問題集を解き終えたので、桃花はシャープペンシルを座卓に置いた。

 同じ部屋で蔵書を整理していた晴明は、いつの間にかいなくなっている。隣の台所から換気扇を回す音がするので、どうやら茶の準備をしてくれているようだ。

 ――お手伝いに行こうっと。今日もお茶菓子あるかなぁ。

 セーラー服のスカートが乱れないように気をつけながら、座布団から立ち上がる。そばに座って庭を見ていた白猫が、青い両目を桃花に向けた。

「瑠璃ちゃん。お手伝いしてくるから、お留守番しててね」

 返事をするかのように、瑠璃は「ミィ」と鳴いた。もしかしたら人間の言葉が分かっているのかもしれない。

「晴明さん、問題集終わりましたよ」

「ああ。早かったな」

 台所をのぞくと、晴明がコンロの前に立っていた。真っ白なドレスシャツに簡素なエプロンを着けて、小鍋の中身を木べらでかき混ぜている。

「……陰陽術ですか?」

「なぜそうなる。一応料理だ」

 小鍋から目を離さないまま、晴明は言った。桃花は(料理番組でゲストに呼ばれた俳優さんみたい)という感想を抱きつつ答える。

「晴明さんが料理してるところ、見たことないですもん。お茶はよく淹れてもらってますけど」 

 ――すごい陰陽術を使える晴明さんも、普通に手を動かして料理するんだ……。

 桃花は晴明の横顔と、めくった袖からのぞく固そうな手首に見入った。

 ――当たり前だけど、ちゃんと袖をめくってる。エプロンもきれいにしてある。ああ、でもガス台や流し台は低すぎるかも。晴明さん、背が高いから。

 調理という馴染みのない作業に集中している晴明が、いじらしく思えてくる。

 ――でも、黙っていよう。晴明さん、『いじらしいとは、か弱い子どもなどに使う表現だ』なーんて、仏頂面で言いそう。

 何を作っているのか気になって、そっと近づいてみる。小鍋の中で丁寧にかき回されている液体は一見牛乳に似ていたが、よく見ると透明な部分が生じている。

「これ、葛湯ですよね? 本格的!」

「本格的なのか? 昨日、茜が作ってくれた通りにしているんだが」

 現世に不慣れな晴明らしい反応である。木べらの動かし方に迷いがないのは、部下が手本を見せてくれたかららしい。

「カップに入れてお湯を注ぐだけ、っていうインスタント葛湯もあるんですよ。明日から十二月だから、お店で色々売ってると思います。抹茶入りとか生姜入りとか、ちょっと高級なのは、桜の花の塩漬けが入ってたり」

「そうか。これは茜が買ってきてくれた、吉野山の葛粉と信州の林檎から採れた蜂蜜を使っている」

「さっすが茜さん、素敵セレクトです!」

 着物姿が似合う晴明の部下を褒めた後で、はたと気づく。

 ――茜さんばっかり褒めちゃった。

 桃花としては晴明の手作りがとても嬉しいのだが、それを伝えるのは何やら照れる。葛湯とはいえ、飲食店や父親以外の男性に料理を作ってもらうのは初めてだ。

「えーと、手作りが嬉しいからお茶淹れますねっ」

 照れた勢いで、桃花はくるりと食器棚の方を振り返る。すると、見慣れないものが目に入った。台所のテーブルに、呪符らしきものを何枚も貼った小箱が置かれているではないか。

 ――な、何が封印されてるの? 何でできた箱か分からないくらい、いっぱい貼ってある! ええと、木の箱、かな?

