――なーんの面白味もない人生やったなあ――
ゴトンゴトンと電車に揺られながら、頭の中で昨日聞いた祖父の言葉を反芻した。
「おじいちゃんが倒れたの」
母からの知らせを受けたのは一週間ほど前のことだった。
今すぐどうというわけではないけど……と電話口で母から言われ、さも難ありげに「ちょうど今仕事が忙しくてさあ」と言葉を濁した。
ここしばらく両親には連絡を取っていなかった。母が入院した祖父のために田舎に帰っていたことも電話で初めて知った。
その三日後、再び母から電話があった。祖父に何かあったのかと一瞬ドキリとした。
「おじいちゃんが修司は元気かって毎日尋ねてくるのよ。わしももう長くないなんて気弱になってるし、なんとか今週末くらいにこっちに来られない? あんた昔おじいちゃんにはよく遊んでもらってたのよ」
そんな昔の話をされても反応に困るのだが、これ以上渋ると母の話が小言に変わりそうな気配を察して「わかった。都合つけてみるよ」と素直にこたえた。
「せめてもう一度だけでも顔を見せてあげてくれない?」
最後に母が言ったその言葉が俺の背中を押したことも間違いない。
せめてもう一度だけ――祖父の年齢を考えるとその意味は推し量るまでもない。
特に仕事が忙しかったわけではない。大学はすでに夏休みに入っているところも多く、学生バイトにシフトを代わってもらうことはさほど難しいことではなかった。
プシューッと車両の扉が開き、俺は大勢の人と共にホームへ吐き出された。
昨夜、台所の蛍光灯が切れた。祖父の見舞いから帰ってすぐに蛍光灯が切れるなんてなんとも縁起が悪い。気味の悪い音を立ててチカチカ点滅する蛍光灯を見つめ、そんなことを思った。
バイトも休みで暇を持て余していた俺は、夕刻になってからわざわざ電車に乗って都心の電器屋まで蛍光灯を買いに出た。家の近くのコンビニには置いていない。都会とは時に不便だ。
改札を出て、人通りの多い交差点に差し掛かったところで、対岸にあるヴィジョンから大きな音が流れた。そして、後ろから肩をドンとぶつけられた。
「いってえな……」
苛立った声のほうに目をやると、時代錯誤なほどツンツンに立てた金髪に、耳にはピアスをじゃらじゃらつけている男がこちらに睨みをきかせていた。耳のピアスと鼻のピアスを繋ぐようにチェーンをしているので、まさにじゃらじゃらと音をさせている。歩くと非常にやかましそうだ。
――そっちからぶつかってきたくせに、うるせえなあ。
心の中で毒づくも、表情には出さない。
ほとんど口の中だけで「スイマセン……」と呟くと、男は片側の頬を歪めて、これ見よがしに「チッ」と舌打ちをして通り過ぎた。
ヴィジョンに映った映像に気を取られ、人混みの中急に立ち止まった俺が悪いのかもしれない。
けれど他の人間は立ち止まっている俺を上手に避けて歩いていくのに。
遠くなる男の背中をぼんやり眺めながら、再び口の中で「メンドくせえな……」と呟いた。
面と向かって言わないのは無駄な争いをしないためだ。こんなところで喧嘩を始めるなんて馬鹿のすることだ。俺は決してヘタレなわけではない。
「本日は『TORN&TONE(トーンアンドトーン)』原作者の東條隼先生に見どころを尋ねてきました……」
再びヴィジョンに目を向けた。
四方を海に囲まれた小さな島に暮らす高校生らが、生まれ育った島を守るために正体不明の巨大勢力と戦うSF青春群像劇。
一年ほど前から若者の間で急激にヒットしたこの漫画は『トントン』と呼ばれ、アニメ化、書籍化、劇場版と、まさにトントン拍子の飛躍をみせている。
俺が小学生の頃、彼は漫画家としてデビューした。それから何年か経ち『トントン』の連載が始まった頃、彼はまだ貧乏漫画家で、俺はきっと彼より高給取りだった。
「すっかり置いてきぼりだな……」
ヴィジョンの中ではこちらの事情などお構いなしに、ぎこちなく笑う彼が宣伝を続けていた――――
――――俺はまた、あの交差点にいた。
「本日は『TORN&TONE』原作者の……」
ヴィジョンには、あの日と同じ彼がぎこちない笑顔で『劇場版TORN&TONE』の宣伝をしている。
