ふしぎ荘で夕食を ~幽霊、ときどき、カレーライス~

第一章 おばけ屋敷の和風グラタン

電子的なアラーム音が、スマートフォンから響く。
 ぴろぴろと鳴り続けるスマホに手を伸ばして時刻を確認すると、8:30と表示されていた。午前中に目覚めるのは二週間ぶりだ。昼夜が完全に逆転した、堕落の極みのような春休みが終わってしまった。
 腹が空いたなと思う。
 俺は、Tシャツにジャージの部屋着からパーカーとジーンズに着替え、二階の自室を出て、洗面台を経由してからダイニングつきの台所へ入った。
 冷凍庫を開けると、昨日の夕飯のたけのこご飯の残りが、タッパーに小分けにされていた。俺はそのうちのひとつを取り出し、レンジに入れる。数十秒で電子レンジが温め完了を知らせ、俺は熱い熱いと声を上げながら、タッパーをそのままテーブルに置いた。
 手を合わせて「いただきます」と呟く。
 タッパーの蓋を開けると、ふわっと湯気が立つ。たけのこの独特な香りと出汁のやさしい香りが鼻腔をくすぐった。ほかほかの米とたけのこを一緒に頬張ると、ふくよかな香りが口の中に広がる。新鮮なたけのこは一夜明けてもしゃくしゃくとした歯触りで、たけのこの甘みと出汁の旨味が米の一粒一粒に染みこんでいた。
 冷えた麦茶で喉を潤していると、
「にゃーん」
 という鳴き声とともに、足にやわらかいものが触れた。俺はテーブルの下に視線を落とす。そこには一メートル近い巨大なキジトラ柄の猫がいて、見た目にそぐわない細い声で、甘えるように「にゃ」と鳴く。
 彼女の名前はポテトという。品種はメインクーンだ。
「おはよう、ポテト。お前も朝飯がほしいか」
 俺が言い終わる前に、ポテトは台所の隅にあるえさ場の前に座り、こちらを見上げた。彼女の明るい緑色の瞳が「早くしろ」と訴えている。はいはいとキャットフードと缶詰を皿に入れてやり、俺はポテトの長い毛を梳かすように背中を撫でた。まるでライオンのたてがみのような首回りの毛に指を突っ込むが、ポテトは食事に夢中で、俺に一切構わない。
「ポテト、俺今日から学校なんだよね」
 視線はえさに向けたままだが、ポテトの耳がぴくぴくと動く。話を聞いてくれてはいるらしい。
「昼間また誰もいない日が増えるかもしれないけど、留守番よろしく頼むな」
 ポテトはふさふさとした長いしっぽを、ぱさっとおざなりに振った。
「ご理解ありがとう」
 ポテトが皿を空にして、毛づくろいを始めるのを見届けて食卓に戻った。ご飯粒を残さず食べ終えてから、「ごちそうさまでした」と手を合わせる。
 スマートフォンで時間を確認すると、九時三十分になったところだった。早く目が覚めたからと悠長に朝食を楽しんでいたが、もうそろそろ家を出ないとオリエンテーションに間に合わない。俺は慌てて皿を洗い、居間に置いてあったバッグを手に取った。

 日差しはあたたかく、風も穏やかだ。すっかり春の様相といった感じで、俺はひとつあくびを漏らす。満腹になって一気に眠気が襲ってきた。重たい体を無理矢理急かして歩いていると、すぐ目の前の家の扉がガラガラと忙しない音を立てて開いた。
「行ってきます!」
 一人の女子学生が、飛び出すように家から出てくる。彼女は、生成色のブラウスに黄色いカーディガン、春らしい花柄のフレアスカートを合わせた格好で、茶色く染めた髪をサイドでゆるく纏めていた。見慣れた姿に、自然と口角が上がる。
「おはようございます、夏乃子さん」
「わあ! 浩太くん!」
 一瞬大きく目を見開いた彼女は、俺の顔を見ると穏やかな笑みを浮かべる。垂れ目の目尻に優しげなしわが寄り、白い頬がきゅっと上がった。完璧な笑顔だ。今日も可愛いですね、という心の声が喉まで出かかる。それを抑えて、俺は自然な表情を向けた。
「昨日の夕飯の残り、朝ご飯に食べてきました。ごちそうさまでした。一晩置くと味が染みて美味いですね」
「ほんとに? 良かった」
