぁ本物の……ヒデちゃんだ……。

 微笑む横顔にあの日の面影を見た。一緒にいるのが当たり前で、日が暮れるまで毎日飽きることなく僕の家の庭で遊んだ。彼から帰宅を告げられる「ユキチ、また来るよ」が、いつも切なかった。

 僕はやっと帰ってきた幼馴染の腕に、もう国外には逃がさないぞと言わんばかりに縋りついた。

 突然の僕の行動に驚いたらしいヒデちゃんが肩を跳ねさせる。慌てて火の点いた煙草を右手に持ち替えていた。

「っんだよ、びっくりさせんな。髪の毛燃えるぞ」

「ヒデちゃん! あぁやって僕らもお仕事のことで愚痴……言おうね。ムカつくヤツがいたらお酒いっぱい飲んでバカ騒ぎしよう、僕はヒデちゃんとそれがしたかった」

「ユキチ……」

 意外だという顔をしているのだろう。

 でも僕は顔を上げられなかった。この宣言を真正面からできるほど僕はこの胸のバッジをすり減らしていないからだ。

 僕は副検事になったばかりで、まだ事件を任されていない。東京地検刑事課では相変わらず雑用ばかりしている。こんなんじゃあまだ堂々と見栄を張ることはできない。

「僕はヒデちゃんと一緒にお仕事したい。頑張るよ。絶対に追い付くから、僕が特権法適用の事件担当になったら、ヒデちゃんを指名する……絶対する!」

「そうか……。ところでなユキチ。言い忘れたことがあった」

「え?」

 なんだろう。思わず顔を上げた。

 ヒデちゃんはニヤリとして「俺、来期から帝真大学の准教授になるらしいぜ」と、火が点いていない新しい煙草をくるりと回した。その彼の手に、回るチョークが見えた気がした。僕は驚きすぎて椅子から落ちそうになり、あぶねぇなと抱き留められた。

「ヒデち……、い……犬飼先生になるってことッ?」

「あー、その先生呼ばわりは気持ち悪ぃな。おまえから呼ばれると特に違和感がすげぇよ」

「犬飼先生! すごい、犬飼先生だ!」

「だぁからやめろってその、先生ってやつ」

「なんの授業受け持つの? ゼミはやっぱり犯罪心理学なの?」

「しーらね、あのクソジジイが勝手に決めるんだろ。人にものを教えるなんて俺の柄じゃねぇよ。でもそれ以外に安定した収入なんざ見込みねぇからな、やるしかねぇよな」

 心底嫌そうだったが、自分でもそうするしかないだろうと思っているようだ。特殊な経歴だけにまっとうな学歴を好まれる日本での就職活動はまぁ無理だろうぜと自虐と嫌味を併せて吐き出す。

「研究室に遊びに行ってもいい?」

「おまえのその見た目なら大学生でもいけそうだし、いいんじゃねぇの」

 そんなに子どもっぽいだろうか。頬を膨らませると首を横に振られた。なんてことはない、地毛の茶髪と母譲りの日本人とはちょっと違う顔立ちのお陰で、年齢不詳に見えるからいいんじゃないのかという意味だったらしい。

「へへ、毎日行っちゃおうっと」

 僕はうれしくなってだらしなくたるんでいる自分のネクタイの先っぽで、ヒデちゃんの二の腕を叩いた。大学の授業を受け持つということは、彼がまたあの日のようにいきなりアメリカに行っちゃうとか、いなくなるということはないというわけだ。

「副検事さんは暇なのか。その様子だと当分、事件は任されそうにないな」

 准教授さん兼・犯罪者プロファイラーさんが僕を小馬鹿にして笑い飛ばす。

 なんだかヒデちゃんもうれしそうだ。しばらく吸っていなかった日本の――醤油と味噌の匂いがする――空気にもすっかり馴染んだようで、いつの間にか居心地よく頬杖をついている。