それをぼうっと眺めていると、目の前をぴょんぴょん飛びの男の子が通過した。
夕暮れの小学生。二年生ぐらいに見えるが、友達と遊んで家に帰る途中なのだろうか。もうすぐ夏休みだとさぞかし浮かれているのだろう。
この辺ではあまり見かけない制服姿だ。私学に電車通学しているのかな。この年から電車通学とはご苦労なことだ。
横断歩道の白いところだけを踏んで歩く、ゲームとも運試しともとれる遊びを俺も昔はよくやった。
人混みでぴょんぴょん跳ねる彼の姿を、微笑ましいと思うのかうっとうしいと思うのかは個人の自由だが、きっとさっきの金髪男ならうっとうしいと思うのだろう。
なんとなくランドセルの少年を目で追った。
少年はさっき俺に舌打ちをした金髪男のすぐ真横を、ぶつかるかぶつからないかギリギリで超えていった。
金髪男は少し首を動かして少年を見たようだ。後ろからでは男の表情は確認できなかった。だが少なくとも舌打ちをした気配はないように感じた。
少年は無事に白いところだけを踏みながら横断歩道を渡り終えた。
きっと今日は彼にとってラッキーな日なのだろう。
ラッキーな彼は誰にうとまれることもなく、無事に向こう岸へとたどり着き、アンラッキーな俺は横断歩道の手前で立ち止まったまま、チカチカ点滅し出した青信号を渡ろうと走り出す人に、今度は左肩をぶつけられた。
そのとき、キイイイイイとけたたましい急ブレーキの音が響いた。
驚いて身を竦めたと同時に、ドカンと爆発音が、一瞬の地響きを引き連れコンクリートの道路にこだました。
人々の悲鳴が轟いた。混沌とした人混みの中、向こう岸の電柱に白い車が突き刺さっているのが見えた。ボンネットがへしゃげ、車の残骸があたりに飛び散っている。
車の奥に倒れているらしい人の足が見えた。
あたりが騒然とする中、俺はとっさに彼の姿を探した。
ランドセルの少年はついさっき横断歩道を渡り切った。
白いところだけを踏んで、ご機嫌で渡り切った。
しかし、集まる野次馬と信号が変わって走り出している車、大きな道路を挟んだこちら側からでは背の小さな彼の姿は確認できない。
人混みの中で驚いているのだろうか。
怖くなって家に帰っただろうか。
それとも……まさか、あの車の向こう側に……。
横断歩道に雪崩れ込むのではないかと思うほど後ろから押し寄せるこちら側の野次馬をかきわけ目をこらすと、車の傍に誰かの靴が転がっているのが見えた。
地面に赤黒い液体がじわじわと広がっているのも見えた。
「あちら側」では、誰かが誰かの名を呼び泣き叫んでいる。
「こちら側」では、誰もが興奮気味に「事故だよ」「マジで」と声を出しながら携帯を向け映像を撮ったり、一心不乱にそれを操作したりしている。ときおりカシャッとシャッターを切る音がする。
横断歩道を隔てた「あちら」と「こちら」は、まるで別世界のようだった。
あの少年が気になって仕方がない。しかしこちら側の俺には少年の安否を確認する術がない。
再び信号が変わった。
俺は無意識にあちら側へと走った。人がどんどん向こう岸へと雪崩れ込んで、あっという間に野次馬の波は一回り大きく膨らんだ。
俺は野次馬を押しのけるように中へと入ろうとしたが、人が多くてどうにもならない。そのうち、後ろにも野次馬が押し寄せ、身動きが取れなくなってしまった。
野次馬の中心からはずっと同じ人たちの声がしていた。
「大丈夫だ! もうすぐ救急車が来るから!」
そのうちの一人の声がひときわ大きく聞こえた。
後ろからサイレンの音が近づき、救急車が到着した。
「どいてください! 救急隊が通ります! 道をあけてください!」
ぎゅうぎゅう詰めの野次馬たちを押しのけるように救急隊員が輪の中央へと向かう。
「こちらで立ち止まらないで! 危険なので下がって! はい、ここから出て!」
いつの間にか警察官も来ていた。
バラバラと野次馬が散り、その間をストレッチャーがガラガラと走り抜ける。
人波にできた隙間から一瞬、中央が見えた。
「もう大丈夫だからな! こっち、早くして!」
涙声でそう叫んでいるのは、あの、金髪男だった。