 夏乃子さんは嬉しそうに応える。彼女と並んで歩き出し、俺はふとさっき自分が出てきた建物を振り返った。
 あの古い木造の建物は、俺が住んでいるシェアハウスだ。
 名称は「深山荘」。大学にほど近い古い民家を改築し、学生用の下宿として近所の老夫婦が貸し出している。入居者は俺を含む三人。外見の古さのためか、あまり人気がなく、四部屋のうち一つは空き部屋だ。でも内装は綺麗だし、家賃は四万五千円で夕食付きと、条件も非常にありがたい。でかい猫もいるし。
 そして――俺は隣を歩く彼女に視線を戻す。俺にとっては何より、彼女の存在が大きい。
 彼女は深山夏乃子といって、深山荘の大家さんの孫娘だ。俺よりひとつ年上で、今年大学三年生になる。夏乃子さんは美人だ。そして優しい。声も可愛い。スタイルが良い。料理が上手い。彼女の良いところ挙げ始めるとキリがない。
「沙羅ちゃんと児玉さんも、昨日の残り食べてくれたかな」
「児玉さんは多分まだ起きてもないですね。俺が出るとき玄関に靴ありましたよ」
「あれ、今日って全学年オリエンテーションじゃない?」
「八年生にオリエンテーションってあるんでしょうか」
「ないかも……」
 児玉さんというのは、深山荘の最古参の学生だ。学年としては四年生だが、去年もその前もその前もその前も四年生だった。今期単位をひとつでも落とすと退学が確定する。崖っぷちだ。
「まあ、オリエンテーションがあってももう間に合わないでしょう」
 俺はスマホで時間を確認しながら言う。あと十五分で講義室に着かなければならない。
「夏乃子さんも、今日は随分ゆっくりでしたね」
「そうなの、うっかり寝坊しちゃって」
 夏乃子さんは照れくさそうに笑った。夏乃子さんの魅力を語ろうとすると半日はかかるが、俺が一番好きなのは夏乃子さんが笑った顔だ。彼女は笑うと目尻にしわが寄る。本人はそれが嫌だと言うが、俺はその優しげな笑い方がとても好きだった。
「それでね、あのね、朝ご飯食べる暇がなかったからサンドイッチ持ってきちゃった」
 夏乃子さんはラップにくるんだサンドイッチを手に持っていた。
「食べながら行こうと思って……」
 えへへ、お行儀悪いよね、と恥ずかしそうに彼女はサンドイッチを見下ろす。
「何にも気にしないでください」
 俺は間髪容れずに応えた。
「朝ご飯を食べるのは重要ですから! 俺に構わず!」
 夏乃子さんは俺の言葉におかしそうに笑うと、「じゃあお言葉に甘えていただきます」とラップを開く。ハンバーグを挟んだサンドイッチのようで、夏乃子さんがかぶりつくと、しゃりしゃりと小気味よい音が――、
「しゃりしゃり?」
 到底ハンバーグから聞こえてくるはずのない音に、俺は首を傾げた。まるで氷をかじるような音だ。夏乃子さんは俺を見上げる。
「この前おばあちゃんが作ったハンバーグを冷凍してたんだよね」
「解凍は……?」
「する時間なかったからそのままパンに挟んできちゃった」
 にこっと夏乃子さんは笑う。彼女は、文字通りの冷凍ハンバーグサンドを美味しそうに食べる。
 深山夏乃子という人は、優しく美人で愛嬌のあるすばらしい人物だ。しかし、一点、味覚に関してだけ言えば、ただただ「やばい人」という形容しかできない。大変失礼だが、最も平たい言葉を使うとバカ舌なのだ。味の判別は「甘い」「辛い」「酸っぱい」「苦い」くらいしかなく、冷凍食品もそのままばりばり食べる。
 地獄のような食い合わせも何のそのといった様子で、この前はラーメンとチョコレートケーキを一緒に食べていたし、ご飯を炊くのを忘れていたからとレトルトカレーのルーをマシュマロにかけていたし、そばつゆの代わりにたっぷりの醤油を使うこともある。
 異様な食べ合わせで胃がひっくり返りそうだが、その心配は無用だ。彼女は非常に強靱な胃腸と、なぜか一切太らないという謎の体質を持ち合わせている。
 彼女と親しくなった人は、まず彼女の狂った舌と消化器官の強さに驚き、徐々に感覚が麻痺していく。俺は彼女と知り合って一年ちょっとだが、だいぶ慣れてきたといったところだ。いまだに面食らうことの方が多い。