「気に入ったな、この店」

「ホント? じゃあまた来ようよ」

 すると不愛想な店主がぬぅっとやってきて、無言で僕たちの前に小鉢を置いた。

 僕らはどういうことだと顔を見合わせる。料理の追加注文はしていないはずだが。

「鯛と蓮根の煮つけだ……食いな」

 しゃがれた声でそう言い残すと店主は踵を返し、串ものを炙る炭火に集中し始めた。

 再びヒデちゃんと目で会話をする。彼は疑問を訴えて黒目を左右に振った。

 これは常連さんへのサービスではない。何故なら僕はそういえるほどこの店に通ってはいないし、ヒデちゃんに至ってはご新規のお客さんだ。

 さっきから「オイ大将、大将ッ! いつものね!」と呼び散らしている酔っぱらいサラリーマンたちの方が明らかに常連客といえるのではないだろうか。

 ということは店主は僕らの会話を聞いていて、なんとなくこの一品を出してあげたくなったのかもしれない。そういう組み合わせの食材だから。

「随分と縁起がいい組み合わせだね。蓮根は人生の節目、鯛はおめでたい。さっぱりしててお酒のシメにもいいなぁ。ありがたくいただこうか」

「ほーそうか。蓮根は節の多い植物だから『節目』で、鯛は語呂合わせか」

 ヒデちゃんは箸先でふわふわの白身をつついたかと思えば、すぐ横で魚に寄りかかっている蓮根の穴に先端を入れたり、やっぱり鯛にしようかと箸を戻したりしていた。

 コラ、迷い箸はよくないぞ。そう僕の喉から注意の台詞が出そうになった寸前に、彼は双方を箸で搔き集めると大口を開けて縁起物を纏めて頂戴した。

 頬が餌を詰め込んだハムスターのように膨らむ。

 なるほど、その発想はなかった。彼は縁起を担ぎたいがためにふたつを同時に食そうと考え、それらが自分の口に入りきる容量なのかと確認していたようだ。

「キミは本当に頭がいいよ」

 単に欲張りなだけなのかもしれないけれど。

「さて人生の節目も祝って、これからいろいろ始まるんだな。ワクワクしてきたぞ」

「そうだね」と、賛同しかけたのだが不意に彼の悪魔の笑みが視界に入り、ぎょっとして僕は思わず箸を取り落とした。

「日本の遺体はどんな感じだろうなぁククッ……日本人の内臓は全体的に弾力がありそうだよなぁ、すくなくとも魚を食う文化だから骨組織はしっかりしてそうだ。日本は刺殺と撲殺と絞殺が多いからな、目玉飛び出したり舌がべろんと根っこまで出ちまってる遺体とか早く俺の恋人にしてぇ……妄想したらワクワクが止まらねぇな……」

「わぁ黙れ変態!」

 僕の切なる声高な制止に、団扇をあおいでいた店主の手が止まった。

 慌てて遺体好きの変態バカの口を塞ごうとするが華麗に避けられる。

 愉快なスイッチが入った彼を止めることは、酔っぱらってうまく力が入らないへろへろな僕には難しかった。あぁ悔しい、こんなに細身で筋力がまるでない非力そうなこのバカを抑えつけることができないなんて。

「なぁ見たか、彼女すげぇ綺麗だったろ? 途中まではうまく切られてたのに、最後は犯人に飽きられたのか、力任せにちぎられたようなあのうっとりするような断面」

「うわああァやめろ思い出させるんじゃない!」

 咄嗟に耳を塞いだが時既に遅し。

 エアメールとともに送り付けられた写真をうっかり思い出してしまった。

『帰国する。――ついでにこれは俺がアメリカで見つけた最高の恋人の写真だ』

 僕はペーパーナイフで封筒を開けてギャーっと叫んだ。おそろしい写真が同封されていた。彼からの手紙を読むより先にそれを見てしまったから余計だった。白黒写真でなければ卒倒していたかもしれない。

 すぐさまゴミ箱に突っ込んだのはバラバラにされた人間の写真で――……そう、僕はまだこのときは想像してもいなかったのだ。


 日本でまさかそんな壮絶な事件が起きるなんて。