彼は輪の真ん中にいた。ピアスをじゃらじゃら揺らして駆け回っていた。きっと誰かの出血を押さえていたのだろう、赤黒く染まったシャツを手に握りしめ、タンクトップ一枚の姿になり、必死に声を掛けつづけていた。
その姿に胸が詰まった。
ふと、車の陰に何か黒い塊が見えた。
――――ランドセルだ。
とっさに前に出ようとすると誰かの足を踏み「いてーよ!」と怒鳴られた。
そこで、目が覚めた。
また、同じ夢を見た。
背中から頭まで、体は汗でぐっしょりと濡れていた。
この一週間毎日のように同じ夢を見る。もう夢の中でさえ「これは夢じゃないのか」と思うようになったのに、起きたときには決まって嫌な汗をかいている。
耳に届くのは窓を閉めていても聞こえるミンミンゼミの声。
時計を見ると七時ちょっと前だった。
寝る前にタイマーをセットしたエアコンはとっくに切れている。東向きの窓から高く昇った太陽の日差しが、古い畳を焼き付けるのではないかと思うほど強く差し込んでいた。暑いはずだ。
「クソ……」
何に対してなのかわからない独り言を口にした後、冷蔵庫から麦茶の入った2リットルのペットボトルを取り出しそのままごくごく飲んだ。
ああ、暑い。
このままシャワーを浴びて、その間にクーラーで部屋を冷やして、バイトに行く前に何か軽く食いたいけどパンも何にもない。
「メンドくせえな……」
カップラーメンでも作るか。しかしこの暑いのに肉そぼろ担々麺しかない。
そんなことを考えている間にも汗は滴り落ちる。
「あっちい……」
とにかくシャワーだな。このイヤな汗を流したい。
俺はクーラーの電源を入れた後、風呂場へ飛び込み、ほとんど水のシャワーを勢い良く頭から浴びた。
外へ出ると日に照らされたアスファルトはじりじりと熱を発していた。
さっきシャワーを浴びたばかりなのに、担々麺で温められた体内から瞬く間に汗が噴き出る。
バイト先のコンビニへは歩いて五分。近いという理由だけで選んだ職場は大正解だった。店長も店員もまったくやる気がないのだ。そのゆるさは俺にとって心地良いものだった。
自動ドアの前に立つと、もう何万回も聞いた軽快な音楽と共にドアが開いた。
今日もレジには客が一人もいない。元々それほど客の多い店ではなかったが、近くに競合店ができてからは、すっかりそちらに客を取られてしまった。
いつものようにレジ前を通ってバックヤードへ向かう。レジの時計を見ると勤務開始十分前だった。
「ちーっす。すぐ出るわ」
「あざーっす!」
俺が声を掛けると、先のバイトが嬉しそうに返事をした。
俺はいつも五分~十分ほど早く出勤する。それと交代に、先のバイトがバックヤードへ戻る。彼らはさっさと着替え、タイムカードを切れる時間まで椅子に座ってのんびりジュースを飲む。時間ぴったりにタイムカードを切り、颯爽と帰る。
学生のバイトが多いこの店は、タイムカードを押す時間ギリギリに飛び込み、時間を過ぎてからレジカウンターに入ってくる奴も多い。中には「遅れそうだからタイムカード押しといて! ジュースおごるから!」なんて連絡をしてくる強者もいる。次が来ないと帰れない中、たった五分十分でも早く来る俺は、他のバイトたちから大層好感を持たれている。
「みんな田中さんと同じシフトの日は超喜んでますよ」
制服を羽織り、レジカウンターへ入るとバイトが嬉しそうに言った。
「拓と一緒の日とかはマジ最悪ですからね」
拓とは学生バイトの中でも飛び抜けた遅刻魔、近所の大学二年生、佐々木拓のことだ。ちなみに今日の俺のパートナーは拓だ。
「今日、彼女とデートなんスよ。マジ田中さんでよかったあ」
夜勤明けで元気なこった。その若さと体力は素直に羨ましい。
聞いてもいない自慢話に「俺はどうせ彼女いねえよ」と心の中で毒づいた後、少し笑顔を作った。
「よかったな。じゃあ早く上がれよ」
先のバイトがレジカウンターを出て行ってからしばらくして拓が滑り込んできた。
「あっ! すんませーん! すぐ、すぐ出るんでー」
いつものことだ。俺は溜息をついた。
拓はバックヤードに滑り込んでからゆうに十分は経った後、ようやくレジカウンターに姿を見せた。
これもいつものことだ。
「やばい、ギリセーフ」
「いやアウトだろ」
「えー修司さんつめてー」