「晴明さん、この箱」

「気にしなくていい」

 晴明は小鍋を火からおろすと、テーブルに用意してあった二つの漆椀に葛湯を注ぎ分けはじめた。

「葛粉や蜂蜜と一緒に、茜が持ってきた。『買った骨董品に何か憑いている』と知り合いから相談を受けたそうだ」

「気にしますよ!」

 卓球部員並みの反射神経で桃花は返したが、小鍋を傾ける晴明の立ち姿はぴくりとも動かない。とろりと流れる葛湯から林檎の香りが漂って、桃花はついうっとりした。

「茶はいいから、早く飲もう。香りが飛ぶ」

 さあ座れと言わんばかりに、台所の椅子が二脚、勝手に後ろへ動いた。

「説明してくださいよ? 気になって問題集の答え合わせできないじゃないですか」

 そう言いつつ、桃花は素直に椅子に座った。

「熱いからこれを」

 と晴明が手渡してくれる漆塗りの匙に、また照れてしまう。

「いただきます」

 すくった葛湯をふうふうと吹いてから口に運ぶ。匙のなめらかな感触が唇に、葛湯の甘さと温かさが舌に触れて、幸せだ、と思う。

 ――何かが憑いてる骨董品をおともに幸せなおやつ……なんて、変、かも。

 奇妙さと幸せは同居できるのかもしれない。

 向かいに座った晴明は葛湯を飲む前にしっかりとエプロンを外していて、この人らしいな、と桃花は感心した。

「憑いているのは、猫の手だ――と、持ち主は茜に言ったそうだ。正確に言えば、猫の前足だな」

 真顔で言う晴明に、桃花は思わず「猫の手、ですか?」と聞き返した。

「猫が憑いてるなら分かりますけど、一部分だけって?」

 葛湯を飲む手を休めて、右手を握って招き猫のように前傾させてみる。

「全然イメージできないです。早く開けてください、その箱。どういう骨董品なのかも知りたいし……」

 桃花の要求に、晴明が口の両端をほんの少し上げる。笑ったのかもしれない。

「驚いて葛湯をこぼさないよう、気をつけるならいい」

「気をつけますって」

 晴明の手が木箱にかかる。蓋が取り外され、中から布の包みが出てきた。布包みが開かれていくのを、桃花は葛湯を飲みながら見守った。

 出てきた品は、黒漆塗りの丸い小箱だった。ネックレスを一つ入れたらいっぱいになりそうな小ぶりさで、蓋の部分にきらきら光る虹色の梅が咲いている。

「螺鈿ですよね、これ。アワビみたいな、裏側が光る貝を嵌めこんである……」

「さすがは美術部員だな。これはアワビの貝殻を使った、螺鈿の香合だ」

 晴明は褒めてくれたが、やはり分からない。香木や練り香を入れておくための香合に、なぜ猫の前足が「憑いて」いるのか。

「骨董を買った本人には見えなかったが、その幼い孫には見えたそうだ」

「え、じゃあ相当怖がったんじゃないですか……? 自分にだけ見えるなんて」

「幸いまだ二歳で、よく分かっていないようだ。しかし箱に貼られた呪符の数からすると、以前の持ち主の誰かにも見えたのだろうな。怖がって貼ったらしい」

「あっ、晴明さんが貼ったわけじゃないんですね」

 骨董品とは思えない、つやつやとした香合に顔を近づけてみる。

 黒っぽい影が視界をよぎって、桃花はまばたきした。

 黒い猫の前足が、まるでじゃれつくかのように螺鈿の梅花のそばで揺れている。

 桃花は前のめりになっていた姿勢を元に戻し、晴明の顔を見た。

「猫の手がじゃれついてます、よね。香合に」

「そうだな」

「そうとしか思えないです、けど……。助けなくていいんですか? この猫」

 晴明が淡々としているので、桃花は不安になる。

「安心しろ。ここに猫の魂は憑いていない」

 それを聞いて、やっと桃花は葛湯を最後まで飲み干した。

「なら、どうして猫の手が見えるんですか……?」

 桃花の混乱をよそに、晴明の白い指先が虹色に光る梅花に触れる。

「この猫の手は、アワビの貝殻が見ていた記憶だ。昔、アワビの貝殻は猫の餌皿としてよく使われた」

「あっ、サイズがぴったりですね。猫の一回分のご飯って、手のひらに載るくらいの量だから……って、ちょっと待ってください晴明さん」

「うむ」

「アワビの貝殻って、幻を見せるんですか?」

「中国神話では、蜃というハマグリが幻を吐くぞ。蜃気楼という言葉のもとだ」

 大きな二枚貝が開いて煙がもくもくと立ちのぼり、楼閣の幻影が出現する様子を桃花は想像した。

「この香合に嵌めこまれたアワビは、猫にじゃれつかれている時間の方が長かったのだろうな。餌皿として使われている時間よりも」

 アワビの貝殻にじゃれつく猫を想像して、可愛いな、と桃花は思う。その一方で、猫はもうこの世にいないのだと思うと、少し寂しい。

「ずっとこのままってことは、ないですよね?」

 茜が晴明に託したのだから、きっと何らかの手立てがあるに違いない。

「貝殻の気が済むまで、幻を吐かせてやることも考えたが……。遊び相手がいる方が良かろう。瑠璃」

 晴明が呼んだ直後、音もなくテーブルに降り立ったのは尻尾を高々と立てた瑠璃であった。食卓に載られたというのに怒りもせず、晴明は香合を指さした。

 香合のそばで揺れていた黒い猫の手が、すうと薄れて消える。

「遊んでやってくれるか」

 ミィ、と瑠璃が応える。

 白い前足がちょい、ちょい、と香合を滑らせる。ホッケーをしているかのようだ。

「落とすなよ。さすがに傷がつく」

 晴明は香合を手に取ると、先ほどまで桃花が勉強していた和室に入っていく。尻尾を立てた瑠璃が、素早く床に下りて後を追う。

 桃花も、急いで後を追った。

「この香合が遊び疲れたら、幻も出なくなるだろう。頃合いを見て、茜を通して持ち主に返そう」

 座布団の上で香合とたわむれる瑠璃を、晴明は少しだけなでた。

「さて、答え合わせをするか。五分で」

「五分で? 早いです。脳味噌が焼き切れます」

「まず一息に採点をしてから、頭の休憩を兼ねて食器の片づけ。それから、間違えた部分をじっくりと着実に補強する」

「そういうのスパルタ教育っていうんじゃないですか? わたしじゃなくてもっと優秀な人向けの教育法ですよきっと」

「早く済ませないと、使ったままの漆器が傷む。さあやるぞ」

 ――勉強の教え方は厳しいのに、瑠璃ちゃんには甘いんですね。

 この人も猫好きだ、という連帯感を覚えながら、桃花は採点用の赤いペンを手に取った。