 夏乃子さんはかき氷を食べるような音を立てながら、あっという間にサンドイッチを食べ終え、水筒のお茶で喉を潤してから、丁寧にハンカチで口元を拭いた。「ごちそうさまでした」と律儀に手を合わせる。
「美味しかったですか?」
 俺が尋ねると、夏乃子さんは「うん!」と元気に頷いた。それは何よりだ。
 そうしているうちに大学に到着する。夏乃子さんは同じ人文学部だが、二年と三年でオリエンテーションの会場が違う。別れ際、夏乃子さんは、
「浩太くん、今日沙羅ちゃんの歓迎会をするから、早めに帰ってきてくれると嬉しいな」
 と言った。俺はここぞとばかりに良い笑顔を作る。
「すぐに帰りますよ。俺に手伝えることがあったら言ってくださいね」
 夏乃子さんは俺を見て微笑む。
「ありがとう。じゃあ、またあとでね」
 夏乃子さんが言った「沙羅」という女の子が、深山荘で暮らすもう一人の学生だ。中村沙羅という名前の新入生で、深山荘に先週引っ越してきた。この一週間は引っ越しの片付けや入学式などで慌ただしくしていたから、新学期が始まるタイミングで歓迎会をしようと、夏乃子さんが画策していたのだ。
 一年生は朝早くから健康診断や新入生オリエンテーションで忙しいようで、今朝は中村さんと顔を合わせていない。中村さんは人見知りの気があるのか、大人しく常に緊張しているような雰囲気だ。家で心が安まらないのは可哀想だし、今日の歓迎会で少しは馴染んでもらえたらいいと思う。

 十時ギリギリに講義室に滑り込み、二年生の授業編成と単位についての説明を聞く。一年生のころは学部に関係のない教養科目が多かったが、今年からは専門科目がメインになる。
俺は民俗学の専攻だ。なぜ民俗学を選んだのかと言われると、高校生のころにオープンキャンパスで話した教授の人当たりが良かったから、という学問にまったく関係のない理由なのだが、専門的な授業が始まるのはそれなりに楽しみだった。
 オリエンテーションは一時間ほどで終わり、今日の用事はすべて完了した。俺がスマートフォンでシラバスを見ていると、
「七瀬」
 と声をかけられた。顔を上げると一年のころからつるんでいる友人の宮本がいる。くまのプーさんによく似た小太りの友人は、四月にもかかわらずもう半袖を着ていた。
「まわり探したのにいないから寝過ごしたのかと思ったわ」
 宮本は俺の隣に腰掛けて言う。俺はスマホを閉じて首を振った。
「いや、めっちゃ早く起きたんだけど優雅に朝飯食ってたら遅刻寸前だった」
 宮本は「なんだそれ」と笑う。
「お前、今から予定は? 暇なら学食付き合えよ」
 俺はいいよと応えて、荷物をまとめた。

 昼時より早い時間だから空いているだろうと高をくくっていたが、学食はちょうど健康診断を終えたばかりの一年生で溢れていた。
「初々しいねえ」
 宮本が日替わりメニューに目をやりながら言う。
「お前何食う?」
 宮本の問いかけに、
「鶏ポン定食」
 と応えながら、俺は周囲を見る。
 一年生はまだ知り合ったばかりだろうに、すでに気の合う友達を見つけて昼食を楽しんでいる。俺はふと人見知りの中村沙羅のことを思い出す。あの子はちゃんと友達ができているだろうか。視界に映る一年生の中に、彼女の姿がないか探してみる。ぐるりと食堂の隅から隅まで見渡すと、二人がけのテーブルにひっそりと座る中村沙羅が視界に映った。
 彼女は痩せっぽちの小柄な体をさらに小さくして、うどんか何かを食べている。短く揃えられた黒髪は、ショートボブと呼ぶよりは「おかっぱ」と形容したくなるまっすぐなストレートで、それが一層、周囲の華やかな女子学生たちから浮いていた。化粧っ気もなく、Tシャツとだぼだぼとしたデニムパンツを履いているため、中学生が迷い込んでしまったようにも見える。