バイトメンバーの中で、唯一拓だけが俺のことを「修司さん」と名前で呼ぶ。
この人当たりの良さは時に羨ましくもなるが、かと言って真似しようという気はさらさらならない。
「タイムカード的にはセーフでしたよお」
「俺的にはアウトだよ。時計見てみろ」
「たった十分じゃないっすかあー。ほんと、修司さんって真面目なんだから」
お前が飛び抜けて不真面目なんだよ、という言葉はすんでのところで飲み込んでおいた。嫌われたくない気持ちが喉にブレーキをかける。これもいつものことだ。
こんなどうしようもないヤツにすら嫌われたくないと思ってしまう自分が情けないが仕方ない。
それにコイツには先日急にシフトを代わってもらった借りもある。
***
「せめてもう一度だけでも顔を見せてあげてくれない?」
母から催促の電話を受けた翌々日、俺は大きめの鞄にとりあえず二、三泊はできるくらいの着替えをつめ、飛行機に乗った。
拓は急なシフト変更を快く受け入れてくれた。
「マジ金なかったんで、逆に助かりますよお」と言った彼の笑顔に俺はいくらか救われた気持ちになった。拓が遅刻魔でも嫌われない理由はこういうところにあるのかもしれない。
飛行機を降りてから、電車に乗り、さらにそれを乗り継いでようやく祖父の入院する病院のある最寄り駅に着く。
長い道中、祖父のことを思い出してみた。
祖父は昔から俺のことを可愛がってくれていた。おぼろげな記憶だが、いつも笑顔を絶やさない人だったような気がする。
最後に祖父とゆっくり会ったのは、俺が物心つくかつかないかの頃だっただろうか。それとも小学校の低学年の頃だったろうか。
そもそも田舎が遠いので、どちらかというと移動に苦労のない父方の祖父母が優先されている節があって、遠い祖父母の家には小学校に入学してからはなかなか遊びに行く機会がなかった。
小学校も高学年になるとクラブ活動が始まり、習い事も塾もあり、遠い祖父母の家にはとうとう訪れることもなくなってしまった。
次に会ったのは祖母の葬式のときだったが、そのときはみんなバタバタしていて、俺は久しぶりに会った従兄たちと一緒に過ごした為、そのときの祖父の様子は記憶に強く残っていない。
当時すでに中学生になっていた俺は、普段接点のない祖父と〝祖母の葬式〟という特殊な空間の中、どう接していいのかわからなかったのかもしれない。
最寄り駅の改札を出ると驚くほど田舎の風景が広がっていた。
広がっていたという言葉がてんで場違いなほど何もなかった。木と舗装が中途半端な道と山……いや、森か。
周囲にバス停はひとつあるが、タクシー乗り場のような場所はない。病院の住所が記されたメモを片手に握りしめ、タクシーがいないか辺りを見渡すと、少し先にぽつんと小さな販売所があった。
そういえば、急な帰省だったため何も手土産を用意できていない。
俺はふらりとその販売所に入った。
いかにも田舎のおばさんといった風貌の女性が「いらっしゃーい」と抑揚のない声を上げた。
焦げ茶色の木で建てられた小さな店内には、地域で採れたであろうさまざまな野菜やきのこや果物、手作りの餅などが並んでいた。
何か買おうと思ったが、はたして祖父は何なら食べられるのだろうか。九十歳に近い高齢であるうえに、入院中だ。
俺はしばらく店の中をうろうろと歩いた後、無難に真っ赤なリンゴが四つ並んだプラスチックの透明な箱を持ち上げ、おばさんに「これください」と渡した。
せめて籠か何かに入れてきれいに包装してくれれば見舞いの品っぽく見えるのだが、店の佇まいからしてそういったサービスは期待できなさそうだ。
予想通りおばさんは無言のままガサガサと白いビニール袋を広げ、その中にリンゴをプラスチックの箱ごと無造作に入れた。
タクシーを呼びたいと言うと最寄りのタクシー会社の番号を教えてくれ、電話してからたっぷり二十分後、駅前にタクシーが到着した。
古めかしい建物の病院に足を踏み入れると消毒液のような独特な匂いがツンと鼻をついた。やっぱりこの場所は苦手だ。
今にも止まってしまいそうなゆっくりとした動きのエレベーターに乗り、三階で降りると305号室と書かれた部屋の名札を確認して顔を少し覗かせた。
真っ白い壁に囲まれた部屋には四つのベッドがあり、そのうち二つは空っぽだった。
一番奥の窓際で祖父はいくつかのチューブを体に繋がれて横になっていた。
母が俺に気づき、「修司!」と嬉しそうに声を上げた。
その声に祖父は薄く目をあけると「修司か……」とこちらに顔を向けた。そしてすぐ母に支えてもらいながらゆっくりと上半身を起こした。
やせ細ってしわしわの手の甲にささる点滴が痛々しかった。
俺が言葉を発するより先に祖父が「遠いところわざわざ来んでもよかったのに」と言った。
俺が少し笑顔を作って「久しぶりだね。具合はどう?」と杓子定規な挨拶をすると、祖父はしばらく俺を見つめた後、「すっかり大人になったもんだ……」と呟いた。
母が笑いながら「当たり前ですよ。もう二十六なのよ」と祖父の肩にカーディガンを掛けた。そして「ここは少し冷えすぎるのよね」とブツブツ文句を言った。
その後いくつか当たり障りのない会話をした。今年の天気の話や熱中症の話、それにご近所の人が飼っている犬の話などを、主に母がしていた。
ふと思い出したように、両手をパチンと叩き母が言った。
「そうそう、さっきメロンを頂いたのよ。おじいちゃん、切りましょうか」
「修司に切ってやればいい。わしはリンゴをもらおう」
「あら、そうね。修司リンゴ持ってきてくれたのね」
病室に入るなり母に無造作に渡した白いビニールの中から覗く真っ赤なリンゴに、祖父は気づいていたようだった。
ベッドの傍らには見舞い品であろう菓子折りや立派な果物籠がまるでオブジェのように飾られていた。俺はそれを横目に言い訳めいたことを口にした。
「何か手土産っぽいものにしようかと思ったんだけど、食事制限があるかもしれないと思って……」
母が立派な果物籠の横に置かれていた桐の箱からうやうやしくメロンを取り出し、切り分けてくれた。よく熟れたメロンは驚くほど甘かった。母は三回も祖父に「メロン食べない?」と尋ねたが、祖父は「メロンはよかろう」と言いながら俺が持って行ったリンゴをむしゃむしゃ食べていた。
しばらくして俺がチラリと腕時計に目をやると、祖父が「明日も早いんやなか?」と尋ねた。俺が「ああ、そうだね……」と曖昧な返事をすると祖父はゆっくりベッドに横たわった。そして母を見て言った。
「残りのメロンは修司に持って帰ってもらえ。わしは食わんけえ」
結局、桐の箱に入った高そうなメロンを祖父は一口も食べないまま、残りは俺の手土産になった。
「待って。いまバスの時刻表をもらってきてあげるわ」
腰を浮かそうとした母を俺は慌てて制した。
「いいよ。駅まではタクシーで帰るから」
「あら、昔はもったいないって乗らなかったのにね。少しは稼げるようになったのかしら」
母の冗談に今は素直に笑える気分ではなかった。俺は「はは」と乾いた笑いを作った後「それにしてもこのメロン旨かったな」と視線を逸らした。
帰ろうと鞄を手に取ったタイミングで、部屋に看護師さんが入ってきた。母は何やら保険の件を聞かれ、そのまま看護師さんと共に病室を後にした。
さてと俺は帰りの挨拶でもしておくか、と祖父に向き直ったときだった。
「なーんの面白味もない人生やったなあ」
あまりにも突然の言葉に聞き間違いかと思い「え?」と聞き返した。
しかし祖父はそれ以上そのことについて話そうとはしなかった。
「昔、一緒にセミ捕りに行ったんぞ。覚えとうか?」
「ああ……なんとなく……」
本当のことを言うとセミ捕りのことなどちっとも覚えていなかった。
祖父はちらりと俺に目をやると一時口を結んで、またゆっくり開いた。
「まだ……セミに触れるんか?」
「いやあ、もう今は無理かな」
「昔は素手で捕まえとったぞ。こーう、うまいこと羽を押さえてなあ」
祖父は点滴の管が繋がった右手を持ち上げて、お椀型にした手をそーっと動かしてから親指と中指で掴むしぐさを見せた。
その仕草を見てほんの少しだけ古い記憶が蘇った。
――――こーうして、こう。うまいこと捕まえるんぞ。ギュッとしたら羽が潰れてしまうぞ――――
頭の中に、遠い、遠い、声が聞こえた。
結局二、三日分の着替えを用意したものの、一泊もせずに帰ることになった。