 心細そうに一人で昼ご飯を食べる姿を見ていると、何だか切ない気持ちになる。声をかけた方が良いだろうか。もし彼女が良ければ、俺と宮本のところに誘ってもいい。そんなことを考えていると、
「どうしたんだよ」
 宮本が怪訝そうな顔をこちらに向けた。宮本はいつの間にか鶏カツ丼セットとちゃんぽんとミニうどんをお盆に載せている。俺は彼の腹とお盆の上の料理を見比べた。
「お前よく食うよな」
「俺の腹を見るんじゃねえ。で、何見てんだよ」
 俺は宮本の腹から視線を上げ、
「あそこにいる子、知り合いでさ」
 と、中村さんの方を見て言った。
「ああ、あの隅にいる女の子?」
 宮本は俺の視線の先を追う。
「一人で昼ご飯食べるのも寂しいだろうから、声かけようかと思って」
 俺の言葉に、宮本は息をついて首を振った。
「駄目だぞ、七瀬。先輩が変に絡んでいくと、かえって周りから浮いちまうだろ。お前は良いやつだけど、ちょっと過保護だからな」
 彼は諭すように言って、会計を済ませて空いている席に着く。俺が釈然としない表情を浮かべていると、宮本は気の良い笑みを浮かべた。
「大丈夫だよ。心配すんな。お前だって最初のころ一人で昼飯食ってたじゃん」
 その言葉に、俺は去年の今ごろのことを思い出す。俺の周りはいつの間にかグループを組んでいて、そこに入り込んでいくのも憚られ、最初のころは一人で昼食をとっていたのだ。そんなときに声をかけてきてくれたのが宮本だ。
「そうだけど……」
 宮本の言うとおりなのかもしれないが、見て見ぬふりをするのはやはり心苦しい。寂しい気持ちのまま、今日の昼食の時間を終わらせてしまっていいのだろうか。ひと言でも声をかけた方が――そう考えているうちに、中村沙羅は小さく手を合わせ、空になった食器を持って立ち去ってしまった。
「てか、あの一年の子とどういう知り合い?」
「同じ下宿に住んでるんだよ」
 俺は少し後悔しながら、宮本の向かいに座り問いかけに応えた。
「七瀬どこ住んでんだっけ」
「生地山の麓の古い民家みたいなとこ」
 それで通じるかわからなかったが、宮本はすぐに了解したように頷き、そして、
「ああ、あの幽霊が出るっていう」
 と続けた。
「えっ?」
 俺はぎょっとして声を上げる。
「びっくりした。急にでかい声出しなさんな」
「だってお前、幽霊って」
 まさかそんな言葉が飛び出してくるとは思わなかったのだ。一気に青ざめた俺を見て、宮本は少し意外そうな顔をする。
「あれ、お前知らないの?」
「知らねえよ。テメーなんて情報くれやがる」
「おばけ怖いタイプかよ」
「お前な。自分が住んでるとこがいわく付きって聞いたら、みんなこうなるだろ」
 宮本は俺の反応にけらけらと愉快そうに笑い、テーブルに置いていたスマホの画面を開く。
「まあちょっと古い情報だけど」
 俺は一旦心を落ち着けるために味噌汁をすする。宮本は「これ」と匿名掲示板のページを見せてきた。
「ここだろ? お前が住んでるの」
 オカルト板のようで、県内の心霊スポットがいくつか画像付きで並んでいた。詳細な住所や名称は伏せられているものの、それは確かに、見慣れた深山荘だった。投稿された日付は二〇〇九年。今から十年前だ。深夜に女の子の泣き声がする、といった内容が書かれている。
 俺の頭の中で、女の子の幽霊が廊下を徘徊しながらすすり泣く。背筋が凍るのを感じながら、俺は宮本にスマホを返す。
「知らなかった……」
 宮本は残りの鶏カツ丼を掻き込んだ。続けてうどんをすすり、
「おばけでないの? 実際」
 と尋ねてくる。
「出ねえよ! 出るのは地縛霊みたいな八年生だけ!」
 俺は頭の中に浮かんだ幽霊のイメージを無理やり消した。誰もいなければ、ここでおばけなんてないさを熱唱するところだ。
「八年生て。もしかして児玉さん?」
 宮本の問いに、俺はポン酢だれのかかった唐揚げを口に入れながら頷く。
 人文学部の重鎮である児玉さんは、それなりに名前と顔が知られている。大学に八年もいれば「こうなってはならない」という教訓として先輩方から語り継がれるのだ。