泊まることを言い出す前に、母に「忙しいのにごめんね、ありがとう。明日も仕事でしょ?」と言われてしまったからだ。そういや今日は日曜だった。母がそう思うのも当然だ。
ちなみに、母が思っている会社には俺はもういない。
俺は「ああ、うん」と曖昧な返事をして、そのままとんぼ返りすることにした。
***
久しぶりの朝番だったコンビニのバイトを終え、そのまま駅へと向かった。先日買った蛍光灯のワット数が違っていたのだ。仕方なくしばらく台所の蛍光灯がないまま生活していたが、狭い部屋の灯りが一つ減ると、ほの暗い部屋の中で気持ちまでが暗く沈んでしまう。
蛍光灯一つ買うために何度も電車に乗るなんて、まったく面倒臭い。
駅の改札を出て、またあの交差点に差し掛かった。
するとどこからかミーンミンミンと大きな鳴き声が聞こえた。
――こーうして、こうしてな……
お椀型をそーっと動かす、点滴の管が繫がった祖父のしわしわの手が脳裏に浮かんだ。
俺はなんとなくその声の出どころを探した。
じりじりと熱を放つアスファルトの上、無理矢理植樹されたように等間隔に並ぶ木々。このコンクリートの下に土が残っているようには到底思えないのに、どこから養分を補給しているのか不思議なほど青々と葉を茂らせている。
その生命力に溢れる緑の中に探していた犯人はいた。
ミーンミンミンと必死で声を張り上げ叫んでいるのにその声を気に留める人は俺以外にはいないようだった。
〝七年間を土の中で過ごし、たった一週間の人生を謳歌する〟と言われるセミの気持ちはどのようなものなのだろう。
感動に打ちひしがれているのか、またはそれほどでもないな、と達観しているのか、それとも早く土に還りたいと願っているのか。
――なーんの面白味もない人生やったなあ――
九十年という途方もないほどの年月を経て、祖父は何を思ってそう口にしたのだろう。
俺は祖父の歳になる頃、病院のベッドの上で点滴に繋がれながら、一体どのようなことを思うのだろう。
信号が変わると同時に一気に人波が打ち寄せ、その波に乗り遅れた俺は「チッ」という舌打ちと共に後ろから肩をドンと押された。
今朝見た夢が脳裏をよぎり、驚いて振り向いたが、彼は金髪ではなく黒髪のサラリーマン風の男だった。
街頭の大きなヴィジョンからは「劇場版『TORN&TONE』のみどころは……」という声がしていた。
まるであの日の再現のようだ。
俺は打ち寄せる人波に流されないようにその場でふんばりながら、そのヴィジョンを見つめていた。
〝彼〟が月刊誌の小さなスペースに書いていた『貧乏エピソード』を思い出した。俺はあの小さなスペースに描かれるエピソードが大好きだった。
しかし、もはや売れっ子になってしまった彼の貧乏エピソードはもう二度と読めないのかもしれない。
最近では様々な宣伝活動があの小さなスペースに載るようになった。
あれほど願った彼の成功だ。
「結構なことじゃないか」
歩き出そうとすると信号はちょうど赤に変わるところだった。
俺はその場で立ち止まったまま、彼のぎこちない笑顔を見つめた。
今日もまた、聞き馴染んだ音楽と共に自動ドアが開き、「チーッス!」と急いた声が俺の前を通過した。
やっと来たか。
いつも通り走り抜けて行った拓を横目で見送って、俺は溜息をついた。
五分後、拓は誰もが一度は目にしたことのある特徴的で派手な縞模様の制服を羽織り、大きな前ボタンを閉めながら出てきた。
「おい、もう五分過ぎてるぞ」
レジの〝担当者コード〟を拓のものに打ち変えながら俺が言うと、拓は悪びれる様子もなく「タイムカード的にはセーフでしたよ」とニヤニヤした笑みを浮かべながらカウンターの中に入ってきた。どうやらもう少し早く来ようなどという気は微塵もないらしい。
「いいかげんにしとかないと店長に怒られるぞ」
「大丈夫っすよー。遅刻はしてねえし」
「思いっきりしてるじゃねえか」
俺の言葉など聞こえないフリをして、拓は両手を腰に当て、いかにもやる気のなさそうな顔で首を左右に曲げポキポキ鳴らした。
「コード変えといたから」
「ざーっす。てかべつに変えなくてもいいんすけどねえ。面倒くせえし」
「なんでだよ。ちゃんと変えろよ」
おまえのミスまで俺のせいになっちゃたまんないよ、という言葉はまた喉元で飲み込んだ。俺だってできることなら自分の名前をレシートに印字などしたくない。同じ系列のコンビニでも直営店では個人情報の問題などもあり基本は廃止しているのだが、やはりトラブルがあったときの責任追及のためには名前を入れるべきだ、というのがうちの店長の判断だ。フランチャイズは店長がルールブック。いちバイトがそれに意見などできるはずもない。
「修司さんってホント、マジメっすよねえ」
それは褒めているのか、それとも馬鹿にしているのか。最初の頃はいちいち気にしてイライラしていたが、最近ではそんなことで神経を擦り減らすのはまるで馬鹿らしいことだと思えるようになった。こいつは思ったことをそのまま口に出すだけで、決して悪気はないのだ。
「あ、そうそうバックヤードに土産おいてあるから食べろよ。この前持ってくるの忘れててさ」
「そういやじいちゃん、どうだったんすか?」
拓は相変わらずやる気のなさそうな声で尋ねた。
「思ったより元気にしてたよ」
「そりゃあ、よかったっすねえ」
「シフト代わってくれて助かった」
「いやいや、逆にもっと代わってもいいくらいっすよ。俺、マジで金なくてえ」
情けない声を出した拓を尻目に俺は愛想なく言った。
「なんでそんなに金使うの? 実家暮らしだろ?」
「学生には学生の付き合いってのがあるんすよお」
「俺もそんなもんだったかな。昔すぎて忘れたわ。じゃあ、お先」
「チーッス」
俺はそそくさとバックヤードへ戻った。
両手を広げると壁にぶち当たる雑然とした空間で、私服の上に羽織っていただけの制服を、腕がぶつからないよう縮めながら脱いだ。それをハンガーに吊るし消臭スプレーをふりかけようとすると、スカッスカッとボトルから気の抜けた音がした。
「ついてないなあ」
仕方なく制服を鼻の先まで近づけてクンクン臭いをかぐ。夏場はすぐ汗臭くなってしまうのだが、まだなんとか大丈夫みたいだ。
モノでごった返した机の上に無理やり連絡ノートを広げ、丁寧に『消臭スプレー切れています。補充お願いします』と書いた。経費がかかるものをバイトが勝手に出すことは基本的にできない。これに店長はいつ気がつくか。拓なら迷いもせず、何も書かずに帰るだろう。ノートをパラパラ見返すと、見るからに几帳面な俺の文字が並んでいた。他には誰も使っていない連絡ノートを書く意味はあるのだろうか。
きっと拓なら、『見るかどうかわかんないのに、会ったとき直接言えばいいじゃないっすか』とか言うんだ。いや、それどころか勝手に新しい消臭スプレーを出してしまうかもしれない。
『別にこれくらい出せばいいじゃないっすか。修司さんってホント……』
勝手に拓のセリフを想像してしまい、それを振り払うべく頭をブルブル振るいながらノートを所定の位置に戻した。
バックヤードから出てそのまま弁当のコーナーに行き、カツ丼とコーラを手にレジへ向かった。拓が俺の夕飯のバーコードを読み込み、何も聞かずにそれを電子レンジへと放り込む。その間に俺はコーラを鞄にしまい、レジ横に置いてあるフリーペーパーへと手を伸ばした。
求人誌を読むのはもはや日課となっていた。これで何冊目かなんて覚えていない。
俺の夕飯をレジ袋に詰めた拓が声を掛けてきた。
「修司さん、そんなのよりも割のいいバイト興味ないっすか?」
「はあ?」
また変なこと言い出したな。俺は気にせず求人誌を開いた。
「俺、思うんすよねえ。この世の中真面目に働いても馬鹿見るだけじゃないっすか。うまいことやるヤツは、うまいこと稼ぐんすよ。だからね、俺も、何か割のいいことしようと思って」
「はあ」
俺は求人誌に視線を落したまま適当に相槌をうった。
「俺の替わりに一発やってくれません?」
「はあ?」
視線を上げた俺に、「ここ、ここ。これ見てくださいよ」と、拓が俺の目の前にインターネットのページを印刷したようなA4サイズの紙きれをずいっと差し出した。
『君もヒーローになれる!』という大きな文字が目に飛び込んできた。
それを見て俺はあからさまに溜息をついた。