「あの人と一緒のとこ住んでたんだ。仲良くできてんの、そんな年上と」
「できるわけないでしょ。大学に八年も通うなんてまともな人間じゃないよ」
 俺がぺらぺらとしゃべり始めると、急に宮本が俺の後ろに視線を向けて「あっ」という顔をした。俺は振り返る。
「ななくん、今俺の悪口言ってたでしょ」
 そこにいたのは、整った顔立ちの男だった。周りの新入生の女の子がちらちらと彼の方を見ているのがわかる。人間としてのメリットが顔面の良さに極振りされてしまったようなこの男こそが、大学八年生の児玉という人物だった。
 彼は眉間にしわを寄せて俺を見下ろしている。俺は特に表情を変えることなく彼を見上げ、
「別に悪口は言ってません。全部事実です。な、宮本」
 と宮本を向き直った。宮本は困ったような、呆れたような顔で俺を見る。
「お前物怖じしないな……」
 そう言って、彼は児玉さんに「お疲れ様です」と会釈をする。児玉さんは人好きのする穏やかな笑顔で「どうも」と応えた。ちょうどそのとき、宮本のスマホにラインの通知が来る。
「サークルの呼び出しだわ。すまんが行ってくる」
 宮本は、空になったどんぶりが三つ乗ったお盆を手に席を立った。俺は「またな」と手を振る。
 宮本は児玉さんにもう一度会釈をして、食器の返却カウンターへ向かっていった。それを見送ってから、児玉さんは宮本が座っていた席に腰掛ける。
「ななくん、何で朝俺のこと起こしてくれなかったの?」
 じとっとした目で言われ、俺はため息をつく。
「だーれがモーニングコールなんてしますか。八年生にオリエンテーションなんかないでしょ」
「オリエンテーションはないけど担当教官と面談の予定があったんですう」
 口を尖らせる児玉さんに「知るかい」と食い気味に応える。
「少々遅刻しても行ったんなら良いじゃないですか」
「え? 行ってないけど」
 適当にあしらうと、きょとんとして児玉さんが応えた。はあ? と俺は呆れた声を上げる。
「行きなさいよ。何しに大学まできたんですか」
「正門入ったら急にめんどくさくなっちゃった。てへ」
「きっしょ」
「俺先輩ね?」
 俺は空になった皿に手を合わせてからコップのお茶を飲み干す。会話が途切れたら観念して去るかと思ったが、児玉さんはスマホの画面を見ていて立ち上がる気配すらない。
 俺はふと、さっきの宮本との会話を思い出して再び口を開いた。
「児玉さん、深山荘の幽霊の噂って知ってました?」
 あの掲示板の書き込みは児玉さんが深山荘に入居する前のものだったが、どうなのだろう。
「懐かしい話するねえ」
 児玉さんはテーブルに肘をついて目を細めた。
「ご存知でしたか」
「うん。あの噂で俺の一年上の代は誰も入居しなかったみたいだよ」
「あの、本当に出たんですか……?」
 おそるおそる尋ねると、児玉さんは緩く首を振った。
「出やしないよ。ただ冷やかしがくるからさ。騒がしくてちょっと問題になってたんだよね」
「ああ、なるほど」
 俺は頷く。ふと夏乃子さんのことが気にかかったが、大家さんは彼女の祖父母だ。十年前の噂話なんて知らないかもしれない。
「ねー、俺教授のとこ行った方が良いかな。ななくんどう思う?」
 児玉さんが時計を見ながら言う。どう思う? じゃない。俺は深々とため息を吐いた。
「愚問ですね。行かないと卒業できないかもしれませんよ」
「もとより俺が卒業できる可能性は限りなくゼロだぜ」
「そりゃ見てたらわかりますけど」
「何でそんなこと言うの! そんなことないですよ、児玉さんなら大丈夫です! って言ってよお!」
「めんどくさ! 早く行けよ!」
 児玉さんと会話をしていても何の生産性もない。俺は目の前でぐずる駄目学生を置いて立ち上がる。
「俺帰りますね」
「あー、後輩が冷たい。傷つく」
 児玉さんはまだ席に着いたままぐちゃぐちゃと文句を垂れていたが、俺は一切振り返ることなく学食を後にした。