「お前さあ……こんな見るからに怪しげなうたい文句の仕事誰がするんだよ」
「いやいや、一応知り合い働いてるんすよ。そんで、なんか今人手足りないらしいんすよ。でも俺、一応学生じゃないすかあ。一週間だけでもって言われたんすけど、サークルも忙しいしまとまった時間は取れないんすよねえ」
拓は心外だというような表情で言った。
「サークルなんだっけ?」
「飲みサーです」
「……忙しいの?」
俺の白けた声に拓はムキになって答えた。
「めちゃめちゃ忙しいっすよ! 夏はフェスも多いし、キャンプにバーベキューにコンパでしょ? それから毎年恒例の海合宿……」
「あーあーわかったよ」
俺は拓の話を遮って「でも俺のシフトどうすんだよ」と尋ねた。
拓はニヤッと笑った。
「修司さん今週三日しか入ってないでしょ? 俺が代わりに入りますし、他にも入りたいヤツいますし」
拓がそこまで言うってことは、向こうも相当困っているのだろう。
俺は少し考えてから「わかった」と頷いた。
「とりあえず、この怪しげな仕事手伝えばいいんだな?」
仕方ない。拓には先日の借りもある。
「何の仕事だよ」
「それはまあ、行ってからのお楽しみっすよ」
拓は不敵な笑みを浮かべた。
「お前、内容知らねーだろ」
俺は早くも承諾したことを後悔し出した。
「大丈夫っすよ! 怪しいバイトではないんで。超健全な、なんか人助け? 的な仕事らしいって噂なんで、一応」
俺は拓の無責任な笑顔を睨んだ。
「……本当に大丈夫なんだろうな……。さすがに前科つくのはイヤだぞ」
「つかねーっすよ! マジで! 俺のこと信じてくださいよお」
お前だから信用できないんだよ。
「怖い人とか出てこねーだろうなあ」
「みんな超優しいっすよー。マジで人類皆兄弟的なアレなんで……っしゃいませー。あっ、ばーちゃん! 久しぶりじゃないすかあ」
入店してきた、近所の大きな家に住む常連のおばあさんを見て、拓はこれ幸いと笑顔を向けた。俺はおばあさんに軽く会釈をしその場を離れた。
拓はこのおばあさんと仲が良い。むしろ、ほかのお客さんも拓だけには積極的に話しかける人が多い。
「ちょいとイギリスに住む娘夫婦に会いに行ってきたんだよ」
今日もおばあさんは弾んだ声で拓に話しかけた。
「ええーなにそれセレブー。最近クソ暑いから家でぶっ倒れてんじゃないかと思いましたよお」
「まだ倒れる歳なもんかい。相変わらず口が減らないねえ」
おばあさんの楽しそうな笑い声を背中に、俺はコンビニを後にした。
家に帰るさなか携帯を開いた。
さっき拓から紹介された勤務先を調べてみようと、検索欄に『ヒーローズ(株)』と打ち込んでみる。まったくふざけた社名だ。
「あーあったあった。一応、ちゃんと存在はするんだな」
公式ホームページには確かにアルバイト募集の文字があり、職種欄にはただ一言『ヒーロー製作』とある。
「なんだこりゃ」
詳細をクリックすると、『ヒーロー製作の補佐をするだけの簡単なお仕事です』と。
顧客向けには『ヒーローになりたい方お手伝いします』とだけある。
「ふざけてんのか……」
家に着き玄関のドアを開けると、蒸し風呂のようにむわっとした熱気が押し寄せてきた。
その熱気に眉をしかめながらエアコンをつけ、鞄からさっき買ったコーラを取り出す。すでに少しぬるくなったそれを一気に喉に流し込むと、床に腰を下ろし再び携帯の画面と向き合った。
検索画面を開き、さらに『ヒーロー 製作 仕事』と検索する。
いくつもの情報が画面にずらっと並んだ。
「着ぐるみ、コスプレ、ヒーローマスク……エキストラ募集……なるほど……」
要するに着ぐるみや子供向けの戦隊ヒーローなんかに関する、なにかしらの補佐的な仕事だろう。マスクを作ったりだとか、エキストラをしたりだとか……。時給も良いって言ってたし、着ぐるみを着させられたりするのかもな。
「このクソ暑いのに着ぐるみかよ……」
だからこそ人手が足りないのか。夏休みじゃイベントも多いだろうしな。
まあ、体力にはそこそこ自信があるし、拓に借りも返さなくちゃいけないし、いっちょやってみるか――――
タイミング良く拓からメールが届いた。そこには明日向かう場所の地図が添付されていた。